チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「知の現場」

2017-05-02 08:41:25 | 哲学

 135.  知の現場  (NPO法人知的生産の技術研究会編 2010年1月)

 現在活動している21名の方々に、あなたの「知の現場」とは何かをお聞きしたものが本書です。どのようにテーマや課題を設定し、情報を収集し、どのように組み立て、編集し、著作や問題化解決に導いていくかをインタビューしたものです。

 私たちもアイデアをなんらかの形あるものにすることによって、様々な発見やヒントや成果が得られ、次のステップに立てるのではないでしょうか。

 テーマや問題を文章にするにしても、問題解決の糸口を探るにしても、アイデアを検証するにしても、それらを文章や図や絵コンテにして、多くの人に理解してもらって、協力してもらう必要があります。この中から、何人かを紹介したします。


 原尻淳一 本業はマーケティングプランナーで、アーティストや映画などのマーケティング・リサーチやプラニングを行っている。1972年、埼玉県生まれ、「IDEA  HACKS!」 「PLANNING  HACKS!」 などの著書があり、大学講師も務めてます。

 『 龍谷大学大学大学院時代、フィールドワークの技法を研究しようと、鶴見良行先生の自宅の仕事部屋を見学させていただきました。鶴見先生は、偉大なアジア研究者です。

 徹底したフィールドワークと学術資料から「バナナと日本人」 「ナマコの眼」などの代表作を生み出されました。私がお宅にうかがったのは、先生がお亡くなりになって2年くらい経っていた1997年頃でした。

 まず、玄関を開けた瞬間に、目に飛び込んできたのは、アジア関連の書籍がびっしり詰めこまれた本棚でした。そして、通路にも本棚が並び、そこをすり抜けて仕事部屋に入ります。

 そこで見たものは、アウトプットを生み出すための大変優れたデータベースシステムでした。私はそのすべてに圧倒されました。そのシステムにはデータベースが三つありました。

 まず一つ目は「読書カード」です。本のタイトルと自分が気になったところを抜き書きしてあるカードで、4万枚ほどありました。そしてキーワードごとにきちんと整理されていました。

 二つ目は「写真」。鶴見先生ご自身が現場で撮影したものです。腕前はプロ並み。美しいものばかりでした。そして、三つ目が「フィル―ドノート」で、これは現場で書いた日記です。これも、ほとんどがそのまま本になるほどのすぐれた文章でした。

 この三つのデータベースから、データを取り出して並べ替えることによって、アウトプットである本を作ってしまうのです。つまり「再編成するだけで本ができる」という、非常に優れたシステムをコツコツと作り上げていたのです。

 特に名著「ナマコの眼」は、このシステムの集大成です。私はとても感動し、自分も実践したいと思いました。これを知った時は、大学院の修士課程の1年生の終盤でした。

 卒業までの1年間では、このシステムを作りあげるのはとうてい無理だと思いました。もっと早く知りたかったですね。 』


 『 卒業後、私は広告代理店に就職し、マーケティング・プランナーになりました。多くの仕事を抱え、短時間で、企画書をどれだけ効率よく作れるかが問われます。

 当時、私は梅沢忠雄先生の名著「知的生産の技術」を何度も読んでいました。そして前述した、鶴見先生のデータベースシステムを自分のプランニングに活かせないだろうか。

 つまり、自分で優れたデータベースを作り、そこに蓄積された要素を編集して企画書を作るというシステムを構築したい。そういったことをずっと考え続け、試行錯誤を重ねていきました。

 もちろん、鶴見先生の時代と比べて、技術は格段に進化し、仕事のスタイルも変化してます。そこで、WEBの技術やツールを使い、改良を重ねて完成したのがハニカム・データベースシステムです。 』


 『 このシステムは、六つのデータベースで構成されています。このデータベースは、蜂の巣構造になっており、真ん中にある六角形(ハニカム・データベース、アウトプット用)の周囲を六つのデータベースで構成されてます。

 1. アイデアファイル

 「これは面白い! 美しい!」と思ったものが詰まったファイルです。「グラフ」 「ランキング」などのカテゴリー分けしたクリアファイルを用意しています。主に、雑誌やフリーペーパーの切る抜きを集めているだけですが、非常に刺激的なファイルです。

 2. 携帯電話メモ

 携帯電話のメモ機能を利用して、気づいたことをその場でメモしたり、面白いと感じたものを写真に撮ったりします。ひらめきの瞬間を逃さず記録するアイデアデータベースです。

 3. データファイル

 ウェブ上で公開されているデータをブラウザの「お気に入り」でせいりしています。仕事上、統計データをよく利用しますので、政府が出しているもの、広告代理店が発表しているもの、企業の研究機関が公表しているものなどを整理してまとめています。

 4. ブログ

 日記とともに、日々収集したネタから、これは使えるというものを書いています。また、「読書カード」というカテゴリーを設けて、読んだ本の中で使えると思って部分をページ数とともにメモし、自分の感想を含めてアップします。

 5. 教訓ノート

 仕事で経験してきたこと、思ったことをまとめたノートです。プロジェクト終了時に総括したり、本を読んで実行しようと思ったことなどが書き込まれています。新しいプロジェクトを始めるときには、必ずこれを読みます。自分の行動規範になっています。

 6. 名作ファイル

 過去に作成した企画書で、今後も参考になるものを集めています。企画書を作る際のお手本ですね。宣伝プランや事業計画など、カテゴリー分けしてすぐれた企画書を集めています。次回、企画を立てるときに参考にして、漏れがなく進めるようにします。 』


 『 以上がデータベースですが、これは料理にたとえると、レシピや冷蔵庫のようなものです。この中に材料をどんどんストックしていきます。そして、アウトプットするときには、レシピを見ながら材料を取り出し、料理をするイメージです。

 このデータベースが充実していれば、アウトプットの際に、再び参考資料や本を読んだり調べたりするという時間が短縮されるのです。あとは日々データベースにデータを蓄積して充実させていくだけです。

 情報収集のコツは「入れる場所を用意しておく」ということですね。私の場合、入れる場所はもちろん、先ほどのデータベースになります。そして、どこにいても何をしていても、そのすべてが情報源です。

 至るところが知の現場といえますね。日常的に、これ必要だな、面白いなと感じたものは確実に押さえます。ストックする場所(データベース)は用意してあるので、そこに入れるだけなのです。

 本には付箋を貼って、あとでパソコンに入力する。歩いていて気になったものは、携帯電話のカメラで写真を撮る。誰かと会話していても、そのそばからブログにアップする。

 雑誌は破ってファイルに溜める。アイデアは携帯電話でメモをする。不思議なもので、データベースをつくることを常に意識していると、それに合ったものが自ずと集まってくるようになります。

 さらに、効率を高めるための工夫もしています。たとえばブログは、私の場合「はてなダイアリー」を使っています。書籍は、タイトルなどを入力するだけで、著者名や出版社、本の画像などが自動で入り、自分で書く手間が省けます。

 このように、すぐに入れられて、入れる際にも、なるべくストレスが軽減されるものを選ぶことが重要です。 』

 

 『 アイデアを出したり企画書を練るときは、まず情報を拡散してから収束していくという流れを必ず意識しています。拡散の段階では、チームメンバーなどと、たくさん会話をし、アイデアを出し切ります。風呂敷を全部広げることを心がけています。

 全部出し切って、次に整理をする。そのうえで収束していき、さらに良いものに変えていくのです。資料、データを広げたうえで、方法を変えてみようとか、レシピが悪いんじゃないかとか、違うものを取り入れてみようなどということが話し合われます。

 そういった議論や研究を通して、新しさが出てきます。そういうステップを踏んで、最終的な方針をきめていきます。

 そうして、企画書などのアウトプットを作成するときは、誰にも邪魔されない環境を作り出し、一人で籠ります。本、企画書など、アウトプットするものによって、それぞれふさわしい場所を用意しています。

 たとえば企画書の場合は、会社の会議室を予約し、そのときの参加者を自分一人にします。大きな机に資料を全部広げ、それらを眺めてから一気に取りかかります。

 本を書くときには、行きつけの喫茶店があります。そこはアールデコ調のシックな内装で。クラシックのBGMが流れている。とても雰囲気の良いところです。

 そして、喫茶店という他人の視線がある環境から、ちょっとした緊張感が生れ、原稿が進みます。会社が終わったら喫茶店に行って、ラストオーダーまで書くという感じですね。

 その他にも、ノートパソコンがあれば、どこでも仕事ができるので、カフェやホテルのラウンジなど落ち着いた雰囲気の場所を知的生産の基地として利用しています。

 そして、アウトプットをつくり始めたら、一気にとことんやってしまいます。家でやっていると、気づいたら朝、ということも珍しくありません。一気にやってしまうのは、長い準備期間があるからかもしれません。

 データベースに蓄積する。そのテーマに関して、常に頭の中で考え続ける。そうすることによって気持ちがだんだん高まってきます。たとえていえば、少しずつ火薬が入れられていくようなイメージでしょうか。

 すると、だんだんイライラしてくる。そして溜まりに溜まったものを爆発させるかのごとく、ドーンと一気にやってしまい、仕上げてしまうのです。 』


 武者陵司 1949年長野県生まれ、横浜国立大学経済学部卒業後、大和証券で企業調査アナリスト、大和総研アメリカで調査部長、ドイツ証券副社長を歴任後、現在武者リサーチ代表取締役。

 多くの証券アナリストがひしめく中で、「新帝国主義論」を表し、兜町、そしてアメリカ証券界で実績を積む。では、お話を聞きましょう。


 『 子どもの頃は父が発電所に勤めていて、秘境のような田舎に住んでいました。近くには当時、農家と国鉄駅員の家族くらいしか住んでいませんでした。テレビもないので野原で遊ぶか、学校の図書館で本を濫読するしかありませんでした。

 大和証券に入ったのは、特に目的とかキッカケがあったわけではありませんが、横浜でよく利用する喫茶店の階下に大和証券の支店があったので、頭の中でその名が刷りこまれていたのでしょうね。

 大学では経済史、大塚経済学を学びましたが、恩師は大塚久雄門下の学者でしたからマルクスとか、マックス・ウェーバーのような社会主義的な書もずいぶん読みました。ただ、仕事をするなら株式リサーチをやってみたいという希望はありました。

 大和証券へ行ったらアナリストの仕事があると聞き、大学で先進国資本主義、後進国資本主義、アジアの資本主義などさまざまな資本主義を共同理論との兼ね合いで分析する資本主義類型論を学んだということを大和証券の役員に話したところ採用され、リサーチをやらせてもらったのです。

 ですから私は証券会社の人間ですが、実際には証券について詳しくありません。まあ証券マンというより調査マンでしょうね。私に目を開かせてくれたのはアメリカの存在、特にアメリカの経済でした。

 それまでアメリカ像といえば、利益追求とか資本の自己増殖的な拡大要求によって人間を従属させ、侵略して弱者をつぶすというようにステレオタイプ化した負の側面ばかり見ていました。

 実際に職業人としてアメリカの現実を見てみると、それまで書物を通してしか知らなかった反米とか嫌米感情と、現実の間に大きなギャップがありました。

 ととえば、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの論理と資本主義の精神」に描かれている資本主義精神のモデルは、ベンジャミン・フランクリンであり、イギリスやヨーロッパ大陸ではなくアメリカを指しています。

 私はものを考える上でいつもアメリカを軸に置いています。 』


 『 これからも今までやってきた経済・金融を中心とした情勢分析と情報発信をしていく環境をつくりたいと思っています。

 インターネットも普及してきていますし、データベースもあり、昔ならリサーチというのは独立して行うのは無理だと思われたのですが、今ではそれが可能となりました。

 その点で、私にとって情報源として一番役に立つのは「ウォール・ストリート・ジャーナル」だということははっきりしていますね。

 その理由として第一に、今世界の金融というのは一つだということです。金融というのは最も優れた知見が現れた場で、それが世界を支配するわけです。知性とインテリジェンスの「塊」が金融です。

 インテリジェンスの一番高いものとか、説得力のあるもの、普遍的なものが、勝負し生き残るわけです。「ウォール・ストリート・ジャーナル」はそうした金融における最高の見識が出会う場になっていると思います。

