チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「世界経済の革命児 フィル・ナイト」

2018-06-29 04:46:37 | 独学

 168. 世界経済の革命児23 フィル・ナイト (大西康之 文芸春秋 2018年7月号)

 ナイキの創業者フィル・ナイト(Phil Knight) 「シューズ市場で自らの仮説を証明した男」のお話です。

 『 世界で最もブランド価値の高いアパレル・ブランドは、一人の若者の突拍子もない仮説から誕生した。

 「かってドイツの独壇場だったカメラ市場を日本メーカーが席巻した。ランニングシューズ市場でも同じことが起こる可能性があるのではないか」。

 一九六〇年代前半にこの論文を書いたのは、スタンフォード大学大学院で経営学を学んでいたフィル・ナイト。

 自分の仮説を実証するために彼が作った、日本製ランニングシューズの輸入販売会社「ブルーリボン」は、その後「Nike(ナイキ)」と名前をかえ、今や売上高三百四十三億ドル(三兆七千七百億円)の巨大企業になった。

 ナイトは大学の陸上部に所属していたからランニングシューズには詳しい。琴線に触れたのは日本のオニッカ(現アシックス)の製品だった。大学院を修了したナイトは、父親から金を借りて世界を巡るバックパッカーの旅に出る。

 機中で「How to Do Business with the Japanese (日本人と仕事をする方法)」という本を丸暗記したナイトは、神戸のオニッカ本社を訪れ「アメリカのランニングシューズ市場は十億ドル規模になる」 「自分はオレゴンにある「ブルーリボン・スポーツ」の代表だ」とハッタリをかました。

 ちょうど米国進出を計画していたオニッカは、ナイトを信用して代理店契約を結ぶ。その場で思いついた「ブルーリボン」という名前は、陸上競技で好成績を納めた選手に贈られる賞状のことだ。

 ナイトは父親の友人のアドバイスを受けて公認会計士の資格も取り、会計事務所のプライスウォーターハウスで働きながら、ブルーリボンを経営する。オニッカのランニングシューズは米国でも好評だった。

 当時、米国を含む世界のランニングシューズ市場ではドイツのアディダスが圧倒的シェアを持っていたが、オニッカはアディダスに引けを取らない人気を獲得したのだ。

 「ライカ」に代表されるドイツのカメラメーカーから、キャノン、ニコンの日本製がシェアを奪ったように。ナイトは自分が書いた論文の仮説の正しさを証明したことになる。

 しかしオニッカとの発注トラブルなどもあり、ナイトはパートナーを日本ゴム(現あさひシューズ)に変え、自社ブランドのシューズ生産に乗り出す。

 この時、事業資金を提供したのが日本の総合商社、日商岩井(現双日)ポートランド支店にいた営業担当の皇(すめらぎ)孝之だった。時は一九七〇年、ナイトは三十二歳、皇は二十八歳。 

 駆け出しの商社マンだった皇はブルーリボンに惚れこみ、独断で融資の返済請求を遅らせてベンチャー企業の資金繰りを助けた。

 シューズの横にあしらったマークがギリシャ神話の勝利の女神「Nike」の「Nike」(ニケ)が翼を広げたような形をしていたため、ブランド名を英語読みの「Nike」(ナイキ)にした。

 七一年に発売した「コルテッツ」は現在も販売されているナイキの代表的なモデル。日本では八〇年代、アイドルの田原俊彦がステージ衣装として履いたことで人気に火がついた。

だが、会社の規模拡大を急いだナイトは巨額の借り入れをするようになり、七五年、ついに小切手の不渡りを出す。従業員への給料も支払えなくなり、主力銀行のバンク・オブ・カルフォルニアはブルーリボンとの取引を停止して、「詐欺にあった」とFBIに通告した。

 ナイトのピンチを救ったのは、またも日商岩井だった。ブルーリボンの財務内容を調べた皇と上司は「再建可能」と判断。皇の上司はこう言った。「日商がブルーリボンの借金を全額返済します。 」(フィル・ナイト著「SHOE DOG くつにすべてを」より)

 日商岩井のリスクテイクによってナイトは収監を免れ、ナイキと社名を変えて世界的な大企業になった。 「日本製品がドイツの牙城を突き崩し、世界市場を席巻する」というナイトの仮説は一部が正しく、一部は間違っていた。

 アディダスの牙城を崩したのはオニッカからだったが、世界市場を席巻したのは米国ブランドのナイキ。アシックスの売上高は四千億円でナイキとは一桁違う。

 靴作りをオニッカから学んだナイトは、そこで足を止めずナイキという世界ブランドを築き上げた。オニッカは良い靴を作ることに専念しすぎた。ナイトの成功譚は、「ものづくり」も大事だが、それだけではグローバル競争に勝てないことを教えている。1 (第167回)


