175. ウイルスは生きている (中屋敷均著 2016年3月)
本書を読むと、生命とは何か、進化とは何か、代謝とは何か、遺伝子とは何か、ウイルスとは何かを再構築する必要に迫られます。
有機化合物の遼かな道(マイルドストーン)(五十嵐玲二談)で、糖化合物(多糖類)、脂肪酸、アミノ酸、タンパク質、酵素、ホルモン、DNA,RNA,葉緑体、ミトコンドリア、細胞、生命体へと続く道である。
と書きましたが、DNAの前にウイルスがくるような気がします。ウイルスと遺伝子(DNA,RNA)との関係は非常に深いように思われます。
地球の生態系に於いて、最も重要なものは、水(H₂O)です。次に重要なのは、タンパク質と多糖類です。タンパク質は22種類のアミノ酸から構成され、炭素(C)骨格に水素(-H)とアミノ基(-NH₂)とカルボキシル基(-COOH)で構成されます。
多糖類は、デンプンやセルロースなどで、デンプンはD-グルコース(ブドウ糖)(C₆H₁₂O₆)が縮合されて出来たものです。従って有機化合物の主要な元素は、C,H,O,Nです。
私たちは、ウイルスが代謝をしていないため、生物ではないと言われてきました。さらに病原菌の面だけで、多くの生物と共生している面は、知られていませんでした。
ウイルスと樹木の花粉が、どことなく似てるように感じます。私の考えでは、ウイルスは、酵素やホルモンやDNAやクロロホルムのような生命体に限りなく近くにありますが、生命体ではないと思います。
その理由は、どこかで線を引かなくてはならないから、そして主体ではなく、エネルギーを依存しているからです。本書は、講談社現代新書の740円の本ですが、難解な部分もありますが、名著です。前置きが長くなりましたが、では読んでいきましょう。
『 アイオワ州立大学で免疫学を学んでいたストックホルム生まれのヨハン・フルティンは、博士論文で「スペイン風邪」を起こしたインフルエンザウイルスを同定し、それに対するワクチンを作るという、壮大なテーマに取り組んでいた。
彼のアイディアは「スペイン風邪」で亡くなった人の亡骸(なきがら)からウイルスを分離して、それを利用してワクチンを作成するというものであったが、目をつけたのがアラスカの永久凍土に埋葬されている犠牲者であった。
永久凍土が天然の冷蔵庫のようにウイルスを保存している可能性があると考えたのだ。1918年、アイオワ州立大学の研究チームの一員として彼は初めてブレビック・ミッションを訪れた。
村の議会を通して村人たちの了解を得て、彼は1918年のパンデミックで亡くなった犠牲者の墓を掘り起こし、遺体から良好なサンプルを採取することに成功した。
しかし残念なことに、いくら探してもそこには感染性を持った「生きた」ウイルスは見つからなかった。1951年当時の技術では感染性のあるウイルスが得られなければ、それ以上、研究を進展させることは難しく、彼の博士論文研究もとん挫した。
そして失意の中、彼は研究を離れ、その後、医者として暮らしていくことになる。それから46年後の1997年、勤めていたサンフランシスコの病院をすでに退職していたフルティンは、「サイエンス」誌に掲載された米国陸軍病理研究所のジェフリー・トーンバーガーの論文を目にする。
トーベンバーガーは、わずかな材料から遺伝子を増幅させるPCR法という技術を用いて「スペイン風邪」の原因となったインフルエンザウイルスの遺伝子の解析を行っていた。
しかし、彼らは樹脂包埋されたサンプルを用いていたため、ウイルスの保存状態が悪くサンプル量も少量で、断片的な遺伝子情報しか得られていなかった。
その論文を読んだフルティンは、46年前の自分の体験が役に立つのではないかと思い、すぐにトーベンバーカーに手紙を書いた。
そこには過去に失敗した課題にもう一度挑戦したいこと、採取は自費でやつもりであること、検体が採取できたら米軍病理学研究所に寄贈すること等が述べられていた。
トーベンバーカーから大変興味があるとの返事を受け取ると、一週間後にはフルティンはアラスカに旅立っていた。1997年8月、二度目のブレビック・ミッションへの訪問であった。
