チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「男の生き方四〇選」

2015-11-27 08:29:52 | 独学

 97.  男の生き方四〇選  (城山三郎編 1995年3月)

 本書は、昭和三五年五月より、昭和六四年四月までに「文藝春秋」に掲載されたものの中から、城山三郎が40編を選び出したものです。ここではその中から、山崎種二著の「”ケチ種”かく戦えり」(1966(昭和41)年9月記)を紹介いたします。

 山崎種二(1893~1983年)は、伝説の相場師で、山種証券の創業者で、山種美術館の設立者。お金について、働くことについて、投資についての考え方は、現在でも十分に通じるものです。

 

 『 私が群馬県の田舎から、文字通り裸一貫で東京に出てきて、五十五年の歳月が流れようとしている。この永い間、私は相場という冷徹な生き物を相手に戦ってきた。私のことを人呼んで”相場の神様”とか、”兜町の常勝将軍”とかいう。

 そういうことばには、何か特別の神話のような雰囲気があり、私には天賦の不可思議な才能のようなものがあったかのように感じて、いささか面はゆいのである。しかし、私はごく当たり前のことを当たり前にやったにすぎない。

 相場という生き物は、冷ややかなものだ。それに対する私も冷静でなくてはならない。ソロバンを瞬時たりとも忘れず、冷徹に行動する。私の五十五年間は、これに尽きるだろう。

 ”相場の神様”がほめる言葉であるなら、私には、もうひとつの別名がある。”山種という男は冷血漢である”とか、”ケチ種”というのがそれである。しかり、私は、見栄や感情で、一銭の金も使いたくない。

 金を貯めるというのはいかにも難しい。だが、お金の使い方というのは、それにもましてむずかしいものである。「使い方がむずかしいというのは、出すのが嫌いな金持ちのいうことだ」と人はいうかもしれない。だが決してそうではない。

 金を貯めるほどの人は、貯める困難を知っているだけに、金に感謝する気持ちから、よりよい使い方に苦しむのである。安田善次郎は生前、大変なケチだと心ない人々からいわれていた。これは、生きた金を使おうという翁の心が凡庸な人々には分からなかっただけの話である。

 かって、浅野総一郎氏が川崎海岸の埋め立てをして、大東京港と大工業地帯を造るという、当時とすれば大風呂敷的計画をたて、安田翁に出資を求めたとき、翁は老体を押して三日間、その地帯を踏査し、採算ありと見るや敢然として資金を提供した。

 当時としては、この計画は全く雲を掴むようなもので、この計画に資金を出すというのは、単なるケチにできることではない。安田翁の手腕なら、もっと廻転の早い割のいい投資はいくらでもころがっていたはずである。

 恐らく、浅野総一郎氏の夢に、「国家の福祉」を見たが故に、安田翁は喜んで投資されたのだと思う。だから、朝日平吾に、些細な寄付金のことで刺殺されたときの、その瞬間の無念さは、私にはよく分かるような気がする。

 自慢めいて恐縮だが、私も郷里に道路や橋を造ったり、学校を開いたり、十数年前から育英資金なども設けて、郷里の青年を世に送り出している。そして七月七日には、私の永年の夢だった美術館も開いた。

 博物館法による財団の運営で、文部大臣の認可も受けたものである。現在ある美術品の評価は約五億円、それに運営費が三億円、勝負で稼いだ金を、この美術館にそっくり返したことになる。

 冷たい相場を相手に暮らしてきた私の人生は、たしかに冷ややかだったかも知れない。人からそういわれ続けてきたが、最後に暖かい仕事が出来、美術館という暖かい逃げこみ場所が出来た。

 とはいっても、隠居などする気は、私にはさらさらない。暖かい仕事ができたのをふり出しに、再び勝負をという意志は、私の中から一向に消えそうにないのである。 』

 

 『 私の郷里は群馬県高崎の在で、私の家は農業ながら、苗字帯刀を許された家であったが、私が生まれたころは、家運が傾いて小農になってしまっていた。

 私は子供の時から体が大きく、九歳のとき九文の足袋をはいてたほどである。それで、十一歳の頃から米作や養蚕を手伝い、十二歳からは大人に混って道普請をやったりした。

 この私の大足は、その後の私の人生に、はかり知れない幸運をもたらしてくれた。私が高等小学校を卒業した十六のとき、米は非常な不作で、その上、父の兄たちに金をせびられ、抵当に入れた田畑が高利貸しに差押えをくうなど、私の家はますます苦しくなった。

 その頃、父の従兄にあたる山崎繁次郎という人が深川で回米問屋をやっていた。この人は時事新報の全国長者番付の五十万以上の金持にもあげられたほどで、私はこの人を頼って上京した。

 家を出るとき、私の全財産は八十六銭、これで汽車賃を払って、懐はほとんどカラであった。明治四十一年のことである。奉公生活は、当時の私にとっては天国の生活だった。

 田舎では、盆、正月、秋祭りのときしか、米の飯も魚も食べられない。その魚も塩辛い鮭とかいわし位のものである。ところが奉公では、朝から米の飯が食べられ、昼には煮魚までつくのである。

 労働にしても、田植え、麦打ち、田の草とりなどにくらべたら、俵かつぎなどは何でもなかった。奉公していた頃の東京の人口は、約二百六十、七十万人。深川には三百万俵の米が入り、東京の台所の七割をまかなっていた。

 当時の米の包装は、一重俵で五斗入りなどがあり、倉へ入れるときなど、米がこぼれやすい。私が倉庫番をやらされたとき、八百俵から千俵入る倉が二十一,二あったが、そのこぼれた米はちょっとした量になった。

 私は主人に許可を得て鶏を飼った。二十羽や二十五羽の飼料は、このこぼれ米で充分まかなえたからである。私はまた倉庫にパチンコをかけてネズミをとった。当時はペストが流行していたので、予防のためネズミを交番にもっていくと、一匹で二銭もらえた。

 卵は一個一銭である。私はこうして集めた金で、こっそり相場を張った。私の一八歳の頃のことである。朋輩はこういう私をみて、”しわんぼ”とか、”ケチ”とかいった。しかし私は馬耳東風であった。

 食い盛りのことである。私とて、饅頭の一つも食べたい。しかし、金をそういう風に使っては、一銭は一銭、五銭は五銭の働きしかしない。金が金を生むまで辛抱しよう……これが私のささやかな”資本蓄積”のはじめである。 』

 

 『 山崎繁次郎商店は回米問屋だから、扱う商品は勿論米である。私はこの米というものを徹底的に研究した。昔は新穀がとれると、正米市場の控室に、各県からの米を少々箱に入れ、各問屋の中僧、小僧たちが集まって目の色を変えて、産地のあてっこをする。そのたびに、私は一等をとった。

 全国から集まってくる、何の変哲もない米粒を、ひとつひとつこれは何県、これはどこの産と見分けるのは容易な業ではない。私は寝食を忘れて米の研究に没頭した。

 はじめは皆目見当がつかない。しかし、だんだん判るようになると、米の方から私に呼びかけてくるようになる。最後には、黙って座ればピタリと当たるようになった。

 のちに私は、二四歳の若さで俵米品評会の審査委員に抜擢された。これは、深川でも異例中の異例といわれたものである。大正三年、私は甲種合格で砲兵として近衛連隊に入営した。当時の砲兵の在営期間は三年、衛生兵は特別に二年であった。

 そこで私は衛生兵になり、二年で帰ろうと思い立った。しかし、それには模範兵でなければならない。入営後の第一期検閲で、私は野砲の照準手として中隊一の成績を上げた。

 そのコツは私にすれば簡単である。深川の正米市場で売り方をしていた頃、多い日には一万三千俵から一万五千俵も売れることがあったが、それを帳面につけずに頭の中で覚えるほどの暗記力があった。

 これを応用して、中隊長が右へいくら、左へいくらというのを計算してすぐに答えを出すので、照準は一番の成績をえることができたのである。これで私は衛生兵になれた。

 衛生兵になってからは、外出日を利用して米相場を張った。よく立寄る大福屋を通じて知り合いの米屋へ連絡を頼み、売り買いを指定するのである。しかし当時の成績は余り芳しいものではなかった。

 大正六年、除隊になると私は再び山繁商店に帰り、市場部長として全国の米を捌くことになった。その年の九月最大の台風が東京を襲い、大津波(高波)で下町が水浸しになった。

 深川の米倉に寝泊りしていた者が、枕元まで水がきて目が覚めたというほど浸水は早かった。そのため、どの倉も下から三俵の線までは水浸しになってしまったのである。

 九月は米の端境期で、東京にある六十五万俵の三分の一が濡れ米になってしまったのである。濡れ米は放っておくと全部腐ってしまう。そこで、腐らせぬために、深川の堀に俵を渡し、片っぱしから引き揚げて蒸気で乾燥した。(濡れ米を空気に触れさせないめに、水の中に、一時的に保存した) この米は、オコシの原料として大阪へ売った。

 大正七、八年は第一次大戦のブームの時である。私は米でも株でも相場を当て、三万円(今の金で約一千万円)の金を掴んだ。そこで始めて、私は以前から気にとめていた娘の親に会い、直談判のような形で、婚約した。

 相手の荻原家というのは、衆議院議員をやったこともある名家であったが、娘の母親は、私を認めてくれて正式に縁談が成立した。ところが結婚式の三日前、有名な鈴弁殺しの事件が起こり、外米汚職事件にまで発展し、私もそのとばっちりを受け、生まれて初めてブタ箱にぶちこまれてしまった。