 第二に、仮設というのは実学でなければいけません。単なる机上の空論や、論理、価値観にとどまっていてはならないということです。経済とか金融はより良い結果を生み出すための手段ですから、結果に責任があり、解決策に結び付かなければなりません。

 政策でも投資でも、どんな立派な理念を述べてもそれ自体が本当に永続していくためには、経済的で合理的な根拠が必要です。あらゆるロジックがチェックされ、ソリューション(解決策)を持っているかどうかということが大切です。

 これらの点で、「ウォール・ストリート・ジャーナル」は、日本の経済メディアより優れていると感じます。日本のメディアは、論理、正義感、価値観にてらしたロジックをかざしながら、どう解決するかというソリューションを示しません。

 その点で「ウォール・ストリート・ジャーナル」には、データとプラグマティズムの究極である、ソリューションがあります。今後は資本の肥大化とか、バルブとかモラル崩壊のような問題を修正したり解決していく必要があります。

 そのために求められるプラットフォームの構築という点では、「ウォール・ストリート・ジャーナル」に圧倒的な強みがあります。 』


 『 経済学というのは非常にプリミティブ(原始的)な学問だと思います。経済学が支配し、説明できる領域は極めて限定的です。過去の事象を分析する経験科学より、人類そのもののほうが常に先行します。

 経済学が過去の実例を論理化して未来を予測することは不可能に近いと思います。その不可能なことを可能にしようというのが新しい経済学の挑戦です。それはまさにゲームです。

 かつての一国経済だけの経済学では現在のインターネットの普及や、グローバル経済を理解することは不可能となりました。巨大な賃金格差とか、長期にわって巨大な超過利潤が保留されるということなども解決不能です。

 これはもはや経験科学の限界で、従来の経済学の方程式だけでは役立つ情報分析にならないと思います。

 私はかって悲観的な見方をとっていましたが、今は楽観論者で、現在世の中に起きていることは、必ずしも大きなパラダイム(共有概念)転換に伴う挫折ではないと思っています。

 禍(わざわ)いの結果というより世界経済の繁栄のひとコマで、少々行き過ぎや逆流が起きていますが、その基本的なフレームワーク(枠組み)は変わらないだろうと思います。それが私の楽観論の根拠なのです。

 なぜ金融危機は起きたのか。あえていえば、経済が繁栄し過ぎて行き場のない貯蓄や所得が溢れてバルブになったからだと思います。

 財政や金融面でモラルのない拡大政策が間違いだったという人もいますが、それだけでないと思います。人々が信じ切っていた投資における保険がまったく無力になりパニックによって市場が大暴落したためだと思います。

 今世界経済が一つになって史上空前の産業革命が起こっています。人類の歴史を振り返りますと、農業従事者が工業に従事することにより産業革命が起こり、その分業化によって生産性が著しく上昇しました。

 それと同じように巨大な人口スケールで国・地域別の分業が起きているのが現在です。今日、世界で起きている産業構造の転換と富の創造をもたらしているのは、史上空前のことだと思っています。 』


 『 日本の若者が国際社会で活躍するために必要なことは、英語に習熟する状況を日本に取り入れることです。つい最近まで基礎としての国語も十分学ばずになぜ英語か、論理的に日本語でしっかり話ができる人を育てるのが先決と考えていました。

 しかし、それはどうも違うようですね。現実に世界の文化や知見、インテリジェンスは明らかに英語をベースに展開されています。はっきり言って1億人の知恵の集まりでは話になりません。

 40億人の知恵が集まっているのが英語です。40億人の知恵が集まっているベースのうえで話しをしないとほとんど世界で理解されません。

 たとえば、インド、シンガポール、香港などは不幸にして植民地でしたが、彼らは英語社会という条件下であったことが有利に働いています。

 日本語の狭い世界の中では限界があります。今や日本は世界の情報・知見から急速に取り残され井の中の蛙状態です。

 各国がそれぞれ自国のプレゼンス(存在感)を発揮しようと努力しているのに、日本だけは何もしないで悲観的になったり、自虐的になったりしていては解決策は何も浮かびません。

 世界のビジネスにおいても金融についても取り残されています。外交でも、軍事でも、政治でも、経済でも何もしない。まったく無責任国家に成り下がっています。

 日本はグローバルでオープンな世界の中に依存してこそ存在しうる国家であるのに、国内にはクローズドで完結した世界ができあがっている。その元凶はメディアで、日本の閉じた情報空間は恐ろしいですね。 』


 『 富の蓄積についていえば、富の再投資が経済再生産を生むメカニズムが必要だと思います。あり余る資本の余剰性をどう処理するか。そのためには巨大雇用を生む現代のピラミッド建設が必要です。

 現代経済をダイナミックに考えると、資本の新たな投資対象を考える必要があります。今日一番重要な対象は地球環境の再生です。

 現在資金が余剰にありますから、地球再生のために投資して、一方で地球エネルギーを活かしてエネルギー革命を行うことが必要です。これは同時に新たな雇用を生み出します。

 現代のグローバル経済はローマ帝国に似ています。ローマ帝国が遺したものが二つあります。一つは遺跡であり、もう一つは辺境にあるコインです。ローマ帝国は版図を拡大して膨大な土木建設を行いました。

 それが今日、帝国の中心に遺跡として残されています。他方、辺境ではコインが非常に多く発掘されますが、それはあの時代に所得の移転があったことをうかがわせます。

 ローマ帝国はコインを輸出し、周辺地域から借金をしていたわけです。借金をして富が溜まり、それが今日残っている遺跡になったと考えられます。

 これとまったく同じことが現代でも起きています。アメリカはドルをばらまいて、世界中から借金をして富を集中しています。このことは浅い資本主義の歴史の中のほんのひとコマですが、大きな人類史の中で同じことが繰り返されているのです。 』 (第134回)


物は置き場所、人には居場所(その15)

2016-11-26 08:47:07 | 哲学

 物は置き場所、人には居場所(その15)   日常をデザインする哲学庵  庵主 五十嵐玲二

 14. 物は置き場所、人には居場所のまとめ

 人類は、二本足歩行を獲得した後に、手の自由を利用して道具を使い、さらに言葉を使ってコミュニケーションをすることによって、物と情報との関わりを深くしてきた。

 第二次世界大戦以前までは、物は大切なものであり。何度も修理されて、大切に使われてきた。情報も貴重なものであり、大切にされてきた。

 これまでの物は、主として、木材と鉄と綿花を主材料としていましたので、物が使えなくなった時、そのまま捨てられても、自然界のリサイクルシステムに戻された。

 大戦後、部品の規格化とオートメーションによって主にアメリカで、T型フォードが大衆化した。そして、トウモロコシの一代雑種と肥料、農薬、トラクター、コンバインの出現によって、生産は飛躍的に向上した。

 トウモロコシの飛躍的増産によって、家畜の飼料が安価に供給され、肉や卵や牛乳がアメリカに於いて、庶民の日常の食卓に登場するようになった。

 日本に於いては1940年代、1950年代に、家電が松下電器やソニーによって、洗濯機、冷蔵庫、テレビ(白黒)が家庭に普及した。

 1960年代の東京オリンピック、新幹線開通を起として、カラーテレビが家庭に普及することによって、多くの情報が家庭内に持ち込まれた。

 これらの情報には、有意義な情報も多くありますが、整合性に欠く情報、不誠実な情報、自分の現状の生活をよりみじめに感じさせる情報も多く、整理し、コントロールすることが、むずかしくなってきた。

 そして、これらの情報は、片方向の情報であるため、こちらから発信することを許さない情報であるため、人は本来コミュニケーションの動物であるため、情報のワンサイドゲームは、不満を残すことは避けられない。

 情報の一方通行、接客のマニュアル化にともなって、家庭や地域社会から会話(コミュニケーション)が減ってきたように感じます。

 しかしながら科学技術の発展によって、自然界に本来存在しない、合成樹脂や合成繊維、農薬、PCB、フロン、環境ホルモン……と自然界のシステム戻らない物質が、大量に出回るようになった。

 それに伴って、物は我々に便利さを与えたが、それが使用されなくなった時、有害物質として、我々の生活を混乱させ始めた。


 「物は置き場所、人には居場所」について書いてきましたが、そうたやすく解決策がある訳でもなく、本稿でも、問題を整理したのか、混乱したのか解かりません。

 しかし、小さな一歩は進めたと自負してます。政治家は自分の居場所を熱心に考え、官僚は自分達の居場所を熱心に考えますが、失業している若者の居場所について、考えようとしている試案さえ書かれてません。

 現代はお金を払えば、居心地の良い居場所がありそうに思えますが、一時的には満足できても、その居場所は、あくまでも一時的な物であって、やがて消え去っていくように感じます。

 自分の居場所は、自分で努力して、工夫して、はじめて得られるものかもしれません。最後に、「物は置き場所、人には居場所」の目次を記述します。

 (1) 物は置き場所、人には居場所 (はじめに)

 (2) 物とは何か、物やどのように分類すべきか

 (3) 物について、いくつかの分類方法について

 (4) 置き場所について

 (5) 人の居場所とは何か (人の居場所の全体像について)

 (6) 人は社会とどのように繫がりたいのか

 (7) 人間の三つの生き方について

 (8) 小さな南の島に桃源郷をつくる

 (9) ぼくらの村にアンズが実った (旱魃と植物園)

 (10) ぼくらの村にアンズが実った (菌根菌と樹種の多様性)

 (11) 社会のことを自分ごとに (島根県海士町の試み)

 (12) 森をつくる営みが農業である (アマゾンの日系人移住地トメアスで生れたアグロフォレストリー)

 (13) 森は海の恋人 (気仙沼のカキ養殖)

 (14) 情報の置き場所について

 (15) 物は置き場所、人には居場所のまとめ      

 (第15回)

 


物は置き場所、人には居場所(その14)

2016-11-18 14:36:51 | 哲学

 物は置き場所、人には居場所(その14)   日常をデザインする哲学庵  庵主 五十嵐玲二

 13. 情報の置き場所について

 良く言われることの中に、物が乱雑で自分でコントロールが出来なくなった状態に於いては、その人の精神も混乱しているというものです。物も情報も体系的に整理して、自分がコントロールしているつもりでも、時間の経過に伴って、乱れてくるものです。

 特に現代社会では、不要な情報、整合性に欠く情報が、目から耳から入り込み、乱れは増大します。情報に於いても、自分が現在および将来について、使えるかどうかを判定して、メモしたり、記憶したりします。

 頭の中でどのように記録されているかは、解かりませんが、情報は形や言葉や味や触感などを持っており、その意味と自分に対する共感によって、使用可能な情報かを判断します。

 この時、有用な情報には、インデックス(名札、タグ)がつきます。このインデックスを自分の持っている知識体系のどこかに位置付けます。

 これは、自分の持っている大きなカテゴリー(分類体系)を縦糸に、知識間の関連性、連続性を横糸にして、知識のネットワークが構成され、このネットワークのどこかに情報のタグを結びます。

 その情報が再利用されることによって、ネットワークの回路が構成されます。何度も使われるネットワークの回路は、太くなりますが、使われることのないネットワーク回路は、やがて消滅します。

 私たちが最も使われる情報は、日本語です。日本語は、私たちの文化と日常生活に深く根ざしています。基本的には、情報ネットワークは、日本語で構築されていると考えられますが、その情報が群がりやすい叢(むら)のようなものがあると考えます。 』


 『 ネットワークの情報の叢となるのもを、12とり上げます。

 一つ目は、名著です。これは自分にとって名著かどうかで、自分が読み込んでいく時、その中に再発見があり、さらに何かの折に、その中の一節が浮かんでくるものです。

 名著の著者について、考えを飛躍させたり、そのすぐれた文体が知らず知らずに自分の文体に影響を受けていたり、歴史上の人物であっても、もし現代のこの問題について、著者はどう考えるかすら、推量することも楽しいことです。

 二つ目は、師(師匠)です。自分にとって尊敬できる人、これは直接教えを受けることのできない歴史上の人物であっても、その人物を伝記や著書を読むことによって、師となりえます。

