チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「ウイルスは生きている」

2018-10-29 19:43:55 | 独学

 175. ウイルスは生きている  (中屋敷均著 2016年3月)

 本書を読むと、生命とは何か、進化とは何か、代謝とは何か、遺伝子とは何か、ウイルスとは何かを再構築する必要に迫られます。

 有機化合物の遼かな道(マイルドストーン)(五十嵐玲二談)で、糖化合物(多糖類)、脂肪酸、アミノ酸、タンパク質、酵素、ホルモン、DNA,RNA,葉緑体、ミトコンドリア、細胞、生命体へと続く道である。

 と書きましたが、DNAの前にウイルスがくるような気がします。ウイルスと遺伝子(DNA,RNA)との関係は非常に深いように思われます。

 地球の生態系に於いて、最も重要なものは、水(H₂O)です。次に重要なのは、タンパク質と多糖類です。タンパク質は22種類のアミノ酸から構成され、炭素(C)骨格に水素(-H)とアミノ基(-NH₂)とカルボキシル基(-COOH)で構成されます。

 多糖類は、デンプンやセルロースなどで、デンプンはD-グルコース(ブドウ糖)(C₆H₁₂O₆)が縮合されて出来たものです。従って有機化合物の主要な元素は、C,H,O,Nです。

 私たちは、ウイルスが代謝をしていないため、生物ではないと言われてきました。さらに病原菌の面だけで、多くの生物と共生している面は、知られていませんでした。

 ウイルスと樹木の花粉が、どことなく似てるように感じます。私の考えでは、ウイルスは、酵素やホルモンやDNAやクロロホルムのような生命体に限りなく近くにありますが、生命体ではないと思います。

 その理由は、どこかで線を引かなくてはならないから、そして主体ではなく、エネルギーを依存しているからです。本書は、講談社現代新書の740円の本ですが、難解な部分もありますが、名著です。前置きが長くなりましたが、では読んでいきましょう。


 『 アイオワ州立大学で免疫学を学んでいたストックホルム生まれのヨハン・フルティンは、博士論文で「スペイン風邪」を起こしたインフルエンザウイルスを同定し、それに対するワクチンを作るという、壮大なテーマに取り組んでいた。

 彼のアイディアは「スペイン風邪」で亡くなった人の亡骸(なきがら)からウイルスを分離して、それを利用してワクチンを作成するというものであったが、目をつけたのがアラスカの永久凍土に埋葬されている犠牲者であった。

 永久凍土が天然の冷蔵庫のようにウイルスを保存している可能性があると考えたのだ。1918年、アイオワ州立大学の研究チームの一員として彼は初めてブレビック・ミッションを訪れた。

 村の議会を通して村人たちの了解を得て、彼は1918年のパンデミックで亡くなった犠牲者の墓を掘り起こし、遺体から良好なサンプルを採取することに成功した。

 しかし残念なことに、いくら探してもそこには感染性を持った「生きた」ウイルスは見つからなかった。1951年当時の技術では感染性のあるウイルスが得られなければ、それ以上、研究を進展させることは難しく、彼の博士論文研究もとん挫した。

 そして失意の中、彼は研究を離れ、その後、医者として暮らしていくことになる。それから46年後の1997年、勤めていたサンフランシスコの病院をすでに退職していたフルティンは、「サイエンス」誌に掲載された米国陸軍病理研究所のジェフリー・トーンバーガーの論文を目にする。

 トーベンバーガーは、わずかな材料から遺伝子を増幅させるPCR法という技術を用いて「スペイン風邪」の原因となったインフルエンザウイルスの遺伝子の解析を行っていた。

 しかし、彼らは樹脂包埋されたサンプルを用いていたため、ウイルスの保存状態が悪くサンプル量も少量で、断片的な遺伝子情報しか得られていなかった。

 その論文を読んだフルティンは、46年前の自分の体験が役に立つのではないかと思い、すぐにトーベンバーカーに手紙を書いた。

 そこには過去に失敗した課題にもう一度挑戦したいこと、採取は自費でやつもりであること、検体が採取できたら米軍病理学研究所に寄贈すること等が述べられていた。

 トーベンバーカーから大変興味があるとの返事を受け取ると、一週間後にはフルティンはアラスカに旅立っていた。1997年8月、二度目のブレビック・ミッションへの訪問であった。

 初めて訪れた1951年当時26歳だったフルティンは、すでに72歳になっていた。46年前と同じように村議会の許可を得た後、村人たちの力を借りて掘削作業を開始した。

 4日間の掘削作業の後、彼はついに状態の良い30歳前後のルーシーと名付けられた女性の遺体を発見する。

 その肺から得られた検体を、複数の日に分けてUPS(米国の小口貨物会社)とフェデックス(国際航空貨物会社)と郵便とでトーベンバーカーに送ったという。万が一にもサンプルが失われないようにするためだった。

 その後、フルティンは遺体や墓を元通りに戻し、世話になったプレビッグ・ミッションの人々に謝礼を払い、厚くお礼を言とともに、新しい二つの十字架を作ってその共同墓地に立てた。

 すでに退職して研究から離れていた72歳のフルティンが、少額とは言えない私財を投じてアラスカの辺境の村まで飛び、墓堀りをする。

 8月とはいえ、北極圏のような地でカチコチに凍った永久凍土を融かしながら掘削する作業は、高齢のフルティンには大変な苦労があったろう。彼はその作業の期間、夜はブレビック・ミッションの学校の床にエアマットを敷いて寝ていたという。

 この止まないフルティンの情熱が、永久凍土の中に1918年から80年間ずっと眠っていた「スペイン風邪」の原因ウイルスを呼び覚まし真の姿に光を当てることになった。

 トーベンバーカーの元に届けられたルーシーの肺組織検体の状態は素晴らしく、約3週間後、その検体から1918年インフルエンザウイルスに由来する遺伝子情報が得られたことがフルティンに電話で伝えられた。

 そしてトーベンバーカーらは、その後、1918年のパンデミック(感染爆発)を引き起こしたインフルエンザウイルスの持っていた遺伝子情報の全容を解明していくことになる。

 1998年9月、フルティンは三度ブレビック・ミッションを訪れている。彼は用意した二枚の真鍮製の銘板には以下のような文言が書かれていた。

 「 下記七十二名のイヌピアト族がこの共同墓地に埋葬されている。この村人たちをあがめ、記憶することを乞う。彼らは、1918年十一月十五~二十日のわずか五日間に、インフルエンザ大流行によって生命を落とした。 」

 (「四千万人の殺したインフルエンザ—スペイン風邪の正体を追って」ピート・デイヴィス著 高橋健次訳) 』


 『 ブレビック・ミッションで得られたウイルスの遺伝子解析から明らかとなったのは、これがH1N1型というA型インフルエンザウイルスに分類されるということだった。

 現在知られているヒトに感染するA型インフルエンザには、H1N1型、H2N2型、H3N2型、H5N1型などがあるが、興味深いことに、その後の多くの遺伝子解析からヒトに感染するH1N1型のウイルスはすべて1918年のウイルスに由来することが示唆されている。

