97. 男の生き方四〇選 (城山三郎編 1995年3月)
本書は、昭和三五年五月より、昭和六四年四月までに「文藝春秋」に掲載されたものの中から、城山三郎が40編を選び出したものです。ここではその中から、山崎種二著の「”ケチ種”かく戦えり」(1966(昭和41)年9月記)を紹介いたします。
山崎種二(1893~1983年)は、伝説の相場師で、山種証券の創業者で、山種美術館の設立者。お金について、働くことについて、投資についての考え方は、現在でも十分に通じるものです。
『 私が群馬県の田舎から、文字通り裸一貫で東京に出てきて、五十五年の歳月が流れようとしている。この永い間、私は相場という冷徹な生き物を相手に戦ってきた。私のことを人呼んで”相場の神様”とか、”兜町の常勝将軍”とかいう。
そういうことばには、何か特別の神話のような雰囲気があり、私には天賦の不可思議な才能のようなものがあったかのように感じて、いささか面はゆいのである。しかし、私はごく当たり前のことを当たり前にやったにすぎない。
相場という生き物は、冷ややかなものだ。それに対する私も冷静でなくてはならない。ソロバンを瞬時たりとも忘れず、冷徹に行動する。私の五十五年間は、これに尽きるだろう。
”相場の神様”がほめる言葉であるなら、私には、もうひとつの別名がある。”山種という男は冷血漢である”とか、”ケチ種”というのがそれである。しかり、私は、見栄や感情で、一銭の金も使いたくない。
金を貯めるというのはいかにも難しい。だが、お金の使い方というのは、それにもましてむずかしいものである。「使い方がむずかしいというのは、出すのが嫌いな金持ちのいうことだ」と人はいうかもしれない。だが決してそうではない。
金を貯めるほどの人は、貯める困難を知っているだけに、金に感謝する気持ちから、よりよい使い方に苦しむのである。安田善次郎は生前、大変なケチだと心ない人々からいわれていた。これは、生きた金を使おうという翁の心が凡庸な人々には分からなかっただけの話である。
かって、浅野総一郎氏が川崎海岸の埋め立てをして、大東京港と大工業地帯を造るという、当時とすれば大風呂敷的計画をたて、安田翁に出資を求めたとき、翁は老体を押して三日間、その地帯を踏査し、採算ありと見るや敢然として資金を提供した。
当時としては、この計画は全く雲を掴むようなもので、この計画に資金を出すというのは、単なるケチにできることではない。安田翁の手腕なら、もっと廻転の早い割のいい投資はいくらでもころがっていたはずである。
恐らく、浅野総一郎氏の夢に、「国家の福祉」を見たが故に、安田翁は喜んで投資されたのだと思う。だから、朝日平吾に、些細な寄付金のことで刺殺されたときの、その瞬間の無念さは、私にはよく分かるような気がする。
自慢めいて恐縮だが、私も郷里に道路や橋を造ったり、学校を開いたり、十数年前から育英資金なども設けて、郷里の青年を世に送り出している。そして七月七日には、私の永年の夢だった美術館も開いた。
博物館法による財団の運営で、文部大臣の認可も受けたものである。現在ある美術品の評価は約五億円、それに運営費が三億円、勝負で稼いだ金を、この美術館にそっくり返したことになる。
冷たい相場を相手に暮らしてきた私の人生は、たしかに冷ややかだったかも知れない。人からそういわれ続けてきたが、最後に暖かい仕事が出来、美術館という暖かい逃げこみ場所が出来た。
とはいっても、隠居などする気は、私にはさらさらない。暖かい仕事ができたのをふり出しに、再び勝負をという意志は、私の中から一向に消えそうにないのである。 』
『 私の郷里は群馬県高崎の在で、私の家は農業ながら、苗字帯刀を許された家であったが、私が生まれたころは、家運が傾いて小農になってしまっていた。
私は子供の時から体が大きく、九歳のとき九文の足袋をはいてたほどである。それで、十一歳の頃から米作や養蚕を手伝い、十二歳からは大人に混って道普請をやったりした。
この私の大足は、その後の私の人生に、はかり知れない幸運をもたらしてくれた。私が高等小学校を卒業した十六のとき、米は非常な不作で、その上、父の兄たちに金をせびられ、抵当に入れた田畑が高利貸しに差押えをくうなど、私の家はますます苦しくなった。
その頃、父の従兄にあたる山崎繁次郎という人が深川で回米問屋をやっていた。この人は時事新報の全国長者番付の五十万以上の金持にもあげられたほどで、私はこの人を頼って上京した。
家を出るとき、私の全財産は八十六銭、これで汽車賃を払って、懐はほとんどカラであった。明治四十一年のことである。奉公生活は、当時の私にとっては天国の生活だった。
田舎では、盆、正月、秋祭りのときしか、米の飯も魚も食べられない。その魚も塩辛い鮭とかいわし位のものである。ところが奉公では、朝から米の飯が食べられ、昼には煮魚までつくのである。
