チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「少子高齢化を生き抜く「方丈記」の叡智」

2014-07-30 12:57:44 | 独学

 60. 少子高齢化を生き抜く「方丈記」の叡智 (山折哲雄著 文芸春秋2014年7月号)

 私は、文芸春秋をもう50年以上読んでいますが、その守備範囲はすべての分野に渡り、なおかつ、日本の第一線で活躍している方々が書いており、さらに、実用的である。最初の頃、巻頭随筆を小泉信三が書いていたことが思い出されます。今回は、山折哲雄が方丈記について書いています。

 私も方丈記を読んで、さらには、方丈記について書かれた本も読みましたが、山折哲雄のこの”少子高齢化を生き抜く「方丈記」の叡智”は方丈記をこれからの自分の生活にポジティブに生かすための知恵があるような気がしました。日本の本来の文化人として、鴨長明や良寛に学ぶことは、日本の子供たちにとっても益々重要と考えます。では私といっしょに、山折哲雄の案内で、方丈記の世界へ行きましょう。


 『 国立人口問題研究所が、「一人暮らしがいろいろな形で増大し、これを救わないと日本の国は滅びる」と「一人」という言葉がネガティブな価値を帯びて語られています。人口がどんどん減少していけば、一人で生きる領域が空間的にも、時間的にも広がります。

 そのとき、「一人で生きるとはとは何か?」という新しい哲学や論理学が必要になるでしょう。しかし、現代の日本人は、一人で生きる、一人で立つ、一人で暮らすことを否定的に捉えるばかりで、その本質的な価値を忘れ去ろうとしているようです。人口減少社会、高齢社会を迎えるいまこそ、人間の基本的な教養として、「一人」の意味と価値を考えるべきです。

 鴨長明は、平安時代末期から鎌倉時代初期を生きた人です。歌人として活躍したのち、五十歳で出家して京都の山中に隠棲し、六十二歳で生涯を終えました。大地震や台風、大火事や飢饉といった災厄に翻弄されて命を失う人々の姿を描写し、人生の無常を見事な文章で綴った随筆が「方丈記」です。

 ともすれば長明は、これまで「二流の知識人」「中途半端な世捨て人」とみられてきた節があります。しかし、私はこうした評価は間違いだと考えていました。一人で生き、一人の価値を追求した人間である長明の人生を追うことによって、我が国における「一人で生きる」ことの内面的な意味をつかんだり、捉え直すことができるはずだと思ったからです。

 そのことに日本人が気づいたのは、東日本大震災でした。〈行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある人と栖と、またかくの如し〉

 この冒頭を読んだだけで、「ああ、我々には『方丈記』があった」と、慰められた。『方丈記』が時間や空間を超えた広がりと普遍性をもっていることに気づいたわけである。加えて、鴨長明という人物を一人の世界観の表現者として捉えるならば、長明に先立つ西行、時代を下って芭蕉や良寛も、同じ隠遁者の系譜として位置づけることができます。 』

 
 『 私は京都に住んでいるのに、方丈庵に行ったことがなかったので、日野の里から3百メートル山に登ると、「方丈石」という石碑が立っている。梅雨時でしたから、じと~っとした湿気で、蜂にも襲われました。「よくこんな場所で我慢して、庵の生活をしていたな」と考えたとき、スッと脇を見たら、深く削り取られたところに渓流が流れた跡があった。

 水はもう流れていませんでしたが、「あっ、この渓流があることで、方丈庵は成立していたんだ」と気づきました。水がなかったら、あんな場所に生活できません。そのとき思い出したのが『方丈記』の冒頭です。

 〈行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず〉この文章は無常観を表しているいわれ、私もそう書いたりしゃべったりしてきました。あの小さな渓流が無常の世界を表すというのは、観念的には確かにそうかもしれません。

 しかし一方では、水が流れていることの現実的な清涼感があって、困難な庵の生活を耐えることができたんだと実感したとき、「ああ、やっぱり机の上でテキストを読んでいるだけでは分からんな」と気づいた次第です。

 鴨長明は、隠遁生活に入ったあとも鎌倉まで旅をして、歌人としても高名な三代将軍の源実朝に会って歌の問答をしています。好奇心旺盛で、長い旅も厭わない。新しいものは何でも知っておこう、という人間だったことがわかります。


 同じような意味で、天変地異に対する関心も非常に高かった。地震や台風などの災害があると、現場へ行って仔細に被害の状況を写し取る優れたジャーナリストの目を持っていました。そういう二面性のある人です。

 方丈庵もまた、二つの空間からなってます。一つは芸術空間で、琵琶と琴を弾じながら、歌を作ったり文章を書いたりする。もう一つは宗教空間で、経典を読んだり念仏を唱える場所。「念仏を唱えても、俺はなかなか最後まで唱えることのできない人間だ」と弱音を吐いています。そればかりか「サボるときもある」。ここがまた、後世の人に軽蔑されるわけですが(笑い)。

 宗教空間に置いていたのは、源信の『往生要集』でした。いかに死ぬべきか、ということに関する当時最高のテキストです。これを座右に置いて、朝晩よく読んでいます。やはり、「死」の問題にいつも立ち向かっているということが、当時の知識人にとって非常に重要な教養の一つだったのです。


