9. 武士の娘 (杉本鉞子著 1994年発行)
本書は、「A DAUGHTER OF THE SAMURAI」として、1966年に米国で出版された。杉本鉞子は、1873年(明治6年)、越後長岡藩の家老稲垣家にうまれ、武士の娘としてのきびしい躾と教養を身につける。渡米し貿易商杉本氏と結婚。夫の死後ニューヨークに住み雑誌「アジア」に「武士の娘」を連載、7ヶ国語に訳され好評を得る。コロンビア大学で日本文化史を講義するなど活躍した。
『初めて私が牛肉というものを口にいたしましたのは、八歳の頃でございました。殺生を禁ずる仏教が伝わってから千二百年間というものは、日本人は獣の肉はいただきませんでした。
今でもよく憶えておりますが、ある日私が学校から帰って参りますと、家中の者がみな心配そうな顔をしておりました。玄関に入りますと、すぐに、何か重苦しい空気が感ぜられました。母が女中になにか申しつけている声も低く、調子もぎこちなく、唯ならぬ気配でございました。
畳に手をついて、小さな声で「お祖母さま、ただいま帰りました」と、いつものように挨拶いたしました。祖母は、それに応えて、やさしく微笑みましたが、いつになく厳しい顔つきでした。
祖母と女中とは金と黒漆とで塗られたお仏壇の前に座りました。傍らには、障子紙を載せた大きなお盆があり、女中は仏壇の扉にめばりをしているところでございました。
「お祖母さま、どなたか、どなたかお亡くなりになりそうなのでございますか」祖母は半ばおかしそうな、半ばびっくりしたような顔をいたし、「エツ坊や、そんな思い切ったもののいいかたは、まるで男の子のようではありませんか。
女の子というものは、そんな不作法な口の利き方をしてはいけません」と申しましたので、私は「相済みませんでした」とは申しましたものの、やはり気になりますので、もう一度「でも、お仏壇にめばりがしてあるではございませんか」と尋ねました。
やがて祖母は腰をのばして、私の方へふりむき、ゆっくりした口調で、「お父さまが家中で牛肉を食べようとおしゃったのでね。何でも、異国風の医学を勉強なされたお医者様が、お肉を頂けば、お父様のお身体も強くなり、お前たちも異人さんのように、丈夫で賢い子になれるとおしゃったそうでね。
もうじき牛肉が届くという事ですから、仏様を穢してはもったいないと、こうしてめばりをしているわけなのです」と申しました。
その夜、私達一家は、肉の入った汁をそえた、ものものしい夕食を頂きましたが、お仏壇の扉はすっかり閉されており、ご先祖様と一緒でなかったことは、ものさびしゅうございました。その夜、私は祖母に、何故、みんなと一緒に召上らなかったのですかと尋ねますと、
「異人さんのように強くなりたくもなし、賢くなりたくもありません。ご先祖様方が召上った通りのものを頂くのが祖母(ばば)には一番よろしいがの」と、悲しそうに申しました。
姉と私は二人で、そっとお肉の美味しかったことを話し合いましたが、他の誰にもこんなことは申しませんでした。二人とも、幼いながらも、大事なお祖母様の心にそむくことはいけないことだと思っていたのでございましょう。』(旧と新)
『嫁してこの家を離れ、他家の人となる姉はご先祖にいとまごいをいたしました。深く頭をたれた姉のそばに、にじりよった母は、美しい箱をさしだしました。それは松竹梅の模様をちりばめた美しいもので、おばあさまのお手になったものでした。
それから母は、戦いにいでたつ武士のようにおおしく、新しい生涯に立ち向かうようにと、おきまりの門出のことばを言いきかせ、ついで「毎日、この鏡をごらんなさい。もし心にわがままや勝ち気があれば、かならず顔にあらわれるのです。よくごらんなさい。
松のように強く、竹のようにものやわらかに、すなおで、しかも雪に咲きほこる梅のように、女のみさおを守りなさい」と申しました。』(二つの冒険)(第10回)
8.分類の発想 (中尾佐助著 1990年発行)
『地球上に生きている生物は、植物といわず、動物といわず、微生物といわず、いずれも、ある形式の分類能力を持っている。それは生物はことごとく原則として、有性生殖をしており、同種(スピーシス)の相手と有性的に結びつく能力を必要とするからである。
同種であっても、結合は異性であることが必要である。異性であっても、その異性が適期であることが必要である。サルでも、牛馬でも、鳥でも昆虫でも、たぶんミミズ、カタツムリ(雌雄同体)でも同様であろう。
