銀座に用事があって行きました。
夫と二人でよく入った玄米のお寿司屋さんのそばを通りました。
二人に声をかけてくれたちょっとおっちょこちょいな店員さん、懐かしいな。
その店員さんに「私ね、ガンなんですよ。玄米がとてもいいのでわざわざ来たんですよ」と、あっけらかんと話す夫に私は驚きました。
3年前にガンだと宣告されてから私たちは運命共同体でした。
彼はよく「オレは君に生かされている!」と言っていました。
闘いを終えて夫は平安の地に旅立ってしまいましたが、私はひとり取り残されました。
夫亡き後、私は「死について」「魂について」をずっと考え続けています。
現時点で、少なくとも「死」を恐れなくなりました。むしろ楽しみでもあります。だって苦しみの世界から幸せの世界に行くのは間違いないのですから…。
昨年の今頃、彼はトレーナーに指導されながら筋トレをしていました。
本当によく病と闘ってくれました。
今頃、彼の地(天国)から「君もがんばっているね」と言ってくれているでしょう。
彼が居てくれた頃は、私はがんばっていた感覚はありませんでしたが、亡くなってからは本当にがんばりました。
昨年末、ヨーガのお仲間からお手紙をいただきました。
「シングルにようこそ。今はお辛いかと思いますが、ひとりの気楽さも味わっていただきたいです」とありました。
どんな慰めよりも笑顔になれました。
料理家の栗原はるみさんも私と同時期から死別の苦しみを味わっています。
死別は本人が一番辛いものですが、それを取り囲む人びとも困惑します。
何と声をかけた良いのか戸惑うからです。
私の経験上、儀礼的な言葉はいりません。
ヨーガ・スートラにもあるとおり、本当の慰めは言葉を超えたところにあるようです。
栗原さんは「大丈夫ですか?」の慰めに何と答えたら良いのか戸惑ったのです。
私が一番困ったのは、改めて「ご愁傷様でした」と言われることでした。
死別の苦しみから、しばし離れられるのは、普段通りしてもらうことと、亡き人を懐かしんでくれること、そして、かつて体験された方が語ってくださることだけです。
これは、体験した私がシミジミ思うことです。
かく言う私も、通り一遍の言葉を投げかけていたかもしれません。
伴侶を喪うことは、私を大いに成長させてくれているはずです。
夫は今生には還って来ません。
だから私は心の中に夫の居場所をつくり、いつでも呼び出せるようにして、おひとりさまの生活にはやく慣れて生きる喜びを見つけなくてはなりません。