チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「考える技術・書く技術」

2013-05-22 14:54:12 | 独学

 46. 考える技術・書く技術(板坂元著 昭和48年発行)

 『 頭はいいとか悪いとか、ふだんよく使われる表現だが、もともとどういう意味があるのだろうか。われわれに腕力の差があるように、頭にも力の差がありそうだが、いろいろと本を調べてみても、その差―― つまり頭のよいわるい―― を測る基準というものは、学問上でも確立されていないようだ。

 学校教育の十何年の間に、何千回となく試験があって、そのつど点数がでるけれども、あの数字はいい加減なもののように思われる。

 わたくしも教師生活を二十年ちかくは経験しているけれども、95点の学生と83点の学生の間に、頭のよしあしの差があると思ったことは、いちどもない。

 試験とはせいぜい、怠けているかどうかを知るのと、勉強をはげます程度にしか役立たないように思う。

 ただ一つだけ言えることは、頭は筋肉のようなもので、使わなければ退化するものらしい。時実利彦のことばよると、「脳を使うとは、仕事をする、ものを考える、なにかを作るということ、そして、そのことに喜びを感じるということ、それが脳の寿命をのばす道でもあるわけです」。 』


 『 日常生活の中で、簡単にできる頭のトレーニング方法をいくつか紹介しよう。
和田信賢アナウンサーは、実況放送におけるあの即時描写力を、どういうふうにして会得したらいいか、ずいぶん自分は考えた。

 吊り革にぶら下がって、電車の窓から、店屋の看板を見ながら、あるいは店先の商品を見ながら、これは八百屋、これは足袋屋、これは米屋、という風に口に出して訓練をしたとあった。(瞬時判断力)

 ベトナム和平が成立して、捕虜交換で帰ってきたアメリカ軍人の話によれば、収容所にいる間に無能化を防ぐために、いろいろな方法をとったという。

 たとえば、皆で集ってバイブルの文句を思いだして、煙草の灰をとかして作ったインキとトイレットペーパーを使って私製バイブルを作ったり、語学の勉強のためにフランス語やスペイン語の辞典も編集したらしい。

 わたくしも、中国で一年間ほど捕虜生活を経験したが、印刷されたものを全部とりあげられたので、しかたなしに芭蕉の七部集の連句を思い出すことをわたくしは毎日一人でやっていた。(記憶訓練)

 旅行は、自分の体を動かし、かつ新しいものをたえず見物する点で、いちばん理想的なものかもしれない。芭蕉が東海道を何度も往復したものでなければ、俳諧はできないと言ったのは、元禄の昔のことだが、歩いて旅をする時代に東海道の長さだけでも刺激は十分だったろう。(旅行のすすめ)

 わたくしは旅行をすると、その町その町でマーケットと骨董屋を見てあるくことにしている。その土地の人の味覚や臭覚の中で独特な生活を感じるには、マーケットを歩き回るに越したところはない。

 できれば、マーケットの周辺にある居酒屋風の食いもの屋に入って、見たこともない食べものを試してみる。そういうところの人間は旅行者ずれしてないし、だいたいにおいてひじょうに親切なものだ。

 マーケットのつぎには骨董屋。わたくしの行くのは骨董屋というよりも、道具屋といった方がよい。何に使ったのかわからないガラクタが雑然と積んであるような道具屋が、もっとも望ましい。

 だいいちニセモノが少ない。ニセモノをつくっても採算の合わないような品物の中から面白いものを見つけるわけだ。本書の扉に使ったランプの類は、そういう歩き方をしているうちに集ったものだ。(骨董のたのしみ)

 わたくしはマージャンを、もっともすぐれたゲームとして推賞している。日本で生まれた発想法として、学界でも実業界でも広く用いられている川喜田二郎のKJ法、あれをはじめて知ったとき、わたくしは「これはマージャンだ」と思った。