 その時の担当官が正力松太郎氏である。婚礼の前日、無罪放免になったが、花嫁の実家では婚約解消説までとび出すしまつだった。あれやこれやの挙句、やっと式を芝の紅葉館で挙げたが、私は全部一人でやり、下足番までもやった。

 「花婿はどこだ」 「玄関で下足番をやっている」という次第であった。ここまではよかった。ところが結婚後の一ヵ月目の大正九年三月十日、相場は大暴落し、米も株も大損して、三万円の財産はあっという間に消えてしまったのである。 』

 

 『 明けて十年、まだ見通しはお先まっくらであった。その上、八月から土砂降りが続き、米は大凶作の様相を呈してきた。そこで起こったのが、石井定七さん(当時の大相場師)の米の買い占めである。

 石井さんは買い続け、東京で二百万俵、現在の金にすれば、二百四、五十億円にもなる大思惑を張ったのである。私は回米問屋の支配人である。商売は米を買い集めて売ることだ。

 私は石井さんの買い占めに対して、実米を売るために全国から米を買い集めた。東京市場にきたこともない兵庫米、広島米まで集めた。石井さんの買い占めは結局失敗に終わり、石井さんには、莫大な借金と”借金王”の名前が残った。

 私たちの店は、石井さんの買い占めに、実米をソロバンで売り、石井さんが今度は買い占めた米を処分するとき委託をうけて売るという往復の商売ができたので、開店以来の数量景気になった。

 九年の大暴落で無一文になった私は、一二年頃までに、再び三万円の金を貯めることができた。関東大震災後、山繁は廃業したので、私は資本金三万円で独立した。三〇歳のときである。

 独立の翌年、米は相当の高値を出したが、私は買より売りの方が得意なので、成績は芳しいものではなく、赤字経営だった。

 ところが大正末期、大阪の買い方の主力が、かっての石井定七さんのような米の思惑買いをやったとき、売れぬまま古米になって米十万俵があるという情報を掴んだ。私は誰も見向きもしないこの古米に目をつけた。

 私は変名で大阪にいき、堂島の倉庫を全部調べた。よく見ると何度もサシ(俵にさしこんで穀類を見分ける道具)を入れてあるので虫がつき、味噌、醤油の原料にしかならぬ米である。

 しかし、匂いの方は大丈夫ではないかと考え、倉庫を念入りに調べてみると、思った通りである。私はこの米全部を買い占めた。この米を東京に運びこむと、絶対に米はこないと安心していた買い占め派は、十万俵の米がきたので投げ始め、相場は大暴落した。

 私はその前に、ちゃんと清算市場へ売りをつないでいたので、生まれて始めて三十数万円(現在の金で一億円)のお金を掴んだ。この勝利で、ヤマタネの名は挙がり、新聞にも書かれるようになった。

 昭和三年、高垣甚之助の買い占め事件、七年の”黒頭巾の買い占め”が起こった。しかし、どちらも失敗に終り、私たち売り方が勝利を握った。昭和八年は大豊作であった。政府は米の暴落を防ぐため、どしどし米を買い上げた。

 当時、農業倉庫は少なかったのに、政府は入れ物も考えずに買い上げる。私は「米をどこに入れるか考えて下さい」といったが、「そんなのは業者で考えろ」という。そこで私は倉庫に目をつけた。

 倉庫さえ確保しておけば、勝利は間違いない。私は、半年分の料金を前払いして、東京、横浜の空いている倉庫すべてを”借り占め”たのである。

 さて、新米がとれると全国から米が集まり、駅は米の山になった。 が、他の回米問屋は、倉庫がないので米を買うことができない。私は回米を買っては政府に売り、大変な利益を得た。

 その年の政府買い上げが全国で二千万俵、私はそのうちの二百万俵以上を売りこんだ。この年度は秋から春までに、五百万俵近い取扱いをし、私の利益は百万円を越えた。 』

 

 これから、山崎種二は株式の時代に入り、さらに成功をおさめ山種美術館の設立へと続きます。この回米問屋、米相場の時代に我々が学べる成功への知恵が語られていると思います。

 私は、以下のようにまとめてみました。

 (1) 自分の現状に感謝し、自分でできる事を喜びをもって行う。(田舎では、盆と正月しか、米の飯も魚も食べられなかった、昼には煮魚さえもついた。俵かつぎなど何でもなかった)

 (2) 金のたまごを生むガチョウを工夫した。(こぼれ米で鶏を飼って、たまごを生ませ、ネズミまでとった)

 (3) 米のありがたさ、お金の尊さを知り尽しており、それを生かすことを学んだ。(饅頭の一つも食べたい。しかし、一銭は一銭、五銭は五銭の働きしかしない。金が金を生むまで辛抱しよう……)

 (4) 回米問屋として、米作り、米の流通、米相場、さらには味噌、醤油への加工、オコシへの加工、濡れ米の生かし方、古米の生かし方……、米に関するあらゆる実践と知識をもって、米相場に臨んでいる。

 (5) 自分の目と足とソロバンで、米相場の中にある、バクチ的要素を徹底的に排除している。

 (6) 凡庸な人では、思いつかない仕掛けを考え、間髪を入れずに、着実に実行し、その成功体験を蓄積している。

 (7) 素人は相場に熱くなり、引きずり回され、ババを掴むが、山種は、相場は冷ややかなもので、それに対する自分は冷静でなくてはならないと語っている。(騰貴の末期は誰もが強気になるものである)

 私たちも、健康とお米とお金に感謝し、金のたまごを生むガチョウを工夫していきましょう。 (第96回)


ブックハンター「地球を救う森づくり(後)」 

2015-11-19 08:56:20 | 独学

 96. 地球を救う森づくり (後)  (宮崎林司著 平成16年5月)

 『 一九八九年七月、私は株式会社ビーボコーポレーションを設立しました。社名のもとになった「VIVO」とはスペイン語で「生き生き」という意味です。会社がテーマとする「自然と健康」を簡単に表す、的確な言葉だと思って命名しました。

 しかし、会社を興したものの、すぐに植林の夢を実現できたわけではありません。そのためには、会社を軌道に乗せる必要があります。

 当初は試行錯誤もありましたが、設立当初から取り組んできたアガリクス茸の量産・販売を軌道にのせることができ、設立十年目に植林事業への展望がひらけてきました。

 その間、私は自分のその後の行動を決める重要な人物と再会していました。かってインドネシアの合弁会社で働いていたときの社長、ルスタム・エフェンディ氏です。

 二十五年あまりにわたって、住友林業株式会社と木材生産や木材加工でパートナーシップを結んでいた合弁会社の社長だった人物です。

 ルスタム氏は一九九五年、自分の事業に集中するために住友林業との合弁を解消しました。そして長年の取り引きに対する感謝を表すために、日本にやって来たのです。

 私はすでに前の会社を退職していましたが、友人からルスタム氏が来日することを知らされ、しかも彼が会いたがっているということだったので、ホテルでお会いすることになりました。

 ルスタム氏はスブルの現場で仕事をしたときのことをよく覚えていてくれて、再会を大変に喜んでくれました。「今度、事情があって住友との合併の株式を売却して、ホテル事業に専念することになりました。ところで、あなたは今、何をしていますか?」

 私は一九八五年に父を肺ガンでなくし、その後、ガンに効果があるといわれながらも栽培困難な「アガリクス茸」というキノコに出会ったことを話しました。

 そんなに効果があるなら、量産してたくさんの困っている人に飲んでもらえるようにできないかと考え、栽培の気候に合いそうなフィリピン、ブラジル、中国でテスト栽培を行っているところだと伝えました。

 するとルスタム氏は、「それならぜひインドネシアでもやってください。そして製品になったら販売もやらせてほしい。とにかく、ずいぶん長いあいだインドネシアにきてないのだから、一度遊びに来なさい」と言ってくれました。

 こうして翌一九九六年春に、彼が経営するホテルのある東カリマンタン州のバリクパパン市に遊びに出かけました。二十二年ぶりのインドネシアはとても懐かしく、スブルでの思い出話に花が咲きました。

 そしていつか、話はインドネシアの森林資源がなくなりつつあるということにおよびました。インドネシアの国としても植林計画はあるのに、実際は紙・パルプの生産を目的としたもの以外はほとんど進んでいない。

 そのため原木が不足して、たくさんできた合板工場の多くは閉鎖せざるをえない状況にある、ということでした。彼はもともとタクイという地域の王様の子孫なので、この地域の豊かだった森林が、わずか数十年のあいだに見るも無残な光景に変わりはてたことに心を痛めていたのです。

 十五年前、彼は植林を進めるために、苗木を生産する合弁会社をフィンランドの会社と設立していました。しかし政府のかけ声ばかりで実際には植林は進まなかったので、いまは合弁を解消し、チークの植林用の苗木を栽培しているとのことでした。

 久々にインドネシアを訪れ、私はあらためて植林の必要性を強く感じさせられました。バリクパパン市には、ペット用に捕えられたり、山火事・焼き畑で森を追われたりしたオランウータンを森に戻してあげるためのリハビリ・センターがあります。

ルスタム氏は「見せたいものがある」と言って、私をその「ワナリセット・オランウータンリハビリ・センター」へ案内してくれました。スブルで森林伐採にたずさわっていたころ、ジープでの移動中に野生のオランウータンの親子に出会ったことがありました。

