チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「ボクは料理長、ときどき鉄人」

2015-03-22 10:24:25 | 独学

 73. ボクは料理長、ときどき鉄人  (坂井宏行著 2000年12月)

 『 父、坂井喜栄の顔をボクは覚えていない。ボクは朝鮮半島でうまれた。一九四二(昭和17)四月二日、日本は太平洋戦争の真っただ中だった。弟が生まれた一九四四年の冬、父は赤紙(招集令状)が届いて、出征した。熊本の化学会社から転勤して移り住んだ朝鮮半島の社宅には、二二歳の母イセ子と四歳の姉、二歳のボク、生まれたばかりの弟が残された。

 だが、ボクにはその社宅がどこにあったかも記憶にない。ただ、長い長い階段があったことだけは覚えている。翌年八月一五日、日本は戦争に負けた。母は幼い三人の子供をつれて引き揚げ船に乗り、ようよう日本にたどり着いた。ボクは、そのことも記憶にない。母の実家がある鹿児島県北西部の出水市(いずみ)に、ボクたちは落ち着いた。冬に鶴が渡ってくる干拓地や八代海の漁業が有名だが、ボクが住むことになったのは、内陸地の大川内(せんだい)下平野。

 親戚がボクたちの住む家を探してくれた。そこで、ボクは一六歳までの少年時代を過ごすことになる。だが父は、ついに還ってこなかった。ボクたちが引き揚げの混乱にあった頃、台湾南沖のバシー海峡で、乗っていた船が沈没したのだ。八月一九日、戦争は四日前に終わっていた。三五歳だった。

 母は、昼間は近所の農家の手伝いに出かけた。夜は、村の人たちに頼まれた着物の縫い物をした。それが、わが家の収入だった。祖母や叔父伯母が、ときどき野菜やサツマイモなどを持ってきてくれたが、食べ盛り育ち盛りのボクたち兄弟の腹を満たすのは容易ではなかったろう。

 下平野に落ち着いてからのボクの記憶といえば、まず「お腹がすいていた」だったのだから。白いご飯など食べられなかった。主食は粟ご飯。わずかな米に、粟とサツマイモを加えて炊き合わせたもの。粟はボソボソしていたが、サツマイモの甘みがなんともいえなかった。

 そうでなけれが、麦ご飯を味噌仕立ての冷たい汁に入れたもの。おかずは、サツマイモのつるをさっと炒めて醤油で味つけしたきんぴらのようなものがせいぜい。子供の頃の楽しみは、とにかく食べること。格別なのは乾燥イモ。いまはスーパーや八百屋で売られているが、当時はどこの家でも自分たちで作っていた。

 薄切りにしたサツマイモを、日当たりのよい軒先や縁側に敷いたござやざるや新聞紙の上に並べる。表面に白い粉が吹いてくると、甘みが出て食べごろになる。「宏行! なんばしとっとよ!」 お菓子や砂糖などの甘いものに飢えていたボクたちにとっては、魅力的な食べ物だった。

 食べごろになるまで待てないボクは、いつもつまみ食いをして母に叱られた。いまの時代から見ると「粗末なもの」なのだろうが、当時の日本ではどこも似たり寄ったり。ボクも姉も弟も、それがあたりまえ。「おいしくない」とか「食べにくい」などと不満に思うことはなかった。ただ「お腹いっぱい食べたい」というのが望みだった。 』

 

 『 「坂井くん、〇〇くん、校長室に来なさい」 大川内小学校に入ると、月に一度、校長室に呼ばれる日があった。校長室に入ると、ボクのほか何人かが呼ばれている。家が貧しくて学用品を買ってもらえない子に、学校からノートや鉛筆、クレヨンなどが支給されるのだ。校長先生が一人ひとりに「大事に使うんだよ」と言って、手渡してくれる。

 一クラス五十人のうち、ぼくをふくめて三,四人はいるが、うれしいのと同時に、ボクはしみじみ思った。「あぁ、うちは貧乏なんだなぁ」と。もらったノートは、校長先生に言われたとおり、大事に大事に使った。ボクは勉強が嫌いだった。鉛筆やノートよりも、もらってうれしかったのはクレヨンだった。

 もらった画用紙や、チラシの裏に絵を描くのだ。リンゴ、ナシ、スイカといった静物、遊び場だった広瀬川や野山の風景画……身のまわりのものを描く。市内の絵画コンクールに何度も入選したボクは、本気で「絵描きになろう」と思ったこともある。

 貧乏なわが家には、絵の対象になるくだものを買う余裕はない。じつは、それらはみんな近所の畑から失敬するのだ。学校の帰り道で見かける畑の作物。スイカ、トマト、キュウリにナス。ボクにかぎらず、腹をすかせていた戦後まもなくの子供たちには、とてつもないごちそうに見えた。

 「おい、あひこん(あそこの)スイカもう熟れとっど。とって食おうかい」言いだしっぺは、いつもぼく。吃音がひどかった少年時代のボクは、友達から「どもい」と呼ばれたことがあった。国語の時間に当てられて教科書を読まされるのは苦痛だったが、吃音がはずかしかったわけではない。

 だが、「どもい」とからかわれるのは、我慢がならなかった。「どもって、ない(なに)が悪かっ!」そう怒鳴り返してから、だれもボクをからかわなくなった。むしろ、背が低くてもすばしこいボクは一目置かれるようになり、遊びではボクが先頭に立つようになった。