 方丈庵には二つの空間があった、と言いましたが、一つの空間を二つに使い分けていたと言ってほうがいいかもしれません。長明は、神官の家の出で、仏教の世界に惹かれて出家したわけですが、狭い中にも宗教空間と芸術空間を区別して置いていたのです。

 宗教の世界と芸術の世界、信仰の世界と美の世界のどちらも最後まで手放さなかったのが長明の生き方のすごいところです。その点は、西行も同じでした。出家僧として漂泊の旅を続けながら、決して歌の道を捨てなかったどころか、非常に重要視しました。 』


 『 芭蕉もそうです。旅をするときは首に頭陀袋、手には数珠という僧形をし、神社仏閣を好んで参拝してますが、世俗にまみれ、俳句の世界は手放さなかった。「僧でありながら、自分には塵がある。煩悩がある」と言っています。それでは俗人かというと、「俗にして髪なし」。せめて髪だけは剃っているよ、と(笑)。

 芭蕉の百年後を生きた良寛もまた、「沙門にもあらず、俗人にもあらず」と言っています。これもまた「一人であることによって、自立している」という意味です。一人であってもたじろがない力を与えてくれるのは、教養のもつ強さだったでしょう。

 良寛は曹洞宗のお坊さんとして真面目に修行しました。けれども歌も俳句も、書も漢詩もものしています。歴史的には民衆宗教家に近い存在で、親鸞や日蓮といったカリスマよりは低い評価です。文人としても宗教者としても徹底していないという理由からですが、長明と同様、それは違うと思います。

 良寛が座右に置いたテキストは二つあって、一つは『万葉集』。『万葉集』には、自然などを詠んだ雑歌、恋の歌である相聞歌、死者を悼む挽歌がありますが、良寛に重要だったのは、挽歌です。長明にとっての『往生要集』が、良寛にとっての『万葉集』でした。共通するのは「死」というテーマです。

 もう一冊、尊敬していた道元の『正法眼蔵』を、良寛はテキストとして座右に置いていたと思います。非常に難解なことで知られる『正法眼蔵』を何度も徹夜で読んで涙を流し、漢詩にも詠んでいるほどです。 』


 『 もう二十年ぐらい前、良寛が暮らしたという五合庵にいったことがあります。新潟の柏崎に近い国上山の中腹です。やはり夏前で、汗びっしょりで、雑草を手で分けながらの登りました。庵の設えは、良寛が住んでいた当時と同じだと言われています。「あっ、こういうところに住んでいたのか」と思って入った途端、ここでは藪蚊がバーーッ! と襲ってきた。

 「こんなところ、俺なら一日も住めないな」と思いました。水の確保や炊事に洗濯など、自分で全部やらなけでばいけない実生活の状況が、雑草と藪蚊の襲来の中でフ~ッ! と頭に浮かび上がってきました。「庵の生活とは、こういうことか。牧歌的生活じゃないんだ」とつくづくわかりました。

 その体験が、先ほど触れた方丈庵へ行ったときの体験へ重なったわけです。梅雨時から夏にかけては藪蚊や蜂が襲ってくるだろうし、湿っぽい中で生活しなきゃならない。貧乏暮らしで、貰い物で生きているわけです。その中で、手放さなかった大事な一冊、二冊の本があったのです。 』


 『 鴨長明から良寛へ至る生活ぶりやライフスタイルは、だいたいお分かりいただけたと思います。このように日本人の基本的な教養というのは、芸術一本槍、あるいは宗教一本槍ではありません。両方に足を置いて人生を考え、世界を考えていく。
 
 この複線的というか、複眼的な生き方に、日本人は魅力を感じるんじゃないでしょうか。単なる宗教家、単なる芸術家では満足できないというところは、贅沢な民族だと思います。その二股膏薬ともいうべき柔軟な教養が、伝統として我々の血肉に流れていることを、思い返さなければいけません。

 「一人暮らしが大量に発生するから、事態は危機的だ」と短絡的に叫ぶのは、社会学や心理学等々の側からの警鐘の声に、あまりに耳を傾けすぎている。教養の原点を探り出す上で、これは障害になるだけではないか、と私は気がついたわけです。 』


 『 敗戦の時、私は旧制中学二年でした。戦後に学生時代を送り、結婚した期間はほとんど「貧乏暮らし」でした。しかしあの時代の貧乏暮らしは決して暗くはなかった。乏しさの中に自ら生活の工夫をする、そんな楽しみもあって、ちょっと懐かしくもあります。

 その後は高度経済成長。いわゆる「景気暮らし」の時代です。その中にはオイル・ショックやリーマン・ショックの時期がはさまれていますが、大体は景気暮らしでやって来た時代でした。そしてこれから入ろうとしている世界は、先程の人口問題研究所が推計しているように、非常にネガティブな暗いトーンで語られる「一人暮らし」の中にあるわけです。

 つまり我が人生は、三期に分けることができます。貧乏暮らしの時代、景気暮らしの時代、そしていまから、一人暮らしの時代。戦後の日本の歴史も、この三期に分けることができるでしょう。景気暮らしの時代が悪かったとは言いませんが、いまそこから学ぶことは何もありません。学ぶとすれば戦後の貧乏暮らしということになります。

 貧乏とは何か?鴨長明から良寛に至る隠遁者の生活は、徹底した貧乏暮らしから始まり、一人暮らしへとなだらかにつながっていました。そう思うとき、貧乏暮らしと一人暮らしを重ねるところから、新しい価値、人間としての本当の教養を引き出すことができるのではないのか、というのが、いま、私が考えていることです。 』


