チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「六十歳から家を建てる」

2016-11-30 12:51:46 | 独学

  118. 六十歳から家を建てる  (天野彰著 2007年9月)

 本書は、定年後の夫婦の家屋を数多く設計して来た建築家の話です。私は現在、前期高齢者ですが、これから家を建てる予定で本書を紹介するわけではありません。私が紹介する理由は、以下の三点です。

 (1) 家は、これから二、三十年から数十年に渡って住むことになりますが、家族の未来がどのようになるかは、予測できないことが多いので、考えられる様々な要素にどのように配慮しておくか。

 (2) 夫婦といえども、現在及び未来に対してどのような考えを持っているのかは、当事者といえども意外とわからないもので、建築家を交えてどのような家にしたいですかと話してゆくとき、はじめてその違いが見えてきます。

 (3) 夫婦がこれから様々な病気やケガや終末に対して、どのように立ち向かうかという意志が見えてくる。

 

 『 さて、定年後、自分たち夫婦がどう暮らしていくのか。ちょっと考えただけでも、建て替え、リフォーム、マンションへの転居、子供たちとの同居、Uターン,海外移住など選択肢はいくらでもある。

 もっともむずかしいのは、夫婦の意思統一である。私はこれまで定年後の夫婦のための家も数多く設計してきた。そのたびに痛感させられるのは、長年、生活をともにしてきたご夫婦のホンネが、実際にはなんとバラバラかということである。

 たとえば、今ある家を老後のために建て替える。そこまではすんなり決まっても、そこから先がたいへんだ。家づくりに関して建て主夫婦の意見が分かれるのは、もちろん定年後にかぎった話ではない

 三十代の若夫婦が家を建てるとしよう。それまでは狭いアパートで肩を寄せ合い、仲良く暮らしていた夫婦が、突然、私の目の前で熾烈な言い争いを始めるのである。

 たとえば、妻は「子供たちにそれぞれの部屋を与えたい」と言う。夫は「小学生に個室など必要ない」と言う。妻が「勉強部屋がなければ受験のときに困る」と言い返す。夫は「それよりオレの書斎が必要だ」と言い始める。

 では、定年前後の夫婦が家を建てる場合はどうなのか。最大の争点は、なんといっても「寝室」である。夫たちは「やっぱり畳に布団がいい」と主張する。妻たちは「洋室にベッド」がお好みだ。

 「オレはベッドじゃよく眠れないんだ。オマエだって知っているだろう」 「アナタはどこでだってよく寝れるじゃない。そんなことより、毎日の布団の上げ下ろしの手間を考えてちょうだい」

 よくある口論だ。しかしこれなど、まだおだやかなほうなのである。和室にするか、洋室にするかといった言い合いから、あれよあれよという間に話は思わぬ方向に展開することも珍しくない。

 「それならアナタの寝室は和室にしていただけば? 私は二階のベットで寝るわ」 思ってもみなかったセリフを他人の前で、いきなり投げつけられた夫は狼狽する。しかし、妻は平然としたものである。

 「だって、あなたは夜中に鼾(いびき)をかくし、歯軋り(はぎしり)はするし、酔っ払った夜は息が臭いし、おまけにエアコンをがんがんつけるでしょう。私は結婚以来、一晩だってぐっすり眠れたことがないのよ」

 若い頃の私は、話がこの方向に流れてくると往生したものだった。コトがコトであるだけに、あまり立ち入るわけにもいかない。しかし今ではもう慣れたもの。「やはり来たか」程度の気持ちで解決法を考える。 』 


 『 新築やリフォームの打ち合わせで夫婦がモメ始めると、先にキレるのはたいてい夫のほうだ。「もういい。家を建てるおはやめだ!」そこでなぜかご主人は私のほうを向いて、深々と頭を下げる。

 「いろいろ相談に乗っていただいた挙句に申し訳ないですけど、この件はキャンセルさせてください。やる気をなくしました」傍らの奥さまは「あら、そう」とばかり冷ややかに夫を見つめている。こうして夫はますます立場を悪くする。

 妻たちの肩ばかりもつわけではないが、これまで家づくりを通して何百組もの夫婦喧嘩を「食わされてきた」経験から言うと、残念ながら夫のほうが総じて分が悪い。

 妻は夫のわがままに慣れているが、夫は妻のホンネを聞いたことがないので簡単にショックを受けてしまうのだ。妻の言葉に忍耐強く耳を傾けることができない。

 そんなことだから、定年を機に妻の不満が爆発する。退職したその日に、夫は世界一周旅行のチケットを買って帰宅する。ところが、妻は離婚届を用意して夫の帰宅を待っている。

 テレビドラマの一シーンのようなこんな悲喜劇が、あなたの身にふりかからないとも限らない。「夫婦は一つ」「夫と妻は一心同体」なんて、幻想である。夫婦が互いに理解することは、それほどむずかしい。