 ふつう動物は人間がクルマで近づけば逃げ出しますが、そのオランウータン親子は逃げ出さずにじっとして、何かを訴えるような眼差しでこちらを見つめていました。はじめてのオランウータンとの遭遇でした。森林開発の犠牲となったオランウータンがリハビリする姿に、私はあのときのことを鮮やかに思い出しました。 』

 

 『 行き場を失ったオランウータンを熱帯雨林の森に戻すために最初に立ち上がったのは、バリクパパン市のインターナショナル・スクールの生徒とその親たちでした。一九九一年、ワナリセット・オランウータンリハビリ・センターが設立されました。

 オランウータンは通常、生まれて八年間は母親とともに過ごし、森で生きていくためのさまざまな知恵を授かったのちに自立していきます。しかし、小さなころに母親を殺されて人間のペットになってしまったオランウータンは、森の中でどのように食べ物を探し出せばよいかを知りません。

 さらに、森の生活で基本となる木登りの習慣も身につけてないので、枝から枝へと移動することさえできないのです。これではペットの状態から救い出したとしても、森の中で生きていくことはできません。そこで野生にもどすためのリハビリが必要となり、まったくの、草の根運動から、この施設がスタートしました。

 私はルスタム氏からこの話を聞き、何もしていない自分に気づかされて寄付をすることにしました。オランウータンは熱帯雨林の破壊による被害者の象徴であり、それは私の彼らへの罪ほろぼしの気持ちだったのです。

 オランウータンは、カリマンタン島とスマトラ島にしか棲息しないアジア最大の人類猿で、熱帯雨林の象徴的な存在でもあります。森の哲人ともいわれる彼らの姿には、森林のもつ神秘的なものが宿っているようにも思えます。

 まなざしはどこまでも優しく、大自然のなかで共生することの知恵を生まれながらに備えているまさに森の哲人と呼ばれる動物です。そんなオランウータンを森から追いやってしまったのは誰なのか。

 私は心のなかには、森林開発と称して熱帯雨林の木々を伐採し、結果的に熱帯雨林破壊の原因をつくってしまたという思いが残っていました。この最初の訪問を契機に、私はセンターを訪れるため、毎年カリマン島へ行くことになりました。

 一九九九年一月、私はいつものように、オランウータンのリハビリセンターを訪問するためにバリクパパン市を訪れました。その前年までに、カリマンタン島では大規模な山火事に見舞われていました。

 空港からホテルへ向かう途中の車中でもその影響がわかり、「カリマンタンの山火事は本当に民家の近くまで迫っていたんだな」と感じていました。迎えてくれたルスタム氏は「とても長いあいだ燃えつづけて大変だった」と溜め息をついていました。

 そのときは私も「大変だったんだなぁ」という程度の気持ちでしたが、翌日郊外にあるオランウータンのリハビリセンターへの移動の車中では「ここも、ここも……こんなにも!」という驚きの連続でした。

 森林火災の生々しい爪あとがあちらこちらに出ていました。このカリマンタンの山火事については、当時日本でも大きく報道されました。

 ヘリコプターからの映像は惨状を生々しく伝え、新聞には煙がシンガポールやマレーシアまで広がり、気管支炎の患者が増えたとか、スマトラでは煙で視界を失った飛行機が墜落した、といった記事も出ていました。

 しかし、山火事のあとで森林がどうなったのかという報道はなく、はじめて目の当たりにした私は驚愕しました。大きな木が伐採された後とはいえ、細い木は森林と呼べる程度には生えていたのです。

 それがいまは、まるで白骨化したかのような木々の燃えたあとが延々と続くだけでした。その光景に、私の体がふるえるほど驚いたのです。

 九七年五月に始まった森林火災は、十一月まで続いたあといったん鎮火しましたが、九八年一月に再び燃えはじめ、その年の五月まで続いたのです。

 長期化の原因は、八年ぶりの異常気象(エルニーニョ)の影響で雨がほとんど降らず乾燥が続いたことにありました。そのうえ本来なら燃え移らない泥炭層に火が入ったため、鎮火が非常に困難だったようです。

 この大森林火災で燃えた森林は、カリマンタンだけで五百七十万ヘクタールにも及んだそうです。日本に帰ってそれが九州全土の大きさに匹敵すると知り、さらに驚きました。

 山火事はインドネシアで起こったことですが、その国だけに止まらず国境を越えて「地球的な問題」であることを再認識させられました。

 オランウータンのリハビリセンターに到着すると、山火事で森を追われたオランウータンであふれていました。通常の施設では追い付かず追加の二百頭分の仮小屋がつくられましたが、それでも満室状態でした。

 オランウータンの大きさもさまざま、傷ついたものもいたりで、センターは異様な雰囲気につつまれていました。 』

 

 『 帰国後も、自分なりに、何ができるかを考え続けました。その間、ルスタム氏とは山火事跡地の再生について、意見交換を繰り返していました。その中で、チーク苗とメランティ苗の寄付をしたらどうだろう、という提案をもらいました。

 それらの苗は組織培養によって人工的に育てられたもので、それは彼が長年の研究のすえ、数年前に量産化に成功したものでした。

 提案を受け入れた私は法律上、州政府には直接寄付を禁じられているので、寄付は東カリマンタン州で活動をしている財団を通して寄付を行うことにしました。

 成長性にすぐれた「チーク」は財団の十年後の収入源になるように、また地場の樹種「メランティ」は地域の森林再生のために、二種類の苗をセットに寄付することにしました。

 これが「ツーインワンシステム」によるWエコ、つまりエコロジーもエコノミーも同時に達成できるシステムの原形となったのです。一万本の苗木の寄付は当時の私にできる精一杯の行為でしたが、大きな傷跡の前では、それは大した量ではありません。

 もっとできれば……という思いでいっぱいでした。しかし、現地の受け止め方は違い、想像をこえる歓迎で迎えていただきました。バリクパパン市では、環境セミナーに集まってくれた人たちの前で、市長に寄付の苗を手渡しました。

 翌日は州政府のあるサマリンダ市まで小型飛行機で移動しましたが、その間に見えるものも、やはり延々と続く白骨化した立木の光景ばかりでした。小さなローカル空港に到着すると、州知事の専用バスが迎えにきてくていました。

 そして迎え入れられたのは、州知事室です。知事室での談笑のあと州庁舎の講堂に招かれ、林業関係、環境関係、地域の自治体の長などが居並ぶなか、苗木の引き渡しセレモニーが行われました。

 先の財団の総裁にまず苗木を手渡し、それが州知事に渡され、州知事が村長に手渡す、というものでした。セレモニーの内容については何も知らされていなかったので、最後まで驚きと戸惑いの連続でした。

 それまで誰も、山火事跡に植林をするための苗木を寄付したものがいなかったからです。知事や財団総裁の歓迎スピーチのあとに「ひとこと挨拶を」と指名されました。私はこんなことをしゃべっていました。

 「日本では古くから、子どもが誕生すると、家のまわりに「桐の木」を植える習慣があります。桐の木は成長が早く、生まれた子供と同じように成長していきます。

 そして子どもが成人して結婚するときに伐採して、嫁入りのタンスにしたり、木材として販売してお金をつくるのです。農家のみなさんに今お渡ししたチークはふつうのチークよりも成長が早い、とても良い木です。

 ぜひ、家のまわりに植えて、日本の昔の習慣にならって皆さんの子供さんたちのために育てていただきたい」 また、次のような話も付け加えました。

 「東カリマンタン島の熱帯雨林は、もちろんインドネシアのものであることに違いありません。しかし同時に、地球環境の安定のためになくてはならない存在なのです。そういう意味で、人類全体の森であるといえます。どうか、そのことを忘れないで、大切に育てていってください」

 このときのことは、地元の新聞やテレビで報道されました。後にインド大使館が二万本の寄付をしたり、フランスのホテルグループ「ノボテル」が寄付を始めるきっかけとなったとルスタム氏より聞きました。

 その翌年、植林ツアーと寄付のために訪れたとき、クタイ県の知事から、「宮崎さんが去年話した、家のまわりに子供たちのためにチークを植えることが、いま運動になりつつあるよ」と言われました。木を切ることだけでなく「植えること」への理解が広がっているようで、嬉しく思いました。 』

 

 『 「熱帯雨林の再生」とは、極めて重要で大きな問題です。しかし、私たち人類のできる事には限界があります。そんな中で何ができるか考えた結果は次の三点です。

 まず、一つ目は、現在残されている森にできるだけ人手を入れないで、自然に二次林を形成させ森に育ちそうな地域を維持していくことです。これは地元の自治体や中央の政府、公社そして国際協力が中心の分野です。

 国立公園や県立公園を保護林として指定し管理し保護していく方法です。インドネシア林業公社のひとつインフタニ社が展開している新しい試みがあります。

 バリクパパン市より約五八キロのところに保護林を設定して、エコツアーの人をうけいれています。ここでは、自然林のトレッキングをしながらそこに生える植物、樹木などを見ながら学ぶこともできます。

 そのコースの終点に樹高三〇メートルの所につり橋を作ってあり、樹から樹へと移動しながら熱帯雨林を空中から観察できる施設があります。この施設の維持費を確保するために、二〇〇一年より立木トラストともいうべき「里親木」制度があります。

 この制度は、自然林の樹木の里親になって、一本当たり年間百ドルを負担する制度です。自分のお気に入りの木を選んでその木の前に名前を書いた木の看板を建ててくれるというものです。

 二つ目は、この保護林内の樹木のなくなっているところに「メランティ―」の苗木を寄付して植林することです。これらの場所は焼き畑でもなく荒廃して粗な茂み=灌木林、二次林になっているところを「茂み」から「林」に林から「森」に育つように応援することです。

