74. たぬきの冬 (石城謙吉著 1981年3月発行)
著者は1934年長野県諏訪市に生まれる。北海道大学農学部で動物生態学を専攻、高校教師を経て、1964年より北海道大学大学院にてイワナ属魚類を研究、1969年博士課程修了後、北海道大学農学部教授、苫小牧演習林長を経て、現在名誉教授。
著者の本はどれも、現在ほぼ絶版で、古書か図書館で読むことになりますが、本書は物語として読んでも、生物学の学術書として読んでも、北海道の生物研究書として読んでも、自伝として読んでも、老若男女が読んでも、とにかく、著者の豊かな経験と生物学への情熱が心地よくよく著書の学問の世界へいざなってくれます。
学術的に深いテーマをあつかっていながら、著者の熟成された文章は、モーツァルトの音楽のように心地よいにもかかわらず、深い学問的知識に裏打ちされいて、読者に勇気と研究とは何かを教えてくれる。では私といっしょに、北海道の野生生物の世界を散歩しましょう。
『 もうずっと以前の話であるが、北海道の東端に近い根釧原野の奥に一軒の開拓農家があった。隣の農家とは川を隔てて数百メートルも離れた一軒家である。家族は夫婦と、長女を頭にした六人の子供たちであった。それに気立てはいいが四本あるべき乳頭が三つしかなく、おまけに毎年雄の子ばかりを産む雌牛と数羽のニワトリがいた。
小さな家の内壁には隙間風を防ぐために新聞紙が一面に貼られ、子供たちが一緒になって寝る部屋の床にはムギワラが敷かれていた。むろんのこと、電気はまだきておらず、夜の明かりはランプの灯であった。
しかし、その昔は甲子園で鳴らしたという優しい父親と、保健婦として開拓地の健康指導をしていた母親のもとで、子供たちはみないきいきとして元気だった。
夜になると、毎晩のように子供たちは、両親の前で一人ずつ学校で覚えてきた唱歌をうたい、小さな一軒家の中はまるで学芸会のように賑やかであった。
そんなある日、外から帰ってきた母親が夜おそく一人で風呂にはいっていた。風呂といっても野天風呂である。しかし、そこは誰に遠慮もいらぬ一軒家であった。ちょうど真夏の頃で、近くの茂みではしきりとヨタカが鳴いていた。
ところがそのとき、五右衛門風呂に浸っていた母親のすぐ目の前を、一匹のキツネが通り過ぎた。しかも驚いた母親が首をのばしてみると、なんとキツネは、わが家の大切なメンドリを一羽くわえていたのだ。わずかのメンドリたちが産む卵は、貧しい開拓農家の子供たちの健康を支える貴重な栄養源であった。
怒り心頭に発した母親は、いきなり大声で叫ぶと、風呂釜を飛び出して裸のままキツネを追いかけた。だが、キツネの方も心得ていた。メンドリを離そうともせず、これをくわえたままたちまち裏山の方に走り去ってしまった。
しかし、気丈な母親は諦めなった。キツネのあとを追って、素っ裸で裸足のまま裏山をかけ上がっていったのだ。そして息をきらしながら裏山の頂上に辿りついた母親は、そこでニワトリを下ろして一息入れていたキツネに追いついた。
まさかと思っていたところにいきなり全課の女に襲いかかられて、さすがのキツネのこれはかなりあわてたらしい。ニワトリをそこに残したまま、藪の中に逃げこんでしまった。こうして母親は殺されたメンドリをキツネから取り戻し、これを手に下げて裏山を下りていった。とてもよい月夜だったそうである。
その次の晩、暗いランプの下の食卓では、母親がキツネから取り返してきたニワトリの肉を、六人の子供たちが分けあって食べたのであった。今からもう三十年も昔のことである。
こうして原野の中で両親に護られて育った子供たちはそれぞれに成人し、今はみな社会人である。そして母親と同じ保健婦の道を選んだ長女は、一人の動物学者の妻となっていま、演習林に住んでいる。ここも山の中である。そして庭先には、夜になると、しょっちゅうキツネがやってくる。
しかし今は四人の子供たちの母であるその長女は、裸でキツネを追いかけたりはしない。子供たちと一緒になって、食事の残り物や肉片などをそっと投げてやっている。なかには私たちの家族にすっかり馴れ、私の口から餌を受け取って食べるキツネもでてきたりする。