 むしろ夫婦であればこそ、何か特別なきっかけがないかぎり、大切な問題をきちんと向き合って語り合うのがむずかしい。まだ間に合ううちに手を打とうではないか。喧嘩になってもいい。

 夫婦が一度は乗り越えなければならない壁なのだ、最初に喧嘩をしておかないと、いざ家ができてから不満や愚痴が噴出して、状況はいっそう悪くなる。

 自分らしい住まいを確保するためには、せめて手元にジャックやクイーンの札があるうちに言いたいことを言おうではないか。つまり、できれば定期収入のあるうちに、まとまった退職金が残っているうちに、そして体力も気力もあるうちに。

 そう、今なら虎の子の古ぼけた我が家、我が土地がある。 』


 『 夫が「定年」を現実のものとして考えるようになった頃、かなりの割合で口にする言葉が「生まれ故郷に帰りたい」である。東京や大阪の大学を卒業し、そのまま就職したものの、定年を迎えたら故郷の実家に戻りたい。

 年老いた両親の暮らしぶりが心配なこともあるだろうが、人生に対する焦燥感や都会生活への幻滅が根底にあるかもしれない。

 心やさしい奥さまのなかには、「そこまで言うなら、この人の夢をかなえさせてあげたい」と考える人もいらしゃる。しかし多くに場合、それはホンネではない。夫の夢のためについて行こうとけなげな覚悟をしただけだ。

 はっきり「イヤよ」と拒否する妻もいる。「そんなに帰りたいなら、アナタだけ帰れば?」と言い出す妻だっている。しかし、それを簡単に「女房のわかまま」と決めつけるのはどうだろう。妻たちがなぜUターンやJターンをいやがるのかを考えてみよう。

 三十数年、場合によっては四十年以上も会社に通い続けた夫たちにとって、主たる生活の場は会社だった。価値観もアイデンティティも組織に属していた。

 それを定年とともに奪われて右往左往する人もいるわけだが、とにもかくにも夫の日常生活は定年によって大きな節目を迎えることになる。それでは、夫が仕事、仕事に明け暮れていた三十数年の間、共稼ぎ家庭を別として、多くの妻たちがどこに所属していたかといえば、地域社会なのである。

 妻たちだって愛する故郷を離れ、慣れない土地で結婚し、家族をつくり、家庭を守ってきた。遠くにいる両親の健康を案じながら、子供を育て、夫を支え、ささやかな生き甲斐を見出してきた。

 その意味で妻たちは夫以上に地域生活に親しんでいるし、夫には想像できないくらい濃く深い人間関係を築いている。そうした生活パターンや人間関係は、夫の定年後もそのまま続くはずのものだった。

 にもかかわらず、いきなり夫から「田舎に帰ろう」と言われたら、どんな気持ちになるだろう。夫にすれば「オレの親の世話をするのがそんなにイヤなのか」と言いたいのかもしれないが、それほど単純な問題ではない。

 夫にとって長年所属した組織を離れ、人間関係を失うことがつらいのと同様、妻にとって長年暮らした土地を離れるのはひじょうにつらいことなのだ。 』


 『 結婚以来、ずっと共働きをしながら一人息子を立派に育て上げた夫婦が定年を迎えるにあたっては、それぞれ違う夢をもっていた。夫は「畑仕事をしたい」。妻は「子供時代に弾いていたピアノをもう一度習いたい」。

 夫は田舎に移住することも考えたが、妻に「イヤよ」の一言で却下されてしまった。自宅を建て替える決断をしたきっかけは、息子夫婦に子供が生まれたことだった。

 息子夫婦は共働きだから、子供を保育園に預けなければならない。それは予定していたことだし、送り迎えの問題もなかったが、子供が病気になったときが心配だった。

 できれば両親の近くに住んで、いざというときには頼りたい。それならいっそ……という息子夫婦の思惑もあった。こうして二世帯同居住宅への建て替えが決定した。

 しかし、夫婦は新居を息子一家のために建てるつもりはなかった。自分たちの「隠居所」を建てるつもりもない。

 二階に息子さん一家が住む以上、同居に違いはないのだが、二人とも「当面、二階は完全な別世帯。賃貸アパートのように考えてくれればいい」という「気分的二世帯住宅」。

 彼らが望んだのは、あくまでも自分たち夫婦の家。というより、「オレの家」と「私の家」だった。実際、打ち合わせをしてみると、二人が口にするのは自分のことばかりである。

 「本格的な家庭菜園がほしい。畑さえあれば、私は何もいりません」 「近所に気兼ねなくピアノを弾きたいから、防音に配慮したピアノ室をつくってください」

 「庭仕事をすると疲れるし、服も身体も汚れるんですよ。広くて気持ちのいい風呂がほしいなあ」 「家のなかまで泥を持ち込まれると掃除がたいへんだから、勝手口か玄関からお風呂に直行できるようにしてください」

