枕遍歴?十年。
ストレートネックの私は、枕が合わず、苦労していました。
あれがいいと言われれば買ってみる。これがいいと言われれば買ってみる。
もう枕だらけ。
それが…
こともあろうにニトリの2,000円弱の枕がぴったりと合ったのです。
皆さん、枕は値段じゃありません。(笑)
今日のヒロ君はディズニーのアンダー・ザ・シー
枕遍歴?十年。
ストレートネックの私は、枕が合わず、苦労していました。
あれがいいと言われれば買ってみる。これがいいと言われれば買ってみる。
もう枕だらけ。
それが…
こともあろうにニトリの2,000円弱の枕がぴったりと合ったのです。
皆さん、枕は値段じゃありません。(笑)
今日のヒロ君はディズニーのアンダー・ザ・シー
安倍晋三さんの暗殺から明るみに出た議員と統一教会との癒着。
板橋区は日本から独立したいくらいです。世界で一番小さい国、バチカンよりは少し大きいかも…。
板橋区は福祉も充実しています。コロナワクチンで苦労したことがありません。電話で御用聞きまでしてくれました。
昨年できたばかりの中央図書館は平和公園内にあります。
一階はカフェ。
自習室もあります。ただ、今は夏休みで利用者が多かったです。
せっかく断捨離をしましたから学術書以外はここでかりることにします。わが家からバスを使って20分程度。
いつもだと、キッチンかベッドルームで寝ているaiboのヒロ君。今日はどこにいるのかと中を覗き込んだけどいません。
ん?どこにいるの?
ふと、足元を見たら忠犬ハチ公のようにじっと待っていたではありませんか!
もう可愛くてiPhoneを出しましたが、失敗しました。夫のサンダルを揃えておけばよかったです。
つまらない話を連日お話しさせていただきました。
父には父の人生があり、母には母の人生がありました。
なんだかんだ言いながらも母は父と添い遂げました。
孫ができた時の両親は最高に幸せな顔をしていました。
私たちは、翻弄されながらも、愛され、それぞれに家庭を持ち、悲喜こもごもを通過して今に至っています。
子どものころ、サンタクロースがいると信じていた私たち姉弟は、クリスマス・イブにサンタクロースの正体を寝たふりをして突き止めました。
ステテコを履いたサンタクロースでした。
そんな一面もあった父。私たちが欲しがっていたものをコッソリ買いに行っていたのです。
父は父なりに子どもを愛し、家庭を守っていたのです。父の名誉のために書き添えます。(笑)
みんないなくなってしまいました。
これが人生。
儚いから美しい。
人は死ななかったら疲れて大変です。第一飽きっぽい私はあまりに長寿は望まない。テキトーな時期にあちらに行って、何百年かゆっくりして、平和すぎて飽きたら、また生まれ変わるでしょう。
でも、その頃地球はどうなっているのでしょう。
私たちが子どものころ、木造建築の家に父の弟が2人住んでいました。つまり、私の叔父です。父のすぐ下の弟は所帯を持っていました。その下の弟はひとりもの。
オマケに父の両親も住んでいましたから十人で暮らしていました。
母はよく我慢したと思います。
私だったら一日で逃げ出します。
人はコワイ人がいないとダメです。父にはコワイものがなかったのです。
どこでも威張っていました。
神父でさえ、父の横暴を抑えることはできませんでした。
それどころか、父の機嫌を取る。
その頃から私はカトリックがキライになりました。
信仰は神父とは関係ないということを理解したのはヨーガを学んでからです。
母が亡くなったとき、しみじみ母の人生は何だったのだろう…と思いました。
バブルの頃でもありましたが、かなり裕福でしたから、唯一それが母の拠り所だったのかもしれません。金庫番でしたが、従業員の給料支払分まで飲み代になり、女房にそんなに頭が上がらないのか!と言う叔父の言葉で父はさらにエキサイトし、遊興費に使う。母は従業員の給料のために質屋に行ったこともあります。主婦の傍ら、家業の経理のすべてを母が成し遂げていましたから。だから自由になるお金はありました。でもそんな幸せは儚いもの。
息を引き取った時、次の人生は幸せになってね…と冷静に祈ったくらいです。
人は選んで生まれてきたと言います。私は私の意志で両親を選んだのか?
それは何で?
