166. 最後の冒険家 (石川直樹著 2008年11月)
本書は、第6回開高健ノンフェクション賞受賞作です。
『 冒険家・神田道夫とはじめて出会ったのは、2003年夏の暑い日、東京・青山のとある喫茶店である。当時ぼくは26歳で、まだ大学院の学生だった。どうして神田がぼくに会おうとしているのか、その理由はあらかじめ知人から聞いていた。
54歳だった神田は、翌年に実行を計画している熱気球による太平洋横断遠征のパートナーを探しており、共通の知人を介してぼくに連絡をくれたのだった。
そのときはまだ大平洋横断もなにも、気球がどういうもので、神田がどのような計画をたてているかもまったくわからなかった。
ただ、神田は冒険や探検の世界では有名だったし、気球に無知なぼくも名前くらいは聞いたことがあったので、単純にどんな人か会ってみたい気持ちだけはあった。
神田は先に到着していて、4人がけのテーブルに一人で座っていた。ネクタイにジャケットを羽織っていたので、仕事帰りなのだろう。どちらかというと小柄で、痩せても太ってもいるわけではなく、一見するとどこにでもいそうなお父さんである。
豪放だけどちょっとだらしない冒険家タイプでもなかったし、ゴーグル焼けの黒い顔から目だけぎらぎらさせているような登山家タイプでもない。
今まで出会ってきた数々の旅人とはあきらかに異なるタイプで、このような機会がなければ、日常生活でぼくと彼が言葉を交わすことなどなかっただろう。
お互い名前を名乗って挨拶した後、「お会いできて嬉しいです」とぼくは言った。決して社交辞令ではなく、彼に会えてぼくは本当にうれしかった。
神田はヒマラヤの8000メートル峰、ナンガパルバットを熱気球で飛び越えた功績によって2000年度の植村直巳冒険賞を受賞している。噂は空の世界と縁がなかった自分のところにもと届いてきており、そのような人物に会えて嬉しくないわけがなかった。
神田はぼくに名刺を2枚差し出した。彼が勤めている埼玉県川島町役場の名刺と個人の名刺があり、個人の名刺には「日本熱気球飛行技術研究会会長」とある。
不思議な肩書だと思った。一般的に想像できる冒険家らしい堂々とした態度はなく、どちらかといえば謙虚で実直な印象だった。しかし、無口という雰囲気ではなかった。
彼はカバンをまさぐりながら、自分の冒険の履歴が年表になっている雑誌記事のコピーを取り出すと、一気に話し始めた。人ははじめて会えば世間話や雑談からはじまり、どこでお互いに知ったかなどを話したりするものだが、彼の場合は一切そういうことがなかった。
単刀直入である。余計なことは喋らない。声は大きいがいくぶん伏し目がちで、ほとんど目を合わせようとしなかった。
喫茶店のテーブルの上には、過去の冒険に関する新聞記事や資料のコピーがうずたかく積み上げられていく。彼はいわゆる冒険譚として、身振り手ぶりを交えて大袈裟に語ったり、ことさら苦労を強調するようなタイプではない。
事実だけを自分の言葉で語る。それもシンプルな言葉だから、どんなに大変だったか、あるいは大変でなかったか、それさえもわからない。
もしかしたら話す相手が冒険家と呼ばれたこともあるぼくだから、そういう説明をしたのかもしれないと思う。 これまでの遠征について一通り簡単な説明を聞くと、ぼくは「すごいですね」と言った。
それぞれの記録がどれだけ大変なことなのか、まったく実感をもって理解できたわけではなかったが、おそらく驚異的な実績なのだろうし、何よりその勢いのある喋りぶりに圧倒されて、そうとしか言えなかった。 』
『 そんなぼくの様子を見てとったのか、彼は口調をゆるめて言った。「わたしもね、気球に乗り始める前は川下りなんかをやっていたんですよ。自分でイカダをつくったりしてね」
彼のはじめての冒険は、高校三年の夏に地元の埼玉で敢行した荒川下りだった。たった一人で秩父から大宮までを安手のゴムボートで下ったという。いわゆるラフティングの先駆けである。
