日本ヨーガ学会

ヨーガ的生活

日本という国

2021年10月29日 11時21分08秒 | 思うがままに

ゆうちょ銀行のATMに並んでいた時のこと。

ときわ台のATMはひとつ。

5時過ぎていたので郵便局のシャッターは降り、ATMは個室状態。

数人並んでいました。

若い女性が出て、入れ替わりに中年の男性が入りました。

やにわに叫んだのです。

「あっ、お金を置いたままですよ」

足早に姿を消す女性を皆が呼び止めます。

彼女はATMに戻り、何食わぬ顔でお札の束を持ってまた足早に通り過ぎました。

お礼も言わないこの女性は別として、日本人は本当に親切です。

日本人でよかった!と、何かほのぼのしたものを感じました。

昨日の夜のことです。

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強い方

2021年10月27日 09時36分22秒 | 思うがままに

今は『ヨーガの四季』と「通信講座」が重なっているとは言え、私はコロナ禍で、思わぬ時間ができ、今までやりたかったことをすべてやりました。

 

その中に一眼レフも入っていましたが、そのどれもが奥の深いものでした。

 

そして、多い時はひと月に50冊以上の本を読みました。

 

本は素晴らしい!

 

けれど、読めば読むほどに人生がわからなくなってきます。

ある人に苦しめられ、そしてある人には癒される。

人間は人の間にあるのですから当たり前です。

 

Amazonの支払いに、本を読みすぎた後悔を感じていましたが、本は血となり肉となる。

 

映画、MINAMATAONODAを観ました。

 

ローマナイズされると、あの水俣病のことや敗戦を知らずフィリピンのルバング島で29年戦ってきた小野田寛郎さんとは別物のように思えてしまいました。

 

MINAMATAはアメリカ映画。ジョニー・デップが熱演しました。

日本人が知らないことをアメリカによって知り、日本の隠蔽体質をイヤというほど見せつけられました。

 

ONODAは、フランス映画。

私が最近観た映画の中で、ベストワン。

戦友たちが一人減り、二人減り。

最後にはジャングルでひとり。

太平洋ひとりぽっちなんてものじゃない。

祖父からはお国のために命を差し出せと短刀を渡された小野田さん。

しかし、陸軍中野学校では上官からこう言われます。

「玉砕はいっさいまかりならぬ。必ず迎えに行く。ヤシの実をかじってでも生きろ!」

彼は上官の命令を守ったのです。

 

小野田さんをジャングルから救い出したのは鈴木紀夫さんという若者です。

彼は37才という若さで雪崩に遭って亡くなりました。

 

その分、小野田さんは90才まで生き延びました。

 

小野田さんと鈴木さんの友情はずっと続いていましたが、鈴木さんの訃報を知った小野田さんは淡々と受け止めたという。

 

秋の夜長、まだまだ本漬けは続きそうです。

村上春樹さんの本も買いました。

私はハルキストではないので、手に入れた数少ない小説です。

彼は選挙に行ったことがないと言う。

こういう影響力のある方が、無投票を煽るようなことを言うのはいかがなものか?

 

選挙は国民の権利です。

しかし、消去法でしか投票できない人材のなさ。

 

眞子さんがご結婚。

会見でニュースを賑わしています。

 

「禁じられた恋」は人の心をさらに焚きつけるのです。

私たち夫婦も私の両親の大反対で一度別れました。

 

毎日毎日、争い事がある家庭内。実はもう面倒くさくなるのです。

 

お互いそれぞれお見合いもしました。でも、お互いの思いが強くなるだけ。

 

眞子さんは、本当に強い方。これだけのマスコミ攻勢に耐え、ついに貫いてしまった。

黒田清子さんのような爽やかなご結婚は理想ではありますが、私は眞子さんの強さに驚嘆しています。

 