 これは何を意味するのだろうか? もし、「スペイン風邪」の発生前にH1N1型のインフルエンザがヒトの病原ウイルスとして存在していたのなら、その子孫ウイルスが、たとえ少数であっても現在どこかで見つかって良いはずである。

 それが見つからないとすれば、H1N1型のインフルエンザウイルスは「スペイン風邪」の発生の際に、初めてヒトに感染したという仮定も不自然ではない。

 実際トーベンバーカーらはブレビック・ミッションで得られた遺伝子解析から、この1918年の「スペイン風邪」が、鳥インフルエンザウイルスに由来するものであったと結論づけた。

 H1N1型のインフルエンザウイルスは鳥に感染するインフルエンザウイルスに多く、そこからヒトに感染するようにウイルスが変異を生じたと考えたのだ。

 もしそうなら「スペイン風邪」が発生した当時の人々にとって、このH1N1型のウイルスは今までにない「新しい敵」であった可能性がある。

 近年、東京大学の河岡義裕らの研究により、「スペイン風邪」が異常に高い死亡率を示したのは、原因ウイルスが極度に強い自然免疫性を誘発する性質を持っていたことが理由であると明らかにされたが、あれほど広く大流行したのは、それがその当時の人類にとっての「新しい敵」であったことも一因であったろう。

 このようにウイルスが変異して新しい宿主への病原性を獲得することは、ホストジャンプと呼ばれている現象で、自然界で決して珍しいことではない。

 特に人類は生物進化の歴史でほぼ最後尾に登場しており、ヒトに感染するウイルスというのはその多くが他の動物からのホストジャンプによって病原体となったと考えられる。

 このホストジャンプは時に深刻な新興感染症を引き起こすが、最近、注目を集めた例を挙げれば、エボラ出血熱がある。その病原菌であるエボラウイルスはヒトに感染した場合には、致死率50~80%にも上るという恐怖の殺人ウイルスであるが、興味深い事に、天然の宿主であるコウモリの中では、特に目立った病気を起こさない。不思議な話である。 』


 『 そして、人類を恐怖のどん底に突き落としたあの「スペイン風邪」の毒性も、実はパンデミックの発生から数年で大きく低下したことが報告されている。

 現在ヒトに感染するH1N1型のインフルエンザは、前述したように当時の子孫ウイルスであるが、今はその型のインフルエンザが流行することがあっても、スペイン風邪のような悲劇は起こらない。

 もちろん免疫によるヒトの耐性が増加したという側面があることは否定できないが、ウイルスそれ自体の致死性も大幅に低下している。

 似たような現象は、ウサギ粘液腫ウイルスでも、インフルエンザウイルスでも、恐らくコウモリにおけるエボラウイルスでも、起きている。一体、何のために?

 その謎の答えは、ウイルスという病原体の性質にあると考えられている。ウイルスは生きた宿主の細胞の中でしか増殖できないため、宿主がいなくなれば、自分も存在できなくなる。

 理屈の上ではウイルスにとって宿主を殺してしまうメリットは極めて乏しく、積極的に宿主を殺すような「モンスター」は、いずれ自分の首を絞めることになるのだ。

 ホストジャンプを起こしたウイルスが、その初期に新しい宿主を殺してしまうのは、その宿主上でどのように振舞ったら良いのか分からない「憂えるモンスター」が自らの力を制御できず、暴れているに過ぎないという見方も出来ない訳ではない。

 もちろんそのようなウイルスを擬人化した見方は科学的には適切ではなく、実際には弱毒化により感染した宿主が行動する時間が長くなれば、新たな感染の機会がより増える、というウイルス側の適応進化が起こったと解釈されるべき現象だろう。

 また、ウイルスの毒性が低下するということが、長い目で見た場合には一般的であったとしても、短期的には強毒型へとウイルスが変異する例も多く知られており、それを理由にウイルスの脅威を軽く見ることも適切なことではない。

 ただ、我々が「ウイルス」と聞いた時に頭に浮かぶ、「災厄を招くもの」というイメージは、決してウイルスのすべてを表現したものではない。

 生命の歴史の中で、様々な宿主とのやり取りを続けてきたウイルスたちは「災厄を招くもの」という表現からはかけ離れた働きをしているものが実は少なくない。

 例えば、私の血液(B型)を妻(O型)に輸血すれば、私の赤血球はすぐさま激しい攻撃に晒される、しかし、半分は私の遺伝子を持っているお腹の中の子供は、たとえ血液型がB型であっても、攻撃の対象とはならず、すくすくと育っていく。

 そんな不思議なことを可能にしているのが、胎盤という組織なのである。この胎盤の不思議さの肝となるのが、胎盤の絨毛を取り囲むように存在する「合胞体性栄養膜」という特殊な膜構造である。

 今から15年ほど前、この「合胞体性栄養膜」の形成に非常に重要な役割を果たすシンシチンというたんぱく質が、ヒトのゲノムに潜むウイルスが持つ遺伝子に由来すると発表されたのだ。

 胎児を母体の中で育てるという戦略は、哺乳動物の繁栄を導いた進化上の鍵となる重要な変化であったが、それに深く関与するタンパク質が、何とウイルスに由来するものだったというのだ。

 すでに宿主と「一体化」しているウイルスの何と多いことか、我々はそのことを日頃、意識していない。 』


 『 ベイエリンクが活躍した19世紀後半から20世紀初頭は、近代的な微生物学が大きく花開いた時代であった。意外に思われるかも知れないが、それより以前、つまり今からわずか150年ほど前までは、病気がなぜ起こるかということが、きちんと解明されてませんでした。

 その状態に終止符を打ったのは、近代細菌学の父とも言われるロベルト・コッホである。1876年の彼はヒトの炭疽病の原因が細菌であることを初めて証明し、その後、結核菌(1882年)、コレラ菌(1883年)などの単離に次々と成功していく。

 これら一連の業績で、彼は揺るぎない名声を築き、1905年にはノーベル生理学・医学賞を受賞することになる。

 そのコッホが提唱した「感染症は病原性微生物(細菌)によって起きる」という考え方は、当時の最新の知見であり、医学、微生物学に従事した研究者の常識を支配していくことになる。

 実際、感染症の原因が細菌と特定できたことは医学の発展にも大きく寄与し、その原因となる細菌を取り除くための煮沸消毒・オートクレーブ(高圧蒸気減菌器のこと)などが確立されていくのもこの時期でる。

 そういった消毒法の一環として、当時シャンベラン濾過器と呼ばれる、陶器(素焼き)を濾過フィルターとして用いた装置が使われていた。

 素焼きには無数の細孔が開かれており液体は通り抜けるが、その細孔のサイズは平均0.2μmほどであるため、感染症の原因となる通常の細菌は細孔に捕獲され通り抜けることができない。

