チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「英語の種あかし」

2015-05-28 08:06:25 | 独学

  76. 英語の種あかし  (井上一馬著 2006年3月発行) 

 『 Chemistry というと、大半の日本人は「化学」という意味で知っていると思うが、Chemistry には「相性」という意味がある。Our chemistry is good. と言えば、「私たちは相性がいい」ということになる。They have genuine chemistry. と言えば、「あの人たちは真から相性がいい」ということになる。

 この「Chemistry =相性」はかなり知っている人もいるかもしれないが、次の personality の使い方を知っている人はわりと少ないのではないだろうか。かく言う私もこのあいだまで知らずに、ヤンキースのジョン・トーリ監督が、劣勢だった試合を松井選手の活躍で勝ったあとのインタビューの中で使ったのを聞いて驚かされた口である。

 彼はこう言ったのだ。We've been struggling for runs, and it really helped our personality. personalityというと、まずは「人格」という意味で知っているし、「パーソナリティは山谷順平さんです」といった使い方も知っている。だがこの発言の中の personality はそのどちらとも違うように思われた。

 実は personality には「その場の雰囲気」という意味もあるのである。したがって上に文は、「我々は点が取れなくてもがいていたが、あれ(松井のホームラン)がチームの雰囲気を変えてくれた」ぐらいの意味になるのである。(runs は野球・クリケットなどの得点) 』

 

 『 グレッグ・クライツアーが「デブの帝国――いかにしてアメリカは肥満大国となったのか」(Fat Land)という本の中で指摘したように、現在、アメリカ人の約61パーセントは肥満だと言われている。全米で肥満率のもっとも高いテキサス州のスター群では、小学生の半分は肥満している。

 その原因は、お定まりのごとく、子供がテレビゲームなどに興じて外であまり遊ばなくなり、「ちょこっと食べ」などの食習慣が広まったために、食べ物がどこにもあって(Food is ubiquitous.)、いつでも手にはいるようになったことだろう。

 この ubiquitous という言葉、最近「ユビキタス社会」などと言い出した人がいて、日本でもよく見かけるようになり始めたが、英語ではこのように、「どこにでもある、どこでも見かける」という意味でよく使われる。たとえば、 We are living in a society in which food is ubiquitous. (私たちはいま、食べ物がどこにでもある社会に住んでいる)

 Cell phones are ubiquitous now. (いまでは携帯電話がいたるところにみられる) 英語の ubiquitous の発音は、「ユビキタス」とは似ても似つかず、あえてカタカナで記せば、「ユービクイタス」という感じである。

 ところで、アメリカという国はたしかに肥満児や肥満した大人が年々増えていっている肥満先進国(?)ではあるのだが、いっぽうで、この国はダイエット先進国でもある。アメリカで、ウェイト・ウォッチャーズ(Weight Watchers)という名前の、ダイエットを人々に広める団体が創設されたのは、1963年のことである。

 このウェイト・ウォッチャーズという組織を作ったのは、ジェーン・ナイデッチという女性で、1923年生まれの彼女は、30代になって肥満にくるしむようになり、国の健康省が勧めていたダイエット・プログラムを参考にして減量に成功したあと、その体験を人々に語りあるいているうちに賛同者が集まり、組織を立ち上げることになたのである。

 ナイデッチが会員に説いたのは、次の5つのルールだった。① 食事は抜かない。 ② 食事の代りに何かを食べない。 ③ カロリー計算はしない。 ④ アリコール類は飲まない。 ⑤ 食事減退薬は使わない。

 ナイデッチが創設したこの組織には現在、150万人の会員がいて、世界30ヵ国で正しいダイエットの普及活動を続けている。アメリカではダイエット本は日本と同じく数限りなく出版されている。

 最近話題を集めたダイエット本は、フランス人の女性が書いた。「フランスの女性は太らない――好きなものを食べ、人生を楽しむ秘訣」 (French Women Don't Get Fat : The Secret of Eating for Pleasure) (Copyright © 2005 Mireille Guiliano) という本である。