 まず、雑然として集められた情報は、配牌に見立てられる。手に入った情報を、いくつかのグループに分けるところは、マージャンでも実行する。

 そして、グループ相互の間の関連を考える過程は、マージャンの役づくり、そのあと、つぎつぎにツモってくるパイ(情報)によって、手もとの資料を組みかえることも、捨てられたパイからも情報をくみとって考えを組みたてることも、KJ法と似ている。

 KJ法についての本にはマージャンのことは触れていないが、わたくしはKJ法を人に説明するときには、いつもマージャンを例に出すことにしている。それがいちばん簡単なKJ法の説明のしかただと思う。 』


 『 楽器やタイプライターは、符号と道具を使って目と耳と指を同時に働かせる訓練をすれば、頭のはたらきのスピードは、ますます早くなる。

 大人でも、楽器をあつかうことによって脳の老化は防げるようだ。六十の手習い、年よりの冷や水とはいうけれども、上手下手は別として、頭のトレーニングとしてならゴルフなどよりは、ずっと高等なものである。

 頭のよしあしなどというものは、つねに変化するもので、自分の身辺にいくらでもトレーニングの手段は転がっている。よしあしは、その手段を見つけてをマメに実行するか老朽化にまかせるかによる。

 試験の点数がアテにならないのと同様に、学校教育も信じられているほどには役にたつものでない。平凡な結論になるが、つまるところは、自主トレーニング次第ということになろうか。 』


 『 頭のウォームアップができたら、つぎは材料あつめの段階になる。料理のコツというものは、けっきょくは、包丁さばきとか味つけではなく、よい材料を使うということにある。
 
 おそらく、料理のよいあしの八十パーセントは材料によって決まる、といってさしつかえあるまい。ものを考えたり書いたりする頭の活動も、料理とおなじように、材料のよいあしが半分以上は決定的な力をもっている。

 そのためには、先輩・古人によって集積された情報を、貪欲にとりそろえることが先ず第一の作業である。つまり、読書の技術を上手に身につけることが、何よりも大事な仕事になるわけである。

 とくに、情報社会では読書のための便宜は、むかしよりもずっと向上した。こういう条件のなかで、どういうふうに本を読んだらよいものだろうか。 』


 『 つぎに、さっと目を通して、ツマらないものはどしどし捨てて行く技術を身につけること。

 将棋の木村元名人が、プロの将棋さしに必要な素質として、財布を外側からみて中にいくらあるか当てられるカンがなければならない、と言ったことがある。

 それほどのカンでなくても、本や論文をサッとながめて、読む価値があるかどうか、どれくらいの程度のものかを判断する力は、練習によって伸ばすことができよう。

 だいたい筆者には文の書き進め方に型があるもので、読み始めの数ページを気をつけて読めば、その型が見つかるものである。

 大きく分けて、ピラミッド型と逆ピラミット型の二つの型がある。ピラミッド型は、あまり重要でないことがはじめの方に述べられ、文のおわりにもっとも重要な記述がなされる型である。

 もう一つの逆ピラミット型は、文のはじめに重要な記述が出てきて、先に進むにしたがって重要度の少ないものが出てくる尻すぼみの型である。

 この練習をしておいて、本なり雑誌なりを読めば、読むスピードが早くなるし、つまらないものは早いうちに捨ててしまうことができるようになる。

 いってみれば、推理小説の種明かしをさきに読んでしまうような読み方だが、出版物の氾濫している今日、悪いものの早期発見法はわれわれの身につけておいてよいことだ。 』


 『 「続・やわらかい頭」(森政弘・片山龍二著)の中で読書を精読・多読と後ろから読む方法と三つに分けて説明している。

 第一の精読は、徹底的に、一字一句、コンマから句読点までみんな読む精読。理工学関係の本だと、むずかしい高等数学がでてくるから、それを全部一つ一つ検算をしてみて、誤植まで発見できるまで読む。