 従って、この濾過装置を用いることで、溶液中の病原性細菌を取り除くことができたのである。ウイルスの発見はこのシャンベラン濾過器の存在に端を発している。

 すなわちこのシャンベラン濾過器を通り抜けてくる「濾過性病原体」としてウイルスは発見されることになる。「濾過性病原体」の報告は1890年代に3グループが独立して行っている。

 1892年にTMV(タバコモザイクウイルスを用いて「濾過性病原体」を初めて記述したロシアのデェミトリー・イワノフスキー1898年にウシ口蹄疫病ウイルスを用いて同様の報告をしたドイツのフリードリヒ・レフスキーとポール・フロッシュ、そして同年にTMVを用いて実験を行ったベイエリンクの報告の三つである。

 ウイルスの発見者が誰だったかという点では今も議論があり、少し丁寧な解説書ではこの三つの業績が併記されることが多い。彼らはいずれも常識的な細菌より明らかにサイズの小さい病原体が存在することを報告した。

 その意味での違いはないが、問題はその実験結果の解釈である。イワノフスキーは、「濾過性病原体」の正体を、これまで知られている細菌よりサイズの小さい細菌か、細菌から分泌された毒素であると考えていた。

 彼の論文には濾過器の不良を疑う記述があり、「濾過性病原体」の正体はその不良ににより漏れてきた細菌と考えていたことが窺われる。さらに後年にはその「濾過性病原体」が人工培地で培養可能であったとも述べている。

 これらは彼が自分で見つけた「濾過性病原体」をあくまで培地で培養できる細菌の一種だと信じていたことを示している。

 ウシ口蹄疫病ウイルスを扱ったレフラーとフロッシュの論文では、より入念に「濾過性病原体」が解析された。その結果、通常の培地では培養できないことや毒素ではないこと。

 シャンベラン濾過器は通過するが、それより目の細かい北里フィルター(北里柴三郎が考案した物)では通過率が低下することから、微粒子性(corpuscular)であるといったことが報告されている。

 よりウイルスの姿に近づいた観察結果と言って良いと思う。しかし、彼らもまたその「濾過性病原体」を minurest organism (最小の生物)と表現し、細菌とはまったく違う新しいタイプの病原体という結論には至っていない。

 レフラーはコッホに師事した彼の愛弟子であり、偉大な師の提唱した「感染症は病原性微生物によって起きる」というドグマから完全に自由になることは、やはり難しかったのだろう。

 一方、ベイリンクは突き抜けていた。彼はその「濾過性病原体」の正体を contagium vivum fluidum (生命を持った感染性の液体)と記述し、微生物ではなく可溶性の「生きた」分子であると主張した。

 その記述は、時代を覆った常識や権威の雲を完全に突き抜けていた。しかし「生命を持った感染性の液体」とは何かという表現であろうか、彼はタバコモザイク病の原因となる病原体が、通常の細菌でないことを確信していた。

 「液体」とした彼の表現が、現在の科学的知見からしてどれほど正確かという問題はあるが、この常識の枠にとらわれない「踏み込みの深さ」がベイエリンクの真骨頂である。

 もちろんこの突飛にも思える新説を、彼は何の根拠もなく単なる想像で言い出したわけではない。ベイエリンクは、レフラーらが行った「濾過性病原体」が培地では培養できないという実験を、好気性・嫌気性条件の両方で行い、より綿密で確実な結論を得た。

 さらに細菌が動くことができない寒天の中でも、その病原体は広がり移動する「液体状」のものであることを示し、その存在を「ウイルス」と呼んだ。

 また、彼の観察結果の中で重要なことの一つは、この病原体が分裂や成長をしている細胞分裂の活発な若い植物組織では増殖するが、古い組織や感染植物の濾液中では、増殖しないことを見出していた点である。

 彼の発見したウイルスが、「普通の生物」とは大きく違った存在であることが一般に受け入れられて行くのには、さらに40年の時を要したのだった。 』


 『 「感染症は病原性細菌によって起きる」という状態に終止符を打ったのは、従来の微生物学者ではない新しい勢力だった。その新勢力とは、1930年前後にこの分野へと流入してくる生化学者たちだ。

 彼らは観察や培養などの伝統的な生物学における手法を用いる微生物学者とは違い、物質から生物にアプローチするという手法を採った。キーワードは、タンパク質である。

 生命現象におけるタンパク質の重要性が認識されるようになったのは、それより約100年まえの1833年にフランスのアンセルム・ペイアンとジーン・フランソワ・ペルソが生化学的な反応を促進する能力を持つ「酵素」を発見したことに端を発している。

 彼らは麦芽の抽出液中にデンプンの分解を促進する何らかの因子、すなわちジアスターゼ(アミラーゼ)という酵素活性、があることを発見したのだ。

 しかし、その酵素と呼ばれた因子の正体は長年の謎であり、加熱すると失活するという生物(生命)と似た性質を持っていたため、それが何かの物質によって起こるのか、何か目に見えない生命に由来する生気のようなものの作用なのか、両方の説が存在した。

 この問題は1926年にジェームズ・サムナーにより、酵素の正体がタンパク質であることが示され決着がつくのだが、その際のサムナーの用いたロジックは、タンパク質(ウレアーゼ)を結晶化させ、つまり他の物質の混入を排除して単一の物質として高度に純化した上で、そこに高い酵素活性があることを示すというものであった。

 サムナーの業績のインパクトは、これまでの生命活動に固有のものと思われていた生体物質の分解や合成といったことが、ただの物質に過ぎないタンパク質で行えることを示したという点であった。

 逆に言えば、タンパク質にはそういった生命活動の根幹となるような機能を担う性質があることが示されたことになる。そしてこれを機に、時代の注目は一気にタンパク質へと動いていく。

 このサムナーと同じロジックを用いて「濾過性病原体」の正体を突き止めようとしたのが、生化学者のウェンデル・スタンリーであった。当時彼はロックフェラー研究所にいたが、その同僚がタンパク質結晶化のスペシャリストであるジョン・ハワード・ノースロップだった。

 ノースロップは胃の消化酵素ペプシンの単離、結晶化に成功し、後にスタンリーと同時にノーベル化学賞を受賞することになるのだが、その彼の技術を身近で学ぶことのできたスタンリーは、大量調製が比較的容易なTMVを用いて結晶化に取り組み、そしてそれを成功させた。

 彼が得たTMVの結晶は10億倍に薄めても、なお感染性を示すという純度の高いものであった。

 植物の中で増殖し次々と植物に病気を起こしてゆくという「生命活動」としか思えないことを行なうTMVが鉱物やタンパク質のように結晶化する単純な物質であったという発見は、衝撃的なものであり、ウイルス学における偉大なマイルドストーンとなっている。