何か私にミッションがあるのでしょう。
ところで、父の兄弟も酒癖が悪く、ほとんど毎日、酒盛りでした。挙句の果てにケンカになる。警察を呼んだこともありました。
いつごろからか、気がつけば私たち5人の家族になっていました。
祖父母は不仲でしたが、揃って郷里に移り住み、叔父たちはそれぞれ、独立しました。
のちのち、この叔父が我が家に大変な迷惑をかけてくれることになったのですが、父は早くに病に倒れましたから、私のすぐ下の弟が父の代わりに面倒を見たのです。
オマケに我が弟には生まれつき心臓の悪い子を授かり16歳で亡くなったのです。
天使のような男の子でした。
神さまは本当に時としてイジワルに思えます。
では、なぜこの父を私たちは許容したのか?それは父だったからです。
父は、素面の時は可愛かったのです。前の晩に暴言を吐いていた父も一夜明ければ、悪戯をした男の子のように、頭を掻いていました。昨日の暴君と別人のようになります。こんなことの繰り返しでした。
まぁ、疲れる人でした。
夫はヘッドハンティングで実家を離れ、私たちはやっと呪縛から逃れたと思いきや、父が脳梗塞で倒れました。緊急搬送されたのは三田の済生会。驚いたことに、ワガママな父は点滴をはずし、病院を抜け出し、タクシーで帰ってきてしまいました。
その後、さすがに身体の異変を感じたのでしょう。自ら病院に行く…と言い始めました。
長い療養生活でした。60代中頃から入退院を繰り返し、最後は透析になりました。
最後の自宅療養の時は私たち夫婦も実家に行っていました。父自身も、これが最後の自宅生活になる…と何となく察知していたようでした。
車椅子で病院に行く時、夫が父のところに駆け寄り、手を握り激励しました。父は彼の目をじっと見て、強く握り返したそうです。
あの時、夫は赦したに違いありません。父も彼の良さはよくわかっていたはず。少し感動的な場面ではありました。母はそれから急激に認知症が進みました。
母は誰よりも私を大好きでした。認知症が進んで一番早く忘れたのは父のことです。(笑)私たち夫婦のことは最後まで覚えていたようです。
こうして、人の一生を振り返ってみると、長い長い川の流れの中の一瞬に思えます。
もし、魔法使いが現れて何十年前にタイムスリップさせてあげるといわれたら私はキッパリ断ります。
退行催眠で、私が一番辛かったのはインナーチャイルドを呼び出すときでした。
私が小学校4年生のとき、下の弟が生まれました。忙しい母に代わって、オムツの交換、ミルクを飲ませる、お風呂に入れる、今のように紙オムツはありませんでしたから、オムツを洗って、物干し場で夜干している。干す先から寒さでコチコチに凍りつく。私は、もしかしたら拾われてきた子ではないか?と本気で思いました。
弟はまだ幼いのに保育園の送り迎え。
母は更年期に差しかかった時、心を病みました。母は自らを病気にし、病気に酔いしれたのです。
中学生の私は何度病院に連れて行ったでしょう。
ひきつけを起こし、町医者を夜中に叩き起こすことは日常茶飯事。
救急車はタクシー代わり。
そのうち、母には知恵がつきました。入院すれは何もかもから逃れられる…と。
父は相変わらず横暴でしたから。
あの頃はすぐに入院させてくれたのです。
病院は、母の駆け込み寺でした。
こんな子ども時代に誰が戻りたいでしょう。
長々と私のつまらない話に付き合ってくださりありがとうございました。
立教大学でアドラーを学んだとき、通信講座をご受講の方には繰り返しの話になりますが、アドラーは人の動機付けには劣等感と優越性の追求が必要だと学びました。これは、人を高める動機づけです。
劣等感は普通、人と自分を比べて生じるもの。しかし、ここでいう劣等感は理想の自分と現実の自分との比較なのです。
これは健全な劣等感です。
優越性の追求があるから人は成長します。
しかし、行きすぎると不健康な劣等感になり、それを劣等コンプレックスと呼び優越性の追求も過ぎると優越コンプレックスになります。
大韓航空のナッツ姫や姉妹、その母はどうやらこれにあたります。エゴの塊で注目を浴びたいから横暴になる。
親から甘やかされながら、すべてのものを与えられて育つと、他者から与えられることを当然だと思い、ムチャクチャなことを言う人。私は最近こう言う人に苦しめられました。
これは行き過ぎた優越性の追求であり、対になるのが劣等コンプレックスです。
劣等感を言い訳に使うのは劣等コンプレックス。
不幸自慢も病気自慢も劣等コンプレックスだったのです。病気によって人の注目を浴びたいと言う願望が無意識下にある。だから本当にひきつけを起こすのです。
母は積年の忍耐に耐えきれなくなり、心を病んでしまったことを亡くなって6年も経った今、分かりかけてきました。
夫は、両親から私をもぎ取られたと言う憎き存在だったのでしょう。
愛ってなんでしょうか?