 スイカは棒でたたいて割ると、つるの部分にあとが残る。すると、すぐに畑の持ち主にばれてしまう。だから、つるから切り取るのだ。すぐにはばれず、証拠も残らない。ボクたち子供の悪知恵なのだ。明るい太陽を浴びて完熟したトマトは、青臭さと甘さが同居した野性味があった。みずみずしいキュウリ、かぶりつくと皮がキュッと音をたてるナス。

 甘いものがほしくなると、サトウキビ畑に入る。茎を折って皮をむき、しゃぶりながら帰るのだが、よく畑の持ち主に見つかった。「コラーッ」という声に、クモの子を散らすように逃げるボクたち。でも、畑の持ち主にはわかっている。「また、坂井んとこの宏ちゃんじゃろ」見つかるたびに、母が謝りに出かけた。

 真っ赤なトマト、キュウリのきれいな緑、つやつや光る濃紺のナスの皮。ボクはクレヨンを使って、食べものの絵を描いた。姿形を思い浮かべながら描くうちに、口のなかにはその味がいっぱいに広がったものだった。 』

 

 『 学校への行き帰りの道が、風景画の題材だった。歩いて通う広瀬川ぞいの四キロの道は、放課後の遊び場でもあった。出水は孟宗竹の産地でもある。その竹を肥後守というナイフでけずって、竹ヒゴにして籠を編む。「宏ちゃんは、きよかねえ(器用だねえ)。オイの籠も編んでくれんね」

 サワガニの一種の山太郎ガニ用の籠を編み終えると、別の友達がウナギ用の長い籠を編んでくれと頼んでくる。籠を編みながら、みんなに編み方を教えてあげた。籠を作り終えると、川っ端で拾ったグス(釣り糸、テグス)をつなげて、釣りの仕掛けを作る。仕掛けといっても単純だ。つないだ糸に釣り針を何本もぶら下げるだけ。

 籠と仕掛けができると、みんなで川原の石をひっくり返しタニシをさがした。ガネ用の籠にはつぶしたタニシを布でくるんで入れ、ウナギ用の籠にもえさを入れる。釣り針にはむき身にしたタニシを引っ掛ける。籠や仕掛けを川の澱みに沈める頃には、西の空が紅くなってくる。

 明日の朝早く引き上げれば、きっとたくさんの獲物がかかているはずだ。帰り道、友達がどのくらい大きなナマズやウナギがかかっているか、どんなにたくさんの山太郎ガネが入っているか、話している。でも、ボクはたくさんでなくても、大きくなくてもかまわない。明日のご飯のおかずが手にはいればいいな、と思った。

 成長期のボクには、くる日もくる日も、粟ご飯とサツマイモのつるのおかずでは足りなかった。もっとおいしいものも食べたかった。だが、それを口には出せなかった。では、「また粟ん飯か。まちょっと(もっと)うまかもん、食おごとあんね(食べたいよなぁ)」と思っても、ひとことでも口に出せば、母を悲しませるだけだったから。

 最初から収穫があったわけではなかった。何回かトライして、はじめて獲物を持って帰った日、母は大喜びで迎えてくれた。ボクの服が川の水でびしょびしょに濡れていたり、土でドロドロになっていたことなど、おかまいなしだった。晩ご飯のおかずになると、大喜びしてくれた。

 よその畑からスイカやサトウキビを失敬したこてがばれるたびに、母は持ち主に謝りに出かけた。帰ってきてボクを叱る母の顔は、怖いというよりも悲しそうだった。でも、野山でのわくわくするような遊びは、それが家計の助けになり、いくら服をよごしても、学校からの帰りが遅くなっても叱られない。それどころか、母の笑顔がみられるのだ。ボクは堂々と出水の野山で遊ぶようになった。 』

 

 『 小学校四年生の夏の日。学校からの帰り道で、友達が川辺に切り出した孟宗竹を無造作に置いてあるのを見つけた。さっそく、ボクに教えてくれる。「宏ちゃん。こいでなんかおもしろかっが、でけんけえ?」仕掛けの籠作り以来、おもしろい遊びを思いつくのは、ボクだということになっていた。ボクの家は、川の上流にある。下流の学校までは川沿いの道を歩いて通っていた。

 パッとひらめいたのは、イカダだった。「イカダば作って乗れば、学校までいっき行っがなっと(ひと足で行けるぞ)!」「宏ちゃん、びんた(頭)がよかね」「いっき作っど(すぐ作ろうぜ)」 竹を並べ、拾ってきた蔦でつなぎ合わせる。できあがったのは、デコボコの不格好なイカダだったが、汗だくになって一生懸命に作ったボクたちは満足だった。

 脱いだ服をカバンといっしょにイカダにくくりつけ、パンツ一丁になって、われ先に飛び乗った。操作なんていうことはだれも考えていなかった。イカダは、こっちの岸にゴツン、あっちの岩にゴッンとぶつかりながら川を下って行った。学校の近くまで下ると、ボクたちはイカダを岸にくくりつけた。

 服はびしょ濡れだったが、かってない冒険に興奮して、だれも気にしていなかった。だが、ボクたちは帰るときになって、たいへんなことに気づいてしまった。「しもた!明日こいでがっけ行っ時ゃ(これで学校にいくには)、また上ずい(上流まで)もっていかな」 今日はもう遅い。みんなであすの朝早く集まって遊ぶことにした。しんどいはずなのに、いま経験した川下りの爽快さを思うと、だれも苦にしてはいなかった。 』

 

 『 イカダ遊びをはじめて何ヵ月かが過ぎた。下流からイカダをみんなで運んで岸につなぐと、太陽は西の空に沈みかけている。家に帰ると、母はまだ仕事から戻っていなかった。ボクは、姉と弟と母の帰りを待っていた。空が夕焼けの紅から紫色に、そして見る見るうちに濃い青色へと変わっていく。