 すべて書いてあることを理解し、知識を吸収する読み方。第二の多読とは、出てくる一つ一つの式などにとらわれないで、その式の裏にある自然の法則の意味(物理的意味)を読む方法。

 式の間違いも、数学的な誘導から見つけるのではなく、物理的な意味からおして発見する。それから第三の後ろから読む方法、これは、第一ページから読むことをしないで、後ろの三分の一くらいのところをあけて読みはじめる方法である。

 学術的な本は、いちばんいいところがたいてい後ろの三分の一ぐらいのところにあるから、そこから読みはじめる。そして、どこかでつっかかったら前にもどってそのつっかかりを除く、またつっかかりができれば前を参照する、というふうに読む方法である。

 この著者は、読書の能力が上達するにしたがって第一・第三と読み方をかえて行く練習をすすめているが、これは、一冊の本の精読にも読み方の段階として応用できる。 』

 
 『 読書やカード・システムで得られたものは、集積された情報で、いわば整備・補給の段階にすぎない。これをもとにしてわれわれは自分自身の考えを生み出さなければならない。

 集積された情報をもとにして生み出すものは、まさに「つぎの一手」である。盤上の布石は、それまでに他人や自分によって積みかさねられた知識や考えについての情報であり、そこからもっとも効果的なつぎの手が生まれる。

 しかも、そのさい、将棋や碁と同じく、たんに理づめだけでなく、カンという直感も大いに働かせる必要がある。

 「つぎの一手」を見つけるためには、どうしたらよいか。わたくしは、すでに集積しているカードの補充と、そのカードからの離脱する二つの方向で仕事をすすめることにしている。

 カードの補充は、カードの山を分類して、関連あるもののグループに分ける。この操作は、川喜田二郎のK・J法に大いに学んだ。このあとで、そのカードの一つの束を何度も引っくり返しながら、あるカードについて気のついたことを記入し、新たに思い浮んだことをカードにとる。

 そして、この作業がある程度成熟したら、そのカードその他の資料を全部おしやって、「カード離れ」ということをする。うまく説明できないが、仕入れた材料が頭の中で醗酵する。 』


 『 名著といわれる本には、読者の情動レベルをおさえる上でいろいろな技術が、実行されている。それは、第一が、読者を自分の味方に引きずり込む技術。

 第二は、読者の信頼・尊敬をえる技術。第三は、読者を自分のリズムに乗せる技術。あまり上品な言い回しではないが、この三つを「だきこめ」「なめられるな」「のせろ」と若い人に解説することもある。

 たとえば、面白くて読みやすい小説は、会話の部分と地の部分が上手に組み合わさせてあるもので、具象(会話)と抽象(地)の変化で、知らず知らずのうちに読者をそのリズムに引き込んでしまう。

 その上、自然の美しい描写が加わって人事と自然の対象・調和が行われる。とくに自然描写は読者を緊張から解放させるためには、もっとも有効な方法だ。

 源氏物語は、文法も言葉も現代人にとっては難しいが、もし仔細に読んでみれば、会話と地の文、人事と自然の組み合わせが、理想的といってよいほどに巧妙におこなわれていることがわかる。

 あるいは芭蕉の「おくのほそ道」も、漢文調の文と和文調の文を章によって使い分け、さらに自然と人事を適度に変化させることによって作品全体のリズムがつくられている。

 それぞれの段の長さが文庫版で1ページから2ページの間になっている点も読みやすさを大いに手伝っている。漢文や日本の古典からの引用も、多すぎない程度に出てきて、抽象度の変化をつける役を果たしている。

 読者がいつの間にか読み進んで行くような魅力は、こういうリズムの中にもっとも多く含まれている。 』


 本書の著者は、ハーバード大学で、江戸文学、日本語を教えていた。武蔵高校、ケンブリッジ大学にも、席を置いたこともあり、わたしたちが考える時に使う、日本語と日本文化について、客観的に捉えられていると思う。(第47回)