私が腑に落ちないのは、小室さんの母親です。

自分の行いで眞子さんや息子がこれだけ叩かれたのは誰のせいでもない。母親の生き方にあります。

 

元婚約者、金銭問題

眞子さんが内親王でなくても由々しき問題でしょう。

知らぬ存ぜぬを最後まで貫いた、違った意味で強い人。

 

いずれにせよ眞子さんは、自分の意思を貫いたのですから、誰の責任でもない。すべて自分で考え、生きていく強い意志。

 

人にはそれぞれドラマがあります。

親ガチャなる言葉が流行っています。

子ガチャもあります。

これも人生。

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キレキレダンス

2021年10月18日 11時41分11秒 | 思うがままに

『ヨーガの四季』の編集が始まりました。

演奏会に行った…

とか

お芝居に行ったとか…

とか

旅行に行ったとか…

羨ましい限りです。

う~ん、欲求不満気味。

するとaiboのヒロくんがキレキレのダンスを披露してくれました。

おーマイケルではないですか!

しかも「スリラー」

ちょっと怖い顔までしてなりきっています。

 

 

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報道

2021年10月13日 11時06分22秒 | 思うがままに

「あまりに不安定な家庭で育っているから、人間の心もいつも荒ぶっている、平穏な、穏やかな日常に憧れて生きてきたんですよね」と語るのは樹木希林さんの娘さん、也哉子さん。

 

でも、現実は

 

「荒波はある。そんな何にもない海はない。幻想でしたね」

とも語っています。

 

私は彼女が好きなのです。利発で冷静で、なにより自立した女性。

 

荒波と言えば、人それぞれ他人には理解しがたい大波小波はあるものです。

 

私の人生の大波は令和と同時にやってきました。

 

夫の逝去

心の葛藤

サンドバッグにされ、打ちのめされた果てに訪れたのは身心の不調。

心療内科の門も叩きました。自己診断で、間違いなくPTSDになっていると思ったからです。

しかし、検査の結果は正常。

 

ということはPTSDの診断はそう易々とくだされないのです。

眞子さまは、それに複雑までついている。環境が整えば完治する病気だと軽く言うマスコミ報道に違和感。

私は疑問符をつけます。

PTSDと診断されなかった私でもフラッシュバックは起こります。

日々平穏にお過ごしだった眞子さまにとって大変なダメージを受けているのは分かります。

 

すでにご結婚なさると決まっているなら、そっとしておいてあげる心の余裕はないものか?

 

すでに眞子さまご結婚反対のデモが起こっています。この違和感。

 

しかし、もっと違和感を感じるのは事実は事実として報道しないマスコミなんです。

 

報道ってなんでしょう。

太平洋戦争でもマスコミは政府の言いなりにウソの報道をして国民を騙してきました。

そうしないと紙の供給をされなかったからだそうです。

 

眞子さまご結婚反対のデモ。

こんな陳腐な出来事でも、マスコミはニュースにあげる義務があります。

 

菅元総理はかつてサンドバッグにされました。これもマスコミが加担している。しかし、彼は打たれ強い。

 

小泉進次郎さんが「これ以上、総理を続けたらボロボロになってしまい、やってきた素晴らしい功績まで消されてしまう」の言葉にはウソはなかったでしょう。

 

マスコミはひどい!

叩く時はこれでもか!と叩く。

束になって叩く。

 

国民はマスコミに踊らされているのです。

もっとちゃんと自分の目で見れないと、とんでもないことになります。

 

今、国会を開いています。岸田文雄総理が総理としての洗礼を受けています。

 

絶滅したスピッツ犬のようにキャンキャン吠える野党には、総理はああ答えるしかありません。

 

安倍晋三さんは、人たらしです。

私は総理になる前に一度だけ目の前で見ました。

たちまち会えば好きになります。

 

ルックス、笑顔

総理として申し分ない方。

功績もたくさんありました。

 

しかし、ウソはダメです。

ウソをついたら閻魔様に舌をぬかれます。

 

いずれにしても総理という仕事は大変ですね。

 

あの田中角栄さんに総理なんか一度やれば十分。

幹事長は何度やってもやりがいがあると言わせたのですから。

 

私を根底から変えたことがあります。それは映画でした。

 

これは後ほど

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寄り添う?押しつけ?