21歳のときには、激流で知られる熊本の球磨川を下り、その帰り道、ちょうど開催されていた大阪万博に立ち寄って「月の石」を見学した。日本の三大急流をやっつけようと、今度は山形県の最上川をくだった。
最終的には山梨県の富士川を下って冒険は一段落するはずだったのに、テレビのドキュメンタリー番組でニュージーランドの最高峰マウントクックを飛び越える熱気球の勇姿を見ると、「これだ!」とばかりに彼は空の世界へと身を投げ出すことになる。
しかも、気球をはじめてから徐々にステップアップして冒険旅行へと踏み出していったのではなく、彼にはまず誰もやったことがない冒険をしたいという気持ちが先んじていた。
未知の冒険という意味で川下りに限界がある一方、まだ日本ではそれほど身近な乗り物ではなかった気球による空の冒険は、限りなく開拓しがいのある分野だった。
激流下りも気球も、自然が生み出す”流れ”を利用するという点では共通している。自転車や登山のような体力勝負ではなく、水や風も流れを読んでそこに身を委ねなければならない。
川でのラフティングと空を飛ぶ気球、どちらの冒険も理論的に攻めるというよりは、その場その場の読みと直感がより重要視される。
神田は綿密で合理的な計算に基づいて何かを達成するというよりは、研ぎすまされた身体感覚で厳しい現場を状況に応じて巧みに乗り越えていくタイプだった。川下りから気球への進路変更は、神田のその後の人生を決定づけることになる。
神田が本格的に気球をはじめた1977年は、ぼくが生まれた年でもある。当時は植村直巳が日本人初のエベレスト登頂を果たしており、1978年にはその植村が世界初の犬ぞり単独行による北極点到達を成功させている。
まだ地理的な探検や冒険がかろうじて可能で、遠征の成功が多くの人々から最大級の賛辞をもってうけいてられる、そんな最後の時代でもあった。
あとになってぼくは神田から、植村直巳の講演会に出かけた話を聞いた。「想像していたより小柄で、全然ふつうの人だったよ」と、その時の印象を彼は語るが、彼だって「全然ふつうの人」である。
若き神田道夫は、時代の空気にも後押しされて、気球による冒険の世界を全力で駆け抜けていくことになったのだ。原点である川下りについて話し終えると彼はしばし無言になり、ここからが本題とばかりに、喋るスピードをまた少しだけ落とした。
彼は資料の方ばかり見ていて、なぜかぼくを正視しようとはしない。しかし、彼が真剣そのものであることは、その力のこもった話しぶりから強く伝わってきた。 』
『 「太平洋横断計画について話します」 どこかあらたまってそう言うと、彼は計画の詳細について話し始めた。高度一万メートル付近を流れる偏西風、つまりジェット気流に乗って、時速150~200キロで東に向かい、約60時間で北米大陸の”どこか”へ到達する。
離陸日は1月から2月末までのジェット気流が最も強くて安定する時期の一日をねらい、成功すれば世界では2番目、そして日本初の快挙であるという。
過去、太平洋横断を熱気球によって成功させたのは、1991年2月、ヴァージングループの会長を務めるイギリス人のリチャード・ブランソンとスウェーデンの気球製作者であるパー・リンドストランドによる一例のみだった。
ヴァージングループは、ヴァージンアトランティック航空をはじめとする32社以上の関連会社をもち、年間8兆円もの売上高を誇る巨大企業である。
ブランソンらはその遠征に数億円を投じ、気密ゴンドラと最新鋭の機器に囲まれて、ゴージャスな冒険に興じた。
密閉されて室内の気温を調節できる気密ゴンドラのなかではTシャツで過ごすことが可能で、しかも高性能な自動操縦装置なども使っており、肉体を酷使する従来の冒険と彼らの遠征は趣が異なっていた。
ちなみにブランソンらは1986年にスピードボートによる大西洋最短横断記録、翌1987年には熱気球による大西洋横断にも成功している。