ブックハンター「生物と無生物のあいだ」

2013-05-12 13:23:02 | 独学

45. 生物と無生物のあいだ (福岡伸一著 2007年5月発行)

 『 ウイルスは、単細胞生物よりずっと小さい。大腸菌をラグビーボールとすれば、ウイルスは(種類によって異なるが)ピンポン玉かパチンコ玉程度のサイズとなる。光学顕微鏡では解像度の限界以下で像として見ることはできない。

 ウイルスを「見る」ことができるようになったのは、光学顕微鏡よりも十倍から百倍もの倍率を実現する電子顕微鏡が開発された1930年代以降のことである。

 野口英世が黄熱病に斃れたのは1928年である。まだ世界はウイルスの存在を知らなかった。そして、彼が生涯をかけて追った黄熱病も、狂犬病も、その病原体はウイルスによるものだった。

 彼が、繰り返し繰り返し顕微鏡で観察したその視野の背景は、彼の性急さを一瞬でも押しとどめ未知の可能性を喚起するには、あまりにも明るく透明すぎたのだった。

 ウイルスを初めて電子顕微鏡下で捉えた科学者たちは不思議な感慨に包まれたに違いない。

 ウイルスはこれまで彼らが知っていたどのような病原体とも異なって、非常に整った風貌をしていたからである。斉一的すぎるとさえいってもよかった。

 科学者は病原体に限らず、細胞一般をウエットで柔らかな、大まかな形はあれど、それぞれが微妙に異なる、脆弱な球体と捉えている。

 ところがウイルスは違っていた。それはちょうどエッシャーの描く造形のように、優れて幾何学的な美しさをもっていた。

 あるものは正二十面体の如き多角立方体、あるものは繭状のユニットがらせん状に積み重なった構造体、またあるものは無人火星探査機のようなメカニカルな構成。

 そして同じ種類のウイルスはまったく同じ形をしていた。そこには大小や個性といった偏差がないのである。

 なぜか。それはウイルスが、生物ではなく限りなく物質に近い存在だったからである。

 ウィルスは、栄養を摂取することがない。呼吸もしない。もちろん二酸化炭素を出すことも老廃物を排出することもない。つまり一切の代謝を行っていない。

 ウイルスを、混じり物がない状態にまで精製し、特殊な条件で濃縮すると、「結晶化」することができる。

 これはウエットで不定形の細胞ではまったく考えられないことである。結晶は同じ構造を持つ単位が規則正しく充填されて初めて生成する。

 つまり、この点でもウイルスは、鉱物に似たまぎれもない物質なのである。ウイルスの幾何学性は、タンパク質が規則正しく配置された甲殻に由来している。

 ウイルスは機械の世界からやってきたミクロなプラモデルのようだ。しかし、ウイルスをして単なる物質から一線を画している唯一の、そして最大の特性がある。

 それはウイルスが自らを増やせるということだ。ウイルスは自己複製能力を持つ。ウイルスのこの能力は、タンパク質の甲殻の内部に鎮座する分子に担保されたいる。核酸=DNAもしくはRNAである。

 ウイルスが自己を複製する様相はまさしくエイリアンさながらである。ウイルスは単独では何もできない。ウイルスは細胞に寄生することによってのみ複製する。

 ウイルスはまず、惑星に不時着するように、そのメカニカルな粒子を宿主となる細胞の表面に付着させる。その接着点から細胞の内部に向かって自身のDNAを注入する。

 そのDNAには、ウイルスを構築するのに必要な情報が書き込まれている。宿主細胞は何も知らず、その外来DNAを自分の一部だと勘違いして複製を行う一方、DNA情報をもとにせっせとウイルスの部材を作り出す。

