185. バッハとカザルスと賢治と私 チェロ研究家 五十嵐玲二談
この大それた表題の中心に据えるのは、“バッハの無伴奏チェロ組曲”の予定でした。バッハは、作曲者ですから、当然です。
カザルスは、この曲を世の中に広めた人物です。私は、自分が“バッハの無伴奏チェロ組曲”の演奏を聞いて、30歳の時、チェロを買ったので、宮沢賢治も“バッハの無伴奏チェロ組曲”をレコードで聞いて、チェロを買い、練習し、“チェロ弾きのゴーシェ”を書いたと思い込んでいました。
しかし、チェロと宮沢賢治(横田庄一郎著)などで賢治とチェロの関係を調べ、カザルスと“バッハの無伴奏チェロ組曲”との関係を調べると、宮沢賢治が“バッハの無伴奏チェロ組曲”を聞いていないと考えられるのです。(あとで理由が出てきます)
本来なら、これでこの表題を含めて、すべてを没にすべきですが、宮沢賢治と私に以下の三つの共通点がありました。
① 独学で30歳近くなってから、チェロを学ぼうとした。
② 持っていたチェロが名古屋の鈴木ヴァイオリン製のチェロであった。
③ 共に持っていたチェロから“チェロ弾きのゴーシェ”のように、美しい調べを奏でることはなかった。
私は、現在72歳ですが、チェロに出会ってから40年の月日が流れてしまいました。そこで、チェロ弾きの端くれとして、チェロ弾き40年間の挫折の記録として、まとめようと考えました。なぜなら演奏者というものは、どこまで上手に弾けたとしても、どこかで挫折を味わい、世界的演奏家と言ども、レコードやCDがある限り、歴史上の名演奏家と競わなくてはなりません。
次に、バッハ(1685~1750)とカザルス(1876~1973)と“バッハの無伴奏チェロ組曲”について、見ていきます。
バッハは、ワイマールの教会のオルガニストとして、マタイ受難曲、ロ短調ミサ曲、トッカータとフーガ、平均律クラビィア曲集などが、本職です。(23~31歳までバッハの前半でワイマール時代、後半はケーテン時代と呼ばれています)
ここで取り上げるのは、ケーテンの宮廷楽長時代(31才以降)の1720年ころに書かれたと言われる、“無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ(パルティータ)”、“バッハの無伴奏チェロ組曲”です。
“無伴奏ヴァイオリンソナタ”は、新約聖書に例えられ、“無伴奏チェロ組曲”は、旧約聖書であるとも言われています。
“無伴奏ヴァイオリンソナタ”の中では、シャコンヌが有名です。
しかしながら、“無伴奏チェロ組曲”は、カザルスが13歳の時、父親とバルセロナで楽譜を探しているとき、ほこりだらけの楽譜の山から発見される1890年まで、永い眠りの時代を過ごします。
カザルスは、その楽譜を家に持ち帰り、無伴奏チェロ組曲(第1番から第6番までCDで2時間と少し)を通して弾いてみた、自分の魂に最も近い音楽を見つけたと実感しました。
パブロ・カザルスは、スペインのバルセロナ地方のオルガン弾きの息子として、1876年に生まれました。13歳の時には、すでにオルガン、ピアノ、チェロを弾けましたので、バッハの楽譜(妻のアンナ・マグレ-ナの写譜が残るだけ)を見ておそらく音が浮かんできたと考えられます。
カザルスは、12年間練習したあと、ようやく公衆のまえで披露し、この作品の独創性を広めた。バッハがこの曲を1720年頃作曲し、カザルスが演奏するまで、180年の歳月が流れていた。
ではなぜ、無伴奏チェロ組曲が、かくも長いあいだ忘れ去られていたか、私の考えを述べます。
① バッバの時代、ヴィオラダガンバは、エンドピンがなく、股に挟んで弾いていたので、奏法が制約され、これをダイナミックに弾くことが難しかった。
② バロック時代のチェロの弦は、羊の腸でつくられていたため、張力に限界があり、演奏が制約された。(現在はスチール弦です)
③ 右手の弓の自由度を高める奏法が、カザルスによって開発された。
④ 無伴奏チェロ組曲の楽譜を見て、この曲の真価を理解できるものは、オルガンとチェロと楽譜を同等に扱える、バッハかカザルスしかいなかったと考えます。
カザルスは、1901年25歳の時、バッハの無伴奏チェロ組曲を演奏していますが、このレコーディングは1936~39年にかけて行われ、カザルスが63歳の時、レコードによって日本でも無伴奏チェロ組曲が聴けるようになった。
宮沢賢治は、1896年8月岩手県花巻に生まれ、1933年9月(37才)で亡くなる。生前の賢治は、童話作家としても無名で、死後谷川徹三によって、評価され有名になった。
従って、私のもくろみは、見事に外れ賢治は、バッハの無伴奏チェロ組曲を聴いていないと考えられます。
宮沢賢治は、いつチェロを買ったか。賢治のチェロのラベル(鈴木ヴァイオリン製作ラベル)に、F孔から水彩画の筆で“1926K.M”とサインがありますので、賢治が30歳の時、チェロを買ったことになります。従って、30歳からチェロをマスターしようとしたことになります。
賢治のチェロは、ほぼ独学ですが、三日間だけチェロをかついで東京に行き、伝手を頼って、新交響楽団(現在のNHK交響楽団)のチェロとトロンボーンを弾く大津三郎に習ったとあります。(チェロと宮沢賢治:横田正一著)
そして、この時、ドイツ留学から帰国した斉藤秀雄が新交響楽団の弦楽パートを指揮しており、この練習風景を見て、有名な童話“セロ弾きのゴーシュ”の構想を得たと思われます。
では、“セロ弾きのゴーシュ”の一部分を読んでいきましょう。
『 ゴーシュも口をりんと結んで眼を皿のようにして楽譜を見つめながらもう一心に弾いています。にわかにばたっと楽長が両手を鳴らしました。
みんなぴったりと曲をやめてしんとしました。楽長がどなりました。「セロがおくれた。トォテテ、テテティ、ここからやり直し。はいっ。」みんなは今の所の少し前の所からやり直しました。
ゴーシュは顔をまっ赤にして額に汗を出しながらやっといまいわれたところを通りました。ほっと安心しながら、つづけて弾いていますと楽長がまた手をぱっと拍ました。
「セロっ。糸が合わない。困るな。ぼくはきみにドレミファを教えてまでいるひまはないんだがなあ。」みんなは気の毒そうにしてわざとじぶんの譜をのぞき込んだり自分の楽器をはじいてみたりしています。
ゴーシェはあわてて糸を直しました。これはじつはゴーシェも悪いのですがセロもずいぶん悪いのでした。「今の前の小節から。はいっ。」みんなまたはじめました。
ゴーシュも口をまげて一生けん命です。そしてこんどはかなりかなり進みました。いいあんばいだと思っていると楽長がおどすような形をしてまたぱたっと手を拍ました。
またかとゴーシュはどきとしましたがありがたいことにこんどは別の人でした。ゴーシュはそこでさっきじぶんのときみんながしたようにわざとじぶんの譜へ眼を近づけて何か考えるふりをしていました。
「ではすぐ今の次。はいっ。」そらと思って弾きだしたかと思うといきなり楽長が足をどんと踏んでどなりだしました。「だめだ。まるでなっていない。このへんは曲の心臓なんだ。それがこんながさがさしたことで。諸君。演奏までもうあと十日しかないんだよ。
音楽を専門にやっているぼくらがあの金沓鍛冶(かなぐつかじ)だの砂糖屋の丁稚なんかの寄り集まりに負けてしまったらいったいわれわれの面目はどうなるんだ。
おいゴーシュ君。君には困るんだがなあ。表情というものがまるででてきていない。怒るも喜ぶも感情というものがさっぱり出ないんだ。
それにどうしてもぴったっと外の楽器と合わないもな。いつでもきみだけとけた靴のひもを引きずってみんなのあとをついてあるくようなんだ、困るよ。……」
みんなが出ていったあと、ゴーシュはその粗末な箱みたいなセロをかかえて壁の方へ向いて口をまげてぼろぼろ泪をこぼしましたが、気をとり直してじぶんだけたったひとりいまやったところをはじめからしずかにもういちど弾きはじめました。…… 』
最後に、チェロのドレミファ(五度調弦)について、述べます。チェロには、4本の弦が張られています。低い方からC弦又は4弦、G弦又は3弦、D弦又は2弦、A弦又は1弦です。
開放弦は、低い方からC弦をド、G弦をこれより5度高いソ、D弦をさらに5度高いレ、A弦を5度高いラに調弦します。(これはチューナーで合わせます)
これを完全5度調弦と呼び、完全5度とは、ドレミファソと5つで、その間に全音3つと半音が1つを含みます。弦楽器は、弓で弾きますので、角度を変えて音の重なりを防ぐために4本の弦で、構成されています。(4弦完全5度調弦)
12平均律は、1オクターブを12の半音で構成するものです。1オクターブ高いとは、弦の長さが半分で、振動数は2倍になります。(弦の長さと振動数は逆数の関係となります)
C弦のナットからブリッジまでの長さが70cmすると、低いドの音を65ヘルツ(振動数の単位)とすると、半分の35cmの位置がオクターブ上のドの音(振動数は130ヘルツとなります。
12平均律とは、70cmの弦を少し短くして、これを12回繰り返したとき、半分になる値この少しの値が、70x(1-0.0561)=66cmで、振動数は65x1.0594=69ヘルツになります。
この値70x(1-0.0561)**12=35cm 、Bx1.0594**12=130ヘルツ 、1オクターブ高くなります。半音階を数学的に表現すると2**1/12=1.0594 で振動数を表し、この逆数1/1.0594=0.9439となります。半音階が12回で、1オクターブです。
レは、ドから長2度上がって、弦の長さは、70x(1-0.0561)**2=70x0.8909=62.3cm、振動数は、65x1.0594**2=65x1.1224=73ヘルツとなります。
ミは、ドから長3度上がって、70x(1-0.0561)**4=70x0.7937=55.5cm、振動数は、65x1.0594**4=65x1.2599=81.8ヘルツとなります。
ファは、ドから完全4度上がって、70x(1-0.0561)**5=70x0.7491=52.4cm、振動数は、65x1.0594**5=65x1.3348=86.7ヘルツとなります。
ソは、ドから完全5度上がって、70x(1-0.0561)**7=70x0.6674=46.7cm、振動数は、65x1.0594**7=65x1.4983=97.3ヘルツとなります。
ここで、フレット(弦)の長さを70cmとすると、C弦での開放弦は
70x1.0 =70 ド
70x0.8909=62.3 レ ≒8/9
70x0.7937=55.5 ミ ≒4/5
70x0.7491=52.4 ファ ≒3/4
70x0.6674=46.7 ソ ≒2/3
70x0.5946=41.6 ラ ≒3/5
70x0.50 =35.0 ド 1オクターブ上
講演会での 演奏予定曲について
〇 バッハ作曲 無伴奏ヴァイオリンパルチータ第2番シャコンヌより、(少し)
〇 バッハ作曲 無伴奏チェロ組曲第2番より、(少し)
〇 カザルス作曲 スペイン民謡 鳥の歌
〇 バッハ作曲 G線上のアリア
〇 シューベルト作曲 トロイメライ
〇 ロシア民謡 黒い瞳
〇 日本民謡 さくらさくら
〇 滝廉太郎作曲 荒城の月
〇 ビートルズ イエスタデー
〇 アメリカ民謡 朝日のあたる家
〇 谷村新司作曲 いい日旅立ち
〇 小林亜星作曲 北の宿から
〇 カッチーニ作曲 アベマリア
〇 ホルムベルト作曲 望郷のバラード(少し)
〇 シューベルト作曲 ます第4楽章より(少し)
〇 ドボルザーク作曲 新世界第4楽章より(少し)
〇 ゴットファーザー 愛のテーマ(ギターと歌)
〇 五木ひろし作曲 契り ピッチカートと歌
〇 杉山長谷夫作曲 花嫁人形
〇 竹久夢二作詞 宵待ち草
〇 阿木燿子作詞 夢一夜 (ギターと歌)
〇 荒井由実作曲 「いちご白書」をもう一度 (ピッチカートと歌)
〇 松山千春作曲 旅立ち
〇 中島みゆき作曲 この空を飛べたら
なお、この演奏会は、聞く人のいない演奏会です。音楽を60年近く聴いてきて、音楽とは何かについては自分なりに考えてきました。ロマンロランは、「ベートーヴェンの生涯」の中で、聴衆は音楽に言葉の矢をつげないと理解しにくいというようなことを述べていました。
私は自分のチェロに挫折して、コードだけでギターをつま弾いて、演歌やポピラー音楽や世界の民謡を歌って、バランスをとってました。現代は、ジャズ風とかクラッシック風という雰囲気があるだけで、ジャンルはあまりこだわらない時代かもしれません。
例えば、ビートルズの曲は、現代では、クラッシック音楽のように感じます。最後にクイズを出します。有名な作曲家で、自分が書いた交響曲を聴いていない人が三人います。誰でしょう?