三十年の年月は、なんといろいろなことを変えたことだろう。人間とキツネが真剣になって食物を張りあっていた時代は遠い過去のものとなり、キツネたちは私たちの愛すべき隣人となった。人間社会が変わり、またキツネの生活様式も変わったのである。 』
『 その夜、高村爺さんの話は大いにはずんでいた。演習林に着任してまだ間もないある晩のことで、私は土地の動物に関するいろいろな話を聞くために、猟師の高村爺さんのもとを訪れていたのである。私は爺さんにあれこれと質問し、相づちをうち、また、ときにはメモなどもとる。
「ところで、この辺にタヌキはいませんか」すると爺さんは答えた。「タヌキ? それはおらんな。……しかしムジナというものはだな……」そこで、すぐさま私は内心でこう思った。ハハァ、ムジナはいないがタヌキはいるのだな。タヌキとムジナこれはちょっと話がこみいっている。
そもそも,民話や童話に出てくるタヌキの名前を知らぬ日本人はいないが、しかしこのタヌキにはもうひとつ、”ムジナ”という俗称がついている。ところが日本には、このタヌキのほかにアナグマという、大きさや形態がちょっとタヌキに似た動物がいて、これも同じく”ムジナ”と呼ばれていることが多いのである。
この両者は大きさや形だけでなく、すみ場所や習性にも多少共通したところがあり、おまけに、ときに同じ穴に同居することもある、と書いた本もあったりする。まさに”同じ穴のムジナ”であるが、分類上はタヌキはイヌ科、アナグマはイタチ科に属しており、それほどちかい仲とはいえない。
厄介なことに、この両者は土地によってタヌキの方がムジナと呼ばれたり、逆にアナグマの方がムジナと呼ばれていたりしていて、しばしば混乱のタネになるのである。
北海道にいるのはタヌキの方だけで、アナグマはいないのであるが、北海道では一般にこのタヌキをムジナと呼んでいるため、爺さんに言わせれば北海道にはタヌキはいないがムジナはいる、という話になり、一方、本州の長野県などではアナグマの方をムジナと呼ぶ慣わしなので、信州生まれの私の感覚からすれば、北海道にはムジナはいないがタヌキはいる、ということになってしまうのだ。
動物学者がつけた北海道のタヌキの正式の名前はエゾタヌキである。これに対して、本州や四国のタヌキはホンドタヌキである。北海道のタヌキと本州のタヌキとは亜種が違うとさせているわけである。亜種とは、種を異にするほどの違いはないが差異は明らかに認められる、といった生物群同士を種以下のレベルで区分するために設けられた単位である。
ここでエゾタヌキとホンドタヌキの相違点としてあげられるのは、エゾタヌキの方が体が大きいこと、毛深いこと、全体の色彩が淡く、またホンドタヌキに見られる胸から肩にかけての黒褐色帯がエゾタヌキでは肩から下で消えていることなどである。
だが、ここで生物の分類というものについてふりかえって考えてみることにしたい。このようなわずかな、そして連続的に変異する形質上の差異をとり上げて生物界を種以下の単位にまで細分することに、はたして意味があるのかどうか。生物を分類する上でのもっとも基本的で重要な単位は種である。
系統分類の諸段階に設けられた分類単位のなかで、この種だけが、人間が分類の便宜のために設けたものでなしに、互いに他から独立した、統一的なまとまりとして自然界に実在する単位であることが近年ますます明らかにされてきている。地球上の生命は、この種という単位を基盤として存続し、また発展してきたのである。
しかし一方では、種は固定的なものでもなければ、また画一的なものでもない。現在地球上には数百万という種類の生物が記録されているが、それらはみな形が違っているだけでなく、それぞれ固有のすみ場所や生活様式を持っている。