ブックハンター「ことばと暴力」

2018-06-20 08:57:01 | 独学

 167. ことばと暴力  (中村研一著 2017年3月)

 本書は、六百ページを超える本で、副題に”政治的なものとは何か”とあり、四部構成で、第一部 人間文化の問題性、第二部 ことばと暴力の臨界域 第三部 暴力の劇場 第四部 政治の言語的構成 です。

 重い本で、私も拾い読みをしただけです。学術書なので、全体で数十ページの注が存在します。この中から、テロリズムの章の一部を紹介いたします。

 テロリズム(terrorism)を辞書では、:政治目的のための暴力、恐怖政治 とありますが、この理解では、世界各国で発生している事象をは、うまく理解できるか疑問です。(私はたんなる暴力と理解していました)では、読んでいきましょう。


 『 テロリズムは、今、世界各地で頻発する。そして、起きるたびに流血と瓦礫を残し、見る人々に驚愕や衝撃を与え、そして生き延びた人々を「一体これは何なのだ」という問いのなかに置き去りにする。

 本章は犠牲者、そして生き延びた人々の視点に寄り添う視点からテロリズムの歴史と概念を検討したい。「テロリズム」を検討する以上、まずその定義から出発すべきである、と考えられよう。

ところが定義作業の前に難問が待ち受けている。テロリズム研究の始祖ウォルター・ラカーは、「テロリズムは予測不能で、パニックを引き起こし、憤怒を呼び起こす。……そして過去1世紀に限ってもテロリズムの特徴は大きく変わってしまった」という。

 テロリズムを定義する難しさにはいくつも理由がある。テロリズムを包括的に定義しようと試みると、「言葉の迷路」に迷い込み、取締り当局の間でさえ合意が難しい。

 なかでも、テロリズムと言う言葉が、歴史的に変化したことは重要である。「テロリズムterrorism」という語が誕生したとき、それはフランス革命期の恐怖政治を指した。史上初の「テロリズム」の用法は、史上前例のない大革命の過程で生じた。

 ロベスピエール派が革命政府を掌握し、〈革命裁判所〉と〈ギロチン〉による大量処刑が人々を震え上がらせた。そこに「恐怖政治(レジメ・ド・テラ 英訳 reign of terror )ということばが生まれ、その同義語として「テロリズム」が誕生した。

 「恐怖 terror」「テロリズム terrorism」の動詞形は「terrify」であり、意図的に恐怖させることを意味する。恐怖政治の指導者マクシミリアン・ロベスピエールは「平和時における人民政府の基盤が徳であるとすると、革命時における人民政府の基盤は徳と恐怖の結合である。

 徳なき恐怖は悪であり、恐怖なき徳は無力である。恐怖は、素早く冷酷で確固とした正義にほかならない」という有名な言葉を残している。

 テロリズムと言う言葉は、フランス革命で生まれ、ロシア革命後のロシア革命体制でフランス革命を離れ、第一次大戦後の小集団、小党派を主体とする暴力に、その後、民族独立運動、過激派集団による、非政府主体の過程で生ずる暴力をも指すようになる。

 そして規範との結びつきを失って、暴力による恐怖の巻き起こしに純化してゆく、これらと並行して、攻撃する標的も「敵」以外の人・場所・施設に拡散する傾向が進んだ。

 以下は、国際的に広く受け入れられているアレックス・シュミットの定義である。

 「テロリズムとは、暴力行使を繰り返し、不安定をかき立てる手法である。攻撃者には、非公然の個人や集団、または国家がなる。暴力行為の動機には、異常な、犯罪的な、または政治的なものがある。

 働きかけの対象は、暗殺にあっては暴力を向けた犠牲者自体であったが、テロリズムにあっては犠牲者ではない。犠牲者は、たまたま確率的に暴力を向けられ、また、働きかけの対象に与える効果を考慮して攻撃される。

 犠牲者は攻撃者のメッセージ発信器にされる。攻撃者から働きかけの対象に向けられた狙いは、威嚇、強制、政治宣伝に分けられ、それに応じて脅迫や暴力行使に基礎を置くコミュニケーション過程は三つに分類される。