一人目は、ベートーベンです、第五番運命を作曲したころから、音が聞こえなかったようです。
二人目は、シューベルトです。未完成交響曲ですので。
三人目は、ショパンです。自分で書いた交響曲を演奏するオーケストラを雇うお金がなかったそうです。
では、素晴らしい音楽に出会えることを祈って、ペンをおきます。(完)
184. 一万人の「無国籍日本人」がいる (井戸まきえ著 文芸春秋 2019年2月号)
国籍の問題は、移民の受け入れや、国際結婚の問題とも関連して、日本の未来ともかかわってきます。さらに法律が輻輳化して適用される時、私たちの味方であるべき法律によって、私たちが絡めとられる危険を孕んでいる。
法律は自国だけの問題にとどまらず、他国の法律とも密接に関連します。さらには時代の変化にも対応する必要があります。
本来、法律の問題を解きほぐし、法体系の全体像を見とおして、現代社会に適合した矛盾のないものにすべき、裁判官や国会議員、大学教授がその全体像とビジョンを持っているように感じられないのは、私だけでしょうか。
では、読んでいきましょう。
『 「無国籍の日本人」がいる。明治初期でも、第二次世界大戦後の混乱期の話でもない。平成が終わろうとしている二〇一九年、まさに「今」の話である。
日本人の親のもとに生まれながらも、何らかの事情で出生届が出されず、もしくは「戸籍」が滅失し、戸籍を持たないまま生活している「無国籍者」は、司法統計から推定して現在、この日本に「少なくとも一万人」いると考えられている。
現に、昨年十月、福岡県内で内縁の妻の死体を遺棄したとして男が逮捕された事件で、容疑者が長年連れ添った妻「ユモコ」は、実は「無国籍状態」だったことがわかり、年の瀬のニュースを賑わせたばかりだ。
法治国家であるはずの日本に、生まれも氏名も公証されない「無国籍者」が普通に暮らしている。「そんなまさか」とにわかには信じられない読者もきっと多いことだろう。
かく言う私自身がそうだった。二〇〇二年、自分の子どもが「無国籍児」になるまでは―—。「芦屋市役所ですが、イドマサエさんですか? あなた、離婚していますね? 」
生後五日目の第四子を連れ、産院から自宅に戻り、子どもを寝かしつけたばかりだった。突然かかってきた一本の電話は、藪から棒に私の結婚歴を確認し、こう告げたのだ。
「今朝あなたのご主人が提出した出生届は、父親欄が現在のご主人となっていますが、民法の規定により、離婚後三百日以内に生まれた子どもは前夫の子どもとなります。父親欄を前夫の氏名に書き直して、出生届を再提出してください」
確かに私は前夫と離婚し、再婚したのちに第四子を出産していた。「……は? 離婚後三百日以内?」『民法第七七二条二項 離婚後三百日以内に生まれた子は婚姻中に懐胎したものと推定する』 「嫡出推定」と呼ばれる規定である。
民法の条文にそんな「父を決めるルール」があるなど、当時の私には思いもよらなかった。
「ちょっと待ってください。私は前の夫とは離婚が成立するずっと前から別居していました。調停に時間がかかったせいで離婚が遅くなっただけです。だいたい前の夫との離婚が成立し、再婚した後に私はこの子を妊娠したわけれすから、前の夫を父親にするなんておかしいでしょう」
思わず私の語気は荒くなった。後で知ったことだが、この民法の「三百日規定」は、ずいぶん前から問題とされてきた。(後述するように現在、改正が検討されている)。
そもそも女性の妊娠期間は、三百日より一か月も少ないからだ。一般に、一週間七日をひと月四週間で数えて十ヶ月(二百八十日)が妊娠期間の基準とされる。
起点が最終月経日なのでさらに排卵が予想されるまでの二週間を引いて、実質的な妊娠期間は二百六十六日前後。しかも、しかも、あくまでこれは子どもが予定日の生れるケースだ。
三週間ほど早産だった私の場合、妊娠から出産までの期間はさらに短い。離婚後、今の夫と再婚した後にできた子も、この民法の規定を適用したら「前夫との間の子」ということになる。
もともとは扶養義務を負う父親を早く確定し、子どもの身分を安定させる趣旨で作られた規定だが、現在、父親が誰か、争いがある場合はDNA鑑定によって容易に確定できる。もはや時代遅れのルールなのだ。
まして当事者間に何の争いもないのに、この規定を厳密に適用しようとするのは、「女性は離婚後しばらく新たな夫との子を妊娠してはいけない」と役所に言われているのと同じ。
まるで国家が「女性は離婚後の一定期間、前夫の性的拘束下にある」と認めるようなものではないか。 』
『 しかし、私がいくら憤り、「法が間違っている」と主張しても、役所が出生届を受理してくれなければ、子どもを私たち夫婦の戸籍に登録することはできない。抗議する私に、それは離婚のペナルティです」
市役所の戸籍係は、淡々と言い放った。この言葉は十七年たった今でも忘れることができない。二十五歳で結婚、三十七歳で離婚。十二年間の結婚の生活のうち半分近く別居、調停と、婚姻解消のために格闘した日々だった。
夫婦のうち三分の一が離婚に至る現在では、そう珍しいケースでもないだろう。そもそも「離婚のペナルティ」とは誰から誰に課せられるものなのか。なぜ、それを生後間もない赤ん坊が背負わなくてはならないのか。
子どもの父親欄に嘘は書けない。出生届の訂正を拒んだ結果、私の子どもは「無戸籍」となった。
我が子が無戸籍になるまで、私は「戸籍」について深く考えたことなど一度もなかった。戸籍はあって当たり前。当然、家族の「実態」に基づき、正確な事実が記載されていると信じて疑わなかった。
だからこそ、役所が実態と異なる「虚偽」の記載を求めてきたこと、それを断ると、あっさり我が子が「無戸籍児」になってしまったことは、衝撃だった。
戸籍がないと、この先どうなるのか。住民票がもらえない。健康保険証もない。健康診断や予防接種など行政サービスも受けられない。住民票がないと役所から「就学通知」が来ないので義務教育を受けることも難しい——。
これらは生きる上で、致命的困難をもたらすはずだ。その後、紆余曲折の後、私と子供が「原告」となり、現夫を「被告」として、認知を求める裁判を起こし、その結果「子どもは、現夫の子として認める」と判決が出て、我が子は戸籍を得ることができた。
当時、「推定される法的父親」と「事実上の父親」が異なる事案の調停・裁判は、毎年三千件前後あった。私は、夫と決意した。法律を変えよう、私たちがした経験を他の人にはさせたくない、と。
ホームページを作り、朝昼晩、いつでの対応可能な二十四時間の電話相談を始めた。以来十六年後の現在まで、約千三百件の無国籍者からの相談を受けてきた。 』
『 日本人でありながら無戸籍者となる要因は主に六つと言われている。 ① 「民法「七七二条」が壁となるケース(離婚後三百日問題) ② 親による「ネグレクト・虐待」が疑われるケース ③ 戸籍制度に反対で、出生届の提出を拒むケース ④ 認知症等での「身元不明人」ケース ⑤ 「戦争・災害」で戸籍が滅失したケース ⑥ 天皇・皇族
二〇一四年八月の終わり近くに、近藤雅樹と名乗る男性から電話があった。「二十七歳です。無国籍なんです。母は亡くなっています」父親は、と訊くと、「わかりません、最初からいないので」と言う。
近藤は、一四歳のとき、それまで実の母だと思っていた「オカン」から、こう言われたのだという。「うちはあんたの本当のオカンやない。あんたの本当のオカンは、あんたを産んで間もなく死んだんや」
本当の母には戸籍がなく、託された「オカン」も、近藤を戸籍に登録することができなかった。近藤は義務教育を受けていない。
近所の同年代の子どもたちがランドセルを背負って登校する姿を見ながら、この国には「学校で勉強するグループ」と「家で勉強するグループ」があって、自分は後者だと信じていたという。
それでも二度、オカンは近藤を小学校に連れて行った。一校目は大きい小学校で、沢山の人がいてビックリした覚えがある。一度にそんなに多くの小学生を見たことがなかったから、近藤の記憶は鮮明だった。
「ダメやねんて。次行ってみよか」授業が終わって迎えにきたオカンから、そう言われた。何がダメなのかはわからなかったが、日をあけずにまた違う小学校に行き「小学校のまねごと」をした。
しかし、近藤が小学校に通い続けることはできなかった。以来、オカンと近藤、二人きりの家庭生活をおくる。本屋で買ってきたドリルをやり、わからないところはみんなオカンが教えてくれた。
そして十四歳のとき、本当の母の存在を告げられることになる。「自分はオカンの子ではない。しかも戸籍がない……」
近藤は、十六歳から飲食店の下働きを始め、やがてオカンの家を出て、別の飲食店の社員寮に入る。あるとき道で最初に働いた店の店主に呼び止められ、「お前、大変やったなあ」と声をかけられた。
「オカン、火事で死んだんやろう?」近藤の知らないうちに、義母は、火災に巻き込まれて死亡していた。かれが十九歳のときだった。
自分を証明するもの全てを失った近藤は、故郷・大阪を離れ、上京し、八年間ひとりで生きてきた。行政からの援助はもちろん、保険証すらない状態だったが、現在までホステスとして働いてきたという。
無戸籍者たちは、身分証明がなくても働ける水商売、パチンコ業界、風俗業界などに身を寄せやすい。「僕の話、本当かどうかわからないですよね。僕も実は自信がないんです。誰も証明する人がいないから」近藤は掠れた声で私に言った。』
『 近藤雅樹から相談を受けた私は、まず一緒に家庭裁判所へ赴いた。一般に親の不明な無戸籍者が戸籍を得るには「就籍」という手続きをとる。
たとえば「捨て子」のケースでは、自治体の長がその子に名前をつけ、職権で戸籍を作ったりするのだ。散々待たされた後に現れた家裁の担当者は、近藤にこう言った。
「では、日本人であることを証明できる資料を提出してください」 父も母もわからない子が「日本人であること」をどうやって証明するのか。
とりあえず申立書を書くが、その内容を証明してくれる近藤の養父母は、もうこの世にいないのだ。申立てをしてしばらくすると、裁判所から呼び出しが来た。
調査官との面談の一回目は、申立書に書いていることの確認。二回目はもう少し突っ込んだやり取りが行われ、その後、近藤は全部の指の指紋を採られた。
指紋採取が終わると、調査官は突然ワイシャツを脱ぎ始めた。「近藤さんの年代だとBCG、判子注射とも言うんですが、その跡が腕に残っていると思うんです。僕のを見せますから、近藤さんも見せてくれませんか?」
日本で受けた予防接種の跡があれば生まれた年代がわかるのだ。もしくはどこか別の国の予防接種の跡が残っているかもしれない——。「自分は疑われている」こう思うだけで、近藤は後ろめたい気持ちになったという。
動揺しつつも、ワイシャツを脱ぐ近藤。「……ない、ですね。どちらの腕にも。予防接種はしていないですね」ホッとした近藤は、その場に倒れそうになった。
指紋を採られ、上半身を裸にして調べられるなんて、まるで犯罪者扱いだ。しかし、その屈辱に耐えなければ「日本人」にはなれない。
結局、近藤の「就籍」の申立ては、却下された。審判書を見ると、最初に書かれているのは近藤の犯罪歴についてだ。「犯罪歴又は逮捕歴「不発見」」「なし」ではない。
「不発見」という文字に役所の若干の悪意が滲む。以降、三ページにわたって、近藤の生育に関する記述が続く。最後の結論部分に驚くべき言葉があった。
① 「日本語を流暢に話し、語彙も豊富で、初対面の相手であってもコミュニュケーションに全く支障がない。また申立人は、陳述書や報告書を自らパソコンを使って作成しており、その内容は項目ごとに整理され、内容もわかりやすく、誤字脱字もほとんど見当たらない。
以上の点からすると、申立人が小学校に2回登校したことがある以外に学校に通ったことがなく、勉強や一般教養について養母から教えてもらっただけであとは独学とする申立人の供述はおよそ信用しがたい」
② 「申立人が乳幼児の頃、申立人を保育園等に預けるのとなく、ひとりアパートに残して長時間働きに出ることはおよそ困難であり(育児放棄でもある)、そうした場合には、何らかのきっかけで周囲の知るところになり、児童相談所等による指導・介入を受けることが通常である。
申立人は、2回だけではあるが小学校に登校しており、また転居もしてないというのであるから、その後も児童相談所等による指導・介入を受けることなく、全く学校に行かないまま義務教育の期間を経過したというのは不自然である」
裁判所はこう結論づけ、近藤の供述を「信じ難い」として、「就籍」を認めなかったのである。 』 (第183回)
183. 日本の革新者たち (齊藤義明著 2016年6月)
本書は、”100人の未来創造と地方創生への挑戦”という副題です。革新者というと派手な感じがしますが、私の感じでは意外に地味な努力の中から生まれるもののように考えられます。今回は、その中から四つの話だけ紹介いたします。
四つの小見出しだけ先に紹介します。”Amazonを超える書店”、”のど渇きではなく、心の渇きを癒す”、”中古物件から魅力を引き出す宝探し型不動産”、”真っ暗闇のソーシャルエンターティティメント”の四つです。
『 私は、書店には革新者はいないと思っていた。「Amazonで勝負あり」で、このビジネスモデルに勝てる書店などないだろうと。北海道砂川市に、「いわた書店」という小さな書店がある。
田舎にあるのに、全国から注文が殺到、2015年3月までで666人待ち、対応しきれないため受付を締め切ってしまうほどであった。
さらに2016年4月に受付を再開したときには約1600人から応募が殺到、やむをえず抽選方式に変更した。なぜ、いわた書店に注文が殺到するのか? 社長の岩田徹さんは「一万円選書」というしくみを実践している。
これは約一万円分の本を、お客さんのために岩田さんが選んで届けるというサービスであり、選書にあたって岩田さんはお客さんの読書履歴や仕事、人生観を知るための「選書カルテ」という記入式調査をお願いする。
岩田さんはその選書カルテをじっくり時間をかけて読み込む。そして素敵な本と出合えますようにと願いを込め、お客さんが自分ではけっして選ばないだろう本を選び出す。
その本にはお客さんがハッとする言葉が潜んでいたりする。これは岩田さんからユーザーへの心を込めた for you のサービスである。
本の推奨ならAI(人工知能)にもできる。Amazon のレコメンド・エンジンには、「よく一緒に購入される商品」、「この商品を買った人はこんな商品もかっています」といった推奨機能がある。
だが自分が選ばない領域の本、隠れた悩みを解決してくれる本の紹介は、Amazon のレコメンド・エンジンにはできない。無類の本好きで多様な種類の本を知る岩田さんが、お客さんの悩みを知ってこそなせる業である。
言ってみれば Amazon は Needs 対応、いわた書店は Wants 対応なのだ。大変手間がかかるやり方であるからこのビジネスモデルが儲かるとは思えない。
したがって「Amazon を超える本屋」などというのも正しくはないだろう。だが、覇者 Amazon 覇者にはできない付加価値を作り出している一点において、岩田さんはやはり革新者と言えるだろう。
『 Needs を探すのではなく、Wants を創造する。コカ・コーラ社が中東で行った秀逸なマーケィテング・キャンペインを取り上げたい。中東には建設や製造や農業などに従事するため国外から労働者たちが数多くきている。
特に南アジア地域からの労働者が多く、人口の3割程度を占めるという。この人たちにコカ・コーラをもっと買ってもらうにはどうしたらいいか?
皆さんが担当責任者だとしたらどうするだろう? 味を変えるか、パッケージ・デザインを変えるか、それともプライシング(価格設定)を変えるか?