 『 日本の歴史を振り返ると、三つの危機的な時代がありました。それは同時に、画期的な時代でもあったと言えます。第一は十三世紀の親鸞、道元、日蓮が出た時代です。同時に『徒然草』の吉田兼好や長明の存在がある。このカリスマたちすべてが、一人一人の魂に生き方を問いかけた時代です。

 第二は明治維新です。この国をどうするか、どうやって近代国家を作っていくか、という大問題でした。福沢諭吉は、「一身独立して一国独立す」と言った。「一人ひとりの人間がそれぞれ独立しないことには、国の独立はあり得ない」というメッセージです。

 三度目の危機は戦後で、現代を生きる我々の問題です。世界の中で日本の国をどうするかという問題に、いま逢着して、答えが出ていません。これはやはり、十三世紀に学ぶときに来ているのではないか。そこで「一人」という問題が出てくる、と私は考えています。

 長明の生活ぶりや、『方丈記』が照らし出している当時の隠遁者の生き方は、日本の歴史全体を貫く「一人で生きること」の伝統継承の大切さを浮かび上がらせているのではないか、と思うようになったのです。

 私が貧乏暮らしの基本として考えている心構えが、三つあります。

 一つは「出前精神」。どこえでも自分から出ていく、自分を「出前」する精神ですね。いまは便利な時代で、なんでも宅配で賄えます。自分から出ていく必要がない。しかし、閉じ籠っていては、何も生まれません。何事も、自分から出ていって仕事をしなければ話にならない。貧乏暮らしと一人暮らしにとって、出前の精神は欠かすことができないと思うのです。

 二つ目は「手作り」。足りないものは、自分で作らなければなりません。電化製品は何でもやってくれるけれど、故障したらお手上げです。これからも便利な商品はいくらでも出てくるでしょうが、貧乏暮らしや一人暮らしでは、結局は自分の手足を使うことが必要になります。(道具を使って、自分の手足で行ったことは、自分の技量となるのではないでしょうか)

 三番目は「身銭を切る」ということです。貧乏は貧乏なりに、身を切るということです。なけなしの銭でもやっぱり自分で使うことがないと、貧乏生活はやっていけません。安酒飲んで元気をつけるというやり方でも、身銭を切るわけです。逆に、誰かに来てもらう、出来合いのものを使う、会社の経費や税金のサービスを当てにする――ここからは何も生まれません。

 出前、手作り、身銭を切る――この貧乏暮らしの三原則が、「一人の哲学」を生み出す上でスタートラインになるのではないでしょうか
 
 もう一つ大切なのは、「一人のライフスタイル」です。一人で立つ、一人で歩く、一人で座る、一人で考える―― この立つ、歩く、座る、考えるを絶えず意識していないと、一人の生き方、一人で生きることの意味を確かめることはできないでしょう。あるいはそこからしか、「一人の哲学」は生み出されてきません。

 震災後、「絆」「助け合い」が強調されました。それ自身は悪いことではありませんが、強調されすぎです。まず一人で立つ、一人で生きる姿勢があってはじめて助け合いや絆が生まれてくるはずです。

 「自助、共助、公助」などといいますが、初めに「助け」ありきではおかしい。まず、「自立」があるべきでしょう。先ほどの志ん生が、『びんぼう自慢』でこう言っています。「貧乏はするものではない。味わうものだ」。これはいい言葉だなあ(笑)。つまり「一人暮らしはするものではない。味わうものだ」と、こうなるわけですな。 』


 私(ブログの作者)が方丈記の一番お気に入りの所は、以下の部分です。

 〈今、日野山の奥に跡を隠してのち、東に三尺余りの庇をさして、柴折りくぶるよすがとす。南、竹の簀子を敷き、その西に閼伽棚を作り、北によせて、障子をへだてて阿弥陀の絵像を安置し、そばに普賢をかき、前に法花経を置けり。

 東の際には蕨のほとろを敷きて、夜の床とす。西南に竹のつり棚を構へて、黒き皮籠三合を置けり。すなわち、和歌、管弦、往生要集ごときの抄物を入れたり。かたわらに琴、琵琶おのおの一張を立つ。いわゆる折琴、継琵琶これ也。仮の庵のありよう、かくの如し。〉

 私も、「出前精神」、「手作り」、「身銭を切る」を実践して、豊かで楽しい生活を目指します。(第59回)


ブックハンター「シベリア動物誌」 

2014-07-18 09:05:31 | 独学

 59. シベリア動物誌  (福田俊司著 1998年10月)

 本書は、岩波新書のカラー版で、180ページの半分程が美しい風景と躍動する動物たちの写真です。著者は本来動物写真家です。沿海州、千島列島、サハリン、アムール川は、北海道の札幌からの直線距離にして、数百キロであるが、実際には非常に遠い地域である。

 内容は、1 タイガにシベリアトラを追う 2 海獣王国――千島列島とサハリン 3 ヒグマ王国――カムチャッカ 4 冬鳥の故郷――ヤクート(サハ共和国) 5 ホッキョクグマのハンティング――ヴランゲリ島 の5章です。