 この発見は、それまで自明のものと考えられていた生命と物質の境界を曖昧にしたことである。成長する、増殖する、進化するなどの属性は生物に特有なもので、生物と物質とは明確に区別できるという常識が大きく揺らいだ。

 ウイルスは純化するとただのタンパク質と核酸という分子になってしまう。しかし一方、生きた宿主の細胞に入るとあたかも生命体のように増殖し、進化する存在となる。今から約80年前にスタンリーらの発見によって投げかけられたこの問いが、本書の底流となるとテーマでもある。 』 (第174回)

 


ブックハンター「チェロと宮沢賢治」

2018-10-06 10:14:04 | 独学

 174. チェロと宮沢賢治  (横田庄一郎著 1998年7月)

 私が本書を読んだのは、「バッハとカザルスと賢治と私」という大それた文章を書くためでした。この文章の中心に据えられるのは、「バッハの無伴奏チェロ組曲」のはずでした。

 私は賢治が、「無伴奏チェロ組曲」を聞いていたかを調べるために本書を読み始めました。私は宮沢賢治が「チェロ弾きのゴーシェ」を書き、自身でもチェロを弾いていたことは、知っていました。

 無伴奏チェロ組曲は、バッハがケーテン時代の1720年ころ書かれてとされています。(カザルスによって広められるまで長い眠りについていた)

 一方カザルスは、1876年にカタルーニアのエル・ベンドレルに教会のオルガニストの子として生まれました。子供のころからピアノとオルガンを弾き、11歳ころチェロを弾き始めた。

 1890年カザルス13歳の時、父親とバルセロナで、楽譜を探しているとき、ほこりだらけの楽譜の山から「バッハの無伴奏チェロ組曲」を発見した。

 カザルスはその楽譜を家にもちかえり、組曲を通して弾いてみて、自分の魂に最も近い音楽を見つけたと実感した。カザルスは12年間練習した後、ようやく公衆の前で披露し、この作品の独創性を広めた。(作曲されて、182年の歳月が流れていた)

 そして、レコーデングは1936~39年にかけて行われ、カザルスが63歳の時、レコードによって日本でも聴けるようになった。

 宮沢賢治は、1896年8月に岩手県花巻に生まれ、1933年9月(37歳)で亡くなっている。(生前賢治は、童話作家としても無名で、死後谷川徹三によって認められるようになった)

 従って、私のもくろみは、見事に外れ賢治は、バッハの無伴奏チェロ組曲を聴いていないと考えられる。残念でしたが、賢治と私に三つの共通点があります。

 (1) 三十歳を過ぎてから独学でチェロを学ぼうとした。 (2) 持っていたチェロが、名古屋の鈴木ヴィオリン製のチェロである。 (3) 共に「チェロ弾きのゴーシェ」のように、美しい調べを奏でることは、なかった。

 余談が過ぎました。では「チェロと宮沢賢治」を読んでいきましょう。


 『 賢治のチェロの中に自筆の署名があるということは知られていた。しかも、そこには購入年とイニシャルが製造元のラベルの上に書いてあり、食い違うことの多い証言とはちがって、このうえない重要なデータなのである。(どこで買ったかは、不明)

 しかし、それは人の話だけであって、写真もなかった。宮沢賢治記念館にも問い合わせたが、やはり写真は撮っていなかった。たしかに狭いf字孔から筆を入れて書いてあるのだから、それを肉眼で見るのも大変だ。

 それでも私は自分の目で確かめてみたいという気持ちには変わりなかった。他人の話を聞くのと、実際に自分の目で見るのとはやはりちがう。

 もしかしてガラスのケースから出してくれれば、この目で見ることができ、写真も撮れるかもしれない。宮沢雄造館長に打診してみた。しかし、いままでは館外に出したことはあったが、これからは門外不出だという。

 途方に暮れてガラスの外からチェロを眺めていた。この箱の中には署名があるのに見ることができない。なんとも残念でf字孔を凝視して少し角度を変えたとき、光がこのラベルの上を通ってブルーの署名が見えたのである。

 はっ、と息をのんだ。それは傾いた午後の陽光の反射だったかもしれない。もう一度、角度を確かめてみると、やっぱり見える。取材にもドラマがあるのだ。

 記念館から懐中電灯を借りて光を補うと、さらにはっきり見える。これも賢治との出会いなのだろう。微妙に角度をずらしてゆくと、ラベルの全部を読み取ることができた。

 MANUFACTURED  BY      MASAKICHI  SUZUKI      NAGOYA  JAPAN    No.6

 このラベル(実際には3段に)の上に 「1926.K.M.」と、賢治のサインを入れたのである。チェロは胴にも厚みがあり、筆をf字孔から入れて書くのはかなり難しい。

 字のかすれや太さからすると、筆に何かを継ぎ足して書いたというよりも、賢治は水彩画を描いていたので柄が細くて長い絵筆を使ったように見える。

 さて、この目でたしかに捉えたものを、どう撮影するか。カメラマンの須永孝栄さんに相談した。紙にf字孔をハサミで切って、この細長い穴に懐中電灯を当てるだけです。 』


 『 賢治はチェロを勉強するために上京を決意する。1926年12月2日、みぞれが降る中を教え子沢里武治が、羅須地人協会から賢治のチェロをかついで花巻駅まで持って行った。

 賢治は、見送りの沢里に「しばらくセロを持って上京してくる。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強してくれ」と語った。

 駅の構内の寒いベンチに二人は腰掛けて、汽車を待った。賢治は「風邪をひくといけないから、もう帰ってください。おれは一人でいいんです」と愛弟子を再三帰そうとしたが、沢里は沢里でこんな寒い夜に先生を見捨てて先に帰ることはできることではないと思い、また二人で音楽の話をするのは大変楽しいことでもあったので、いっしょに時間まで待った。

 改札が始まると、沢里もホームに入って見送った。賢治は窓から顔を少し出して、「ご苦労でした。帰ったらあったまって休んで下さい」とねぎらい、沢里にしっかり勉強しろと何回もいったという。

 「今度はおれは真剣だ」「少なくとも三ヵ月は滞京する」「やらねばならない」と意気込んで上京した賢治のチェロの先生は、当時、結成されたばかりの新交響楽団(現NHK交響楽団)のトロンボーン奏者でチェロもたしなんだ大津三郎だった。

 新交響楽団は十月十五日に結成式をし、年が明けた一月十六日から第一回予約演奏会を開催する運びになっていた。

 しかし、十二月二十五日に大正天皇が崩御したことで、結局予約演奏会を一か月延期することになったが、翌一九二七年六月に荏原に練習場が完成するまで、数寄屋橋の近くにあった塚本商行に事務所を置き、その建物の二階を使って練習していたのである。

