リヒャルト・シュトラウス:歌劇「ばらの騎士」
指揮:セバスチャン・ヴァイグレ、演出:ロバート・カーセン
ルネ・フレミング(マルシャリン)、エリーナ・ガランチャ(オクタヴィアン)、ギュンター・クロイスベック(オックス)、エリン・モーリー(ゾフィー)、マーカス・ブリュック(ファニナル)、マシュー・ポレンザーニ(イタリア人歌手)
2017年5月13日、ニューヨーク・メトロポリタン 2018年7月 WOWOW放送
長い間それぞれの当たり役を演じてきたフレミングとガランチャが、二人同時にこれらの役についてはこれで引退というシリーズの公演である。
ヴァイグレははじめて知った東ドイツ出身の指揮者だが、今年読売日響の常任になるらしい。演出のカーセン、幕間に挿入されたインタビューで、これまでよりか1世紀ほど後、シュトラウスが生きた世紀末に時代設定し、ファニナルは武器商人あがりの新興貴族、オックスは財産がない貴族で心ならずもファニナルを縁戚になろうとしている。オクタヴィアンの服装も近代の士官服に近い。
また見る前の解説で、あらためてマルシャリンが32歳、オクタヴィアンが17歳の設定と知った。いまから見ればオクタヴィアンはずいぶんませているし、マルシャリンはまだまだこれからなのに、もう退いて、あとを次の世代、時代に譲るというわかけである。
それは表面的なこととして、本質的なところは、このオペラ、前の時代に半身かかったマルシャリンとオックス、これからのことだけ見据えているオクタヴィアンとゾフィー、このからみをどう進行させていくかである。若いカップルの意識の変化は前半でほぼ定着しそれはそのまま流れていくが、マルシャリンとオックスについては、前者は音楽で、後者についてはダイナミックな動きとそれに沿った音楽で、繰り返し説得性のある表現が効果的に続いていく。
以前から思っていて、必ずしも他の人たちは納得してくれないのだが、オックスはただの強欲、好色な初老の親爺ではなく、計略にひっかかってみんなにたたかれざまあみろ、という役ではない。この人のたくましさ、後姿の立派さがないと、マルシャリンが私もこの社会から退いていくのだから、あなたももうここへ入り込んでくるのはおやめなさい、とたしなめる意味がない。「フィガロの結婚」で最後、一番強かった伯爵が非を認め許しを請う「きめ」が思う浮かぶ。
そう考えるとこのクロイスベックのオックスは体躯と動き、表情、音域と力強さも見事だ。一方のマルシャリンだが、私の先入観かもしれないが、フレミングは悪い女の役をやることが少ないからか、妖艶さとそれが退化していくおもむきという感じがあまりしない。音だけ聴いているとそうでもないかもしれないが。
エリーナ・ガランチャのオクタヴィアン、実はこの人のズボン役を見るのははじめてで、びっくりしたが、登場してみればこれはまさに「宝塚の男役トップ」で、モーリーのゾフィーも強い娘の表現だから、こういう場ではうまくバランスがとれている。
考えてみればガランチャが好きになったのはカルメン、シンデレラなどからで、いずれも強い女であった。
カーセンの演出、前記の時代設定のほか、目立ったのはドラマが進行する場、舞台が広すぎ、演者もずいぶん動く。劇場とTV映像とでは見え方も違うのだろうが、このオペラには違和感がある。第三幕の舞台を娼館にしたのは可能性としてはありうるものかもしれない。よくあるのは暗いレストランで道具があまりないというものだったと思うけれど。
ただ最後の最後、舞台が暗くなってもう終わりかというところに、マルシャリンのお小姓とおぼしき黒人の男の子がハンカチかなにかを探しに来て、拾って去っていくところでタイミングよく最後の音が鳴る、というのが普通だが、今回はもう少し大きい少年が出てきて、飲み物を瓶からあおり、ひっくり返る、というもの。演出の流れでこうなったのか。本来、この世界から去っていくマルシャリンが、ちょっとした記憶、小さな忘れ物を取りに行かせた、ということなのだが。
全体に一つ一つの動き、ものが強すぎるかなという印象。あの少ない数の音型、特になんとなく弱弱しい上昇、スーっと降りてくるもの、の組み合わせはそれでも説得性がある(感じさせるというより)。これはシュトラウスの腕が秀逸というところか。
指揮のヴァイグレの評価は特に何かいいたいところもないが、オーケストラをダイナミックに鳴らし、隈取りをはっきりさせたのは、演出のトーンにあっていた。
久しぶりの「ばらの騎士」、映像もふくめればある程度の回数をみているけれど、最初に見たのは1974年のミュンヘン・オペラ来日公演、カルロス・クライバー指揮バイエルン国立歌劇場管弦楽団、オットー・シェンクの演出、至福の時間だった。