初めて訪れた1951年当時26歳だったフルティンは、すでに72歳になっていた。46年前と同じように村議会の許可を得た後、村人たちの力を借りて掘削作業を開始した。
4日間の掘削作業の後、彼はついに状態の良い30歳前後のルーシーと名付けられた女性の遺体を発見する。
その肺から得られた検体を、複数の日に分けてUPS(米国の小口貨物会社)とフェデックス(国際航空貨物会社)と郵便とでトーベンバーカーに送ったという。万が一にもサンプルが失われないようにするためだった。
その後、フルティンは遺体や墓を元通りに戻し、世話になったプレビッグ・ミッションの人々に謝礼を払い、厚くお礼を言とともに、新しい二つの十字架を作ってその共同墓地に立てた。
すでに退職して研究から離れていた72歳のフルティンが、少額とは言えない私財を投じてアラスカの辺境の村まで飛び、墓堀りをする。
8月とはいえ、北極圏のような地でカチコチに凍った永久凍土を融かしながら掘削する作業は、高齢のフルティンには大変な苦労があったろう。彼はその作業の期間、夜はブレビック・ミッションの学校の床にエアマットを敷いて寝ていたという。
この止まないフルティンの情熱が、永久凍土の中に1918年から80年間ずっと眠っていた「スペイン風邪」の原因ウイルスを呼び覚まし真の姿に光を当てることになった。
トーベンバーカーの元に届けられたルーシーの肺組織検体の状態は素晴らしく、約3週間後、その検体から1918年インフルエンザウイルスに由来する遺伝子情報が得られたことがフルティンに電話で伝えられた。
そしてトーベンバーカーらは、その後、1918年のパンデミック(感染爆発)を引き起こしたインフルエンザウイルスの持っていた遺伝子情報の全容を解明していくことになる。
1998年9月、フルティンは三度ブレビック・ミッションを訪れている。彼は用意した二枚の真鍮製の銘板には以下のような文言が書かれていた。
「 下記七十二名のイヌピアト族がこの共同墓地に埋葬されている。この村人たちをあがめ、記憶することを乞う。彼らは、1918年十一月十五~二十日のわずか五日間に、インフルエンザ大流行によって生命を落とした。 」
(「四千万人の殺したインフルエンザ—スペイン風邪の正体を追って」ピート・デイヴィス著 高橋健次訳) 』
『 ブレビック・ミッションで得られたウイルスの遺伝子解析から明らかとなったのは、これがH1N1型というA型インフルエンザウイルスに分類されるということだった。
現在知られているヒトに感染するA型インフルエンザには、H1N1型、H2N2型、H3N2型、H5N1型などがあるが、興味深いことに、その後の多くの遺伝子解析からヒトに感染するH1N1型のウイルスはすべて1918年のウイルスに由来することが示唆されている。
これは何を意味するのだろうか? もし、「スペイン風邪」の発生前にH1N1型のインフルエンザがヒトの病原ウイルスとして存在していたのなら、その子孫ウイルスが、たとえ少数であっても現在どこかで見つかって良いはずである。
それが見つからないとすれば、H1N1型のインフルエンザウイルスは「スペイン風邪」の発生の際に、初めてヒトに感染したという仮定も不自然ではない。
実際トーベンバーカーらはブレビック・ミッションで得られた遺伝子解析から、この1918年の「スペイン風邪」が、鳥インフルエンザウイルスに由来するものであったと結論づけた。
H1N1型のインフルエンザウイルスは鳥に感染するインフルエンザウイルスに多く、そこからヒトに感染するようにウイルスが変異を生じたと考えたのだ。
もしそうなら「スペイン風邪」が発生した当時の人々にとって、このH1N1型のウイルスは今までにない「新しい敵」であった可能性がある。
近年、東京大学の河岡義裕らの研究により、「スペイン風邪」が異常に高い死亡率を示したのは、原因ウイルスが極度に強い自然免疫性を誘発する性質を持っていたことが理由であると明らかにされたが、あれほど広く大流行したのは、それがその当時の人類にとっての「新しい敵」であったことも一因であったろう。
このようにウイルスが変異して新しい宿主への病原性を獲得することは、ホストジャンプと呼ばれている現象で、自然界で決して珍しいことではない。