 ジュリアーノは現在、ニューヨークに本社を置くクリコという会社のCEOで、若い頃、交換留学生としてフランスからアメリカにやってきたことがある。その留学中に彼女は太ってしまって困ったが、フランスに帰ったらまた痩せることができた。その個人的な体験と、大人になってから彼女が観察してきたアメリカとフランスの食習慣の違いが、この本の下敷きになっている。

 彼女を含めて多くのフランス女性は、カロリーのことなどまったく気にせずに一日3食とり、毎日ワインを飲み、外食もしょっちゅうするが、それでも大半の女性は太らない。なぜなら。フランス女性は、アメリカ人のように、急いでハンバーガーをむさぼり食べ(gobble)たりせず、ゆっくりと味わいながら、さまざまな本物の食べ物を少しずつ食べるからだ、というのがジュリアーノの主たる主張である。

 その本の中で、スリムな体型を保つために、彼女は次のようなアドヴァイスをしている。

① Eat at regular times. (決まった時間に食事をとる。)   

② Get to know the market, not the supermarket. Shop for food severl times a week (on a need-to-eat basis, but never when hungry).  (スパーマーケットではなく、市場で買い物をするようにする。週に何度か食事に必要なものを買う。ただし、空腹の時は避ける。)

③ Diversifly your foods with an eye to seasons. Increase the proportion of fresh fruits and vegetables.   ( 季節ごとにさまざまな食べ物を少しずつとる。新鮮な野菜と果物を多めにとる。) (Diversifty : に変化を与える、 proportion : 割合)   

④ Introduce and experriment with a couple of new flavours. (新しい味付けをためしてみる。) (introduce : 登場させる、experriment : 試み、flavour : 味付け) 

⑤ Prepare your own meals. Shun prepared foods, especially processd ones with artificial anything.  (自分で食べる食事は自分でつくる。調理済み食品は避ける。とくに調味料などに人工のものを使ったものは避ける。) (shun : 避ける、artificial : 人工の)

⑥ Have a real breakfast. (朝食をきちんと食べる。)

⑦ Eat slowly, sitting down. Chew well, even if you seem theatrical at first. ( 座って、ゆっくりとと食べる。はじめは大袈裟に思えるくらいによく噛んで食べる。)  (Chew : 噛んで食べる、theatrical : 芝居じみたしぐさ)

⑧ Drink at least two more glasses of  water per day, slipping in more as you find opportunity. (少なくとも1日2杯、これまでよりたくさん水を飲む。)(slip : 滑り込ませる、opportunity : 機会) 

⑨ Don't stock offenders at home.  (家に必要のない食べ物を買っておかない。) (offender : 不快なもの)

⑩ Introduce a small but regular new physical movement, a daily walk or climbing stairs.  (毎日少し運動する。歩いたり、階段を昇ったり。) 

 コヴァックとジュリアーニが共通して指摘しているのは、運動は痩せたあと体型を維持するためには効果があっても、痩せることじたいにはよほどの運動でないと効果が期待できないということである。 』

 

  『 「ローマの休日」は、オードリー・ヘプバーン演じるある国の王女が、訪問先のローマで大使館を抜け出し、自由な一日を過ごすという話だが、それを少しみてみたいと思う。映画では、生まれてはじめて手にした自由に大はしゃぎした王女が、疲れ果ててベンチに眠り込み、そこに通りかかった新聞記者のジョー(グレゴリー・ペック)に起こされる。

 しかしそれでも王女が目を覚まさないため、ジョーはしかたなく自分の部屋まで彼女を運んでいく。まだそのときジョーは、いまローマ中の話題をさらっている王女だとは気づいていない。

 ジョーの部屋で王女は、「服を脱ぐのを手伝ってくださる?」と言い、ジョーはしぶしぶ彼女の背中のホックをはずすのを手伝ってやる。そしてそのあとでこう言う。 「You can handle the rest. 」 (あとは自分でできるだろう)