一方、神田は少ない予算のなかで自ら球皮の生地を選び、知人と協力してミシンで縫い合わせながら気球を制作し、しかもゴンドラはビルの屋上などにある貯水タンクを改造して作るという。
貯水タンクは気密式でないから、結局は生身の身体を高度1万メートルにさらしながら飛行することになる。たとえ素人でも、それを聞いただけで、この遠征がただごとではないことが容易に想像できた。
ジェット気流の流れがいい日に離陸しなければいけないので、あらかじめ出発日を決めておくことはできない。1月から2月にかけて60日間におよぶ待期期間が必要となるために、急に出発が決定してもすぐに応じられる人間を神田は副操縦士に選ぶ必要があった。
大学院に通っていたとはいえ、会社員などではないし、いつもふらふらと旅の途上にある自分は、お金はなくても時間はある。
僕はそれまでに南大平洋の離島に住む古老から伝統航海術を学び、カヌーで旅をしたこともあったし、北極から南極までを人力で縦断する国際プロジェクトへの参加、七大陸それぞれの最高峰に登頂するなど、いわゆる「冒険」と呼ばれるような行為を数多く行なってきた。
加えて、ヒマラヤにおける高所登山や極地遠征の経験をもち、日常会話程度なら英語が話せて、探検や冒険の世界についてもある程度は理解している――神田はそのあたりのことを考えてぼくに声をかけてくれたのだろう。
しかし、ぼくは気球に乗った経験が一切ない。出発まで1年を切っている状態で、このような大遠征に自分は参加する資格があるのだろうか。
海外遠征の苦労や8000メートルという高所の恐怖は、エベレスト登山などでイヤというほど味わっている。こういった計画に生半可な気持ちで関われないことは自分自身が一番よくわかっているつもりだった。
だが、神田は強い口調で言った。「今からはじめればライセンスは十分に取れるし、気球の技術なんてどうにでもなる。今回の遠征で何より大切なのは極地での経験で、石川さんはそれを十分に満たしているから」
ライセンスというのは気球を操縦する資格のことだ。これがなければパイロットとは呼べない。当初は話を聞くだけだったのに、いつのまにか神田の言葉に心を動かされつつある自分がいた。(この話にのってみようか……)
過去に経験したさまざまな旅が思い出される。登山にしても川下りにしても最初は何一つわからなかった。経験を積み、装備を徐々に買い揃え、ある程度の時間をそのフィールドで過ごすことによって、人はそれぞれの場所で身軽になれる。
神田についていけば気球を自在に乗りこなして、空を自由に飛べるようになれるかもしれない。なにより神田には人を信頼させるだけの純粋さと揺るぎない気持ちがあって、ぼくはそのあたりに惹かれはじめていた。
まだまだ曖昧なこと、不安なこと、わからないことがいくつもあったが、ぼくはその場で返事をした。 「もし自分でも参加できるのなら、やらせてください」 返事をしてしまったといってもいい。
神田は顔を上げて表情を変えずに肯いた。その瞬間、ぼくの新しい旅がはじまった。都市を歩き、大地を走り、山を登り、川を下り、海を渡る旅をこれまで繰り返してきたが、自分のなかのに残る最後のフィールド、空へとぼくは神田とともに乗り出すことになったのだ。 』
ここで、神田の過去のヒマラヤ超えの話に飛びます。
『 富士山越えから11年、神田は情熱をひとときも失わずに世界最高峰へと登り詰めようとしていた。
この計画が画期的な挑戦であるとして、日本のテレビ局TBSがメインスポンサーにつき、かかった費用を含めて、それまでの神田の人生の中で最も大掛かりな遠征となる。
遠征隊はまず陸路でネパールから中国の友誼大橋を渡り、チベットに入った。離陸地を標高4300メートルのヤレ村に決め、郊外の河川敷にテントを張っておよそ1ヵ月を天候待ちに費やすことになる。
テレビ局の人たちが中国から多くの人を雇っていたため、ベースキャンプはさながら登山隊のテント村のようだった。