 父親や実際に教えを受けた恩師であれば、亡くなった後でも、相談して何らかの回答が得られると考えます。優れた師匠に巡り合えることは、幸運なことだと思います。

 三つ目は、価値ある芸術作品です。自分にとって価値ある芸術作品は何かを語りかけてくれます。その作品が製作された時代であったり、作者の生い立ちであったり、さらには作品の数奇な物語です。

 四つ目は、自分にとって感動を与える音楽です。自分にとって感動を与える音楽は、ある勇気を与えてくれます。その音楽の一部を口ずさんだり、楽譜を取り寄せたり、ピアノや、ヴァイオリンやチェロで弾いてみたり、感動を共有したいものです。

 五つ目は、すぐれた道具です。すぐれた道具は、自分の手の延長として、新しい世界に自分を導いてくれます。すぐれた道具は、それ自体が芸術作品のような風格を持つものです。

 道具を使いこなすには、高い技術と道具のメンテナンスする技術と作業空間を必要とします。そのためその道具に関する様々な情報が集まります。

 六つ目は、自分にとって重要な概念です。自分が考える時の道具の役割を果たします。私にとっての重要な概念は、進化論、プレートテクトニクス、エントロピー、微分・積分、文化・文明、サスティナビリティ……です。

 七つ目は、自分にとって、お気に入りの場所です。その場所は、身近なところだったり、遠い海外だったり、都市のある空間だったりしますが、その場所は、物語の発想を育みます。

 八つ目は、自分が追い続けているテーマです。テーマを追い続けると、それに関する情報が集まってきます。テーマは何でも構いませんが、長い間に渡って追い続けることが重要です。そのなかで、自分のオリジナルの切り口が見つけられると考えられます。 

 九つ目は、自分がみがいてきた技術です。ここで言う技術とは、仕事上の技術は無論のこと、自分が得意とするスポーツ上の技術を含みます。さらにはそのスポーツで、負け続けたとしても、自分としての独自視点があれば、十分です。

 もちろん、芸術的な技術、外国語の技術、ソロバンの技術……など、自分の時間と動力を傾けたものは、自分の手と足と頭を使って、情報が集積される叢を形成します。

 十番目は、自分の友達です。この場合の友達は、相手が必ずしも友達であると認めてなくて、十分です。自分の友達は、ライバルでもあるため、ある意味危険な存在でもあります。

 友達としてさまざまに語り合いその中から多くのことを学びますが、必ずしも、良い関係でなくても、友達を通して、自分について考え、自分について多くのことを知る手がかりを与えてくれます。

 十一番目は、自分が育ってきた歴史、自分が生きてきた歴史です。良くも悪くも、子どもの頃の環境が自分を育て、青年時代以降の自分の生きてきた歴史が、自分の中に反映され、それらの中に、情報の集積場所が形成されます。

 十二番目は、自分が食べてきた食べ物です。自分の好きな食べ物を通して、季節感を感じ、子どものころ食べた家族での食卓の様子や、その時の満足した気持ちや美味しかった、味と香りなどです。

 情報とか知識は、一般に感情のないものとして考えがちですが、自分の脳内ネットワーク内の情報や知識は、何らかの感情を伴っているものです。むしろ自分のなかの情報や知識は、ある種の感情が伴わないものは、自分の情報や知識にはなれないように思います。

 食べ物は、無論、栄養的な意味をもちますが、人間も生物である以上食べるこが、生きることでもあります。この食べることの様々な行為の中に、情報や知識の集積場所(叢)が、できると考えます。 』


 ここにあげた12の項目は、それ自体が情報ですが、これらが脳内ネットワークの核となり、新し情報が入ってきた時、このネットワークのどこかにインデックスが結びつけられます。

 そしてこのネットワークの情報は、意味や機能や感情を持っています。ネットワークの縦糸と横糸がしっかりしており、そこに情報の核となる12の項目(一つの項目の数の制限はありません)がバランス良く配置されると豊かなネットワークが構成されます。

 この脳内情報ネットワークは、上手に活用されればされるほど、情報間の回路が広がり、その機能も豊かになります。

 情報ネットワークの中で、ふとある情報Aと情報Sが共鳴しあって、ある新しい発想が生まれたり、ある事象のなかの筋道となる部分を抽出すると、別の事象との共通点が見出されたりします。

 脳内ネットワークが一つの生命体のように独自性が生れ、それが人間の個性となるような気が致します。(第14回)

 


 物は置き場所、人には居場所(その13)

2016-11-05 10:45:43 | 哲学

 物は置き場所、人には居場所(その13)   日常をデザインする哲学庵  庵主 五十嵐玲二

 12. 森は海の恋人 (気仙沼のカキ養殖)

 第一話のフィリピンの人口三〇〇人のカオハンガ島での人の居場所は、島の美しい自然と観光と教育でした。

 第二話の中国黄土高原の大同市では、植物園を研究所として、樹木の苗を育て、植林し、アンズの苗を植えて、アンズを収穫し、杏仁(きょうにん)を得て、人の居場所を確保し、黄土高原の土壌を守りました。

 第三話の鳥取県の沖合六十キロの日本海に浮かぶ、隠岐(おき)諸島の中ノ島に位置する、人口二四〇〇人の海士(あま)町での取り組でした。

 流通と営業を町長以下が受け持って、しろイカや岩ガキや隠岐牛を東京でブランド化し、閉校寸前の高校さえも島外から生徒を呼び、町民の居場所をつくり、社会のことを自分ごとにしました。

 第四話のアマゾンの日本人移住地トメアスで、悪性のマラリアの感染、せっかく成功したコショウの水害と土壌菌による病害虫の蔓延で全滅の末に、森林と農業を融合し、さらにクプアス、グラビオラ、アセロラ、マンゴスチンなどの果樹を組み合わせた。

 それらの果汁ペーストを海外に組合をつくって輸出し、入植者の居場所とアマゾンの熱帯雨林を再生した。

 第五話は、三陸リアスの海辺、宮城県の気仙沼湾でカキ・ホタテの養殖家・畠山重篤さんが、森は海を恋人であると確信し、気仙沼湾に注ぐ大川上流の室根山に森をつくるお話です。

 気仙沼のカキ・ホタテの養殖家・畠山重篤(しげあつ)がなぜ森に木を植えるようになったのかを「リアスの海辺から」(1999年5月 畠山重篤著)の”はじめに”より紹介致します。


 『 私は三陸リアス式海岸の静かな入り江で牡蠣や帆立貝の養殖をしている漁民です。父の代からの養殖漁民で私で二代目、息子が三年前から跡を継いでいるので、三代漁民としての生活が続いている。

 振り返って三十六年前、私が父から引き継いだ海は実に豊かな海であった。牡蠣や帆立貝は、種苗(稚貝)を海に入れておきさえすれば何もしなくても大きく育ったし、海中を覗けば、目張(メバル)、鯔(ボラ)、鱸(スズキ)、鰻(ウナギ)などが群れをなしていたものだ。

 ところが、昭和四十年代から五十年代にかけて、目に見えて海の力が衰えていった。貝の育ちが悪くなり、赤潮などが頻繁に発生するようになってきたのだ。

 同業者が集まると、この仕事も俺たちの代で終わりだなあと、あきらめムードだけが漂い、浜は活気を失っていったのである。そんなとき、もう一度昔の海を取り戻そうと、一つの運動が湧き起こった。

 気仙沼湾に注ぐ大川上流の山に、漁民の手で広葉樹の植林を行い、海を元気にしようというのである。また、それをきっかけにして、大川上流の山の子供たちを海に招いて体験学習をしてもらう。名づけて「森は海の恋人」運動である。

 それは私が、昭和五十九年、フランスルターニュの海辺に、牡蠣の養殖事情を視察に行ったことがきっかけだった。フランス最長の河川、ロワール川河口の養殖場を訪れたおり、見事に育っている牡蠣と出会ったのである。

 また、干潟に点在する潮溜りに蠢(うごめ)く、寄居虫(ヤドカリ)、竜の落とし子、蟹(カニ)、小海老、海鼠(ナマコ)などの多さに驚かされたのだった。

 小動物が多いということは、川が健全であることの何よりの証拠である。それは、私が子供の頃の宮城の海そのものであった。川の源は森。私はロワール川上流に足を運んでみた。

 そこには、思った通り、山毛欅(ブナ)、水楢(ミズナラ)、胡桃(クルミ)、栗などの広葉樹の大森林地帯が広がっていたのである。それは、杉山に変わる前の三陸の森の原風景であった。

 広葉樹の森は海を支配している。そのとき私はそう確信した。 』


 『 平成元年九月、気仙沼湾に注ぐ大川源流の室根(むろね)山に、時ならぬ大漁旗が何百枚と翻(ひるがえ)った。山に大漁旗とは意外な光景であるが、それは、森に対する漁民の感謝の表れであった。

 森、川、海と続く自然の中でしか生きられないことを悟った気仙沼湾の養殖漁民たちの、植林風景だったのである。

 赤銅色に日焼けしたねじり鉢巻き姿の漁民たちが、慣れない手つきで植えている木は、保水力があり、良質の腐葉土が早く形成される、水楢、水木(みずき)などの落葉広葉樹である。

 海のことについては生き字引を自負している私たちであったが、山のことや植林についてはまったくの素人であり、初めは失敗の連続だった。

 低地の水気の多いところに育つ水木を高地の風当たりの強いところに植えて枯らしたり、せっかく植えた苗の芯を野兎に全部食われてしまい、途方に暮れたこともあった。

 しかし、岩手県室根村や気仙沼市新月(にいつき)の山の民の協力を得て、次第に森づくりは軌道に乗りだした。水楢、栃、瓜膚楓など五十種の広葉樹の苗が二万本植えられた。

 植林は一九九八年十年目を迎え、その地は「牡蠣の森」と命名されている。漁民による植林が橋渡しとなり、上流の森の民と下流の海の民との交流も深まっていった。

 室根村の人たちは、大川の土手の草を年二回刈るが、「今までは雨が降ったら流れるからいいさ、と土手の内側に重ねておいたものを、これからは片づけるようにしました」と伝えてくれた。

 体験学習に訪れた子供たちからも手紙が届いた。「朝シャンで使うシャンプーの量を半分にしました。給食後の歯磨きのとき、歯磨き粉の量まで注意してます。下流の海の人たちに迷惑はかけられません」というのである。

 村当局も、なるべく農薬を使わない、環境保全型農業を推進している。もちろん漁民みずから、海を汚さないよう注意するようになってきた。工場排水の規制強化や、下水道の整備とあいまって、大川流域に暮らす人々の環境に対する意識は高まっていった。 』


 『 その結果、嬉しいことが起こった。二十年以上も姿を消していた鰻が川に戻りはじめ、海には目張、竜の落とし子などが姿を現してきたのである。

 こうして、気仙沼湾は確実の蘇(よみがえ)りつつある。「森は海の恋人」という呼びかけに呼応するように、運動は全国に広がっていった。現在、全国三十団体の漁民が、森づくりに励んでいる。

 運動が広がるにつれ、いいだしっぺの私にさまざまな問い合わせも多くなってきた。ところがまったく迂闊なことに、こちらの地理的条件を説明するとき日常語として何気なく使っている「リアス式海岸」という言葉の、本来の意味を理解していなかったのである。

 それ以前に、片仮名言葉の「リアス」が何語であるかさえしらなかったのだ。四十年以上も昔、小学校の教科書で、「三陸海岸に代表される複雑に入り組んだ海岸」と教えられて以来、それ以上の知識の上積みはまったくなく、そのままを繰り返していたのだ。

 ところが、偶然にもつい最近、この言葉がスペイン語であり、その本来の意味は、単なる入り江ということではなく、「潮入り川」という意味であることを知ったのである。

 このことは、ほとんどの人がイメージしてきたリアス式海岸という地理的特性の解釈が、反対であったことを教えてくれる。

 私は今まで、三陸海岸のような入り組んだ湾は、海の波が削ってできたものとばかり思っていたが、本来は、川が削った谷であり、地殻変動で地盤が沈降したため、海が逆に入り込んできた姿であったのだ。