 賢治はここにオルガンを習いに行った。父親政次郎あて十二月十二日付けの手紙に次のように書いている。

 「 いままで申しあげませんでしたが私は詩作の必要上桜で一人でオルガンを毎日少しづつ練習しておりました。今度こっちへ来て先生を見付けて悪い処を直して貰うつもりだったのです。

 新交響楽協会へ私はそれらのことを習いに行きました。先生はわたくしに弾けと云ひわたくしは恐る恐る弾きました。十六頁たうとう弾きました。先生は全部それでいいといってひどくほめてくれました。」

 賢治がオルガンを習いに行っていた塚本商会はクラシック音楽、舞踊界のマネージメントをする一方、ピアノ、オルガンなどの楽器を販売し、社長の塚本嘉次郎が個人的に依頼した教師によってレッスンもしていた。

 このとき賢治を教えたのは誰かわかっていないが、このような塚本商行で、賢治と新交響楽団の接触があったと考えてもおかしくない。

 だが、そうであっても、父親の手紙には一言も触れていないチェロのレッスンは、新交響楽団のメンバーがいきなりやって来た青年に時間をさいてくれるほど、簡単なものではなかったろう。

 ともかくも大津三郎は引き受けてくれたのである。このときから四半世紀もたった戦後の一九五二年(昭和二十七年)、雑誌「音楽之友」一月号に大津散浪というペンネームで「私の生徒 宮沢賢治 三日間セロを教えた話」という手記を発表している。

 少し長くなるが、それ自体がおもしろく、後々関連する記述があるので、ここで全文掲げてみたい。

 「 それは大正十五年の秋か、翌昭和二年の春浅いころだったが、私の記憶ははっきりしない。数寄屋橋ビルの塚本氏が現在のビルの位置に木造建物で東京コンサーバトリー(芸術学校!)を経営していた。

 近衛さんを中心に新交響楽団を結成した私達が練習場の困って居たのを塚本氏の好意で、そのコンサーバトリーを練習場に借りていた時のことである。

 ある日帰り際に塚本氏に呼びとめられて。「三日間でセロの手ほどきをしてもらいたいという人が来ているが、どの先生もとてもできない相談だと云って、とりあってくれない。

 岩手県の農学校の先生とかで、とても真面目そうな青年ですがね。無理なことだと云っても中々熱心で、しまいには楽器の持ち方だけでもよいと云うのですよ。なんとか三日間だけみてあげてくださいよ。」と口説かれた。

 当時私は新響でバストロムボーンを担当して、図書係を兼務した上、トロムボーンの休みの曲にはセロの末席に出るという多忙さで、住居と云えば、荏原郡調布村字嶺(現大田区千鳥町)と云って、当時は大層不便な所だったので一層条件が悪かった。

 塚本氏の熱心さに負けて遂に口説き落とされて私が紹介されたのは三十歳位の五分刈頭で薄茶色の背広の青年で、塚本氏が「やっと承知して貰いました大津先生です」と云うと「宮沢と申します、大層無理なことをお願い致しまして……」と柔和そうな微笑をする。

 「どうも見当もつかないことですがね、やって見ましょう」微苦笑で答えて、扨(さて)、二人の相談で出来上がったレッスンの予定は、毎朝六時半から八時半までの二時間ずつ計六時間と云う型破りであった。

 神田あたりに宿をとっていた彼は、約束通りの時間に荏原郡調布村まで来るのは中仲の努力だったようだが、三日共遅刻せずにやって来た。八時半に練習を終わって私の家の朝食を一緒にたべて、同じ電車で有楽町まで出て別れる……これが三日つずいた。

 第一日には楽器の部分名称、各弦の音名、調子の合せ方、ボーイングと、第二日はボーイングと音階、第三日目にはウエルナー教則本第一巻の易しいもの何曲かを、説明したり奏して聞かせたりして、帰宅してからの自習の目やすにした。

 ずい分と乱暴な教え方だが、三日と限っての授業では外に良い思案も出なかった。三日目には、それでも三十分早くやめてたった三日間の師弟ではあったが、お別れの茶話会をやった。

 その時初めて、どうしてこんな無理なことを思い立ったか、と訊ねたら「エスペラントの詩を書きたいので、朗誦伴奏にと思ってオルガンを自習しましたが、どうもオルガンよりもセロの方がよいように思いますので……」とのことだった。

 「詩をお書きですか、私も詩は大好きで、こんなものを書いたこともあります」と私が書架からとり出したのは、大正五、六年の「海軍」と云う画報の合本で、それには軍楽隊員時代の拙作が毎月一篇ずつ載っていたのである。

 今日の名声を持った宮沢賢治だったら、いくら人見知りをしない私でも、まさか自作の詩らしいものを見せる度胸は持たなかっただろうが、私はこの時詩人としての彼を全く知らなかったのだ。

 次々に読んで行った彼は「先生の詩の先生はどなたですか」と云う「別に先生はありません泣薫や夜雨が大好きな時代もありましたが、今では尾崎喜八さんのものが大好きです」と答えると、彼は小首をかしげ乍ら、大正五年頃にこんな書き方をした人は居ないと思っていましたが……」と云って私に示した一篇は――古い日記——と傍見出しをつけた舊作で南大平洋上の元日をうたった次のようなものであった。

 冴えた時鐘で目がさめた—午前四時―  釣床の中で耳をすますと  舷側で濤がおどりながら

 お正月お正月とさんざめく

 士官次室から陽気な話声がきこえる  今、艦橋から降りたばかりの〇〇中尉が  除夜の鐘ならぬ正午の鐘をうって

 艦内一の果報者と羨まれて居る (絶世の美人を女房にもてるげな) (中略)

 風涼しい上甲板の天幕の下で  天皇陛下の万歳を三唱し  大きな茶碗で乾杯したあとは

 金盥にもられたぶつかき氷が一等の御馳走だ  南緯三十三度のお正月はとにかく勝手が違う

 ——明日は Newzealand の島山が見える筈ー—

 といったもので、全くマドロスの手すさびにすぎないものだが、篇中の——と( )を指して、大正五、六年にはまだ使われて居なかったように思う、と云うのであった。

 当時、私の家は両隣に二、三町もある一軒家で割合に広い庭には一本のえにしだと何か二、三本植わていたのに対して、彼はしきりに花壇の設計を口授してくれた。

 そして、えにしだの花は黄色ばかりだと思っていた私は、紅色の花もあることをその時彼から教わったのだ。

 ウェルナー教則本の第一と信時先生編のチェロ名曲集一巻を進呈して別れたのだったが数日して彼から届いた小包には、「注文の多い料理店」と渋い装禎の「春と修羅」第一集が入って居て、扉には 

 献大津三郎先生  宮沢賢治  と、大きな几帳面な字で記してあった。

 春と修羅を読んで行くうちに、私の生徒が誠に尊敬すべき詩才の持主であることを感ぜずには居られなかった。妹さんの臨終を書いた「永訣の朝」などは泪なしには読めず(あめゆじとてちてけんじゃ)という方言がいつまでも脳裏を離れない。 』