計画では、チベットの中国国境に近いこのベースキャンプから離陸し、チョーオュー、エベレスト、マカルーなど世界に名だたるヒマラヤジャイアンツをこえながら東に向い、ネパールとシッキムの間あたりに降りることになっている。
神田と市吉の他に、番組制作のためテレビカメラマンの斉藤も同乗することになった。
神田と市吉の師弟コンビが飛ぶ以前に、海外の3チームがエベレスト越えに挑戦しており、また二人が飛ぶわずか1週間ほど前にもイギリス隊によって試みられていたが、どれも失敗に終わっている。
エベレストという山は登るにしても飛ぶにしても、やはりそう簡単な山ではないのだ。1ヵ月におよぶ天候待ちの末、上空の風速や風向きを予測し、二人は出発を決断する。
一度は高度1万メートルの上空まで上がることに成功した。神田はエベレストを目にしてその圧倒的な姿に興奮し、指差しながら叫んだのをよく覚えているという。
「あの山だ! あの山だ!」 うまくいけば3時間から4時間ほどでエベレストを超えられる予定だったが、上空には想定していたような強い風は吹いていなかった。
機体のトラブルなどは一切ない代わりに、風の弱さが二人を苦しめることになった。この風を予測できなかったことが、彼らの最大の致命傷となる。
上空でこれは難しいと判断し、わずか1時間の飛行で降りる決断を下したまではよかったのだが、そこから先に起こる惨事まで誰が予想できただろうか。
結果からいえば、神田と市吉という最強タッグをしてもエベレストは越えられなかった。二人はエベレスト超えに失敗し、ヒマラヤの山腹に激突して辛くも一命をとりとめることになる。
飛行をあきらめた彼らが降りようと画策したのはエベレストの手前にある名もなき山の中腹、高度5000~6000メートルの氷河の上だった。
接地するまでは静かに下降していたのだが、接地したと同時に球皮がよこにあった岩壁にぶつかって大きく裂け、一気に浮力がなくなって、ゴンドラが転倒をはじめたのだった。
降りたところは、上から見たら平らだったが、実は傾斜の激しい谷間の雪渓のなかで、とても着陸できるような場所ではなかった。ゴンドラは500メートルほど岩と氷の上を転がり続け、なんとか止まった。
止まっているのが奇跡的な状態である。球皮がバーナーに巻きついてしまい、ゴンドラもあちこちが破損していて、どうやっても修理不能というひどい状況だった。
市吉は「一瞬ガーンとぶつかったのは覚えている」と言う。そのとき彼は足を骨折し、すぐにゴンドラから出られなかった。なんとかゴンドラから自力で脱出した神田とカメラマンの斉藤が戻ってきて、市吉を雪の上へと引っ張り出し、ようやく事態を理解する。
ぶつかった瞬間から引っ張り出されるまでの記憶がなくなっていたことから、市吉は軽い脳震盪を起こしていたのだろう。カメラマンの斉藤は無事だったが、神田もぶつかったときに肋骨を折っていた。
市吉の足は普段と逆向きに曲り、誰が見ても足が折れている状態で、身動き一つとれなかった。重傷である。ゴンドラについているバーナーにはまだ種火がついていることに気づき、無事だった斉藤がそれを消そうとするのだが、間違えて彼はメインバーナーを焚いてしまう。
それにより、ゴンドラと球皮が炎上することになった。3人は身体を引きずりながら、なんとかその場を離れたが、ゴンドラの中にはパスポートも書類も財布も酸素ボンベもすべて入っていた。
おまけにプロパンガスも装着されていたから、やがてそのプロパンガスに引火して爆発まで引き起こし、彼らはすべてを失った。3人はそれを遠くからぼんやりと眺めているほか、為す術がなかった。身体以外のあらゆるもの、本当にすべてが燃えてしまったのだ。
市吉はチョコレートをポケットに入れており、それで空腹をしのぐことになった。神田のポケットには小さなトランシーバーが入っており、それで上空を飛んでいた追跡用飛行機に「着陸して気球は大破したが、命に関わる怪我じゃない」という連絡を入れる。