 「リアス」の「リア」の語源は、「リオ(川)」であることも知った。つまりリアスの主役は川であり、その源の背後の森だったのである。

 魚介類が豊富なのは森の養分を含んだ川の水が、海の生物生産の基となる植物プランクトン、海藻を育んでいるからなのだ。

 リアスという言葉を理解したことは、私たちが十年前から行ってきた「森は海の恋人」運動の方向性が妥当であることを意味していた。

 そのことを足がかりにして調べていくと、我が三陸リアスとスペインとは、四百年も前から歴史的にも深くつながり、また、西北部のガリシア地方とは多くの共通性があることを知ったのである。それは、いっきに霧が晴れるような、新しい発見の連続だった。

 それらのことを踏まえて、三陸リアスの海辺の暮らしや、子供の頃、森や川や海で遊んだことを思い出してみると、高速交通体系から取り残された辺境の海辺とういマイナーな見方とはまったく逆の、森と川と海が一つとなった、魅力溢れる小宇宙であることを再発見するのである。

 とうとう私は、リアスという言葉の意味をこの眼で確かめるために、その発祥の地スペイン北西部ガルシア地方の森や川や海を訪ねる旅にも出かけることになった。

 そこには、想像をはるかに超えた豊かな森、地味の肥えた農地、魚介類の豊富な海、そして、そこの海辺を歩いていて私は、"El  bosque  es  la  mama  del  mar." (森は海のおふくろ)と語るガルシア漁民の声を確かに聞いたのである。

 地球を半周した地理的空間を越えて、スペインリアスと三陸リアスの漁民は、同じ想いで結ばれていたのだった。 』


 本書は、少年の頃の気仙沼湾を回想して、目張釣り、えごの木の下の小海老、豹のような目早、とうじんぼう、雪代水と鯔、リアスの山の幸、……と少年のころの豊かな海の記述が続きます。

 それもこれも森と川が健全であれば、牡蠣の養殖は豊漁で、気仙沼の漁民の居場所が確保されると言われていると思われます。(第13回)



物は置き場所、人には居場所(その12)

2016-10-29 20:07:07 | 哲学

 物は置き場所、人には居場所(その12)   日常をデザインする哲学庵  庵主 五十嵐玲二

 11. 森をつくる営みが農業である (アマゾンの日系人移住地トメアスで生れたアグロフォレストリー)

 今回紹介しますのは、ブラジルアマゾン川の河口の都市ベレンから南へ230kmの日系移住地トメアスに入植した坂口陞(のぼる)(1933~2007)のアグリフォレストリー実践の記録です。

 この農業のお話は、単に日系移民の話にとどまらず、地球の肺であるアマゾンの熱帯雨林と農業の共存の可能性を探る物語でもあります。

 これまでの近代農業は、森の木を切り尽して、そこに残った土壌に単一作物を、化学肥料と農薬、農業機械を活用して、大規模に栽培されてきました。作物の収量は得られますが、それを支える土壌と地下水脈は、少しづつ消耗していきます。

 これを自然の理にかなった、「森を作りながら、農業を営む」、すなわち、熱帯雨林と農業の共存への道を開くお話です。(本文はjapan-Brazil Network News Letter 1998年4月 原後雄太より)


 『 「森を保護しようというより、これまでアマゾンで何とか生き抜いていこうとしていたら、結果的に森を育てることになったんです」

 海外林業コンサルタント協会の招きで来日し、実に36年ぶりに日本の冬を経験したというトメアス農村振興協会の新井範明会長は、アマゾンでの営農をみずから振り返ってそう語った。

 アマゾン川の河口に位置するベレン市。そこから230キロ南下したところに、アマゾンで最大の日系移住地トメアスがある。1929年から移住が始まり、1942年までに352家族、2104名が地球の裏側にある広大な密林に入植した。

 カカオ栽培と米作を基本に入植したものの、カカオは全滅。陸路はなく、船で10時間かけてベレン市まで野菜を出荷することになった。

 少し落ち着いたころに、悪性のマラリアが現地を襲い、治療もできないままに多数の移住者の命が奪われた。入植者の8割にあたる276家族が脱耕してトメアスを去った。

 1933年、移住者のひとりだった臼井牧之助氏の手でシンガポールからコショウの苗20本が海を渡った。そのうちわずか2本だけが生き残り、トメアスに持ち込まれると、空前のコショウ景気に沸くことになった。

 ジュート(麻)と並ぶ日系人によるアマゾンの二大産業として成長を遂げ、トメアスは世界有数のコショウ産地に変貌したのである。ところがコショウブームも60年代後半になると陰りが生じる。

 水害と土壌菌による病害の蔓延で74年までにコショウ畑は全滅してしまった。マラリア以来の悪夢の再来とばかりに、半数以上の入植者がふたたびトメアスを後にした。

 なぜそんな悪夢がふたたび訪れたのだろうか。熱帯林は種の多様性こそが命だ。そして遺伝子の多様性は、自然条件の変化に備えて種を存続させる自然の知恵である

 それなのに、「黒いダイヤ」(コショウ)だけをできるだけ作り出そうと、森林をすべて焼き払い、表土をツルツルにした。化学肥料をまいて、わずか2本の苗木から何百万本もの「クローン」を仕立てた。

 生産性は上がったように見えたが、「ひとたび一人が風邪をひいたらみんな風邪をひいてしまう」のは自然の理だった。(坂口陞さんはそう考えた) 』


 『 「水害や病害は自然の摂理に反したことのしっぺ返しだったのではないか」。トメアスに残った人々は、再建計画をつくるなかでそう考えるようになった。

 「それでは、これまでの逆をやってみよう」。野菜のほかに、メロンやスイカを植えて地表をできるかぎり覆う。柑橘類のほか、アセロラ、クプアスといった樹木性の果樹を植える。

 コショウの枯れた畑には日陰をつくるために木を植え、その間にカカオを植えた。カカオの大きな葉は落葉して降り積もり豊かな腐葉土をつくる。そこに木を植えると何を植えても驚くほどよく育った。

 カカオ、ゴム、コーヒーといった主要な樹木作物に、クプアスやグラビオラ、アセロラ、マンゴスチンといった果樹を植え込む。

 さらにブラジルナッツや薬用となるアンジローバ、家具材となるフレジョ、マホガニー、セドロなどの価値ある樹種を植えていった。

 東アマゾンの森も、いまではトメアスだけで40を超える製材所がひしめき、森林が急速に消えている。ところが日系移住地に入ると急に森が深くなる。古くは1930年代にブラジルナッツをうえ、60年代にゴムをうえ、70年代から本格的に植林をしているためだ。

 「コショウの病気は人害です」そう言い切るのは、樹木作物を熱心にうったえるトメアスにおける農業の先駆者で、その指導的な立場にある坂口陞さんだ。

 76年から森を切って焼くことをやめた。それと同時にコショウとも縁を切った。「自分の生より長く生きる作物を植える。それをつくって死ぬのが生だ。枯れるようなものを植えるのは百姓ではない」というのが坂口さんの持論だ。

 森を切り開くのではなく、森をつくる営みのなかで生かされるのが農業である、と考えるのだ。そうしたアプローチはこれまでの農業観をくつがえすものだ。

 森と対峙するのではなく、森を模倣して森を復元することで生かされる生業としての農業——。それをトメアスの人たちは”森林農業”と呼んでいる。

 くしくもそれは、かってアマゾンの地で行われてきたカヤポ人らの先住民の農法を模倣したものである。トメアスにはほっとする温かさがある。

 それは山村を荒廃させ、あるいは放棄して発展させてきた日本の産業社会の、さらに先にある大事なことに気づいているからではないか。

 森林という自然環境のなかで生かされる森林共存型の文明を築こうとしている。それは、アマゾンという濃密な自然のなかで生き抜こうとして行き着いた人類共有の知恵であるようにも感じられる。

 焼かずにむしろ木を植える農業——。トメアスの混作農業はかねてから世界の研究者に注目されてきた。そんな農業がアマゾンでももっと広まってほしい。 』


 『 「父は当時、『自然を見て学びなさい』としょっちゅう口にしていた」。坂口さんの次男で、現在、トメアス総合農業協同組合(CAMTA)の理事長を務めるフランシスコ・渉・坂口さんは振り返る。

 父はこうも言っていた。「土地を守るために、木の葉っぱで傘をつくれ」。森が育って、木の葉っぱで「傘」ができると、木が葉っぱを落として、そこに微生物が付いて、土壌になる。

 さらに、いろいろなフルーツの殻を堆肥にする。表土が流れやすいアマゾンの貧しい土壌を改良していく仕組みだ。CAMTAはいま、アグリフォレストリー農法で栽培したアサイーなどの熱帯フルーツの実をすりつぶし、ペースト状にした冷凍パックを出荷している。

 年間の出荷量は年々増え、パルプ(果汁ペースト)4千トン、原料で8千トン(うち半数がアサイー)にも達する。アイサ―の実は植物繊維やカルシウムが豊富なほか、ポリフェノールはブルーベリーの約18倍とも言われる。

 鉄分はレバーの3倍だ。90年代、テレビ番組をきっかけにブラジル人の間で人気が出て、その後、米国や日本でも愛飲者が増えている。 』 (第12回)


物は置き場所、人には居場所(その11)

2016-10-24 10:10:25 | 哲学

 物は置き場所、人には居場所(その11)   日常をデザインする哲学庵  庵主 五十嵐玲二

 10. 社会のことを自分ごとに(島根県海士町の試み)

 ホイジンガの人間の三つの生き方の第二道 「世界そのものの改良をめざす」とある〔世界そのもの〕を〔身のまわりの現実〕に換え、「身のまわりの現実の改良と完成をめざす」第2.5の道とします。

 第一の道(彼岸への道)や第三の道(芸術への道)を目指すにしても、此岸(しがん)(現実への道)が安定していることが、大切なのではないのではないでしょうか。

 第2.5の道として、フィリピンの小さな島カオハンガ島での取り組みと、中国黄土高原の小さな村でのアンズの取り組みを紹介しました。

これらは、海外での取り組みなので、ここでは、鳥取県の沖合六十キロの日本海に浮かぶ、隠岐(おき)諸島の島前三島のひとつ・中ノ島に位置する、 面積33.5平方キロ、人口二四〇〇人の海士(あま)町での取り組みを紹介いたします。

 以下の話は、朝日新聞フロントランナーと海士町のブログよりの抜粋です。

 『 山内町長が当選した二〇〇二年は、平成の大合併の嵐が吹き荒れる中で離島が合併してもメリットがないと判断し、単独の道を選んだ。

 ところが二〇〇三年の三位一体改革による地方交付税が削減され、「二〇〇八年には海士町は財政再建団体へ転落する」これが当時のシミュレーションだった。すなわち財政破綻や過疎の危機にひんし、「島が消える」寸前だった。

 ここで、徹底した行財政改革を断行するには、自ら身を削らなければならない。そう考えた山内町長は、町長給与三〇%カットを宣言する。

 ある夜、残業中の町長に町幹部から電話がかかる。指定の店に行くと管理職全員がそろっていた。「僕らの給料も下げてください」と頼む彼らに「やかましい。お前らには求めん言うただろう」と答えた。

 翌日。町長室に総務課長が来て、「本気です。僕たちもついていかせてください。」と言った。町長は泣きながらその申し出を受ける。四月から管理職は二十%減。

 組合が「僕たちも」と申し出た、十月から一般職員も十~二十%減。翌年はカット率がさらに上がり、町長五〇%、議員四〇%、職員一六~三〇%カットし、二億円の人件費削減に成功した。

 「職員がそこまでやるのか、というのが住民意識を変えた」と町長は振り返る。町のことが、住民の自分ごとになった。 』


 『 海士町は「日本一給料の安い自治体」となったが、小さく守りに入ったわけではなかった。生き残りをかけ、ここから攻めに転じる。

 「前の民主党の時代だったでしょうか。官から民へということがいわれた。それは理想的な言葉なんですが、私たちのような民力がない小さなところだと、やっぱり官が本気にならないといけない。漁師も農家も自分たちだけで営業できるわけではない」という山内町長。

 しかし、海士町には離島というハンデがあった。「うちには市場がないですから、漁師が魚を捕ったら漁協へ渡して、漁協が境港(鳥取県)の魚市に出す。今日獲ってきたものでもあくる日の船で行けば、鮮度は落ちて買い叩かれる。この流通機構を変えて漁師が儲けられる仕組みをつくらないと、後継者は育ちません」