ところが、この数多くの種のおそらくどれひとつをとっても、定まった生活の枠の中におとなしくおさまっているものはない。あらゆる生物は、たえず新しい環境に向かってすみ場所を拡げ、そこでの生存のための戦いの過程を通じて自分自身を変革してゆく性質を持っているのである。
生物の世界には、多数の生物が集まって生物群集(共同体)を構成し、その機能によって全体としての物質やエネルギーの流れを調節し、それを安定に保とうとする側面のあるのも事実であるが、一面では地球上の膨大な種類の生物は、たがいにぶつかり合い、せめぎあってひしめいていると言ってもいい。
だから生物の世界では、同じ種類の中にも南に進出するものもあれば北に押し出そうとするものもあり、また森林に入り込もうとするものもあれば草原で頑張ろうとするものもある、といったことがたえず起こっているのだ。
そして、こうした異なった環境への適応の結果として、同じ種内でも形態や生活様式を少しずつ異にするものが現れてくる。こうして生物の種は、多様な変異型を持つことによって多面的な発展の可能性を拡げ、同時に単一の要因で種全体が滅びたりすることを防ぐことができるのである。
このたえず多様な変異を生み出す力、すなわち変異性こそは、種のもっとも基本的な属性のひとつであり、長い歴史を通して種の存続の原動力をなしてきたものといっていい。
さて、ここでタヌキの話に戻るとして、北海道のタヌキと本州のタヌキの関係であるが、この両者は飼育条件下ではいとも簡単に交配し、しかもその結果生まれた子供には正常な繁殖能力のあることも知られている。だから両者の間には、さきにいったような隔離機構はないわけで、彼らは同じ穴のムジナ、つまり同種内の仲間と見て間違いない。
北海道のタヌキも、関東のタヌキも、阿波のタヌキも、熊本の仙波山のタヌキも、同じタヌキ一家の身内なのだと言った方が、日本列島におけるタヌキ一族の健闘ぶりがよりいきいきと浮かび上がってくるのではないか。
日本は動物地理学の上では、ヨーロッパからアジアにまたがる旧北区にぞくしている。しかし北海道の哺乳動物には、沿海州・樺太経由で南下してきた旧北区中のシベリア亜区系の種類と、本州から北上してきた満州亜区系の種類が混ざっていて、タヌキは実は本州からの北上組である。
北海道のタヌキの先祖はおそらく、東北あたりの山里から身を起こし、北国を目指して漫遊したあげくに、かって津軽海峡にあった陸橋を経て北海道へと乗りこんできたものに違いない。北海道の哺乳動物相では、どちらかというとシベリア亜区系の動物が主流をなしていることを考えると、これは寒さ厳しい北海道の動物界に、本州から果敢にも殴り込みをかけてきた、タヌキ一族のパイオニアと言ってよいのかも知れない。
では、本州から北海道に乗りこんできたタヌキは、この厳寒と多雪の大地のなかで、その環境にどのように適用してきたのか。ところが、どうもここで話の腰がくだけそうなのだ。というのは、ひとつにはタヌキ、特に北海道のタヌキの生態に関する資料が非常に少ないことと、もう一つは、私のこれまでに見たところでは、実はどう見てもあまりよく適応していないようなふしが多いのである。
正直のところ、私が北海道の冬のタヌキの生態を少しずつ接するようになってまず感じたのは、これはいったいなんという駄目な連中であろうか、ということだった。実際、これでも野生動物といえるかと思うほどに、彼らの形態や行動能力は深い積雪地帯での生活には向いていないように見える。
北海道の哺乳動物の多くは、冬になると四肢の足の裏側がフェルト状の厚い毛で包まれ、そのうえさらに、四肢が雪のなかに沈まぬように指が雪上で大きく拡がるようになっている。ところが、タヌキはどうか。彼らの足裏の肉球は丸出しの裸で、それに足指もほとんど開かない。
そのために彼らの足は深い雪の中にすぐにはまりこんでしまうのだ。キツネやクロテンなど、シベリア亜区系の動物の足を、防寒靴をはいたうえにカンジキをつけているのにたとえれば、タヌキはさしずめ裸足でつぼ足というところである。