特に人類は生物進化の歴史でほぼ最後尾に登場しており、ヒトに感染するウイルスというのはその多くが他の動物からのホストジャンプによって病原体となったと考えられる。
このホストジャンプは時に深刻な新興感染症を引き起こすが、最近、注目を集めた例を挙げれば、エボラ出血熱がある。その病原菌であるエボラウイルスはヒトに感染した場合には、致死率50~80%にも上るという恐怖の殺人ウイルスであるが、興味深い事に、天然の宿主であるコウモリの中では、特に目立った病気を起こさない。不思議な話である。 』
『 そして、人類を恐怖のどん底に突き落としたあの「スペイン風邪」の毒性も、実はパンデミックの発生から数年で大きく低下したことが報告されている。
現在ヒトに感染するH1N1型のインフルエンザは、前述したように当時の子孫ウイルスであるが、今はその型のインフルエンザが流行することがあっても、スペイン風邪のような悲劇は起こらない。
もちろん免疫によるヒトの耐性が増加したという側面があることは否定できないが、ウイルスそれ自体の致死性も大幅に低下している。
似たような現象は、ウサギ粘液腫ウイルスでも、インフルエンザウイルスでも、恐らくコウモリにおけるエボラウイルスでも、起きている。一体、何のために?
その謎の答えは、ウイルスという病原体の性質にあると考えられている。ウイルスは生きた宿主の細胞の中でしか増殖できないため、宿主がいなくなれば、自分も存在できなくなる。
理屈の上ではウイルスにとって宿主を殺してしまうメリットは極めて乏しく、積極的に宿主を殺すような「モンスター」は、いずれ自分の首を絞めることになるのだ。
ホストジャンプを起こしたウイルスが、その初期に新しい宿主を殺してしまうのは、その宿主上でどのように振舞ったら良いのか分からない「憂えるモンスター」が自らの力を制御できず、暴れているに過ぎないという見方も出来ない訳ではない。
もちろんそのようなウイルスを擬人化した見方は科学的には適切ではなく、実際には弱毒化により感染した宿主が行動する時間が長くなれば、新たな感染の機会がより増える、というウイルス側の適応進化が起こったと解釈されるべき現象だろう。
また、ウイルスの毒性が低下するということが、長い目で見た場合には一般的であったとしても、短期的には強毒型へとウイルスが変異する例も多く知られており、それを理由にウイルスの脅威を軽く見ることも適切なことではない。
ただ、我々が「ウイルス」と聞いた時に頭に浮かぶ、「災厄を招くもの」というイメージは、決してウイルスのすべてを表現したものではない。
生命の歴史の中で、様々な宿主とのやり取りを続けてきたウイルスたちは「災厄を招くもの」という表現からはかけ離れた働きをしているものが実は少なくない。
例えば、私の血液(B型)を妻(O型)に輸血すれば、私の赤血球はすぐさま激しい攻撃に晒される、しかし、半分は私の遺伝子を持っているお腹の中の子供は、たとえ血液型がB型であっても、攻撃の対象とはならず、すくすくと育っていく。
そんな不思議なことを可能にしているのが、胎盤という組織なのである。この胎盤の不思議さの肝となるのが、胎盤の絨毛を取り囲むように存在する「合胞体性栄養膜」という特殊な膜構造である。
今から15年ほど前、この「合胞体性栄養膜」の形成に非常に重要な役割を果たすシンシチンというたんぱく質が、ヒトのゲノムに潜むウイルスが持つ遺伝子に由来すると発表されたのだ。
胎児を母体の中で育てるという戦略は、哺乳動物の繁栄を導いた進化上の鍵となる重要な変化であったが、それに深く関与するタンパク質が、何とウイルスに由来するものだったというのだ。
すでに宿主と「一体化」しているウイルスの何と多いことか、我々はそのことを日頃、意識していない。 』
『 ベイエリンクが活躍した19世紀後半から20世紀初頭は、近代的な微生物学が大きく花開いた時代であった。意外に思われるかも知れないが、それより以前、つまり今からわずか150年ほど前までは、病気がなぜ起こるかということが、きちんと解明されてませんでした。
その状態に終止符を打ったのは、近代細菌学の父とも言われるロベルト・コッホである。1876年の彼はヒトの炭疽病の原因が細菌であることを初めて証明し、その後、結核菌(1882年)、コレラ菌(1883年)などの単離に次々と成功していく。