これらは、いずれも他の動物から同種の動物を認識するという分類をなし、さらにその中から異性を認識するという分類をしている。このように生物が自己と同種の個体を認識、分類することを私はアイデンティティとよぶことにしよう。
生物はこのアイデンティティの能力を持つことによって、自己の種族を後世に伝え地球の歴史と共に生きつづけてきたわけである。このアイデンティティの能力は、生物に共通の特色で、それは生物体がことごとく、細胞から成立していると同様に、生物であることの基本要件となっている。
アイデンティティは生物が有性生殖という生殖法をとって生きはじめてから、欠くことのできない前提的能力になったのである。くだいていえば、分類学の始まりは、有性生殖の始まりから始まったということになろう。(アイデンティティ)』
『意識というものがないとされている植物界を見ると、アイデンティティの機構は意外にみごとに発達していることが、だんだん判ってきた。簡単な話で、サクラの花にナノハナの花粉をつけても、受精しない。
そういう分別能力が体内に遺伝的にビルド・インされている。このような場合に受精しない分別能力はほとんどすべての植物に共通しており、誰も不思議とは思わないが、それは、それぞれにアイデンティティの能力が備わっているからだと表現できよう。
ところでサクラもナノハナも雌雄同花で、一つの花の中に雄しべも雌しべもついており、花粉が出る。しかし同じ株の花の花粉が雌しべについても、受精はうまくできない。これは、自花不和合性といわれる現象で、植物界ではかなり普通な現象である。
ナシの二十世紀は自花不和合性で、その果樹園では、何本かに一本の割で別のナシの品種を植える。なぜなら二十世紀ナシ園の木は全部同じ親から接木した木であるから、隣の木は同じ木である。
日本中にある染井吉野も同じである。日本中にある染井吉野はただ一本の木だから気候の変化に応じて正しい反応をするのである。(自花不和合性)』
『タイクソンとは、あるシステムにのっとて、設定された分類の単位であると定義できよう。タイクソン(taxon)は分類、分類学と類縁語である。植物図鑑を見ると、種(スピーシス)というタイクソンは、属、科、目、網というマクロタイクソンに従って整然と配列されている。
クライテリオンとは、何かの物とか、あるいは概念などを分けて分類しようとすると、そのときには分けるための、何らかの分類のための標準、基準といったものが登場してくる、この標準、基準にあたるものがクライテリオン(criterion)で、範疇という難しい言葉でいう場合もある。全植物を例えば、寒帯植物、温帯植物、熱帯植物に分類することも、また人間が利用する見地に立つクライテリオンで、食用植物、繊維植物、用材植物、工芸植物、薬用植物、燃料植物、観賞植物といった分類もできる。』
中尾 佐助(1916年 - 1993年)は、植物学者。専門は遺伝育種学、栽培植物学。著書には、「栽培植物と農耕の起源」、「照葉樹林文化」「続照葉樹林文化」「料理の起源」「秘境ブータン」など。中尾は初め稲の起源をインドのアッサム地方としていたが、「照葉樹林文化」では東亜半月弧に変更する。東亜半月弧とは中国雲南省南部とタイ北部、ビルマ北部あたりの三日月形の地域で、ここから日本西南部にかけてを照葉樹林帯と名付けた。稲はこの東亜半月弧の焼畑農業から始まったとした。
焼畑の雑穀(ヒエ、アワ、陸稲など)から陸稲が選抜され、それを棚田に株分け(田植え)するようになったというものだ。
照葉樹林文化は焼畑農業、モチ種の嗜好、ヒエ、アワ、ダイズ、アズキ、稲、サトイモ、茶等々の栽培、納豆、漆器がセットになっている文化複合だとした。(第9回)
7. 勝負 (升田幸三著 昭和45年発行)
『私の父というのが、大変力が強かった。三十貫(約百二十キロ)くらいの石を持ってグワッとさしあげる。これは大変な力ですよ、かかえあげるんじゃない、さしあげるんだから。
そういう力持ちでしたから、賃仕事にマキ割にいく。私は子供のとき、よくついて行ったもんですが、朝早く、まだ霧の深い時分から、親父はせっせと割るわけだ。日が出ると暑くなるから。