 今回は、この中からシベリアトラ(アムールトラと同じ)の生け捕りの話です。前回のイリオモテヤマネコと親戚筋にあたり生態は非常に類似しているように感じました。


 『 トラの全亜種中、寒冷地に適応したシベリアトラはもっとも大きく、ヴィクトル・ユージンが記録した最大のトラは、6才の雄で全長3メートル10センチ(体長2メートル15センチ、尾95センチ)、体重225キロもあった。シベリアトラは、南方の亜種に較べ体毛の黄地が明るく長い。

 一般に、動物の生息数は冬期の獲物の量で制限される。だから、マイナス50度前後の厳しい冬をすごさねばならないシベリアトラのテレトリーは、ベンガルトラよりも6倍から11倍も広いものになるようだ。

 シベリアトラは、地域ごとに朝鮮トラ、満州トラとも呼ばれており、ロシア国内でも沿海地方のものをウスリートラ、ハバロフスク地方のものをアムールトラと呼んでいる。

 シベリアトラの推定生息数は430~470頭だ。現在、受難の時代を迎えているとはいえ、この大型肉食獣がシベリアに生き延びてこられたのは、先住民族ナナイやウゲデの人々が抱いてきた、「タイガの神」としてのトラに対する信仰、そして、何よりも、ロシア人が持っているシベリアトラとの共存していこうとするつよい意志のために他ならない。

 この類の話は沿海地方ビギン川流域に先住民族の最大の村クラスヌイ・ヤールでも聞いたし、猟師小屋や僻地の村々でもしばしば耳にした。トラはシベリアで自然のシンボルとして崇められてきたのだ。

 猟は自然保護の対極に存在するものではない。これから僕は、いきたまま伝説になっている猟師、ヴラジミル・クルグロフの”トラの生け捕り”の話をしたい。かれのようにシベリアトラの生態を熟知している猟師がいるからこそ、もしシベリアに危険なトラが発生した時でも、そのトラが人喰いトラにならずにすむのだ、と思うからだ。

 クログロフがトラを生捕る方法はシベリアの伝統的な狩猟法で、ロシアの動物作家、ニコライ・A・バイコフが60年以上前に書いた「偉大なる王」にも登場する。

 クルグロフの知遇を得て、この伝統的なトラ生け捕りに、僕は1994年と1997年の二度同行した。冬期に限って可能なこの生け捕り法は、シベリアトラの生態を知り抜いた上で、たいへん合理的に考案されている。僕はその芸術的とも言うべき完成度に感動した。
 
 クルグロフは、ハバロフスク近郊のタイガに囲まれたヴチェヴァヤ村に住んでいる。彼は、研究者、動物園、サーカスなどからトラ捕獲の要請をうけると、周辺の村々や猟師たちを通して、子トラを連れた雌トラの情報を収集する。生け捕りの対象は、母親に養われている三歳までの子トラに限られる。

その情報はただちに入手できることもあれば、1ヵ月以上をまたねばならない場合もある。子連れの雌トラは、ヴチェヴァヤ村周辺で見つかる場合もあるが、時には沿海地方まで足を運ばねばならないこともある。

 情報が入ると、まず婿養子のアンドレイを現地に派遣して確認させる。その結果、子トラに間違いないと判断すれば、仲間4人で捕獲隊を編成する。出発にあたって、イヌ4頭、指股になっているY字型の棒4本、裏に滑り止めの毛皮を貼ったスキー板4組、脚を縛る縄、スノーモービル、食料をワゴン車に積み込む。

 食料は多くても1週間分。これは荷物を軽くする必要があることに加えて、彼らの技術をもってすれば1週間以内で事足りることにもよる。また、長期にわたってイヌたちが狩りから遠ざかっている場合、現場に直行せず、寄り道をしてイノシシやアカシカの狩りをおこなう。イヌたちをトラに向かっていかせるために、”血の祭典”で、彼らの野生を呼び覚ますのだ。

 いよいよ、トラの生け捕り作戦がはじまる。まず、最新情報によって、最寄りの猟師小屋や避難小屋を基地に決める。トラ親子の行方を探索するのは翌朝からだ。情報が届いてから何日も過ぎているから、足跡は明瞭な形を留めていないことがおおい。

 雪の上に印された足跡は、太陽に照らされて丸みを帯び、空気に触れて固くなっているが、それらは時間経過を知る重要な手掛かりとなる。驚くべきことに、クルグロフは1ヶ月前に通ったトラを追跡できる。この追跡法にはどんな秘訣があるのたろうか?

 クルグロフに尋ねると、「目印が雪の上に残っている。それは1メートル近い尻尾の跡だ」と明かしてくれた。まさに”コロンブスの卵”であった。
そのような方法で、親子の足跡を繋ぐと、子トラたちの”食べ跡”にたどり着く。たいていの場合、トラ親子は立ち去っており、獲物は骨と皮のみになっている。

 そこに何日間滞在するかは、獲物の大きさによる。アカシカなら約一週間未満、イノシシなら数日、ノロジカだとわずか一日かもしれない。子トラたちが獲物を食い尽くすと、母トラは子トラを残してふたたび狩りに出かける。つぎの獲物を倒せるのは500メートル先か、5キロ先になるかは状況次第だが、自分のテレトリーから逸脱することはない。

 クルグロフたちは山小屋を移動しながら、つぎつぎに”食べ跡”を繋いでいく。やがて足跡が真新しいものになってくると、野宿も辞さない。過酷な追跡の果てに、捕獲隊はトラ親子の棲み処に迫ることができる。