 『 「宮沢賢治の素顔」を書いた板谷栄紀さんは、遠野の料理店「一力」で沢里と酒杯を酌み交わす機会があった。そこで、賢治のチェロの腕前が気になっていた板谷さんは話をそちらへ差し向けた。

 校長先生だった沢里は口ひげを生やし、背筋をピンと伸ばして、「それは、なかなかのものでしたよ」。確かに賢治が何曲か弾いたという話もある。

 二人は酒杯を重ねていった。賢治はビブラートについてどうでしたか、と問いかけたのに対しは、「いや、それは無理だったようです」ということだった。さらに話が進み、沢里は声をひそめて打明けた。

 「実のところをいうと、ドレミファもあぶないというのが……」。ドレミファもあぶない——この話は、「セロ弾きのゴーシュ」で、金星音楽団が今度の町の音楽会に出す第六交響曲を練習していて、ゴーシュが楽長からしぼられるくだりを思いさせるではないか、少し原作を引用してみよう。

 「 「セロっ。糸が合わない。困るなあ。ぼくはきみにドレミファを教へてまでゐるひまはないんだがな。」 みんなは気の毒さうにしてわざとじぶんの譜をのぞき込んだりじぶんの楽器をはじいて見たりしてゐます。

 ゴーシェはあわてて糸を直しました。これはじつはゴーシュも悪いのですがセロもずゐぶん悪いのでした。練習が終わって、ドレミファのほかにもいろいろいわれたゴーシェは粗末な箱みたいなセロをかかえて壁の方を向いて、口をまげてぼろぼろ涙をこぼしました。

 それから二日目の晩に、そのゴーシェの町はずれの川ばたにある壊れた水車小屋の家に、くゎくこうが、「音楽を教わりたいのです」とやって来る。

 「音楽だと。おまえの歌は かくこう、かくこうというだけじゃあないか」と、少しやりとりがあって「何もおれの処へ来なくてもいいではないか」とゴーシェがいう。

 すると、くゎくこうは「ところが私はドレミファを正確にやりたいんです」というではないか。「ドレミファもくそもあるか」とゴーシェはいったものの、結局は根負けする。

 「先生どうかドレミファを教えてください。わたしはついてうたいますから。」「うるさいなあ。そら三ぺんだけ弾いてやるからすんだらさっさと帰るんだぞ。」

 ゴーシェはセロを取り上げてボロンボロンと糸を合わせてドレミファソラシドとひきました。するとくゎくこうはあわてて羽をばたばたしました。「ちがいます。ちがいます。そんなんでないんです。」

 ゴーシェは散々だ。楽長から「きみにドレミファを教へてまでゐるひまはないんだがなあ」といわれ、くゎくこうから「ちがいます。ちがいます。そんなんでないんです」と三度も繰り返して否定される。

 くゎくこうとゴーシェは、どちらが生徒か先生か。ゴーシェは手が痛くなるまで弾いて、「こら、いいかげんにしないか」といってやめる。

 しかし、くゎくこうは「どうかもういっぺん弾いてください。あなたのはいいやうだけれどもすこしちがふんです」と粘る。で、ゴーシェはもう一度だけ弾いてみせる。くゎくこうはまるで本気になって実に一生懸命叫ぶ。

 そのうちゴーシェは、はじめはむしゃくしゃしていたが、いつまでも続けて弾いているうちに、ふっと何だか鳥の方がほんとうのドレミファにはまっているかな、という気がしてくる。弾けば弾くほど、くゎくこうの方がいいような気がするのだった。

 最後はいきなりぴったりとやめつと、くゎくこうは恨めしそうにゴーシェを見て「なぜやめたんですか。ぼくらならどんな意気地ないやつでものどから血が出るまでは叫ぶんですよ」という。

 もう一ぺんの願いにゴーシェはどんと床を踏み、「このばか鳥め。出て行かんとむしって朝飯に食ってしまふぞ」と追い出しにかかる。くゎくこうは硝子にぶつかり、くちばしの付け根から血を出してしまう。 』


 『 賢治が教壇に立った当時の花巻農学校の跡地は、現在、銀どろ公園になっており、花巻市文化会館が建っている。近くには賢治が眠る身照寺がある。

 生誕百年の十月十六日、この文化会館で米国の名チェロ奏者のヨーヨー・マがファミリーコンサートを開いた。ヨーヨー・マは英訳された何冊かの宮沢賢治を読んでいたという。

 プログラムはシューベルトのピアノ五重奏「ます」より、宮沢賢治生誕百年記念作品である「やまなし」、サン=サーンスの「白鳥」、エルガー「愛のあいさつ」、バッハのブランデンブルグ協奏曲第五番第三楽章といった内容で、語りや道化が舞台に登場する演出効果に富んだステージだった。

 アンコールにこたえ、舞台に登場したヨーヨー・マが持っていたのは賢治のチェロだった。この日、賢治記念館から貸し出されたもので、事前にヨーヨー・マは念入りにチェロを点検していた。

 「セロ弾きのゴーシェ」に出てくる「トロイメライ」が鳴りだした。約八百人の聴衆は驚き、胸を熱くし、聴きほれ、ため息をついた。涙を流す人もいた。

 聴衆の中には実弟清六さんの姿があった。「どうしても聴きたくて」と、わざわざ花巻まで聴きに来たチェリストの藤原真理さんもいた。ある女性は「賢治さんのチェロが、あんなにきれいな音を出すとは。

 いままでにも賢治さんのチェロを聴いたことはあったのですが、ヨーヨー・マが弾くと……」と、この時の感激を話す。賢治がチェロを弾くとき、心の中では、きっとこのように鳴っていたのだろう。

 そして、この花巻農学校跡の市民会館でヨーヨー・マが自分のチェロを弾いているとき、賢治はどこかで聞いていて、あの象のような目を細めて「ホーホー」といい、「こんなことは実に稀です」といったにちがいない。 』


 『 「セロがおくれた。トォテテ テテテイ、ここからやり直し。はいっ。」 「セロっ。糸が合わない。困るなあ。ぼくはきみにドレミファを教へてまでゐるひまはないんだがなあ。」

 「今の前の小節から。はいっ。」 「ではすぐ今の次。はいっ。」 こんな調子で楽員に指示を飛ばし、いきなり足をどんと踏んで、「だめだ。まるでなってゐない。

 このへんは曲の心の心臓なんだ。それがこんながさがさしたことで。諸君。演奏まであと十日しかないんだよ」と怒鳴りだす楽長である。

 たっぷりしぼられたゴーシュは壁の方へ向いて口を曲げて涙をぼろぼろ流すのだが、こんな楽長の姿は徹底的に練習に打ち込む斉藤秀雄の練習風景を見事に活写しているのだという。