ところが日が高くなってから、六十がらみとも思われるじいさんが、やはりマキ割にやってくる。このじいさんが、来るのが遅いが、帰るのはまた早い。中途でなんべんも一服すったりして、斧の手入れをしている。
それでいて、親父よりもずっと量が多いんだな、その割っとる量が。別に力が強いわけでもなんでもない。親父のは斧がひっかかたりするんだが、そのじいさんは、ホイホイとかるく割る。
わたしゃ親父のほうへばかり悪いマキがくるんじゃないかと思ったくらい、じつに楽にやる。それが子供心にも、不思議でかなわんわけだ。それでじっと見とりますと、フシのついた木がくる。そのフシのついた木で、親父は難儀しとるんだ。
じいさんはフシがあってもなくても同じなんです。よく見るというとじいさんは、フシの上から撃つ。ところが、親父はフシを避けて叩くから、それで引っかかる。じいさんは、フシの目から叩きおろすんです。
それが私の記憶に残ってまして、のちになって、なるほどと思ったんですよ。そうだ、フシを避けるからいかん、フシにじかにぶつかればいい。人生、ここにあると。しかも親父は力で割ろうとしたからいけなっかた。
じいさんは斧で割るから、それでいつも斧の手入れをしとったわけだ。そこでね。これは私が、生きてゆくうえで、たいへん参考になったものでした。』(節を撃つ)
『スランプ、というのがありましょう?あれは、なかなかつらいもんです。つらいからよけい、安易に楽しよう楽しようということになるが、そうなるとかえって脱却できないのがスランプだ。
ところが、これじゃいかん、よし、苦労に直面してそのなかに自分を没入させてやろう。そう決心したとき、実はスランプから脱却できる光明がすでにさしてきているときといっていい。
これは私の長い経験からいうんですが、たとえば好きなタバコを絶つとか、対局中に相手の二倍ほど読んでみようとか、そこへ性根がすわったときが、もう正常に復調したときです。ここがスランプの面白いところだ。
私はサラリーマンになったことはありませんが仕事上の不調という点では、同じことがいえると察します。つまり仕事に没入してゆく以外に、不調から脱する道はないのだと。
よく、くさくさするからあすは一つ山へでも気晴らしに行くか・・・などと聞きますが、あれはうそだ。レクレーションにはなるかもしれないが、スランプから脱する手段にはなりません。
まっしぐらに行くんですよ、体当たりで、するともうその気魄だけでその人はなかば不調から脱したといってもいいくらいです。』(スランプ克服法)
升田幸三の功績は2つあります。 一つは羽生善治と並び史上最強の棋士とされる大山康晴名人に、香車という駒を引いて勝ってしまった事です。もう一つはマッカーサー司令部(GHQ)から将棋を守ったことです。 「チェスでは取った駒を殺すんだろ?それこそ捕虜の虐待だ。日本の将棋は敵の駒を殺さないで、それぞれに働き場所を与えている。常に駒が生きていて、それぞれの能力を尊重しようとする正しい思想である」この一件のお陰で吉田茂の外交がやりやすくなった話は政界において有名です。(第8回)
6. 植村直己と山で一泊 (ビーパル編集部編 1993年発行)
『入部する前に、ちょっと様子を見てみようと思って、おそるおそる地下にあった山岳部を覗きにいったんです。たちまち上級生らしい部員につかまりました。それで三日後に白馬で新人歓迎合宿をやるからお前もぜひ来いという。
白馬がどこにあるかも知らないんだからポカンとしていると、靴はこれを履け、ズボンとシャツはちょうどいいのがあるから貸してやる。ザックとピッケルは部屋にあるからそれを使えと、あれよあれよというまえに勝手に向こうに決められてしまった。ま、半分ペテンにかかったようなものです。(笑)
八方尾根にあった山岳部の小屋に入るまでは楽しかったんです。北アルプスの山を初めて見て驚いたりしてましたから。翌日からの白馬登山がすごかった。新人はいきなり三、四十キロのザックを背負わされ、休みなしで一時間も急斜面を歩かされる。雪道に入って足をすべらせて転ぶと「なにやってんだバカモン」です。上級生は鬼だと思いましたね。
僕は新人の中でいちばん小柄で、まあ体力も弱くて、最初にバテちゃったんですが、バテたからって許してくれるどころか、ピッケルで尻とか足を小突いたりぶったりですからね。それから雪上トレーニング。