 そのためにはもともとその地場に生えている様々な樹種を過去の伐採で粗になった部分を補植して、森林の再生を支援してやることです。

 昨年からはボルネオ・オランウータン・リハビリセンターとは別に「オランウータンの森づくり」に苗木の寄付も始めました。この場所では、将来オランウータンが住めるような森にする計画で、実のなる樹種を中心に、いろいろな樹種を植林してゆく事業です。

 二次林のなかにできるだけ沢山の樹種で果物のなる樹を中心に植林して、オランウータンが住める森づくりをはじめています。

 三番目は、焼き畑跡地で収穫が十分採れなくなったので、農民が次の場所に移動してしまい放置されている草地です。この草地は、放置しておくと林や森に戻るには、千年単位の時間がかかると思われる地域です。

 この面積はどんどん増えているのです。このことをやめても生活できる方法を提案、開発しないかぎり熱帯の森林破壊は続きます。

 この地域の土地を有効に活用して、地元農民の現金収入機会に役に立ち、地域の森を回復できるシステムを構築することが、熱帯雨林再生の第一歩です。そのために生まれたのが、先に述べた「ゴールデンバイオチーク植林」と「ツーインワンシステム」です。 』

 

 『 「ゴールデンバイオチーク」とは、私が命名した組織培養法による植林用苗木の呼び名です。従来のチーク植林との違いは、まず丈夫で品質の良い木材を得るための苗の作り方にあります。

 この苗づくりは、従来の種子から育てる方法ではなくて、組織培養によります。組織培養という技術は、農業や園芸の分野では古くから使われてきた手法です。

 私のインドネシアのパートナーであるルスタム氏が一五年前にチークに着目し、インドネシアのチークの九〇%を管理しているブルフタニー林業公社との共同研究事業としてスタートしたのです。

 チークの種子は発芽率が低く、しかも優良な種子を確保することが、とても大変です。そして、苗の形質が一定でありません。組織培養法では、無菌の寒天培地で細胞組織を培養、増殖しますので、ウィルスのストレスがありません。

 ストレスに影響されないので成長が、種子から育てた苗木よりも二~三倍の成長をするのです。しかも、林業公社のチーク林の中でも成長性に優れ、材質的にも良質の遺伝子をもった組織を増やしたものなので、当然、植林後の成長、木材の収穫も良いものになります。

 ルスタム氏はその開発に十年あまりの歳月をかけ、やっとチーク苗の増殖に成功したのが五年前なのです。五年前といえば大きな山火事に出会って、私が初めてインドネシア東カリマンタン州に苗木を寄付した年です。

 その時にルスタム氏にすすめられてこの「チーク」の苗木を寄付しました。この時の苗は、一つはサマリンダのマハカム河上流の農家の土地で大きくなって今や直径二十センチ、高さ十四メートル余りになっていると報告を聞いています。

 もう一つはバリクパパン市に寄付し、市が郊外に植林したものは、昨年十月に見てきましたが、植林後一度火災に会ったそうですが、その影響もなくよく育っていて、直径十二センチ、高さ十メートルを超えてスクスクそろって伸びていました。

 ルスタムしから、チーク植林の魅力を熱心に聞かされ、寄付だけだなく事業としてやらないかとの話がありました。しかし、この時点で、そのチークが東カリマンタンで育つのか、本当に十年で直径三十センチを超えるほどに大きく育つのか疑問だらけでした。

 私自身が前の会社で、海外の植林事業について業務研究をしたときは、南米チリにおけるラジアータ松以外は事業としての採算性がない、という結論を出してました。 

 ですからインドネシアで紙パルプ用途以外の家具、建築用材の植林に事業性があるものはないと考えていました。そのために、なかなか決断しない私に世界の「チークネット」の会議が、インドネシアのジョクジャカルタで開催せれるので、ぜひ参加してみないかという誘いがありました。 』

 

 『 一つの樹種でこのような世界的な組織があること事態に「チーク」の価値の大きさを知ることができました。会議は予想をこえる大きな規模でした。

 会議では準備されたチークの苗木づくり、栽培技術、流通にいたる迄の詳細な情報を得ることができました。そして、何カ所かの組織培養苗を植林したところも見ることができました。

 最終的に決断したのは、チークネットの会議の進行役として、バンコックにあるFAO(国連食糧農業機関)極東事務所より来ていた森林官、樫尾昌秀氏の意見を聞くことができたからでした。

 忙しい合間を縫ってコーヒータイムに時間をいただいて、チークのこと、インドネシアのこと、ジャワ島以外での組織培養苗による植林の事業性など様々な観点からお話を伺いました。

 いろいろな国の森林事情に明るく、チークについても世界会議の進行役を務める彼の意見は貴重でした。最後に「自分はルスタム氏のいうチークの植林事業で十年を超えて、直径三十センチを超えた木を見ていないが、この事業プランについてどう思うか?」と質問しました。

 彼は、少しの間考えて「良いと思う、おもしろいじゃないですか」と言ってくれました。組織栽培によるチークの栽培は、ミヤンマーやタイでも行われていること、チークは植林後、初期の十五年間は直線的に成長するので、十年生を見ていないから不安というのはそんなに問題ではないと言ってくれました。

 ルスタム氏の話に一〇〇%乗り切れなかった自分が明確に「組織培養のチーク=ゴールデンバイオチークの植林事業を焼き畑跡地でやる」と決断した瞬間でした。

 この植林事業は、これまでの熱帯雨林地域の植林にない特徴があります。 1. 組織培養による優良な苗木である。 2. 組織培養法のために、ウィルスによるストレスが少ないので、種子苗の二~三倍の成長をする。 

 3. マイクロバ(菌根菌)の活用ににより、栄養吸収を高め、成長を促進させる。 

 (菌根菌とは、植物の根につく菌類のことです。菌根は消化酵素を分泌して植物の根の細かい繊維から栄養を吸収します。また植物の落ち葉を分解して、植物の根からの栄養の吸収を高めます。

 この共生関係は、肥沃でない土壌の地域での植物の成長には不可欠です。菌根菌は植物の根表面と皮質の細胞内の両方で活動します。)

 4. 熱帯雨林の高温多湿の環境は、雨期の期間が長いので他の地域に植えたチークよりも早く成長します。 5. 焼き畑跡地での植林なので、病害虫被害がすくない。

 6. 三年生以降になれば、火災に強い耐性の樹皮が形成されるので火事による被害が出にくい。  7. GPSで植林した木の正確な位置を表示して、管理し、確定のうえ「公正証書」を発行できる。

 8. 国際的に流通している評価の高い木材で、価格的にもたいへん安定している。 9. 従来のジャワ島でのチーク栽培に比べて三倍のスピードで成長する。

 10. 成長が早いが、木材の品質は維持されている。 11. 初期の二~四年のあいだは樹高方向に真っ直ぐ伸び、その後直径が太くなるので、木材として利用価値の高い形に成長する。

 12. このために初期に植林する単位面積あたりの本数がすくなくてすむので、林間で農作物が栽培でき、アグロフォレストリーができる。

 13. このために利回り七%程度の価値成長をします。このチークと地場の樹種で天然林再生に必要な苗木と組み合わせることによって、エコノミーとエコロジーが両立する道も開けます。 』 (第95回) 


ブックハンター「地球を救う森づくり(前)」

2015-11-11 08:59:15 | 独学

 95. 地球を救う森づくり (前)  (宮崎林司著 平成16年5月発行)

 本書は森づくりの本ですが、前半では、熱帯雨林の破壊がどのような手順で行われるのか、現地にいてその一端に携わった著者の話には、現地の人々だけでなく、我々日本の消費者の責任をも見えてきます。

 ここで私なりの熱帯雨林の定義について述べます。熱帯雨林は年間を通して強い太陽光のもとにあります。この強い太陽光に対抗するために、大量の雨と五層にもなる樹木をもちます。アジアにおいては、最も高いフタバガキの巨木は、60~70メートルの高さになります。

 この層から、順に低い層に、太陽光は利用され、地上の着くまでに、その太陽光は利用し尽くされます。このような植物層を形成するには、大量の水が必要となり、雲を形成するための山、海と森をつなぐための川が必要です。

 この多様な植物に、一つの植物種には、数種から数十種の昆虫が生息し、川には魚類が生息し、森には、木の葉、昆虫、果実、花蜜を基本食料として、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類が、相互の共生と食物連鎖によって、頂点捕食者が形成されますが、捕食者の糞と死体は、菌類によって分解されて、森に還ります。

 すなわち、熱帯雨林全体を一つの系と捉えると、熱帯雨林自体が、代謝(物質循環)することによって、巨大な生命体として、エントロピーに逆走しています。これらの熱帯雨林も中心となる巨木を失う時、巨大な生命体としての熱帯雨林も失われます。

 

 『 新しい職場についてまもなく、私は初めての海外出張を命じられました。行先はインドネシアのセレベス島(スラウェシ島)です。千メートル級の山々が連なり、山林が複雑に入り組むこの島で、輸入する価値ある木材が十分にあるかどうかを調べるのが仕事でした。

 生まれてはじめての熱帯雨林のジャングル、そのうだるような暑さのなかで山ヒルに血を吸われながら、時にはボートを押しながら川をさかのぼり、道なき道を進みました。

 現地のガイドでさえ「フォレスト・ショック」というパニック状態におちいり、彼はとうとう帰ってしまいました。そんななかでもさらに奥地へ進みながら、約一週間の調査を進めていったのです。