労働にしても、田植え、麦打ち、田の草とりなどにくらべたら、俵かつぎなどは何でもなかった。奉公していた頃の東京の人口は、約二百六十、七十万人。深川には三百万俵の米が入り、東京の台所の七割をまかなっていた。
当時の米の包装は、一重俵で五斗入りなどがあり、倉へ入れるときなど、米がこぼれやすい。私が倉庫番をやらされたとき、八百俵から千俵入る倉が二十一,二あったが、そのこぼれた米はちょっとした量になった。
私は主人に許可を得て鶏を飼った。二十羽や二十五羽の飼料は、このこぼれ米で充分まかなえたからである。私はまた倉庫にパチンコをかけてネズミをとった。当時はペストが流行していたので、予防のためネズミを交番にもっていくと、一匹で二銭もらえた。
卵は一個一銭である。私はこうして集めた金で、こっそり相場を張った。私の一八歳の頃のことである。朋輩はこういう私をみて、”しわんぼ”とか、”ケチ”とかいった。しかし私は馬耳東風であった。
食い盛りのことである。私とて、饅頭の一つも食べたい。しかし、金をそういう風に使っては、一銭は一銭、五銭は五銭の働きしかしない。金が金を生むまで辛抱しよう……これが私のささやかな”資本蓄積”のはじめである。 』
『 山崎繁次郎商店は回米問屋だから、扱う商品は勿論米である。私はこの米というものを徹底的に研究した。昔は新穀がとれると、正米市場の控室に、各県からの米を少々箱に入れ、各問屋の中僧、小僧たちが集まって目の色を変えて、産地のあてっこをする。そのたびに、私は一等をとった。
全国から集まってくる、何の変哲もない米粒を、ひとつひとつこれは何県、これはどこの産と見分けるのは容易な業ではない。私は寝食を忘れて米の研究に没頭した。
はじめは皆目見当がつかない。しかし、だんだん判るようになると、米の方から私に呼びかけてくるようになる。最後には、黙って座ればピタリと当たるようになった。
のちに私は、二四歳の若さで俵米品評会の審査委員に抜擢された。これは、深川でも異例中の異例といわれたものである。大正三年、私は甲種合格で砲兵として近衛連隊に入営した。当時の砲兵の在営期間は三年、衛生兵は特別に二年であった。
そこで私は衛生兵になり、二年で帰ろうと思い立った。しかし、それには模範兵でなければならない。入営後の第一期検閲で、私は野砲の照準手として中隊一の成績を上げた。
そのコツは私にすれば簡単である。深川の正米市場で売り方をしていた頃、多い日には一万三千俵から一万五千俵も売れることがあったが、それを帳面につけずに頭の中で覚えるほどの暗記力があった。
これを応用して、中隊長が右へいくら、左へいくらというのを計算してすぐに答えを出すので、照準は一番の成績をえることができたのである。これで私は衛生兵になれた。
衛生兵になってからは、外出日を利用して米相場を張った。よく立寄る大福屋を通じて知り合いの米屋へ連絡を頼み、売り買いを指定するのである。しかし当時の成績は余り芳しいものではなかった。
大正六年、除隊になると私は再び山繁商店に帰り、市場部長として全国の米を捌くことになった。その年の九月最大の台風が東京を襲い、大津波(高波)で下町が水浸しになった。
深川の米倉に寝泊りしていた者が、枕元まで水がきて目が覚めたというほど浸水は早かった。そのため、どの倉も下から三俵の線までは水浸しになってしまったのである。
九月は米の端境期で、東京にある六十五万俵の三分の一が濡れ米になってしまったのである。濡れ米は放っておくと全部腐ってしまう。そこで、腐らせぬために、深川の堀に俵を渡し、片っぱしから引き揚げて蒸気で乾燥した。(濡れ米を空気に触れさせないめに、水の中に、一時的に保存した) この米は、オコシの原料として大阪へ売った。
大正七、八年は第一次大戦のブームの時である。私は米でも株でも相場を当て、三万円(今の金で約一千万円)の金を掴んだ。そこで始めて、私は以前から気にとめていた娘の親に会い、直談判のような形で、婚約した。
相手の荻原家というのは、衆議院議員をやったこともある名家であったが、娘の母親は、私を認めてくれて正式に縁談が成立した。ところが結婚式の三日前、有名な鈴弁殺しの事件が起こり、外米汚職事件にまで発展し、私もそのとばっちりを受け、生まれて初めてブタ箱にぶちこまれてしまった。
その時の担当官が正力松太郎氏である。婚礼の前日、無罪放免になったが、花嫁の実家では婚約解消説までとび出すしまつだった。あれやこれやの挙句、やっと式を芝の紅葉館で挙げたが、私は全部一人でやり、下足番までもやった。
「花婿はどこだ」 「玄関で下足番をやっている」という次第であった。ここまではよかった。ところが結婚後の一ヵ月目の大正九年三月十日、相場は大暴落し、米も株も大損して、三万円の財産はあっという間に消えてしまったのである。 』