この労働者たちの日給は大体6~7ドル程度と言われている。では、この人たちの Wants とはなんだろうか。それは、母国に残してきた奥さんや子供たちの元気な声を聞くことである。
しかし日給6~7ドルではそうそう国際電話はできない。せいぜい何日かに一度、少しの時間だけ家族と話して満足するしかない。そこでコカ・コーラ社がやったことは驚きだった。
コカ・コーラのペットボトルのキャップを入れると3分間国際電話ができるコカ・コーラ社製の専用電話ボックスを設置したのである(Hello Happiness プロジェクト)。
この結果労働者たちは、コカ・コーラのキャップをポケットに入れ、この電話ボックスに列を成すようになった。コカ・コーラ社は言ってみれば、のどの渇きではなく、心の渇きを癒したのだ。
炭酸飲料としてのコカ・コーラに対する Needs をいくら聞いてもこうしたソリューションは生み出せない。
顧客の心の奥深くにある欲望や、怒りや、悲しみや、愛情など Wants に着目し、そこに向けてソリューションを図ったからこそ可能となったのである。 』
『 高度成長期に整備された家やマンションが老朽化し、空家数が増加している。
従来であれば、これらは既に無価値な資源と捉えられ、スクラップ・アンド・ビルドによって新築のマンションなどに建て替えられていたが、最近は古い建物の風合いやストーリーを活かし、改装して住むというストック・リノベーションの動きが拡がり始めている。
この分野で活躍している革新者の一人に東京R不動産の共同創業者の馬場正尊さんがいる。
普通、不動産屋が物件を評価する際には、駅からの距離、部屋の広さ、設備の新しさといったような基準で価格を決めることが多いと思うが、東京R不動産は、従来の不動産屋とは全く違った視点で物件の価値を引っ張り出す。
例えば、レトロな味わいがある、倉庫っぽい、改装できる、無料で屋上が付いてくる、水辺の景色がある、秘密基地っぽいなどといった切り口である。
そんな独自の切り口を持ちながら、町中を宝探しのように探検して面白い価値を持つ物件を発掘する。そこに独自のコンセプトやライフスタイル・ストーリーをのせ、そのストーリーに見合ったリノベーションを施す。
それを「東京R不動産」というウェイブメディアで発信し、標準的なマンション生活では飽き足らずに個性的なライフスタイルを求めているユーザーとマッチングさせるのである。
東京R不動産は、一般論で言う「マイナス」の資源からきらりと光る「プラス」の部分を拾い出し、そのプラスを増幅するコンセプト・ワーク、デザイン・ワーク、ストーリー・テリングを一軒一軒丁寧に行うことによって、成熟社会に入った日本にふさわしいライフシーンを創造し始めている。』
『 マイナスをプラスに変える二人目の革新者は、真っ暗闇のソーシャルエンターテイメント事業を展開する志村真介さんと志村季世恵さん夫妻である。渋谷区外苑前の地下空間にある「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」。
照度ゼロ、純度100%の真っ暗闇の世界で、見知らぬ8人が一組となって中に入っていく。グループを先導し案内してくれるのは目の見えない方、つまり視覚障がい者である。
全員、白杖をついて暗闇の中に入っていく。中に入っている時間は一時間半くらいであろうか、暗闇の中でワークショップ的なことをやって見たり、ワインを飲みながら語り合ったりする。
それだけのことだが、入場料は五千円、大規模テーマパーク並といってよい。もちろん暗闇の中に、テーマパークのような大規模なアトラクション施設はない。
なのに、再訪希望率は95%を超え、友達に勧めたい人は98%にも達する。10年前にここで経験したことを覚えている人の割合も98%だという。一体、この空間の付加価値は何なのか?
ダイアログ・イン・ザ・ダークでは視覚が完全に奪われる。だが実は奪われるものは視覚だけではない。年齢も、地位・肩書も、見た目も、名前も関係ない世界なのだ。
現実世界でまとった鎧が全てはがされる。頼りになるのは声ぐらい。そうするとどうなるか?子供の頃の懐かしい気持ちになってくる。自分は無力だということをつくづく感じられる。
手をとって助けていただき、人の温かさを感じる。丁寧なコミュニケーションの重要性に気づかされる。見た目が無意味な世界で自分とは一体何者なのかということに思いを巡らせる。
最も驚いたのは、たった一時間半で見知らぬ8人が非常に仲良くなることである。同窓会が続いているグループも多いそうで、結婚したカップルまでいる。
普通、私たちは新しいサービスを創造しようとするとき、なにか「足し算」をしようとする。ところがダイアログ・イン・ザ・ダークは徹底的な「引き算」をやったのである。
視覚を奪い、地位や肩書を奪い、見た目を奪う。こうした引き算によってユーザーに新しい体験を与え、五千円支払っても惜しくない付加価値を生み出した。これがダイアログ・イン・ザ・ダークの革新性の一つである。
もう一つ革新的なのは、先導するアテンドに視覚障がい者を起用したことである。この人たちはどちらかというと「周りの人、社会の人たちに助けてもらいなさい」と言われることが多かった。
しかしこの空間では完全に立場が逆転し、健常者お助ける立場になる。彼ら、彼女らが頭の中におもっているマップや視覚以外の感覚の感受性は、私たちのものとは全く精度が違い、その能力に驚かされる。
つまりダイアログ・イン・ザ・ダークは、「弱者」と呼ばれてきた人たちを「強者」に変えるビジネスモデルを創り出したのだ。
障がいというマイナスをゼロに近づける親切を、私たちは「ノーマライゼイション」と言うが、ここでやっていることはゼロにすることではなく、プラスの方向へ大逆転させることである。
これこそソーシャル・イノベーションであり、革新者の真骨頂だと言える。このように日本に増え続けるマイナスをプラスに逆転することができたなら、この国はすごく面白い国になっていくに違いない。 』 (第182回)
182. 砂漠化防止への挑戦 (吉川賢著 1998年4月)
本書の副題には「緑の再生にかける夢」とあります。帯には以下のようにあります。
「 気まぐれな気象条件と脆弱な生態系。集中する土地利用と急増する人口。乾燥地は、土地が荒廃し植生が後退する「砂漠化」の危険に常に直面している。
こうした土地に樹木を植え、失われた緑を復元するのが砂漠緑化—砂漠化防止のための緑化である。不毛の砂漠を緑の平野に変えることはできない。
農業、牧畜、林業の可能性を拡大し、生活環境を改善する方策は何か。中国、中近東などで地域の人々と共に乾燥と戦う著者からの熱いレポート。」(帯より)
前回の北極の氷の問題と同時に、緑の地球の砂漠化は、現代文明の大きな課題です。私は緑の地球から、熱帯雨林、マングローブ林、サンゴ礁が大切だと考えます。
緑の地球を支えているのは、木の葉です。木の葉は、陽の光を葉緑体で、空気中の炭酸ガスと水から、デンプンを合成すると同時に葉の表面から水分を蒸発させ、日陰をつくることによって、土壌の劣化を防ぎます。
熱帯雨林もマングローブ林も、地球の生物多様性を支える大切なものです。
三つ目の珊瑚礁は、サンゴ虫と褐虫藻の共生によって、サンゴ虫は、褐虫藻から光合成産物、または自らの触手で動物プランクトンを捕食することで、栄養を摂取します。
褐虫藻はサンゴ虫の代謝産物である二酸化炭素やアンモニアを光合成の基質として利用します。サンゴ礁には、海の多様な生物がそこに集まって、海の生物多様性を実現してます。
褐虫藻は、サンゴ虫の体内で増殖しますが、その密度を褐虫藻を体外に放出することで、調整してます。海水温の上昇によって、サンゴの白化が進んでいます。
では、「まえがき」から、読んでいきましょう。
『 見渡す限りの「砂漠」と飢餓難民が立ちつくしている「砂漠化土地」とはまったく別のものである。雨も降らず、泉もないところでは農業生産は行われないのだから、そんなところで農民は暮らしていけない。
だから、飢餓難民も生まれない。人びとが離農し、都市へと流れていくのは、もともと農業生産が行えた土地が「砂漠化」したためである。
1994年に採択された国連の「砂漠化防止条約」では、砂漠化とは「乾燥、半乾燥および乾燥性半湿潤地域において、気候変動(干ばつなど)や人間活動を含むさまざまな要因によって起こる土地の劣化である」と定義されている。
つまり、砂漠化は乾燥した気候の元で、生態系がより不毛な状態へと変化していく過程である。具体的には乾燥地の森林がサバンナに、サバンナがステップに、ステップが砂漠に変わっていくといった群系レベルでの植生の退行現象である。
一方、砂漠というのは、強い日差しと水不足のために植物が生育できず、生命活動が極端に制限されている荒廃地である。砂漠はすでに砂漠であり、砂漠化はしない。
砂漠化はあくまでも砂漠でない土地が砂漠に似た状態に変化していくことである。そこで、土地が荒廃し、植生が徐々に貧弱なものへと変化していくのを防ぎ、できればもとの状態に戻すための方策を考えるのが「砂漠化防止」である。
ふつう、砂漠化とか砂漠化防止という言葉はあまり誤解も抵抗もなく受け入れられるのだが、砂漠化防止の有力な手段として「緑化」という言葉が出てくると、とたんに話がややこしくなる。
砂漠化防止のための緑化を、日本では「砂漠緑化」と呼ぶことがその大きな原因である。「砂漠緑化」についての一般の理解としては、サハラ砂漠のような不毛な砂漠を緑の平原に変えて、人類が直面する食糧問題や地球温暖化問題の解決をめざすものというようなことになる。
砂漠防止と離れて、砂漠の緑化が一人歩きしてしまっている。そのため不毛な大地と戦う砂漠緑化が人類のロマンのように謳われ、人びとの関心をあおっている。
しかし、環境条件が生命活動を許さないような土地を、いったいどうすれば緑の大地に変えられるのだろうか。巨大な人工池をつくって雨を降らせようというようなことも言われているが、そうしたアイデアのほとんどは費用対効果を無視したものである。
しかも、水面があれば雨が降るというような単純な発想によっている。水面があれば雨が降るのであれば、なぜ、遠洋航海の船が飲料水を積んでいかなければならないのだろう。
そこで、そのうちの中国・内蒙古自治区の毛烏素(ムウス)砂漠での調査を縦軸にして、各地の乾燥地の現状を織り交ぜながら、乾燥地とはどのようなところで、そこにはどんな暮らしがあるのかを紹介したい。
著者も、はじめは月の砂漠と「アラビアのローレンス」に惹かれて砂漠緑化研究を始めたので、砂漠化に直面した人びとの暮らしなどまったく眼中になかった。
しかし、いざ実際に乾燥地へ行ってみれば、そこには天水農業を営む農民から遊牧民までが暮らしている。
砂漠の砂の上に坐って緑化を思えば、砂漠化防止が何をめざすのかはすぐに理解できるのだが、恋人同士が一つの傘に肩を寄せ合うこの日本では、砂漠緑化が別な意味に捉えられても致し方ない。
本書が、そうした恋人たちが、雨宿りをしながら、砂漠化の問題を考える一助になることを期待する。 』 (”まえがき”より)
『 天井知らずに増えていく人口を養うためには食料増産が至上命令であり、実際、今世紀半ばとくらべると世界の穀物の生産量は三倍に増加したいる。
しかし、「人口増加が食糧増加を上回るところに、諸悪の根源が存在する」と説く古典的マルサス論の原理は、いまや開発途上国のいたるところで現実のものとなりつつある。
一方で、「人は一つの口に対して、二つの手を持って生まれてくる」と、生産者としての役割を強調し、勤勉さを求める反論が行われているが、それは耕すべき土地があればのはなしである。
ほとんどの開発途上国では土地は偏在し、一部の大土地所有者が大多数の貧農を支配している。しかもアフリカでは、植民地時代からの名残りで、商品作物の輸出が外貨収入の大部分を占める国が多く、伝統的な自給自足の農業が成立しにくくなっている。
たとえば、砂漠化が進んでまわりの樹木がほとんどなくなるとともに、村の若者が都市へ出てしまったセネガルの砂漠化地域の農村で、日本のボランティアが井戸を掘り、ユーカリを植え、砂漠化防止の活動を続けている。
しかし、すでにミレット(トウジンビエ)が主食ではなくなった彼らには、換金作物であり、セネガルの外貨収入の大半を占め、しかもそのために自分たちのまわりが砂漠化してしまったピーナッツの栽培以外に、作目に選択の余地は与えられてない。
換金作物の単作生産は市場価格の変動の影響を受けやすく、社会の経済的基盤を弱体化させるのだが、人びとは貧困のなかで環境を食いつぶしながら生きていかなければならない。
砂漠化の直接のきっかけとして干ばつが重要な役割を果たしているが、どの程度の水不足になったとき干ばつとするかを決めるのはむずかしい。また、干ばつは一年で終るとは限らず、その影響は累積されていく。
すでに見たように、乾燥地の雨は降り方にむらがあり、干ばつは普通の現象である。むしろ雨が不足している時期のほうが長いといえる。
たとえば、1960年代の後半から現在まで二十年以上、アフリカ大陸全般で慢性的な水不足が続いている。なかに湿潤な年があったとしても、当然すぐ次にまた干ばつがやってくることは昔からわかっていたことである。
降雨のパターンが変わったわけではないのに、それまでの局地的な被害から、最近は数十万人の餓死者を出すというように事態が深刻になっている。
これは湿潤なあいだに食糧を増産しようとして、耕地を無理に拡大したり、家畜の数を増やしすぎたりしたためである。
砂漠化は、アフリカ諸国など開発途上国の持続的な発展を阻害し、人びとの生存を脅かしつづけている最大の環境問題である。
まず植生が破壊され、土壌が浸食を受けると、これまでおとなしくしていた砂丘が移動をはじめるようになるし、地表面からの蒸発はいよいよおおきくなって、さらに乾燥化が進む。
砂漠化の進展で多くの生物がすみかを追われ、地域の生態系の多様性はいちじるしく低下する。そうした環境の劣化は農業生産に深刻な影響を与え、生産基盤が破壊された農村では営農意欲の低下と労働力の流出を招き、伝統的な地域社会は崩壊する。
干ばつによる飢餓難民に対する先進国からの食糧援助は、食料自給と砂漠化対策への自助努力を妨げ。かならずしも砂漠防止に有効にははたらいていないのが実情である。
したがって、開発途上国の砂漠化問題を、食料や機材の援助だけで解決しようとする対策は成功しない。一方、先進国でも砂漠化に対して十分な対応ができているわけではない。
アメリカでも、1930年代から半乾燥地の農地で土壌浸食が起こり、防止に多額の資金を投入してきたが、いまだに解決していない。
砂漠化の進展は地球環境とわれわれの生活にとって深刻な問題であるが、その解決のための方策はまだまだ不完全なものである。 』
『 砂漠化は深刻な地球の環境問題としていろいろなところで論じられているが、具体的な部分は飢餓難民の数や、被害地の面積などが中心である。
その原因にしても、干ばつや人口問題といった通り一遍の解説が加えられるだけで、環境面での解析、評価はごくたまにしか行われない。
同じ場所でも、雨季に見るのと乾季に見るのとでは環境劣化の評価はまったくちがったものになってしまうのだから、砂漠化の進展を把握するには、もとの自然景観を正確に把握したうえで、さらに変化の過程を見つけださなければならない。
地球環境の危機というのはやさしいが、それを映画を見るように具体的な形でとらえるのは難しい。現場からの報告と銘うっていても作為的なものが多く、むやみにセンセーショナルになっていたりする。