 そうして無事着替えを終えた王女は、寝る前に、王女らしく最後の一言を発する。 「 You have permission to withdrow. 」 (下がってよろしい) permission は「許可」といういみである。たとえば、「先生がもう帰っていいっていたんだよ」と言いたければ、 The teacher give me his permission to go home. となる。

 さて、夜が明け、王女はようやく自分が誰かの部屋にいることに気づき、やってきたジョーにたずねる。 Did you bring me here by force?  (無理やり私をここに連れてきたのですか?)  by force は「力ずくで」の意味だ。ジョーの答えは、 Quite the contrary. (まさしくその反対だね)

 自分が大変なことをしでかしてしまったのを悟った王女は、一刻も早くジョーの部屋を出て、帰路につこうと考える。しかし、そのときにはすでに王女の正体を知って特ダネを狙いたいと考えていたジョーは、必死に王女を引き止めにかかる。 What's your hurry?  (何をそんなに急いでいるの?)

 さらにジョーは、「I'll run a bath for you.」 (お風呂をいれるよ)と言って王女を引き止める。そして何とか王女を引き止めることに成功したジョーは、友人のカメラマン、アーヴィングに電話して、すぐ来るように言う。しかし事情を知らないアーヴィングは、 「I'm up to my ears in work. 」 (俺はいま忙しくて首がまわらないんだよ)と答える。

 直訳すれば、「耳まで仕事に浸かっている」という意味だ。しかし、それでもお構いなくジョーに呼びつけられたアーヴィングは、ジョーの部屋にいる女性をひと目見て思わず口走るのだ。 Anybody ever tell you you're a dead ringer for …… 映画ではここでジョーが彼の足を蹴飛ばして話をやめさせてしまうのでセリフが途切れてしまうのだが、このあとには本当なら the princess  が続いて、

 Anybody ever tell you you're a dead ringer for the princess ?  という文章になったのだと思われる。(あの王女様にうりふたつだって誰かに言われたことない?)という意味だ。 日本語の「うりふたつ」「そっくり」を、英語では a dead ringer と言うのである。( dead : 全くの、 ringer : 替え玉選手)

 映画では、このあと王女は一日、ジョーとともにローマの休日を楽しむが、その途中、しだいに王女の気持ちを理解し始めたジョーは、王女に向かってこんな言葉も口にする。 Life isn't always what one likes, is it ?  (人生はいつも望みどおりにはいかないよね)

 そしてやがて、一日の終わりに、二人に別れの時がやってくる。王女は言う。 I don't know how to say good-by. I can't think of any words.  (どう言ってお別れしたらいいのかわかりません。どんな言葉も思いつかないのです)

 それに対するジョーの答えがしゃれている。 Don't try.  やっぱりグレゴリー・ペックは粋だ。 』

 

  『 アメリカの雑誌「ニューヨーカー」に、小川洋子さんの短編小説が掲載された。載ったのは2004年9月号で、伝統ある都会派の雑誌に掲載されたのは、村上春樹氏に次いで二人目である。作品は「夕暮れの給食室と雨のプール」という短編である。主人公の若い女性とある父子との奇妙な邂逅が語られている。

 主人公がまわりの世界や現象に対して抱く違和感を、淡々とした文章で表現した作品である。英語への翻訳を担当したのはスティーヴン・スナイダーという人で、小川さんの静かで飾らない文章を、同じように静かで飾らない英語でうまく訳している。

 タイトルも、The Cafeteria in the Evening and a Pool in the Rain と、日本語のタイトルがそのまま生かされている。翻訳の具体例を示すと、たとえばこんな具合だ。

  「霧はゆっくりうねりながら、一つの方向へ流れていた。それは風景をすっぽり包み込んでしまうような息苦しい霧ではなく、透明な清らかさを持っていた。手をのばすと、その薄くてひんやりしたベールの感触を味わうことができそうだった」 この文章がスナイダー氏の訳ではこうなる。