 細胞内でそれらが再構成されて次々とウイルスが生産される。それら新たに作り出されたウイルスはまもなく細胞膜を破壊して一斉に外へ飛び出す。

 ウイルスは生物と無生物のあいだをたゆたう何者かである。もし生命を「自己複製するもの」と定義するなら、ウイルスはまぎれもなく生命体である。

 ウイルスが細胞に取りついてそのシステムを乗っ取り、自らを増やす様相は、さながら寄生虫とまったくかわるところがない。

 しかしウイルス粒子単体を眺めれば、それは無機的で、硬質の機械的オブジェにすぎず、そこには生命の律動はない。

 ウイルスを生物とするか無生物とするかは長らく論争の的であった。いまだに決着していないといってもよい。それはとりもなおさず生命とは何かを定義する論争でもあるからだ。

 本稿の目的もまたそこにある。生物と無生物のあいだには一体どのような界面があるのだろうか。私はそれを今一度、定義しなおしてみたい。

 結論を端的にいえば、私はウイルスを生物であるとは定義しない。つまり、生命とは自己複製するシステムである、との定義は不十分だと考えるのである。

 では、生命の律動? そう私は先に書いた。このような言葉が喚起するイメージを、ミクロな解像力を保ったままでできるだけ正確に定義づける方法はありえるのか。

 それを私は探ってみたいのである。このことの前提として、私たちは今一度、自己複製という概念の成り立ちの周辺をあとづけてみる必要があると思う。 』


 『 「縁の下の力持ち」を英語ではなんといえばよいだろうか。私が愛用している「日米口語辞典」によれば、"an unsung hero"とある。

 歌われることなきヒーロー。サイデンステッカーと松本道弘によって作られたこの画期的な辞書は出版後三十年を経過するけど今なお読むほどに楽しい。

 二十世紀は生命科学が幕をあけ、そして華やかに開花した時代だった。では、その幕を最初に開いたのは一体誰だろうか。

 1953年、イギリス・ケンブリッジ大学にいたジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックは、DNAが二重ラセン構造をしているというあまりにも美しくかつシンプルな事実を発表し、世界を驚かせた。

 当時、ワトソンはまだ二十代、クリックも三十代だった。この発見は、それまでまったく無名の若手科学者だった彼らをして、二十世紀の生命科学史上最大のスターに押し上げた。

 この”オーバーナイト・サクセス”は彼らの前に真紅の赤じゅうたんを用意し、それは、後年、ストックホルムでのノーベル賞授賞式にまで一直線に伸びていた。

 いうまでもなく彼らは賞賛をほしいままにしたサング・ヒーローズ(sung heroes)である。

 プロローグでも述べたように、二重ラセンが重大な意味を持っていたのは、その構造が美しいだけでなく、機能をその構造に内包していたからである。

 ワトソンとクリックは論文の最後にさりげなく述べていた。この対構造が直ちに自己複製機構を示唆することに私たちは気がついていないわけではない、と。

 DNAの二重ラセンは、互いに他を写した対構造をしている。そして二重ラセンが解けるとちょうどポジとネガの関係となる。

 ポジを元に新しいネガが作られ、元のネガから新しいポジが作られると、そこには二組の新しいDNA二重ラセンが誕生する。

 ポジあるいはネガとしてラセン状のフィルムに書き込まれている暗号、これがとりもなおさず遺伝子情報である。

 これが生命の”自己複製”システムであり、新たな生命が誕生するとき、あるいは細胞が分裂するとき、情報が伝達される仕組みの根幹をなしている。

 若きワトソンとクリックが、DNAの構造を解きさえすれば一躍有名になれると思ったのは、DNAこそが遺伝情報を運ぶ最重要情報分子だと、あらかじめ知っていたからである。

 では、誰が、DNAイコール遺伝子だと世界で最初に気づいたのだろうか?それは、オズワルド・エイブリーという人物である。 』


 『 肺炎双球菌は肺炎の病原体だった。これは単細胞微生物であり、ウイルスではない。通常の光学顕微鏡でも観察することができる。

 この菌にはいくつかのタイプがあった。大別すれば、強い病原性をもつS型と、病原性をもたないR型である。S型からはS型の菌が、R型の菌からはR型の菌が分裂によって増える。つまり菌の性質は遺伝する。