 当時、熱帯雨林の調査といえば、ただひたすら根気よく、山を歩きながら測定するしかありませんでした。調査区域を幅二十メートルにしぼり、コンパスを見ながら、ひたすらまっすぐに歩いて商業木として該当するものを測定していくのです。

 人の意志を働かせないで平均的なデータをとるために、決めた調査区域から逸れないのが絶対条件です。行く手が谷であれ山であれ沼であっても、困難をよけて通ることはできません。

 このような地を這うような調査によって、山全体に商業木がどれだけ蓄積されているかを推計してゆく訳です。

 こうした熱帯雨林の調査結果、開発するに十分な木材があると判断したら、会社はその山で二十年間にわたって伐採できる林区権(森林開発権)をその相手から買い取ります。

 私が出張したインドネシアで、大規模な森林開発が行われるようになったのは、一九六七年の外資法改正以降です。その前年に大統領となったスハルト将軍が、インドネシアの解放経済を進めたのです。

 インドネシア政府は外国企業に対して、自国の熱帯雨林の開発を積極的にはたらきかけ、外貨をかせいでいきました。

 七十年代には日本をはじめ韓国、マレーシア、シンガポールなどから開発申請を行う企業が相次ぎ、インドネシアの熱帯雨林の広範囲で伐採事業が進められたのです。 』

 

 『 セレベス島での厳しい出張を経験した翌年、私は正式にインドネシアの駐在員としてカリマンタン島のスブルという所に赴任しました。赤道直下の電気も水道も来ないベースキャンプでの暮らしが始まりました。

 スブルは、熱帯雨林から木材を伐採・搬出するための最前線の基地です。私はそこのアシスタントマネージャーとして赴任しました。

 ところが、その二ヶ月後にやって来た新しいマネージャーが早々にサマリンダという町の支店長に異動となり、しかも新しいマネージャーが補充されることもなかったため、すべての問題が経験の浅い私にふりかかってきました。

 やがて本社から「お前がマネージャーをやるように」という辞令が降り、私は二八才の若さで百八十名のベースキャンプの責任者になってしまいました。

 私は現地スタッフに最低限の単語を少しずつ教わることから勉強を始め、半年かけて、なんとか問題なくインドネシア語でコミュニケーションができるようになりました。しかし言葉がわかるだけでは、仕事になりません。

 ベースキャンプでの仕事は多岐にわたりました。まず伐採しようとする山の調査から始まり、伐採のための効率的な道路建設の立案、インドネシア林業省の年間伐採許可取得、実際の道路建設と続き、ようやく伐採となります。

 切るのは直径六〇センチ以上の太い木です。切り倒して丸太にした木はトラクターで道路に運ばれ、そこでトレーラーに積み込まれ、マハカム川という川のログポイントまで運ばれます。

 ここで検品・計量を受けて官庁の許可をもらってから、丸太は筏に組まれカリュウのサマリンダという町まで曳航されていきます。ここまでが私の仕事でした。

 一連の作業は何班にも分かれて、雨の日以外、毎日続けられます。三人いた日本人の現場監督からは、安全で効率的な作業のための改善の提案が毎日のように、私のもとに持ち込まれてきました。

 彼らはみな四十代で、私よりずっと先輩にあたります。経験豊富な現場監督の提案は、生産効率や故障の割合などを数字で把握してみると、どれも的を射たものばかりでした。

 私は納得できる意見は尊重し、それに沿ってどんどん現場を改善していきました。最も大きな改善点は、労務管理についてでした。勤務状況をごまかしたり、会社のものを勝手に持ち帰るような従業員が多かったのです。

 私はマネージャーになってから半年で百八十名いた従業員の三分の二を入れ換え、まじめに働くものだけを集めました。

 また賃金制度も改めて「固定給プラス出来高払い」を導入し、まじめに働けば評価してもらえるが、不正直なことをすればクビになる、ということをキャンプ全体に浸透させてゆきました。

 総務の面でも、事務所内の机の配置をマネージャーである私がすべて見渡せるように変え、一人一人に報告させるようにして、個々の仕事のシステムを少しずつ改善してゆきました。

 相手を信頼して教え、育てていく。良い仕事をしたらほめて、それを給料に反映させていく、こうした改善によってベースキャンプは急速に生産性を上げることが出来ました。

 初年度に日本に送った原木は八万立方メートルで、これは前年の二倍にあたります。二年目にはさらに生産能力が上がり、十二万立方メートルになりました。

 マネージャーとしての二年間が過ぎたとき、東京から社長が視察にやって来て、「東京に戻るように」との辞令が伝えられました。 』

 

 『 六〇年代後半から始まった高度成長とともに、日本では住宅の建築ラッシュが起こり、木材需要が急激に高まりました。こうして七〇年代から八〇年代にかけて、日本は東南アジアの熱帯雨林から切り出した原木丸太を大量に輸入するようになります。

 一九七〇年から一九八〇年の間に日本がインドネシアから輸入した木材の総量は、約二億千三百七十三万立方メートル。これを森林面積に換算すれば約千二百万ヘクタール、実に日本国土の三分の一の広さになります。

 しかもマレーシアなどからの輸入もありましから、この時期いかにたくさんの熱帯雨林が日本の住宅のために切り出されたかが推測できるでしょう。そのまっただなかの時代に、私は森林開発の現場に深くかかわっていました。

 インドネシアのカリマン島スブルから東京本社 に戻った私は、営業管理の仕事をしながら、林区の売買の話があれば海外の森林調査へ出掛けていました。そのような日々を二年間過ごしたあとで、今度は、同じカリマン島でもマレーシアのサバ州へ赴任することになりました。

 このベースキャンプは数年前からスタートしていましたが、商業木の蓄積量が投資した額をはるかに下回り、事業としては失敗であることがわかっていました。

 そこで会社は、この林区から木材をできるだけ早く切り出してローンをできるだけ回収し、事業をたたむ計画を立てました。そのプロジェクトに、私が今度は山林現場の監督として参加したのです。

 赴任してしばらくたつと、伐採作業が以前よりも順調になり、木材搬出量が増えてきました。そんなある日、私はトレーラーの運転手と雑談していて、ふとその言葉を耳にしたのです。

 「毎日毎日、こんなに大量の木材を切って運んでいるけれども、いったい日本人はこれを何に使っているんだ。木を食べているのか?」それは会話のなかの単なる冗談の一つだったのでしょう。しかし、私にはなぜかグサリと胸に刺さりました。

 そう揶揄されても無理はありません。私たちは連日、四〇トントレーラーで何十台も原木を運ぶ作業を繰り返していたのです。それは毎日の仕事ですから何の疑いもない光景でしたが、言われてみれば「本当にそうだな」と納得するばかりでした。

 私には思いも寄らない、素朴な一言でした。それまで当たり前に行ってきた森林開発という自分の仕事に、はじめて疑問を抱くきっかけともなった、とても重いことば言葉でもありました。 』

 

 『 森林開発では、商業的に取り引きできるだけの大きな木を切ることが目的になります。これから大きくなる細い木まで、すべて取ってしまうことはありません。もし木を植えて育てる量と伐採の量のバランスがとれていれば、森林破壊が起こらないのです。

 七〇年代から八〇年代に日本をはじめとする外国資本が行った森林開発は、明らかに自然界のバランスを崩す乱伐だったことに間違いありません。インドネシアやマレーシアには大きな外貨をもたらしましたが、一方で熱帯雨林は劣化し、減少しつづけました。

 それがのちに環境破壊として、世界中から非難を浴びることになるわけです。しかしそれに拍車をかけたのが、インドネシアの農民たちが行った焼き畑と不法伐採でした。

 それまでは未開のジャングルで農業など不可能な土地でしたが、木材搬出のための道路が造られたために、耕作地を求める多くの農民が自由に山へ入ってくるようになりました。しかもそこには大木が切り倒されたあとで、もう少しの整備で農地とすることが可能だったのです。

 山に入った農民は、森林に残された細い木を切り倒して耕地をつくり、さらに下草を焼き払って、いわゆる「焼き畑農業」を行いました。そこで陸稲を育てたり、バナナやトウモロコシなどを栽培するのです。

 しかし、土壌はあまり豊かではありません。連作はきかず、せいぜい三~四年で作物が育たなくなってしまいます。すると農民たちは次の新しい耕作地を求めて移動し、また別の土地で木を切り倒し、焼き畑農業を行います。

 それが延々と繰り返され、森林破壊は加速度的に進んでいったのです。日本人の感覚では、国有林であるはずの山になぜ勝手に侵入して農業ができるのか、疑問に思えます。

 しかし、山を開墾して「ここはオレのものだ」と畑をつくることは、インドネシアでは古くから習慣的に行われてきたことでした。本来なら、畑をつくったら官庁に届け出て税金を納めて所有権をもらいますが、お金がかかるため正式な手続きを踏む農民はほとんどいません。

 国の法律ができる前に、農民たちの間には昔から続いてきた習慣による暗黙の「法律」が存在していたのです。カリマンタン島に昔から住んでいるダヤック族などは、集落をつくって比較的長期間そこに定住し、狩猟と、小規模の伝統的な循環型焼き畑を営みながら森と完全に共生して暮らしてきました。

 耕作地をむやみに拡大するのではなく、一定のサイクルで休ませながら焼き畑をまわして使うのです。しかし森林開発がエスカレートしてからは、こうした伝統的な焼き畑の習慣を持たない人々が、次々にカリマンタン島に流入してきました。

