ヨーガはインドの六派哲学の一つ。
それは「心のはたらきをコントロールする」テクニックを教える心理学でもあります。そのテクニックが仏教や禅や密教に取り入れられたと言われていますが、逆に仏教の理論がヨーガの体系づけに大いに利用されていて両者は密接に結びついています。
「瑜伽行唯識派」の「瑜伽」はヨーガの音訳ですが、仏教の中でも、特に心に焦点を合わせた心理学です。この心理学は苦を乗り越え幸福になるために支えになるので本当に役に立ちます。
心のはたらきを唯識では心所といいますが「不定(ふじょう)」という心のはたらきがあります。不定とは「善・悪どちらにも固定していない」という意味で、「悪作(おさ)」「睡眠(すいめん)」「尋」「伺」の4つがあるそうです。
悪作は「よろずのことを悔やむ心なり」。
つまり後悔のことです。後悔は善き反省も悪しき反省もある…といいます。
あの時なぜもっと親切にしてあげなかったのだろうか?が善の後悔。
あの時なぜもっと盗んでおかなかったのだろうか?というのが悪の後悔。
睡眠は心をくらくし、身体の自由を妨害する心。
眠くて、意識朦朧の状態で、それは生理的な睡眠そのものではなく、あくまでも精神の分野のこと。
活動しなくてはいけない時に襲ってくる眠気、つまり怠惰な心は悪の「睡眠」。
怖いのはこの怠惰な心が習慣化することです。
眠るべき時に眠るのは善の「睡眠」
尋と伺は「ものをいわんとて、よろずの事を押し計ろう心なり」。
つまり、ものごとを推し量る推理力で、浅いものが「尋」、深いものが「伺」。ヨーガ・スートラ第1章にもありました。
パタンジャリの教えと、その意義を考えるのはもっとも善い「尋」と「伺」ですが、犯罪を計画し、周到に考えるのも「尋」「伺」…とか。
唯識の太田久紀先生がよくおっしゃっていました。
【「ああ、自分は今、間違っているな!」「謙虚で、静かな気持ちを失っているな!」「心の真奥に、傲慢な心がひそんでいるな!」
そんな気持ちにぶつかったとき、心所(=心のはたらき)をひもといてみると「うーん」とうなるような思いあたる節に出会うことがしばしばあるのではないでしょうか?】
まずは気づくことなのですね。はやく気づけば立ち直りもはやいでしょうから。
お陰様で、田原豊道先生の教えを聞き、ヨーガ・スートラを学びながら、さらに仏教の理論を借りて「う~ん」といつもうなっている私です。
ヨーガ・スートラには抽象的な言葉の遊びが一切ないのが特徴です。(荻山貴美子)
それは「心のはたらきをコントロールする」テクニックを教える心理学でもあります。そのテクニックが仏教や禅や密教に取り入れられたと言われていますが、逆に仏教の理論がヨーガの体系づけに大いに利用されていて両者は密接に結びついています。
「瑜伽行唯識派」の「瑜伽」はヨーガの音訳ですが、仏教の中でも、特に心に焦点を合わせた心理学です。この心理学は苦を乗り越え幸福になるために支えになるので本当に役に立ちます。
心のはたらきを唯識では心所といいますが「不定(ふじょう)」という心のはたらきがあります。不定とは「善・悪どちらにも固定していない」という意味で、「悪作(おさ)」「睡眠(すいめん)」「尋」「伺」の4つがあるそうです。
悪作は「よろずのことを悔やむ心なり」。
つまり後悔のことです。後悔は善き反省も悪しき反省もある…といいます。
あの時なぜもっと親切にしてあげなかったのだろうか?が善の後悔。
あの時なぜもっと盗んでおかなかったのだろうか?というのが悪の後悔。
睡眠は心をくらくし、身体の自由を妨害する心。
眠くて、意識朦朧の状態で、それは生理的な睡眠そのものではなく、あくまでも精神の分野のこと。
活動しなくてはいけない時に襲ってくる眠気、つまり怠惰な心は悪の「睡眠」。
怖いのはこの怠惰な心が習慣化することです。
眠るべき時に眠るのは善の「睡眠」
尋と伺は「ものをいわんとて、よろずの事を押し計ろう心なり」。
つまり、ものごとを推し量る推理力で、浅いものが「尋」、深いものが「伺」。ヨーガ・スートラ第1章にもありました。
パタンジャリの教えと、その意義を考えるのはもっとも善い「尋」と「伺」ですが、犯罪を計画し、周到に考えるのも「尋」「伺」…とか。
唯識の太田久紀先生がよくおっしゃっていました。
【「ああ、自分は今、間違っているな!」「謙虚で、静かな気持ちを失っているな!」「心の真奥に、傲慢な心がひそんでいるな!」
そんな気持ちにぶつかったとき、心所(=心のはたらき)をひもといてみると「うーん」とうなるような思いあたる節に出会うことがしばしばあるのではないでしょうか?】
まずは気づくことなのですね。はやく気づけば立ち直りもはやいでしょうから。
お陰様で、田原豊道先生の教えを聞き、ヨーガ・スートラを学びながら、さらに仏教の理論を借りて「う~ん」といつもうなっている私です。
ヨーガ・スートラには抽象的な言葉の遊びが一切ないのが特徴です。(荻山貴美子)