 エイブリーの先達としてイギリスの研究者グリフィスがいた。グリフィスは奇妙なことに気がついていた。

 病原性のあるS型の菌を加熱によって殺す。これを実験動物に注射しても肺炎は起こらない。当然である。

 また、病原性のないR型の菌をそのまま実験動物に注射しても肺炎は起こらない。当然である。

 しかし、死んでいるS型菌と生きているR型菌を混ぜて実験動物に注射すると、なんと肺炎が起こり、動物の体内からは、生きているS型菌が発見されたのだ。

 これは一体どういうことだろうか。S型菌はたとえ死んでいても、何らかの作用をもたらしR型菌をS型菌に変える能力をもつ、ということである。

 グリフィスは、この作用がどのようなものかを解明することはできなかった。

 エイブリーはこの不思議な現象の原因を突き止めようと考えたのである。S型菌をすりつぶして殺し、菌体内の化学物質を取り出す。それをR型菌に混ぜるとR型菌はS型に変化する。

 エイブリーは、菌の性質を変えうる化学物質が一体何であるか、究明しようとした。菌の性質を変えうる物質。それはとりもなおさず「遺伝子」のことである。

 彼は遺伝子の化学的本体を見極めるという生物学史上最も重要な課題にチャレンジを開始したのだ。しかし慎重で控えめなエブリーはこの物質を遺伝子とは呼ばず、形質転換物質と呼んでいた。

 当時、すでに遺伝子の存在とその化学的実体について多くの予測がなされていた。遺伝子は形質に関する大量の情報を担っている。したがってきわめて複雑な高分子構造をしているはずである。

 細胞に含まれる高分子のうち、複雑なものの第一はタンパク質だ。だから遺伝子は特殊なタンパク質であるに違いない。これが当時の常識だった。

 エブリーももしろんそのことを知っていた。しかし、彼の実験データがしめしている事は、遺伝子がタンパク質であるという予測とは違っていた。

 エブリーはS型菌からさまざまな物質を取り出し、どれがR型菌をS型菌に変化させるかしらみつぶしに検討していった。

 その結果、残った候補は、S型菌体に含まれていた酸性の物質、核酸、すなわちDNAであった。

 核酸は高分子ではあるけれど、たった四つの要素だけからなっているある意味単純な物質だった。だからこそに複雑な情報が含まれているなどとは誰も考えていなかった。

 今日の私たちは、たとえば0と1という二つの数字だけからでも、複雑な情報が記述でき、むしろそのほうがコンピュータを高速で動かすには好都合だということを知っている。

 しかし、当時、情報のコード(暗号)化についてそのように考えられる研究者は、少なくとも生物学者にはいなかった。

 エブリーも自分の実験結果に半信半疑であった。何度も実験を繰り返し、いろいろな角度から再検討を行った。しかし、結果はただひとつのことを示していた。

 遺伝子の本体はDNAである。 』


 『 ロザリンド・フランクリンは、自分が独立した研究者であり、DNAのX線結晶学が自分のプロジェクトだと考えていた。ところが、彼女が所属する前からロンドン大学キングスカレッジでDNA研究に携わっていたモーリス・ウィルキンズの認識は異なっていた。

 ウィルキンソンは、フランクリンを自分の部下だとみなしていた。そして自分がDNA研究プロジェクトの統括者だと考えていた。

 X線結晶学に疎いウィルキンソンは、フランクリンの参加によって自分のプロジェクトが大いに推進されることを期待していた。この齟齬が不幸の始まりだった。

 まず試料としてできるだけ純度の高いDNAが必要となる。次に、それを結晶化させなければならない。結晶化にセオリーはない。それは21世紀の現在でも同じである。ある意味でX線結晶学成否の鍵はすべてここにある。