おまけに脚が短いため、足が沈むとすぐに腹が雪につかえることになり、体全体でラッセルしてあるかなければならない。加えて、走力、跳躍力の貧弱さである。なにしろ春先の堅雪の上でさえ、ムジナを見つけたら軍手をはめながら大急ぎで走って行ってつかめばよい、などと言われるありさまなのだ。まして深雪の中ではおして知るべしである。
哀しいことに、人間の乱獲と自然破壊によって、近年北海道のタヌキの数はいちじるしく減ってしまい、すでに絶滅した地方も多いようである。私たちはこのどこか不器用な、しかし勇敢にも北国の豪雪地帯に挑みつつある動物を、心ない絶滅から守り、北海道の大自然への適応の過程を暖かく見守ってやりたいものである。 』
『 カッコウは分布の広い鳥である。彼らの分布域は日本列島の全土はもとより、ユーラシア大陸のほとんどすべての地域におよんでいる。そして、そのあらゆる土地で、彼らの名前はその歌声に由来してつけられている。日本ではカッコウ、イギリスではクックウ、ロシアではククーシカ、ドイツではクックック、そしてラテン語ではククルスである。
このことは、この鳥の歌声がいかに人々に強烈な印象を与えるものであるかを物語っている。日本列島の山野に、彼らの輝かしい歌声が初めてこだまするのは五月である。しかし、その初鳴日は土地によって異なっていて、南では早く、北になるほど遅くなっている。
五月初旬、九州地方での第一声を皮切りに、その喜びの歌声は、ちょうど桜前線が北上するように北へ北へとひろがってゆき、五月下旬に北海道の山野にその歌声がこだましたとき、日本列島は彼らの歌声に満ち満ちていることになる。これは彼らが南からの渡り鳥だからである。
前年の秋に日本を去っていったカッコウは、東南アジアの各地で冬を過ごし、春になるとふたたび日本の山野に戻ってくるのだ。ところで、渡り鳥の不思議さは、このように遠くから渡ってくる鳥ほど、その渡来日が正確に一定していることである。
北海道の渡り鳥をみても、本州などからやってくる鳥たちの渡来日は、年によってかなりの変動があり、それはその年の気象条件に影響されているように思われる。しかし遠距離を渡ってくる鳥では、一般に渡来日の誤差は驚くほど少ない。それは本格的な渡りになればなるほど、気象以外の、より安定した季節要素である日照時間の変化とか天体の運行などに、その動きが支配されるためと思われる。
ともあれ、人々はカッコウのやってくるころになると、今日か明日かとその声を待ちわび、そして、期待は三日と裏切られることがない。私のいる北大苫小牧演習林では、昭和五十一年の初鳴きは五月二十一日、五十二年は二十三日、五十三年は二十一日、そして五十四年は二十二日である。
雪深い三月の小川の畔りで、ミソサザイの囀りに始まった鳥たちの春は、このカッコウのによって、その日、最高潮に達したのである。そして私たちは、この北国につかの間の夏がきたことを知る。
ところで、カッコウの初音を聞き、新緑の季節の到来に心を弾ませる人々のなかに、これと前後して、姿形がカッコウとそっくりといってよいほどよく似た、もう一つの鳥が渡ってきていることを知る人は意外と少ないのではあるまいか。
ちょうどカッコウの声が新緑にこだましはじめるころ、森の奥からポポ、ポポポ、ポポという、一種静かな鳴き声が聞こえてくる。ツツドリの声である。カッコウの声と共通するのは、単純な調べの、単調なくり返しである。しかしカッコウの歌声の明るい輝きにくらべ、こちらはどこか孤独な隠者の趣きを帯びている。
初夏の山野であれほどよく声を聞く鳥でありながら、カッコウはあまり人目につかない鳥なのである。それはカッコウが、その明るい歌声とは裏腹に、じつは警戒心が強く、その動作がひそやかで素早い鳥だからであろう。
彼らは流れる影のように音もなく飛びまわり、くつろいだ姿を人目に曝すことの少ない鳥なのである。茂みから茂みへと、通り魔のように走るその姿には、人目を忍ぶ暗さすら感じられる。カッコウの、この世間的イメージとは意外にもかけ離れた孤独で翳のある姿は、彼らの特殊で不可思議な托卵習性と無関係ではないと思われる。