 探しだした”食べ跡”に獲物の肉が残り、足跡が真新しいことを確認すると、クルグロフたちは意外な行動をとる。空に向けてライフルを撃ちだすのだ。つぎつぎに銃弾を補填して、タイガに数十発を轟かせる。

 トラ親子への接近は密やかにと思い込んでいたから、僕はとても驚いた。しかし、この行動は母トラを殺さずに、子トラを迅速に生捕るために、実に合理的な処置であった。銃声は母トラを逃走させ、子トラたちから引き離す役目をはたす。一方、母親を見失った子トラたちは、それぞれ岩や倒木のしたに身を隠してしまう。ここからは、僕の日記を引用して、子トラ生け捕りまでを再現してみよう。

 「クルグロフは追跡する子トラを決めた。母トラの注意が子トラに向かわないように、ふたたびライフルを三発撃つ。切り立った尾根で、小さな足跡を繋ぐ。子トラの足跡は、その気持ちを表すように、右に左に落ち着かない。四人の追っ手は、互いに一定の間隔をはかりながら、子トラが逃げ込みそうな倒木や木の根に注意を払いながら進む。

 とうとう、子トラの足跡は尾根筋から外れて、右手斜面を下りはじめた。クルグロフはイヌの首輪を外すように指示した。勇むイヌたちは子トラの足跡を追って、一直線に山の斜面を駆け下りた。イヌのスピードはトラに勝る。200メートルほど下手で、イヌたちの甲高い鳴き声が……。

 ついに、イヌたちは子トラに追いつき、包囲したようだ。クルグロフ以下全員がスキー板を脱ぎ捨てて、現場に向かって駆ける。イヌたちに囲まれて、子トラは牙を剥きだして唸っている。一斉に、男たちがY字棒を伸ばして、子トラの首と脚を押さえこむと、クルグロフは、両耳をむんずと掴んだ。

 このとき、子トラの抵抗力は完全に失われた。午後0時三十分、クルグロフは40頭目のとらを生捕った。新しい”食べ跡”を見つけてから、わずか一時間であった。」

 肉食獣の場合、子供たちがすべて無事に育つわけではない。三、四頭うまれる子トラのうちから一頭を間引き、餌になる草食獣への負担も軽くしながら、”シベリアトラ生け捕り”の狩猟法は、タイガの生態系を破壊することなく伝えられてきた。 』


 『 沿海地方やハバロフスク地方の自然にとって、チョウセンゴヨウは特別な存在だ。「シラカバ林では陽気に楽しみ、チョウセンゴヨウの森では祈る」と語られているように、三五メートルにもまっすぐ伸びる大木は、人々を敬虔な気持ちにさせる何かを具えている。

 そして、チョウセンゴヨウと広葉樹が混合したタイガは、沿海地方やハバロフスク地方のすべての森林の中でも、環境に対して最も大きな影響力を持っている。チョウセンゴヨウが健在なタイガでは、「タイガはすべてを養い、すべてが満ち足りる」と言われる。

 長さ15センチ以上もあるチョウセンゴヨウの松ぼっくりには、暗紫褐色の大きな種子がビッシリと詰まっており、実りの多い年には、一本のチョウセンゴヨウから100キロもの種子が収穫できる。

 栄養とカロリーに富むその種子は、タイガにすむツキノワグマ、ヒグマ、アカシカ、ニホンジカ、ノロジカ、イノシシ、クロテン、モモンガ、リス、シマリス、ノネズミ、野鳥などの生き物に欠かせない食物である。それが”タイガのパン”と称される由縁だ。 

 ところで、チョウセンゴヨウの木材は、別称ベニマツと呼ばれ、国際市場で高い値がつく、そのために、チョウセンゴヨウは各地で伐採が盛んに進められ、沿海地方の森林に占めるチョウセンゴヨウの混合林は僅か数パーセントになってしまった。 』

 
 アムールトラとチョウセンゴヨウと広葉樹の混合林が、こんなにも密接な関係にあり、チョウセンゴヨウの松ぼっくりの種子が、イノシシやアカシカを支え、彼らがアムールトラを支えている。チョウセンゴヨウと広葉樹の混合林が消えるとき、アムールトラも絶滅する。先住民族のナナイやウデゲの人々が抱いてきた「タイガの神」としてのトラに対する信仰を生かしたいものです。(第58回)



ブックハンター「裏方名人」

2014-07-06 13:11:27 | 独学

 58. 裏方名人 (足立紀尚著 2006年12月)


 本書は、”七味唐辛子の口上師”、”戦前と戦後を農業で生きてきた”、”新しいコメづくりを開く農家の試み”、”日本一の漆掻きの仕事”などの十篇のいぶし銀のような人生と仕事の魅力を聞いてまとめたものである。

 ここでは、その中から”ツシマヤマネコの人口繁殖に挑む”をとり上げる、これは福岡市動物園で長年ツシマヤマネコの飼育を担当してきた高田伸一さんのお話です。

 ヤマネコは、家ネコに外見はにているが、まったく別物で、小型のトラである。アジアでは、”前門のトラ、後門のオオカミ”と恐れられているが、トラやオオカミやヤマネコは、その森の頂点に君臨する生物であり、かつ彼らは、その森の豊かな生物多様性の上でのみ、その種を存続することを許されている。