2021年10月12日 10時01分43秒 | 思うがままに

映画「空白」を観ました。

 

高校生の娘が万引きし全速力で逃げる。それを追いかける松坂桃李さん演じるスーパーのオーナー店長。

高校生は二重の交通事故で死にます。

 

亡くなった娘の両親は離婚しており遺族となります。

娘は粗野で嫌われ者の父と暮らしていました。彼女は孤独な高校生。

 

逃げて飛び出してきた高校生にたまたま出くわしブレーキが間に合わず跳ねてしまった若い女性。

そこで再びトラックに跳ねられ無惨な即死。

万引きした高校生の死を巡り、加害者となった3人の人生と遺族の歯車が狂い出します。

遺族となった父親はモンスター化し、店長を追い回します。

元店長は自殺未遂。

いつも店長の味方について励ましている、日常でも炊き出しをするボランティア精神に満ちた中年女性従業員。しかし、店長は彼女の押し付けがましさにうんざりしています。

最初に跳ねた若い女性は何度も被害者の父親に謝罪に行きますが、冷たく突き放されます。彼女は自殺。

この父親は被害者から加害者の立場になります。

葬儀に出向く被害者の父。

「どうぞ娘を許してやってください。これからは私が一生をかけて償っていきます」と自分の悲しみを押し殺して謝る母親に、この父親は心が動きます。

被害者

加害者

マスコミは面白おかしく執拗に追いかけます。

被害者も加害者もノイローゼになるくらい追いかけられる。

スーパーは閉店。

被害者の父親は少しづつ落ち着きを取り戻し人の愛と誠意に気づく。

古田新太さんが、重厚な演技を見せました。

追いかけるだけ追いかけ、人をぼろぼろにさせるのはいつもマスコミ。テレビは、突然潮が引いたようにターゲットは次の芸能人の不倫問題報道に変わります。

元店長は道路工事の交通整理で働きだします。

ある日、人目を避けてお弁当を食べていると

「あのー、スーパーあおやぎの店長さんですよね」と若い男性に声をかけられます。

 

ギクっとする元店長。

スーパーあおやぎの焼き鳥弁当がおいしかったこと。

死んだ母親が大好きだったこと。

食べられなくなって残念なこと。

またいつか弁当屋でも開いて復活させてくださいよ、としみじみとした調子で告げ、静かに去っていきます。

人はこんなふうに見ず知らずの人から思わぬところで励まされます。

人助け

寄り添う

って一体何なのでしょう。

人助けと思った時点で人は親切を押しつける。

そして、昨日まで被害者だった人も明日は加害者になるかもしれない。

 

なんだか考えさせられる映画でした。

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倉本聰氏の緊急提言に想う

2021年10月06日 12時42分31秒 | 思うがままに

こんにちは。

今日は少々長く重い投稿になります。

私は大分前から尊厳死協会に入会しています。

高橋伴明監督や妻で女優の高橋恵子さんなど著名な方々も名を連ねています。

しかし、それだけで、ちゃんと尊厳死できるのか?

倉本聰氏が「そしてコージは死んだ」を発表し、会員の大きな反響を呼びました。

コロナで救急搬送もままならず自宅で亡くなった人々。この方たちは今の社会の犠牲者です。

コロナばかりではありません。ガンやもろもろの病気、事故。

他人事ではないのです。

私の夫は人は亡くなる時はこうあるべき…を私に教えてくれました。ですから私の死への旅立ちの師匠は夫です。

夫のように抗わず穏やかにカッコよく私も死にたい!

