今日は寝坊した。そのせいかずっと食欲がない。野菜ジュースとゆで卵2個で昼を済ませた。
納品があるので街に出る。すると本町あたりで早速山車に出会う。
今年は9台出ているようだ。
山車を出すために費用が大変なようだ。旧市内にあった有力なスポンサーも倒産したり転居したり次第に疎遠になってゆく。そうなるとお金集めをどうするのかで、寄付集めが重要になる。ただこれは辛い仕事だ。通らないのに金を集めるというのは道理に反している。おまけに拒否されることも多い。「いやぁホイド(乞食)祭りと言われても仕方がないです」そう彼らはボヤくのだが、背に腹は変えられない。
とはいえ、家の前を通らないのに寄付を求められても困るわけで。
最近盛岡観光応援ポスターというものがよく目にする。ただそこにでてくる盛岡弁というものに違和感を感じている。
朝の連ドラで盛岡の旅館の若女将が主人公というのがあった。残念ながらそのモデルになった旅館は廃業してしまった。その中で出てくる盛岡弁なのだが、それにしても滅多に聞くことのない言葉だった。30年前だったが、そのことを周囲に聞くと、「あれは盛岡市内の商家言葉で、それ以外では花柳界にしか残っていない絶滅危惧種だ」「旧市内のお年寄りが話す程度で、まともに話せる人はいない」という反応だった。江戸時代の盛岡市の商家はほとんどが近江商人で、彼らだけの独自の言語があったという人までいた。
いわゆる南部弁とは違う言葉なのだが、一体どうしてそうなったのかはわからない。薩摩弁のように作ってしまったものかもしれない。だが周辺の南部弁に飲み込まれて消えかかっているのを、なんとか維持しているというのが現状だろう。
ただ弘前のような旧市内と郊外では、そんなに言葉は変わらない。旧市内の方がゆっくりしゃべるという違いはある。比較するのもはばかられるが、大阪の船場とその周辺での言葉の違いのようなものでしかない。秋田もそうだ。
これには南部家が三戸から盛岡に移動したからというのが考えられる。それでは秋田の佐竹は常陸から移封されたのだが、秋田の中心部では今でも茨城の影響を受けた言葉があるのか。知らないだけかもしれないが、聞いたことがない。
確かに盛岡は南部家が移住するまで、農村地帯だった。商家はほとんどなくそのため近江商人を招いた。だから独自の言語が発達したとも言える。だがそれでは津軽だってそうだ。江戸時代に移封されたところはすべてそうなっていなければいけない。
そこで気がつくのは、周辺農民が入り込まないようにした手形制度だ。盛岡市内の寺に登録されたものでないと手形を持てない。この制度で地域から分断されていた可能性はある。
明治維新以降、城下と郊外の境目は撤廃された。そこで南部弁が流入するのだが、その頃の上流から中流階級は標準語に以降したのではないのだろうか。今現在盛岡市内で、方言で悩まされる観光客は少ないだろう。30年前からそうだった。多少の訛りはあるが、旧市内と郊外では感覚的にかなりの差がある。
特殊言語だったから、簡単に標準語に乗り換えられと思う。ただそれ以上に旧市内の人のプライドは大きかったと思う。標準語に切り替えることが、プライドの証だった。
盛岡弁が花柳界に残ったは、すきまだったからなのだろう。
盛岡弁には謎が多い。本当は歴史検証されるべきなのだ。何しろ盛岡は、その小さいエリアが盛岡ではないのだから。本州で一番寒い、旧玉山村藪川を含む広大なエリアなのだ。
ポスターの企画は旧市内のお金持ちが、ワーってやっている感じがあって、少し嫌だ。
盛岡の山車は素朴です。生の松を使うことがお約束のようです。
ということで、この祭りの一番おかしなところは、反権力的と言えるかもしれません。時代に逆らい続ける力というのがあります。消防団が中心ですから、ある意味権力側なのですが、拡大された盛岡に対するアンチテーゼというのは感じます。
それだったら、寄付金を500円にしてもいいかな。
どうも今日は夕方6時から大通りで山車のパレードがあるようです。ただ桜山稲荷が神輿を用意しているのが不思議ですね。
八幡のお祭りに便乗するというのは、神格としてどうなの?という気がします。
神事である限り、ある一線は越えて欲しくないものです。盛り上がればいいと後から付け加えて台無しにすることは避けたほうがいいのですが。
たった一時間で、9台中5台の山車に出会ってしまった。
明日は家にいないつもりだが、大体彼らはなぜか来る。今年は紙で包んだ200円を用意はしている。微力過ぎるがそれで勘弁してほしい。
マジで昔のことで、屋号は完璧に忘れてしまっています。ただこのエピソードは震災前の話だと思います。
なお当確部分に問題を削除します。