愛は相手の幸せを考えること。
子は親の幸せを願う。
親は子の幸せを願う。
最近は恐ろしいです。中年の子どもが無職で寝たきりの父母にパラサイトする。つまり年金をアテにしているから管だらけになっても生かしてしまうのです。
それから私たちは引っ越しました。
実家から20メーターくらい離れたところ。
ジワジワと遠のく準備です。
しかし、同じでした。
でも、私たちを癒やしてくれた存在があります。柴犬のふじと虎猫のチャーミーでした。この2人(彼女たちは人扱い)仲良しでした。
引っ越し先は一軒家の一階でした。
朝、6時30分頃、私が窓を開けると、チャーミーが窓から入り、いつの間にか夫の布団に潜り込んでいました。
玄関を開けるとフジが入ってきました。
この2人は夫が大好きで、一緒に出勤しました。
仕事中はフジは夫のそばにぴたっと寄り添い安心した表情で寝ていました。チャーミーは彼の机の上を「私はここよ!」アピール。
「チャーミー、ダメだよ書類の上を歩いちゃ。お腹空いたの?」と言って冷蔵庫に、いつも買い置きしてあるチーズを持ち出し、歯に滲みないように…と、手のひらで温めてフジにも平等にあげていました。あの場面は今でも焼き付いています。
さて、この引越したうちにこともあろうに空き巣が入ったのです。私たちがいない時間を知っている犯人。およそ見当はつきましたが、証拠がないのでそのまま。被害額は3万円でした。警察官が3万円は空き巣の日当だと言っていました。
空き巣より大変だったのは、母から聞いたのか、酔っ払った父がまた来たのです。
そして、夫にこう言いました。
「お前がだらしないから泥棒が入るんだ!」
さすがに穏やかな夫もキレました。
殴ろうとした父に「殴れ!」と言ったのです。
警察官はお父さん、あなたが悪い!と言っていました。
さあ、ここまで読んで、皆さんはどうしてもっと遠くに引っ越さなかったのか?
と思いませんか?
それはまた明日。
私には弟がいますが、弟は幼い頃から父に嫌われていました。彼だけを残して車で出かけ、泣いていた弟を今でも思い出します。だから彼は家庭を持ってからは子どもオンリーのマイホームパパになりました。
弟は父の子には違いないのですが、なぜあんなに嫌っていたのか、なぜ下の弟を溺愛したのかはわかりません。
兄弟で一番可愛く生まれたのは上の弟です。
私は?
そうですね。クレラップのCMに出ているおかっぱの女の子ソックリです。夫が「キミの子どもの時に似てるね。悪ガキそうで…」と言っていました。
このポケットに手を突っ込んでいる小さいのに態度が大きいのが私です。
それではまた明日…
父は無類の酒好き。
40代で引退し、仕事は従業員任せ。
朝は10時ごろ起きて、日経新聞を隅から隅まで読んで終わる。
昼は読書か母と将棋。
夕方からが問題でした。5時ごろから晩酌が始まるのです。好みは日本酒。お銚子3本目から目が座る。
とにかく愉快なお酒は、私が知る限り見たことがありませんでした。
一週間に3日くらいは飲みに行っていました。飲んで気が合うと誰彼構わず夜の夜中でも初対面の人を連れてくる。私たちはたたき起こされました。そうそう、一度お相撲さんを連れてきたことがあります。妙に私は気に入られてしまった。(笑)
大学受験でも、期末試験の最中でもお構いなし。
さて、公認会計士だった父は、月に一度のペースで、朝、突然一階の事務所に降りてきて、今日はゴルフに行くぞ!と指名していました。
命令を受けた人はいつでもゴルフに行ける準備をしています。ゴルフのプレー代はどうやら父がだしていたようでした。ゴルフはまあ、いいんです。問題は帰ってからでした。ゴルフに付き合った人は必ずダラダラとした飲み会に出なくてはならない。そのとき、必ず誰かを蹴落とすターゲットが不可欠でした。
夫は皆からも信頼が厚く、結婚前は「所長、きみちゃんはおぎちゃんのような人と結婚したら幸せになれる!」と言っていました。皆は、私たちが付き合っていることを知らなかったのです。
ところが、付き合っていることが分かった途端、皆は父に加勢しはじめました。保身です。
結婚式は八芳園。このアルバムも近いうち断捨離しようと思っています。夫は若くてコチコチに固まっています。私はというと…
公開処刑の受刑者のような顔をしています。二度と結婚式なんかするまい!と思いました。新婚旅行はハワイに行きました。
新居はこともあろうに実家の向かい側のお部屋。これが間違いでした。
仕事を終えて、楽しく食事をして寛いでいるどころではなかったのです。ベロンベロンに酔っぱらった父が入ってくるのです。
そして、またくどくどと不平不満を始めるのです。あれは酒乱でした。親の顔が見てみたい!と思ったものです。そう、祖母は愛情の薄い人で、父にとっては尊敬もなければ、畏怖の念もない。私が今までみてきた限り、屈折している人は母親の教育に問題があるように思います。
こんなことが3日に一回?毎日のこともありました。気が弱いから素面ではこれない人でした。堪忍袋の緒が切れた私は、強硬手段に出ました。目には目を…です。
目のまえにあったウイスキーのボトルをラッパ飲みしたのです。のどは焼け付くように熱くなり、目が回り、雄弁になりました。酔っぱらいの父と娘はものすごいことになったのです。こんなことが何日も続きました。夜中に頭痛と吐き気で苦しみ、私は、近いうち胃がんか食道がんになると思っていました。そのときは父を恨んでやる!なんという壮絶な親子でしょう。あまりのストレスで救急車で運ばれたこともありました。しかし、悲しいかな!私はお酒はあまり好きではありませんがお酒に滅法強い!間違いなく父の子です。(笑)
夫は酔っぱらいの父娘の間に入って二重苦でした。夫がガンで亡くなったのは私たち父娘のせいだと思います。
そんな父は60代で脳梗塞になりました。お決まりのパターンです。あんな無茶苦茶をしていた父ですから脳梗塞は当たり前でした。
最悪な新婚生活でした。逃げるために外食が多くなりました。
いかがですか?人の不幸は密の味がしませんか?