 近衛秀麿の指揮ぶりとは大分ちがうようだ。「そこ、ヴィオラもうちょっとお弾きくださいまし」「フリュートはもっとお吹きになってもいいんじゃないですか」といった調子が近衛流だそうだ。

 これではオルガンの練習のときに賢治が見ていて、あの金星音楽団の楽長のようには書けないだろう。この楽長の印象の強烈さといったら、ゴーシュが自分の水車小屋にやって来た動物たちに対し、楽長と同じ態度をとるほどである。

 楽長にどんと足を踏み鳴らされたゴーシュが、三毛猫やくゎくこうに対して、どんと足を踏み鳴らすのである。強烈な印象というんは伝播するものなのだろうか。

 賢治はここで、オーケストラ音楽における指揮者の存在をはっきり認識している。オーケストラにあって、ただひとり楽器をもたず、そのくせオーケストラに君臨しているのは指揮者である。

 ここに描かれている楽長の個性は公家の近衛より、強烈な斉藤秀雄こそふさわしい。ただし、斎藤がドイツ留学から帰国して、新交響楽団に入ったのは1927(昭和二年)九月だった。

 賢治がチェロを習いにいった1926年末には斉藤はいなかった。従って、斎藤の練習風景を見たのなら、賢治が伊豆大島にいった1928年六月の上京が注目される。

 そこで「嬉遊曲、鳴りやまず斉藤秀雄の生涯」を書いた中丸美絵さんは、賢治が三月上旬に上京したと仮定すると、田園交響曲の練習風景をみていたはずです。

 演奏までもうあと十日しかない、と「セロ弾きのゴーシュ」で楽長がいうのも練習日誌と一致します。 』(第173回)


ブックハンター「とことん調べる人だけが夢を実現できる」

2018-10-01 16:56:51 | 独学

 173. とことん調べる人だけが夢を実現できる (片喰正章(Katabami Masaaki)著 2016年5月)

 私が本書を紹介しますのは、本書の意図から少しはずれます。「選択の科学」シーナ・アイエンガー著 に於いて、人生は選択の集合として捉えことが、できるというようなことが書かれてまいした。

 そこで私は、選択をする前に、その問題(進むべき道)に対する選択肢をできるだけ多く考え、紙の上に書き出す。すなわち「選択肢を広げる」別の言葉で表現すると「自由度を高める」。

 「自由度を高める」ためには、その問題(進むべき道)について、どのようなアプローチ方法があるか、問題点は、それぞれの素晴らしい点と危険性を検討するために、徹底的に調査し尽くす。

 「可能な限り調べる」ことにより「選択肢を広げる」そして「選択する」

 このプロセスを常に踏むことによって、ほんの少し目標に近づきます。素人は、シンデレラのように一気に夢に近づくと考えるのは、誤りです。夢に近づいて、いるか遠のいているかは、だいぶ先に見えてくることです。

 一気に夢に近づける天才は、たまにいますが、凡人は、一歩一歩目標に近づけることを考え、一か八かの勝負をすれば、必ず破れます。

 私たちは、より確実に目標に少しでも近づけることを考え、時間をかけて樹木が成長するようにゆっくりと着実に、多くの選択を重ねて、目標に近づけるべきです。

 また、「戦略的思考とは何か」岡崎久彦著の中で、日本人に歴史的に不足しているのは、情報と戦略だとあります。

 

 では、読んでいきましょう、プロローグ(序章)から、読んでいきます。

 『 夢を実現できる人と、実現できない人の違いって、なんだろう? 才能? 努力? お金? 人脈? センス? 運? どれも大事だ。でも、いちばん大事なのは、「情報」だ。

 「情報」こそが、夢を実現できるかどうかを左右するカギになる。夢へと続く道は、まっすぐな一本道ではないからだ。夢へ近づく途中、その道は何回も分かれ道を迎える。

 間違った道を選べば遠回りになる。道によっては行き止まりだ。一度入り込んでしまうと抜けられない、泥沼にいたる道もあるかもしれない。

 どの道を行くか選ぶのに欠かせないのが、正しい情報。僕らはできる限り正しい情報を集め、それをもとに判断するしかない。

 「夢を実現した人」の代名詞とも言える、有名な経営者たち。彼らは、その価値を誰よりも知っているからこそ、情報を探し、活用してきた。

 たとえば、年商8兆円を超えるソフトバンクグループを一代で築いた、孫正義氏。彼は、アメリカに進出するさい、3100億円という大金で、IT系の展示運営会社と雑誌社を回収した。

 正しい情報を集めるために欠かせないと確信していたから。実際、そこから得た情報をもとに、まだベンチャーだったヤフーへの出資を決定。その後のヤフーの驚異的な成長は誰もが知るところだ。

 孫正義氏はこんな言葉を残している。「地図とコンパス」さえあれば、さっと宝を見つけて帰れる。この「地図とコンパス」にあたるのが、まさに情報だ。

 「情報」は、ときに人の生死を左右する。人類初の南極点到達を争ったノルウェーの探検家ロアール・アムンゼンと、イギリスの軍人ロバート・スコット。アムンゼンは、正しい情報をもとに徹底的に準備を行なった。

 その一つが寒さに強いエスキモー犬のソリ。アムンゼンの探検隊はその機動力を生かして、南極点に先に到達した。

 いっぽう、スコットは「犬は使えない」という思い込みから、馬ソリと機械式のソリをメインに出発したが、極寒の地ではどちらも早々に役に立たなくなった。

 移動手段、装備、食料などの準備で劣るスコットの部隊は、アムンゼンに遅れること34日、南極点到達するも、帰還中に遭難、全滅した。

 くり返す。「情報」大事だ。大事だからこそ、まずは「調べる習慣」をつけてほしい。自分の夢をかたちにする方法がわからないとき、「情報がない」とあきらめるんじゃなくて、まずは「調べる」。

じつは、僕自身が「調べる習慣」で人生を大きく変えた人間だ。僕は大学卒業後、お金も人脈もないまま、無謀にも起業した。会社の看板も後ろ盾もなかった。頼れるのは自分だけだった。

 誰よりも調べることで、取引先を開拓し、ビジネスに役立つ情報を集め、クライアントに提供して、大きな仕事をいただけるようになった。

 だから、情報が、夢や目標に近づくための大事な「チケット」だということは、僕がいちばん知っている。あなたは、まだ「情報」の重要性を疑っているかもしれない。けれど、そんな人にこそ本書を読んでほしい。

 夢を追う途中で、挫折しそうになることもあるかもしれない。自分の可能性を信じられないときがくるかもしれない。でも、調べよう。それも、とことん。

 「調べる習慣」を身に着け、「具体的な調べ方」を学び、とことん情報を探してみる。そうすれば、必ず、道は開ける。「情報」という武器を手にして、走り出そう。 (以上プロローグより) 』

 

 次に目次をみていきましょう。

 『 第1章 すべては「調べる習慣」から始まる

 01 「どうせ無理だよ」と言う前にまず調べよう 02 「できない理由」より「できる方法」に目を向ける 03 「わからないこと」をそのままにするのはやめよう 04 「疑り深い人」ほど夢を実現できる

 05 「調べる習慣」が効果を発揮する正しいサイクルとは? 06 「ロールモデル」を探して自分の夢を絞り込む 07 自分の「イヤなこと」をすべて吐き出してみる 08 夢を実現するための「チェックリスト」をつくれ!