 X線を照射し、データとして十分な散乱パターンを得るためには、大型でしかも美しい結晶を作り出す必要があるのだ。

 散乱パターンを解析する数学的な作業も並大抵のことではない。今日、この部分はきわめて複雑で困難な計算はコンピュータプログラムが代行してくれるが、フランクリンはこれをすべて手計算でこなしていたのである。

 曖昧さや妥協を一切許さないフランクリンは研究所内でことあるごとにウィルキンソンと衝突した。ウィルキンソンとフランクリンが所属していたロンドン大学キングスカレッジと、ワトソンとクリックが所属していたケンブリッジ大学キャベンブリッジ研究所はDNA構造解明を巡ってライバル関係にあった。

 しかし、両者の私的なレベルでは友好関係にあった。特に、クリックとウィルキンソンは年も近く、古くから親交があった。

 ここに三冊の本がある。ワトソンが書いた「二重らせん」、クリックが書いた「熱き研究の日々」、ウィルキンソンによる「二重らせん 第三の男」である。

 1968年、ワトソンが出版した「二重らせん」は科学読み物としては異例の大ベストセラーとなった。

 しかし、多くの読者が気づかなかった事実がある。この本はまったくフェアではなかったのだ。著者ワトソンだけが、無邪気な天才という安全地帯にあって、他の人々はあまりにも戯画化されすぎたいた。

 複数の関係者が意義を唱えた。クリックでさえも不快感を表明した。この中で最も不当に記述されたのがロザリンド・フランクリンだった。

 彼女はウィルキンソンの”助手”とされ、気難しく、ヒステリックで、それでいて自分のデータの重要性にも気がつかないような暗い女性研究者”ロージィ”として描かれていた。

 ワトソンは、不正な方法で入手されたロザリンド・フランクリンの撮影のDNAデータを見たとき、どの程度、”準備された心”(プリペエアード・マインド)あるいは理論負荷があったのだろうか。

 彼の自伝「二重らせん」によれば、ウィルキンソンがこっそり見せてくれたX線写真を見て、そのデータが意味するところを瞬時に理解して稲妻にうたれたかのごとき衝撃を受けた様子が描かれている。

 「その写真を見たとたん、私の口はあんぐりとひらき、鼓動が高鳴り始めた」ほんとうなのだろうか。意図的にしろ無意識にしろ、これは後から作られた発見のドラマであって、当時、ワトソンもそしてウィルキンソンも、すぐにデータの詳細を解読できるほど、X線結晶学に精通していたわけではなかったというのが真相のようだ。 』


 『 DNA結晶を撮影したフランクリンのX線写真は、後になって見事なデータとの評価を受けることになる。が、それは一瞥しただけではフィルム上に、黒い点々が四方に飛び散ったようなきわめて抽象的な画像にしか見えず、それこそ胸部レントゲン像以上に取りとめないものである。

 それを意味づけるためには、手間隙のかかるさまざまな数学的変換と解析が必要になる。垣間見ただけでそれがワトソンにできたとはにわかに信じがたい。もし、ウィルキンソンの側に「理論負荷」があって、その意味するところを十分把握していたとすれば、その最重要データをやすやすとライバルに見せるはずもない。

 むしろこのドラマの登場人物の中で、X線結晶構造解析について最も「準備された心」をもっていたと思われるのは、物理学出身で、すでにタンパク質X線データの解析の経験もあったフランシス・クリックだった。

 ところが、クリックは自署「熱き探求の日々」に於いて、「私の方は当時、その写真を見たことがなかったのだ」と記している。これはおそらく正確ではない。

 クリックが、しかし、自伝の中で注意深く触れることを避けているある事実が存在する。それこそがDNA構造を解く上で決定的な鍵を握っていたのであり、また、科学者の営みを評価するピア・レビューの陥穽を浮き彫りにするものでもあった。