 The fog was rolling away in gentle waves.  It was not the sort of suffocating fog that swallows everything, in fact, this fog seemed pure and almost transparent, like a cool, thin veil that you could reach out and touch.  (suffocate : 息を詰まらせる、swallow : 包み込む、transparent : 透明な)

 こうして、日本の小説の文章がどのように英語に訳されるか見ていくと、われわれの知っている英語で意外に何とかなるものである。冒頭の、主人公の女性(わたし)が新しい町に引っ越してくるシーンには、「荷物は……ごくあっさりしたものだった」という文があるが、この「ごくあっさりしたものだった」は、英語にすると、 It was simple enough. となる。英語でもやはりごくあっさりしたものである。

 次に、「最初にこの家を気に入ったのは、彼の方だった」 というのがあるが、これは、My fiance fell in love with the house first.  と訳されたいる。「気に入った」はこのように、fall in love with  (恋に落ちる)でいいのである。

 「わたし」が新しい家の庭を眺めて抱いた印象を記した文章には、「花壇も植木も何の飾り気もない、もの淋しい庭だった。所々ぽつぽつと、クローバーが生えていた」 という文があるが、ここでは、「所々ぽつぽつと」が日本人にはむずかしいのではないだろうか。これは次のように訳されている。

 It was completely bare.  No plants, no flower beds, nothing at all except an occasional patch of clover.   

 patch  というのは「断片」のことで、これに、occasional (ときおりの)をつけたところがうまいと思う。(bare : むきだしの)このへんが外国人にはなかなか思いつかない英語の使い方なのだ。

 「この雨の中、買い物に出掛けるのも面倒だった」という文章の「面倒だった」という言い回しは日本語でもよく使われるが、英語ではこれは、

 It was too much trouble to go out for something in the rain.  この It is too much trouble to ~ といういいかたは、使い勝手があるので覚えておくと便利である。

 次は、「わたし」の連れていた「犬にさわっていい?」ときく。「さわる」というと、日本人はまず touch という語を思い浮かべるのではないかと思うが、ここでは、 Can I pet your dog?  と、pet という動詞が使われている。ペットは動詞になると、「かわいがる、愛撫する」という意味になるのである。

 同じシーン、父親が言う言葉だ。「子供は時折、とてつもないことに心を奪われるものです」これは英語では、Children get obsessed with the strangest things.  となる。 get obsessed で、何かにとりつかれて心を奪われる様子がよく現れている。

 同じく父親のセリフだが、これは簡単そうで、ちょっとむずかしい。「そういうひたむきさも、僕がプールから学んだことの一つです」 ひたむきさ? これをどう英語にすればいいのだろうか?

 That's another thing I leaned from pool: determination.   determination という言葉は、多くの日本人が「決意」という意味で知っていると思うが、こういうところで、こんなふうに使えることが、英訳の醍醐味と言えるだろう。

 ところで、小川さんのこの小説は、「わたしは鎖を握り直し、彼らとは反対の方向へか駆け出した。掌の中で、鎖はいつまでも冷たかった」という文章で終っているが、スナイダー氏の訳では、

 Tightening my grip on the chain, I began to run in the opposite direction.

 という文で終っていて、なぜか、最後の「掌の中で、鎖はいつまでも冷たかった」という文は訳されていない。私は最後の文は小説全体の中で重要な位置をしめる大切な文だと思うが、さて、この文、あなたなら、どう訳すでしょうか? 』

 

 私(ブログの作成者)が 、感じますのは、英語のエリートと英語を道具として使いたい(一般の日本人)に分けて教育をすべきではないか。英語のエリートは、もっと日本の名著(文学に限らず)英語にして海外で出版する。道具としての英語は、とにかく使える読める、話せる、聞ける、書けるを可能なように、日本人のための英語を確立する。