日本に棲む四種のホトトギス科の鳥たち、カッコウ、ツツドリ、ジュウイチ、ホトトギスは、いずれも自分では子供を育てることをしない。彼らは巣を造らず、雌はその卵を他の小鳥たちの巣に産みこむのである。
あかの他人の巣に産みこまれた卵からかえったこれらのヒナは、その巣のもとの子である卵やヒナを巣外に押し出し、仮親の愛育を一身に独占して育ってゆく。この乳兄弟殺しの宿命を背負ったヒナにとって、産みの親は永遠のまぼろしである。
世間でよく、子育ての義務を放棄する無責任な人間の親を、まるでカッコウかホトトギスのような、などといったりするのは、彼らのこの習性に因んでいる。現在、世界中にホトトギス科の鳥には一三〇種ちかい種類が記載されているが、そのうち約五〇種がこの托卵習性をもつことが知られている。
もっとも、この特異な習性は、鳥の世界ではかならずしもホトトギス科だけのものではなく、ムクドリモドキ科やミツオシエ科の鳥、さらにはカモの仲間などにもこうした鳥がいて、三十数種があげられている。しかしこの托卵の習性がグル―プの特徴としてもっともきわだっているのは、なんといってもホトトギス科である。
また、これらホトトギス科の鳥の托卵対象になる鳥は、ウグイス科、モズ科、ヒタキ科、ヒバリ科、ホオジロ科などかなり広い範囲にわたっているが、その多くは食虫性のホトトギス科の鳥よりも小さいことりである。それにしても、この托卵習性は、彼らホトトギス科の鳥の、過去のどんな事情に由来するのだろうか。
なにしろ、彼らはこの習性を確立するために、進化の過程で大変な作業をしなければならなっかったのだ。第一にまず、仮親をごまかすための装いである。仮親の役を務めさせられる鳥たちにとって、カッコウやツツドリはある意味では捕食者以上の害敵である。
容易にどしどしと卵を巣に産みこまれては、たまったものではない。当然、彼らはホトトギス科の鳥たちが自分の巣に近づくのを嫌い、激しくこれを追い払おうとする。そこでカッコウやツツドリたちには、一時的にせよ、この仮親たちを驚かせて追い払ったり、仮親の同族に化けたりする衣装 が必要になってくる。つまり擬態である。
鳥類学者は早くから、ホトトギス科のあるものが、不思議なほど猛禽類に似た姿をしていることに気づいていた。羽毛のいろだけでなく、その飛び方まで、一見似ているのである。これは一種の攻撃的擬態とみなされている。タカの襲撃と錯覚した仮親が逃げ出したすきに、その巣に卵を産みこもうとするものである。
また外国産のホトトギス科の鳥のなかには、たとえばスズメ目オウチュウ科のオウチュウに托卵するオウチュウカッコウのように、托卵する相手の鳥に驚くほどよく似た形態を完成させているものもいる。これは同族に化けて近づくための擬態である。
そのほか、ホトトギス科の中には、ヒナが仮親のヒナと共存して育つものもあって、そのような場合には、今度はヒナの姿が仮親のヒナに酷似している。さらに彼らは、この托卵による繁殖を成功させるためには、形態だけでなく産卵習性までいちじるしく特殊化させる必要があった。
ふつう、鳥は整理の進行にあわせて営巣や交尾を行い、やがて巣が完成するとこれに一日一個ずつ卵を産んでゆく。そして全卵を生み終ってから抱卵をはじめる。ところが自分で巣を造らないカッコウの場合は、産卵行動を托卵する相手の鳥たちのスケジュールに合わせなければならないのである。これはなんと大変なことだろうか。
カッコウやツツドリの雌は、ホーム・レンジ(行動圏)内の小鳥の巣を探し歩き、小鳥たちが巣を完成して卵を産みはじめてから産み終るまでの間に、つまり抱卵がはじまる前に、自分の卵を産みこまなくてはならないのだ。
小鳥たちが抱卵をはじめてから産みこんだのでは、自分の産みこんだ卵の孵化が、巣のもともとの卵の孵化よりも遅れることになり、そうなると先に孵化したヒナたちに体力がついてしまうため、カッコウのヒナは彼らを押し出して巣を独占することができなくなってしまうからである。