歩けない市吉に付き添う形で斉藤はその場に居残り、神田はそこから谷伝いに一人歩いベースキャンプへ救助を求めに行くことになった。二人は神田が無傷だと思っていたが、後から肋骨が折れていたことを知る。
地図をもっていたとはいえ、5000~6000メートル地点からそんな状態でベースキャンプまで歩いた神田の忍耐力は超人的である。神田は趣味で1年に1回程度、仲間と登山を楽しんでいた。
ただ、それも夏山を歩く程度で、本格的な登山の経験はもちろんない。着陸した谷は雪に覆われていた状態ではなかったものの、アイゼンもつけてない軽登山靴で、よくベースキャンプまで無事にたどり着けたものだと思う。
神田が必死の思いでベースキャンプに到着したときには、すでに状況はおおむね把握され、救助の対策が練られていた。上空で追跡していた飛行機からも情報が入っていたし、市吉が怪我をして動けないこともわかっていたので、どうやったら彼らを救出できるかその検討がはじまってた。
そのときのベースキャンプには、日本屈指の登山家、大蔵喜福氏と医師の清水久信氏が待機していた。大蔵はチョーオユー(標高8201メートル)無酸素登頂をはじめ、ヒマラヤの8000メートル峰をいくつも登っており、経験の質に関しては、ベースキャンプの誰よりも優れていた。
また、清水は京大の山岳部出身で、自身も登山家であることから高所に関しては随一の知識をもっていた(この翌年、清水は京大の梅里雪山へ向かう登山隊に同行し、雪崩で亡くなった。17人という大量遭難だった)。
大蔵と清水は、山の素人である神田と市吉をサポートするために、日本からお目付け役として遠征隊に招聘されていたのだ。そして、偶然にもこの直前に学習院大学の登山隊が近隣のシシャパンマ山に登頂していた。
エヴェレストとシシャパンマは距離的にも近く、ベースを同じ場所に張る登山隊もいるほどである。学習院大学の登山隊は、登山を終えた後、すぐ近くに大蔵がいることを知って、挨拶をするためにたまたま気球遠征のベースキャンプにやってきたのだった。
神田と市吉が飛んだのは、学習院の登山隊が訪ねてきた次の日である。二人の失敗を知ったベースキャンプの人々は救助に向かおうと試みたが、大蔵や清水以外はまったく山に不慣れな人員ばかりで、少しの距離を登るだけでも精一杯という具合だった。
そこで、思い出されたのが、昨日出会った学習院大学の登山隊である。帰途についた学習院大学の登山隊を里から急遽呼び戻し、救助を手伝ってもらうことになった。
彼らは8000メートル峰に登ったばかりで、高所順応も完璧なうえに、屈強な山男ばかりだった。こうして期せずして心強い救援隊がベースキャンプに集結したのだった。
大蔵や学習院の登山隊、そしてそのまわりにいたシェルパたちの助けもあり、市吉は木の枝や山道具によって作られた応急担架で担がれ、ヘリコプターが着陸できる一番高いところまで下りることができた。
市吉は肋骨が肺に刺さって、肺気腫をおこしており、あと少しでも救助の時間が遅れてたら助からなかっただろう。そして市吉はすぐにネパールの首都カトマンズの病院に収容され、なんとかことなきをえるのである。
神田はエベレスト超えに失敗したが、その後も再び挑戦したいという気持ちはずっとくすぶり続けていた。しかし、この失敗の翌年、イギリス隊のアンディー・エルソンがエベレスト超えに成功してしまう。
二番煎じはつまらないということで、神田は世界第2位の高峰、標高8611メートルのK2超えを思いつくのだった。 』
『 神田と市吉のエベレスト超えに、一人の青年がボランティアスタッフとして同行していた。青年の名は竹澤廣介。大学のとき趣味で気球をやっていたことをきっかけに、彼は大学を卒業して製薬会社に就職した後も気球の世界へとどまり続けた。