干ばつが砂漠化を進める大きな要因であることは間違いないが、乾燥地では干ばつはつきものである。
サヘル地等では大干ばつといわれるものはほぼ10年ごとに起こっているが、世界の耳目を集めた一九六八年の大干ばつまでは、その被害は限られたものであった。
自然生態系はある範囲の変動に対してはもとに戻る力をもっているから、その範囲内で環境資源を利用している限り、乾燥地農業は持続可能である。
干ばつの被害が大きくなったのは、土地利用の仕方がそれまでとちがってきたためである。人びとの土地へのはたらきかけの変化が、砂漠化を世界の環境問題のひとつとしたといえる。
一九七七年に国連砂漠化防止会議がまとめた報告によると、砂漠化の原因の一三%は異常気象によるものであるが、残りの八七%は人為によるものと推定されている。
砂漠化が人為的な要因によるものであることは二十世紀のはじめから指摘されてきており、特に、第二次世界大戦後の社会環境の大きな変化、すなわち人口増加とアフリカ諸国の定住化や開墾の促進政策が重要な要因として挙げられている。
ともすると干ばつ被害の大きさに目を奪われて、乾燥地農業そのものが砂漠化の原因のようにいわれることがある。
極端な場合には、焼き畑農業が熱帯雨林を破壊している元凶であり、これをやめさせることが地球環境保全のための第一ステップであるというような議論である。
だが、古くから人びとはそれぞれの土地で生活を営んできたのだから、焼き畑であろうと、遊牧であろうと、従来通りの方法で土地を利用している限り、そのやり方が環境を破壊しているというのはいいすぎである。
これまで起こらなかった環境破壊が起こったのは、新しくはじまった管理方法に問題があったためと考えるべきである。
環境条件の厳しいところでは行う乾燥地農業では、ある程度の土地の劣化は避けられないし、そうした影響は織り込み済みで土地は長年にわたって利用されてきたはずである。
しかし、人口が少ないあいだは破壊的でなかった農業でも、人が増え、生産を増やさなければならなくなってくると環境を破壊するようになることも事実である。
また、乾燥地は降雨の年変動が大きく、しかもその訪れが予測できないために、雨の多い年には耕作地をできるだけ広げて収穫を増やそうとする傾向がある。そうして広げた農地は干ばつになればひとたまりもない。
さらに、定住化の強制や開墾によって、伝統的な技術が新しいものに変わることで砂漠化が進む場合も多い。乾燥地での土地利用は、食うものと食われるもののあいだでの安定した関係継続と似ている。
ライオンはガゼルを食うが、競争するとガゼルが圧倒的に足が速い。自分より足の速い動物を餌にすることでライオンは草原の王者でいられるというのが、食うものと食われるものの間にあるパラドックス(逆説)である。
ライオンはどんなに空腹でも、年齢(とし)をとったり怪我をしたりして速く走れなくなったガゼルしか餌にできないので、ガゼルの群れの状態によってライオンの食糧事情が決まる。
そのため、ライオンは細々であってもガゼルといつまでもいっしょに暮らすことができる。しかし、ここへチーターのような早い足を持ったライオンが現れると事情が一変する。
ちょうど脆弱な環境の乾燥地に導入された耕作機械のようなもので、ライオンは思う存分餌を捕ることができるようになるが、その結果ガゼルが絶滅し、ライオンも飢え死にしてしまう。
乾燥地農業は腹の出たライオンがガゼルを追うように、土地を利用しなければならない宿命を負っている。
そのため、砂漠化防止対策は自然条件に合った適切な土地利用および土地管理を行うことであるといわれるが、しかしなぜそうできなっかたのかということを考えることが先決問題である。 』
『 干ばつのときに家畜が死ぬのは、水が足りないからではなく、ほとんどの場合、牧草地の草を食い尽くしてしまうからである。したがって牧畜にとっては牧草地の維持は重要な課題である。
しかし、牧草の量と家畜の頭数の増減のあいだには時間的な遅れが存在するため話がややこしくなる。
つまり、ウシもヒツジも年に一回しか仔を生まないので、雨がたくさん降って牧草が少なくなっても、すぐに家畜が飢えて死んでしまうことはないので、家畜の数は以前と変わらなくても相対的には過放牧になり、牧草地は劣化する。
そのため、ともすると土地や植生ではなく、家畜そのものが最終的な資産と考えられ、牧草地の維持に対する配慮が足りなくなる。ところで、人口が増えれば、家畜の数を増やさなければならないが、これまでの草地での摂食量を増やすと草原の裸地化が進む。
そのため過放牧にならないように牧草の量を増やそうとすれば、新しい牧草地を見つけるしかない。しかし、そうたやすく新しい未利用の牧草地があるわけがないので、いきおいそれまでの草地を過剰に利用するようになる。
そうした過放牧は地表の草だけに影響するのではなく、大きな樹木にも強く影響する。まず足元の土壌が劣化するために生育環境が悪くなり、活性が低下する。さらに大きな問題は、更新である。
木本植物の稚樹は草本植物のように毎年たくさん芽を出すわけでないので、芽が出たばかりの稚樹が餌になって食べられてしまうと、次世代の森林をつくるべき木が育たない。
更新が起こらなければ森林は遠からず崩壊する。このことを私はサウジアラビアのビャクシン林で経験した。私がビャクシンの調査のために林内にいた時、一人の民族衣装を着た老人に連れられて一群のヤギが突然現れ、津波のように通り過ぎていった。
あまりの速さに唖然として、カメラでその後ろ姿をとらえるのが精いっぱいだった。ヤギたちは林内を駆け抜けながら、林床の草やビャクシンの新芽、あるいはビャクシンの枝の上のサルオガセを食べていた。
林内放牧はこの速さが身上なのだろう。ゆっくりと歩くと一ヵ所での摂食圧が高くなるが、速いと広い範囲で摂食するのでその影響は少なくてすむ。
それでも調査をしているビャクシン林の林床にはほとんど草はなく、稚樹はまったく認めることができなかった、毛烏素(ムウス)の臭柏と同様、放牧による更新の阻害はビャクシン林の維持に重大な影響を与えている。
しかも、乾燥地林では、下層の植被の減少はそのまま砂漠化につながる大きな問題である。過放牧による植生の劣化、更新稚樹の消失だけではなく、群落を構成する植物の種類の変化としても現れる。
家畜は草なら何でも食べるのではなく、好き嫌いがあって選択的に食べるので、はじめにおいしい草や木がなくなり、食用にならない植物が残る。そのため、過放牧が続くと、草原の現存量は変わらなくても、養える家畜の数は減ってくる。
毛烏素(ムウス)の払子茅(ふつしぼう)の草原の現存量は200グラム/平方メートルしかないが、ヒツジはそれを食べて元気に太っていられる。
だが、丘間低地の植物はヒツジやヤギにつねに食われているので、草丈はなかなか大きくなれない。あまり強く食われて過放牧になると、払子茅が減って、代わりにガガイモ科の牛心朴子(ぎゅうしんぼくし)が優占するようになる。
現存量は350グラム/平方メートルに増えるのだが、これにはアルカロイド系の有毒物質が含まれるため、ヒツジたちは食わないので、牧草地としての価値はなくなってしまう。
牛心朴子群落の広がり具合が丘間低地での過放牧の指標となるほどである。過放牧だけが植生の発達を制限しているようなところは、禁牧にすると比較的簡単に植生がもとに戻る。
たとえば、毛烏素の東試験地は牧民から借り上げたうえで、囲い込んで種々の実験、調査をしていたので、試験地の外とくらべると、丘間低地の牧草の量は圧倒的に多かった。
そこで、センターの目を盗んで、とこどき牧民に連れられて、あるいは自主的に、ヒツジが入り込んできて、たらふく草を食べて帰っていった。
見たところ豊かな緑の広がる毛烏素でさえ、禁牧は簡単なことではない。いわんや、砂漠化の危険が迫っている牧草地でその利用を制限することは、やっと増やすことができた家畜の数を強制的に減らすことである。
過放牧を解決するために家畜の数を減らそうとしても、牧民は貴重な資産を失うのだから、容易なことではない。しかも、放牧の行われている土地は入会地のような利用形態がとられている場合がほとんどで、所有権がはっきりしない。
そのため、広い範囲にわたって侵入を阻止するための措置を実施する責任の所在が不明確で、住民に不満をいだかせる結果になるだけである。 』
砂漠化防止の挑戦は、人類の課題ではあるが、状況は年々難しくなり、塩害、地下水の過剰汲み上げ、農薬(除草剤)による土壌の劣化など、地球の包容力がなくなるとき、人類はイースター島を悲劇を繰り返すかもしれません。(第181回)
181. 北極がなくなる日 (ピーター・ワダムズ著 武藤崇恵訳 2017年11月)
A Farewell to ice [ A Report from the Arctic ] by Peter Wadhams CopyrightⒸ2016
著者は、1948年生まれ、21歳のときから、一貫して北極海と海氷テーマとして、ケンブリッジ大学スコット極地研究所で研究してきた。
北極の海氷は、毎年減少し続けて、2030年代の夏には、北極の海氷は消えると考えらせます。(現在の減少速度でいくと) まず、キリマンジャロの氷河が消えました。
アンデス山脈の氷河は、後退し、アルプスの氷河が後退し、ヒマラヤの夏の雪は雨に変わり、氷河は後退しています。つぎにグリーンランドの氷河が融け始め、海水の水位が上昇しています。
今、読んでいる「地下水は語る」守田優著によると、今世紀になって、地球の貴重な資源である地下水をくみ上げすぎて、世界中で地盤沈下をまねいています。
世界の都市は、扇状地にあり、地盤沈下が進んでいます。特にアジアの都市、東京、大阪、上海、天津、バンコック、ハノイ、ジャカルタなどで、地盤沈下が進行しています。
さらに、海水温の上昇により、台風やハリケーンが大型化し、高潮に災害が増加し、南洋の島々は、沈みつつあります。
地球の温暖化の最大の原因は、化石燃料(石油、石炭、天然ガス)の大量使用(人口の増加)による炭酸ガスの増大です。さらには、森林火災、泥炭火災、による炭酸ガスの増加による温室効果です。
二つ目は、本書でのべられている、北極のツンドラの永久凍土の解凍によるメタンガスの増大による温室効果です。
私の考えでは、三つ目の理由は、熱帯雨林の減少と消滅です。熱帯雨林は、五層にもなる森林によって、太陽光の多くの部分を葉の光合成によって、CO₂と水(H₂O)と太陽光によって、酸素(O₂)とデンプンを生成します。
それと同時に、葉から多量の水分を蒸発させます。この水蒸気が上空で冷やされ、スコールとなって、熱帯雨林に大量の雨を降らせます。
熱帯雨林は、赤道直下の地域の冷房装置として働いています。北極の海氷が消えると、北極の「アルベド(albedo)(反射能)が、60%から、10%に減少します。
北極の海氷が消えると、地球規模の熱塩循環(海洋大循環=グレート・オーシャン・コンベアベルト(千年の旅))が、止まることです。
海洋大循環は、グリーランド沖と南極沖で発生する海氷を生成するとき、残った塩分の濃い重い海水が深海に沈むことを起動力としてます。深海を巡回して、マダガスカル沖とベーリング海で、海表面に出ます。
この二つの海域は、栄養豊富な深海水を伴いますので、豊かな漁場を形成します。
本書でも、この地球の危機に私たちは、何をすべきかを述べていますが、私のあまり効果は期待できませが、省エネと木を植えることを実行します。
私が考える夢のプランは、コストの計算はしていませんが、サハラ砂漠の近くの深海水をくみ上げ、池を作りサケの養殖後、砂漠に蒔いて、塩をつくり、水蒸気を近くの山(なければ作る)導き、雨を降らせて、その雨を利用して、砂漠で温室(日差しをやわらげ)を作り果樹を育てるというプランです。
しかしながら、人類は緑の地球のキャパシティー(包容力)を超えて、元に戻れないところに私たちは、来ているように感じます。 では、本書を読んでいきましょう。
『 わたしが極地の研究をはじめたのは1970年だった。キャリアのほとんどの期間ケンブリッジ大学スコット極地研究所に所属し、後年は所長を務めるという栄誉に恵まれたのは幸運だった。
ロバート・ファルコン・スコット船長の名を冠したこの研究所は、極地研究者にとっては安全な港であり、あらゆる分野の極地研究者との出会いの場でもある。
多くの研究者たちは、所属する研究機関を離れ、この比類なき研究所へ集まって研究を進めているのだ。1970年から80年代にかけて、わたしは毎年極地(たいていは北極)を訪れており、ときには複数回におよぶ年もあった。
そしてヨーロッパ、米国、ロシア、日本の研究者同様、海氷を理解するため、増大、減少、移動といった物理的変化を観測した。
氷のフィールド調査は困難であるだけでなく、危険をともなうこともめずらしくはないが、当時は我々の調査対象である北極海に、目に見える変化が訪れることはないと考える研究者が大多数を占めていた。そもそも北極が変化すると予想することすら難しかったのだ。しかし、実際は変化していた。
1976年と1987年におこなわれた潜水艦での遠征調査の計測結果を比較し,氷の厚さが平均して15パーセント減少している明確な証拠を初めて入手したひとりになれたのは幸運だった。
その調査結果は1990年のネイチャー誌で発表している。それに衝撃を受けて、それから10年徹底的な調査を行ったところ、氷が薄くなったのが事実であるばかりか、1970年代と比較すると、実に40パーセント以上薄くなったことが明らかになった。
劇的な変化が起こっているのは間違いなかった。極地研究者たちは特化された研究対象から顔を上げ、より大きな問題を考察しはじめた。彼らはすでに気候変動の専門家となっていた。地球上でいちばん急速かつ激烈な変化が起こるのは極地なので、必然的に気候変動のパイオニアとなるのだ。
わたしが北極海への興味に目覚めたのは、1970年の夏カナダの海洋調査船〈ハドソン〉号で初めて極地を訪れたときだった。
これは〈ハドソン〉号初の南北アメリカ大陸周航で、1969年の冷え込む秋にカナダのノヴァスコシアを出発し、南極半島、南極海、チリのフィヨルド海岸を通過、広大なる太平洋へと航海を進めた。
そしてこれまで成功した船はたった9隻だけの、北西航路という難関に挑んだ。〈ハドソン〉号は耐氷船で、そうでなければ航海は不可能だった。
アラスカの北海岸からノースウエスト準州、北極海にかけては、陸地近くまで海氷が迫っていて、調査をおこなうことができる開水域はわずか数海里にすぎない。
ときおり氷が海岸線まで達していることもあり、その場合は重くて分厚い多年氷を粉砕して進まなければならなかった。結局、北西航路の半ばまで来たところで、我々は頼もしい砕氷船〈ジョン・A・マクドナルド〉号に救出されることとなった。
当時、カナダ北方の北極海では、海氷との闘いは普通の出来事とされていた。そもそも北西航路の横断航海に初めて成功したのはアムンゼンだが、1903年から1906年と3年の歳月が必要だった。
つぎに成功したのは王立カナダ騎馬警察のスクーナー〈セント・ロック〉号で。1942年から1944年と2シーズンを要した。
現在では、夏にベーリング海峡から北極海に向かう船は、広大な大海原を目にすることだろう。その青い海ははるか北へとつながっているが、北極点の直前で行く手を阻まれる。