彼らの卵はその体の割にかなり小型である。そして実は、これが大切なのだ。というのも、鳥は一般に、小さな卵より大きめの卵を大切にする傾向をもっている。だから、大体同じだがやや大きい、ということが托卵のためにはもっとも有利なのだ。
ところで、鳥の卵は種類ごとに固有の色彩と斑紋をもっている。カッコウはこの問題をどう対処しているのか。驚くべきことに、彼らは地域ごとにもっとも主要な托卵相手の卵によく似た斑紋の卵を産んでいる。ともかく同じカッコウが、托卵のために何種類もの斑紋を用意しているのである。
さて次に、こうして小鳥の巣に産みこまれた卵は、仮親の卵と一緒に温められて孵化することになる。抱卵がはじまる前に産みこまれるカッコウの卵は、胚発生のスタートが仮親自身の卵と一緒のはずである。だが一般に、大型の鳥の卵は孵化に要する日数が多くかかり、そしてカッコウの卵は仮親の小鳥の卵よりも大型である。
するとカッコウのヒナが卵からかえったときには仮親のヒナたちはすでに何日か前に孵化して体力をつけているのではないか。それでは困るのである。なにしろカッコウのヒナは、孵化すると同時に、仮親の実子たちを巣の外にほうり出すという荒仕事をやり遂げねばならないのだから。
ところが実際は、カッコウの卵は大型であるにもかかわらず、小さな仮親の卵よりも早く孵化するのである。驚くべきことに、この時期のカッコウのヒナには自分の体にふれるものは片端から背中に乗せて巣の外に押し出してしまう習性があり、おまけにその背中には、丸い卵を乗せるのに都合のよい凹みまでついている。
ホトトギス科の鳥はこうした徹底した托卵習性に関して、私はつねづね疑問に思い続けていることがある。それは彼らの世界における社会関係の形成の問題である。高等な脊椎動物の場合、社会関係を結ぶ同種個体の認識はかならずしも先天的なものではなく、多くは成長の初期のあるかぎられた時期に、保育者の姿が心理的に刷りこまれるのである。鳥類の場合、その刷りこみは巣立ち前後に行われると思われている。
とすれば、カッコウのヒナは、仮親のモズやオオヨシキリを刷りこんでしまわないのか。しかもこの刷りこみは不可逆的性質が強いとされているのだ。つまり刷りなおしは一般にむずかしいのである。もしも社会生活の対象として自分と異種の仮親の種族を刷りこんでしまうとなると、種族保存に不可欠な彼らの同族間の個体関係はどうして結ばれるのだろうか。
そこで私は、自分が育てた一羽のカッコウのヒナ鳥のことを思い出さないではいられない。私の部屋に街の人が見つけた一羽のカッコウのヒナが持ちこまれたのは、ある初夏の日のことだった。ヒナは衰弱していたが、こういうことには、私は慣れている。私は彼を手もとにおき、独立するまで養ってやることにした。
養いはじめてみての私の驚きは、このカッコウのヒナの、あまりの愛らしさであった。ふつう鳥の親が保育行動を触発せれるためのヒナ鳥からの刺激は、ヒナ鳥のもつ丸い体型、大きくあけられた口、その中の鮮やかな色彩、それにか細い鳴き声とうずくまって翼をふるわせる甘えの姿態などである。
そして、このカッコウのヒナほどこうしたヒナ鳥の武器を豊かにそなえたものを、私ははじめて見る思いであった。それは人間である私でさえ、護ってやらなければいられない気になるほどに、頼りなくいたいけな姿だったのだ。このカッコウのヒナの場合、その特徴は、ひたすら養い親に慕い寄り、愛らしさにすべてを動員して餌をねだることであった。
ただ、どういうのもか、このヒナは甘えて餌をねだる以外このとはほとんど何もしない鳥であった。ところが、やがて彼らが順調に育ち、自由にあたりを飛びまわったり、自分で餌を食べたりすることができるようになってきたころ、この鳥の私に対する反応には、突然の変化がおこりはじめたのである。