 威嚇では戦慄させるため、強制では要求を突きつけるため、そして、宣伝では関心を引きつけるために、犠牲者に向けられた暴力が活用される。」 』


 次に9・11事件の一部を読んでいきます。

 『 9・11は、民間航空機という巨大な文明の利器をハイジャックし、人口が最も密集した巨大な建造物を標的として、ハイジャッカー自身が操縦して突入させた事件である。

 9・11事件とは、米国民間航空機の4便のハイジャックにはじまり、ニューヨーク・ワールド・トレード。センター(WTC)のツインタワー崩壊に至る2時間14分間の経緯の総称である。

 9・11事件の重要な攻撃者は、4人の「ハイジャック後のパイロット役」である。うち北タワーのアタ、南タワーのアルシュヒ、ペンタゴンのハンジュル、シャンクスビル墜落のジャラである。

 北タワーのパイロット役のモハメッド・アタ(エジプト33歳)は1968年9月生まれのカイロの弁護士の子。カイロ大学から建築学の、また留学先のハンブルグ工科大学から都市工学の学士号を取得した。

 構造設計を分析する専門知識をもち、建設現場を調査し、アルバイト先のハンブルグの設計事務所では設計図の製図係をしていた。アタは、巨大建造物の構造を分析する高い専門能力を持っていた。

 また、ツインタワーの構造設計技師が〈タワーは航空機が衝突しても倒壊しない〉と主張したことも知っていたに違いない。

 南タワーのパイロット役マルワン・アルシェヒ(アラブ首長国連邦33歳)は1978年5月生まれのイスラム教モスク礼拝進行役の子。高校卒業後、同国の軍人になり、半年後に軍奨学金でドイツに留学してボン大学に学籍を置き、後にハンブルクに移籍し、海洋工学を専攻した。

 アルシュヒは、ハンブルクでアタらと共同生活をし、アタに兄事していた。米国滞在中の1年以上、アルシェヒは、アタと一心同体の活動をし、ともに航空機免許を取得し、ボーイング767のシュミュレーション訓練を行い、ツインタワーの構造を精査し、航空機をどう突入させればタワーを倒壊させられるか検討していた。

 ペンタゴンのパイロット役のハニ・ハンジュルは、サウジアラビアの裕福な商人の子。1996年以降、パイロットになるべく米国に長期間滞在して、航空学校に通い、1999年4月、営業用多発航空機の免許を取得した。

 帰国後、彼は民間航空会社に就職活動をしたが、ことごとく失敗した。生きるヴィジョンを失ったハンジュルは、アルカイダのパイロット役にリクルートした。

 墜落機のパイロット役ジアド・ジャラ(レバノン26歳)は、1975年5月生まれで、ベイルートのキリスト教の学校に通った。その後ドイツのグライフスワルトのカレッジでドイツ語を学び、1997年9月、ハンブルクの応用科学大学に入学し航空工学を専攻した。

 アタ、アルシェヒ、ジャラらは「ハンブルグ集団」と呼ばれるが、そこには「航空機作戦」の標的である超高層ビルの専攻者アタと、武器とする民間航空機の専攻者ジャラが含まれていた。 』


 2001年9月11日朝、アメリカの空港は、いつもと変わらず、早朝便に乗る人々で混雑していた。東海岸の三つの空港では、中東出身の若者たち計19名が、米大陸横断の国内線4便のカウンターの列にいた。

 ボストンの空港では、ロサンジェルス行き、北タアー機①および南タワー機②の2便の受付カウンターのそれぞれに若者5名が並んだ。また、首都ワシントンの空港のロサンジェルス行き、ペンタゴン機③には、5名が、そしてニューヨークの空港では、サンフランシスコ行き、墜落機、④には4名が並んだ。

 その19名が、受付カウンターで航空会社のパスポート・チェックをクリアーして搭乗券を受け取り、保安検査場を抜け、各便に搭乗した。なお、ワシントン・ダラス空港の保安検査場で、③で搭乗しようとした5人の若者の中の3人、アルハミズとアルミフダルとモケドに警報が鳴った。

 うちアルハミズとアルミフダルとは、CIAがアルカイダ関係者としてマークしていたが、この事実を航空会社や保安検査官は知らされていない。

 ①~③は速やかに離陸した。④のみが空港の混乱から予定より離陸が遅れた。やがて①~④が水平飛行に移っていく。4便に分乗した19名の座席は、事前の指定通り、前方席であった。若者たちは、客室から操縦室に通じる扉の開く瞬間を待ち構えた。

 8時14分~19分頃、操縦室と客室の間の扉が開いた瞬間、①のハイジャックがはじまった。ハイジャック―はまず操縦室に侵入してパイロットたちを排除・殺戮した。次いで機内客室を制圧した。