 「畑仕事をしていると朝が早いんです。でも、この奥さんはなんだかんだと夜遅くまで起きている。迷惑なんだなあ」 「いいじゃない。もう会社にはいかなくていいし、子供もいないんだから。そっちこそ朝早くからごそごそ迷惑よ」 一から十までこんな調子だ。

 幸い敷地には十分な余裕があった。南側に二十坪の畑を確保し、畑の一角には道具小屋や専用の蛇口もつくる。疲れたときに一休みするためのウッドデッキとテラスも設置する。

 東南にあるリビングには、本格的オーディオセット、すぐ隣には防音サッシを入れたピアノ室。浴室は東側の出入り口を入った脇に設置したい。この夫婦の家にはもう一つテーマがあった。六十を過ぎた夫婦がかならずぶつかる問題、つまり「寝室」の設計である。 』


 『 この夫婦の生活パターンには数時間のズレがあった。こうした時間差の問題は夫の鼾や寝相の悪さと並んで、夫婦の寝室を設計するうえできわめて重要なテーマである。

 「寝室は別々に」というのが奥さんの希望だった。しかし、六十歳を過ぎた夫婦が離れ離れに寝るのは危険である。万が一、夜中に深刻な体調の異変が生じたらどうするのか。

 そこで私は、この夫婦の寝室を隣どうしに配置した。しかも二つの寝室の間を壁で仕切るのではなく、開閉可能な引き戸にする。しっかりした木製の引き戸を閉め切れば光は漏れないし、物音や鼾もかなり遮断できる。

 しかし、互いの気配は感じられるから、どちらかに異変が生じたときには気づきやすい。年配のご夫婦が「別室」を希望されるとき、私はこのプランを提案することが多い。

 ご主人が布団派、奥さまがベット派の場合も、このプランなら対応できる。妻がベットで寝るのに、自分だけ床で寝ることに「心理的な抵抗」を感じる場合は、和室の床をベットの高さと揃えておけばいいのだろう。

 明かりを点けたり消したりするのに、いちいち遠慮する必要がない。さらに昼間は引き戸を開け放って風を通すことができる。面白いのは、頭の部分の引き戸だけ閉じて寝ているケースが多いことである。 』


 『 私の友人の中に古民家暮らしを実現したデザイナーがいる。彼は仕事の第一線を退いた後、長野県の山村にあった昔の庄屋の家を買い取り、解体して神奈川県内の別荘地まで運び、ふたたび組み立てて住み始めた。

 私も誘われて何度か訪ねたことがある。藍染めの作務衣に身を包んだ友人と、和服をちょっと色っぽく抜き衣紋に着た奥さんが、茅葺屋根の下で迎えてくれた。

 私たちは囲炉裏を囲んで座り、織部の皿に盛った山菜料理を肴に、備前のぐい飲みで酒を酌み交わした。それはもちろん楽しい一夜だったし、二人ともじつに満足そうだった。しかし、私にはどうにも気になることがあった。

 建築家の性だろうか。人様のお宅を訪ねると、無意識のうちにその家の日常生活を想像してしまうのだ。ところが、彼らの家には生活臭がまるでない。帰り際に思い切って尋ねてみた。

 すると、驚くではないか。じつは茅葺屋根の家の裏にプレハブの小さな家を建て、ふだんはそちらで暮らしているという。その家にはエアコンもついているし、システムキッチンもシステムバスもあるし、洗濯機も電子レンジもコンピュータも置いてある。

 ようやく合点が行った。囲炉裏のある古民家は、お二人ならではのこだわりの社交場だったのである。古民家を移築したときから、彼らはその家を「終の棲家」とは考えていなかった。

 団塊の世帯が定年退職後に挑戦したいテーマとして、よく語れれるのが「田舎暮らし」である。夢を実現すべく、本格的な農村移住を決断する人もいる。

 しかし私は、田舎暮らしの夢破れ、結局、帰る場所まで失った不幸なケースをいくつも見てきた。都会での便利な生活に慣れた人にとって、一年三百六十五日、田舎で生活するのは楽なことではない。

 地縁、血縁関係の濃い村では自分たちが「よそ者」だと感じることもあるだろうし、地域の風習になじめないこともある。ましてや、自分が病気になってとき、夫婦のどちらかが先立ってからの孤独や不安は計り知れない。

 田舎暮らしを選択するにあたり、それまで住んでいた家や土地を売ろうと考える人は多い。しかし不退転の決意はときとして危険だ。六十歳を過ぎて、退路を断ってしまう恐ろしさを知ってほしいのだ。

 今は健康でも、十年後には足腰が弱って他人の世話になるかもしれない。「不退転」の覚悟よりも、「いつでも退ける」という道を用意しておくことのほうが重要ではないだろうか。 』


 『 さて、住んでいる家が老朽化しても、土地にかなりの余裕があれば、その半分を売って売却益を新居の建築費に充てることは可能である。ところが、そうした選択肢を選ぶ人は案外、少ない。