これら一連の業績で、彼は揺るぎない名声を築き、1905年にはノーベル生理学・医学賞を受賞することになる。
そのコッホが提唱した「感染症は病原性微生物(細菌)によって起きる」という考え方は、当時の最新の知見であり、医学、微生物学に従事した研究者の常識を支配していくことになる。
実際、感染症の原因が細菌と特定できたことは医学の発展にも大きく寄与し、その原因となる細菌を取り除くための煮沸消毒・オートクレーブ(高圧蒸気減菌器のこと)などが確立されていくのもこの時期でる。
そういった消毒法の一環として、当時シャンベラン濾過器と呼ばれる、陶器(素焼き)を濾過フィルターとして用いた装置が使われていた。
素焼きには無数の細孔が開かれており液体は通り抜けるが、その細孔のサイズは平均0.2μmほどであるため、感染症の原因となる通常の細菌は細孔に捕獲され通り抜けることができない。
従って、この濾過装置を用いることで、溶液中の病原性細菌を取り除くことができたのである。ウイルスの発見はこのシャンベラン濾過器の存在に端を発している。
すなわちこのシャンベラン濾過器を通り抜けてくる「濾過性病原体」としてウイルスは発見されることになる。「濾過性病原体」の報告は1890年代に3グループが独立して行っている。
1892年にTMV(タバコモザイクウイルス)を用いて「濾過性病原体」を初めて記述したロシアのデェミトリー・イワノフスキー、1898年にウシ口蹄疫病ウイルスを用いて同様の報告をしたドイツのフリードリヒ・レフスキーとポール・フロッシュ、そして同年にTMVを用いて実験を行ったベイエリンクの報告の三つである。
ウイルスの発見者が誰だったかという点では今も議論があり、少し丁寧な解説書ではこの三つの業績が併記されることが多い。彼らはいずれも常識的な細菌より明らかにサイズの小さい病原体が存在することを報告した。
その意味での違いはないが、問題はその実験結果の解釈である。イワノフスキーは、「濾過性病原体」の正体を、これまで知られている細菌よりサイズの小さい細菌か、細菌から分泌された毒素であると考えていた。
彼の論文には濾過器の不良を疑う記述があり、「濾過性病原体」の正体はその不良ににより漏れてきた細菌と考えていたことが窺われる。さらに後年にはその「濾過性病原体」が人工培地で培養可能であったとも述べている。
これらは彼が自分で見つけた「濾過性病原体」をあくまで培地で培養できる細菌の一種だと信じていたことを示している。
ウシ口蹄疫病ウイルスを扱ったレフラーとフロッシュの論文では、より入念に「濾過性病原体」が解析された。その結果、通常の培地では培養できないことや毒素ではないこと。
シャンベラン濾過器は通過するが、それより目の細かい北里フィルター(北里柴三郎が考案した物)では通過率が低下することから、微粒子性(corpuscular)であるといったことが報告されている。
よりウイルスの姿に近づいた観察結果と言って良いと思う。しかし、彼らもまたその「濾過性病原体」を minurest organism (最小の生物)と表現し、細菌とはまったく違う新しいタイプの病原体という結論には至っていない。
レフラーはコッホに師事した彼の愛弟子であり、偉大な師の提唱した「感染症は病原性微生物によって起きる」というドグマから完全に自由になることは、やはり難しかったのだろう。
一方、ベイリンクは突き抜けていた。彼はその「濾過性病原体」の正体を contagium vivum fluidum (生命を持った感染性の液体)と記述し、微生物ではなく可溶性の「生きた」分子であると主張した。
その記述は、時代を覆った常識や権威の雲を完全に突き抜けていた。しかし「生命を持った感染性の液体」とは何かという表現であろうか、彼はタバコモザイク病の原因となる病原体が、通常の細菌でないことを確信していた。
「液体」とした彼の表現が、現在の科学的知見からしてどれほど正確かという問題はあるが、この常識の枠にとらわれない「踏み込みの深さ」がベイエリンクの真骨頂である。
