チェーホフ: カシタンカ・ねむい 他七篇
神西清 訳 岩波文庫
チェーホフの戯曲を最近続けて読んでいたが、小説を読もうか、有名なものは再読になるがと思ったが、各社の文庫でも入手がなかなかという状態になっている。上記は半分くらいは読んだものだがいいアンソロジーのようだし、訳は神西清だしで読んでみた。
「カシタンカ」は飼い犬から見た物語で、飼い主からはぐれてしまい、いろいろな動物たちの集団に入ってしまう。ここはどうもサーカスか演芸などをやる動物集団で、その主人(団長)や動物たちの中の仕切り屋とのやりとり、出し物の練習が続いて、かなりつらくなってくる。そして本番で、主人公の犬はそれまでの溜まったもののあげくというのか突拍子もない行動に出るが、これが読者にストンとはいるかどうか、というもの。
「ねむい」は対照的な話、十三歳の娘が主人の家で子守をやっている。歌をうたいながらあやしているのだが、なかなかつらいもので、先は見えてこない。もうねむくてねむくてというあげく、この娘がとったのは、あっといわせ見事である。
そのほかも、よのなかうまくいかないもんだ、子供にとってのなぞ疑問、時間の流れと悲しみ
などなど、作者についてなにか決めつける、結論は、といったことを拒否してしまう、そのことを納得するといった読後感になると言ったらいいだろうか。
チェーホフ(1860-1904)の生きた時期は明治維新から日露戦争、でも比較対照してもあまり意味はないだろう。
翻訳の神西清、チェーホフに関しては伝説的な人、この神西によるかなりの頁数のチェーホフ論がここについている。内容は高度で読み切れないが、この中でチェーホフ作品を評して非情(アパシー)という言葉を使っている。これはそうかなと思う。チェーホフの作品は、読む側の感情にうったえるというのとはちがうがしかしこれは真実かと思わせる。
さらにその仕事ぶりについて神西敦子(清の娘)が書いている。清に私淑していた池田健太郎も登場する。敦子はピアニストで、いつだったかNHKのTVで演奏を聴いた記憶がある。
文庫収録されたものについて通常の解説ばかりでなく、こういうものがついていて、後に残るのはいい。同じ岩波文庫のプーシキン「オネーギン」(池田健太郎訳)にも神西清ともう一人について貴重な文章が掲載されている。
神西清 訳 岩波文庫
チェーホフの戯曲を最近続けて読んでいたが、小説を読もうか、有名なものは再読になるがと思ったが、各社の文庫でも入手がなかなかという状態になっている。上記は半分くらいは読んだものだがいいアンソロジーのようだし、訳は神西清だしで読んでみた。
「カシタンカ」は飼い犬から見た物語で、飼い主からはぐれてしまい、いろいろな動物たちの集団に入ってしまう。ここはどうもサーカスか演芸などをやる動物集団で、その主人(団長)や動物たちの中の仕切り屋とのやりとり、出し物の練習が続いて、かなりつらくなってくる。そして本番で、主人公の犬はそれまでの溜まったもののあげくというのか突拍子もない行動に出るが、これが読者にストンとはいるかどうか、というもの。
「ねむい」は対照的な話、十三歳の娘が主人の家で子守をやっている。歌をうたいながらあやしているのだが、なかなかつらいもので、先は見えてこない。もうねむくてねむくてというあげく、この娘がとったのは、あっといわせ見事である。
そのほかも、よのなかうまくいかないもんだ、子供にとってのなぞ疑問、時間の流れと悲しみ
などなど、作者についてなにか決めつける、結論は、といったことを拒否してしまう、そのことを納得するといった読後感になると言ったらいいだろうか。
チェーホフ(1860-1904)の生きた時期は明治維新から日露戦争、でも比較対照してもあまり意味はないだろう。
翻訳の神西清、チェーホフに関しては伝説的な人、この神西によるかなりの頁数のチェーホフ論がここについている。内容は高度で読み切れないが、この中でチェーホフ作品を評して非情(アパシー)という言葉を使っている。これはそうかなと思う。チェーホフの作品は、読む側の感情にうったえるというのとはちがうがしかしこれは真実かと思わせる。
さらにその仕事ぶりについて神西敦子(清の娘)が書いている。清に私淑していた池田健太郎も登場する。敦子はピアニストで、いつだったかNHKのTVで演奏を聴いた記憶がある。
文庫収録されたものについて通常の解説ばかりでなく、こういうものがついていて、後に残るのはいい。同じ岩波文庫のプーシキン「オネーギン」(池田健太郎訳)にも神西清ともう一人について貴重な文章が掲載されている。