 そこで海士町では第三セクター「ふるさと海士」を立上げ、細胞組織を壊すことなく冷凍、鮮度を保ってまま魚介を出荷できる「CASシステム」という最新技術を導入した。

 (CASシステム : とは水を瞬時に凍らせることで氷晶化を防ぎ、細胞膜を無傷に保つことを可能としている。

 食品を冷却しながら磁場環境の中におき微弱エネルギーを与えることで細胞中の水分子を振動させることにより過冷却状態に保ち、その後瞬時に同時に冷凍させることにより水分の氷結晶化を抑える。 

 細胞を傷つけずに冷凍が可能なため、テェースバンクなどの医療の移植技術の分野でも応用されつつある。1997年に、株式会社アビーによって開発された。)

 海士町で一貫生産に成功したブランド「いわがき・春香」や特産の「しろイカ」などを直接、都市の消費者に届けることがねらいだ。システムそのものは一億円しなかったが、建物まで含めて五億円が必要だった。

 「県議会はなんでそんなにお金がかかるのか、絶対に黒字にならないと批判しましたが、あれが海士町のものづくりの一大革命だった」と山内町長は振りかえる。

 背水の陣だったが、産地直送の新鮮な魚介は人気となり、首都圏の外食チェーンをはじめ、百貨店やスーパー、米国や中国など海外にも販路を広げていった。

 山内町長が社長を兼ねた「ふるさと海士」は見事黒字化。2012年には売上2億円、595万円の黒字決算となり、4期連続で黒字が続いている。

 「運ぶための氷代や汽船運賃、漁協の手数料、魚市場の手数料をすべて抜いた。でも、町が儲けているわけではありません。今、しろイカの最盛期ですが、一番儲けた漁師さんだとふた月半くらいで600万円。

 漁師さんからすれば、ありがたい話です。ようやくそれがわかってもらえました」 「目標は外貨獲得」 と笑って話す山内町長だが、「島の中だけで経済をまわしてもだめ。島の外からいかにお金を持ってくるか、それが大事です」と話す。

 「それまでは予算ありきで、国から補助金が下りて終わり。自ら役場が企画しなかった。これからの行政は、特に我々のように小さいところは、営業をやらないと」 』


 『 海士町を訪れると、のんびりと草をはむ隠岐牛に出会う。隠岐特有の黒毛和種。急峻な崖地で放牧されながら、ミネラルを含んだ牧草を食べて育つため、足腰の強くおいしい肉質牛が育つという。

 これまで海士町では子牛のみが生産され、本土で肥育されて松坂牛や神戸牛となって市場に出ていた。しかし、公共事業が減ったことで売上が激減した建設業の経営者が、2004年に異業種だった畜産業へ進出。

 「隠岐潮風ファーム」を立ち上げて、島生まれ島育ちの隠岐牛のブランド化を目指した。2年後に3頭を初出荷、すべて高品位の格付けをえて、肉質は松坂牛並みの評価を受ける。

 現在、月間12頭を品質の厳しい東京食肉市場に絞って出荷しているが、今後は新しい牛舎を建設して、出荷頭数を倍の24頭に増やす計画だ。

 インタビューした日、山内町長は東京に出張中だった。東京都中央卸売市場食肉市場で10月に開かれていたイベント「東京市場まつり2013」で、隠岐牛をPRするためだ。

 イベントでは、海士町の職員がしろイカを始めとする島の特産品を、声を上げて販売していた。町長以下、職員全員で海士町を売りだしているのだ。

 「東京のお客さんは舌が肥えているので、良いものは買ってくれます。東京で認められれば、ブランドになる。一見、短絡的な考え方ですが、間違いではなかったなと。また、東京の人たちに食べてもらえるというのが、漁師や農家の人たちの誇りになる」 』


 『 海士町の快進撃はビジネスだけではない。最近、特に注目を集めているのが、島外からの高校の入学者やIターン、Uターンによる住民の増加だ。

 山内町長は、離島が生き残るために産業を立ち上げ「島をまるごとブランド化」する戦略をとった。「では、そもそも島が生き残るとは何か。それは、この島で人々が暮らし続けること」という。

 そのために必要なのが、「地域活性化のための交流」。海士町では、島外から人を呼ぶため、さまざまなプロジェクトを行ってきた。

 たとえば、隠岐諸島の島前地域で唯一の高校である島根県立隠岐島前高校は、少子化と過疎化で2008年度には生徒数が30人を切っていた。

 このままでは高校は統廃合され、島の子供たちは15歳で島外に出なくてはいけなくなる。人口が流出、その仕送りも島民にとって負担になる。だったら、島外の子供たちを高校に呼ぶしか存続の道はない。「島前高校魅力化プロジェクト」が立ち上がった。

 難関大学進学を目指す「特別進学コース」や地域づくりを担うリーダーを育てる「地域創造コース」などを新設、島外からの”留学生”に旅費や食費を補助する制度を作り、「島留学」を銘打った。

 この取り組みは評判を呼び、2012年度からは異例の学級増、2013年度も45人が入学、島外からの生徒は22人だった。「22人のうち、19人が県外です。しかも、東京あたりから。ドバイから帰国した子もいます。

 19人のうち15人は学校長推薦を受けた優秀な子たちです。今年も東京と大阪で高校の説明会をやったのですが、201人の親子が参加されていました。ただ、建物が手狭な関係で、島外から入学できるのは24人ぐらい。

 今、島外からの子供たちにとっては狭き門になっています。島の子供たちとの間で、摩擦は生まれないか初めは心配していました。でも、島の子供たちは刺激を受けているし、うまく同化もしている」 』


 『 子供だけではない。大人もなぜか海士町に集まっている。その数、246世帯、361人(2012年度末)で、一流大学の卒業生や一流企業でキャリアを持つ20代から40代の現役世帯が続々とIターンしているのだ。

 海士町教育委員会で島前高校魅力化プロジェクトを手がけるプロデュサーは、ソニーで働いていた岩本悠さん。一橋大学を卒業後、海士町で「干しナマコ」の加工会社を立ち上げ、中国に輸出を始めた宮崎雅也さん。

 他にも、島の活性化に一役買うような人は枚挙にいとまがない。一体、なぜ? 「町はIターンの人たちに直接的なお金の援助はしません。ただ、本気で頑張る人には本気でステージを与えようと思っています。

 若い人たちは、都会の生活に疲れたり、海士町に仕事があったから来たのではなく、新しい仕事を作りに来ている。友達が友達を呼んで、次々に縁によって来ている人たちです。

 逆に言えば、彼らをお金で引き止めることは絶対にできません。彼らが島の閉鎖性とどう向き合うか心配でしたが、島民と良い化学反応を起こして、活性化につながっています」

 山内町長の持論は、「役場は住民総合サービス株式会社」だ。町長は社長、副町長は専務、管理職は取締役、職員は社員で、税金を納める住民は株主で、サービスを受ける顧客でもあるという。

 「2012年は全国の自治体などから1400人ほどの視察が来ましたが、CASシステムや島前高校を見ながら、最終的には職員の動きを見ていました。「町長、ここは役場じゃないですね」って言われます(笑)。

 私は社長のつもりでやってきましたが、トップ一人のアイデアでは成功しません。職員に恵まれて、その意識も変わりました。そして、役場が変われば、町民も変わります。

 海士町は小さな島なので、自分がやったことが、どう自分に返ってくるかという連鎖がすごくちっちゃいんです。だから島全体のことが自分ごとになりやすい。社会のことを自分のことに出来るのです。 』 (第11回)


物は置き場所、人には居場所(その10)  

2016-10-22 14:33:26 | 哲学

 物は置き場所、人には居場所(その10)   日常をデザインする哲学庵  庵主 五十嵐玲二

 9. ぼくらの村にアンズが実った (菌根菌と樹種の多様性)

 ぼくらの村にアンズが実るために乗り越えなければならない、様々な困難を紹介していくうちに、ページ数が多くなりましたので、二つに分けます。

 

  『 黄土高原における緑化協力にために、「緑の地球ネットワーク」は四ヶ所の苗圃を確保しており、合計で二五ヘクタールほどになります。大同県国営苗圃の一角を借りている針葉樹育苗基地を九九年春に訪れると、責任者が興奮ぎみに話してくれました。 

 「ここの苗圃で二〇年以上働いているけど、こんないい苗は育てたことがないし、見たこともない。マツの育苗ではここは有名で、先日は新栄区から引き合いがあった。 

 従来からの苗を見せると、「いい苗だ。一本0.2元で買いたい」という。そのあと、日本側の技術で栽培した苗をみせると、「0.3元でもいいから、こっちの苗がほしい」という。 

 でも、みなさんの苗だから売ることができなかった。今年からは全部の苗を新しい技術で栽培しますよ」というのです。私たちがみても、その差は歴然としています。第一に私たちのマツ苗はよく生えそろっています。 

 ここらで種明かしをしましょう。私たちが栽培しているマツ苗は、種を蒔く前の苗床にマツ林の表土を少量と木炭クズを加えました。生育のちがいを生み出したのが、菌根菌の働きです。 

 菌根菌というのは菌根をもつ菌、植物の根に共生する微生物のことで、キノコやカビのなかまです。植物の根の細胞のなか、あるいは細胞と細胞のすきまに菌糸をはいりこませ、栄養は糖のかたちで植物からもらいます。 

 そのかわりに、菌糸を土のなかにも伸ばして、根と土とを密接に結びつけ、植物の根が水やミネラルを吸収するのを助けるのです。そのために植物の生育がよくなり、また菌糸によって根が保護されることで寒さや病害虫に強くなります。 

 九七年春、菌根菌研究の草分けである小川真さんに大同で指導してもらいました。そのときは数百本のポット苗で実験したのですが、菌根菌を接種したものは四ヵ月後には二倍に生育し効果が確認できました。 

 そこで、九八年春からこの針葉樹育苗基地を立上げ、実用化に乗り出したわけです。さっきは実験区と書きましたが、じつは毎年二百万本以上生産する体制をとったんです。この機動性がNGOの強みだと思います。 

 えられたデータを小川さんに報告すると、とても喜んでもらえました。そして「菌根菌の効果がでるのは、ふつうはもっとあとですよ。 

 現場の山に植えたあとで効果があらわれるというくらいに考えたほうがいいんです。一年めでそんなにはっきりちがいがでるのは、現場の環境がよほど厳しいからですよ」といわれるのです。 

 小川さんのことばでもわかるように、この技術は大きな苗を育てることに意味があるのではありません。山に植えたとき、活着がよく、乾燥や寒さ、そして病虫害につよい、そんな苗を育てる技術なのです。 

 そして条件の悪いところほど、その効果ははっきりするようです。二〇〇〇年の春から、菌根菌を接種した苗を植林現場に植えるようになりました。活着率は顕著に向上しました。 

 地元の人たちが驚いているのは、これまでの苗だと植えた当年は枯れないで活着するのがせいぜいで、ほとんど伸びなかったのですが、菌根菌を接種した苗は植えた直後から伸びはじめることです。 』

 

 『 材料もすべて現地で調達できますし、方法も簡単です。菌根菌の胞子とその接触を助ける木炭のクズ、軽石といったものがあればいいのです。マツの育苗なら、キノコの生えるようになった松林の表土に胞子がはいっています。 

 大同のばあい、つかっているのはアミタケです。木炭クズは、シリコン精製工場で還元剤につかっている木炭のクズをもらってきました。 

 最初にこの技術を苗圃の技術者に伝えたとき、彼らは半信半疑でした。最初の一年で効果を確信してくれたおかげで、木炭も松林の表土もすすんで準備するようになりました。 

 しかし、それ以上に彼らを駆り立てたのは、菌根菌をつかって育てた苗は、1.5倍の値段で売れることです。 

 この事業を準備する過程で中国林業部の報告書に目を通していたら、「中国は国土が広大なのに、南はコウヨウゼン、北はポプラというたった二種類の樹木で緑化をすすめてきた」という反省がかいてありました。 