 気取った英語ではなく、インド人の英語のように、なりふり構わず、アメリカの企業が作った試験を使うのではなく、日本人が使いやすい英語を確立すること。英語の和訳のスピードを上げて、とにかく一冊を読み切るためのメソッドを確立する。英語を句ごと(カンマからカンマまで)の単位でさっと訳し、文章構造や関係代名詞は、英語のままとして、できるだけ英語の構造を崩さずに訳す。

 とにかく、英語の量を読む方法を確立し、英語は道具であることに徹し、国連の公用語に日本語を採用させ(採用しなければ国連の拠出金を止めるくらいの勢いで)、日本人英語の世界に、世界の人々を引き込む。アメリカ英語に私のような日本人が追従しても、常に英語は増殖し、変化しているので、無理である。

 これらのことを英語のエリートは、実行しなければ、英語の本もまともに読んだことのない、英語の教員や英語の名著も読んでない外国人教師では、教育を受けてないと言っている16歳のパキスタンのマララ・ユスフザイに大きく引き離されるのでは、なかろうか。(第75回)

 


ブックハンター「選択から投資へ」

2015-05-15 14:48:42 | 独学

 75. 選択から投資へ  (五十嵐玲二談 2015年5月)

 今回は、選択の科学(The art of Choosing) シーナ・アイエンガー著(Sheena Iyengar)に触発されて、「選択から投資へ」という題にしました。

 

 『 シーナ・アイエンガーは、1969年カナダのトロント生まれ、両親はインドからの移民でシーク教徒。1972年にアメリカに移住。彼女は3歳の時、眼の疾患を診断され、高校生になる頃には、全盲になる。シーク教徒の厳格なコミュニティが反映され、両親が着るものから結婚相手まで、すべて宗教や習慣で決めてきたのをみてきた。

 そうした中、アメリカの公立学校で、「選択」こそアメリカの力であることを教えられることになり、大学に進学して後、研究テーマにし、20年以上にわたり「選択」に関する広範な研究を行なってきた、現在、コロンビア大学教授。

 「自分で選ぶこと」こそ、アメリカの力であり、どんな環境にあっても、自分の選択によって、道は開けると信じた彼女の人生の物語でもある。人生は、運命、偶然、選択という3つの観点で語ることができる。 』

 

 「選択」と「投資」と「ギャンブル」(投機)という三つの言葉を、本稿で述べる意味を定義しておきます。この三つの言葉の共通点は、誰も知ることのできない未来についての決定をするということです。まず、「投資」とギャンブルの違いを、考えてみます。

ここで言う「投資」は、自分で仕掛けを作り、自分でその仕掛けの確率が上がるように、その仕掛けを工夫し、自分の時間、自分の労力、自分のお金を投入し、より多くの自分に対する利益をえることである。この投資は、どんなにささいな仕掛けでもよい、どのように小さな利益でもいい。ここでいう利益とはお金である必要はなく、自分にプラスになるのものであれば、なんでもいい。

 しかし、どんなに小さな仕掛け(投資)でも、自分で考え、いくつかのマイルドストーンを決めて、それによって得られた利益を評価し、継続するか、断念するか、さらに発展形にするかを選択する。

 「ギャンブル」は、他人が自分に都合のいいように、創り上げた仕掛けができあがっています。従って、リターンの確率や全掛金にたいする全リターンの割合も低いものです。例えば、宝くじや競馬でも、その半分以上は、税金や経費に費やされ、高額なリターンを得る確率は非常に低く、掛け金を失う確率は、非常に高い。

 一方、「投資」は、自分で、自分の時間、自分の資金、自分の労力を何の目的で、どのような仕掛けで、投資すれば、自分に利益をもたらすか。そのためには、小さな仕掛けから始めて、成功体験を積み重ねて、成功する確率を高めていくことも重要です。

 未来は、投資と言えども、自分の都合のいい未来とはならないものです。そのためには、丁寧に、謙虚に、そこに潜む落し穴について、考えをめぐらさなくてはいけない。常にその仕掛けの弱点を狙って、さまざまな事態が発生し、自分の都合の良いようには、事は運ばないものです。(どんなに小さなことでも、単に考えたのと、実際に実行したときは、さまざまに異なるものです)