 季節は、もう秋になっていたのだ。「秋の日は釣瓶落とし」といわれる。母が帰ってくる頃には、とっぷりと暮れているだろう。仕事で疲れて帰ってきて、それから料理を作るのはたいへんだ。台所に灯った裸電球の薄明かりのなかで料理を作る母の背中を思い浮かべて、ボクはなんだかもの悲しくなった。

 無性に母の手伝いがしたくなった。「オイが、晩飯ゃ作っで」 姉にそう言って台所に立ち、見よう見まねで晩ご飯の支度にとりかかった。ご飯は、いつもの粟ご飯。おかずは、ボクが今朝獲ってきた川えびと鮎だ。川えびは丸ごとゆでる。鮎は串に刺して、囲炉裏ばたであぶる。

 姉と弟に手伝ってもらってようやくできあがった頃、母が帰ってきた。味付けも盛りつけもいいかげんだったが、はじめてボクが作った料理を、みんなが「旨まんか、旨まんか」と言って食べてくれた。うれしくてうれしくて、このときからボクは漠然と「料理人になりたい」と思うようになった。

 母の言うとおりの「手に職」、そしてなにより食べ物をあつかう職業なら「お腹いっぱい食べられる。自分だけじゃなく、家族にもお腹いっぱい食べさせてあげられるに違いない」と、子供心に無邪気に考えていたからだ。竹ヒゴで作った罠や鳥もちを使って、ヒヨドリを捕まえるようになった。

 わくわくしながら遊んで、食べ物も手に入る。漁と同じように、最初は大人がやっているのを見よう見まねではじめたものだ。教えてくれたのは、近所に住んでいたマタギのおじいさんだった。とても腕がいいという評判だった。

 狩猟シーズンになると、おじいさんがリーダーになって、何人かのマタギが一組になって猟に出かける。「おじいさん、きゅわ(今日は)なによ獲っと?」と聞くボクに、「シシといよ。晩さめ、川んこれで待っとけ(イノシシだ。夕方、川原でまってろ)」と答えてくれる。

 ねらった獲物は必ず仕留めるといわれているおじいさんの言葉だ。ボクは友達を誘って川原で待っていた。おじいさんたちは、背中に大きなイノシシを担いで山から下りてきた。おじいさんたちは、呪文のようなものを唱えたあと、解体をはじめた。使うのは山で使う短い刀だ。

 仰向けにしたイノシシのあごの部分から刃を入れ、下まで切り裂く。四つの脚の内側にも刃を入れる。短刀を使って、皮をはいでいく。服を脱がせるように、きれいにイノシシの毛皮がはがされた。内臓を取り出してから、脚や腿などに肉を切り分けていく。

 使うのは短刀だけなのに、ここまでの作業はあっという間だ。ボクたちは、いつもほれぼれしながら眺めていた。魚を獲ったり鳥を捕まえるのと違って、この刀さばきだけは、子供のボクが見よう見まねでやってみるというわけにはいかなかった。

 厳しい山の掟というものがあったらしいし、山刀はボクが使っている肥後守より数段鋭利で、使いこなせそうもなかった。でも、いつかマタギのおじいさんやほかの猟師のように、上手に肉をさばけるようになれたらいいなと思った。

 解体作業が終わりに近づくと、漁師たちは石を組んでカマドをつくり、火をおこす。山の神に供物を捧げたあと、食事がはじまるのだ。もちろん、ボクたち子供にも分けてくれた。いちばんおいしいのは、肝などの内臓、つまりモツ。新鮮なものほどおいしい。

 川えび、ナマズ、ウナギ、イノシシのモツ……自然のなかで遊びながら、ぼくはおいしいものを舌で覚え、料理を覚えていった。塾も習いごともなかった時代。時間だけはたっぷりあった少年時代のボクは、野や山や川、村の大人たちからさまざまなことを教わったのだ。 』

 

 『 出水高校の一年生の一〇月に中退し、中学校の布袋先生の世話で、大阪の仕出し弁当屋「一富士」に就職し、一年たった昭和三四年四月に辻調理学校に入学した。くる日もくる日も掃除に洗濯に釜と串洗い、包丁を使うのはジャガイモとタマネギの皮むきだけ。

 そんなある日、先輩に声をかけられた。「坂井、料理学校に行っとんのやて?」「洋食のコックになりたいやったら、ホテルやレストランで修業せな」しかし、鹿児島の田舎から出てきたボクには、ホテルとかレストランに就職するあてなどなかった。

 下を向いたボクに、先輩は言った。「知り合いにホテル新大阪につとめとるやつがおるんや。そこで若いのを一人、さがしとってな。行ってみんか?」形ばかりの面接を受けて、ホテル新大阪に入社した。

 親方の世話は大変だったけど、親方がボクの学校通いを認めてくれたのだ。おかげで卒業するまでの二年間、昼はホテルで働き、夜は学校に通うことができた。ホテルで一年ほどたった時、「ゴルフ場のレストランで人を欲しがっているので、希望者がいたら申し出るように」という知らせがあった。ボクは真っ先に手を挙げた。

 そのゴルフ場のクラブハウスのレストランを、ホテル新大阪が経営していた。親方の温井さんに、「まずはストーブ前からだ」と命じられた。ボクは中学校にあったダルマストーブを思い浮かべたが、こちらはフランスのレストランにあるようなレンガ造りの大きなストーブだ。一日の仕事が終わると、灰をかき出して掃除する。そして、翌日使う石炭を、室内に運び込んで乾燥させる。