 09 情報をいつ調べるのか? どのくらい時間をかけるのか? 10 集めた情報はどんな順番で見るのがベスト? 11 「複数のソース」にあたって思考のかたよりをなくす 12 「コピペ」の罠には十分気をつけろ!

 13 「誰が」「誰のために」出した情報かその「意図」を考える 14 「有料情報」の信者になるのはただの思考停止にすぎない 15 情報は「整理」よりも「検索」の時代になった

 16 再入手しやすい情報、しにくい情報の違いとは? 17 「情報」は「情報」を持つ人にさらに集まってくる 18 集めた情報は必ず「1か所」に集約する 19 単なる「情報コレクター」には絶対になるな!

 

 第2章 とことん「ウェブ」で情報を集める

 20 まずは「検索キーワード」のパターンをできる限り考える 21 最初の1ページの検索結果で満足してはいけない 22 「画像」や「動画」を「文字」とセットで検索するクセをつける 23 「まとめサイト」に期待しすぎるのは危険

 24 ウィキペディアは「本文」を読むな! 25 「アラート」を使って夢を忘れない環境をつくる 26 メルマガは夢実現の「イメトレ」ツール 27 日々のモチベーションを上げるSNSの使い方

 28 「ニュース検索」で夢の実現者のエピソードを知る 29 「一般人のブログ」でビジネスの具体的なターゲットを描く 30 「コメント欄」も貴重な「ソース」になる 31 本当に参考になる「レビュー」をどうやってみつけるか?

 32 プロ向けの「質問サイト」で専門家のアドバイスを受ける 33 「業界専門サイト」でディープな情報収集をする 34 「プレスリリース」には貴重な一次情報が眠っている

 35 「シンクタンク」のサイトで「お宝データ」を掘り当てろ! 36 本当にほしい調査結果は「ネットリサーチ」で自力で入手


 第3章 とことん「本・雑誌・新聞・テレビ」で調べる

 37 本の最後のページ「奧付」からチェックする 38 本を調べるときは「入門書→定番本→最新刊」の3冊を選ぶ 39 不得意な分野の情報「雑誌」と「図解本」から入る 40 できる限り「両極端な2冊」を読め!

 41 書店の「棚」自体がじつは情報の宝庫である 42 新聞・雑誌はあえて「広告」に注目せよ! 43 マニアックな情報は「専門誌」で丸ごと手に入れる 44 信頼性の高い「〇〇白書」を使いこなそう

 45 「専門図書館」でワクワクする情報にふれる 46 「テレビ」の情報価値をアップする視聴方法


 第4章 とことん「人」に情報を聞く

 47 「自分専用ガイド」を持てば調べれ悩みが一気に減る 48 一人に話を聞いただけで安心するな! 49 人に会う前から「情報収集」はスタートしている 50 人に聞くべき情報は「定義」「トレンド」「意見」「予測」

 51 3つのポイントでみるみる聞き上手になる 52 話しが途切れたときは自分から「仮説」をぶつけてみる 53 あえて「知っている情報」について聞き相手の情報量を見極める 54 「話を聞き終わった直後」が本当の情報収集タイム

 55 お酒の席で話を聞くときはここに注意する 56 多忙な相手に話を聞くときは「インスタントメッセンジャー」を活用 57 セミナーでは「情報」と「人のつながり」を手に入れろ! 58 「レアな人」と会える機会はなによりも優先する 』

 以上です。

 自分に合った情報の収集方法は自分で見つけなければ、自分の武器にはなりません。蛇足ですか、私は、漢字、カタカナ英語、略号等、まず電子辞典で調べます。なぜなら、日本語達人、英語の達人にしても、それぞれの辞典を一番ひいていると考えるからです。

 言葉の定義を明確にしないと知識が体系を成さないからです。カタカナ英語は、英語表記とその意味を確認します。次に自分が知りたい、疑問に思うことを、紙に書き出します。そして、インターネットや図書館で調べます。

 そして、調べたことを紙に書き出します。最後にエピローグ(終章)を読んで、終わりとします。(目次は、読まなくても、プロローグとエピローグを理解すれば、80パーセントは理解したと私は考えます)

 エピローグ(終章)を読んでいきます。

 『 「情報」の大切さ。「調べる習慣」の重要性。「具体的な調べ方」のさまざまな実例。この本に書いたことを、簡単にまとめると、この3点になる。

 でも、最後に、なにか言い忘れたことはないか?この場を借りて、改めて強調しておきたいことはないか? そうやって自問してみると、一つ大事なことを思い出した。

 「あきらめないこと。決して、あきらめないと、誓うこと。」

 現代は「効率化」の時代だ。僕もその恩恵を受けているし、否定する気はない。けれど、「効率化」もいきすぎると、弊害が出る

 「できるだけ最短の時間で結果を出したい」「一つのことに必要以上に時間をかけるのはコスパが悪い」そんなふうに考えて、時間や効率ばかり気にしていたら、あなたの抱ける夢のサイズはどんどん小さくなってしまう。

 僕は「とことん調べる人」だけが夢を実現できると言ってきた。ポイントは「とことん」だ。大きな夢を実現するのは、決して簡単なことではない。

 その途中で、何度も大きな困難が立ちはだかって、どう解決すればいいか、途方にくれるかもしれない。それでも「調べる」ことでしか、前にはすすめない。

 時間がかかってもいい。あきらめずに、とことん調べる。その熱意があってこそ、貴重な「情報」も見つかるし、まわりの人も動かすことができる。

 ミッキーマウスやディズニーランドを生み出したウォルト・ディズニー。誰もが一度はその夢のような世界観に魅了され、いまなおその意思が受け継がれ続けている。彼はこんな言葉を残している。

 「今、我々は夢がかなえられる世界に生きている。」

 どうか、あなたの夢をあきらめないでほしい。あらゆる手をつくして、とことん追求してほしい。自分自身の可能性を、自分で閉ざさないでほしい。

 失敗してもいい。恥をかいてもいい。夢と自分を信じ続ければ、僕らは何度でも調べることができる。悩んだら原点に回帰しよう。

 実現したい夢という原点が失われない限り、あなたには戻れる場所があるし、ふたたび立ち上がることができる。僕らはみな「人が生きる」という旅の途中。人生をとことん楽しもう。 』 (第172回)