 北のポプラにはカミキリムシの害が広がっているという指摘もあったのです。この活動の立上げのころ、相談にうかがった中村尚司さんは「環境問題にとって循環性、多様性、関係性という三つがキーワードですよ」とアドバイスしてくれました。 

 植える樹種に多様性をもたすこと、混植を実現することは、私たちにとって最初からの課題だったのです。でも、言うは易し、行うは難しです。 

 第一の困難は適合する樹種が乏しいことです。大同の一月の最低気温はマイナス三〇度近くですが、実際に木を植える山地ではさらに下がります。その反面、夏の最高気温は三五度を超え、けっこう暑いのです。 

 南の樹木は越冬が困難です。低温に耐える北の樹木は、小さいうちはいいようにみえても夏の暑さでだんだん弱り、弱ったところを病害虫などにやられる危険性があります。 

 そのうえ大同の農村はたいへん貧しく、余裕がありませんので、植える樹木がなんらかの経済性を備えないと、農民の積極性を引き出すことができません。こうした条件を備える樹木は容易にみつかりません。 

 第二の困難は関係者が混植の必要性を認識してないことです。私たちが混植を主張すると、技術者の一人は「複数の樹種を植えると、たがいに太陽光線を奪いあい、水を奪いあい、肥料を奪いあうことになるから、慎重に検討しないといけない」とこたえました。 

 「慎重に検討する」というのは、日本と同じで、「しない」という意味です。自然の森林を目にしたことがなく、環境の厳しさをいやというほど味わっていると、このような考えにおちいるのも無理ないのかもしれません。 

 転機となったのは九七年、大同県の遇駕山(ぐうかざん)をはじめ、三北防衛林のモデル林で枯れ死するモンゴリマツがでてきたことです。あわてて日本の専門家の数グループにみてもらいました。 

 地元の技術者といっしょに林のなかを観察すると、つぎのことがわかりました。アブラマツにはマツノハマキガが発生しているが、モンゴリマツにはでていない。 

 モンゴリマツにはハダニが発生しているが、アブラマツにはない。そしてモンゴリマツとアブラマツが混じっているところはどちらの虫も発生が少ない。 

 さらに、あいだにポプラやヤナギハグミが混じっているところは虫害の発生が少なく、マツの育ちもいいというものです。その効果があまりに劇的であることに私たちもびっくりしました。もともとの植生が少ないために混植の効果がてきめんにでるようです。 

 地元の技術者も、自分の目で確認するなかで、混植の意義を認識するようになりました。私たちの協力プロジェクトでは、九八年春から最大六種類の樹木を混植するようになったのです。 

 そして植物園建設へむけての思想的な準備もこれによって大きくすすみました。なんらかの飛躍がもたらされるのは問題が起こったときです。悪いことはいいことに変わるのです。 』

 

 『 九九年七月、渾源県呉城郷にアンズをみにいきました。この郷の振興村の小学校付属果樹園にアンズを植えたのは九五年春のことです。 

 私たちが協力したのは、五・三ヘクタール、四五〇〇本ほどですが、郷ではそれから数年かけて、四〇〇ヘクタール、三十万本ものアンズ園をつくりました。 

 この郷がアンズを植えたのと同じ時期、大同全域でアンズの栽培が大々的にはじまりました。乾燥と寒さに強いアンズはこの地方に最適の果樹だ、と政府が奨励したんです。 

 あちこちに大面積の「仁用杏基地」はできましたが、いまはその大部分は記念碑を残すだけになりました。私たちが協力したなかにも、大同県瞳郷のように失敗したプロジェクトがあります。 

 失敗の原因はいろいろでした。冬のあいだにノウサギの襲撃をうけ、壊滅的な打撃をうけたところがあります。暖冬続きで発生したアブラムシの害を受けたところもあります。 

 せっかくついた苗が接ぎ木に失敗した「ニセ苗」だったために、農民に引き抜かれたところもあります。 

 「幸福な家庭は一様に幸福だけれど、不幸な家庭はそれぞれに不幸だ」と書いたのはトルストイですが、成功の原因は一様だけど、失敗の原因はそれぞれだといったところ。 

 成功させるには、ひとつひとつの関門をクリアーしていくしかないんです。ところが失敗のほうは、原因がいくつもいくつもある。 

 呉城郷のアンズは、そのようななかでみごとに成功しました。いま現場でみると、となりあう株の枝が重なるところまで生長し、剪定もきちんとしてあります。 

 株もとの樹皮に白いものが残っているのは、ノウサギの忌避剤です。毎年ちゃんと忌避剤を塗っていました。ちょっとでも塗り残しがあると、そこをノウサギがかじるんですね。 

 本来なら最初の収穫は九八年になるはずでした。ところが花が咲き終わったばかりのとき、急に寒くなり、凍害のために幼果が落ちてしまいました。収穫ゼロです。この一帯はその年、穀物はかなりの豊作でした。 

 ところがアンズに切り換えたこの郷は、みじめな状態です。もし九九年も収穫できないとなれば、せっかくここまできたのにどうなるかわかりません。そのことがずっと気がかりでした。 

 でも話をきいて安心しました。九九年はアンズの大豊作で、この郷は全体で一〇〇万元以上の収入をえたそうです。多い家は一万元にもなりましたから、たいしたものです。これくらいに育つと、ウサギの害や虫害も少なく、手がかかりません。 

 九九年の大同は大旱魃でした。七月中頃に三〇ミリほどの雨が降りましたが、それまでカラカラでした。一メートルに満たないトウモロコシが穂をつけ、二十センチほどのジャガイモが花を咲かせているのをみると悲しくなります。 

 これでは収穫は望めないでしょう。そのうえイナゴやバッタが大発生し、農薬の空中散布がなされています。そのようななかでのアンズの豊作ですから、郷の人たちは去年とはまるで逆の気持ちを味わっていることでしょう。 

 残念だったのは、数日前に収穫が終わっていたことです。取り残しの実がところどころに残っているだけです。 

 この呉城郷は、最近「退耕還林」(退耕還林とは、急傾斜地など条件の悪い畑の耕作をやめ、森林や草地に戻す政策)のモデルとして、省内はもとより全国的にも注目されるようになりました。 』

 

 『 呉城県のアンズは、収穫二年目の二〇〇〇年も豊作でした。一〇アールあたり八二本が標準ですが、そこから一六〇キロの杏仁(きょうにん)がとれたのです。一キロ一〇元ですので、一六〇〇元です。 

 このアンズは果肉を食べる種類ではなく、杏仁を目的に特化したものです。アンズの種を割ると、なかに柔らかい部分、仁がありますが、あれを薬材・食材にするわけです。 

 鎮咳(ちんがい)・去痰(きょたん)をはじめ、幅広い用途の薬剤として使われますし、中国ではジュースや点心に加工されています。炒めてそのまま食べることもあります。日本でなじみのあるのは中華デザートのアンニントウフでしょうか。 

 アンズを植えるまでは、アワ・キビ・ジャガイモを栽培していました。これらの食糧は一キロが二元ほどです。ジャガイモは五キロを一キロに換算します。一〇アールあたりの収穫高は最高でも一五〇~二〇〇キロでした。お金にすると三〇〇~四〇〇元です。 

 ですから、アンズに換えたことで、収入は四~五倍にふえました。アンズはまだ若木なので、あと三年もすれば、最低でもいまの二倍に増えるでしょう。 

 効果はお金だけじゃないんですよ。となりの株と枝が重なりあうくらいにアンズが育つと、水土流失は軽減されます。雨の日に林を歩くときのことを思い出してください。 

 雨水は葉や枝で受け止められ、幹を伝わって地面にふります。それから根を伝わって、土のなかに浸透します。雨が地面をたたくことはないし、地面に水がたまることもない。その効果はアンズだって同じです。 

 それから、いい実をならすには、アンズは毎年、剪定をしないといけないんです。切った枝が燃料になります。そうすると周囲の灌木をつかわなくてすむから、多少なりとも植生が回復します。 

 アワやキビの茎も燃やしていたんですけど、そういう畑の副産物が堆肥になって畑に戻るようになります。これまでは水土流失によって土壌がしだいにやせ、あの悪循環におちいっていました。 

 アンズが育ったことで、それらが止まり、いいほうの循環に少しずつ変わっていくんです。そのうえに、収入の一部が教育支援につかわれ、人材の育成に役立つ。一石二鳥、三鳥なんですね。このあとどうなるか、とても楽しみです。 』 (第10回)


物は置き場所、人には居場所(その9)  

2016-10-14 14:45:50 | 哲学

 物は置き場所、人には居場所(その9)   日常をデザインする哲学庵  庵主 五十嵐玲二

 8. ぼくらの村にアンズが実った (旱魃と植物園)

 「ぼくらの村にアンズが実った」 〔中国(西北部)山西省大同市(黄土高原)・植林プロジェクトの十年〕 (NGO「緑の地球ネットワーク」事務局長高見邦夫著 2003年5月発行)

 本書を「人は居場所」の「現世での桃源郷の建設」の第2弾として、紹介いたします。人の居場所の最大の居場所は、農業的生産手段としての居場所です。

 アンズの苗を植えて、アンズの花が咲き、アンズが実って、村が豊かになって、村でのそれぞれの居場所を確保されて、生活が充実すれば、ベストですが、現実はそれほど甘いものではありませんでした。


 『 自然災害は恐ろしいのですが、もっと恐ろしいのは自然災害が連続することです。この地方の農民は、いい年にめぐりあい、収穫が多くても、食べつくすことはしません。

 凶作に備えて、食料の貯蔵を怠らないのです。ですから、ひどい自然災害になっても、一年だけなら持ちこたえることができます。でも二年三年とつづくと、事態は深刻になります。

 私は九二年からここを訪れるようになりましたが、おおざっぱな印象では、奇数の年はかならず旱魃で、偶数の年にはいい年もあるといったところ。

 九七年はひどい旱魃で、九九年は建国いらい最悪の旱魃でした。九八年も雨が降らず、そのうえイナゴの被害を受けました。自然災害が三年つづいたわけです。

 農家を回って残っている食料を見せてもらいました。ジャガイモは麻袋の底にわずかに残っているだけ。多少でも収穫できたのはトウモロコシです。

 旱魃につよいわけではありません。いちばん水条件のいいところに植えるからです。でも、穂軸の長さが小さいうえに、粒が欠けているものが多い。 』


 『 日本には「あとは野となれ山となれ」ということばがあります。手入れをしないと田畑は草に埋もれて野になり、やがて樹木が茂って山になります。

 ところが、私たちの協力地、黄土高原の大部分では、ほっておいても野にも山にもなりません。草もまばらな荒地のままです。最大の原因は、日本では雨が多く、年間1500ミリ以上の降水量があることです。

 それに対して黄土高原では、400ミリ以下なことです。温度の問題もあります。大同では最低気温がマイナス30度近くになり、最高気温は38度にもなります。(雪がないので、冬の寒さは防ぎようがありません)

 土壌も問題です。粒子が小さいうえに有機質の含有量がすくなく、団粒構造になりにくくて作物や植物が育ちにくい。水に恵まれた低いところではアルカリがきつく、塩害になりやすい。

 たくさんのプロジェクトにとりくんできて、その中で成功したものと失敗したものとがあります。それらを比較検討してみると、成功するためには三つの条件が必要です。

 第一は自然の条件です。水、温度、土壌、そういう自然条件を無視したプロジェクトは成功しません。黄土高原をひとくくりにみるのではなく、その場所、その場所を細かくみて、どこになにを、どのように植えるか、科学的な検討が必要です。

 第二は社会的な関係です。中国は政府の存在が大きいので、プロジェクトに関係する県や郷の政府の支持をえられるかどうか、といったことが大事です。関係者の九人が賛成しても、大声で反対する一人がいれば、いろいろな問題がおきます。

 第三は人的な要素です。プロジェクトを建設する村にしっかりしたリーダーが存在するかどうか、その人が村をまとめることができるかといったことが重要です。 』


 『 立花さんの最初のひとことは厳しいものでした。「NGOとかいっても、知識も経験もないから、バカなことばっかりやっている。大量の水を必要とするポプラを乾燥地に植えるなんてことをやってないでしょうな?」