 ハイジャッカーの一人モハメド・アタが操縦席につき、操縦機器を操作しはじめた。ハイジャッカーに航空機の操縦能力があり、航路を標的に向けて操縦できた点が、従来のハイジャックとは異なる。

 アタは①を通常の航路から外し、ニューヨークのWTCの超高層ツインタワーの北タワーに向けて南下した。 』


 『 小都市並みの人口が空中に密集するツインタワーに、この朝も通勤客が集まっていた。8時46分、ツインタワーのそびえるWTCから数ブロック北のニューヨーク連邦準備銀行ビル(15階建て)の屋上にいた者は、突然の爆音に振り返った。

 「なんとジェット機がこっちに向かってくる。北西の方向から南に向かって。……すぐ近くを飛んできた……飛行機の窓の向こう、乗客の姿が見えたくらいで、……急にエンジン音が大きくなった。……意図的にWTCに突っ込もうとしている……次の瞬間ジェット機がビルに突っ込んだ。

 まるでタワーがジェット機を吸い込んだようでした。……尾翼がずんずんビルの中に入り込んで、それから機体がまるごと消えた。と私たちビルが揺れはじめた。……一瞬、恐怖とショックで動けなくなりましたよ。たった今見たものが信じられなかった。」

 北タワー91階(衝突階に一階下)に居たジョージ・スレイは、窓の外を見た。

 「巨大なジェット機がこちらに向かって来るではありませんか。……機首、胴体下部、そして片方の翼が見えました。私のすぐ頭上、やや右側に迫っていたのです。……(衝突の瞬間)デスク横の壁が崩れ落ち、本棚や天井のタイルが私の上に落ちてきました。……私は椅子の下にもぐって両手で頭を覆いました。 』


 『 巨大な民間航空機が、それよりひと回りスケールの大きな超高層タワーに突入した。①の機体はボーイング767ERで、全長48.5m、全幅47.5m、全高16m、総重量130トンである。

 北タワーは幅・奥行きがともに63.4mの正方形、高さ417mで地上110階建てである。突入した機内には、乗員・乗客92名が、突入された北タワーの各階層には平均役90名のテナント関係者がいた。

 ボーイング767は、北タワーの北側面の中心線上、110階建ての96階に、ほぼ真正面から、機首を約10度下向きに衝突した。胴体部は槍で突いたように95~97階の3層階に入射した。

 主翼は右翼を25度あげて衝突し、93~99階までの6階層分の外周を斜めに切り裂きつつタワー内に突入した。左右のエンジン2基は94階と96階に巨大な穴をあけた。

 突入した巨大な機体の各部、積み込まれた貨物、内装の椅子等、そして乗員乗客は、タワーの外周枠に破砕されてばらばらになりながら「鉄の嵐」となった。 』


 『 ツインタワーの構造設計はフレーム・チューブ構造と呼ばれる。この構造の特徴は主柱・主壁に相当するものがないことである。一本のタワーを上から見ると「回の字」の形状である。

 外のフレーム(外周枠)と内のチューブ(芯柱コア)とが荷重を支え、風など横からの入力に抵抗する。外側は外周枠で、「回」の字の「大きな口の字」の一辺が63.4mの正方形である。

 北タワーの高さは417m、南タワーの高さは415mである。その側面には、長さ400以上の鉄板が59枚一定の隙間を置いて縦縞模様に並んでいる。

 したがって東西南北の4側面を、4x59の計236枚の鉄板が一定の隙間を置いて取り囲む超高層の鳥かごの形状である。あるいは太いチューブと形容できる。

 内側は中央部の芯柱コア部(エレベーターと機械室と3つの避難階段等を収容する)である。上から見ると「回」の字の「小さな口の字」で、長方形27mx41mであり、4辺上と内部とに計47本の鉄柱が配置されている。

 芯柱コア部は北タワー地上417mを、ロビー階から屋上まで貫く細長いチューブで、芯柱の役割を果たす。このフレーム・チューブ構造は、画期的な広さのオフイス面積がとれ、かつ、自重が軽い。そのため主任構造設計技師だったジョン・スキリングらは、高い名声を得た。

 芯柱コア部の47本の鉄柱と外周枠236枚の鉄板とが荷重を支える。荷重の約60%は、芯柱コア部の47本の鉄柱が支える。とくに長方形の4頂点に配置された4本の鉄柱が垂直荷重の12%を支える。

 外周枠の236枚の鉄板は荷重の約40%を支える。ツインタワーは海に突き出た灯台のように強い暴風を受ける。外周枠は、この水平の入力に対する抵抗を受け持ち、「風を柳と受け流す」柔構造に設計されている。

