メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

シュルレアリスムと日本(板橋区立美術館)

2024-04-05 17:50:53 | 美術
『シュルレアリスム宣言』100年 シュルレアリスムと日本
 板橋区立美術館 2024年3月2日(土)― 4月14日(日)
  
1924年アンドレ・ブルトンがシュルレアリスムを発表して100年、そこでこの主張と動きが日本でどうだったか、この機会にまとめてみたということのようだ。
特に今回は戦前1930年代のものが多く、この時期充実していたということがわかったのは収穫だった。
 
シュルレアリスム特にこの時期だと瀧口修造、福沢一郎くらいしか思い浮かばなかったが、ここで靉光、古賀春江、寺田政明などを関連付けられてみると、そういう見方もあるかと少し納得した。
 
こうして数多く見ていると、まさにシュールつまり「上」であって、自意識の上の側ということなのか、内にしっかりこもる沈潜する、怒る抗議するというのとは異なる。それは一見逃げたように見えることもあっただろうが、絵を描くということからはより自在で幅広く描き方を広げていったようにも受け取れた。変ないい方だがみていておもしろい気持ちがいいものも多い。
 
それは時間が経っているからともいえるだろうが、絵というものの広がりパワーという意味で価値があったといえるだろう。
 
「眼のある風景」(靉光)は東京国立近代美術館の所蔵品展でよく見て親しんでいたがこのところ出ていなかった。あらためて見ると今回の他の展示品とくらべ随分しっかりとしていて、「シュール」な領域ではあろうが、画家の自信に動かされる。

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ヴェーロチカ/六号室 チェーホフ傑作選

2024-04-01 16:19:50 | 本と雑誌
チェーホフ:ヴェーロチカ/六号室 チェーホフ傑作選
 浦 雅春訳  光文社古典新訳文庫
 
表題の二つの他三編の短編中編を加えた選集で、この訳者は初めてだがいい訳だと思う。
チェーホフというひと、好きというわけにはいかないが、時々読みたくなるというか読まないと頭の中が単純すぎるというか一方的というかそうなりそうな気がする。かといって解毒剤ではなくより憂鬱になることもある。
 
ここにあるものはみな何かの終わりそれもどうしてこうなってしまったかという感が長く残るもの。「ヴェーロチカ」はなぜ自分のことを好きだった娘にそれがわかった時はもう言い寄れなくて去ろうかどうしようかどうにもならなかった、書かれてみるとこれは真実。
 
「退屈な話」は功なり名を遂げた老境の教授、この迷い混乱そしてどうにもならない終末も書かれてみるとそうか、そうだね、どうして人生はこう苦いのか。
 
「六号室」は精神病院の医師と入院者の何か難しいやり取りと関係が次第に反転していってというやりきれなさ。
 
訳者が解説で書いていてなるほどと思ったが、文学後進国だったロシアも19世紀の間に一気にドストエフスキー、トルストイなど西欧のレベルに達してしまい、遅れてきたチェーホフ(1860-2004)には動きにくいところが確かにあっただろう。
しかしニヒリズムでもなく、その反対の無理なユーモアでもなく、そう考えて見ればたいしたものなのだが、多作家ということもあり味わうのはなかなか大変である。
 
ただ最後は生きていく人だったのだろう。それはここに書かれたものでも、単純な悲劇でないなにかが読み取れる。戯曲のワーニャ伯父さんほどわかりやすいものばかりではないが。
 
あとがきにあるが、チェーホフ生誕100年記念の全集が神西清、池田健太郎、原卓也によって編まれた話があって、訳者は池田氏の少し後輩で会うことがあってもおかしくなかったのだが池田氏は早世されそれはならなかったそうだ。池田さんの恐ろしさということを言っているが、教養課程のロシア語で楽しい講義を聴かせていただいた私には意外、そういうものかもしれない。

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