 「先生を訪ねてきたのはバカなことを避けるためです」といって私は率直に実情を話しました。そのあとにつづいた立花さんの言葉が、耳の奥にずっと残っています。

 「工業化以前の世界では植物園が最初の研究機関だった。そして植民地主義の時代、たとえばイギリスはインドのあちこちに植物園を建設した。

 インド中の有用植物をそこに集め、いろいろ研究して栽培方法を確立し、それを植民地経営の基礎にした。しかし、そのときといまとでは時代がちがう。

 いまは地球環境が問題になるときだ。黄土高原のような砂漠化地域に植物園を建設し、可能性のある植物を集めて、試験栽培と馴化をすすめ、有望なものを広めていくといったことが必要なのではないか。

 そこまで本気でやる気があるなら、自分も参加しよう。」

 立花さんが参加したことで、この協力活動に発展の方向づけをしてくれたことです。戦略といってもいい。彼の構想のすべてをすぐさま大同で実現することはできません。

 でも、目標ができたことの意味は大きなものです。私も受け身の状態を脱することができましたし、力をどこに集中すべきか、しだいにわかるようになりました。 

 

 『 1994年春から担当することになったのが、大同市青年連合会の副主席、祁󠄀学峰(きがくほう)でした。都会育ちで農村のことを知らない彼といっしょに農村をまわり、農家に泊まりました。 

 郷の北部の黄土丘陵に環境が厳しく貧乏な村があると小耳にはさんだんです。降水量が極端に少なく、乾ききっているということです。その村をぜひみたいと、私は考えました。  

 ところが地元の幹部は、そんな村を外国人にみせたくなかった。祁󠄀学峰は、幹部を説得して、夕方になって同意を得ました。村の農家はあばら家ばかりです。エサの不足する冬を乗り切ったところで、羊がやせこけているのが毛のうえからでもわかります。  

 一軒の農家をのぞくと、老夫婦と孫が夕食をはじめたところでした。若夫婦は出稼ぎにでていて、村にはいません。オンドルにじかにおいた洗面器の底にアワのカユがちょっとあり、あとはトウガラシ味噌のピンだけ。  

 その様子を私がカメラとビデオで撮影しようとすると、地元の幹部が祁󠄀学峰に詰め寄りました。「こんな貧乏な村に外国人をつれてきて、写真まで撮らせていいのか」というわけです。  

 祁󠄀学峰は間髪をいれずに、「問題が起きたら自分が責任をとる」と応じました。そのとき訪れた村が、広霊県平城郷苑西庄村で、その後、井戸を掘ることになった村です。 

 そのときの思い出を祁󠄀学峰に話すと、彼は「あのころの自分はなにも知らなあったから怖いと思わなかった」と言ってました。 』  

 

 『 ちょうどこのころ、大同では祁󠄀学峰がこの協力活動を担当するようになり、緑色地球網絡大同事務所を立上げて、その所長に就任しました。そのころには大同の各県には十いくつものプロジェクトが成立していました。  

 彼の提案は「各県のプロジェクトがバラバラに存在していては管理ができない。全体を統括し牽引する存在が絶対に必要だ」というものでした。  

 立花さんの戦略は植物園でしたが、すぐに可能だとは彼も考えていませんでした。その前段階として「苗畑も必要だし、実験園や研修施設もほしい。要するにパイロットファームのようなものを準備したらいい」というのです。  

 中国と日本の両方からでてきた提案は、一つのこととして実現できます。祁󠄀学峰からの提案を、立花さんのプランにもとづいて一まわり大きく投げ返しました。 

 そのようにして生まれたのが大同市南郊区の環境林センターです。小さなスタートでしたが、その後、急速に発展しました。  

 植物園計画にとって、もっとも条件があうのは大同市最南部の霊丘県でした。ここに植物園を建設することを決め、地元の技術者たちに周辺の植生調査を頼んだら、なんと、かなりの規模の自然林がみつかったのです。  

 それによって、緑化にたいする私たちのイメージはそれ以前とはすっかり変わってしまいました。そういう発展を引き出したのは、立花さんの植物園にかける執念というしかありません。 』  

 

 『 私たちの協力拠点、環境林センターの技術者たちが「日本のサクラがほしい」といいだしたのは、九六年秋のことです。秋田や北海道の会員に頼んで、チシマザクラやオオヤマザクラの種子を集めてもらいました。  

 その種子を九七年夏、立花さんが自分で配合した土に蒔いておいたのです。翌年の春、その桜がびっしりと生えそろっていました。一本ずつに分け、小さなポリポットに植え替えることにしました。  

 地上部が10センチほど、根の長さもそれくらいでした。センターの技術者たちは、根が良く伸びていることに驚いたようです。私は別のことにびっくりしました。  

 根が土のなかの木炭くずや軽石をつかんで、放そうとしないのです。技術者全員を集めて私は「ほら、みてみろ、根は酸素が好きだから、こうやって木炭や軽石にからんでいくのだ」といいました。  

 立花さんは九七年の夏、もう一つの実験をしこみました。渾源県の照壁(しょうへき)でアンズの苗木を植えたときのことです。そばに石炭の燃やしたカスが捨ててあるのをみつけて、スコップ一杯ずつ、植え穴の一角に加えるようにしたのです。 

 そして絶対に踏まないように求めました。全体の半分はそのようにし、半分は現地のやり方で植えました。翌春、同じ場所にいったとき、バスが停まるなり、私は駆け出しました。  

 これほどの結果がでるとは予想もしていませんでした。石炭の燃えカスを加えたほうは活着率が九十パーセントを越えています。もう一方は六十パーセントくらいしか着かず、生育にも大きな差があります。 

 そのことの意味をわかってもらうために、同行していた技術者を呼び集め、それぞれのグループから一本ずつを掘りあげて根の状態を比較しました。 

 石炭カスを加えた方は太い根が石炭カスまでまっすぐ伸びており、そうでないものにくらべ全体に根の発育もいいのがわかります。  

 同行していた武春珍はその様子をみるなり興奮して、「ひじょうにはっきりしている。話は何度もきいてきたけど、今日はその意味がわかりました。これからは全部のプロジェクトでこのような植え方を採用します」といいだしました。  

 ずいぶんと苦労しましたが、事態は前にむかってすすみだしたのです。 』 


 ぼくらの村にはアンズが実るのは、まだまだ先の話ですが、次回の「菌根菌と樹種多様性」に続きます。 (第9回) 


物は置き場所、人には居場所(その8)

2016-10-09 15:29:25 | 哲学

 物は置き場所、人には居場所(その8)   日常をデザインする哲学庵  庵主 五十嵐玲二

 7. 小さな南の島に桃源郷をつくる

 ここからは、著者が6年後に書いた、「青い鳥の住む島」 (崎山克彦著 1997年6月発行)により、前回の続きを紹介いたします。

 

 『 私たちも、もう島に住み始めて六年になる。この間、島をよくしようといろいろなことを試みた。 

 しかし、長い目で見ると、結局は、島民たち、特に子どもたち自身に、しっかりと物を見る目を養い、自分で考え、正しい判断をすることを身に付けてもらうしかない、ということがはっきりと分かってきた。 

 私たちにできることは、まず、良い教育環境をつくるお手伝いをすることだ。新任の先生と話し合った。台風で倒れていた国旗掲揚台を作り直し、国旗を掲揚したい。 

 そして、「カオハガン小学校」と書いた木のパネルを自分で作り、学校に掛けたいそうだ。いいだろう。それから、これも台風で壊れて開かなくなっている窓を修理する。 

 今の教室は昼間でも曇りの日はかなり暗いのが気になる。まわりの木を切ったり、壁をもう一度、白く、明るく塗り直す。先生が必要なもののリストを作ってくれたので、それをできるだけ供給したい。

 物の援助は比較的簡単にできる。問題は中身なのだ。子供たちにぜひ知ってもらいたいことがあるのだ。思いつくままに、箇条書きにしてみよう。 

 一  カオハンガ島に生まれたことに誇りをもつこと。 

 二  世界は広いこと。しかし、その中でも、カオハガンはすばらしい場所であること。 

 三  お金や物をたくさん持つことだけがしあわせではないこと。 

 四  まじめに働くことの大切さ。 

 五  環境を守ることの大切さ。 

 六  ゴミをポイポイ捨てないで、ゴミ箱に捨てること。 

 七  鳥をパチンコでうったりしていじめないこと。 

 八  木が生えていることの大切さ。木をやたらに切らないこと。ココ椰子の実も全部食べてしまったら新しい木が生えてこない。 

 九  徐々に、ウンコをトイレでする習慣をつける。 

 十  魚や磯の生き物、木などを採り尽していまわないこと。 

 学校の教育の中で、こういったことを教えてもらいたいのだ。 

 新しくやって来た、レスディーとフェルマ、男女二人のサロンガ先生は夫婦なのだ。そして、若い。セブ島の南端にある島、シキホールからやってきた。小さな子どもを一人連れて、住み込みで教えてくれるらしい。 

 カオハガンのような小さな島の事情もよく分かっている。三月の末に卒業式があった。島民のほとんど全員が出席して式は進められた。そして、最後のころに、サロンガ先生は大演説をぶったのだ。 

 すぐに終わると思ったが、二〇分、三〇分といつまでも続く。どんどん熱を帯びてくる。島民たちも、帰る人もなく引き込まれるように聞いている。 

 「教育というものがいかに必要か」を、自分自身の例など引いて、とうとうと説いたのだ、うれしかった。将来が明るいものに思えた。 』

 

 『 島の子どもたちは、島全体を自由に動き回り、生活し、遊ぶ。その意味ですばらしい自然環境だ。同時に、「もう少し知的な、自由な遊び場」を私たちの手で創りたいと思うのだ。 

 まず、少し広めの、竹と木と椰子の葉でできた小屋を創る。誰でも、いつでも自由に出入りできる。その場所で、次のようなことをしてみたい。 

 一  絵本など、子どもたちが読んで楽しめる本を中心に、小さな図書館をつくる。貸し出しもしたい。 

 二  絵を描く道具をおいて、誰でも、いつでも絵が描けるようにする。 

 三  資金ができれば、大型のビデオデッキを入れて、良いビデオソフトを週に一度くらい見せる。いろいろな世界の存在を知らせたい。 

 四  週末や、夕方、時々「お話の会」をする。 

 五  日本などからきた方に専門のことを教えてもらう、例えば、絵を描くこと、おりがみ、彫刻、木工、空手など。 

 子どもたちが自由に出入りできる環境で、自由にものを教えてみたいのだ。そして、子どもたちの個性を見つけたら、それを伸ばしてやりたい。 

 それから、大人の島民たちへの教育も大切だと思っている。子どもたちに知っておいてもらいたいことをまず大人に分かってもらいたい、家庭で子どもたちに教えてもらいたいのだ。 

 一  衛生のこと。 

 二  簡単な医療の知識。 

 三  ミシンを使った縫い物などを教える。 

 四  新しい商品、例えば、観光客の買いそうな、島でできるみやげ品を考え、作らせる。 

 五  伝統的な島のクラフト、例えば、ゴザ、籠編みなどの技術を若い世代に引き継いでもらう。 

 六  子どもに教育を与えることの大切さ。 

 これらを、会合を開いて話し合う。特に、婦人向けの集会を定期的に開いていきたい。 』

 

 『 カオハガン島のような小さな島の運営にあたっては、「スモール・イズ・ビューティフル」の考え方だ。カオハンガ島は小さい。だから、そこに入ってくる人の量、物の量、金の量を多くしてはいけない。 

 それらが限度を超えて増えれば、必ず環境が破壊される。人が心を失う。そして、私の心の中でのオカハンガンの「存在の理由」を失うのだ。 

 カオハガン島の自然は美しい。住んでいる人たちもゆったりと伸び伸びと生きている。住めば住むほどそれを感じる。同時に、簡単に環境や人の心が破壊され、美しさを失ってしまう大きさ、いや、小ささなのだ。 

 今までは、台風や、旱魃などによる破壊、島民自身によるダイナマイト漁などによる破壊を考えればよかっただろう。しかし、交通、通信手段の発達した現代では、他の世界と無縁に美しい環境、人の心を保つことが難しくなっている。 