 朝六時に起きて火をおこし、先輩たちが来るまでにお湯を沸かしておく。温井さんは、ボクに任せられると思ったことは、なんでもやらせてくれ、わからないことがあると丁寧に教えてくれた。ハンバーグの作り方を教えてくれた先輩が英語の雑誌を読んでいた。「先輩、英語が読めるんですか?」と聞くと、先輩は照れたように笑った。先輩は、コックになる前は自衛隊にいたのだそうだ。米軍基地の兵隊と話すうちに覚えたという。 』

 

 『 ホテル新大阪で働くようになって二年が過ぎようとしていた。ある日、調理学校の掲示板に、「オーストラリア、パースの「ホテル・オリエンタル」。求ム、日本人コック」ボクは即座に事務所へ行った。ボクの急く気持ちとはうらはらに、「応募してきたのは君だけや。早速紹介状出すさかい、写真貼った履歴書持ってきて」

 しかし、これからの手続きをいろいろと説明されてるうちに、だれも応募しなかった理由がわかってきた。渡航するためのパスポートのほかに、向こうで働くためのビザも発給してもらわなければならない。しかし、それよりなにより、オーストラリアまでの渡航費用が自己負担だった。そんなお金はあるわけない。ボクは頭を抱えた。

 レストランに戻って途方に暮れていると、先輩に声をかけられた。事情を話すと、先輩はオーストラリア行に大賛成で、どうやって行くかを親方に話してくれた。親方もボクの外国修行を喜んでくれた。このレストランでは、いろいろな料理を覚えさせてもらっておきながら、いきなり辞める話になったのに、親方も先輩も親身になって考えてくれた。

 数日後、親方がボクの肩をたたいて言った。「坂井くん。パースへ行くぴったりの方法が見つかったぞ。船のコックとして乗り組むんだ。船賃がかからないうえに、ちょっぴりだけど給料ももらえるんだ。どうだ?」 涙が出そうになった。じつを言うと、ボクはあきらめかけていた。ここを辞めると言った手前、次の勤め先をさがそうと考えていたのだから。「ありがとうごだいます……」

 そう言って頭を下げたとき、床にしずくが落ちた。親方や先輩の親切に、そして母の励ましによって、ボクのオーストラリア行は、ついに現実のものになったのだ。ボクは、船が係留されている横浜に旅立った。大阪の駅には、横山さんが見送りに来てくれていた。

 汽車が出るまでの間、調理学校での思い出を話し、オーストラリアの修業の夢を話した。ボクは、デッキで手を振りながら、ホームに立つ彼女をみていた。ホームで手を振る彼女の姿が小さく小さくなっていく……それがボクが見た横山さんの最後の姿だった。 』

  

 『 ボクの乗る船は、山下埠頭につながれたいた。船名は乾丸。五千トンほどの貨客船である。といっても純粋な乗客はわずかで、基本的には貨物船だ。乗船するとすぐ、司厨長(しちゅうちょう)(コック長、シェフに相当する)に引き合わされた。

 船長をはじめとする船員やスタッフに紹介される。ボクのようにコックや甲板員として乗り組んで、働きながら海外へ渡るという若者もいた。厨房を案内してくれた司厨長は、さすがに堂々とした人だった。ボクがずっとあこがれていた「外国航路のシェフ」そのものだった。

 厨房の壁の一面に、冷凍機能も備えたとてつもなく大きい冷蔵庫があった。なかにはものすごい量の食料がつまっていた。マーガリン、ラード、味噌や醤油などの調味料は、大きなドラム缶で貯蔵されてあった。肉や魚が冷凍されているのは当然だと思ったが、豆腐や卵まで冷凍してあった。卵は、翌日使う分を冷蔵庫に移して解凍しておいて一~二時間前に出せば、元の状態になるのだという。

 「こんなにたくさんの食料が必要なんですか?」と聞くボクに、司厨長が答える。「船に乗っている何十人分もの胃袋をまかなうから、せいぜい次の寄港地までの分しか積めないんだ。でも、ギリギリの量だけ積むっていうわけにもいかないから、神経を使うんだよ」

 司厨長は船のコック長だが、料理を作ることだけが仕事ではない。航海中の食料の確保もしなければならないのだ。食料は次の寄港地で買って補給する。とりあえず、そこまでの日数と人数を掛け合わせれば、必要な量はわかる。だが、海の上ではなにが起こるかわからない。

 天候によって到着が遅れることもあるし、嵐にあって遭難するかもしれない。そうしたことも考えておかなければならないのだ。在庫はどれだけあるか。メニューはこうして、レシピはこう、人数はこれだけだから、今日が終わると在庫はこうなる……と、じつに細かく綿密な計画が必要になる。

 船に乗る人たちの全員の命を預かるのが船長なら、司厨長は命のもとになる食事を預かっている。その自覚と責任感、そして緻密な計画性と人を束ねる統率力が、司厨長には必要なのだということが、ボクにはわかってきた。 』 

 

 『 船は二四時間休むことなく動くから、船員は交代制で部署につかなければならないのだ。ボクたちコックも、二交替制となった。朝六時に厨房に入り、夕方六時まで働く。一チーム三人で調理する。作る量はたいしたことはないが、船の上の調理は慣れるまで大変だった。太平洋のうねりを受けると、五千トン程度の船でも右に左に、そして前に後ろにユラリユラリとゆれる。

 いちばん下っぱのボクが最初に任された調理は、野菜の皮むき。だが、まないたの上に置いたニンジン、ジャガイモ、タマネギが、ゆれに合わせて転がる。籠やバケットに入れておかないと、ゆれが激しいときには調理場の床を野菜と追いかけっこになってしまうのだ。足場がしっかりしないから、調理には陸上の何倍もの神経をつかい、エネルギーが必要だった。