 それは、悪意のある他人ばかりでなく、さまざまな法の制限だったり、税金であったり、書類の不備であったり、中途半端な仕掛けのために、空中分解するものであったり、約束通り仕上がりでないものが、納品されたり、期限が守られなかったり、経費の算出が甘くて、予算をオーバーしたり、為替レートの変動のために、赤字に追い込まれる、……様々なことが、発生するものである。

 「選択」は、「投資」に於いても、「ギャンブル」に於いても発生する。「ギャンブル」は、一般に負け出して、それを取り返そうとして、破綻するケースが一般的であり、選択の余地のない「選択」を迫られる。このように選択という言葉の中にある、窮地に追い込まれて、選ぶという要素を取り除き、未来の自分に対して、周到な準備と努力によって、ポジテブな選択をするための、「投資」について考えてみたい。

 ここでの投資とは些細な仕掛け、例えば、自分の健康のために十五分間柔軟体操をするという投資を考えて見ましょう。そのためには、自分にとってベストな柔軟体操とは何か、現在の自分の身体でどこが、ボトルネックであるか、……を考えて仕掛け(投資)を行い。これを一週間、一か月、半年、3年とマイルズストーンを決めて、評価してみる。

 更には、昼食に何を食べるか、お弁当を作るのか、麺を食べるのか、お米は、白米か、胚芽米か、麦飯か、玄米か、……を考えて仕掛け(投資)を行なう。人間は何を食べてきたのか、栄養学とは本当に真実を語っているのか、自分の食事を問題点は何か、そもそも動物の体とはどうように造られているのか、……と実行すると色々なことが見えるものです。

 もう一つ小さな投資の例として、英語の本を毎日十五分読むように、自分の時間を投資する。どのような英語の本を読むべきか。小説か、生物学か、経済学か、雑誌か、マンガか、どのようなレベルの本か、日本語訳の本がある本か、ない本か、辞書は何にするか、電子辞書にするか、読むスピードを重視して、辞書は極力引かないか、ノートをとるか、単語帳は作るか、何の目的で英語の本を読むのか、1年間実践して、どのような効果を期待しているのか、……楽しみながら、実行できるれば、続けられるかも。

 もう一つ、ベランダにプランターに、果樹の苗を植えるという投資をする。ベランダの空にあわせて、あまり大きくならないで、果樹が収穫出来て、四季を楽しめるものが、何かないか。病気や害虫に強いもの、……は、少なくも三年以上の時間を必要とする。投資には、継続というか時間のベクトルを必要とします。

 最後に、通常使われる投資という意味で、自分で貯めた百万円のお金があるとします。これをどのように運用すべきかを考えてみます。通常、定期預金を考えますが、最近まで各国通貨に対して円高に推移していたので、ほぼ正解でしたが、円と言えども、ドルや金や原油や小麦やトウモロコシに対し変動してます。

 ここでポンドと円のレートを簡単に見てみましょう。1949~67年1008円/ポンド、67~71年864円/ポンド、1980年526円/ポンド、1990年257円/ポンド、2000年163円/ポンド、2010年126円/ポンド、現在(2015年)188円/ポンドと大きく変動してます。

 ここで言いたかったのは、たとえ定期預金でも、未来を知ることはできませんので、賭けの要素があるものです。百万円を株式に投資するとして、上場会社約3500社の中から、選択するわけですが、まず企業として技術(ノウハウ)を持っていて、利益を安定して計上し、社会的信頼があり、配当、自社株買い付け、株価に見合った利益剰余金があり、社長の人相がよいこと、これらを考慮して、長期運用で投資すれば、投機性はかなり減少します。

 投資した会社の経営者が、考えて、社員が働けば、会社の利益があがり、株主にも利益がまわってきます。どのように分析し、シュミレーションした投資と言えども、選択するとき、「賭け」、「占い」の要素は存在するものですが、この結果が思わしくなかったとしても、次回に投資を行う時にこれらの分析やシュミレーションは活かされるものです。