 まずは、私たちの宿泊施設にやってくる人の量だ。一昨年の夏の出版以降、宿泊を希望して島にやって来る人の数が増えた。それまでは、私の友人、知人たちがパラパラと来ていた程度だから、激増したと言っていいかもしれない。 

 さいわいなことに、今までに島を訪れたほとんどの人がカオハガン島に満足してくれた。何回も繰り返して来てくれる方も多い。うれしいことだ。 

 今、私は、宿泊客を一日平均四人、年間で千五百人に制限することを考えている。年間千五百人の人が来てくれると、島の運営は経済的に安定する。 

 私は、カオハガン島の運営で私利を得ようとはまったく考えていない。しかし、事業を永続させるためには、安定した利益を得ることは絶対に必要だ。 

 そして、この程度の数の人間がカオハンガ島を訪れていても、それは自然の中に吸収されてしまう。総体の人の量を考えなくてはならない。数としては島民が一番多い。 

 これについては、「人口についての取り決め」の効果が出始めている。生れて来る子どもの数もこれからは減りはじめることを期待したい。今後五年くらい、カオハガン島の人口は四百人を越さないだろうと思うのだ。 

 島民たちも、人口を増やさないことの問題の重要さを漠然とではあるが、理解し始めている。 』 


 カオハンガ島の例は、小さい島だからできたことですが、小さいといえども四百人もの人々の生活を安定させることは、そう簡単なことではなく、国レベルで発生する様々な問題が発生します。

 急激な人口増加、フィリピンの政治情勢、武装組織の襲来、自然災害、急激な社会情勢の変化、……。

 さらには数十年のレンジでは、地球温暖化による海水面の上昇なども、大きな問題ですが、このように成功している例は稀なケースです。

 第一の道 「あの世での天国」、第二の道 「現世での理想郷の建設」、第三の道 「この世の生活を芸術の形につくりかえる」 の三つの道があります。

 この世の生活を芸術に変えるという、第三の道といえども、現世で生きる必要があり、第二の道といえども、芸術によって潤いのあるものにする必要があります。

 さらには、人間はいずれ死に至るので、第一の道 「あの世での天国」も必要とします。従って、この三つの道すべてを人はバランスをとりながら歩む必要があるのでは、ないでしょうか。(第8回)


物は置き場所、人には居場所(その7)

2016-10-05 08:31:08 | 哲学

 物は置き場所、人には居場所(その7)   日常をデザインする哲学庵  庵主 五十嵐玲二

 6. 人間の三つの生き方について

  最初に、森本哲郎著の「月は東に ―蕪村の夢 漱石の幻」より引用します。すでに記述しましたが、何回も反芻する価値のある文章です、これを踏まえて話をすすめていきます。


 『 オランダの史家ヨハン・ホイジンガは、名著「中世の秋」のなかで、人間の三つの生き方を説いている。

 第一の道は、「世界の外に通じる俗世放棄の道」である。すなわち、俗世間を捨てて彼岸にその世界を求める宗教的な情熱、神を求める希求が歩ませる道だ。

 すべての文明は、まずこの道を歩んだ。キリスト教もイスラム教も、仏教も、その性格はいかに異なろうと、歩んだ道はおなじだった。

 だが、やがて、第二の道があらわれる。第二の道は、「世界そのものの改良と完成をめざす」道であり、宗教が夢みる彼岸を、此岸(しがん)にうち建てようとする悲願、すなわち、現実への道である。

 ホイジンガは、こう記す。
 ――ひとたび、積極的な世界改良への道が切りひらかれるとき、新しい時代がはじまり、生への不安は、勇気と希望とに席をゆずる。(が)この意識がもたらされるのは、やっと十八世紀にはいってのことである。――

 けれども、人びとの歩む道は、このふたつに尽きているわけではない。もうひとつ、第三の道がある。それは、夢の道である。

 その第三の道は、第一の道のように現世を否定して彼岸に至ろうとするのではなく、さりとて、第二の道のように、現実の世界を変革したり改良したりして、そこに理想郷を実現させようというのでもない。

 そのまんなかにあって、「せめては、みかけの美しさで生活をいろどろう、明るい空想の夢の国に遊ぼう、理想の魅力によって現実を中和しよう」という生き方である。

 この第三の道は、はたして現実からの逃避だろうか。ただ、空想の世界だけに至る道だろうか。ホイジンガはそう問いかけ、こう答える。

 いや、そうではない、それは現実とのかかわりを持たぬということではなく、この世の生活を芸術の形につくりかえることであり、「生活そのものを、美をもって高め、社会そのものを、遊びとかたちとで満たそうとするのである」と。

 ホイジンガは、”中世の秋”、すなわち、ヨーロッパ中世末期の文化を、この視点からとらえ、そこに中世人の生活の豊かさを発見したのであった。

 ホイジンガがさし示した第三の道、すなわち、夢と遊びの道を、蕪村も漱石も歩もうとした。「草枕」の主人公がいう、「非人情」の世界とは、まさしく、その第三の道、人生という「虹」が最も美しくながめられる、そのような境地である。

 ホイジンガが中世びとの世界に見つけた第三の道と、蕪村が俳諧で描きあげた”夢の園”、そして「草枕」の画家が逍遥しようとした「非人情の立場」とのあいだに、どれほどの隔たりがあろうか。

 とはいえ、ホイジンガがいうように、第三の道を歩むということは、けっして容易ではない。

 生活そのものを美の世界へ昇華させるためには、「個人の生活術が最高度に要求される」からである。

 したがって、「生活を芸術の水準にまで高めようとするこの要求にこたえることができるのは、ひとにぎりの選ばれたるものたちのみであろう」

 この点において、東洋は西洋をはるかに越えている。中国や日本においては、その気になりさえすれば、だれでも容易に「文人」たりうるからである。』


 第一の道については、私が述べる資格も知識もありませんが、一つだけ私に言えることは、「他力本願」と「自力本願」の二つのバランスをとることではないでしょうか。

 まず「自力本願」を前面に出した後に、自力の及ばないところを「他力本願」ということではないかと考えます。


 次に第二の道は、「世界そのものの改良と完成をめざす」とあります。しかし、一八世紀以降今日まで、革命的に世界を変えようという多くの試みがなされてきました。

 しかしその手法に於いて、全世界、地球上の百億のすべての人々を一つの考え方で、変化させることには、無理があり、世界は多様化した形態に向かう方が、自然な気がいたします。

 そこで、全世界やすべての国民を対象とするのではなく、もっと小さな系を対象として、現実に小さな島や小さな村に自分たちの想い描く桃源郷を創ろうという考え方です。


 ここで紹介するのは、1987年、フィリピンのセブ島沖10kmにある周囲2㎞の小島カオハガン島での話でお話です。「何もなくて豊かな島」 (崎山克彦著 1995年6月発行)です。

 『 私はドドンとは船の上にいた。東京から一緒に来た仲間と船でダイビングに出かけ、午前中のダイビングを終え、ヒロトガン島の島陰に船を泊めて昼の休憩をとっているところだった。

 ドドンははるかかなたに浮かぶ小島を指差して「あの島は、今売りに出ているんだよ。私の知っている一番美しい島だ」と言ったのだ。私の胸は急に高まった。

 四十年以上前の終戦直後から、米軍と共にダイビングを始め、フィリピンでのダイビングの草分けであるドドンは、この辺の海域を自分の庭のように知り尽している男だ。「ぜひ行ってみたい」

 そして私はカオハンガ島と運命の出会いをし、そしてこの美しい南海の小島と不思議な縁で結ばれることになったのだ。

 「いくらですか」私は思い切って聞いてみた。「二百万ペソくらいだったら、買えると思う」 一ペソは五円くらいだろうと、すぐに頭の中で計算した。一千万円だ。何だ、それなら貯金をおろせば買える。

 「ぜひ、買いたいのですが、よろしくお願いします」 私はドドンにいってしまたのだ。 』


 『 ニューヨークに駐在していた時、社宅を二軒買ったことがある。しかし、フィリピンの事情はまったくわからない。その上「島」を買うというのはどういうことなのだろう。

 そして、フィリピンは、外国人が複雑な取引をする場合、関係者と自称する人が続々と名乗り出て、少しでも分け前をとろうとするので有名な国らしい。

 仕事でお世話になっていた、東京の国際弁護士の方にお願いし、フィリピンで最も信頼のおける法律事務所のセブ島の代表のダニーさんを紹介してもらった。

 そして、ダニ―とドドンにこの取引をまかせることにした。ドドンの話では「カオハンガ島全体を、近くのオランゴ島のポーに住んでいるイアスという人が所有しており、登記も済んでいる。

 自分はイアスの親友であり、自分にまかせておけば問題ない」ということっだたが、実際はまったくちがっていた。イアスが八割以上の土地を持っていたが、借金のかたとしてすでにある銀行の持ち物になっていた。

 また、半分くらいの土地は登記されていたが、その他は登記されておらず、いわゆるタックスクラレーションといわれている「税金を払っているので、土地所有者とみなされている」という状態だった。

 土地登記制度が全国規模では完全には実施されてないフィリピンでは、地方に行くと、未だにこのような土地所有形態が多い。おまけにほんのわずかな土地だが、島の中に国有地があることも分かった。

 この複雑な土地買取交渉をし、登記までもっていくのは大変な仕事だったが、ダニ―が実のよい仕事をしてくれた。いまでは、二つの小さな区画を除いて全部私たちの所有になっている。

 二つの内一つは、島を運営していく上でまったく必要ない場所なのでほってある。もう一方は長期のリース契約を結んである。土地の所有の実情がわかり、大部分を占める銀行所有の土地が手に入ったのが1988年の夏だった。 』


 『 その時、私は五三歳。三〇年も続けた「ビジネス」を中心とした生活から、抜け出したかったのかもしれない。ほんとうに「縁」としかいいようのない出会いで、カオハガン島が手に入ったことを、運命のように感じた。

 留学、仕事と、アメリカで約十年生活をしたおかげで、外国に住むことに違和感はなかった。「やはり、島に行こう」と心に決めた。

 退職金などで多少の貯えはあった。しかし、いつまでもあるわけではない。仕事を長く続かせるためにも、収支の合う仕事をすることも大切だ。

 しかし、何と言っても一番大切なこと、それは、この美しいカオハンガ島の自然を守ることだ。長い地球の歩みの中で育ってきたこのカオハンガ島の自然、生態系を、開発の波から守らねばならぬ。

 何事にも優先するのがこのことだろう。また、島には約三百人の住民が住んでいる。ほとんどが何世代も前からここに住んでいるひとたちだ。

 「この人たちをどう扱うか?」多くの人、とくにフィリピンの人の意見は「別に土地を与えてそこに移転させろ」ということだった。島民たちは、現在は土地不法占有者として島に権利なく生活しているのだ。

 「将来の島の利用を考えた時、今の時点で移転させれば問題が残らない」というのは、至極正しい意見だ。しかし、ここのところに私はひどくこだわった。

 自然も大事だが、住んでいる人も大切だ。人の住んでいない大自然もすばらしいが、そこに生活している人々との関係は、私にとって大切に思え、興味があった。

 そして、思い切って、まわりの人たちの親切なアドバイスを押し切り、島民たちと一緒に生活する道を選んだのだ。もう一つ。私一人でこの仕事をするのではなく、できるだけ大勢の人に参加してもらいたかった。

 南の島で生活するという憧れは、大勢の人が持っている。そんな想いを持った人たちが、それぞれに憧れを実現できる場をつくりたい。

 少しずつ、将来への夢がまとまってきた。まず、私自身が、美しい南の島で生活できるということ。第二に美しい自然を守る義務があるということ。次に、島民と一緒に生活し、それを楽しみにしたいということ。

 そして、なるべく多くの人に来ていただき南の生活を体験してほしい。とにかく、まず、自分が住み始めることだ。それにはまず家を建てなければ。そして何人かの友人たちの泊まれる施設もつくろう。

 島の自然の景観を変えてはいけない。自然を生かした美しい建築をすることで名高いセブの建築家カニザレスさんに設計を依頼した。一九九〇年の末に家が完成した。

 水、明かりなどの基本設備もできあがった。そしてその翌年、私は会社を辞め、カオハンガ島にわたり「島の生活」を始めたのだ。 』(第7回)