新人の中でも高校時代に山に行っててピッケルの使い方を知ってる人もいるわけですが、僕は初めてでしょう。「バカ、鈍い」てピッケルで尻を叩かれぱなしでした。しまいには、これはへたすると殺されるんじゃないのかて、本気で思ったですよ。
帰ってきて、もうやめようかと思い、その後も何度かやめようと思ったんですが、自分でも意地があったんでしょうね。今から思うと、苦しかったのは自分ひとりじゃなくて、新人はやっぱりヒーヒーいってたんですね。
合宿のたびに一人欠け、二人欠けしていって、最初二十人ほどいた一年生が、二年になると五人になっていましたから。まあこちらは、しがみついているのが精一杯でまじめに合宿に参加して、年に百二、三十日は山に入っていました。』
『(BP)ヒマラヤの本格的登山までいかなくても日本のやまなどで服装の上で注意すべきポイントは何でしょうか。
意外に大事なのは、下着の替えを常に持っていることです。極地でも山でも、体を濡らさないことが、体力の消耗を防ぐ大事なポイントです。
山で濡れたら、おっくうがらずに、寒いのを我慢して、乾いたシャツに替えることです。これによって体力の消耗が大幅に違ってきます。下着、セータ、雨合羽この三つは必ず持つ習慣をつけるのがいいと思います。』
日本人初のエベレスト登頂や、北極点犬ぞり単独行、アマゾン川6千キロ筏下り、グリーンランド単独犬ぞり横断など、さまざまな冒険に挑み、成功した男が最後の冒険に出かける前に、ビーパルのスタッフとともに一泊二日のキャンプを楽しんだ。焚き火に顔を火照らせながら、とつとつと彼でしかありえない生き方を語る。翌1984年冬、マッキンリーで消息を絶ってしまう。(第7回)
5. 原野の料理番 (坂本嵩著 1993年発行)
『お伽の国の老人は、枯れたとうきび畑の向こうから現れた。窪んだ目は、太く濃い眉と長いまつげに縁どられ、肩まである銀髪と見事な白いあごひげが没しようとする晩秋の西日に燃え立つように輝いていた。
背丈はせいぜい百五十五センチくらい、背中には旧式の単発銃を斜めにかけ、腰には大きなマキリ(短刀)を吊るしていた。原野の人達はこの老人を又吉爺さんと呼んでいた。年齢は八十近いというが、本人も正確なことはわからないという。
爺さんの記憶力は全くすばらしい何年何月何日、どこの川で鮭を何本獲ったかというようなことを実によく覚えている。爺さんが始めてシャモの娘を見たのは十六の頃だという。そして熊を初めて仕止めたのは二十歳。
ある日一人で鉄砲を背にやまべ釣りに行った時、ある沢でこくわの蔓がからんだ大きな木の太い枝に、中くらいの大きさの熊がでんとまたがって、こくわの蔓をたぐり寄せその実を食べている所に出くわした。
話が少しそれるが、こくわとはサルナシという。胸を高鳴らせながら静かに射程内に近づくと熊も彼に気づいて木の上から吠えかかる。初めて熊に銃を向けた又吉青年は手が震えて照準が定まらない。
ままよとばかりに、近くの小さな木の枝に手ぬぐいを裂いて銃身をしばりつけ固定し、しっかりと照準をあわせてぶっ放した。熊を目の前にしてこの冷静さ、むやみにぶっ放さなかったのはさすがに狩猟民族の血か。
弾丸は熊のどてっ腹に穴を開け、ドサリと木の上から落ちて来たが、致命傷ではない。向かってくるかと身構えたが、敵は傷口からはみ出した腸が枝に引っかかるのを引きちぎって逃げた。しばらく追うと草の中で息絶えていた。
ざっとこういうところが、又吉爺さんの輝かしい初陣である。それ以来数限りなく熊を撃ったが、八十にななんとする今も、野宿をしながら熊を執拗に追い詰めてゆく、このエネルギーはどこから来るか。我々農耕民族には計り知れないところがある。
追い詰めた熊は至近距離まで引きつけてからぶっ放す。熊は一定の縄張りをある期間を置いて巡回するという。永年の経験からこの道すじの草の中に先回りして待ち伏せる。何も知らない熊は、ガサゴソと草を踏んで近づいてくる。
至近距離まで引きつけておいて、おもむろに咳払いをする。熊は何ごとかと、後肢で立上がり、深い草の上に首を出してあたりをうかがう。その瞬間心臓めがけて銃をぶっ放す。
四つん這いで歩いている時は心臓に当てるのはむずかしいので、我々から見ると大胆不敵なまた危険この上もない方法をとるのだという。もし当たらなかったらどうするかと聞けば、「なに、わしゃ二間(4メートル弱)まで来なきゃブタないから目つぶても当たるよ」と涼しい顔である。