会社員として働いていた竹澤だったが、神田と市吉によるエべレスト遠征の話を小耳にはさみ、ついてはクルーを募集しているというのを聞きつけて、地上の雑用係として遠征に参加させてほしいと申し出たのだった。
竹澤は神田と年齢が一回り違う。神田とはじめて出会ったときの竹澤はまだ28歳だった。その後、神田とともに数々の冒険飛行をおこなうことになる竹澤の出発点はこのエベレストだった。
このときから、竹澤と神田の親交もはじまる。単なる親交ではなく、その後の神田の大きな遠征には地上サポート隊として、あるいは同乗者として必ず隣に竹澤がいた。
竹澤はいつも威勢がいい。顔は日焼けで赤茶けていて、髪はぼさぼさだ。見かけには無頓着だが、誰ともフランクにつきあい、隠し事をしたりせず常にオープンなので、話しているとつい心を許してしまう。
数々の遠征をこなしてきた竹澤には、ぼく自身、貴重なアドバイスを多くもらっており、頼れる兄貴分といった存在なのだ。「俺さあ、キャラクター的にはお友達タイプなんだよ。あんまり強権を発動できない性格っていうかさ。何かを命令したりとかが苦手なんだよね」
そういう竹澤とチームを組めば、どんなことに関しても彼はとことんまでつきあってくれただろう。神田は突撃タイプだったから、コンビとしてはよかったのかもしれない。
神田は1990年のエベレスト超えに失敗した後、1993年に中国から熊本へ渡る東シナ海超えの単独飛行に成功している。このときも竹澤はサポート隊として同行している。
1994年にオーストラリアで長距離世界記録を神田が達成したときも竹澤は地上でサポートした。そして、1997年、それまで地上での雑用や連絡係に徹していた彼が、対空時間の世界記録へ挑戦するカナダ遠征ではじめて副操縦士として神田と同乗することになった。
彼らが滞空記録更新をねらうにあったて重要なのは、場所の選定だった。神田はそれ以前にオーストラリアで長距離飛行記録を更新している。滞空時間と長距離飛行の記録は異なるものだが、技術的な部分での基本は変わらない。
ならば、慣れているオーストラリアで滞空時間のほうも更新しようということになり、はじめはカナダではなく、オーストラリアで計画を実行に移すつもりだった。
ちなみにオーストラリアでは市吉らのグループも滞空時間の記録を作っており、日本人にとってなじみのあるフィールドだったのだ。
市吉と大岩のペアが作った滞空時間記録はおおよそ41時間29分である。しかし、それは体積によってクラス分けされる気球の中では中量級の記録で、大きさに限定されない熱気球そのものの滞空時間というわけではなかった。
小さいものから大きなものまで含めた熱気球の滞空記録は、前述したリチャード・ブランソンとパー・リンドストランドによる世界初の太平洋横断記録の際に作られた46時間である。
九州の都城を離陸しカナダ北西部のイエローナイフに着陸したブランソンたちの詳細なデータを見た神田と竹澤は、ブランソンのようにお金をかけず、自分たちがもっている中量級の気球で、しかもクラスなど関係なしに彼らの記録を破れる可能性があると判断した。
記録更新をねらうには場所のほかに時期も慎重に選ばなければならない。熱気球は球皮内の空気を外気温より暖めることによって空を飛ぶ。
だから単純に飛ぶだけなら季節を問わないが、記録を更新するために最適な季節としては、夏よりも気温が低く、大気が安定する冬を選ぶ必要がある。
慣れているオーストラリアは真冬でもそんなに寒くならないが、冬の寒さが厳しいカナダなら長いフライトにも適しているのではないか。それが神田と竹澤の一致した考えだった。
アメリカやカナダやオーストラリアの気球乗りが有利なのは、自分の家の裏庭から飛んで世界記録などを出せてしまうことだ。国土の小さな日本では、それは不可能に近い。ただし、太平洋横断に関してだけは、条件が違った。
冬のカナダで滞空時間記録更新をねらうことを決めると、二人はすぐに計画を実行に移した。 』