 なぜかすべてを処分して別の場所に移るか、何もしないでそのまま古い家に住み続ける人が多いのである。しかし今、東京都内の住宅地などでは六十坪以上の土地があれば十分、二軒の家が建つ。

 たとえば百坪の土地があるとしたら、今の古家を壊し、半分の五十坪の土地を売却する。坪あたり百万円で売れば、五千万円の現金が入る。

 そのうち三千万円で自宅を新築すれば、手元に残るのは二千万円。この程度なら特別控除で大して税金はかからない。売却益がそのまま自宅の建築費に充当されるうえ、差額もほぼ経費として計上できるためである。

 しかし、半分をひとたび売ってしまえば、その土地がどう使われるか、どんな家が建つのかは買い手次第。境界線いっぱいに三階建てのアパートが建つかもしれない。

 だったら、いい手がある。土地のまま半分売るのではなく、自分でそこに”分譲住宅”を建て売るのだ。地価五千万円の土地に建築費二千万円ほどで建てた標準的な家が、八~九千万円で売れる。

 「本当に売れるかどうか心配」という人ならば、建てる前に仮契約だけすませてしまえばいい。更地の状態のまま設計図を作成して、不動産屋さんに仲介を頼むのである。

 立地がよければ、家が完成していなくても買い手は見つかる。また、土地だけ売却し、設計と施工を条件付きで行うこともできる。 』


 『 「介護」とは、親を介護し、子供に介護されるだけではない。夫婦が互いに介護し合うことも考えに入れておかなければならない。最近、「介護住宅」という言葉は、「バリアフリー住宅」とともに、今後の高齢社会の自宅療養で乗り切れる切り札のように語られている。

 なにしろほとんどの「介護住宅」や「バリアフリーの家」は、車椅子と介護用ベットでの生活を前提としている。車椅子のまま乗車しやすい駐車場、車椅子で出入りするための玄関スロープ、車椅子から移動が楽なトイレや浴槽、等々。

 まるで、車椅子と介護ベッドがなければ話にならないと言わんばかりだ。しかし私には、車椅子の生活そのものが非現実的に思えてならない。

 車椅子を動かすにはかなりの腕力が必要だ。自力で歩行が困難になった老人に、あの重い車椅子の車輪を回し、動かせる力が遺されているとは思えない。

 事故や病気のために下半身の力だけ失った若者ならともかく、年のせいで足腰が弱まった老人では上半身の力も衰えているのが普通だろう。電動式の車椅子を操作するのも思うほど簡単ではない。

 事実、車椅子用の玄関スロープを上がろうとして失敗し、転げ落ちて大怪我を負った事故は少なくない。むしろ玄関先で車椅子を降りて、高めの上がり框(かまち)に移るほうが安全だ。

 「そんな心配はない。誰かに押してもらえばいいのだから」と反論される方もいるだろう。若くて十分な体力のある息子や娘なら安心だが、老いた夫や妻を想定したらどうなるだろう。

 自分自身が車椅子のお世話にならなければならない年齢だとしたら、おそらく配偶者の体力だって衰えている。車椅子を押しながら急なスロープを上がっているとき、万が一、バランスを失い、転げ落ちそうになったら、身を挺して受け止めることができるだろうか。

 下手をすれば夫婦そろって転んで大怪我をしてしまう。そうしたケースが年々増えている。ところが、車椅子は靴を履き替えることができない。道路で、犬の糞や捨てたガムの付いた車輪で、我が家のリビングや寝室を動き回る光景に耐えられるだろうか。 』 (第117回)

 


物は置き場所、人には居場所(その15)

2016-11-26 08:47:07 | 哲学

 物は置き場所、人には居場所(その15)   日常をデザインする哲学庵  庵主 五十嵐玲二

 14. 物は置き場所、人には居場所のまとめ

 人類は、二本足歩行を獲得した後に、手の自由を利用して道具を使い、さらに言葉を使ってコミュニケーションをすることによって、物と情報との関わりを深くしてきた。

 第二次世界大戦以前までは、物は大切なものであり。何度も修理されて、大切に使われてきた。情報も貴重なものであり、大切にされてきた。

 これまでの物は、主として、木材と鉄と綿花を主材料としていましたので、物が使えなくなった時、そのまま捨てられても、自然界のリサイクルシステムに戻された。

 大戦後、部品の規格化とオートメーションによって主にアメリカで、T型フォードが大衆化した。そして、トウモロコシの一代雑種と肥料、農薬、トラクター、コンバインの出現によって、生産は飛躍的に向上した。