だが本書が出版されるころには—―多くの人が予想しているとおり―—長い歴史において初めて氷に覆われてない北極が出現するかもしれない。北西航路の横断もずいぶんと容易になり、2015年には合計238隻の船が通航した。
1970年代には800万平方キロメートルにわたって広がっていた北極海の海氷が、2012年の9月にはわずか340万平方キロメートルへと減少した。この地球の変化の意味を、誇張して伝えるのは難しい。
我々の地球はすでに色が変わっている。アポロ8号の宇宙飛行士が撮影した、黒い宇宙を背景に、月の地平線からのぼる青い球体の優美な姿を初めて目にしたときの感激は、だれもが鮮明に記憶しているだろう。
あれは生命を包含している美しさだった。そして球体の両端は純白だった。現在、北半球が夏の季節だと、宇宙から地球のてっぺんは白ではなく青に見える。かっては一面氷で覆われていた場所を、人類は大海原へと変えてしまったのだ。
人類は初めて地球の外観を大きく変化させた。もちろん意図した結果ではないが、これはおそらく破滅的な結果へとつながっていくだろう。事態は一見して与える印象よりもさらに悪化している。
ソナーの測定結果によると、1976年と1999年では氷の厚さの平均値が43パーセントも低下した。そしてこの数値はべつの事実を示唆している。かって北極圏では、形成されてから複数年を経た「多年氷」と呼ばれる氷が主流だった。
ごつごつとした堂々たる外観で、高圧的に探検隊の行く手を阻む巨大な隆起を持ち、海中では50メートル以上もの突起が飛びだしていた。しかしここ10年の環境の変化で、こうした氷のほとんどは北極海の外へ流されるようになった。
かわりに現れたのが一年氷だ。ひと冬のあいだに形成された氷なので、厚さは最大でも1.5メートルしかなく、のっぺりとした氷にわずかにいくつか低い隆起が見られるだけだ。
ひと冬で形成された薄い氷は、現在の高い気温と水温の上昇では、ひと夏のあいだに跡形もなく融けてしまう可能性が高い。
そのうち北極海の至るところで、冬期に形成される氷よりも夏期に融解する氷のほうが多くなり、夏期の海氷は姿を消すだろう。英国の気象学者マーク・セレズが命名したところの、”北極海の死のスパイラル”をたどっていくのだ。
ごく近い将来、北極海は存在しない9月を迎えることだろう。そしてそれから数年のうちに、氷の存在しない時期は年に4,5ヵ月となるはずだ。
北極海の夏期に氷が存在しないというのは大変な意味を持つ。壊滅的な影響がふたつ出ることは間違いない。
第一に、夏の北極海から氷が姿を消したら、「アルベド」――太陽の入射エネルギーが宇宙へ反射される率――が現状の60パーセントから10パーセントへ低下し、今後の北極海および地球全体の温暖化を加速することは必至だ。
400万平方キロメートルの氷が消滅することでアルベドが変化すれば、ここ四半世紀の二酸化炭素排出による温暖化と同等の効果を地球にもたらすだろう。
第二に、夏期の海氷の崩壊により、地球にとって不可欠な北極海の空気調節機能が失われてしまう。これまでは夏でも氷に覆われていたため、以前よりも薄くなろうとも、海面水温が零度以上に上がる懸念はなかった。
温かい海水が流れてきた場合も、海面の氷を融かすことで熱を失うからだ。海面の氷がなくなれば、夏期は海面水温が数度上昇し(人工衛星の観測によるとすでに7度を記録している)、水深の浅い大陸棚では風の影響で温かい海水が海底まで達するだろう。
それにより沿岸永久凍土の融解が進み、最終氷期からずっと凍結していた海底の堆積物に固着するメタンハイドレートの分解を引き起こし、その結果、大量のメタンガスが噴出するだろう。
メタンガスは二酸化炭素の23倍もの温室効果を有する。ロシアと米国が毎年おこなっている東シベリア海での調査では、すでに海底のメタンガスの噴出が確認した。
またべつの調査では、ラプテフ海およびカラ海でもメタンガス噴出を確認した。こうした噴出によって大気中の温室効果ガス濃度が上昇すると、地球温暖化に拍車がかかるだろう。
本書を執筆することを決心した理由は、こうした劇的な変化を伝え、北極海の氷が減少する過程とその原因は、、世界の遠いどこかで起こっている興味深い変化などではなく、我々人類にとって脅威なのだと警告するためである。
わたしは科学者として研究を始めた21歳のときから、一貫して北極海と海氷をテーマとしてきた。こうした地球の変化は、魅惑的な風景に個人的に別れを告げるときが来たと知らせているのだろうか。
なによりも強く感じるのは、地球が本来持つ力が低下していることと、人類は事実上の滅亡を迎えるしか道はないということだ。
我々人類の強欲さと愚かさが、これまで極端な気候変動から人類を保護してきた北極海の美しい海氷を奪い去ったのだ。破滅を避けたいのであれば、いますぐに行動を起こす必要がある。 』(はじめに――青い北極海)より
上記の第1章 はじめに――青い北極海から、第2章 水、驚異の結晶、第3章 地球の氷の歴史、第4章 現代の氷期のサイクル、第5章 温室効果、第6章 海氷融解がまた始まった、第7章 北極海の未来――死のスパイラル、第8章 北極のフィードバック促進効果、
第9章 北極のメタンガス—―現在進行中の大惨事、第10章 異様な気象、第11章 チムニーの知られざる性質、第12章 南極では何が起こっているのか、第13章 地球の現状、第14章 戦闘準備だ と続きます。
はじめにでほぼ言い尽くされていて、これを防ぐ、素晴らしい方法は、現在のところありません。(第180回)
180. なぜジョブズは、黒いタートルネックしか着なかったか? (ひすいこうたろう+滝本洋平著 2016年11月)
本書はスティーブ・ジョブズについての本ではありません。これは注目を集めるための題名です。本当のタイトルは、「真の幸せを生きるためのマイルール28」です。
28人のマイルールを(直接インタビューしているわけではありませんが)を紹介した本です。そのうちから数名を紹介していきます。では、読んでいきましょう。
『 あなたはなんのために働いているのでしょうか? お金のためでしょうか、生活のためでしょうか。アップル(Apple)の創業者、スティーブ・ジョブズ。彼は、お金のために仕事をしていたわけではありません。
だから、一度離れていたアップルに復帰を果たしたとき、彼が会社に要求した年俸は、1ドルでした。では、ジョブズはなんのために働いていたのか? それは、「世界に衝撃をあたえるため」です。
最初の「マッキントッシュ」というパソコンが完成したとき、ジョブズはペンを取り出し、チームメンバーにサインを書くように求めました。46名のそのサインは、すべてのマッキントッシュの内側に彫り込まれました。
ジョブズの思いは「アーティストは作品に署名を入れるんだ」ジョブズにとって仕事とは、お金を稼ぐ手段ではありませんでした。仕事とは、チームのメンバーとともに「世界に衝撃を与えること」
そのために生み出したものは、彼にとって、すべて「作品」だったのです。パソコンの内部にある部品が取り付けられた基盤は、外からはみえない。しかし、目に見えないところにまで、基盤の美しさを求めたジョブズ。
「中を見る者などいないから意味がない」と、ジョブズに反論したエンジニアもいましたが、ジョブズの答えはこうでした。「できるかぎり美しくあってほしい。箱の中に入っていても、だ」
世界に衝撃を与えることが生きる目的だったジョブズは、こうも言ってます。「私はアップルの経営をうまくやるために仕事をしているわけではない。最高のコンピューターをつくるために仕事をしているのだ」
最高のコンピューターをつくることこそ、ジョブズの人生の「最優先事項」(トップ・プライオリティ)でした。そのために、ジョブズは、毎日、黒いタートルナックを着ていたんです。
毎日、黒いタートルネックに、リーバイスのジーンズ、ニューバランスのスニーカー。もう、毎日その格好です。なぜなら、彼の生きる目的は、「世界に衝撃を与えること」だから。
そのために、ジョブズは、人生から、「服装を考える時間」を削除したのです。そんな時間があるなら、世界に衝撃を与えることに回す、というわけです。
ジョブズには、決めなければならない大切なことが山ほどありました。その時間を生み出すために、自分にとってそれほど重要ではないものを省いていったのです。
自分にとって、何が一番大切なのかがみえていれば、何がなくてもいいのかはすぐにわかります。ジョブズは言います。
「何をやっているか、ということだけでなく、何をやらないか、ということにも、僕は誇りを持っている」。「何をしないのかを決めるのは、何をするのかを決めるのと同じくらい大事だ」と。
実は、ジョブズが毎日着ていた黒いタートルネックは、日本のブランド「ISSEY MIYAKE」でした。
ジョブズの体のサイズを細部にわたりはかって、肩や両腕の長さの調整を施したスペシャルオーダー、最初のオーダー数は50枚とも100枚とも言われていますから、毎日、黒いタートルナックを着ていたと言っても、同じものをたくさん持っていたわけです。
一番大事にしたいものを一番大事にできたら、人生から「後悔」という文字は消え去ります。アメリカのディーパック・チョプラ医学博士によると、人は一日に6万回もアレコレぼんやりと考え事をしているそう。
その証拠に今から1分、何も考えないでみてください。はい、もう、その間にアレコレ考えていましたよね?僕らは無意識に1日6万回も、過去を悔やみ、未来をアレコレ心配しているのです。
しかもその9割は昨日と同じことだそうです、凡人と天才の違いは、実はここにあるのです。天才は、自分がどう生きたいのか、何を最優先課題(トップ・プライオリティ)としていきたいのかが明確に決まっているのです。
だから、いつも、そこに意識の焦点を合わせることができる。こう考えてみて下さい。僕らは、一日6万本の意識の矢を持っていると。凡人はその6万本の意識の矢をどうでもいいところに放っている。
一方、天才と言われている人たちは、その6万本の矢の多くを、自分が目指す場所へ放っている。その違いだけなのです。では問います。「あなたにとって、真の幸せとはなんでしょう?」
もし、この問いにすぐに答えられないとしたら、一度、人生をしっかり見つめ直す必要があります。行き先を決めないことには電車のチケットすら買えないのです。ならば行きたいところに行けるはずがない。
「流れ星に願い事を言うと叶う」と言われているのは、その一瞬に願い事を言えるほど、願いがいつも意識の真ん中にあるからです。あります。ルールがあれば、決して迷わないのです。
この本は「一流の人」「すごい人」「面白い人」たちの「美学=マイルール」をまとめた本です。人生の達人たちのマイルールを参考にして、自分の真の幸せを見出してください。
それを実現するために、あなたは何を最優先事項にして生きればいいのかを、この機会にぜひ見つめ直してほしいと思うのです。 (まえがき ジョブズに学ぶマイルール)より 』
『 のぶみさんは、現在まだ30代ながら、170冊以上の絵本を出版し、2015年に発売になった「ママがおばけになっちゃった!」は年間一番売れた絵本になった。
その続編「さよなら ママがおばけになっちゃった!」は初版12万部という、絵本として日本一の初版部数を記録し、シリーズ累計53万部を突破。作品は世界中で翻訳されています。
のぶみさんの夢は、自分の生み出す作品やキャラクターで、世界中の子どもたちを笑顔にすること。それがのぶみさんが人生をかけてやりたいことであり、のぶみさんの幸せです。
そのためには最高の作品を仕上げる必要があるわけですが、その方法論が、「試行錯誤の数」なのです。「絵本を一冊つくるのに1000人に読み聞かせする」というのです。
日本一の絵本をつくることは誰にもできるわけではありません。でも、日本一試行錯誤することなら、情熱さえあれば誰にでもできます。
のぶみさんと僕(ひすい)でやらせてもらっているポットキャストのラジオ番組「ラブナチュ(ラブ&ナチュラル)」でも、収録後に、つくり途中の絵本のラフを何度も読み聞かせして、意見を聞いて、すぐに作品の手直しをしています。
一冊つくるのに、何回も読み聞かせて、何百回も手直しするわけです。
「人生はワンチャンス!」「夢をかなえるゾウ」など、ベストセラーを連発する作家・水野敬也さんも、作品タイトルは1000案考えると講演でおしゃっていました。
この話を聞いて、「水野にできて(呼び捨て、勝手にライバル視)、俺にできないわけがない」と、やってみたことがあるんです。しかし、300案出すのがやっとでした。その本は10万部売れてベストセラーになったんです。水野さんの200万部には遠く及びませんでしたが。
ちなみに300案出し、10万部売れた僕の本のタイトルは、「心にズドン!と響く「運命」の言葉」。実はこのタイトル、300案出したにもかかわらず、どれも採用にならず、最終的に編集者さんがつけてくれたタイトルです(笑)。
ちなみに水野さんも1000案出したけど、「夢をかなえるゾウ」というのは編集者さんがひらめいたタイトルだそうです(笑)。
本気になれば、自分からいいアイデアが出なくても、まわりが応えてくれるってことです。 』(日本一の絵本作家のぶみ)
『 「夢はにげない。逃げるのはいつも自分だ」「大人がマジで遊べば、それが仕事になる」「七転び八起」なんて甘い。「億転び兆起き」ぐらいのテンションでいこう」「未来のために、今を耐えるのではなく、未来のために、今を楽しく生きるのだ」
そんな、数々の名言を持ち、著作累計200万部を超えるベストセラー作家であり、自由人と呼ばれている男・高橋歩(あゆむ)さん。まずは、自由すぎる彼の経歴から見ていただきましょう。
歩さんは20歳のときに大学を中退し、仲間4人、借金だらけでアメリカンバーを開店。2年で24店舗に広げるものの23歳で経営権をすべて手放し、今度は自分の自伝を出すために、無一文&未経験で出版社を設立。
一時は3千万円の借金を抱えますが、その後、大逆転。自伝「毎日が冒険」をはじめ数々のベストセラーを世に送り出しました。そして、26歳で彼女と結婚。
経営していた出版社を仲間に譲り、再びすべての肩書をリセットし、奥さんと2人で世界一周の旅に出たのです。約2年にわたり世界中を放浪し、帰国後は沖縄に移住。
カフェバー&海辺の宿を開店させ、さらに自給自足のアートビレッジを創りあげました。その後、結婚十周年を記念し、2010年からは、家族4人で世界一周の旅に出発。
同時に東京とニューヨーク・パリ・インド・ジャマイカなど世界中にレストランバーやゲストハウス、フリースクールを次々と展開。
そして4年にわたる家族での世界一周旅行を終えた彼は、今度は、ハワイ・ビッグアイランドへ拠点を移し、新たな夢に向かって歩み始めています。
「自分らしさなんて、どうでもいい。等身大でも、そうじゃなくてもいい。「自分」は、探さなくても、今、ここにいる」「ただ、自分の心の声に正直に」
自分の心の声に正直に、夢と冒険に生きる男。どうやったらそんな自由な人間ができ上がるのでしょうか。その秘密は、彼を育てたお母さんのマイルールにあったのです。
「今日はなんかいいことあった?」毎日、子どもたちに問いかけるのが、歩さんのお母さんのマイルールでした。母さんは、毎晩、家族で食卓を囲むときに、「あゆむ、今日はなんかいいことあった?」と必ず聞いたそうです。
それに答えたくて、歩少年は、毎日「なんかいいこと、楽しいことないかな~?」と探していたそう。