彼はなぜか急に私に対する関心を失いはじめ、私の身近にある餌入れのシャーレにしか注意をはらわなくなってきたのだ。もともと放し飼いの鳥である。彼はたちまち、私の部屋にすら寄りつかなくなっていた。他の鳥、たとえばカケスなどの場合は、独りだちするようになってますます私との関係は深いものになったものだっただけに、私はこの突然の変化に驚いたが、私たちの関係はもう二度ともとに戻ることはなかった。
ちょうどそのころ、三日間の旅行をした私が帰ってきたとき、すでに彼は私とはまったく無縁の一羽の野鳥になっていた。それはもう、樹木の繁みから繁みへと、影のように秘かに走る孤独なカッコウの姿そのものであった。そして、やがて間もなくやってきた夏の終わりとともに、彼の姿はいつか構内からも消えてしまった。
ひたむきな仮親への依存と突然の独りだち。ここにホトトギス科の鳥の種族保存の秘密がかくされているように私には思われた。しかし私はいつも、孤独な旅立ちをしたあのカッコウが、溢れるような輝かしい喜びの歌声とともに、新緑の森に帰ってくることを何とはなしに夢想している自分に気がつくのである。 』
『 生物の 世界の体系的把握の試みは、遠くギリシャ時代にさかのぼることが出来る。紀元前四世紀のギリシャ最大の哲学者の一人アリストテレスは、本質的に性質が似ている個体の集まりを種(eidos)とし、また互いに似た種の集まりを属(genus)として、五百種類の動物の記載を行っている。
しかし、広汎な生物界の分類という壮大な仕事に挑み、はじめて大きな仕事をなしとげたのは、十八世紀のスウェーデンの偉大な博物学者C・リンネである。彼は大著「自然の体系」(Systema Naturae)と「植物の種」(Species Plantrum)によって、一万種を超える動植物の記載を行うとともに、界・綱・目・属の分類段階を採用してこれらを整理した。
つまり、生物のもつ普遍性と独自性をこれらの諸段階でとりあつかうことによって、彼は複雑きわまりない生物の世界を体系的に把握しようとしたのである。しかしながら、この生物の世界の体系化という点では、リンネはまだ成功の域に達したとはいえなかった。それは世界中の生物についてのもっと膨大な知識が集積された、後の時代になってはじめて可能なことだったのだ。
むしろ彼の業績は、種を基本単位として簡潔ですぐれた記載を行ない、また異名を整理し、分類の形式を定めることによって今日の分類学の基礎を築いたことにあった。では、リンネは、みずから生物分類の基本単位とした種について、どのような考えをもっていたのだろうか。
実は近代生物学における種の概念については、リンネ以前の十七世紀に、イギリスの植物学者レイがその規定を試みている。レイは、生物界のもっとも小さなまとまりであり、形質的に同じでしかも繁殖して同じ子孫を作ることのできる単位を種(Species)と呼ぶことを提唱した。
こうした観点を受け継いだリンネは、広範囲の資料を総合して、この種という現象が、広い生物の世界全体を覆うものであることをはじめて実証して見せたのである。彼は観察しうるすべての動植物を、実際に種に分けることに成功した。しかもリンネによれば、種はけっして学者の知性が生みだした単位ではなく、自然界に実在し、自然界が学者に認識を迫る単位であった。
この、種が生物の基本的存在様式であり、全生物界がこの基本単位をもとに構成されていることを明らかにしたところに、リンネの業績の大きな意義があったといっていい。ところで、リンネの仕事の特徴は、同種内では均一で異種間では不連続な形質に、徹底して目を向けたことであった。
彼は同種内の個体間の差異には目をつぶったのである。むしろ、この種内変異を無視したところに、彼の成功があったといえる。もっともリンネも、明らかに同じ種類の植物の中に花の色や花弁の形が異なるものがあることなどを認めているが、彼はこうしたものを変種としている。