『 神田の年表をみると、オーストラリアで94年に長距離記録更新をおこなってから、97年滞空記録への挑戦までに3年間あいているが、この期間、血気盛んな彼らが何もしていなかったわけではない。
滞空時間の記録更新に執心し、毎年のようにカナダに通っていたのだ。95年にカナダへの下見旅行をおこない、翌96年に二人ははじめての挑戦をおこなった。
しかし、このときはカナダを離陸したものの気球はアラスカ方面に流されていき、高度を上げてなんとか方向を変えようと試みるも、うまくいかなかった。
その結果、一昼夜かけて23時間ほど飛んだあげく、ほとんどカナダを横断するに等しい距離を移動して、やむなく東の果てのケベックで着陸した。このときは飛行速度も速く、滞空時間時間更新には達しなかった。
二人は帰国すると、もろもろの準備や手配を仕切り直し、同じ年に2度目の挑戦をおこなった。しかし、今度は天気が悪くてまったくフライトができずに、失敗する。
3度目は天候も計画自体もまずまずうまくいっていたのだが、途中で気球が裂けるというハプニングに見舞われている。燃料も荷物も満載の重い状態で飛びはじめるため、最初はなかなか気球の動きがとりづらい。
そんななか、シェアウィンドと呼ばれる異なった方向の風の境目で起こる乱気流に遭遇してしまったのだ。バーナーの炎はあらぬ方向になびきはじめ、コントロールできないままに球皮に炎が燃え移ってしまった。
結局、球皮の下の部分を焼いてしまうという事態に至る。球皮そのものは少し焼けて穴があくぐらいでは平気な構造をしているので、このくらいならこらえられると思ってのも束の間、焼けた部分から球皮が一気にさけはじめたのだ。
神田と竹澤が使っていた気球は、既製品である。大きくもなければ、特別な艤装をしているわけでもない。しかし、その代りに球皮の裏側にアルミを蒸着し、太陽熱を利用して球皮内の温度を保持する”二重構造”という工夫がなされている。
二重構造の気球とそうではない気球とでは熱効率がまったく違うのだ。非常に大ざっぱにいえば、二重構造の気球は普通の気球の半分の燃料で同じ距離を飛べる。つまり、軽い燃料でより遠くまで飛べると言い換えることができる。
そして二重構造にした分、重くなるので軽量化をはかろうと、通常なら球皮を縦横に補強しているロードテープの横まわりのものを設計段階から省いてしまっていた。
その軽量化の策によって、予想しない事態を引き起こされた。球皮の縦方向の裂けがとまらなくなり、見る見るうちにやぶれていたのだ。
横のロードテープさえあれば、裂けは一部で止まったはずだが、それがないために天上方向に向かって裂け目は広がっていく。一歩判断が遅れていたら墜落していた。しかし、すぐさま着陸態勢をとり、なんとかカナダの雪原に不時着できた。
不時着した直後に撮影された写真をぼくは見せてもらったが、それはまさに墜落としか思えない惨状である。球皮はぐちゃぐちゃになり、バーナーは妙な位置にねじまがり、ゴンドラは横倒しになって中の荷物はすべて雪上にぶちまけられている。
しかし、これでよく二人は無傷でいられたものだと思う。写真には、倒れたゴンドラの前に、見たこともないような情けない顔をしてたたずんでいる竹澤の姿が写っていた。
この不時着を目撃した地元の住民がすぐに各方面へ通報し、消防隊員がやってきたという。「おまえたち大丈夫か?」 「いや、大丈夫です。ご迷惑をおかけしてすいません!」 竹澤は明るい性格をしていて、いつもこんな調子だ。
ただし、不時着直後、失敗を記録するためにお互い交互に写真を撮り、神田バージョンと竹澤バージョンの写真が2枚残されているが、」どちらも当然のことながら表情に明るさのかけらもない。
このような失敗を受けて、もう遠征もこれまでかと思われたが、彼らは記録更新のためにすでに3度も挑戦をおこなっている。ここであきらめるわけにはいかなかった。 』