 森が疲弊すれば、彼らはその子孫を残すことはできない、そのために、彼らは森を豊かにし、生物多様性を維持することが、彼等にとっての至上命令なのである。たとえば、アジアに8種類いたトラの亜種は、現在、アムールトラ、スマトラトラ、インドシナトラ、ベンガルトラの4種で、森林の減少によって、いずれも絶滅危惧種である。

 
 『 日本には二種類のヤマネコが生息している。イリオモテヤマネコとツシマヤマネコである。いずれも国の天然記念物である。このうち、沖縄のイリオモテヤマネコの場合は百頭前後と、数はほぼ増減ない。

 これに対して、長崎のツシマヤマネコは年を追うごとに頭数が減少している。1960年代には三百頭いたと言われている、ところが90年頃には百頭前後にまで激減した。90年代後半には七十頭程度までに落ち込んでしまった。

 こうした経過から、ツシマヤマネコは国が指定する「絶滅危惧1A類」という、もっとも絶滅のおそれの高い野生動物にもなっている。環境省も、その対策に乗り出した。ツシマヤマネコを人工的に繁殖させて頭数を回復させたうえで、再び自然に帰す。そんな大がかりな計画が、こうして始まったのである。

 いずれにしても、きちんと飼育ができることが前提なわけである。ところが、絶滅が危惧される希少種であるツシマヤマネコを飼育するのは先例のないことだった。どこの施設にツシマヤマネコの飼育と繁殖を担当させるのが相応しいか――。その白羽の矢が立ったのが、この福岡市動物園だった。

 高田さんはツシマヤマネコの担当になる以前はトラを担当していた。当時の動物園には、ひきこもりのトラがいた。「国内の他の動物園から来たメスのアムールトラです。ここに来てから一度も寝室から出たことがありませんでした。そこで、これを運動場に出してやろうと考えたんです」と高田さんは言う。

 寝室と運動場の間にはキーパー通路と呼ばれているトラの通り道がある。トラはこのトンネル状の長い空間を通ることで、運動場の前でトラを見ようとする観客たちの前に姿を現す。高田さんが考えたのはキーパー通路の上部にある鉄の檻をバーナーで切ってしまうというものである。

 さらにこの部分からトラが好物の肉を落としてゆく。エサも特別なものに変えることにした。カンガルー肉や鶏頭、牛の肝臓、しかもこれらの落とす位置を日を追うごとに運動場に近い側に少しずつ移動させていった。

 「すると、あれほど運動場に出るのを嫌がっていたトラが運動場に出てきました。これにかかった期間は1ヵ月ほどでしたねえ」高田さんにとって、こうした動物を担当するのは、この時が初めてではなかった。

 動物園で産まれて以来、十六年間も寝室から出たことのないカバがいた。「当時の園長から『運動場に出せるか?』と聞かれました。それで『時間さえくれれば出すよ』と答えました」と高田さんは言う。

 この時は、なんと一週間でカバを運動場に出すことに成功したという。「この場合もエサを有効に使いました。動物園で飼育する動物というのは家庭のペットのようにスキンシップは有効ではないんです。エサをうまく利用するのがコツです」 』


 『 イエネコもヤマネコも体の大きさは変わらない。ただし、ヤマネコは野生種であるためなのだろう、季節によって体重に変化がある。ツシマヤマネコの成獣はオスの場合、体重が増える初冬に4500グラムから5000グラムである。反対に四月ごろには3500グラムにまで落ちる。メスはオスに比べて、やや小ぶりである。

 さらに、ヤマネコとイエネコでは大きく異なっている点がある。動物が成獣になるまでの期間を「生成熟」という。イエネコの生成熟は九ヵ月なのだが、ヤマネコは成獣になるまでに十八ヵ月もかかる。つまり、ヤマネコは大人になるまでにイエネコの倍の期間を要するのである。

 次のように考えるとわかりやすのではないか、と高田さんは語る。「ネコとトラは、いずれもネコ科に属する動物です。このうち野生種の大型ネコがトラです。これに対して、野生の小型ネコがヤマネコというわけです」

 世界に目を移せば、ヤマネコの仲間は広くアジア地域に生息している。インドから中国にかけて棲むベンガルヤマネコがいる。またシベリアのオホーツク海沿岸から朝鮮半島にかけてはアムールヤマネコの存在が知られている。これらはトラの生息地域とも重なっている。つまり、ヤマネコは小型のトラと言い替えることもできるのだ。

 日本国内に棲むツシマヤマネコもイリオモテヤマネコも、ともにシベリア産のアムールヤマネコの系統に属する。つまり、ツシマヤマネコの祖先は北方から下りてきたものだと推測されている。その証左に台湾にもアムールヤマネコが生息する。

 玄海灘の沖に位置する長崎県の対馬が中国大陸から分かれたのは十万年前、沖縄の西表島の場合二十万年前と推定されている。ツシマヤマネコとイリオモテヤマネコというのは、これらの島が独立した時期に大陸から離れて、そのまま島に残った種であると考えられている。 』


 『 ツシマヤマネコの人口繁殖プロジェクトの話が持ちあがった当時、福岡市動物園には二十人の飼育係がいた。そのなかから高田さんがツシマヤマネコの担当に選ばれた理由は、ひきこもりアムールトラの一件があったからである。だが高田さんは言う。「この話が最初に園長からあった時は、最初は断りを言いました」