あんまり、いいことがなかった日は、帰り道に、「やべぇ。今日はなんもいいことしてねぇ。道ばたに、おじいちゃんでも倒れていないか」なんて、本気で思っていたそうです(笑)。
そんなふうに育った歩少年は、「なんかいいこと」を自らつくり出す人になっていくのです。その幼少期から磨き続けたワクワクセンサーを全開にして。
「Believe Your トリハダ。鳥肌は、嘘をつかない」そう信じて。長年一緒に仕事をしている歩さんに、僕(滝本洋平)はひとつの質問を投げかけてみました。
「今の夢は何?」「世界は広いし、楽しいこともいっぱいあるけど、俺の人生最大の夢、それは、すごくシンプルだよ。「妻であるさやかにとってのヒーローであり続けること」。それだけだね」 』(自由人 高橋歩)
『 詩人、寺山修司はこう言っています。できないだろう」「どんな鳥だって創造力より高く飛ぶことはできないだろう」そう、人間に与えられた能力の中で一番素晴らしいものは、創造力と言っていいのではないでしょうか。
では、その想像力をどのように引き出すか? 小説「若きウェルテルの悩み」や詩劇「ファウスト」など多くの作品を残したドイツの文豪ゲーテ。
18歳でゲーテを出産した若き陽気な母、カタリーナは、どうしたら、子どもの創造力を引き出すことができるか考えていました。
ある時、ひらめきます。カタリーナは、幼い頃のゲーテに毎晩のように物語を読み聞かせをしていたそうですが、そこに工夫を施したのです。
物語を聞いている少年ゲーテくん。お気に入りの登場人物の運命が気に入らないと、顔を真っ赤にして怒り、涙をこらえるほどだったと言いますから、ゲーテくんはよほど物語に没頭していたことがわかります。
そして、いよいよ物語の結末。「えーーー。一体どうなるの!?」と少年ゲーテくんがワクワクと目を輝かせるそのときに、ゲーテママはこう言ってみたのです。「では続きはまた明日!」
なんと、ゲーテママはラストの気になるところで、寸止めしたのです。「え!!!!!! その先を聞かせて!」と、どんなにゲーテくんが頼んでもゲーテママは続きを読んでくれません。
そうすることによって、その物語の続きをゲーテに「想像」させるようにしたのです。その想像がきっかけとなり、ゲーテは幼い頃から、自分で物語や詩といった作品を生み出していたそうです。
ゲーテママ、カタリーナ、作戦成功です。母カタリーナは、ゲーテにこんな話をしています。「この世界にはあまたの悦びがあるのです。その探し方に通じていさえすればいいので、そうすればきっと悦びが見つかります」
ゲーテママは、この世界は悦びに満ちたものであり、想像力さえあれば悦びはいくらでも見つかるものだと考えていたのです。だからこその寸止めルール。
子育てにおいて、ゲーテママが一番大事にしたかったものは相動力。寸止めルールはその想像力を解き放つ方法だったわけです。「偉大な語り手」と呼ばれた母カタリーナは、ゲーテの一番のファンであり一番の読者でした。
ゲーテは母に詩について相談したり、作品の感想を求めたりもしたそうです。ゲーテの感受性を刺激し、想像力を育てたのは、母親のちょっと変わった読みきかせの力だったのです。 』(文豪ゲーテの母)
『 映画界の巨匠、スピルバーグ監督。監督作品の全米生涯興行収入は2014年時点で42億ドルで、歴代一位を記録。「JAWS」「E.T.」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「ジュラシィック・パーク」など。
数々の作品でヒットを飛ばし続ける世界最高のヒットメーカーです。とはいえ、映画の現場では様々なトラブルが押し寄せます。スピルバーグ監督は言います。
「映画監督は、予想外の問題を解決するのが仕事。最大の難関が最高にクリエイティブな解決策を生む。現場で何か問題が起こるのが楽しみ。それを乗り越える方法を編み出す」
普通、人は予想外の問題が起こることを嫌がります。しかし、その難関を乗り越えるアイデアを出すことこそが自分の仕事であり、楽しさであるとは、さすが世界最高のヒットメーカーです。
世界的ベストセラー「ハリー・ポッター」の映画化の際は、監督のオファーを断ったようです。なんでスピルバーグは断ったと思いますか? 理由は「ヒットが約束されているから」。
そんなスピルバーグ監督は、リハーサルをほとんど行わないことでも有名です。凄まじいまでの早撮りで、3時間近くある大作「プライベート・ライアン」も、二か月で撮影を終えたと言われています。
それほど早く撮れる秘密は、見せたいラストが決まっているから。スピルバーグ監督は、映画をつくる際ラストシーンから描く手法を好んでいるのです。
「最初からつくっていく」という積み上げるスタイルでは、途中で行き詰まったときに方向を見失う可能性もありますが、ラストシーンが決まっていれば、途中で迷ったりスランプに陥ったりしても、向かうべき方向がわかっています。
だから、打開策も見つけやすいのです。ちなみに、2003年の日本の興行収入第一位を記録した大ヒット映画「躍る大捜査 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!」も、脚本を書いた君塚良一さんは、レインボーブリッジが封鎖されているラストシーンを先に決めて、物語を書いていったそうです。
これは、人生に置き換えるならば、ほんとうは、どうしたいのか、どうなりたいのかというゴールを最初に描き、そこから逆算していくという生き方になります。
僕(ひすい)の知り合いで、事業に失敗し、1億円の借金を背負った方がいます。1億円をどう返せるか、皆目見当がつかずに気力がわかず、途方に暮れていた。あるとき、彼は目標の立て方が間違っていると気付いたのだとか。
「1億円をどう返すのか」。この目標では、ラストシーンが、一億円の借金がゼロになるだけです。マイナスがゼロになるラストシーンでは、全然テンションが上がらないことに気づいたのです。
借金を返し、なおかつ毎月300万円くらいの収入があって、家族で毎月1回1週間家族旅行をするようなライフスタイルを思い描いた。そのラストシーンを描いているうちに、ワクワクしてきて待ちきれずに、なんと借金返済の最中、1週間家族旅行に出かけてしまったのだとか(笑)。
すると、ほんとうに、こんな未来を生きたいと気力がふつふつ湧いてきて、そこから数年で、描いていた未来をほんとうに実現してしまったのです。 』(映画監督スティーブン・スピルバーグ)
『 現代の心理療法に大きな影響を与えた。天才精神科医ミルトン・エリクソンはこう言っています。
「その人が持っていないものを与えることが心理療法ではない。また、その人の歪んでいる部分を矯正することでもない。その人が持っているにもかかわらず、持っていないと思っているものを、どうやってその人自身が使えるようにしていくか。そこを援助するのが心理療法です」
ダメな人を直すのがカウンセリングではないと言うのです。その人がもともと持っていものを気づかせてあげて、それをちゃんとその人自身が使えるようにしていくのが、ほんとうのカンセリングであると。まさにそれをデザインの世界でやっている方がいます。
ユニクロ、楽天のクリエイティブディレクションや、ホンダのステップワゴン、キリンの極生・生黒の商品開発から広告キャンペーン、国立新美術館のシンボルマークデザインなど、幅広く手がける、日本を代表するアートディレクター、佐藤可士和(かしわ)さんです。
可士和さんは、子どもの頃から絵が好きで美術大学に進学し、卒業後大手広告代理店に入り、大阪に配属されました。その頃、アートディレクターというのはアーティストに近いポジションだと思っていたそうで、自分の「作品」をメディアや企業の広告枠に当てはめるものと考えていた。
そして、最新のコンピューターを使い、尖ったことを追求する作品づくりをしていてたところ、こんな社内の評判が聞こえてきたそうです。「カッコつけてて、カッコ悪い」可士和さんは、根本的に自分は間違っているかもしれない、と大きなショックを受けたと言います。
それから4年後、東京本社に転勤となった可士和さんに転機が訪れます。RV車広告のビッグプロジェクトに参加することになったのです。その車こそが「ホンダ・ステップワゴン」です。
この仕事で、師と呼べる人物、コピーライターの鈴木聡さんに出会います。鈴木さんは、広告打ち合わせの席で、広告の話を一切しないのだそうです。それよりも商品とそれを取り巻く時代について、毎回、延々と話し合う。
「なぜRVが受けるのか?」「家族の車ってなんなのか?」「今、家族はどうなっているのか?」 そんなことを話し合う打ち合わせは深夜まで及び、鈴木さんと可士和さんは、タクシーに同乗し帰宅。その車内で、毎晩、鈴木さんと語り合ったとか。
それはまるで広告学校のようだったと言います。そこで可士和さんは、広告の表現以前に、その商品の「本質をつかむ」ことの大切さを知ることになったのです。
それまでの可士和さんは、広告とは、何かを演出するものだと思っていた。しかしそうではなかったのです。大切なのは、本質に向かうこと。
「洋服を着せていくことではなく、裸にしていくこと。そのときにたったひとつ残ったものが、コンセプトである」そう学んだそうです。
かっこいいものを着せていくのではなく、逆に引いて行く。裸にしてゆく。すると、最後に引ききれないものが残ります。それが本質です。引いて、引いて、裸にして、本質をつかむ。これが可士和さんから学ぶルールです。
可士和さんは、自分の嗜好や、やりたいことは一度置いて、商品が持っている本質は何かと、商品とクライアントにどこまでも素直に向き合ってみよう、と考え方を180度変えたのです。
自我を捨てて、対象と向き合うことにしたわけです。そんなある日、同僚がこんなことを言いました。「家族と出かける日曜日が苦痛だ」楽しいはずの家族との外出、それが苦行になっているのはおかしい。そう考えた可士和さんは、ひらめきました。
「この車で、楽しい家族との時間を取り戻そう! 家族みんなでどこかへ出かけることは本当はとても幸せなこと。それがすごく素敵に見えるように表現しよう」そして、かの有名なキャッチコピーが生まれたのです。
”こどもといっしょにどこいこう。”
ワゴン車を性能うんぬんという切り口でかっこよく語るのではなく、ワゴン車とは何か? ワゴン車とは、家族で楽しい思い出をつくるものという本質から描いたのです。引いて、引いて、最後に残るもの、それが本質です。
結果、ステップワゴンの広告は、従来の自動車広告のイメージを覆す大胆なものとなり、大反響を巻き起こし、セールス的にもミニバンカテゴリーのトップに躍り出て、キャンペーンは7年間も続行されました。
「それまでは、邪念がいっぱいあった。賞が欲しいとか、カッコイイものをつくってデザイナーとして評価されたいとか。商品にとって正しい広告とは何かということが見えていなかった」
そこで気づいたのは、自分の中の答えをひねくり出すのではなく、答えは相手の中にあって、それを整理して伝えていく、ということ。それが可士和さんのスタイルとなったのです。可士和さんは、自らを医師にたとえています。
「たとえるならまさに、僕がドクターでクライアントが患者。漠然と問題をかかえつつも、どうしたらいいのかわからなくなって訪れるクライアントを問診して、症状の原因と回復に向けての方向性を探り出す。問題点を明確にすると同時に、磨き上げるべきポテンシャルを救い上げるのです」
医師が診察するように、クライアントと話しながら、問題点を見出していく。そしてその課題を解決するデザインを処方箋として提案するわけですが、そのアイデアの答えは必ず相手の中にあるのだそうです。
可士和さんのデザインは、まさに冒頭の精神科医エリクソンのカンセリングのようです。相手の中にある答え(本質)を、自分で使えるように引き出してあげるのです。(アートディレクター佐藤可士和) 』 (第179回)
179. 米中冷戦「日本4.0」が生き残る道 (エドワード・ルトワック著 文藝春秋2018年12号)
著者は、米戦略国際問題研究所顧問で、イスラエル軍、米軍などの現場経験と歴史的教養を持つ戦略家です。日本人の多くは私のように不安ではあるが、どのように日本の現状を分析し、どのような戦略があるのかまで考えが及ばないと思います。
私は、これを読んで、トランプ政権や北朝鮮や韓国の政権の行動が,以前に比べはるかに理解しやすくなりました。
では、読んでいきましょう。(なお、「日本4.0」とは、著者が勝手につけた名称です。内容は本文で説明されます)
『 日本の人々は、「個々の現場では強みを発揮できても大きな戦略を描くのは下手だ」という自己イメージを持っているようです。
しかし、私の目からすれば、日本人は柔軟でありながら体系的な思考も可能で、戦略下手どころか、極めて高度な戦略文化を持っています。
この国の四百年の歴史を振り返れば、まず戦乱の世が続いていたところで徳川家康という大戦略家が「江戸幕府」という世界で最も精妙な政治体制をつくりあげ、内戦を完璧に封じ込めました(「日本1.0」)。
続いて幕末期に西洋列強の脅威に直面した日本は、従来の「江戸システム」を捨て去り、見事に新しい「明治システム」を構築しました(「日本2.0」)。
そして1945年の敗戦後、日本はまた新しい「戦後システム」を構築しました(「日本3.0」)。このシステムの最大の特徴は、弱みを強みに変えた点にあります。
すなわち、米国が帝国陸・海軍の再建を禁じたわけですが、日本は「これからは軍事ではなく経済に資金を回そう」と、軽武装路線に転換し、世界でも有数の経済大国となったのです。
しかし、今、日本は、また新たなシステムを構築する必要に迫られています。激変する東アジア情勢に、もはや従来のシステムでは対応できません。
戦後システムの基盤であった「日米同盟」を有効に活用しつつも、自前で眼前の危機にすばやく実践的に対応できるシステムが必要です。私はそれを、江戸、明治、戦後に続く「日本4.0」と名付けたいと思います。
今後の日本が地政学的に直面する課題は二つあります。朝鮮半島と中国です。まず朝鮮半島問題から見ていきましょう。 』
『 「北朝鮮問題」は、「韓国」も含めた「朝鮮半島問題」として捉えなければなりません。中長期的に見て朝鮮半島が南北統一に向かう場合、次の四つのシナリオが考えられます。
① 非核化し、在韓米軍が存在する統一朝鮮 ② 非核化し、在韓米軍が撤退する統一朝鮮 ③ 核保有し、在韓米軍が存在する統一朝鮮 ④ 核保有し、在韓米軍が撤退する統一朝鮮
現状は、実質的に③に近い。北には「核」があり、南には「在韓米軍」が存在するからです。この「核」と「在韓米軍」がどうなるかで、今後の朝鮮半島は大きく変わってきます。
日本にとって最も望ましいのは、①「核なし、在韓米軍あり」のシナリオです。南北統一が進んでも、もし④「核あり、在韓米軍なし」なら、日本にとっては、現状=③の方がマシだと言えます。
(ちなみに韓国にとって非核化の優先度は低く、韓国には北の核を「我々の核」とみなす国民感情や「統一後の朝鮮半島に在韓米軍は不要」という考えが根強くあります)。
けれども日本にとってそれ以上に最悪なのは、②「核なし、在韓米軍なし」です。この場合、朝鮮半島が中国の勢力下に置かれてしまうのも時間の問題です。
北朝鮮の非核化がなされても、朝鮮半島から在韓米軍がいなくなる事態は、最も避けるべきシナリオです。この意味でも、現状=③は日本にとって悪くない状況と言えます。