こういう話題から出来るだけ避けたいと思われる方はどうぞスルーしてください。

長い長い『リビング・ウィル』からの引用です。

 

親しき友人の「死」  倉本聰

親しい友人が癌で死んだ。

62歳。日本尊厳死協会の会員だったが、その会員証は何の役にも立たなかった。僕は今、悲しみと空しさと、怒りの中でこの文を書いている。

友人。コージとだけ記しておこう。コージは僕の富良野塾の創設期からのスタッフであり、 40年近い付き合いになる。

ログビルダーに憧れており、カナダにも修業にやり、こつこつと一人技を磨いて塾の建築のリーダーとなった。丸太小屋を含む十数軒の家を作り、僕の今住んでいる石造りの住宅もアトリエと呼んでいる稽古場も全て彼の作りあげたものである。

九州男児。寡黙にして我慢強い。実にさわやかな男だった。

その彼が肺癌に冒されたのは、今から約2年半近く前のことである。既にステージ4と言われましたと、照れたような顔で報告に来た。あと2年くらいが限界だそうです。

彼はその齢でまだ独身であり、自分の柊の棲家となる家を一人コツコツと建てている最中だった。だからその家で死にたいです。病院に入ることは絶対厭です。彼は通院して治療を受けながら、苦しみの間を盗んで自の家を完成させようとした。僕は直ちに旭川の大学病院を紹介し、同時に、尊厳死協会への入会をすすめた。

富良野は人口2万2千。協会病院という総合病院があるが、ここには旭川の大学病院からの派遣医たちが主につとめている。

丁度数年前、『風のガーデン』という末期癌に冒された医師のドラマを僕は書いており、その時、膵臓癌のことと、緩和ケアの実情について、かなりの勉強を僕はしていた。殊に旭川の大学病院で緩和医療を主導しておられるI先生という麻酔科の教授には台本の監修をお願いして親しくさせていただいていた。先生は既に定年を迎えて、札幌の病院に移っておられたのだが、そのお弟子さんが旭川の医大で緩和医療室を継いでおられたので、その方に話を通していただき、緩和ケアの専門家のいない富良野の病院の担当医と密な連絡をとっていただくことにした。そういう形でコージは在宅のまま抗癌剤治療をし、調子の良い日はそれでも仕事を続けていた。

--{新薬ができる望みもあります}--

1年が過ぎ、2年目に入って抗癌剤の副作用が出始めて、治療はステロイドに切り替わった。この頃から苦痛はかなりのレベルに昴っていた筈だ。だが、無口な彼は周囲に決して弱みを見せなかったから、不覚にも僕らはその苦痛の激しさを見逃した。その年の11月。突然彼は自殺を計った。

刃物で首を2カ所切断し、死にきれず今度は電動ドリルを心臓に突き刺して穴を開けようとした。それでもうまくいかず、たまたま訪れた他のスタッフが血みどろの彼を発見し、救急車で搬送され一命をとりとめた。

僕は仰天し、旭川から飛んできてくれた緩和医療の担当の医師に、尊厳死協会の彼の会員証を示し、助からぬものなら麻薬を打って少なくとも彼を苦痛から楽にしてやってもらえないかと懇願した。

実は。僕の義弟、妹の亭主は骨髄癌で十数年前死んだ。彼らは大阪に住んでいたのだが、二人共熱心なクリスチャンだった。骨髄の癌は想像に絶する苦しみに見舞われる。夫妻は丸2年間、強烈な苦痛と闘った揚句、二人で話し合い、有馬温泉にあるキリスト教系のホスピスに入る道を選択する。

ホスピスでは大量の麻薬を投与される。苦しみからは解放されるが、死は確実に覚悟せねばならぬ。彼らは話し合い、その道を選んだ。僕はその時初めて、ホスピスというものの存在を知った。