 それというのも、ひきこもりだったアムールトラには、そのために番(つがい)となる相手がイギリスから新たに連れてこられていた。ペアリングもすでに済んでいて、翌年には子どもが産まれる運びになっていた。ここまできたら、できれば最終的に繁殖まで見届けたいと考えるのが人情である。

 しかも、希少種であるツシマヤマネコの飼育担当は、むろん、たいへんな重責となる。そのプレッシャーとも闘わねばならない。そんな困難な仕事になることは、当初から目に見えていた。それというのもヤマネコを人工飼育によって繁殖させるという試みは、それまで前例がないことだったからである。高田さんが調べた限りでは、ヤマネコを計画的に繁殖させた事例というのは世界的にも報告がなかった。

 繁殖はおろか、ヤマネコを飼育することさえも他に参考にできるデータがない。野生種のヤマネコを動物園で飼育をきちんと試みるのは、これが国内では初めてのケースである。まったくゼロのところから手探りの状態でスタートしなければならないのである。

 園長と話し合いを重ねるうちに、ヤマネコの飼育方法について「自分が思う方法で自由にやってくれたらよい」とまでいわれた。このため、ついに断る術もなくなって首を縦に振ることになった。 』


 『 ツシマヤマネコの受け入れと飼育担当が決まった園内には、やがて新しい獣舎も建設されることになった。そのための獣舎は五つ用意された。ネコ科の成獣は群れをなさずに個体ごとに生活する。子育てについても番ではなく、メスのみでおこなう。この点トラもまったく同じである。ヤマネコのオスは、それぞれ自分の縄張りの中で行動している。

 縄張りの広さは生息する地域のエサの量によって決まってくる。オスの縄張りの中に数頭のメスがいる。自分の糞尿などによって、それぞれの縄張りを確認し合う。いわゆるマーキングである。この点も野生のトラと同じである。

 動物園に獣舎が完成したのは九四年秋である。ところが、肝心のツシマヤマネコが、いくら待てどもやって来なかった。すでに現地の対馬では、ツシマヤマネコの捕獲する作業が始まっていた。これが容易に奏功しなかたのである。野生のヤマネコを生きたまま、まったく傷つけることなしに捕獲することは、当初に考えられていたよりも、ずっと至難のことだった。

 一頭目のツシマヤマネコ「№1」が福岡市動物園に到着したのは、獣舎の完成から二年近くたった九六年の五月である。生まれて二ヵ月ほどであろうと思われる一頭のツシマヤマネコのオスがたまたま鹿の防護ネットに引っかかっていた。これをヤマネコ会のメンバーが発見して保護した。メンバーによってカゴに入れられた状態で飛行機で福岡まで運ばれてきた。

 「ネコというものは同じものが三日続くとエサを食べる量が落ちるんです。このため、いろいろなエサを与えることに気を遣いました」意図的に、さまざまなものを与えることにした、と高田さんは説明する。

 馬肉、カンガルー肉、鶏頭、ブロイラーの腿、牛の肝臓……。さらにはヒヨコやマウス、さらには鰺などの魚類、夏場にはコオロギといった昆虫も含めるようにした。ネコ科の動物は肉食である。高田さんは、これらのエサを使って一週間のローテーションを組んだ。

 しかも、生まれてくる子は、いずれ自然に戻すことになる。このことを考えれば、できるだけ自然に近い状態で与えた方がよい。こうした理由から、ヒヨコやマウスは可能な限り生きたまま与えることにした。

 ヤマネコを森に戻すのは子の世代以降である。だが、かりにその親であっても不必要に人間に慣れさせることは慎むべきと考えられた。そうでないと野生種としての感覚が失われてしまう可能性がある。このため、動物園ではヤマネコをできるだけ自然状態に近い環境で生活できるように配慮がなされた。

 このため、飼育を担当している人間であっても、ヤマネコと直に接触することを避けることにした。ヤマネコの様子を観察するにしても、直接することはしない。離れた場所にあるモニター室からカメラによる映像を通じてヤマネコの様子を知る。掃除などを除くと、人間はヤマネコの寝床に足を踏み入れることもない。

 用意されたヤマネコの住まいは部屋一つの奥行きが6mある。横幅は4mほどである。これが運動場で、ここにはツシマヤマネコができるだけ自然の環境で生活できるように木や草も植えてある。この運動場に隣接して寝室も設けられている。こちらは奥行きが2.5m、横幅は1.8mの広さがある。このコンクリート造りの部屋の床の上に70センチほどの高さの台を置いて、この上に巣箱を置くようにした。

 巣箱があるのは寝室のもっとも奥の場所である。その手前に仕切版がある。エサが置かれるのは前室と呼ばれる手前の空間で、巣箱から運動場に出るためには前室を通って行くことになる。ツシマヤマネコのための巣箱を用意するというアイデアは高田さんが発案したものを工務部の担当者に依頼して、準備してもらった。

 巣箱の中には豆電球とモニターカメラが入っている。これによって人が直接覗かなくても内部の様子を知ることができる。モニターカメラは寝室と運動場にも設置されている。部屋一つに対して三台のカメラが用意されている。しかも運動場のモニターカメラは交尾の様子も、しっかり確認できるように広角とズームの切り替えもできるタイプが用意された。