指揮:セバスチャン・ヴァイグレ、演出:ロバート・カーセン
ルネ・フレミング(マルシャリン)、エリーナ・ガランチャ(オクタヴィアン)、ギュンター・クロイスベック(オックス)、エリン・モーリー(ゾフィー)、マーカス・ブリュック(ファニナル)、マシュー・ポレンザーニ(イタリア人歌手)
2017年5月13日、ニューヨーク・メトロポリタン 2018年7月 WOWOW放送
長い間それぞれの当たり役を演じてきたフレミングとガランチャが、二人同時にこれらの役についてはこれで引退というシリーズの公演である。
ヴァイグレははじめて知った東ドイツ出身の指揮者だが、今年読売日響の常任になるらしい。演出のカーセン、幕間に挿入されたインタビューで、これまでよりか1世紀ほど後、シュトラウスが生きた世紀末に時代設定し、ファニナルは武器商人あがりの新興貴族、オックスは財産がない貴族で心ならずもファニナルを縁戚になろうとしている。オクタヴィアンの服装も近代の士官服に近い。
また見る前の解説で、あらためてマルシャリンが32歳、オクタヴィアンが17歳の設定と知った。いまから見ればオクタヴィアンはずいぶんませているし、マルシャリンはまだまだこれからなのに、もう退いて、あとを次の世代、時代に譲るというわかけである。
それは表面的なこととして、本質的なところは、このオペラ、前の時代に半身かかったマルシャリンとオックス、これからのことだけ見据えているオクタヴィアンとゾフィー、このからみをどう進行させていくかである。若いカップルの意識の変化は前半でほぼ定着しそれはそのまま流れていくが、マルシャリンとオックスについては、前者は音楽で、後者についてはダイナミックな動きとそれに沿った音楽で、繰り返し説得性のある表現が効果的に続いていく。
以前から思っていて、必ずしも他の人たちは納得してくれないのだが、オックスはただの強欲、好色な初老の親爺ではなく、計略にひっかかってみんなにたたかれざまあみろ、という役ではない。この人のたくましさ、後姿の立派さがないと、マルシャリンが私もこの社会から退いていくのだから、あなたももうここへ入り込んでくるのはおやめなさい、とたしなめる意味がない。「フィガロの結婚」で最後、一番強かった伯爵が非を認め許しを請う「きめ」が思う浮かぶ。
そう考えるとこのクロイスベックのオックスは体躯と動き、表情、音域と力強さも見事だ。一方のマルシャリンだが、私の先入観かもしれないが、フレミングは悪い女の役をやることが少ないからか、妖艶さとそれが退化していくおもむきという感じがあまりしない。音だけ聴いているとそうでもないかもしれないが。
エリーナ・ガランチャのオクタヴィアン、実はこの人のズボン役を見るのははじめてで、びっくりしたが、登場してみればこれはまさに「宝塚の男役トップ」で、モーリーのゾフィーも強い娘の表現だから、こういう場ではうまくバランスがとれている。
考えてみればガランチャが好きになったのはカルメン、シンデレラなどからで、いずれも強い女であった。
カーセンの演出、前記の時代設定のほか、目立ったのはドラマが進行する場、舞台が広すぎ、演者もずいぶん動く。劇場とTV映像とでは見え方も違うのだろうが、このオペラには違和感がある。第三幕の舞台を娼館にしたのは可能性としてはありうるものかもしれない。よくあるのは暗いレストランで道具があまりないというものだったと思うけれど。
ただ最後の最後、舞台が暗くなってもう終わりかというところに、マルシャリンのお小姓とおぼしき黒人の男の子がハンカチかなにかを探しに来て、拾って去っていくところでタイミングよく最後の音が鳴る、というのが普通だが、今回はもう少し大きい少年が出てきて、飲み物を瓶からあおり、ひっくり返る、というもの。演出の流れでこうなったのか。本来、この世界から去っていくマルシャリンが、ちょっとした記憶、小さな忘れ物を取りに行かせた、ということなのだが。
全体に一つ一つの動き、ものが強すぎるかなという印象。あの少ない数の音型、特になんとなく弱弱しい上昇、スーっと降りてくるもの、の組み合わせはそれでも説得性がある(感じさせるというより)。これはシュトラウスの腕が秀逸というところか。
指揮のヴァイグレの評価は特に何かいいたいところもないが、オーケストラをダイナミックに鳴らし、隈取りをはっきりさせたのは、演出のトーンにあっていた。
久しぶりの「ばらの騎士」、映像もふくめればある程度の回数をみているけれど、最初に見たのは1974年のミュンヘン・オペラ来日公演、カルロス・クライバー指揮バイエルン国立歌劇場管弦楽団、オットー・シェンクの演出、至福の時間だった。