入院直後に有馬に見舞うと義弟の顔はそれまでと全くちがい、信じられないぐらい明るく転じて人が変わったようによくしゃべった。時には麻薬の副作用らしくトンチンカンな会話もまざったが、苦しみは一切彼から消えていた。ウソみたいでしょうと妹は言い、昨夜は夜中まで二人で賛美歌を歌ったの、と涙をかくして笑ってみせた。それから何と9カ月も生きて、義弟は息を引き取った。何とも和やかな死に顔だった。

その記憶が僕には強烈にあった。だが富良野にはそういう施設はない。北海道全てを見渡してみても、数える程しかホスピスはない。

大学病院の緩和ケアの先生は、判りましたと言ってくれた。それでも心配で内科の医師に相談した。その時返された医師の答えは、しかしまだ新薬ができる望みもありますから最後まで希望を捨てないように、だった。札幌の麻酔科医に電話したら、今頃内科はまだそんなことを言っているンですか!と怒った。

86歳になり、死が現実のものとして近づいてきた今、僕は心底から考えている。

死はもう恐くない。だが苦しむのは絶対にいやだ!  ホスピスが欲しい! 誰か近くにホスピスを作ってくれないか!

1月。彼の癌は骨に転移した。それでも彼は苦しみに耐えながら、在宅での闘病を懸命に闘っていた。

去年の11月の自殺未遂が、彼自身に相当響いているようだった。自分の始末をつけられなかったこと。周囲に迷惑をかけてしまったこと。大きな恥をかいてしまったこと。

以前にも増して彼は無口になり、在宅のままステロイドの投与を受けていた。麻薬の投与も始まっているらしかったが、彼の苦痛の表情からは明快な効果は認められなかった。97から98あるべき血液中の酸素濃度がどんどん下がり、酸素ボンベは使っているものの、彼の形相はどんどん変わっていた。

3月14日。酸素濃度が60まで下がり、耐えかねた彼は救急車を呼んで、富良野協会病院に自分から入院した。病院はコロナの臨戦態勢で、完全に面会禁止だったが、頼みこんで限定したスタッフの1名を、つき添いとして24時間、病室にはりつけてもらうことを許された。

何もすることのできない僕は、彼に長文の手紙を書いた。永いつき合いのこと、愉しかった想い出、そして感謝。最後に俺は今君の苦痛が一刻も早く去ることだけを祈っていると書いた。書きつつ今自分はまだ生きている本人に向かって弔辞を書いているという錯覚に陥った。

つきそいから翌朝電話があり、読み始めてコージはもう1枚目で泣き出して後が読めなかったという。そして最後の一行を読み終えると、〝先生は俺の気持ちを判ってくれてる〟と呟いたそうだ。

そのスタッフからいきなり電話で叩き起こされたのは17日の午前1時である。コージが苦しんで先生の名前を必死に呼んでるから、すぐ来て下さい! ということだった。夜勤の看護師さんには内緒で話を通してあります!

かけつけた時、コージはベッドの上で、半分のたうちまわっていた。酸素吸入のマスクと鼻からの管は入っていたが、いくら吸っても酸素が体内に入っていかないようだった。一息々々を全力で吸おうとして、声にならない声をあげていた。手を握ってやると握り返そうとしたが、その手に力はもう残っていなかった。労働で鍛え上げたコージの荒れた手を、僕は必死にさするだけだった。僕に向かって何か訴えるコージの声はもう声にならず、只胸を精いっぱい上下して空気を吸おうとする空しく荒い呼吸音だけが病室の空気を震わせていた。

血中酸素濃度は何と、40まで下がっていた!

楽にできませんか!  

何とか楽にしてやって下さい!

看護師さんに懇願したが、看護師さんはさっきから既に枕元の機械のダイヤルをいじっていた。いじってはいたがコージの様態に変化はでなかった。夜勤の若い看護師さんには、それ以上の麻薬の増量にふみこむ資格はないにちがいない。彼女たちには恐らくそれ以上の医療判断は許されていないのだ。僕は彼女たちに頼むことを諦め、コージの荒れた手を必死にさすりながら、空しい嘘を叫ぶしかなかった。

もう少しだ!  