 

 日本語で「選択」という時、二つの問題が内在する。一つ目は、窮地に追い込まれての選択、その選択肢には、前門の虎、後門の狼のように、どれを選んでも助からない。一七歳でノーベル平和賞を受賞した、パキスタンのマララ・ユスフザイは、つぎのように話してます。

 『 You all may know that in Swat Valley there was Talibanization, and because no one was allowed to go to  school.  (知っての通り、スワート渓谷はタリバーンの支配下にあり、学校に行くことが許されていませんでした。)

 I had really two options. One was not speak and wait to be killed. And the second was to speak up and then be killed. And I chose the second one. (私には二つの選択肢がありました。一つは声を上げずに、殺されるのを待つこと。もう一つは声を上げ、そして殺されること。私は二つ目を選びました。

 Because at that time there was terrorism, and woman were not allowed to go outside of their houses, and girl's education was totally banned, and people were killed. (当時はテロの恐怖があり、女性は家の外に出ることは許されず、女子教育は完全に禁じられ、そして人々は殺されていたわけです。

 At that time I needed to raise my voice because I wanted to go back to school. I was also one of those girls who could not get education. (学校に戻りたいがために、私は声を上げる必要があったのです。自分もまた、教育を受けられなかった女の子の一人でした。)

  I wanted to learn. I wanted to learn and be who I can be in my future. (学びたかった。勉強をして、将来の夢を実現したかった)』 とあります。

 

 「選択」に内在する二つ目の問題点は、その選択肢に自分が介在できる余地が少ないないことです。その点「投資」には、自分で仕掛けを作って、自分の運命に対し積極的に介入し、工夫し、努力する余地が残されています。パキスタンのマララ・ユスフザイは、究極の選択をおこない、学問という最大の「投資」に賭けたと考えます。

 この投資という選択において、自分の能力を発揮し、自分の人生を意義あるものにするために、二、三個のテーマを持つ必要がある。あるテーマを追求するために、それに沿っていくつかの投資(仕掛け)を実行する。このテーマを持つことによって、自分の投資や選択に統一性が生まれます。

 ここで、テーマとは、前々回の坂井シェフの例でいえば、「人を喜ばす、西洋料理を追求する」がテーマであり、前回の石城教授の例でいえば、「種とは、進化とは、適応とは」が、テーマのように考えます。そのテーマの実現に向かって、お店を持ったり、本を書いたりという投資があるように考えます。

 アイエンガー教授も、The Art of Choosing と原題をしているように、占いや宗教的判断や家族的判断や人相や手相と言った従来の選択についても、言及しそれらも含めて、アート オブ チューズイング (選ぶことの芸術)としたように、考えます。

 アイエンガーは、自分の両親がシーク教徒で、二人の結婚に於いて、花嫁の顔を新郎は、結婚式の二日目に初めて見たとインドでの両親の結婚について、誇らしく書かれています。さらには、自らの結婚について、夫と私が結婚を決意したとき、両家は手放しで喜んだわけではなかった。

 南インドのバラモンのカーストに属する、アイエンガー家の一員であるかれは、当然アイエンガー家のものと結婚するものと思われていた。わたしはアイエンガー家の一員でないばかりか、信仰さえ違っていた。両家の親戚に言わせれば、この縁談は不釣合いで、失敗を宿命づけられていた。

 まもなくわたしの義理の母になろうとしていた人は、信頼する占星術師のもとに急いだ。ところが、彼女が部屋に足を踏み入れたとたん、まだ質問さえ口にしていないのに、占星術師はこう告げたのだ。「二人は七回前の前世から夫婦で、七回後の来世まで夫婦でいるでしょう」このようにしてわたしたちは結婚した。

 「選択」や「投資」を自分の力をいくら注いでも、未来を確実に知ることはできない。そこで「自力本願」だけではなく、「他力本願」の力を借りることも時には、必要なのではないでしょうか。(第74回)