 トウモロコシの飛躍的増産によって、家畜の飼料が安価に供給され、肉や卵や牛乳がアメリカに於いて、庶民の日常の食卓に登場するようになった。

 日本に於いては1940年代、1950年代に、家電が松下電器やソニーによって、洗濯機、冷蔵庫、テレビ(白黒)が家庭に普及した。

 1960年代の東京オリンピック、新幹線開通を起として、カラーテレビが家庭に普及することによって、多くの情報が家庭内に持ち込まれた。

 これらの情報には、有意義な情報も多くありますが、整合性に欠く情報、不誠実な情報、自分の現状の生活をよりみじめに感じさせる情報も多く、整理し、コントロールすることが、むずかしくなってきた。

 そして、これらの情報は、片方向の情報であるため、こちらから発信することを許さない情報であるため、人は本来コミュニケーションの動物であるため、情報のワンサイドゲームは、不満を残すことは避けられない。

 情報の一方通行、接客のマニュアル化にともなって、家庭や地域社会から会話(コミュニケーション)が減ってきたように感じます。

 しかしながら科学技術の発展によって、自然界に本来存在しない、合成樹脂や合成繊維、農薬、PCB、フロン、環境ホルモン……と自然界のシステム戻らない物質が、大量に出回るようになった。

 それに伴って、物は我々に便利さを与えたが、それが使用されなくなった時、有害物質として、我々の生活を混乱させ始めた。


 「物は置き場所、人には居場所」について書いてきましたが、そうたやすく解決策がある訳でもなく、本稿でも、問題を整理したのか、混乱したのか解かりません。

 しかし、小さな一歩は進めたと自負してます。政治家は自分の居場所を熱心に考え、官僚は自分達の居場所を熱心に考えますが、失業している若者の居場所について、考えようとしている試案さえ書かれてません。

 現代はお金を払えば、居心地の良い居場所がありそうに思えますが、一時的には満足できても、その居場所は、あくまでも一時的な物であって、やがて消え去っていくように感じます。

 自分の居場所は、自分で努力して、工夫して、はじめて得られるものかもしれません。最後に、「物は置き場所、人には居場所」の目次を記述します。

 (1) 物は置き場所、人には居場所 (はじめに)

 (2) 物とは何か、物やどのように分類すべきか

 (3) 物について、いくつかの分類方法について

 (4) 置き場所について

 (5) 人の居場所とは何か (人の居場所の全体像について)

 (6) 人は社会とどのように繫がりたいのか

 (7) 人間の三つの生き方について

 (8) 小さな南の島に桃源郷をつくる

 (9) ぼくらの村にアンズが実った (旱魃と植物園)

 (10) ぼくらの村にアンズが実った (菌根菌と樹種の多様性)

 (11) 社会のことを自分ごとに (島根県海士町の試み)

 (12) 森をつくる営みが農業である (アマゾンの日系人移住地トメアスで生れたアグロフォレストリー)

 (13) 森は海の恋人 (気仙沼のカキ養殖)

 (14) 情報の置き場所について

 (15) 物は置き場所、人には居場所のまとめ      

 (第15回)

 


物は置き場所、人には居場所(その14)

2016-11-18 14:36:51 | 哲学

 物は置き場所、人には居場所(その14)   日常をデザインする哲学庵  庵主 五十嵐玲二

 13. 情報の置き場所について

 良く言われることの中に、物が乱雑で自分でコントロールが出来なくなった状態に於いては、その人の精神も混乱しているというものです。物も情報も体系的に整理して、自分がコントロールしているつもりでも、時間の経過に伴って、乱れてくるものです。

 特に現代社会では、不要な情報、整合性に欠く情報が、目から耳から入り込み、乱れは増大します。情報に於いても、自分が現在および将来について、使えるかどうかを判定して、メモしたり、記憶したりします。

 頭の中でどのように記録されているかは、解かりませんが、情報は形や言葉や味や触感などを持っており、その意味と自分に対する共感によって、使用可能な情報かを判断します。

 この時、有用な情報には、インデックス(名札、タグ)がつきます。このインデックスを自分の持っている知識体系のどこかに位置付けます。

 これは、自分の持っている大きなカテゴリー(分類体系)を縦糸に、知識間の関連性、連続性を横糸にして、知識のネットワークが構成され、このネットワークのどこかに情報のタグを結びます。

 その情報が再利用されることによって、ネットワークの回路が構成されます。何度も使われるネットワークの回路は、太くなりますが、使われることのないネットワーク回路は、やがて消滅します。

 私たちが最も使われる情報は、日本語です。日本語は、私たちの文化と日常生活に深く根ざしています。基本的には、情報ネットワークは、日本語で構築されていると考えられますが、その情報が群がりやすい叢(むら)のようなものがあると考えます。 』


 『 ネットワークの情報の叢となるのもを、12とり上げます。

 一つ目は、名著です。これは自分にとって名著かどうかで、自分が読み込んでいく時、その中に再発見があり、さらに何かの折に、その中の一節が浮かんでくるものです。

 名著の著者について、考えを飛躍させたり、そのすぐれた文体が知らず知らずに自分の文体に影響を受けていたり、歴史上の人物であっても、もし現代のこの問題について、著者はどう考えるかすら、推量することも楽しいことです。