「不発したらどうするの」と僕たちは声をふるわせた尋ねた。「そんときは、熊の腹の下に飛び込むのよ。そしてマキリで心臓をえぐってやるのサ」爺さんは、ほとんど銃を肩で構えないという。腰のあたりに構え、熊の体に押しつけるようにして、撃つのだという。
鉄砲を見せて貰ったが、これが恐ろしい年代もので、台尻と銃身ゆるんでガタガタの単発銃である。その上照準も狂っている。爺さんにいわせると、手が届くくらいの近さで撃つので照準などいらないのだという。』
この文章の臨場感と又吉爺さんの姿は、孤独な、男らしさで、失われたアイヌ文化の郷愁を私は、感じた。(第6回)
4. 苦境からの脱出 (安藤百福著 平成4年発行)
『保存性、簡便性の二条件を満たすには、乾燥するのがよさそうだが、短時間で元に戻る乾燥法である必要がある。人類は有史以前から、食物の保存に知恵をしぼってきた。気まぐれな自然のなかでは、不作、不漁は、避けられないからだ。
塩蔵、乾燥、燻煙など、さまざまに工夫がなされて来た。私は結局、油熱による乾燥にたどりつくのだが、伝統的な保存法を一つ一つたどっては捨てていった。最初のうち、油熱も多くの乾燥法の一つにすぎなかったのである。
油熱のヒントはテンプラにあった。材料にメリケン粉を水で練ったころもをつけて熱した油に入れると、ころもは瞬間的に水をはじきだして、ポッポッの穴が沢山できる。私は自分で料理を楽しむ趣味を持っていたから、このことを熟知していたのである。
めんのかたまりも、油を通すと、同様に無数の穴ができる。つまり多孔質を形成するのだ。湯に入れると多数の穴に侵入し、短時間で元に戻る。』
『カップは、即席めんを包む包装材料である。ところが、湯を注いで蒸らす時、それは調理器具となる。さらにフォークで食べるとき、食器の用を足す。一つで三役をこなす。上が広く、底が狭い逆円錐形容器にものを収めるのは、考えたほど簡単ではなかった。』
『めんのかたまりを容器より小さめにして、下に落とし込めば、ストンと入るだろう。しかし、これでは衝撃でめんが痛む。運搬中に転がって、めん自体が崩れる原因にもなる。上にのせたつもりのかやくも、こなごなにくだけて、めんと混じってしまう。しかも、湯をかけたとき一様に戻らない。
「容器にものを入れる」「包む」といった作業は、たいていの場合、簡単に考えがちである。ところが、時によると商品化の死命を制することさえある。私の前に立ちふさがった壁がまさにそれであった。
「底につけてだめなら、中ほどに浮かしてみようじゃないか」開発するものによっては袋小路を出られない場合がある。しかし、それは常識のワクの中だけで考えているためである場合が多い。古来、宙に浮かして包むという方法はない。だから、できないし、やるべきでないというのが常識だった。時代がかわれば、技術は進歩する。すでに非常識は常識化しているのだ。
「宙づりにしたからといって、どんなメリットがあるのか」誰もが、最初のうちは半信半疑だった。いいだした私でさえカップヌードルを製造する上で決め手となるほど重要なアイデアとは、思いもよらなかった。だが、具体化してみるとその利点は驚くべきものがあった。
まず、第一に宙づりのめんが、カスガイの役目をして、容器を補強する。運送中、乱暴に扱われても、こわれることはない。第二に、しっかり固定されるので、めんが揺れて崩れる心配がない。第三に、めんを戻すとき、湯が平均にゆきわたり、ムラができない。底にへばりつくこともない。
めんのかたまりを、上が密で下が疎につくっておけば、平均的に戻る。下部の空間に降りてきた熱湯はめんを下から包み込み、全体をやさしくほぐしていくからだ。第四に、上部の空間にかやく類を体裁よく盛ることができる。フタを開けたとき、エビや、卵、肉、野菜がパッと目に入り、商品価値が高まる。
宙づりのアイデアは、”中間保持”の実用新案として確立した。カップ入り即席めんの製法としていまだにこれ以上の方法はない。というより宙づりにしなければ、商品価値はいちじるしく劣る。』
カップめん開発の経過とブレークスルーの詳細を現場で頭の中身まで、観察しているように、明瞭に記述されている。(第5回)
3. 滅びゆくことばを追って (青木晴夫著 1983年発行)