 政府の推奨した「住民移住計画」によって、人口密度の高いジャワ島やほかの島から、貧しい農民たちが移住してきたのです。

 彼らは政府から一定の土地をもらった移住者ですが、こうした循環型焼き畑の習慣がないため、数年で次々に新しい農地を開拓し、熱帯雨林の森を焼き払っていったのです。 』

 

 『 われわれが開発した山でも、農民たちがつくった焼き畑に度々ぶつかることがありました。しかし、「勝手に木を切って焼き畑にするな」とは言えないのです。

 特にほかの島から移住してきた人々は、ほとんどが貧しい農民で、未開の土地で必死に生活している人々でした。不法侵入者として排除することはできません。

 そもそも道路がなければ、このようなことは起きませんでした。したがってこの問題も、外国資本が行った森林開発がもとになっているのです。

 ただし根底には、インドネシアの人口問題や貧困問題もひそんでいます。環境問題には人間社会の複雑な要因がからんでいるので、解決も難しくなるのです。

 焼き畑農業ばかりではありません。森林破壊は、さらに違法伐採によっても進んでいきました。われわれが森林開発で伐採するのは、一ヘクタール内で四~五本という割合でした。

 残されたまだ成木とならない細い木を違法伐採して、現金収入を得る人々が後を絶たなかったのです。こうして熱帯雨林は、ところどころ完全な丸坊主の状態になり、そのままでは再生が難しいほどに破壊されてしまったのです。

 熱帯雨林の環境は地球環境にとって、とても大事ですが、地元の貧しい人々の生活をどう成り立たせていくかも重大な課題です。つまり環境を守るには、地元の人々の生活が成り立つような、経済的な裏付けが必ず必要になるのです。 』

 

 『 東京本社でのデスクワークのあいまに、私は海外のさまざまな森林調査にでかけて行きました。一つの案件に約一か月ほどかかるので、年間の三分の一は日本にいませんでした。

 こうした忙しい毎日のなかで、私は自然に対する見方が、しだいに変わってきたことに気づいていました。単純にそこに経済的な蓄積があるからという理由で、森林開発にGOサインを出すことができなくなっていました。

 会社の仕事の一方で、熱帯雨林は守らなければならないということを意識しはじめていました。それが決定的になったのが、一九八八年(昭和六三年)に起きたNGO「熱帯林行動ネットワーク」によるデモでした。

 「マレーシアのサラワク州の原住民の生活を守れ」というスローガンのもと、大きなチェーンソーの模型を持った大勢の人々が、ある商社に押しかけたのです。その商社は、前年の木材の輸入量で国内第一位となっていました。

 チェーンソーの模型には「森林破壊大賞」という皮肉な文字が躍っていました。サラワク州は、カリマンタン島マレーシア領の一帯で、インドネシアとの国境周辺にはカブアス・フル山脈などが広がる広大な山岳地帯があります。

 ここには太古の昔から、イバン族という山岳民族が森と共生しながら暮らしていました。ところが日本企業による森林開発が広がるにつれて、昔ながらの伝統的な森との共生生活ができなくなってしまったのです。

 この事実を知ったNGOが、南洋木材の輸入量が当時、日本一であった商社にデモで押し掛けたのです。このニュースを知った私は、強い衝撃を受けました。

 現地従業員の利益も考え、そこに昔から住む人たちも尊重する気持ちをもって、森林開発にあたっていた私にとって、そのデモの真の矛先が、自分自身であることを思いました。それが、大きなショックだったのです。

 ただし、そのころの私には、必ずしも自分たちが環境破壊の旗手であるわけではないのだ、という思いもありました。私たちんの伐採事業は、先にも述べましたように、胸の高さの直径が六〇センチ以上の太い木しか切らない「択伐」というやり方を守って進められました。

 そのような木は、一ヘクタールでせいぜい四~五本程度です。森林開発というと山を丸裸にしてしまうようなイメージがあるかもしれませんが、決してそのような乱伐をしていたわけではありません。

 そういう自負がありましたから、なぜ環境破壊の首謀者のように非難されなければならないのか、という思いもあったのです。しかし彼らの主張を聞いているうちに、環境破壊の大きな原因は、われわれが開発のために切り開いた道路のあることがわたってきました。

 この道路が焼き畑農業や違法伐採を推進する結果になったからです。われわれがつくった道路を使って侵入し、山を本当に丸裸にしてしまう人々を、先進国に生きるわれわれの論理で、簡単に非難することはできません。

 彼らの多くはほかの島から移住してきた農民で、いくつかの場所をローテーションでまわす伝統的な焼き畑の方法を知りません。そもそも、生態系における森の重要性を認識して、森を守らなければならないなどと理解している人は一人もいないのです。

 彼らは生き残るために、一生懸命に自然と闘っているのです。違法な伐採にも、経済的な背景があります。合板工場や製材工場への原木を確保できなければ工場は止まり、多くの従業員が路頭に迷うでしょう。

 われわれがつくった道路は、われわれが想像もできないような面からも、森林環境に変化をあたえていたのです。 』

 

 『 このような環境破壊は、熱帯雨林に存在する貴重な動植物の種を、地球上からものすごい勢いで消し去っているとも非難されました。熱帯雨林は陸地の七%に相当するほどの広さがあり、そこには地球上の生物の五〇~八〇%の生物が生息していると言われています。

 特に熱帯雨林は「生物の宝庫」です。そこには人類にとって食料や薬の原料になる貴重な野生生物種が数多く生息していると見られ、将来の研究成果が期待されています。

 熱帯雨林を破壊する行為は、そうした未知の生物種を絶滅に追いやることで、人類や地球の繁栄を妨害していると多くの学者が主張しています。それほど熱帯林、特に熱帯雨林での生物種の絶滅は急速なスピードで進んでいると指摘されました。

 こうしたさまざまな意見を聞いているうちに、私は自分たちが行ってきたことの重大さをはっきりと理解できるようになりました。気づかないところで、人間も含めた自然体系に大きな影響を与えてしまっていたのです。

 「このまま森林開発を続けていてはいけない。なんとか植林事業を展開できないだろうか」という私の思いは、これをきっかけに日ごとに強くなっていきました。

 もしわれわれの会社が環境破壊の元凶であるという抗議デモを受けたら、企業のイメージダウンは相当なものになります。そのダメージを回復するための広告宣伝費は、二十億や三十億では足りないでしょう。

 私は社長と会長に直接会って談判し、それだけのお金を植林事業に活用すべきであることを提案しましたが、「会社がもっと儲かって、余裕がでてきたらやりましょう」という結論でした。

 こうして私は、自分の人生を自分で切り開き、自分で納得して、心から誇れる仕事をなしとげるために、一八年間勤めた会社を辞め、「自然」と「健康」をテーマとする会社を興す決意をしたのです。 』

 

 ここまでを「地球を救う森づくり(前)」として、森づくりについては、後編へと続きます。

 私は、この前半の熱帯雨林の過去から、現在までの歴史がかなりの精度で記述されており、熱帯雨林のすごさとその「はかなさ」がよく記述されていると思います。

 これは、メソポタミア文明やエジプト文明が塩害によって、豊かな農地が小麦から大麦、そして不毛の地になるように、はかないものです。熱帯雨林は巨木を中心に多くの樹木によって、強烈な太陽光を何段もの葉の葉緑体によって、光合成をおこなって、地表を太陽熱から守っています。

 木の葉から水分として蒸発した水蒸気は、上空で雲となり山にぶつかり雨を降らせます。熱帯雨林は、酸素を供給するとともに、温度上昇をも抑えています。

 道路とチエンソーとトレーラー(木材を道路まで引っ張る)と火によって、あっという間に不毛の大地になりますが、元の熱帯雨林に戻すには大変な努力と資金を投下しても、少し近づけることしかできません。

 そして、これらを失った時、われわれは、はじめてその重要さに気づくのではないでしょうか。(第94回)

 


ブックハンター「銀座ミツバチ物語」

2015-11-01 19:15:39 | 独学

 94. 銀座ミツバチ物語  (田中淳夫著 2009年4月)

 『 ハチミツの味の違いをご存じですか。たとえば春先のソメイヨシノのハチミツは、桜の花の香そのものではなく、それを凝縮したような強い香りがする、サラッとしたハチミツです。

 ハチミツは「甘い」という認識しかないのが一般的でしょう。日本の養蜂は砂糖の代替品としてのハチミツを採るために行われていたという歴史があるので、それも仕方がないのですが。

 しかし、ドイツ、フランスなどヨーロッパのハチミツ先進国では違います。味はもちろん、香り、風味、糖度などによって、どんな料理に合うかなどが真剣に論じられたりもします。

 ドイツでは栗のハチミツは、その癖のあるビターな味わいが逆に珍重されています。ブルーチーズにかけ、発酵度の高い赤ワインと一緒に食すると最高のマリアージュ(融合)になると言われたりします。

 同様に癖が強く日本では人気のないソバのハチミツは、フランスではジンジャーブレッドというお菓子づくりに欠かせない材料として高い人気をほこるそうです。実はソバ焼酎に入れるととても合うんです。

 こうした季節の食材などと合わせた形でそれぞれのハチミツを楽しむ文化が、多分これからの日本でもはやることになるのでは、と私は思っています。しかも、同じ花のハチミツでも産地によって、また、その年の気候によって味が異なります。

 花の咲き具合が違うと、蜜も違ってくるんですね。この手の話、どこかで聞いたこと、ありませんか。私もはじめて聞いたときに思ったのですが、まるでワインの話を聞いているかのような錯覚を覚えました。