実は、在韓米軍の撤退は北朝鮮も望んでいません。根強い対中不信があるからです。核なしで中国に対抗するには、朝鮮半島における米軍のプレゼンス(存在)が不可欠であると北朝鮮自身も気が付いています。
北朝鮮の核は、日本にとって最大の脅威です。しかし、「北朝鮮の中国に対する独立を保障するもの」、「中国朝鮮半島支配を阻止するもの」でもあるのです。
日本の人々には理解しがたいかもしれませんが、北朝鮮の核は、実は日本とってポジティブな面も持っているのです。中国が北朝鮮を支配できれば、韓国も容易にコントロールできます。
それは韓国の方が北朝鮮より親中的だからです。「核武装した北朝鮮」以上に「中国に支配された朝鮮半島」の方が日本にとって脅威です。
日本はこの点を冷静に認識しなければなりません。南北が融和に向かえば、中国は、朝鮮半島から米軍を追い出そうとするはずです。それに対して、おそらく北朝鮮は韓国に「在韓米軍を撤退させないでくれ」というでしょう。
ところが韓国は、「分断状態が終われば在韓米軍は不要だ」というでしょう。つまり、北朝鮮は「反中」で、韓国は「親中」というねじれが顕在化してきています。
さらにそこに介在するのが韓国の日本に対する非合理的な態度です。朝鮮半島が中国からの独立を保つには、米国と日本のプレゼンスが不可欠です。
現状でも有事に米軍が韓国を守るには、在日米軍基地のある日本の協力が不可欠なのに、韓国は、米韓合同演習の際に日本の自衛隊の幹部の参加も許さないのです。
いずれにせよ、現状=③は、最悪のシナリオ=②に比べれば、日本にとってはるかにマシです。ですから、日本はここで焦ってはいけません。「非核化」ばかりに拘って拙速に動けば、かえって今よりも状況を悪くする可能性があります。 』
『 今後の東アジア情勢を占う上でさらに決定的に重要なのは、トランプ政権の対中政策です。もともとトランプの最優先課題は対中政策で、これは選挙中から主張していたことです。
対中強硬姿勢を実際に打ち出すようになったのは、就任一年目以降ですが、トランプとしては、本来就任初日からやりたかった。しかし、それを二つの理由から控えたのです。
一つは、北朝鮮に対する経済制裁で、国連安保理の決議には中国の協力が必要だったからです。もう一つは、未来産業を育成する産業政策「中国製造2025」に関することで、トランプ政権としては容認できなかったのですが、当初は、これを諦めるよう習近平を説得できると見ていました。
二〇一七年四月の最初の米中首脳会談で課題となったのも、この二つでした。北朝鮮に対する経済制裁に関しては、中国は全面協力することになりました。
ところが、米朝首脳会談が開催され、米朝が直接交渉するようになると、中国の協力は不要になりました。知的財産権侵害に対する対中制裁が発表されたのも、米朝首脳会談の直後のことです。
中国側は、「北朝鮮問題で協力したのに、なぜ我々に攻撃を仕掛けてくるんだ」と怒っているわけですが、そもそもトランプは、当初から中国に対して強硬姿勢を打ち出すつもりだったのです。
すでに米中は、長期的な対立関係に入っています。かっての米ソのような新たな「冷戦」と言っても過言ではありません。米中冷戦がいつ終わるかは分かりませんが、中国の現政権が崩壊することによって終わることだけは確かです。
今後のシナリオを考えてみましょう。まず冷戦と言っても、米中が通常の戦争に突入することは考えられません。歴史を振り返れば、何らかの対立は最終的に戦争に発展するものですが、核兵器の登場以降は、全面的な武力衝突はあり得ない選択肢になっています。
中国に抵抗する周辺諸国が完全降伏することで冷戦が終焉するというシナリオも現実にはあり得ません。中国の現政権は、国内的には独裁体制を強め、対外的には強硬路線を採っています。
これに対し、マレーシア、インドネシアが降伏することはあり得るとしても、タイは中立的な立場を維持するでしょうし、ベトナムが屈服することは絶対にありえません。インド、オーストラリア、ニュージーランド、そして日本も同様です。
米国以外にも関与している国がこれだけ多く,すべての国が中国に完全に屈服することは考えられない以上、米中冷戦の結末は、中国の現政権が崩壊する以外のシナリオは考えられないのです。
米中の冷戦がいつまで続くかは分かりませんが、ただ米中冷戦のように五十年近くもかかることはないでしょう。当時と比べてテクノロジーの進化が速いからです。
トランプが就任当初に対中強硬策にふみきれなかったのは、国内事情も影響していました。まず対中政策に関して、当初、西海岸のハイテク企業を中心としたテクノロジーロビーが反対していました。
彼らは中国との経済関係を重視して、対中関係の悪化を望んでいなかったからです。ところが、そのテクノロジーロビーも、短期間のうちに反中になりました。
中国に先端技術を盗まれているとして知的財産の保護をトランプに要求し始めたからです。次に軍事ロビーです。トランプと軍部の間には、当初、戦略をめぐって大きな隔たりがありました。
軍部としては、イラクやアフガニスタンなど中東地域での米軍の展開を重要視していたのですが、トランプはこれを「金のムダ使い」としか思っていません。
中東などからは撤退して中国に集中すべしというのが、当初からのトランプの考えでした。トランプがマティス国防長官解任の可能性について否定しなかったのも、両者の間にこうした根本的な考えの違いがあるからです。 』
『 トランプの対中政策に関しては、「中国による死」「米中もし戦わば」の著者ピーター・ナヴァロの影響がしばしば指摘されますが、彼の影響以前に、トランプは100パーセント反中でした。
ナヴァロ以上に重要な人物を挙げるとすれば、ケビン・ハリントンです。彼はまだ若手ですが、とても頭のいい人物で国家安全保障会議で大きな影響力を持っています。
ホワイトハウスのすぐ横のビルにオフィスを構え、そこには安全保障担当の大統領補佐官であるボルトンを始めワシントンの有力者が日参し、意見を求めている。
トランプ政権では多くのスタッフが解雇されましたが、彼が解雇されることはまずありません。ハリントンの考えの中心にあるのは、テクノロジーに関して米国はナンバーワンの地位を維持しなければならないという信念です。
中国との長期的対立を解決するのに、武力に訴えるわけにはいきません。しかし、テクノロジーで圧倒的優位を保てば、この冷戦を終わらせることができます。
テクノロジーの優位性は、米国にとって最優先事項です。仮に米国が朝鮮半島問題での自国の利益を諦めることがあっても、テクノロジーの優位性を放棄することはあり得ません。
中国との貿易戦争においても、大豆や衣服や自動車は、テクノロジーに比べれば重要ではありません。次世代テクノロジーの覇者をめぐる戦いにこそ真の競争があるのです。
ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストは、トランプの対中強硬策を馬鹿にしていますが、かってレーガンが「スターウォーズ計画」を発表した際にも、「映画の人間だからこんなに非現実的で愚かなんだ」と揶揄しました。
しかし、この「スターウォーズ計画」こそ、米ソ冷戦の終結をもたらしたのです。ソ連は米国との技術的・経済的競争に付いていけず、結局、ソ連崩壊につながったからです。
当時、ソ連の参謀本部にはオガルコフ将軍という戦略家がいました。彼は「MTR」(軍事技術革命)の重要性にいち早く気づいて、「このままではテクノロジー面で米国に太刀打ちできない」と軍の改革を説きました。
しかし、技術改革には、その前提として経済システムの改革が必要です。だからこそ、改革派のゴルバチョフは軍の支援を得られたのです。米中冷戦も、テクノロジーをめぐる戦いが鍵を握っています。
十月十日、米司法省は、米航空宇宙企業の機密情報を盗もうとしたとして、中国国家安全部の高官を訴追したと発表しました。この高官が接触した中には、航空機エンジンを開発するGEアビエーションも含まれ、その先端技術は軍事分野に転用可能です。
この高官はベルギーで逮捕されましたが、中国の情報機関である国家安全部の職員が公判のために米国に移送されたのは初めてのことです。しかも、彼は情報機関の幹部で、米国にとっては価値のある人物です。
彼が知っているすべての中国スパイの名を白状するまで、彼を釈放することは絶対にないでしょう。テクノロジーロビーにしろ、軍事ロビーにしろ、いまや親中派は一掃され、米国は、民主党も含めて超党派で反中でまとまっています。
国内の反トランプ陣営から唯一批判されていないのが、トランプの反中政策なのです。ですから、米中の衝突は当面続くことになります。 』
『 日本にとって戦略的にもう一つ重要なのは、日露関係です。日本が真っ先に考えるべきは、人口が減少する一方のシベリアが、実質的に中国の勢力下に置かれる事態を避けることです。
シベリアが、ロシアのコントロール下にあり、中露の国境が維持されることが、安全保障上も、日本の国益につながるからです。そのためには日本からの投資が必要になります。
昨年九月のウラジオストックの東方経済フォーラムでプーチン大統領と立ち話をする機会がありました。彼はシベリアに関して「我々には大きなプロジェクトがある」と話していました。
シベリアへの投資は日本の国益にも適うことを、安倍首相はよく理解しています。中国への効果的な対抗策になり得るからです。トランプの対露政策も、中国との関連で見ればよく理解できます。
「中露の二国を同時に敵に回すことはできない」「中露の二国を接近させてはいけない」 この二つは、地政学の基礎中の基礎原則です。
米国にとって最も警戒すべきは中国である以上、中国との対決に集中するにはロシアとは何らかの合意を結ぶべきだというのが、トランプの戦略です。 』
『 では、日本は、こうした国際環境の中でどんな戦略(「日本4.0」)を描くべきでしょうか。日本にとって、今後も日米同盟が戦略の軸であることは変わりはないでしょう。
ただし、日米安保条約では、米国が日本を守ることになっているとは言っても、米国にできるのは、日本が全体として崩壊するような事態を防ぐことであって、七千近くもある日本の小さな島のすべてを守ることなどできません。
尖閣諸島にしても、まずは日本自身で守らなければなりません。日本はそうした自衛力を備える必要があります。同盟の維持には、時代に応じた変化が必要です。
日米同盟に関して言えば、日本が米国の弱いところを補う役割を果たしていくことがポイントとなります。例えば、米国との関係が希薄なラオスやミャンマーやマレーシアといった国々に対して、米国が政治的に行えることには限りがあります。
しかし、日本には長年にわたる友好関係や援助の実績がある。つまり日本には、米国にはできない役割を果たすことができるのです。こうした連携に、オーストラリア、インド、ベトナムが入ってくることも考えられます。
これは、「条約による同盟」というより「緩やかな連携」です。こうした国と国のパートナーシップは、今後大きな力を発揮していくでしょう。日本は、長期的にいかなる貢献ができるかをしっかり考えていく必要があります。
日本にできる役割としては、まずミリタリー・アシスタントが挙げられます。日本には、長年にわたるODAによる海外支援の実績がありますが、これをより戦略的観点に立って行うのです。いわば「戦略的ODA」です。
とくに道路は、地政学的に大きな意味を持っています。例えば、中国の「一帯一路」構想に対抗する形で、「インドとベトナムを結ぶルート」という大きな構想も考えられます。
その点、陸上自衛隊の施設科は、道路の整備・補修の高い技術を持っている。インドとベトナムを結ぶ道路建設に自衛隊が関与することになれば、日本は大きなミリタリー・プレゼンスを示すことができます。
しかし、これによって軍事的な紛争が生じるわけではありません。むしろ地域住民にとっては、かけがえのない贈り物になるはずです。東南アジア諸国の場合は、沿岸防衛への支援、具体的には沿岸警備艇や哨戒機を数多く必要としています。
南シナ海での日本の潜水艦による偵察活動も、その一つの例です。いずれは米英仏などとも協力して、「航行の自由」のためのオペレーションにも参加すべきでしょう。
ただ私が懸念するのは、防衛に関して時に柔軟性や実践性を欠いてしまう日本の組織文化やメンタリティーです。現在、日本は膨大な費用をかけて、地上配備型ミサイル迎撃システム「イージス・アショア」を導入しようとしてます。
これは一種のファンタジーです。北朝鮮のミサイルには、レーダー網を破れるような性能はありません。実際の脅威に対してあまりにも高度で複雑すぎるものを配備しようとしているのです。
しかも、十年にも及ぶ研究開発の計画を立てていますが、情報テクノロジーの技術革新のスピードがこれだけ速まっているなかで、現在構想したものが十年先も通用する保証はありません。
明日どう戦うかに備えるには、あまり完璧なものは不要です。まずはすでにある技術で実践的に対応することを考えるべきです。もしイージスシステムを陸上で用いるなら、イージス艦の装備をそのまま持ってくればいい。
現状としては、米中の長期的な対立関係がすでに生じています。これを終息するには、中国の現政権が崩壊するしか道はません。ということは、これに長期的に対応していくしかない。
この状況を前にして日本は、過度の心配をしたり、不安を煽る必要はありません。冷静に事態を見極め、長期的かつ戦略的に対応することが求められています。(奥山真司訳)』(第178回)
178. 読むだけで禅修行 (ネルケ無方著 2014年9月)
著者は、ドイツ人で、京都大学留学中に禅に出会い、現在、安泰寺住職です。私たちは、日本人ですが「禅とは何か」と問われて、答えられる人は、あまりいないと思います。では、読んで行きましょう。
『禅の考えでは、生活そのものが修行です。禅の実践はつまり、ただ生きること。一日二四時間のあいだ、修行ではない時間は一分もありません。
わたしが住職を務める安泰寺(あんたいじ)では、朝の三時四五分に起床して、四時から暁天(ぎようてん)座禅が始まります。しかしそれ以前に、顔を洗うことや布団をたたむことから、修行はすでに始まっています。
それから食事をいただくのも、掃除をするのも、日中の作業も当然、修行です。トイレに行くのも、お風呂に入るのも、また同じく修行とみなされています。そういう修行は禅寺でなければできない、ということでは、もちろんありません。
一般社会の中で普通の生活をしながらも、修行として一日を過ごすことはできるのです。そこでまず考えたいのが、「修行」という言葉の中身です。英語ではプラクティス(practice)と訳します。つまり、実践です。
何を実践しているかといえば、仏(ほとけ)の教えです。仏法に沿って、菩薩となって生きることがすなわち修行なのです。その具体的な方法を、一日一日の実践として示すことがこの本の狙いです。
わたしが繰り返し申し上げるキーワードの一つは、「自分を手放す」です。「手放す」というのは、ぼんやりすることではありません。そうではなく、「今ここ」に立ち返るために自分の囚われから自由になることです。
一日の時間を修行として送るにあたって、まず見返りを期待しないことが一番大事です。わたしたち人間は何かを追いかけて生きていることが常です。
それはお金だったり、他人の評判だったり、異性だったり、あるいは自己実現だったりします。あるいは「悟り」を求めて修行に臨んでいる人もいますが、それはしょせん鼻の前にぶら下がったニンジンでしかありません。