 二つ目は、師(師匠)です。自分にとって尊敬できる人、これは直接教えを受けることのできない歴史上の人物であっても、その人物を伝記や著書を読むことによって、師となりえます。

 父親や実際に教えを受けた恩師であれば、亡くなった後でも、相談して何らかの回答が得られると考えます。優れた師匠に巡り合えることは、幸運なことだと思います。

 三つ目は、価値ある芸術作品です。自分にとって価値ある芸術作品は何かを語りかけてくれます。その作品が製作された時代であったり、作者の生い立ちであったり、さらには作品の数奇な物語です。

 四つ目は、自分にとって感動を与える音楽です。自分にとって感動を与える音楽は、ある勇気を与えてくれます。その音楽の一部を口ずさんだり、楽譜を取り寄せたり、ピアノや、ヴァイオリンやチェロで弾いてみたり、感動を共有したいものです。

 五つ目は、すぐれた道具です。すぐれた道具は、自分の手の延長として、新しい世界に自分を導いてくれます。すぐれた道具は、それ自体が芸術作品のような風格を持つものです。

 道具を使いこなすには、高い技術と道具のメンテナンスする技術と作業空間を必要とします。そのためその道具に関する様々な情報が集まります。

 六つ目は、自分にとって重要な概念です。自分が考える時の道具の役割を果たします。私にとっての重要な概念は、進化論、プレートテクトニクス、エントロピー、微分・積分、文化・文明、サスティナビリティ……です。

 七つ目は、自分にとって、お気に入りの場所です。その場所は、身近なところだったり、遠い海外だったり、都市のある空間だったりしますが、その場所は、物語の発想を育みます。

 八つ目は、自分が追い続けているテーマです。テーマを追い続けると、それに関する情報が集まってきます。テーマは何でも構いませんが、長い間に渡って追い続けることが重要です。そのなかで、自分のオリジナルの切り口が見つけられると考えられます。 

 九つ目は、自分がみがいてきた技術です。ここで言う技術とは、仕事上の技術は無論のこと、自分が得意とするスポーツ上の技術を含みます。さらにはそのスポーツで、負け続けたとしても、自分としての独自視点があれば、十分です。

 もちろん、芸術的な技術、外国語の技術、ソロバンの技術……など、自分の時間と動力を傾けたものは、自分の手と足と頭を使って、情報が集積される叢を形成します。

 十番目は、自分の友達です。この場合の友達は、相手が必ずしも友達であると認めてなくて、十分です。自分の友達は、ライバルでもあるため、ある意味危険な存在でもあります。

 友達としてさまざまに語り合いその中から多くのことを学びますが、必ずしも、良い関係でなくても、友達を通して、自分について考え、自分について多くのことを知る手がかりを与えてくれます。

 十一番目は、自分が育ってきた歴史、自分が生きてきた歴史です。良くも悪くも、子どもの頃の環境が自分を育て、青年時代以降の自分の生きてきた歴史が、自分の中に反映され、それらの中に、情報の集積場所が形成されます。

 十二番目は、自分が食べてきた食べ物です。自分の好きな食べ物を通して、季節感を感じ、子どものころ食べた家族での食卓の様子や、その時の満足した気持ちや美味しかった、味と香りなどです。

 情報とか知識は、一般に感情のないものとして考えがちですが、自分の脳内ネットワーク内の情報や知識は、何らかの感情を伴っているものです。むしろ自分のなかの情報や知識は、ある種の感情が伴わないものは、自分の情報や知識にはなれないように思います。

 食べ物は、無論、栄養的な意味をもちますが、人間も生物である以上食べるこが、生きることでもあります。この食べることの様々な行為の中に、情報や知識の集積場所(叢)が、できると考えます。 』


 ここにあげた12の項目は、それ自体が情報ですが、これらが脳内ネットワークの核となり、新し情報が入ってきた時、このネットワークのどこかにインデックスが結びつけられます。

 そしてこのネットワークの情報は、意味や機能や感情を持っています。ネットワークの縦糸と横糸がしっかりしており、そこに情報の核となる12の項目(一つの項目の数の制限はありません)がバランス良く配置されると豊かなネットワークが構成されます。

 この脳内情報ネットワークは、上手に活用されればされるほど、情報間の回路が広がり、その機能も豊かになります。

 情報ネットワークの中で、ふとある情報Aと情報Sが共鳴しあって、ある新しい発想が生まれたり、ある事象のなかの筋道となる部分を抽出すると、別の事象との共通点が見出されたりします。

 脳内ネットワークが一つの生命体のように独自性が生れ、それが人間の個性となるような気が致します。(第14回)

 


 物は置き場所、人には居場所(その13)

2016-11-05 10:45:43 | 哲学

 物は置き場所、人には居場所(その13)   日常をデザインする哲学庵  庵主 五十嵐玲二

 12. 森は海の恋人 (気仙沼のカキ養殖)