 1993年2月ラムジ・ヨセフがタワーの横倒しを企図したのに対し、構造設計技師たちが〈たとえ民間航空機が衝突しても倒壊しない〉と宣伝したのは、この構造が水平の入力に強い点を強調したものであり、たとえば236枚の鉄板の相当数が破壊されても倒壊にはつながらないと主張したのである。 』


 『 ①のWTC北タワー衝突(8時46分)の数分後の8時52分ごろ、②がハイジャックされた。アルシェヒが操縦席につき、ハイジャック機をWTCツインタワーのもう一方の南タワーに航路を向けた。

 ①はWTCに北から接近したが、②はそれと180度反対の南から接近する航路をとった。2機のハイジャック機は、16分半の間をおいて、南北に並ぶツインタワーのそれぞれを、南北正反対の方向から挟み撃ちにした。

 ②のコックピットの操縦席からアルシェヒは、自由の女神像の先に南タワーを視認した。そのすぐ向こうには噴煙を巻き上げる北タワーがあった。②の機内には、乗員9名・乗客56名がいた。

 9時02分59秒、陽光のもと異次元から現れたような黒い機影が突如視界に飛び込み、南タワーの南側面に吸い込まれて巨大な裂け目をつくりだし、その一部が反対側のタワー北北東の方向に突き抜けた。その間0.6秒

 次の一瞬、オレンジと黒の巨大な火の玉がタワーの裂け目から噴出し、次いであたかも白煙かのように見える諸物体が噴出した。

 ジェット燃料は約5分間猛烈な勢いで燃え、また可燃物に火をつけ、衝突階層前後とそれより上層階に火災を発生させた。 』


 『 1機ではなく2機であった。ツインタワーの双方向に、しかも正反対の方向から突入した。その間わずか16分半。1機目の突入は人々に驚きであった。もしも1機目だけならば〈事故かもしれない〉と解釈できた。

 しかし2機目の突入は、〈事故でない〉と教えた。〈攻撃する意図に基ずいた巨大な暴力〉である、と。見た人は誰も、こう考えるしかない事態が起こっていた。

 攻撃者の観点からは、ツインタワーの双方に2機を相次ぎ突入させたことは、「言説では言語」(ノンディスカーシブ)による意図表明であった。これは攻撃である、と。

 個人が操作可能な最も巨大な物体である民間航空機を武器にして、その運動エネルギーとジェット燃料を、乗員・乗客もろとも、ツインタワーに突入させて倒壊させる、と。

 そのありさまを、全米・全世界に見せつける、と。これを攻撃とともに死ぬ行為を通じて実現する、と意図表明したのである。

 2機が相次いで攻撃したことは、2機目の突入を見ろと強制した。1機目の突入結果、WTC周辺では数百の視線がツインタワーを注視し、また、全米各社のテレビカメラがツインタワーにフォーカスしていた。

 そのなかで2機目が衝突した。これが2機目の突入を「見せる暴力」にし、「暴力劇場」をつくりだした。1機目の突入は2機目のそれを見せる機能を果たした。

 ツインタワーから大通りを隔てた歩道にいた港湾区警察WTC分署長アンソニー・ウィティカーは、「轟音を聴き、同時に空気が吸い込むような大きな音がして、それから、ドーン!ときました……巨大な火の玉がビルから噴き出し、私の横顔に熱波が感じられました」という。

 注目すべきは、ヴェテラン警官ウィティカーが、恐怖心が湧かないように、意識してツインタワーの方向を見ないようにしていた点である。しかし、大部分の人々は噴煙を巻き上げる北タワーに視線を吸い寄せられ、2機目が突入する光景を見せつけられた。

 大通りを隔てた歩道上で見上げていた大量の人々は、「オーノー!」の悲鳴をあげた。そして、人々は恐怖にかられて、WTCから遠ざかる方向に走り出し、物陰に隠れようとした。

 テレビカメラも同様にツインタワーにフォーカスしており、その結果、南タワー突入を全米の画面に同時に中継した。テレビで中継を見ていた視聴者も、言葉にできない驚愕・恐怖に凍り付いた。

 衝突の瞬間を映し出すテレビカメラは、爆発音と悲鳴を伴って激しく揺れ、テレビの同時中継レポーターも「オーマイゴット」と叫んだ。この録画を見て、世界中の何億人もが航空機衝突に驚愕・恐怖する。

 見せつけられたのは、航空機の突入シーン、火の玉が噴出するシーン、諸物体が散乱するシーン、瓦礫を撒き散らすシーン、人々が高層階から階下にジャンプするシーン、散乱する遺体と血の海であった。 』 (第166回)