安泰寺の五代目住職・澤木興道老師(1880~1965)が「得は迷い、損は悟り」といわれたのは、そのためです。悟りを得ようと思っているあいだ、その悟りは遠くへ逃げてしまいます。
悟りも含め、一切を手放すことから修行が始まらなければなりません。それでは、手放すためにはどうしたらよいでしょうか。答えは簡単、「ただする」ことです。掃除のときはただ掃除をし、仕事の時はただ働く。
食事はただ食べ、トイレではただ用を足せばよい。しかしその「ただする」とは、「ただなんとなく」という意味では決してありません。今、この一瞬の命をただ生きることです。
実は、「ただ生きる」ことほど難しいことはありません。どうしても意味らしいもの、答えらしいものを求めてしまうからです。 』
『 安泰寺では、座禅を行なう禅堂の中に入るときは左足から、外に出るときは右足からと、昔から決まっています。「それはどういうワケがある? その逆ではダメなのか?」
住職のわたしにそういうふうに問いかけてくる参禅者も少なくありません。安泰寺には外国人の参禅者も多く、特にわたしのような理屈っぽいドイツ人などは、何にでも意味を求めたがります。
頭の中で納得して初めて行動しようとするのです。「左は陰で、右が陽。陰である内側に向かうときは左足、陽である外側に向かうときは右足……それが理由かなぁ」
しかし、ここで陰陽の哲学を知ったとしても、それこそ意味がありません。座禅するだけなら、右足から入っても左から出ても、あるいは、逆立ちで出入りしても、できるのですから。
参禅者にとって重要なのは、歩き方の意味などではなく、この一瞬、この場所で、前へ一歩踏み出したそのときの、自分自身の心です。つまり、「実際に歩いて見なければ、何も分からない」ということ。
それなのに理屈にこだわって、一歩一歩に集中できないとしたら……。なにも禅寺の境内にかぎった話ではありません。日常の街中でも同じです。昨日の出来事を引きずりながら歩いている人もいる。
明日に向かって頭の中で計画を練っている人もいる。あるいは、スマホの画面を見ながら歩いている人も。歩くこと以外のことに心を奪われています。
街を歩くときにかぎらず、毎日の暮らしのあらゆる場面で、やるべきことに集中できずに、何か別のことを考えている自分がいる。気がつけば、わたしたちは何かにとらわれて生きていることが、なんと多いことでしょうか。
そういうわたしたちに共通しているのは、「今ここ」をおろそかにしているということです。みぎ・ひだり、みぎ・ひだり……その一歩一歩に自分の心がこもっていなければ、人間はやがて立つ瀬を失ってしまいます。
思えば、わたしもそうでした。「人生の意味はなんだろう」 この疑問がふと頭に浮かんだとき、わたしはまだ小学生でした。人生の意味がわからなければ、生きていても仕方ないと思っていたものです。
そのときの状態を振り返れば、それはまるで深い穴の底で暮らしているようでした。わたしをその穴から救ったのは、禅との出会いでした。禅が提供してくれた答えを簡単にいうなら、こうです。「人生に意味なんて、ありゃしない。自分の思いを手放して、ただ生きることだ」
禅では「不立文字(ふりゅうもんじ)」といい、理屈を極端に嫌うフシがあります。だからといって、仏典を勉強する必要がないというのはウソです。また、禅僧がいつもじーっと黙っているわけでもありません。
「ああでもない、こうでもない」と理屈をこねる禅僧はわたし一人ではないのです。理屈では真実そのものを表すことはできませんが、真実の向かって指すことはできます。禅ではそれを「指月の法」(しげつのほう)といいます。
真実そのものは空に浮かぶ月のようなものです。言葉は、その月を指し示すユビでしかありません。しかしユビで指さなければ、月に気づかない人もいるでしょう。そのため、禅寺でも言葉を頼りに勉強するのです。
安泰寺では、五日間に一度「輪講」を開催します。輪講とは、参禅者の一人が当番制で仏典を読み、自らの生活に照らし合わせて解釈を述べる修行です。修行仲間はそれについて鋭い質問で突っ込んだり、異なる持論を述べたりもします。
わたしもその輪講に加わることがあります。弟子は師匠に横からにらまれながら真剣勝負をしているのです。安泰寺の参禅者には外国人が多いため、仏典を原文で読み上げた後に、まず英語に訳します。
漢文や鎌倉時代の古い日本語を英語にすることによって、日本人でも新たな意味が見えてくることがあります。それから言葉の内容を現代語と英語で説明し、全員でディスカッションをする。このときもさまざまな言葉が飛び交うことがあります。
一概には言えませんが、私の日本人の弟子の中にはおとなしい人が多いようです。「このテキストを、あなた自身はどういうふうによんでいるわけ?」とわたしが問うと、「どういうふうに読んでいるって、書いてあるとおりにしか読んでいないけど……」と答えるのが日本人のよくあるパターン。
その読み方にはつまり、自分の解釈がありません。これではダメです。一方で欧米人に多いのは、原文をそっちのけにした、わがまま勝手な解釈です。
それはそれで面白いときもありますが、ほとんどが幼稚な自己主張で終わってしまいます。それでは、仏典から学んだことにはなりません。 』
以上は”はじめに”の前半部分です。次に三十四ある仏教用語の項目の中から、三つを選んで読んでいきます。
『 身心脱落(しんじんだつらく)
仏教の眼目、それは解脱することです。解脱のことを、英語では、「liberation」(解放)と訳しています。つまり、束縛から解放されること、それが解脱なのです。
問題は解放にいたる道筋です。どうしたら、束縛から自由になれるのでしょうか。この問いに答える前に、まずわたしたちがどうして不自由を感じてしまうのか、その理由について考えてみまよう。
わたしたちが「なに不自由ない」というのは、好きなことができる、欲しいものが手に入る、物事が思うとおりになるといったときです。しかし、それは「自由」と「気まま」の履き違えではないでしょうか。
仏教では、「気まま」や「やりたい放題」を決して自由な生き方とは考えず、「欲しいまま」と呼んでいます。もっとも不自由なのは、欲しいままに生きている人です。
欲しいままに生きている本人は自由のつもりでも、実は自分の欲望の奴隷になっているのです。束縛は外的なものではありません。自由でありたいと願っていながら、自分を不自由にしているのは、わたしたちの心です。
縛られているのではなく、自分で自分を縛っているのです。「これが欲しい」「あれがしたい」という思い、それが束縛の正体なのです。
ですから、わたしたちをその束縛から解放させるのも、自分自身の働きでなければなりません。自分を縛っているその紐を一本また一本、自分で解いていかなければなりません。
一番分かりやすいのは、所有物に対する執着です。仏道の入り口とされているのは、「お布施」ですが、小さな寄付であっても世のために役に立つばかりではなく、まず何より自分の束縛の紐を一本解くことができます。
しかし、物ばかりの話ではありません。人間関係がギクシャクして、相手と意見が合わないときに、自分を無理に押し通そうとしてもうまくいくことはまずありません。相手もそう簡単には引かないからです。
むしろ自分が譲れば、相手も譲ろうというきもちになることが多いのではないでしょうか。そうすれば、結果的には自分も相手も自由になれるのです。
道元禅師はこの不思議なカラクリを「はなてばてにみてり」という言葉で表現しています。手放してこそ、手のひらの上で発見できるものがあるという意味です。
小さな額のお布施も、身近な人にかけた思いやりの言葉も、手放しの実践です。そういう些細な実践でも、仏道の実践にほかなりません。その実践を日々やり続ければ、いずれは解脱を実感することもあるでしょう。
道元禅師はその実感を「身心脱落」という言葉で表現しています。そして解脱の力は、その人だけにとどまりません。一人が自分を手放せば、その人と縁のできる人にも、「放てば手に満てり」という不思議な力が伝わります。 』
『 一日不作、一日不食(いちにちなさざれば、いちにちくらわず)
インド仏教では、修行僧が労働することは固く禁じられていました。田畑を耕せば、土の中のミミズを殺すこともあるでしょう。それは不殺生戒に触れます。また、作物に対する執着も湧いてきます。
ですからインドの修行僧は、あらゆる執着を捨て去る意味合いもあって、托鉢だけに頼っていました。タイやスリランカ比丘(びく:南方仏教のお坊さん)は、今日もその生活スタイルを守っています。比丘がクワやスコップを持つのは、とんでもないことです。
中国に仏教が伝わった当初ももちろん、この戒律は守られていましたが、唐代の中頃から仏教界の堕落が問題視され、一時的にお坊さんへの寄付が朝廷によって禁じられたこともあったようです。
多くの叢林(そうりん:僧侶の共同体)はそのときから廃滅に向かってしまいました。ところが、その大ピンチをチャンスに変えた人がいました。それは百丈慧海(ひゃくじょう・えかい:749~814)という禅僧でした。
百丈禅師はその「百丈清規:ひゃくじょうしんぎ」という僧侶の生活マニュアルの中で、戒律を抜本的に改革しました。作務すなわち肉体労働こそが、仏弟子に一番ふさわしい修行だと言って、従来の考え方を一八〇度ひっくり返しました。
そしてその思考の転回こそ、仏教の後世への発展につながったといわれています。さて、その百丈禅師ご自身も田畑に出かけ働いていたことはいうまでもありません。
弟子たちが禅師のお身体を心配していたほど、ご高齢になられてからでも作務に精を出していたのです。ある日、作業小屋に行った禅師は、そこで自分のクワやスコップをいくら探しても見つけることができませんでした。
どうやら、弟子たちがそれらを隠してしまったようです。禅師は仕方なく、自分の部屋に帰っていきました。ところが、食事の時間になっても百丈禅師は部屋から出ようとしません。弟子たちが呼びに行くと、有名な禅語が返ってきました。
「一日不作、一日不食」(一日作(な)さざれば、一日食らわず) その後、弟子たちが禅師の道具を返したのはいうまでもありません。
ところで、禅師の言葉がよく知られるようになったわりには、その言葉の真意はあまり深く理解されていない気がします。無駄メシを食べてはいけない、という意味ではありません。むしろこういうことではないかと思います。
食べ物は天地からいただいた命の源です。食べることによって、仏道を歩むためのエネルギーも湧いてきます。ですから、食べることも大事な修行なのです。
そして作務のエネルギーも、天地からいただいたものにほかなりません。作務という仏道修行は、食べることと同等です。作務は食べるための手段ではなく、同じ天地いっぱいの命の贈り物なのです。
ですから「一日不作、一日不食」は世間でいわれている「働かざるもの食うべからず」とは基本的に違います。また、それは「働いた分だけ受け取ろう」というような交換条件でもありません。
働いた人だけが食べられるというのではなく、あらゆる人が天地いっぱいの力によって働かせていただき、食べさせていただいているということです。働かせていただけないことは、生かしていただけないことを意味します。
百丈禅師の時代にはまだ雇用問題はなかったでしょうから、彼には先見の明があったのかもしれません。人から仕事を奪うことは、その人から生きる意欲を奪うことなのです。「作」も「食」も同じ「大いなる命の働き」です。
その働きに生かされて、「今日この一日を作る」のです。敢えて漢語風に表現するならば、「作一日」という三文字に凝縮できるでしょう。
悲しいかな、天地の命の力が一番身近に感じられる田畑の仕事に携わっている日本人の数は減っているそうです。田舎に行けば、荒れている田んぼがたくさんあります。
都会で仕事が見つからない人、あるいは会社勤めを終えた人が畑や田んぼを耕すというのも、仏教を深める一つの修行になるのではないでしょうか。田畑を耕すということは、自分の命を耕すことでもあるからです。 』
『 日々是好日(にちにちこれこうじつ)
中国の唐末から五代十国時代にかけて活躍した雲門(うんもん)禅師(八六四~九四九年)は、多くの公案(こうあん)の題材を提供しました。公案とは、修行僧に出される試験問題のようなものです。
雲門禅師は、「仏とは何か」という弟子の問に対して、「乾屎橛(かんしけつ)」と答えました。所説はありますが、乾屎橛はどうやら尻ぬぐいに使われた、へらのような木製の道具です。
どうしても上の空を向きがちな弟子たちの視線を、今ここにある日常に向かわせようとしたのが、この雲門禅師の言葉の狙いです。雲門禅師の言葉の中でもっとも有名なのは、「日々是好日」でしょう。
読み方として、「にちにちこれこうにち」や「ひびこれこうじつ」というものがあるようですが、わたしは「にちにちこれこうじつ」として教わりました。まぁ、読み方にこだわる必要はないと思います。
まずこの言葉の背景からご説明しましょう。ある月の中日、十五日のことだったのでしょう。雲門禅師は弟子たちに向かって、こう問いました。
「十五日以前のことはどうでもよい。十五日以降のことについて、誰か一言を持ってこい。ここに出てくる「十五日」とは、わたしたちが今生きている、今日のことです。
過ぎ去ったことにとらわれてしまい、くよくよしたり、いらいらしたりするのは人間の常ですが、雲門禅師の問いかけは「そんなことよりも、ここからどっちを向いて一歩を踏み出すか」という意味ではないでしょうか。
ところが、雲門禅師の弟子の中で、発言するものは誰もいなかったようです。そこで雲門禅師が自ら言いました。
「日々是好日」 この言葉はとても有名ですが、その意味について誤解している人が少なからずいるかもしれません。決して「毎日を楽しく生きていこう」というレベルの話ではないのです。
そもそも、人生は毎日が楽しい事ばかりというわけにはいきません。いい日もあれば、悪い日もあります。晴れたり曇ったりの毎日です。もちろん、雨の日もあるでしょう。
さて、安泰寺では六月、田んぼに植えられた苗と苗のあいだを、毎日のように田車(たぐるま)を押して歩きます。田車とは、日本人の知恵が明治時代以降に生み出した、田んぼの除草のための道具です。
これから大きく育つはずの稲株のあいだを耕しながら、田車についた爪で草の根を浅く掻き廻します。そうすると、除草剤を使わずに雑草を抑えることができるのです。
雨の日には、田んぼの泥沼の中に入って田車を押すのはなかなかの重労働です。なぜそんなことをするかといえば、一年分の米を育てるためです。今日も、明日のことを考えて生きていかなければなりません。
しかし、どの日を取っても、わたしが今生きているかけがえのない「今日、この日」ということも、忘れてはいけないでしょう。今日、この日以外には、わたしたちの生きる時間はありません。
この日は過去のどの日とも、未来のどの日とも違う一日なのです。この日を今、わたしたちが生きている、生かされていることは、なんとも不思議で尊いことではないでしょうか。
五月には田植えの日々、六月には田車の日々があるからこそ、秋には稲刈りの日々もあるのです。そのどれを取っても、人生ではたった一回しか訪れることのない一日なのです。
今日、この日のために、全力をつくして、自分の人生の中の最善の一日にしようと務める子と……、「日々是好日」という言葉で雲門禅師が提唱しようとしたのは、そういう生き方ではなかったでしょうか。 』 (第177回)