 やがて、仕事に慣れてくると、ほかの調理もさせられるようになった。「坂井。今日はカレーなんだけど、君はルウを作れるか?」「はい、だいじょうぶです。任せてください」自身満々に答えたものの、レンジ台の前に立って驚いた。ガスでも石炭ストーブでもない。重油バーナーなのだ。使った経験はまったくない。

 「火加減は、どうやって調節するんですか?」「そこにコックがあるだろう。それで空気の量を調節すればいいんだよ」ルウを作るには、まず小麦粉をじっくりとアメ色になるまで炒めるのだが、そうするには一にも二にも火加減がポイントになる。小麦粉の色を見ながら、注意深く火加減を調節しなければならない。

 ガスなら、レバーをちょっといじれば強火も弱火も簡単だが、重油バーナーの空気の調節はむずかしい。ちょっと減らしたつもりなのに火が消えてしまう。焦げそうだから弱火にしようと空気を減らしても、すぐには弱火にならない。ちょっとだけ空気弁を開けると強火になる。おまけに、フライパンを操作するのは陸上でも骨が折れるのに、ゆれる船の上だ。あわてているうちに、小麦粉は黒焦げになってしまった。コツを覚えるまでは、失敗の連続だった。 』

 

 『 シンク(流し台)で洗い物をしていると、水がたまりはじめた。「先輩、水が流れないんですが」シンクをのぞきこんだ先輩は、しばらく排水口を突ついていたが、あきらめたようにボクに言った。「パイプがつまってるんだ。坂井、お前行って掃除してこい」「掃除って、どこへ行けばいいんですか」「外だよ、外」「甲板ですか?ドレンは下に通ってるんですよ。掃除するなら外じゃなくて、機関室とか倉庫に下りるんじゃないんですか」

 「違うよ。船の横っ腹だよ、船の土手っ腹!」調理場の汚水は、排水パイプを通って船の側面の排水口から海に流れるようになっている。生ゴミの一部もいっしょに流れることがあるのだが、パイプはあまり太くない。船がゆれて、生ゴミが行ったり来たりしているうちに集まってつまってしまうのだ。

 「土手っ腹って……下は海じゃないスか!」「あたりまえだろう、船なんだから。ほら、これを突っこんでパイプをかき出してこい」先輩は、長い棒をボクに投げてよこした。棒を持って茫然と突っ立てるボクに、「はしごを下ろして、命綱を胴にしっかり結びつけてやるんだぞ。ほら、モタモタしないで早く行けよ!」

 その声に押されて、しかたなく甲板に上がって行った。船は順調に航海をつづけている。かき分けた海水が、泡立って船の横を流れている。海面から甲板までの高さは十メートルはある。ビルの四階ぐらいの高さだ。恐る恐るのぞきこむと、問題の排水口ははるか下、海面すれすれではないか。

 しかし、やるしかないのだ。へっぴり腰ではしごを下ろし、命綱をつける。手が真っ白になるくらい力を込めて、しっかりと結び付けた。それでも、足がすくんでなかなか動けない。命綱を両手で握り締めて、目を閉じた。「オイは薩摩の男じゃ。ぼっけもんじゃ。震えておられん。行っどーっ!」相撲の四股を踏むようなスタイルで、気合を入れた。

 「チェスト、行けぇー!」だが、気合を入れたにしては、はしごを下りる足取りはソロソロ。一段下りるたびに風当たりは強くなる。波の音も大きくなってくる。棒を持っているから、はしごは片手でつかむしかない。生きた心地がしない。排水口の高さまで下りたときには、顔はびっしょり。それが冷や汗なのか水しぶきなのか、もしかしたら涙もまじっていたのかもしれない。

 何度も何度も必死で棒を突っこんだ。ぐりぐり回すと、ゴミといしょに水がドーッと吹き出した。「やったぜ、ざまあみろ」と叫びながら、顔はひきつっていた。排水口は、よくつまった。ボクのチームが当番のときは、掃除は常にいちばん年下のボクの役目だった。だが、二回三回とやるうちに慣れて、手際よくはしごを下ろして命綱をつけ、難なく「任務」をこなせるようになった。 』

 

 本書は、これからパースに上陸し、ヒラメの三枚おろしで、魚の担当になり、東京に戻って、ムシュ志度藤雄の店に、さらには万博レストランへ、そして金谷鮮治との出会い、……と続いてゆくが、このブログでの紹介はここまでとします。しかしながら、ここまでで、どうしてフレンチのムシュと呼ばれ、オナーシェフとなり、料理の鉄人までたどり着いたかの、萌芽は十分に伝えられたと思っています。とにかく読んでいて面白い、つぎつぎに場面が変化し、そのハードルを乗り越えて、次のチャンスをつかんで行きます。小説でもこんなに調子よくはいかない。

 私(ブログの作成者)が、ムシュ坂井宏之がなぜここまでこれたかを、分析してみました。 (1) テーマを持っていた(料理人、西洋料理) (2) ハードル(困難、壁、資金)を自分で乗り越える (3) まわりの人を自分の味方に引き込む魅力(上も下もライバルも) (4) あらゆる事柄を丁寧に観察している(料理の素材、調理器具、ムシュの人物) (5) 自分の経験と更なる工夫によって、それらを自分の能力として着実に蓄積している (6) 自分に近づいたチャンスを自分の能力とまわりの人(親方、先輩)の能力までも使って、引き寄せている