『 神田も竹澤もとことん前向きなタイプである。そして、3度の挑戦によって経験値も蓄えられ、そこで起こったあらゆる事態に対応できる余裕もできた。
カナダは他の国と違って気球のディーラーもあちこちにいる気球大国である。彼らは裂けた気球をすぐさま近くのディーラーにもっていき、球皮を縫い直す修理を施してもらった。
単に元道りに直すだけでなく、球皮が裂けるのを防止する横まわりのロードテープも付け直した。この間、およそ1週間。気球が直ったのに、日本に帰ることなど二人にはできるはずがなく、修理したばかりの気球で最後の1フライトを飛ぶことを決心した。執念の賭けである。
幸い天候もよく、上空で二人はほとんど寝ずに過ごしていた。世の中には2日間ほどの徹夜をこなす人は山ほどいるだろうが、ほとんど身動きできない畳1畳ほどのせまいゴンドラの中での2日間空を見続けるという行為は、想像するほど簡単なことではない。
2日目には、平原の上を飛んでいるはずなのに、神田は山のような崖を見て、竹澤は高層ビルなどを見るようになる。そのたびに彼らは急にバーナーを焚いて高度を上げ、地上から「何やってんいるんだ!」と怒りの連絡が入った。二人は幻覚症状に襲われていたのだった。
「”やっやぜ、飛びたてた” という気持ちもあるし、興奮しているからなんとか起きていられたよ。嫌なことをやっているわけじゃないしさ」 竹澤はそう言うが、その苦しみは想像にあまりある。
わずかでも眠ってしまえば、バーナーを焚くことができず地上に落ちてしまうため、彼らは常に緊張していた。「眠らなかったのは、お互い信用してなかったからだよ」 竹澤はあっけらかんと言う。
どちらかに寸分の甘えでもあれば、二人は共に眠ってしまったかもしれない。しかし、お互いそうしたあまえや寄りかかりあいを拒否し、自己責任をつらねけば結果的に遠征は成功する。それは二人の暗黙の了解だったのだろう。
「そろそろ落ち着いてきたから ”じゃちょっと休んでいいよ”って、ゴンドラの中で少しの時間休むわけ。でも高度計とかピーピー鳴りはじめると、”え、焚かないでいいの?”となる。お互いにそういう感じなんだ。
一応、言葉では”そっちに任せるよ”とか言うんだけど、完璧に寝ているていう感じには絶対にならない」 このとき二人は高度1000メートル前後を維持していた。そこから外れるとアラームが鳴るわけだ。
50時間もゴンドラの中にいると雑談の一つもありそうなものなのだが、彼らは余計なことはほとんど喋らず、それぞれ与えられた役割に没頭していた。4度目のチャレンジをふいにするわけにはいかないという気概だけが彼らを支えていた。
高度を維持して飛行を続けることは、単純作業にも思えるが暇をもてあましているわけではない。定期的にバーナーを焚き、高度や位置を計測器で常に把握しながら、天候や着陸地点のことも頭にいれておかねばならない。
風を読み損ねて海に出てしまったり、高層ビルが乱立する都市の上空にでも流されてしまったら、命の危険にさえでたきてしまう。
カナダ・アルバータ州カルガリーを離陸した彼らは50時間38分ものあいだ飛行を続け、アメリカ合衆国・モンタナ州ジョーダンの牧場に着陸した。
着陸直後の記念写真は、先回の不時着後の様子に比べると格段に美しかった。空にボンベを全部捨て、他の機材は着陸に備えてすべてしっかり固定してある。
モンタナ州ジョーダンにはカナダと違って雪がなく、牧場の地面にゴンドラのすり跡がわずかに残っただけで、何事もなかったかのような見事なランデイングだったことがうかがえる。
そして、牧場の地主である女性が近寄ってきて、笑顔で写真に収まっていた。滞空記録更新のことを話すと地主の女性は誇らしげに二人を抱きしめてくれたという。 』
その後、神田は、この本の著者の石川直樹と二人で大平洋横断の遠征を行ない、太平洋に不時着し、九死に一生を得た後、二度目の太平洋横断を単独で行い、太平洋に遭難し、帰らぬ人となった。 (第165回)