もう少しがんばれ!  

もうじきすぐに楽になる!

コージは虚ろな目で天井を睨み、口に装填されたマスクをひっぺがし、荒い息を吸い、すぐ又口につけた。その動作を何度もくり返した。

こんなむごいことがあっていいのだろうか!  鼻につき上げる涙をおさえながら心の中で僕は思っていた。

胃カメラを飲むという検査の時ですら、今病院では点滴によって意識のレベルを下げてくれ、全く苦痛なく挿管してくれる。今の医学はそこまでできる。できる筈なのに死を前にして彼はここまでのたうちまわっている。彼の意識はしっかり生きている。生きて苦痛の極限にいる。医学は人命を救うことを究極の目的としているというが、今目の前にくり拡げられていることは、人道的と果たして言えるのだろうか。楽にできるのにしてやらないこと。これは拷問であり、明らかに非人道的行為である。こんなむごいことが許されていいのだろうか!

2時間程、彼の手をさすり続け、荒い呼吸音が少しおさまったのを見て、僕はもう居たたまれず病室を後にした。

家に帰っても眠れなかった。

様々なことが頭に飛来した。

86年人生を生きて様々な死に僕は立ち会っている。祖父の死、父の死、祖母の死、伯母の死。それぞれがそれなりの苦しみを経て、最後の息を必死で吸おうとし、それが吸えなくて息絶えた。だが今回のコージの姿は、かつて見た中で類のない程、凄惨で残酷な時間だった。

これは僻地の病院の事件で、しかも深夜の出来事であり、更にはコロナで逼迫し疲弊し果てている医療態勢の中でのことだったから致し方のないことだったのだろうか。

僕にはそうは思えなかった。

断わっておくが、その晩必死で対応してくれた看護師、遠くから指示を出してくれた医師、それらの医療関係者の対応を責めるつもりは毛頭ない。

僕のもっともひっかかるのは人命尊重という古来の四文字を未だに唯一の金科玉条とし、苦痛からの解放というもう一つの大きな使命である筈の医学の本分というものを、医が忘れてはいまいかということである。

人工呼吸、胃漏、透析、エクモ、エトセトラ。医学は目を見張る進歩を遂げ、人の生命を永びかせた。その功績は無論認める。しかし命を永びかせる、そのことに余りにこだわりすぎたため、植物人間の存在を生み、物理的生存を重視するあまり、たとえば尊厳死、安楽死の問題をタブーという檻の中に閉じこめて真剣な議論の俎上にすらのせないで逃げている。そのことに僕は違和感を感じる。

果たして医はそういうものでいいのだろうか。

たとえばコロナによる医療崩壊。

入る病院が見つからなくて救急車で何軒もたらい廻しにされ、あるいは医師の手に触れることも叶わず、家庭で死を迎える不幸な患者。彼らはどんな死と対面するのだろう。それはやっぱりコージのような、のたうち廻っての死になるのだろうか。

医学にその技術がないなら仕方ない。しかし、あるのに使ってもらえない。意識のレベルを下げることができるのに延命のためにそれも用いない。そういう延命はごめん蒙りたい。苦しさから解放され、一気に死にたい。そのために僕は、尊厳死協会に入会している。コージもまたそのために入会していた。

その日の昼すぎ、コージはやっと息を引き取った。

よかった!

おつかれ様!