1960年初夏、若き日本人言語学者は、アイダホ州ネズパース保護地に向かった。消えゆくことばネズパース語調査が目的である。アメリカ北西部の大自然に繰りひろげられる言語調査活動とインディアンとの交流を通して浮かびあったものは何か。これは、ことばによるインディアン文化発見の旅の瑞々しい記録である。
著者は、初夏のキャンプの集会で指名されて、次のように語りだした。
『本日は、かねてからうわさにも聞き、書物でも読んだことのあるネズパース族の皆様に、かくも多数お目にかかれて、たいへんうれしく思います。私がここへ来たのは、ネズパース語を記録に残すためであります。
私は短い時日の間に、皆様のように、美しく流暢にネズパース語が話せるようになるとは夢にも思っておりません。しかし、ネズパース語の話せる皆様が、記録保存のために具体的な活動をしておいでにならない以上、だれかがこの仕事をやらなくてはならないことは明らかであります。
皆様は、確かにりっぱにこのことばをお話になる。しかし皆様のお孫さんのうち、このことばを話せる人が何人あるでしょうか。私は、十歳以下でネズパース語が出来る人はほとんどない、と見てよいと思います。そのうち誰もこのことばを話す人がなくなってしまうわけです。
私は、今日や明日のために仕事をしているのではありません。5年、十年先のために仕事をしているでもありません。今から50年先、百年先、あなたがたも、私も、ネズパース語も、なくなったとき、その時のために私は仕事をしているのです。
何万年の間皆さんの祖先はネズパース語を話してきました。この長い歴史が、とうとう終わりに近づいていているのです。私はジョーゼフ酋長のような偉人を産んだネズパース族、短い期間の間に、アパルーサという世界羨望の的となるような馬の品種改良の才能を示したネズパース族、その人たちのことばが、誰にも記録されずに消滅するのは、人類にとって大きな損失であると思います。』
『このキャンプの片すみに汗ぶろがあった。 汗ぶろとは、英語のスウェットバス(Sweat-Bath)の直訳だ。ネズパース語の原名はウィスティタモ(Wistitiamo)という。
着いた所は、松林をしばらく降りていった小川のほとりの平たい所である。
ここに木枝を曲げ両端を地面に突きさしたものを、何本も使って、半球型の骨組みを作り、その上に毛布やいろんな物を乗せて作ったおわんを伏せたような家ができていた。人間が立つと腰までくらいしかない。このおわんの中に四つんばいになって四,五人がはいれるようになっている。
この回りには、まっ裸のインディァンが四、五人立ったりすわったりしていた。小川の一部が掘り広げてあって、ここには首までつかったのがふたりいた。私たち新着の一行が皆裸になると先着のひとりが「あいているよ」と言った。そこで四人、ぞろぞろ四つんばいになってこのおわんの中に入った。
中には麦わらが敷いてあって、汗臭い。わらは湿っている。中はまっ暗で何も見えない。さっきのひとりが外側から、入口のまくりあげてあった一枚の毛布をおろしてしまったのである。インディアンの年長のひとりが「さあ始めるか」と言った。皆が「よかろう」という。
「ガールフレンドの名は」「マリアン」「ああ、マリアンね。よしよし」そこでシュンシュンという音がした。この年長のインディアン、いわば汗ぶろの頭領は、「マリアン、マリアン」と言いながら、小さな洗面器にはいった水を、おわんの一隅に積み重ねてある焼けた石にぶっかけたのである。
熱い水蒸気がパッとからだを打つ、いい気持ちである。「お前はまだメアリが好きか」「そうだ」と返事があり、「メアリ」「シュンシュン」そこでまた湯気がパッと感じられる。こうして皆の女友だちの名が呼ばれた時、このおわんは水蒸気で一杯になった。
自分の体にふれると汗びっしょりである。不思議にそう熱いとは思わない。この蒸し風呂は、ネズパースに限らないのである。カリフォルニアのにもやるのがいる。ただしカリフォルニアでは、汗ぶろでも煙ぶろである。自己燻製式入浴法とでもいうべき妙なやり方だ。目を遠くに走らせると、フィンランド、トルコ、日本など北極圏を囲んで、一種の蒸し風呂文化圏とでも呼ぶべきものが、北米まで広がっていることになる。』