 「トラのような大型ネコとは違って、ヤマネコのような小型ネコというのは人間の気配を感じただけで交尾を止めてしまうんです」この時、高田さんがおこなおうとしていたのは、たんなる飼育ではない。繁殖のための飼育である。しかも、動物園で繁殖させた動物を再び自然に戻すことを前提にした飼育なのである。そのためには、交尾したことを確認するという作業がどうしてもかかせない。

 飼育の担当者がヤマネコの世話はしても、ヤマネコの姿を直に見ることはしない、それは、ヤマネコに向かって呼びかけたり、その体に触れて可愛がったりというのとも、むろんしない。

 飼育中のヤマネコに名前をつけることも、あえて意識的におこなっていない。個体は通し番号のみで区別している。「ヤマネコと接触することは一切せず、その生育を陰からじっと静かに見守る。これが繁殖と自然に戻すことを前提とした飼育を担当する者としての正しい姿勢なんです」と高田さんは語る。

 だが、ヤマネコと接触しないことで、ひとつ困ったことがあった。ヤマネコの健康状態について知るためには、日々の体重を記録することが欠かせない。だが通常のように人が持って体重計で計ることは避けねばならない。

 その解決法には大がかりな仕掛けが必要になった。体重を計測するための機器を前室の床に設置したのである。つまりヤマネコが床の上に置かれたエサを食べている時には、決まった位置にいることになる。その際に体重を計れるようにした。計測した数値からエサの重さを引くことでヤマネコの体重が判明する。

 飼育を始めた時期に、もっとも苦労したのがエサの量だったと高田さんは言う。前例がないために、もっとも大事なエサの量も試行錯誤しながら自分で決めていくことになる。併せて、えさの与え方についても自分で考案した。

 ネコ科の動物を飼育する際には通常であれば週に一度の欠食日を設けることになっている。欠食日があることで一回あたりに食べる量が多くなる。これによって胃も大きくなるから、欠食日を設けると同じ量を毎日規則正しく食べさせるよりも結果的に多くのエサを食べるようになる。

 高田さんが考えたのは、ヤマネコの欠食日を週二日にするというものであった。「これによって、よりハングリーな状態におくことができるのではないか、と考えたんです」だが、欠食日を二日にすることで見極めが難しくなってくるのが、一回に与えるエサの量である。

 「ヤマネコに毎回少しずつ違った量にエサを与えていきます。ヤマネコがエサの食べている最中はモニター室の画面を見ていて次の量を決めます」ヤマネコの糞についての観察も怠らない。さらには、エサの残す量についても記録をとりながら、毎回のエサの量を決めていくというやり方である。 』


 『 捕獲作戦が功を奏して、ようやく野生のツシマヤマネコが対馬から続々と送られてきた。ところが困ったことがあった。№2から№5までは、ことごとくオスのネコだったのである。しかし、肝心のメスが対馬からやって来ないのである。待望のメスがやって来たのは、さらに2年が経過した97年12月のことであった。これが№6である。

 №6は年齢のいった成獣であった。これは歯の摩耗具合からの推測でわかる。カップリングは年齢が近いネコ同士の方がうまくいくことが多い。そこで高田さんは、この№6を№5とくっ付けることを考えた。「このは№5は交尾しようとするのだが、どういう理由からか、メスの首筋ではなく頭の上の部分に食い付く、この姿勢で前へ前へいこうとするために、どうしても挿入にいたらなかった」

 翌98年になって、№8というメスネコが入ってきた。№8は一歳くらいと思われた。そこで、この若いメスネコにくっ付ける相手の候補として高田さんが考えたのが、一番最初に幼獣で入ってきていたオスの№1だった。だがこれもうまくいかなかった。

 なにしろ生まれて二ヵ月で動物園にやって来たわけで、どうやら自分がネコであることが理解できないようだった。ネコというのはふつうは同じネコ同士ですれ違う際に、互い間隔をとりながら横を通り抜ける。「ところが、この№1は相手の頭の上を飛び越えようとするんです」こうして、№8と№1という二頭の組み合わせは早々に断念せざるを得なかった。

 こうした試行錯誤を積み重ねるうちに、どうやらメス№8にはオスの№3とくっ付ける方がうまくいきそうだという予感めいたものを感じた、この組み合わせが福岡市動物園での最初の子を誕生させた。

 こうして、このプロジェクトが始まって、高田さんのもとで誕生したツシマヤマネコの子は十数頭を数えている、ツシマヤマネコの第一世代のなかには、対馬にある野生保護センターに送られたものもいる。 』


 私(ブログの作成者)は、ヤマネコが同じエサを食べない(生態系のバランスを守るため)、週2回の欠食日(必要最小限の捕食とエサを無駄にしない)という二つの事に注目した、私は森の頂点捕食者は、森の繁栄にその生命は繫がっていると考える。

 このため、アムールトラは、アカシカ、イノシシ、ノロジカ、ニホンジカの群れのより健全な状態になるように、森を守る小鳥たちのバランスと結果的には、森を成熟させることによって、アムールトラは種族を繁栄させてきた。

 アムールトラと言えども子育てに時期に森が豊かなエサを供給しなければ、子孫を残すことはできない。ヤマネコやトラは、子育てに、1年6ヵ月から3年以上にも渡って、母親から付き切りで、様々なことを学習しなければ、真のイリオモテヤマネコや真のアムールトラには、なれないのではないだろうか。(第59回)