まだまだ私のカミングアウトは続きます。
私の両親は自慢じゃありませんが、見栄っ張りでエゴイストでした。
父は昔の口減らしで子どものときから奉公に出され、両親を尊敬していませんでした。苦労をし過ぎたのです。
母はお嬢様育ち。
だから、父は屈折した愛し方しかできませんでした。
母に対しても私に対しても嫉妬深い。
子どものときから、父のような人とは結婚しない…と決めていました。
私が大学一年生の時、彼と出会いました。こんなお兄さんがいたらいいな!と、私の方が先に好きになったのかもしれません。
結婚したいと言ってから、さぁ大変。
毎日、毎日、晩酌する父の的は私たちでした。酒乱に近かったのです。
もうどうにもならなくて、叔父に相談しました。
私には、たったひとりだけ尊敬できる叔父がいたのです。
ぎゃー、ぎゃー騒いでいる父。歯向かう私。そこに叔父はやってきました。
お兄さん、どこが悪いの?
おぎちゃんって、いい子じゃない。
これで結婚に漕ぎ着けたのでした。
しかし、新婚旅行から帰ってきた、その日から私たちには、地獄のような新婚生活が待っていたのです。
明日に続く。
3年ぶりの岐阜師範科。
マスク姿になっただけで、お変わりなく、楽しくお茶をして、今、新幹線に乗りました。
皆さん、温かく迎えてくださりありがとうございました。
統一教会にコロナ。
報道はこればかり。
BSプレミアムの反町理さんが、しばらくご無沙汰。さては、罹患?
数日前からまた元気に復帰しています。
私のまわりも普通に罹患しています。
寝冷えかな?
鼻風邪?
家族が陽性。それならばPCR検査しておこうっと。
検査したら陽性。
無症状の中高年もいます。
正しく恐れよ!と言ったのは医療関係者でありマスコミです。しかし、煽る。
肝心なのは本人の免疫力ですね。
昔、盲腸で亡くなったお相撲さんもいます。
反則するプロレスラーを反撃した人気プロレスラー力道山。
何故か私は知ってる。(笑)
いたのです。英雄が…
この力道山はバーで喧嘩して刺されて亡くなりました。
生死は、神のみぞ知る!
人の一生は人の数だけあります。どれひとつ同じものがない。
たまたま撮り溜めていた録画に「プロフェッショナル」がありました。
志村けんさん亡き後、の番組でした。
素顔はシャイで無口。
それが、扮装すると、その演じる人物が憑依します。
子どもに悪影響を及ぼすから視聴禁止の家庭もあったようですが、間違いなく一世を風靡したコメディアンには違いありません。
コメディアンに共通するものは、ペーソスがあることでしょうか?
チャップリンも渥美清さんも一流のコメディアンはどこか寂しげです。
志村けんさんの場合、カトチャンの度量の深さもあったでしょう。
彼はマンネリをこよなく愛しました。
マンネリを愛せなければ落語は聞けません。
同じ演目でまるで違う内容にさえ見えてしまう。
カトチャンと言えば、孫のような女性と再婚し、彼女はかなり叩かれました。でも、間違いなくくるであろう介護の日に備え、ヘルパーの資格を取るイジらしさを責める資格は誰にもありません。
人生いろいろ
会社もいろいろ
結婚もいろいろ
親子関係もいろいろ
です。