『 明けて十年、まだ見通しはお先まっくらであった。その上、八月から土砂降りが続き、米は大凶作の様相を呈してきた。そこで起こったのが、石井定七さん(当時の大相場師)の米の買い占めである。
石井さんは買い続け、東京で二百万俵、現在の金にすれば、二百四、五十億円にもなる大思惑を張ったのである。私は回米問屋の支配人である。商売は米を買い集めて売ることだ。
私は石井さんの買い占めに対して、実米を売るために全国から米を買い集めた。東京市場にきたこともない兵庫米、広島米まで集めた。石井さんの買い占めは結局失敗に終わり、石井さんには、莫大な借金と”借金王”の名前が残った。
私たちの店は、石井さんの買い占めに、実米をソロバンで売り、石井さんが今度は買い占めた米を処分するとき委託をうけて売るという往復の商売ができたので、開店以来の数量景気になった。
九年の大暴落で無一文になった私は、一二年頃までに、再び三万円の金を貯めることができた。関東大震災後、山繁は廃業したので、私は資本金三万円で独立した。三〇歳のときである。
独立の翌年、米は相当の高値を出したが、私は買より売りの方が得意なので、成績は芳しいものではなく、赤字経営だった。
ところが大正末期、大阪の買い方の主力が、かっての石井定七さんのような米の思惑買いをやったとき、売れぬまま古米になって米十万俵があるという情報を掴んだ。私は誰も見向きもしないこの古米に目をつけた。
私は変名で大阪にいき、堂島の倉庫を全部調べた。よく見ると何度もサシ(俵にさしこんで穀類を見分ける道具)を入れてあるので虫がつき、味噌、醤油の原料にしかならぬ米である。
しかし、匂いの方は大丈夫ではないかと考え、倉庫を念入りに調べてみると、思った通りである。私はこの米全部を買い占めた。この米を東京に運びこむと、絶対に米はこないと安心していた買い占め派は、十万俵の米がきたので投げ始め、相場は大暴落した。
私はその前に、ちゃんと清算市場へ売りをつないでいたので、生まれて始めて三十数万円(現在の金で一億円)のお金を掴んだ。この勝利で、ヤマタネの名は挙がり、新聞にも書かれるようになった。
昭和三年、高垣甚之助の買い占め事件、七年の”黒頭巾の買い占め”が起こった。しかし、どちらも失敗に終り、私たち売り方が勝利を握った。昭和八年は大豊作であった。政府は米の暴落を防ぐため、どしどし米を買い上げた。
当時、農業倉庫は少なかったのに、政府は入れ物も考えずに買い上げる。私は「米をどこに入れるか考えて下さい」といったが、「そんなのは業者で考えろ」という。そこで私は倉庫に目をつけた。
倉庫さえ確保しておけば、勝利は間違いない。私は、半年分の料金を前払いして、東京、横浜の空いている倉庫すべてを”借り占め”たのである。
さて、新米がとれると全国から米が集まり、駅は米の山になった。 が、他の回米問屋は、倉庫がないので米を買うことができない。私は回米を買っては政府に売り、大変な利益を得た。
その年の政府買い上げが全国で二千万俵、私はそのうちの二百万俵以上を売りこんだ。この年度は秋から春までに、五百万俵近い取扱いをし、私の利益は百万円を越えた。 』
これから、山崎種二は株式の時代に入り、さらに成功をおさめ山種美術館の設立へと続きます。この回米問屋、米相場の時代に我々が学べる成功への知恵が語られていると思います。
私は、以下のようにまとめてみました。
(1) 自分の現状に感謝し、自分でできる事を喜びをもって行う。(田舎では、盆と正月しか、米の飯も魚も食べられなかった、昼には煮魚さえもついた。俵かつぎなど何でもなかった)
(2) 金のたまごを生むガチョウを工夫した。(こぼれ米で鶏を飼って、たまごを生ませ、ネズミまでとった)
(3) 米のありがたさ、お金の尊さを知り尽しており、それを生かすことを学んだ。(饅頭の一つも食べたい。しかし、一銭は一銭、五銭は五銭の働きしかしない。金が金を生むまで辛抱しよう……)
(4) 回米問屋として、米作り、米の流通、米相場、さらには味噌、醤油への加工、オコシへの加工、濡れ米の生かし方、古米の生かし方……、米に関するあらゆる実践と知識をもって、米相場に臨んでいる。
(5) 自分の目と足とソロバンで、米相場の中にある、バクチ的要素を徹底的に排除している。
(6) 凡庸な人では、思いつかない仕掛けを考え、間髪を入れずに、着実に実行し、その成功体験を蓄積している。
(7) 素人は相場に熱くなり、引きずり回され、ババを掴むが、山種は、相場は冷ややかなもので、それに対する自分は冷静でなくてはならないと語っている。(騰貴の末期は誰もが強気になるものである)
私たちも、健康とお米とお金に感謝し、金のたまごを生むガチョウを工夫していきましょう。 (第96回)