 私もこのブログを作成中に、手術のために2週間ほど入院しましたが、他力本願だけでも、かと言って自力本願だけでもだめで、自力本願と他力本願のバランスがとれたとき、うまくいくように感じました。(第72回)


ブックハンター「私の骨董夜話」

2015-03-13 10:15:38 | 独学

 72. 私の骨董夜話  (浜美枝著 2005年4月)

 著者の浜美枝は、1943年東京生まれ、中学卒業後、東急バスに入社バスガールをしていたところを抜群にスタイルがよかったのでスカウトされた。本人は全くその気が無かったが、東宝側がバス会社と話をつけ、女優契約させられた。

 1960年、16歳のとき女優デビューし、1967年には「007は二度死ぬ」でボンドガールを演じ、国際的名声をえる。結婚、出産後、古民家12軒分を生かした家を箱根に建て、自然と向き合う暮らしを続けている。ボンドガールでありながら、骨董と古民家に惹かれる著者の話をいっしょに聞きましょう。

 『 骨董と私の、最初の出会いは、京都でした。1963年の春。私は十七歳でした。十五歳で女優としてデビューして、二年目のことでした。東京から乗った特急列車の車窓には、すこしばかりまぶしくなった日の光が降りそそいでいました。中学校の修学旅行に、私は行きませんので、京都に行くのは初めてで、胸がどきどきしたことを覚えています。でもまさか、その日から骨董との長いおつきあいがはじまるなんて。そのときの私は、知る由もありませんでした。

 私が京都を訪れたのは、「婦人公論」の表紙撮影のためでした。「撮影場所は京都。カメラマンは土門拳さんです」そう聞かされたときから、私はその撮影に、胸を躍らせていたように思います。京都はずっと訪ねてみたいと思った場所であり、土門拳さんは私の憧れの写真家でしたから。

 私は本屋さんで、土門さんの写真集「筑豊の子どもたち」を見つけ、ざら紙に印刷された一枚一枚の写真が、悲しさと子供たちの愛らしさを伝えていました。さて、京都での「婦人公論」の撮影ははじまったのですが、土門さんはまもなく、「光がよくない。撮影はヤメ」とおしゃって、撮影を翌日に延期することになってしまいました。

 突然、その日はオフになってしまたのです。空白になったをどうしようかしらと思っていた私を誘ってくださったのが、土門さんでした。「ついておいで。これから本物を見に行こう」八幡神社の境内を通り過ぎ、たどりついたのが、「近藤」という骨董のお店でした。もちろん、私にとってはじめての骨董のお店でした。

 店主の近藤金吾さんは、土門さんの後ろに女の子がいるとわかって、おやっという顔をなすったような気がします。「土門さん、きょうはめずらしいですな。お嬢さんをお連れで」「この娘は、浜美枝という女優でなぁ。「婦人公論」の表紙写真を撮るのに、連れて歩いとる」

 近藤さんは、私たちを奥の座敷に案内してくださいました。そこには、ずらりと信楽の壺が並んでいました。土門さんと近藤さんは、骨董を介してとても親しくおつきあいをなさっていて、近藤さんが集められた信楽を土門さんが撮影し、写真集にするという計画が進んでいたのです。

 おふたりが熱心に打ちあわせをしていらしゃる傍らで、私はポツンと座りながら、まわりに並べられていた信楽を拝見していました。最初はただぼんやりと見ていたのですが、しばらくするうちに、私はこれら信楽に心を奪われつつある自分に気がつきました。

 ひとつとして同じ姿形をしたものがなく、欠けたりひび割れたりしているものもあるのだけれども……、その存在感のたしかさ、たたずまいの美しさが心に響いてきたのです。そのときです。不意に土門さんが振り向くと、こうおしゃいました。

 「近藤さんの目で選んだものばかりだからね。よく見ておくといい。……ものには本物と、そうでないものと、ふたつしかない。本物に出会いなさい」あの厳しいお顔をしていらした土門さんが、すこしばかり優しい目をなさっていました。「本物……、ですか」「そう、本物を見ることだよ。お店のほうも見てくるといい」

 土門さんの言葉にうながされて、私はひとり立ち上がりました。見るといっても、どんなふうに見ればいいのかさえ知りませんでした。私は、ゆっくり歩きながら、見るともなく店に飾られたものを見ておりました。と不思議なことがおこりました。私はお店に飾ってあったある壺の前から離れられなくなってしまったのです。

 その壺の名は「蹲」(うずくまる)。手のひらにすっぽりはいるくらいの小さな壺です。首は欠けているのですが、なんて優しい形なのかしら。なんて柔らかで静かな表情をしているのかしら。なんて美しいの。なんて、なんて……。あふれんばかりの感動と感嘆で私の心は満たされ、時間がふっと止まったようでした。

 そして……。「私にこの壺を分けてください」いまから思うと赤面のいたりなのですが、なにもわからないまま、近藤さんにお願いしてしまっていたのです。近藤さんも土門さんも「えっ」と驚いたような顔をなさいました。あとになって、近藤さんは、そのときのことをご自分の本に、つぎのように書いていらしゃいます。

 「信楽古陶は非常に地味なものですから年配のお客様でもよほど趣味のある方でないと興味をもたれないものだからです。私は不思議でした。まだ十六,七歳の少女にこの蹲がわかるのだろうか、と。しかし彼女はいつまでたっても、その蹲から離れようとしませんでした。そして遂に「私にこの壺を分けてください」私は自分の耳をうたがいました。」(近藤金吾「壺やのひとりごと」より)