 第一話のフィリピンの人口三〇〇人のカオハンガ島での人の居場所は、島の美しい自然と観光と教育でした。

 第二話の中国黄土高原の大同市では、植物園を研究所として、樹木の苗を育て、植林し、アンズの苗を植えて、アンズを収穫し、杏仁(きょうにん)を得て、人の居場所を確保し、黄土高原の土壌を守りました。

 第三話の鳥取県の沖合六十キロの日本海に浮かぶ、隠岐(おき)諸島の中ノ島に位置する、人口二四〇〇人の海士(あま)町での取り組でした。

 流通と営業を町長以下が受け持って、しろイカや岩ガキや隠岐牛を東京でブランド化し、閉校寸前の高校さえも島外から生徒を呼び、町民の居場所をつくり、社会のことを自分ごとにしました。

 第四話のアマゾンの日本人移住地トメアスで、悪性のマラリアの感染、せっかく成功したコショウの水害と土壌菌による病害虫の蔓延で全滅の末に、森林と農業を融合し、さらにクプアス、グラビオラ、アセロラ、マンゴスチンなどの果樹を組み合わせた。

 それらの果汁ペーストを海外に組合をつくって輸出し、入植者の居場所とアマゾンの熱帯雨林を再生した。

 第五話は、三陸リアスの海辺、宮城県の気仙沼湾でカキ・ホタテの養殖家・畠山重篤さんが、森は海を恋人であると確信し、気仙沼湾に注ぐ大川上流の室根山に森をつくるお話です。

 気仙沼のカキ・ホタテの養殖家・畠山重篤(しげあつ)がなぜ森に木を植えるようになったのかを「リアスの海辺から」(1999年5月 畠山重篤著)の”はじめに”より紹介致します。


 『 私は三陸リアス式海岸の静かな入り江で牡蠣や帆立貝の養殖をしている漁民です。父の代からの養殖漁民で私で二代目、息子が三年前から跡を継いでいるので、三代漁民としての生活が続いている。

 振り返って三十六年前、私が父から引き継いだ海は実に豊かな海であった。牡蠣や帆立貝は、種苗(稚貝)を海に入れておきさえすれば何もしなくても大きく育ったし、海中を覗けば、目張(メバル)、鯔(ボラ)、鱸(スズキ)、鰻(ウナギ)などが群れをなしていたものだ。

 ところが、昭和四十年代から五十年代にかけて、目に見えて海の力が衰えていった。貝の育ちが悪くなり、赤潮などが頻繁に発生するようになってきたのだ。

 同業者が集まると、この仕事も俺たちの代で終わりだなあと、あきらめムードだけが漂い、浜は活気を失っていったのである。そんなとき、もう一度昔の海を取り戻そうと、一つの運動が湧き起こった。

 気仙沼湾に注ぐ大川上流の山に、漁民の手で広葉樹の植林を行い、海を元気にしようというのである。また、それをきっかけにして、大川上流の山の子供たちを海に招いて体験学習をしてもらう。名づけて「森は海の恋人」運動である。

 それは私が、昭和五十九年、フランスルターニュの海辺に、牡蠣の養殖事情を視察に行ったことがきっかけだった。フランス最長の河川、ロワール川河口の養殖場を訪れたおり、見事に育っている牡蠣と出会ったのである。

 また、干潟に点在する潮溜りに蠢(うごめ)く、寄居虫(ヤドカリ)、竜の落とし子、蟹(カニ)、小海老、海鼠(ナマコ)などの多さに驚かされたのだった。

 小動物が多いということは、川が健全であることの何よりの証拠である。それは、私が子供の頃の宮城の海そのものであった。川の源は森。私はロワール川上流に足を運んでみた。

 そこには、思った通り、山毛欅(ブナ)、水楢(ミズナラ)、胡桃(クルミ)、栗などの広葉樹の大森林地帯が広がっていたのである。それは、杉山に変わる前の三陸の森の原風景であった。

 広葉樹の森は海を支配している。そのとき私はそう確信した。 』


 『 平成元年九月、気仙沼湾に注ぐ大川源流の室根(むろね)山に、時ならぬ大漁旗が何百枚と翻(ひるがえ)った。山に大漁旗とは意外な光景であるが、それは、森に対する漁民の感謝の表れであった。

 森、川、海と続く自然の中でしか生きられないことを悟った気仙沼湾の養殖漁民たちの、植林風景だったのである。

 赤銅色に日焼けしたねじり鉢巻き姿の漁民たちが、慣れない手つきで植えている木は、保水力があり、良質の腐葉土が早く形成される、水楢、水木(みずき)などの落葉広葉樹である。