『思えば、今までいろいろな偉い先生にお目にかかったことがある。日本では服部四郎先生、金田一春彦先生、アメリカではインディアン語のハーズ先生、梵語のエメノー先生、言語理論のチョムスキー先生などだ。このかたがたは、世界第一流の学者である。それでいてその謙虚さといったらない。偉い人に限って、人をチンピラ扱いにしないものである。』(第4回)
2. 「聞き書き」砂金堀り飯場(武井時紀著 昭和57年発行)
『砂金鉱業は「拾う」ことから始まる。山間の川をさかのぼり、水底に輝く砂金を文字どおり手で拾うのである。黄金色に輝く砂金は、川底の砂れきのなかにあっても、するどく人の目をひきつける。しかも、金は化学的に安定な金属であり、すぐそのまま利用することが出来、選鉱も精錬の必要もない。高価である。北海道では、明治30年代の初期から、大正、昭和18年まで行われた。』
『昭和49年、私は音威子府村史の編集にたずさわる機会を得た。初めての村史発行である。村役場には文書や資料は、ほとんど残されてない。したがって机に向かうよりは、古老を尋ねて村内を歩く日が多かった。訪れた老人のなかに天塩川のある支流で、砂金堀りをしたという人がいた。老人を訪ねる日が多くなり、何冊かのノートになった。しかし老人の働いた現場は問寒別川で、隣村であり音威子府村史とは、無関係の内容であった。』
このようなに始まる「砂金堀り飯場」であるが、私が一番おもしろかったのは、以下の部分である。
砂金堀り飯場の親方の条件
1) 賃金の清算をキチンとすること
2) 酒を飲んでも泥酔しないこと
3) キタナイ女遊びをしない
砂金堀り飯場の飯たき女の条件
1) 公平に人夫に接すること
2) 愛きょうがあること
3) 料理が上手であること
4) 仕事が早いこと
5) きれい好きなこと
この親方の条件は、何とかクリヤーできる人はいると思うが、親方は20人の人夫をまとめ、夏の半年間で、成果を出すことが大変である。
砂金堀り飯場の命運は飯炊き女に握られている、朝3時に起きて、1升釜2つと鍋1つをかまどにかけ22人分の朝食と、昼のおにぎりとおかずを3時半にくる農家の手伝いのおばさんと6時までに用意する。さらに味噌汁の具は山菜を人夫の協力を借りながら、美味しく用意する。
飯たき女の条件が秀逸である、この条件を満足すれば、私に言わせれば、愛きょうがある(1/30)、料理が上手である(1/20)、きれい好きである(1/10)、仕事が早い(1/8)、公平に人夫に接する(1/25)すなわち、これは120万人に一人の条件であり、この条件をすべて満足すれば、皇族に嫁ぐことも可能ではと考えるのですが、笑い。
この本は1993年に読んで、この5つの条件を何回も反芻するとき、この5つの条件がなぜ秀逸か、今回初めて解かった、それは非常に高いレベルであるが、個人の研鑽と努力で到達可能な目標であることである。愛きょうがあるとは言っているが、美人とは言ってない、愛きょうは本人の努力でつくることが出来る。公平に人夫に接するは、努力で愛きょうを勝ち得た人だけに与えられるご褒美であろう。公平であるは非常に難しく人格者と同等の意味を持っている。
料理が上手で(北海道の山野の食材に精通しており、またその料理、保存方法に精通していること)、きれい好きである、この2つを同時に自分の物にするには、料理を考えながら、如何にして、段取りよく作業を進め、如何に無駄なく、常により美しく機能的に、仕事をこなすことで、周りの協力も得られ、誰でも頭と体をフル回転することで手に入れることが、可能である。(第3回)
1.6 一番面白かった部分を抜き出し、専用の手帳またはノートに書く。
この面白かった部分を抜き出すには、いくつかの基準がある。
1) 十年単位で、十冊以上に渡って、数百冊単位の読書記録の専用ノート(手帳)を作る。ここに、題名、著者、原題(翻訳のとき)、面白かった部分を書く。(後から再度、図書館から、本を検索出来るように)
2) 面白さの基準とは、思わず笑った、今後に役立つと感じた、流石この道のプロと感じた、文体が流れるように美しい、図が本質を言い当てている、二人の会話が胸を打った。1行でも自分の波長に共鳴したものである。
3) 一番面白かった部分を探す。これは、1冊の本を読み終わった後であるが、この一番おもしろかった所を示せと言われても、かなり難しい。もし、それを百字くらいで書けたら、かなりの読解力と記憶力と文才の持ち主であり、2,3百人に一人の確率でしょう。この一番面白かった所を書く、このためにかなりの時間が必要になる。