 けれども、私が本気であることがわかると、近藤さんは、「この壺は半年後に東京日本橋三越本店で開かれる信楽展に出品するので、そこでまた見て、それでもこの壺がほしかったら、あらためて連絡をしなさい」とおしゃったのです。そこではじめてお値段を聞いて、驚きました。当時、東宝でいただいていたお給料のほぼ一年分に当たる金額でした。

 それでも、「蹲」への思いは強くなるばかりでした。半年後、待ちに待った三越での信楽展が開かれました。私は飛んで行きました。そして、「蹲」に再会。「蹲」は、私のところに置いておきたいと、あらためて強く思いました。貯金などまだまだすこししかありませんでしたので、東宝にお願いして、お給料を前借りさせていただき、近藤さんに再度、ご連絡をいたしました。

 展覧会がおわって、それが私のもとにやってきたのは11月20日。私の十七歳の誕生日のことでした。「蹲」は、私の骨董の原点です。降りかかった灰釉だまりの風情がなんともいえず、大侘びの風情をかもす安土桃山時代の信楽です。当時の「蹲」は、もう数点しか、この世に残されていないと聞きました。

 後年、土門さんとお会いしてたときに、「蹲」について、「美枝さん。あなたが買っていなかったら、「蹲」は僕がと思っていたものだったんだよ。万が一、手放すようなことがあったら、いちばん最初に僕に連絡してくれよ」こうおっしゃったことがありました。なんだか、とても嬉しくなったものです。

 この「蹲」には毎年一度、二月に箱根の家に咲く寒椿を一輪さして、ひとり眺めております。「近藤」が京都でも有数の骨董商であることを私が知ったのもそのあとのことでした。美とはなにか。本物とはなんか。迷ったときには、私は「蹲」との出った日に戻ります。心とからだが震えるような大きな喜びを感じた、幸せな出会いを思い、そして土門さんの言葉をかみしめるのです。 』

 

 『 土門さんに「近藤」を教えていただいてから、私は時間さえあれば、東京駅から特急電車に乗り、京都を往復しました。翌日の仕事が急にオフになり、あわてて夜行電車に飛び乗ったこともありました。近藤さんは、買いつけや作家のお世話、各地で行われる骨董の展覧会などで、全国を飛びまわっていらしゃる方でした。

 「近藤」ファンの方に、私は何人もお会いしましたが、なかには「いつ行っても、近藤さんに会えないんだ。いないんだよ」と嘆かれる人も少なくありませんでした。ところが、私がうかがうと、近藤さんはいつもお店にいらしゃるのです。前もって連絡をするわけではありません。

 近藤さんがお忙しいことがわかっているのに、お電話をさしあげ、待っていただくなんて、そんな申し訳ないことはとてもできませんから。でも、お店をのぞくと、そこにいつも近藤さんのお顔が見えるのです。不思議な話でしょう。「浜さんがいらしゃるときは、どうしてうちのン、いつもいるんでっしゃろ」近藤さんの奥さまが、そういってくださったこともありました。

 各界の錚々たる方々がお客様の「近藤」ですが、十七歳の私にも、こちらが気遅れするほど、きちんと相対してくださいました。いつも京都のお菓子とお薄をいただきました。その抹茶茶碗がどれもこれもたいへん、見事なものでした。その姿かたちはもちろん、持ち上げたときの手触り、持ち重り、柔らかな口当たり、お薄の淡いグリーンが美しく映える色あい、風合い……。

 最初にお抹茶をいただくところから、近藤さんのレッスンははじまっていたように思います。そう。「近藤」の店主・近藤金吾さんこそ、私の骨董の最初の先生だったのした。私に美を知るきっかけを与えてくれ、そして導いてくだっさた恩人なのです。私は、お店のなかで何時間も過ごさせていただきました。立ったり座ったり、歩いたり立ち止まったり。

 私があるものの前で動かなくなると、声をかけてくださることもありました。「そない、気に入らはったんですか」「ええ。近藤さん、これはどんな人がどんなふうに、使っていらっしゃったんでしょうか」「さぁ、なんでっしゃろな……、どないな人がつかってたんでっしゃろな」

 近藤さんは、古信楽の魅力を再発見した人であり、木工芸の人間国宝・黒田辰秋さんなど、多くの芸術家を育てた方なのですが、私には、むずかしいことはいっさい、おしゃりませんでした。「近藤」の二階の応接間は、黒田辰秋さんの設計で、床の間の框なども黒田さんの手になるものでした。

 そればかりでなく、応接間の中央にふたつ並んでいる二間の長さの見事な机二脚も、黒田さんの「欅拭漆大机」です。なんでも、応接間が完成したときに、出来上がりを見ていただこうと、近藤さんが黒田さんをお招きしたところ、黒田さんはトラックに乗っていらして、これらの机をおろされたのだそうです。

「黒田さん、これ、なんですね」 「近藤、お祝いや、受け取ってくれ!」 近藤さんは黒田辰秋さんを物語るエピソードとして、こんな話をしてくださったこともありました。ちなみに黒田さんの作品は当時、棗一個でも百万円ほどの値がついていそうです。

 「蹲」のつぎに求めたのが、小さな古伊万里のお皿でした。「近藤」の棚に、一枚、飾ってあったものでした。山と木と月が描かれているのですが、それがなんとも絵画的で、私は懐かしい風景に出会ったような気がして、「蹲」のときと同様、一瞬にして魅入られてしまったのです。

 このお皿も、当時としてもかなり高価なものでしたが、私はこのときも迷いませんでした。洋のものとも和のものとも、それぞれにしっかりとなじみ、そこから発せられる世界はゆるぎません。。近藤さんはこのお皿を求めたときに、「浜さんには、いいものを見る目がある」といってくださいました。それも、嬉しいことでした。