 そう、ハチミツは、知れば知るほど昔の日本のワイン事情と驚くほど似ています。ちょっと前の日本のワイン事情と言えば、赤なら肉料理に、白なら魚料理にと、いうぐらいの認識でした。

 今やそんな時代があったことが信じられないくらい、フランスのブルゴーニュのピノノワールとか、イタリアならトスカーナのカベルネソービニオンが…と、ワイン好きの方はとても詳しくなってます。 』

 

 『 2006年の春、沖縄からやって来た三箱のミツバチは、今が盛りのソメイヨシノの蜜をせっせと集めはじめていました。はじめての採蜜作業の日、藤原さんに勧められるままに、直接、巣のハチミツをなめてみたのです。

 シークワーサーの香りと、桜の香りが鼻腔の奥を刺激したあの瞬間。私はハチミツの魅力に取り付かれてしまったのです。ミツバチたちが沖縄でシークワーサーの花蜜を採っていたことが瞬間的にわかりました。

 同時に、ソメイヨシノの香りもわかりました。ハチミツが花の種類によって、明らかに違うことを確認した瞬間です。次の週、シークワーサーの蜜はしっかり搾ったために純粋なソメイヨシノのハチミツになったと思ったら、翌週は少し油っぽい菜の花に。

 それが終わると今度はユリノキのハチミツになりました。たくさんの花蜜が採れるユリノキが入ってくると採蜜作業も大忙しになります。この花は別名チューリップツリーと言われ、一つの花を何匹ものミツバチが同時に、しかも何度か蜜を吸ってもまだ大丈夫というほどの花蜜が出るからです。

 レンゲや菜の花などでは一匹のミツバチが花から花へと蜜を集め、ようやく蜜胃がいっぱいになるのですが、ユリノキだけはまったく別物。とたんに巣箱の中が上質のハチミツで充満し、週一回では間に合わず、週二回の採蜜をしなければあふれてしまいます。

 実は、このユリノキの存在が、銀座ハチミツプロジェクトのはじまるきっかけだったようです。「ようです」と他人行儀な言い方をあえてしたのは、当時、私も含め銀座ミツバチプロジェクトの面々は誰ひとりとして、そんなことはまったく認知していなかったからなのですが…。

 八年ほど前、藤原さんが皇居周辺を歩いていたとき、たまたま満開のユリノキの花を見つけたそうです。圧巻のユリノキの街路樹に、すぐさまこの周辺での養蜂を決意。場所を探そうとしたそうです。

 そして、永田町のとある政党のビルの屋上で、藤原さんは都心での養蜂を開始しました。もし、それがなければ、銀座ミツバチプロジェクトはあり得なかったのですから、ユリノキは、銀座ミツバチプロジェクトの生みの母かもしれません。

 内堀通りに立ち並ぶユリノキは、日比谷公園から国立劇場まで、ぐるりと皇居外周を囲みます。国内にこれだけ多くの立派なユリノキの街路樹はそうそうあるものではありません。

 ユリノキが終わると、次はマロニエ。マロニエの花蜜は赤い血のような花粉が入っているのですぐわかります。案の定そのころは、銀座マロニエ通りのマロニエの花が満開です。次は霞が関のトチノキ。

 採れる蜜は毎週のように変わります。ナツハギのハチミツはチョコレートのような香りがして驚き、ミカンのわかりやすい柑橘系の香りがしたときは、「いったいどこにミカンの木があるんだ?」と、これまたおおいに驚いたのを思い出します。ミカンの木はおそらく皇居のなかではないでしょうか。

 その後、梅雨から初夏にかけては、クローバーやラベンダーなど銀座周辺で咲いているさまざまな花蜜を求めて集蜜してきます。こうして毎週味や色、糖度、花の香りが劇的に変化します。

 まさに銀座の周りの環境を感じ、変化を感じる瞬間です。毎週採蜜をすることで毎年のサイクルから銀座周辺の環境が分かってきました。そして、ハチミツの味は、銀座の「今の環境」そのものを味わっていると気付いた時も興奮しました。 』

 

 『 ある日、高安氏の紹介で、東京はちみつクラブの浦島裕子さんと昼食をしているとき、「銀座でミツバチを飼えるスペースを探している養蜂家がいるんだけど」とそんな話が出たのです。

 「街でミツバチを飼うなんて、危ないんじゃないの」私が問うと、浦島さんは、「ミツバチは、直接花に向かい、人にはかまわないので大丈夫なのよ」三人でそんな会話をしていたのを思い出します。

話だけで納得したわけではなかったのですが、なぜか、「うちのビルの屋上を貸してあげてもいいよ」と軽くいちゃったんですね。その養蜂家、藤原誠太さんが岩手県で三代続く有名な養蜂家であり、数年前から永田町で養蜂の実績がありました。

 此の銀座で美味しいハチミツが採れるとしたらおもしろいかも、と思ってしまったんですね。「そのハチミツで何か食品を作って、銀座に来て食べてもらう。銀座で地産地消。もし実現したらこれは凄いことだよ」と、友人の高安知夫氏。

 私たちのちょっとした好奇心と遊び心を裏切るかのように、やってきた養蜂家は、次のように言ったのです。「田中さん高安さん。お二人とも生き物をあつかうのですから、途中でやめたなんて言わないで、しっかり学んでくださいね!」

 思いもかけない言葉。まさに鳩が豆鉄砲を食ったかのように、しばらくきょとんとして、「え? 何で? 私たちがミツバチを飼う? 飼うのは養蜂家のあなたでしょう…」 これがすべてのはじまり。これからはじまる騒ぎの序章でした。

 数箱しか置けない紙パルプ会館の屋上では、プロが業として行う養蜂はハナから成り立たないのです。藤原さんは、市民活動として養蜂を私たちに勧めてきたのです。

 もし仮に、プロの養蜂家が満足するような十分なスペースが紙パルプ会館の屋上にあれば、そこで藤原さんが何十箱かの巣箱を置いた業としての養蜂をしていたことでしょう。

 一度はお断りしたものの、藤原さんは諦めていなかったのです。当時、藤原さんにとって銀座は、ちょっと敷居の高く遠い存在に感じられる場所であったようですが、同時に、「もし銀座で養蜂ができたならその影響は計り知れない」と強く思っていたと言います。

 以下はミツバチの伝道師、藤原さんの言葉です。「ミツバチに興味を持ち、ミツバチに触れてくれた人が、しばらくすると精神状態がガラッと変わるということを私は何度も目の当たりにしてきました。

 話をしていて、この人たちなら大丈夫だと思ったので、多少強引に「私が直接教えますから、ぜひ、やりませんか」という話をしました。「何度、足を運んでもいいですから」とも言いました。

 不安はあって当たり前。でも、一度はじめてしまえば、必ず続けれれると思いまして(笑)」 とにかく一度、養蜂の現場をみてくれと、上京した藤原さんに世田谷区の東京農業大学進化生物学研究所の屋上に誘われたのが、はじめての養蜂現場体験でした。

 藤原さんは同大学の卒業生で、ミツバチ研究会のOBでもあるのです。巣箱を開けると無数のミツバチが飛び出したきました。防護服を着ていたからか、プロの藤原さんが一緒だったからかはわかりませんが。不思議とまったく怖いと思いませんでした。

 藤原さんに言われるまま、恐る恐る指を巣房に突っ込んで直接ハチミツをなめてみました。今まで認識していたハチミツとはまったく違い、花の香りがはっきりわかりました。

 さらに、藤原さんは、「手の甲でそっとミツバチを直接触ってみて。ミツバチの気持ちになって、脅かさないようゆっくり動かせば平気ですから」と、私の手を取り、枠に群がっているミツバチに手の甲を持っていきました。

 温かくふわっとしていて、猫を触っているような、不思議な感覚がしました。後に、銀座プロジェクトを取材に来られた作家、嵐山光三郎さんに同様の体験をしていただいたところ、「カシミアのマフラーのよう」という端的な表現をしていただきましたが、まさにその通り。

 ミツバチは子育てをしているとき、巣を三四度前後に保つため、羽の後ろの筋肉を振るわせて自ら発熱しているので温かいのです。ふと見上げると、隣のマンションではご近所の奥さんがふとんを取り込んでいるところでした。

 それを見て「こんな街中でも住民に迷惑をかけず養蜂ができるのか」と思いました。さらにミツバチの体温を感じたことと、そして何よりミツバチの伝道師の熱い思いに打たれました。

 「ミツバチは短い命の限り花蜜を集めるのが仕事です。人間にかまっている暇などないんですよ」 私と高安氏は、徐々にですが「銀座でミツバチ」をやってみる価値があるのではという気になっていったのです。 』

 

 『 その後、藤原さんが岩手から上京するたびに養蜂の勉強をさせていただき、いよいよ「銀座でミツバチ」が準備段階に入るのですが、この段階では「ダメならすぐにやめればいい」と思っていたのも事実です。

 万が一事故があれば、養蜂をやめるだけでなく、銀座から去らなければならなくなるかもしれないのですから。さらには、二人だけではとても無理であるため、仲間を誘わなくてはなりません。はたして、協力者が集まるだろうかという不安もありました。

 ところが、声をかけてみると、あっという間に仲間が集まり、「ぜひ取材させてください」というメディアも現れました。正直その反応の大きさに逆に驚かされました。 

 2006年の春に沖縄からきた三箱のミツバチは、巣箱から出ると、周りを俯瞰するように上空100メートルまで上昇します。その後、先発隊、会社でいえば営業開発さんが示した蜜源へまっしぐら。街並み、人並みなどには目もくれません。