これによって種の標準的形態の一様性を保持し、また種の標準型からはみ出すような形態の統一をも図ったのである。だが、その後さまざまな分野での分類の仕事が進み、資料に集積が行われるにつれて明らかになってきたのは、あまりにも多様で普遍的な種内変異の実態であった。
その結果、分類学者たちは、種が全生物界を組織しているという見方を捨てるか、それとも種内の多様性を許容して認めるかの選択を迫られることになった。生物学は種内変異の問題を直視せざるを得なくなってきたのである。
そこで、この変異性の問題に真向から取り組んだのが、十九世紀のC・ダーウィンであった。彼はリンネとは逆に、変異性をあらゆる生物の種がもつ、もっとも重要な属性のひとつととらえ、この変異性とそこに働く生存競争をもとにしてこの選択(淘汰)が、生物に進化をもたらしてきたのだと考えた。これが彼の自然淘汰説である。
生物の種が均質であるとともに恒久的なものであると考え、だからエホバの神が造り給うだけの数の種が存在するとしたリンネとは逆に、ダーウィンは生物の種は基本的に不均一なものであると考え、そしてそれゆえに、少数の下等な生物から多数の高等な生物へと進化してきたと考えたのである。
だが、そのダーウィンが残した言葉に、「種の輪郭はあいまいである」という一言がある。偉大な進化論の樹立者であるとともに今日の生態学の源流であるこの巨人は、生存競争における種内関係と種間関係のもつ意味の違いに気がつかなかったように、変異の面でも種内の変異と種間の差異を区別して見ることが出来なかったようである。
しかしこれは、長年にわたるフジツボ類の研究の中で、そのあまりにも多様な変異の実態を目のあたりにして、種間に横たわっているはずの境界線を明瞭な形でおさえることがいかにむずかしいかをつぶさに経験した、彼のいつわらざる実感であったに違いない。
彼の進化論は、生物進化の基本単位をあくまでも種におくところから構築されたものであった。ところが、その種の輪郭がぼやけていて、そのはしはしで他の種に連続しているように見えることは、彼にとって、けっして喜ばしいことではなかったのではないかと思われる。そうなると、この言葉は、ダーウィンの嘆きの声に聞こえなくもないのである。
生物の種が分類の便宜のための人間の思惟の産物ではなく、実在する生物界の構成単位であり、しかも多様な変異を内包しつつも明瞭な輪郭をもって互いに接しあっているものであることを、形態の面だけでなく生態や生理や遺伝などの面をもふまえて論ずる生物学者が現れてきたのは、一九四〇年代にはいってからのことであった。
アメリカの鳥学者マイヤーは、さまざまな鳥の種類がみなそれぞれに分布の限界をもっていて、いつとはなしに他の類縁種に移行しているようなことは実際にはほとんど見られないことに気づいた。このことから彼は、生物の種が明瞭な輪郭をもって自然界に存在するものであり、類縁種は互いに隔離の機構によって独立していると主張した。
隔離とは、近縁な生物の集団がお互いに交配されることのない別々の繁殖集団に分かれることである。この隔離には異所的隔離、つまり集団が互いに隔たった地理的分布域をもつことによる隔離と、同所的隔離、すなわちお互いに同じ地域内に住みながらいろいろな機構によって交雑が妨げられるものとがある。 』
この後に著者の自伝的エッセイ”私のクロツグミ”と面白いところが続くのですが、長くなりましたので、ここまでといたします。
著者の文章がモーツアルトの音楽のようだといいましたが、キツネやエゾタヌキやカッコウやエゾヤチネズミを題材としてますが、「種とは何か」「進化とは何か」「環境への適応と淘汰」「変異と隔離と遺伝子」などの生物学の中心的となるテーマをまるでベートーベンの音楽のように(理屈ぽく、さらにしつこく)聞こえたかもしれません。
私もダーウィンの進化論と伝記を読みましたが、ダーウィンが種の輪郭のあいまいさに悩んで、考え抜いた結果として、進化論に到達したことは読み取れませんでした。と言っても、生命はどこまでいっても、不可思議なものかもしれません。(第73回)