 海のことについては生き字引を自負している私たちであったが、山のことや植林についてはまったくの素人であり、初めは失敗の連続だった。

 低地の水気の多いところに育つ水木を高地の風当たりの強いところに植えて枯らしたり、せっかく植えた苗の芯を野兎に全部食われてしまい、途方に暮れたこともあった。

 しかし、岩手県室根村や気仙沼市新月(にいつき)の山の民の協力を得て、次第に森づくりは軌道に乗りだした。水楢、栃、瓜膚楓など五十種の広葉樹の苗が二万本植えられた。

 植林は一九九八年十年目を迎え、その地は「牡蠣の森」と命名されている。漁民による植林が橋渡しとなり、上流の森の民と下流の海の民との交流も深まっていった。

 室根村の人たちは、大川の土手の草を年二回刈るが、「今までは雨が降ったら流れるからいいさ、と土手の内側に重ねておいたものを、これからは片づけるようにしました」と伝えてくれた。

 体験学習に訪れた子供たちからも手紙が届いた。「朝シャンで使うシャンプーの量を半分にしました。給食後の歯磨きのとき、歯磨き粉の量まで注意してます。下流の海の人たちに迷惑はかけられません」というのである。

 村当局も、なるべく農薬を使わない、環境保全型農業を推進している。もちろん漁民みずから、海を汚さないよう注意するようになってきた。工場排水の規制強化や、下水道の整備とあいまって、大川流域に暮らす人々の環境に対する意識は高まっていった。 』


 『 その結果、嬉しいことが起こった。二十年以上も姿を消していた鰻が川に戻りはじめ、海には目張、竜の落とし子などが姿を現してきたのである。

 こうして、気仙沼湾は確実の蘇(よみがえ)りつつある。「森は海の恋人」という呼びかけに呼応するように、運動は全国に広がっていった。現在、全国三十団体の漁民が、森づくりに励んでいる。

 運動が広がるにつれ、いいだしっぺの私にさまざまな問い合わせも多くなってきた。ところがまったく迂闊なことに、こちらの地理的条件を説明するとき日常語として何気なく使っている「リアス式海岸」という言葉の、本来の意味を理解していなかったのである。

 それ以前に、片仮名言葉の「リアス」が何語であるかさえしらなかったのだ。四十年以上も昔、小学校の教科書で、「三陸海岸に代表される複雑に入り組んだ海岸」と教えられて以来、それ以上の知識の上積みはまったくなく、そのままを繰り返していたのだ。

 ところが、偶然にもつい最近、この言葉がスペイン語であり、その本来の意味は、単なる入り江ということではなく、「潮入り川」という意味であることを知ったのである。

 このことは、ほとんどの人がイメージしてきたリアス式海岸という地理的特性の解釈が、反対であったことを教えてくれる。

 私は今まで、三陸海岸のような入り組んだ湾は、海の波が削ってできたものとばかり思っていたが、本来は、川が削った谷であり、地殻変動で地盤が沈降したため、海が逆に入り込んできた姿であったのだ。

 「リアス」の「リア」の語源は、「リオ(川)」であることも知った。つまりリアスの主役は川であり、その源の背後の森だったのである。

 魚介類が豊富なのは森の養分を含んだ川の水が、海の生物生産の基となる植物プランクトン、海藻を育んでいるからなのだ。

 リアスという言葉を理解したことは、私たちが十年前から行ってきた「森は海の恋人」運動の方向性が妥当であることを意味していた。

 そのことを足がかりにして調べていくと、我が三陸リアスとスペインとは、四百年も前から歴史的にも深くつながり、また、西北部のガリシア地方とは多くの共通性があることを知ったのである。それは、いっきに霧が晴れるような、新しい発見の連続だった。

 それらのことを踏まえて、三陸リアスの海辺の暮らしや、子供の頃、森や川や海で遊んだことを思い出してみると、高速交通体系から取り残された辺境の海辺とういマイナーな見方とはまったく逆の、森と川と海が一つとなった、魅力溢れる小宇宙であることを再発見するのである。

 とうとう私は、リアスという言葉の意味をこの眼で確かめるために、その発祥の地スペイン北西部ガルシア地方の森や川や海を訪ねる旅にも出かけることになった。

 そこには、想像をはるかに超えた豊かな森、地味の肥えた農地、魚介類の豊富な海、そして、そこの海辺を歩いていて私は、"El  bosque  es  la  mama  del  mar." (森は海のおふくろ)と語るガルシア漁民の声を確かに聞いたのである。

 地球を半周した地理的空間を越えて、スペインリアスと三陸リアスの漁民は、同じ想いで結ばれていたのだった。 』


 本書は、少年の頃の気仙沼湾を回想して、目張釣り、えごの木の下の小海老、豹のような目早、とうじんぼう、雪代水と鯔、リアスの山の幸、……と少年のころの豊かな海の記述が続きます。

 それもこれも森と川が健全であれば、牡蠣の養殖は豊漁で、気仙沼の漁民の居場所が確保されると言われていると思われます。(第13回)