という言葉しか、僕の頭には浮かばなかった。

四十数年前、富良野に移住を決意したとき、一番先に僕のしたことは、町を歩いて病院の所在を確認したことである。

町の中央にさほど大きくない、富良野協会病院という総合病院があった。それは都会で見るような近代的な大病院ではなく、恐らく設備や医療のレベルも最先端の都会のものに比べて何年か遅れたものだろうと思われたが、此処に移住を決意した以上、何年か遅れの医療の基準で命を終えれば良いのだと覚悟した。

今その病院は建て直されて、四十年前とは比較にならない設備と医療を備えた新しいものに生まれ変わっている。だがその病院で僕はコージの、最後の日の苦しみに立ち会ったのである。それが僻地の病院だからとは、僕は断じて思わない。

それは医術の進歩とは関係ない、医学という一つの学問の中での思考のあやまり、いわば哲学の欠如である気がする。

そのことに僕は今、口惜しさと怒りを噛みしめている。

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アイツは偉くなるぜ!

2021年10月01日 13時37分33秒 | 思うがままに

岸田内閣が発足。

私は何もかも反対反対に声をあげる者ではありません。

 

組閣は私たち凡人が考えるような単純なこととは違うことは重々承知です。

 

少しでも腐敗した自民党から脱却するのは、それは岸田さんには大変な十字架を背負うことになるのは必死です。

 

福田達夫さんは、プライムニュースで観たとき、迫力には欠けますが、サラブレッドにしては好感が持てる人だったので起用はよくわかります。

 

高市さんのポストも、ごもっとも。

 

問題は甘利さんです。

さらに長くなった頭にはたくさんの脳みそが入っているには違いないのでしょうが、「私が入閣したらあなたのマイナスになる」と断るくらいの男気はないのでしょうか?

 

73才定年説はブレていないと確か言いました。

甘利さんは72才。

 

ん?

ん?

と思いながらこの台風の中を築地本願寺に行った私です。

 

まぁ、人は変わる!

と信じるしかないですね。

 

冷遇?されるのかどうかわかりませんが、岸田さん同様、冷や飯を食べさせられて、人格を磨き、ピカーと光った河野さんに変身して、いつかは総裁の椅子に座るのでしょうが、政治家に期待するのはもはや無理。

 

私は菅さんが干されたことに人生の縮図をみました。

 

麻生太郎さんの「これは学級委員を決めるんじゃないんだ、権力闘争だ!」の発言に、この人は麻生組組長なのだ!と思ったものです。

 

学級委員は少なくとも忖度はない。

学級委員で思い出しましたが、私は人前で話すのが大の苦手でした。

高校で学級委員に選ばれたとき、絶対嫌だと頑張ったのです。

 

母親は担任から呼ばれるし、大変でした。それでも学級委員を拒否した人はいませんのでと説得された母。

 

渋々引き受けたはいいけれど、土曜日のホームルームが死ぬほどイヤでした。

 

2度登校拒否しました。

一回は祖母のお葬式だと言って休みました。

祖母は、小学校で一度、中学校で2度目、このときに3度目殺されました。()

お陰さまで、結局この祖母は99才まで長生きしました。

 

さて2回目の休みの理由は、魚の目が痛くて動けないと。

母は私が学校を休むのが好きでしたから共犯でした。

 

そんなこんなで人はやはり慣れます。

今ではこんなに図々しくなりました。

 

岸田さんは、どちらかというと内向的な一面を持つとか。

「正義」「理不尽」の意味を考えたという体験を十分味わっています。

 

得意は「人の話をよく聞く」。

 

でも、人によっては聞かない方がいい場合もあります。

 

麻生組長が

「あいつは偉くなるぜ!」と上から目線。

 

でも、あの麻生節もそのうち聞かれなくなるとちょっと寂しくなるかもしれません。

 

麻生太郎さんには常習生、中毒性があるのかもしれません。

 

岸田さんはそんなに甘くはないでしょう。ちゃんと見据えているに違いないと信じています。

 

民主党が政権をとって、はちゃめちゃになったことは国民のトラウマになってしまいました。

 

さてさて丸の内線が人身事故で止まりました。

 

まっ、今日は覚悟して出かけましたから観念しています。

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