島原半島博物日誌

島原にある某施設のスタッフが綴る非公認・非公式の個人ブログです。

長与駅と原爆救援列車

2019-03-19 13:14:05 | 雑談・その他
長与駅は小さい頃に一度訪れた記憶があります。
それ以降、まったく立ち寄った事もなかったので、ほぼ初めてみたいなものです。w
思ったよりもデカい駅舎もですが、その手前にあったこの車輪にも驚きました。
隣に解説板が建っていました。

写真では解説文が読めないかも知れないので、記載しておきます。
「1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分、アメリカのB29爆撃機から投下された原子爆弾が松山町上空で炸裂し、すさまじい熱線と爆風、放射線が地上を襲い、多くの生命が奪われ、多数の負傷者が線路沿いに続々と避難してきました。
 長与町(当時、長与村)においても、爆風や熱線の影響で家屋などの建物が損壊・焼失し、多くの人々がガラスの破片などで外傷を負いました。長与駅では、ホームに停車していた下り列車と上り列車の窓ガラスが爆風の影響で破損し、ガラスの破片で乗客が負傷しました。
 この下り列車は午前11時10分に長崎駅に到着する予定でしたが、空襲警報により15分ほど遅れて長与駅に到着していました。当時、長与駅の近くに運輸省門司鉄道管理局長崎管理部が疎開してきており、原爆投下直後から同管理部において救援列車の運転計画が立てられ、道ノ尾駅を基点として、原子野と化した長崎への救援列車が運行されました。長与駅で被災した下り列車が、8月9日の正午過ぎに長与駅を出発して、最初の救援列車として被災者の救援にあたりました。
 救援列車は爆心地から1.4kmほど離れた、道ノ尾駅と浦上駅の中間にある照圓寺(しょうえんじ)付近でこれ以上進むことが難しくなり、そこで負傷者を収容し、諌早駅へ向いました。同じく、長与駅で被災した上り列車が9日最終の救援列車として運行するなど、8月9日に4本の救援列車が奔走し、およそ3,500人の負傷者が諌早・大村・川棚の各海軍病院などへ運ばれました。
 長与町は原子爆弾で亡くなられた方々を追悼するとともに、二度とこのような惨禍が繰り返されないことを願った、この銘板を設置します。」
 その救援列車となった機関車の車輪なのでしょう。
コメント
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