 フランクリンは1952年、自分の研究データをまとめたレポートを年次報告書として英国医学研究機構に提出した。英国医学研究機構は彼女に研究資金を提供している公的機関である。それによって、資金提供の可否が決定される。

 だからフランクリンはあらん限りの成果を詰め込んで詳細な報告書を作り上げた。ただし、これは学術論文ではない。したがって厳密なピア・レビューを受けることもなく、公表されることもない。

 しかし、英国医学研究機構の予算権限を持つメンバー達がこの報告書に目を通すことになる。その中に、マックス・ペルーツがいた。

 ペルーツは機構の委員であり、かつ、クリックの所属するケンブリッジ大学キャベンディシュ研究所では、彼の指導教官にあたる立場にいた。

 フランクリンが英国医学研究機構に提出した報告書の写しはまずペルーツに行き、そこからクリックの手に渡った。

 クリックは、誰にもじゃまされることなく、フランクリンのデータをじっくりと見ることができたのである。

 この報告者はワトソンとクリックにとってありえないほど貴重な意味を持つ文章だった。そこには生データだけでなく、フランクリン自身の手による測定数値や解釈も書き込まれていた。

 つまり彼らは交戦国の暗号解読表を入手したも同然だったのである。そこにはDNA結晶の単位格子についての解析データが明記されていた。

 これを見ればDNAらせんの直径や一巻きの大きさ、そしてその間にいくつの塩基が階段状に配置されているかが解読できたはずである。

 その上で報告書にはさりげない、しかし最も重い意味をもつ記述があった。「DNAの結晶構造はC2空間群である」

 この一文は、そのままクリックのプリペアード・マインドにストンとはまった。あたかもジグゾーパズルの最後のピースのように。

 C2空間群とは、二つの構成単位が互いに逆方向をとって点対称的に配置されたとき成立する。

 クリックの心には、タンパク質ヘモグロビンの結晶構造がC2空間群をとっているという理論の負荷がしっかり過ぎるほどしっかりとかかっていたのである。

 彼はこのヘモグロビンの解析構造にそれこそ飽き飽きしていたのだ。

 Chance favors the prepared minds. チャンスは準備された心に降り立つ。パスツールが語ったとされるこの言葉のとおりのことが起きた。

 二本のDNA鎖は、反対方向を向きながら互いに絡まりあっている! クリックによって、データはたちどころにそう解釈された。

 このときAとT、GとCの塩基対は、鎖の走行と90度の平面を取ってぴったりとDNAらせんの内部に納まることになる。反対方向に対合するDNAの複製も互いに逆方向に起こる。マリスのPCRもこの上で成立する。すべての鍵がここにあった。

 おそらく、ワトソンとクリックはこの報告者を前にして、初めて自分たちのモデルの正しさを確信できたのだ。すぐに彼らは論文を「ネイチャー」誌に送った。

 DNAラセン構造が明らかにされてからおよそ十年がたとうとする1962年ノーベル賞授賞式の壇上には、この発見を成し遂げたジェームス・ワトソン、フランシス・クリック、そしてモーリス・ウィルキンソンにノーベル医学生理学賞が授与された。

 同じ壇上には、タンパク質の構造解析への貢献を認められたマックス・ペルーツの姿があった。彼には化学賞が与えられた。

 最も重要な寄与をなしたはずのロザリン・フランクリンの姿はどこにもなかった。彼女はこの年の4年前の1958年、ガンに侵されて三十七歳でこの世を去っていた。一説によれば、X線を無防備に浴びすぎたことが、彼女の若すぎる死につなっがったといわれている。 』

 私もこの本の一部しか理解できてませんが、最先端の難解な分子生物学を推理小説のように丹念に、わくわくさせる日本語で、科学史上のその現場に居合わせたかのように、更につぎの現代生物化学上のテーマに読む人を引き込んでゆき、シュレディンガーの問い、シェーンハイマーの動的平衡とは何か、へと展開される。(第46回)