 このお皿を見ると、私はそれだけで山や森を感じ、自然を感じることができるような気がします。その先には、日本の美しい風景が広がっているような気がします。私にそう感じさせるなにかが、この小さなお皿にはあるように思います。 』

 

 『 いまから十五~十六年ほど前になるでしょうか。私は井上夏野子さんというお友だちと「近藤」で待ちあわせをして、いつものようにお薄をいただいていました。そのとき、近藤さんがなにげなく、こうおっしゃったのです。「近代美術館の展覧会があるんで、黒田先生の鏡台を組んでいるところなんですわ。もう十年ほどここにあるのを、貸し出すことになりましてな」

 すると井上さんが身を乗り出すようにして尋ねました。「どういう鏡台ですか?」近藤さんがひとしきり、その鏡台の説明をなさると、井上さんは大きく目を見開き、「それ、私が子ども時代、母と私が使っていた鏡台です」といったのです。話は、彼女の子ども時代にさかのぼります。

 おとうさまは新聞記者で、無名時代の黒田辰秋さんと交友があったそうです。ある年の暮れ、黒田さんがリヤカーをひいて、彼女の父親を訪ねてきました。リヤカーの上には、この鏡台。正月の餅代がないので、それと引き換えに、鏡台を受け取ってくれというのでした。

 それからおとうさまがなくなられ、手放すまで、この鏡台は井上さん宅にあり、朝に夕に、母と娘でつかっていたそうです。「ここでまた出会えるなんて……」彼女だけでなく、私も、近藤さんも、あまりにも不思議なご縁に驚くばかりでした。黒田さんは生涯に五台の鏡台を作っています。

 この鏡台が最初の一台です。どっしりと重い鏡台です。力強い直線、おおらかな曲線、しかも品があり、りんとした比類ない存在感があるのです。まだ無名だったころ、ひたすら心をこめて作ったということも、伝わってきます。隅々まで精魂がこめられていることも、香ってきます。なんて素晴らしいのかしら。

 ため息をつくことさえ忘れ、私は無言で長いこと、見つめていました。近代美術館に出品されたその鏡台を見に行き、展覧会がおわり、鏡台が「近藤」に戻ったころを見計らって、私は京都に行きました。思いきって、その鏡台をゆずっていただけませんかとお願いした私に、近藤さんは、「ま、これは浜さんのところに嫁入りさせまひょ」と、いってくださったのです。

 夏のことでした。私は、お道具を、暑いときに動かすのはかわいそうな気がして、とてもできないのです。そこで秋になってから届けていただくことにしました。この鏡台が私のところに来たのは、十一月二十日。「蹲」同様、私の誕生日にやってきたお道具です。しっくりと、箱根の家になじんでくれました。

 鏡台の扉を開けてみる鏡というものは、女性にとって特別なものです。扉に手をかけ、鏡が姿をあらわすにつれ、自分がすこしずつ映し出される……。その時間までも、黒田さんの鏡台は豊かに彩ってくれるような気がします。 』

 

 この本に出てくる写真家土門拳(1909~1990)について 『 土門拳は山形県の酒田に生まれた。貧しく育ったようだが、酒田は最上川が母なる川で、土門もその豊かな水量を呑んで育った。斎藤茂吉、井上ひさしに何かが通じる。でも、幼少時は孤独な餓鬼大将だっただけだと自分で書いている。


 もっとも7歳のときに一家揃って東京へ移住しているので、そこで“都会の野生児”が萌芽した。考古学者か画家になりたかったそうだが(モジリアニふうの絵を描いていた)、賢治同様に父親に反対され断念して職を転々とし、農民運動に関心を寄せたりしている。


 結局、賢治が亡くなった昭和8年に上野池之端の宮内幸太の写真場に住みこみ、そのあと名取洋之助の「日本工房」に見習い入社して、写真家として立つことを決意した。26歳である。
 日本工房とは、ずいぶんものすごいところに潜りこんだもの、ここはそのころ最もラディカルで本格的な報道写真集団だった。木村伊兵衛、原弘、亀倉雄策らがひしめいていた。日本宣伝誌「FRONT」もつくっていた。ただ土門はまだ考古学に憧れていて、当初から古いものを撮ろうとしていた。


 そこで考える。古いものを撮っているのは報道ではないのか。古いものを撮っても、それはニュースではないのか。古いものは「新しい日本」ではないのか。
 この答えはどこにもなかった。写真家たちにも、日本工房にも、報道社会にも、答えられる者はいなかった。そんな写真など、誰も見たことがないからだ。そこで土門拳がこれに挑むことになる。


 いつも建っている寺の門、昔からの仏像、ただの壷、部屋の中で立ち塞がる襖、舞台で次々に動いていく文楽、雨が落ちる社の屋根、しーんとしたままの庭の苔、誰も上り下りしていない石段‥‥。ここにはどんなニュースもない。 が、土門はこれらを撮りつづけた。しかるに、このニュースにならない写真から、たとえば室生寺の真底が、土門によって“報道”されたのだ。古いものこそニュースだったのだ。 』 (千夜千冊 松岡正剛 910夜「死ぬことと生きること」土門拳より) 

 私(ブログの作成者)が、感心するのは、著者は、自分に訪れたチャンスを着実に自分のものとして、さらに次のステップにつなげていることです。本物の骨董、本物の日本建築(古民家)、本物の人間、本物のおもてなし、本物の美、本物の暮らし、とこれらは、私たち一人一人が大切にし、そして追求することよって、豊かな人生がおくれるのではと考えます。(第71回)