ゴーゴリ: 鼻/外套/査察官
浦 雅春 訳 光文社古典新訳文庫
ゴーゴリ〈1809-1852)の作品を読むのは初めてである。作者はプーシキンより一世代後の人、この三作はみな話として奇異なところがあり、面白おかしくはあるが、はてこれは何を言わんとしているのか、簡単には想像できないところはある。
「鼻」は、いいかげんな床屋に鼻を切られてしまい、それをさがして動き回る男、鼻がなくても気がつく人も気にする人もおらず、結局鼻は出てくるのだが、作者はこういうことが世間にはあるともないとも言えないという感じで結びとする。
「外套」は、着古してもう限界になった外套をどうしようかという下級官吏、仕立て屋とのやり取りはなかなか決着しないがこれが面白く、さて仕上がって喜んでいると追いはぎにあってしまい、苦闘しながら探しまわるのだが、他人はそんなに重大なこととはおもわず、というところは「鼻」と同様。
「査察官」は演劇スタイルで、その場面進行をうまく使えるからか、なんともいい加減にみえる人たちの行動が面白おかしくとめどなく続いていく。地方都市の市長を中心にした人たちに入ったどうも中央から査察官が来るらしいといううわさ、それに乗ることになり自分が査察官ということをを否定しないインチキおとこ、どんどんとめどなくなって、市長をめぐる集団のやりとりと進行結末、インチキ男はいくところまでいって、、、という話し。舞台で見たらより面白いだろう。
ゴーゴリには「死せる魂」、「狂人日記」などもっと長いものもあり、また「タラス・ブーリバ」などはちょっと違った傾向だろうから読んではみたいのだが。
この本は翻訳のスタイルで話題というか議論になったらしい。ちょっととんでもない話だしおそらく話のリズム感を活かすために、訳者は落語調を採用してみたようだ。賛否あるものの、私はこの方が作品の中に入っていけるし、やった甲斐はあると思う。
特に「鼻」はとんでもない話なんだけれどショスタコーヴィチがオペラにしていて、観たことがある。なんだかよくわからない不思議でおかしなものだなあと思ったが、今回こうして読んだ後もう一回観てみてもいい。
浦 雅春 訳 光文社古典新訳文庫
ゴーゴリ〈1809-1852)の作品を読むのは初めてである。作者はプーシキンより一世代後の人、この三作はみな話として奇異なところがあり、面白おかしくはあるが、はてこれは何を言わんとしているのか、簡単には想像できないところはある。
「鼻」は、いいかげんな床屋に鼻を切られてしまい、それをさがして動き回る男、鼻がなくても気がつく人も気にする人もおらず、結局鼻は出てくるのだが、作者はこういうことが世間にはあるともないとも言えないという感じで結びとする。
「外套」は、着古してもう限界になった外套をどうしようかという下級官吏、仕立て屋とのやり取りはなかなか決着しないがこれが面白く、さて仕上がって喜んでいると追いはぎにあってしまい、苦闘しながら探しまわるのだが、他人はそんなに重大なこととはおもわず、というところは「鼻」と同様。
「査察官」は演劇スタイルで、その場面進行をうまく使えるからか、なんともいい加減にみえる人たちの行動が面白おかしくとめどなく続いていく。地方都市の市長を中心にした人たちに入ったどうも中央から査察官が来るらしいといううわさ、それに乗ることになり自分が査察官ということをを否定しないインチキおとこ、どんどんとめどなくなって、市長をめぐる集団のやりとりと進行結末、インチキ男はいくところまでいって、、、という話し。舞台で見たらより面白いだろう。
ゴーゴリには「死せる魂」、「狂人日記」などもっと長いものもあり、また「タラス・ブーリバ」などはちょっと違った傾向だろうから読んではみたいのだが。
この本は翻訳のスタイルで話題というか議論になったらしい。ちょっととんでもない話だしおそらく話のリズム感を活かすために、訳者は落語調を採用してみたようだ。賛否あるものの、私はこの方が作品の中に入っていけるし、やった甲斐はあると思う。
特に「鼻」はとんでもない話なんだけれどショスタコーヴィチがオペラにしていて、観たことがある。なんだかよくわからない不思議でおかしなものだなあと思ったが、今回こうして読んだ後もう一回観てみてもいい。