 ミツバチはとても目がよく、形や色が認識できます。複眼で、紫外線まで見えるそうです。冬を耐え忍び、やっと訪れた春の暖かい空気の中に咲く満開のモノトーンの桜が、ミツバチたちにとっての天国だと思うと、花見も、以前とは違った感覚になってきました。

 もしかしたら、桜の花に囲まれてお気楽に酒を酌み交わしている私たちより、もっともっと、ミツバチたちは恍惚に浸っていつのかもしれません。いや、そうではく、厳しい冬の間に必死につなぎ止めた命を、ここぞとばかりに、燃焼させているのかもしれません。

 銀座三丁目の屋上から南の浜離宮まで1.2キロ。わずか五分で飛んでいける浜離宮のソメイヨシノは、銀ぱちたちにとって、春一番の蜜源です。ミツバチは満開のソメイヨシノの咲き誇る中を花から花へ飛び回ります。

 桜とミツバチは相性がよく、すでに受粉した花は「もう、ここへ来なくていいよ」とサインを出しているのだそうです。花蜜が欲しいミツバチと、受粉して実を結びたい植物。太古の昔から相思相愛の仲なんでしょうね。

 自然の摂理で、双方が効率よく生命の営みをまっとうできる仕組みになっているのです。 』

 

 『 二〇〇七年、五月二日の午前。会社でお客様と打ち合わせ中に電話かかかってきました。ゴールデンウイークの中日なら静かに打ち合わせできるからと、こちらの都合で来社いただいて打ち合わせをはじめたのですが、何度もしつこく隣の部屋の電話が鳴ります。

 ちょっと失礼と中座して電話を取ると、「田中さん、田中さん。田中さんところのミツバチ、分蜂しなかった?」いつもお世話になっている中央区の公園緑地課、宮本恭介課長からです。

 完全に田中さんのミツバチになっているのには苦笑するしかありません。なお、分蜂とは、最盛期にミツバチが増え手狭になった巣に、新女王蜂を残し、旧女王蜂が半分の働きバチを従えて新しく巣に適した場所を探しに出ることです。

 「今、みゆき通りで、ミツバチが分蜂していると連絡があり、区の職員が駆けつけているのだけど」冗談じゃない。「課長! 私たちは女王蜂の羽を切っているので、分蜂して飛んでいけませんよ。西洋ミツバチの性格は、そこがどんなに居心地が悪くても女王蜂を置いて逃げ出したりはしませんから。もしかしたらそれは日本ミツバチじゃないですか?」

 「そうかもしれない。いずれにしても明日からまたゴールデンウィークで多くの人が銀座に集まるから歩行者に危ないということで、今日中に駆除しなければならないんですよ。かわいそうだから田中さんのところで助けてあげない?」

 それでも私一人の力で助けるなんてまだ当時は無理でした。「かわいそうだとは思いますけど、今、お客さんと打ち合わせ中ですし…。とりあえず、藤原さんに確認してから、もう一度連絡させていただきます」と電話を切りました。

 藤原さんの携帯に連絡すると、即座に「わかりました! 私はタクシーですぐに道具を持って出掛けます。田中さんも至急現地に来てください」 「……」 たまたま東京に来ていた藤原さんはこちらの都合も聞かず、電話を切って飛び出してしまったようです。 

 とにかく、藤原さんに持ってこいと言われた巣箱を車に積んで、みゆき通りの現場に駆けつけました。すでに区の職員の皆さんと藤原さんが作業にとりかかっていました。

 「田中さん、早く作業服を着て! 巣箱を下から持っていてね。私が木の上から巣箱に一気にミツバチの塊を落とすからそのまま受け止めてください」

 網帽子をかぶり巣箱を頭の上に載せ、脚立の上に乗ります。何のことはない、ただの土台役。バサッ。バサッ。頭の上で音がしたかと思うと、藤原さんはすかさず蓋をし、今まで取り付いていたミツバチが戻らないよう、さまざまな作業を素早くこなしていきます。

 さすがにプロの作業。しかし、残ったミツバチが仲間のフェロモンを感じて巣箱に入っていくまで、頭の上の巣箱を載せた姿勢のまま「もうしばらく田中さんはその姿勢のままで待っていてください」とのこと。

 ふと、気付くとさらにたくさんの人が私を遠巻きに集まっており、しかも写真を撮っています。街路樹の目の前は某フイルムメーカーの常設写真展示会場で、全国から高級カメラを持った人々が集まっていたのです。

 「もういいでしょう」と藤原さんの声に救われたようにゆっくりと脚立を下りると、「どちらの養蜂場ですか?」と、大きなカメラの男性が聴いてきます。

 「プロじゃないんですよ。私たちは銀座のビルの屋上でミツバチを飼っている者で、先ほど中央区の公園緑地課から電話があり、駆除されたらかわいそうだからと助けに来ただけですよ。銀座は人にもミツバチにもやさしい街ですからね」とそぶいてみせました。

 すると、その男性に、「実は、私、読売新聞の写真部の記者です」と名刺を渡され、余計なこと言わなければよかった……。翌日、読売新聞朝刊に事の次第が掲載されていたとは、後に友人から知らされました。 』

 

 『 この出来事をきっかけに、中央区の公園緑地課から、私の携帯電話に直接電話が来るようになりなした。私をミツバチレスキュー隊とでも思っているのかと苦笑すると同時に、私はミツバチを救う資格があるのか、という迷いもありました。

 さらに紙パルプ会館屋上ではじめてミツバチが越冬した二〇〇七年から二〇〇八年にかけて、たくさんのミツバチを死なせてしまったのです。西洋ミツバチと、前述のみゆき通りなどから救出した日本ミツバチを合わせると、10万匹以上になると思います。

 本当にかわいそうなことをしました。養蜂をはじめて二年目、未熟なところがあるのは当然だとしても、仕方ないとは言っていられません。幸い、ほとんどのコロニーで女王バチは生き抜いてくれましたが、もう少し、しっかりとした知識と技術があれば、こんなに死なせずに済んだものをと、残念でなりません。

 ミツバチは昆虫としては例外的に冬眠しない「温血動物」です。寒冷地域で冬を乗り切るには秋が深まるまで必死で集めたハチミツを燃料として吸い、羽の後ろの筋肉を振るわせ熱を発して巣内の温度を三四度前後に保ちます。

 子供がいない真冬は三〇度程度まで下がりますが、これ以下にはならないように必死に発熱して巣の中心にいる女王バチを守るのです。

 こうして厳しい冬をやり過ごしますが、マイナス二〇度にもなるような盛岡などの寒冷地では燃料が少ないと絶滅してしまうこともあるようです。ですから、冬になる前に、その地では何十キロもハチミツを貯めておかないといけないのです。

 常に熱を発し温度を保っていますが、燃料が足りなくなると、薄皮が一枚ずつはがされるように、外側のミツバチから死んでいきます。こうして、なんとか最後まで中心部の女王バチを守っているのです。 』

 

 『 ミツバチは日の出と同時に営業活動をはじめます。まず営業開発の銀ばちが、燃料のハチミツを満杯に吸って「本日の蜜源」を探しに飛び立ちます。巣箱からスパイラルな軌道を描きながら一気に上昇します。

 地上一〇〇メートルから眺める銀座の景色はどんなものなのでしょうか。飛行可能範囲を見渡して、卓越した臭覚と視覚を使って蜜源を探しはじめます。

 上空に到達すると、吹く風のなかに花の香りを触覚で感じ、目ぼしい蜜源を確認すると、蜜と花粉を持ち帰り待機している営業本体に場所を知らせます。それが、「8の字」ダンスです。

 整然とした社会生活を営むために不可欠なこの8のダンスを発見した研究者は一九七三年にノーベル生理学・医学書を授与されています。

 昆虫の脳を研究している玉川大学の佐々木正巳先生のお話によると、8の字ダンスで、巣箱からの方向、距離、花蜜の量、花の種類までわかるのだそうです。

 8の字ダンスで情報を得た営業はそれに従い、まず往復分のハチミツ(燃料)を吸って飛んで行きますが、蜜源を確かめた後は蜜源までの片道分だけのハチミツを吸って飛んで行くのだそうです。

 片道で燃料がなくなりタンク(蜜胃)は空っぽ。その分たくさんの花蜜を集めることができるというわけ。感心するくらい理にかなっています。たかが小さい昆虫と思ったらとんでもない。なかなか「やるじゃん!」と思いませんか。どうやら結構賢い連中のようです。

 片道五分の浜離宮(1.2キロ)、片道七分の皇居(1.5キロ)なら、一日、一〇往復から二〇往復。春から夏にかけ、毎週採蜜作業をすることで、自然のサイクルや銀座周辺の環境がわかってきました。

 銀座が自然環境や生態系と共生できる大きな可能性が見えてきたのです。 』

 

 銀座ミツバチプロジェクトは、ハチミツの生産を核として、それを使っての銀座のスイーツ、カクテル、教会のロウソクへと、さらに、メダカの学校、日本熊森林教会へとつながっていきます。そして、銀座と里山との交流と発展していきます。

 銀座周辺は、皇居、浜離宮、日比谷公園、ユリノキ、マロニエなどの街路樹と蜜源植物が豊富で、日本ミツバチまで分蜂し、銀座は商業の街ですが、それを支える一流の職人の街で、日本と世界の人々を惹きつける包容力と魅力のある町だと感じました。(第93回)