もちろんこの突飛にも思える新説を、彼は何の根拠もなく単なる想像で言い出したわけではない。ベイエリンクは、レフラーらが行った「濾過性病原体」が培地では培養できないという実験を、好気性・嫌気性条件の両方で行い、より綿密で確実な結論を得た。
さらに細菌が動くことができない寒天の中でも、その病原体は広がり移動する「液体状」のものであることを示し、その存在を「ウイルス」と呼んだ。
また、彼の観察結果の中で重要なことの一つは、この病原体が分裂や成長をしている細胞分裂の活発な若い植物組織では増殖するが、古い組織や感染植物の濾液中では、増殖しないことを見出していた点である。
彼の発見したウイルスが、「普通の生物」とは大きく違った存在であることが一般に受け入れられて行くのには、さらに40年の時を要したのだった。 』
『 「感染症は病原性細菌によって起きる」という状態に終止符を打ったのは、従来の微生物学者ではない新しい勢力だった。その新勢力とは、1930年前後にこの分野へと流入してくる生化学者たちだ。
彼らは観察や培養などの伝統的な生物学における手法を用いる微生物学者とは違い、物質から生物にアプローチするという手法を採った。キーワードは、タンパク質である。
生命現象におけるタンパク質の重要性が認識されるようになったのは、それより約100年まえの1833年にフランスのアンセルム・ペイアンとジーン・フランソワ・ペルソが生化学的な反応を促進する能力を持つ「酵素」を発見したことに端を発している。
彼らは麦芽の抽出液中にデンプンの分解を促進する何らかの因子、すなわちジアスターゼ(アミラーゼ)という酵素活性、があることを発見したのだ。
しかし、その酵素と呼ばれた因子の正体は長年の謎であり、加熱すると失活するという生物(生命)と似た性質を持っていたため、それが何かの物質によって起こるのか、何か目に見えない生命に由来する生気のようなものの作用なのか、両方の説が存在した。
この問題は1926年にジェームズ・サムナーにより、酵素の正体がタンパク質であることが示され決着がつくのだが、その際のサムナーの用いたロジックは、タンパク質(ウレアーゼ)を結晶化させ、つまり他の物質の混入を排除して単一の物質として高度に純化した上で、そこに高い酵素活性があることを示すというものであった。
サムナーの業績のインパクトは、これまでの生命活動に固有のものと思われていた生体物質の分解や合成といったことが、ただの物質に過ぎないタンパク質で行えることを示したという点であった。
逆に言えば、タンパク質にはそういった生命活動の根幹となるような機能を担う性質があることが示されたことになる。そしてこれを機に、時代の注目は一気にタンパク質へと動いていく。
このサムナーと同じロジックを用いて「濾過性病原体」の正体を突き止めようとしたのが、生化学者のウェンデル・スタンリーであった。当時彼はロックフェラー研究所にいたが、その同僚がタンパク質結晶化のスペシャリストであるジョン・ハワード・ノースロップだった。
ノースロップは胃の消化酵素ペプシンの単離、結晶化に成功し、後にスタンリーと同時にノーベル化学賞を受賞することになるのだが、その彼の技術を身近で学ぶことのできたスタンリーは、大量調製が比較的容易なTMVを用いて結晶化に取り組み、そしてそれを成功させた。
彼が得たTMVの結晶は10億倍に薄めても、なお感染性を示すという純度の高いものであった。
植物の中で増殖し次々と植物に病気を起こしてゆくという「生命活動」としか思えないことを行なうTMVが鉱物やタンパク質のように結晶化する単純な物質であったという発見は、衝撃的なものであり、ウイルス学における偉大なマイルドストーンとなっている。
この発見は、それまで自明のものと考えられていた生命と物質の境界を曖昧にしたことである。成長する、増殖する、進化するなどの属性は生物に特有なもので、生物と物質とは明確に区別できるという常識が大きく揺らいだ。
ウイルスは純化するとただのタンパク質と核酸という分子になってしまう。しかし一方、生きた宿主の細胞に入るとあたかも生命体のように増殖し、進化する存在となる。今から約80年前にスタンリーらの発見によって投げかけられたこの問いが、本書の底流となるとテーマでもある。 』 (第174回)