大きい本だと、どこに書いてあるか解らなくなる。そのためには、時には、別の作業用のノート、またはコピー用紙に、メモを取りながら、読むことも必要である。更には、目次をコピーして、横に並べながら、読むことも必要である。
この本の面白さが、どこを抜粋すれば、どのように要約すれば、伝えることが出来るのか。そのためには、もう一度、目次からそれらしい頁をめくって、候補となる箇所を選択する。意外と迷うが、ある程度妥協し、手帳の1頁程度で選択する。
4) 一番面白かった部分を抜き出し、又はそのおもしろさを要約し書き出す。その手帳の1から3ページ以内を基本に、抜き出す、又は要約する。ほんの1部分でも、書いてみると意外と書き手は丁寧に書き、作者独自の文体を感じることが出来る。
1.7 如何に名著、おもしろい本に出会い自分の人生を豊かなものにするか。
その人がどんな人間かは、その人の友人を見れば分かり、その人の読んで感銘した本の履歴を見れば分かる。面白い本に数多く出会い、好奇心の触手のネットワークを構築し、背表紙でハナを利かせて、面白い本の著者の他の著書を探索し、感銘した本の中に書名があるときその書物を当たる、参考資料の中にある書籍をあたる。自分のテーマを視点にして、あらゆる分野を横断的に、あるテーマを追求し、自分のあるテーマの世界を構築する。(第2回)
1. ブックハンターについて
1.1 ブックハンターの目的
おもしろい本をどのように、見つけるか。私は、道立図書館で、ブックハンターをしています。読書は、優れた人に、時間と空間を超越して、会話することが可能である。会話など出来る分けないと考える人は、本をあまり読まない人である。例えば、感銘した名著の最もおもしろい部分を抜き出し、それを読書手帳に書き出した時、その著者は、「そうだ私もそこが気に入ってるんだ」と答えてくれます。
1.2 ブックハンターの定義
おもしろい本を何とか自分なりに読み切り、どの部分が一番おもしろかったかを専用の手帳に記録する。ここで言う面白い本とは、自分にとって、役に立つ、知恵となって集積する、自分の生きる活力になる、ことでもある。従って、面白い本とは、小説だけではなく、分子生物学、言語学、宇宙物理学、音楽、古美術、株式投資、人類学から、マンガ(ナルトは世界中で読まれている)、日本語以外の本も含む(ただし自分で読み切ること、自分の能力の及ぶ限りの本の範囲とする)。
1.3 ブックハンターの工程
ブックハンターは、大きく3つの工程となる。
(1) おもしろい本を探す。
(2) 面白い本を、様々な工夫をして、読み切る。
(3) 一番面白かった部分の抜き出し、自分なりの要約、意見を、専用の手帳またはノートに記述する。
この3つのステップで構成される。現在の学校教育では、本を読むこと、漢字の引き方すら、怪しく、さらには、自分のなりの要約を文章にすることを多くの人たちが訓練されてはいない、私もその例外ではない。
1.4 面白い本を見つける
1) このためには、先ず自分が、いくつかのテーマを持つことである。私の父は、作物の種子を物心ついてから、死ぬまで持っていて、園芸作物と育種を自分なりに、工夫して追い続けた。このようなにテーマ、自分の興味、好奇心が、どんなものかを知ること。このようなテーマは、3つ以上持つと1つのテーマで壁に突きあっても乗り移れるので多く持つこと。
2) 自分の好奇心のおもむくままに、本棚と対峙する。当然ながら、本の背表紙の題名を読んでいく。この題名と本の持っている雰囲気で、当たりを付ける。次に、このような本を数冊、図書館の自分の席に積む。ここまでは、砂金取りに例えると、砂金板に川底の砂を入れた状態であり、この数冊の中に砂金があるかどうか次により分ける。
3) この数冊の本を面白いかどうか判定する。表紙で、題名と著者をみる。次に、目次を見てどのような視点で何について書いてあるかを推測する。本の書かれた年代、著者の経歴から、推測する。 ここで、パスして、次に行っても良い。名著は、本の表紙、装丁、題名は、著者、編集者、装丁者、翻訳者が、良く考えて作られているので、その雰囲気を感じ取る。
4) 1頁目を読む。私が、現在までの経験で、最初の1ページが、面白くなくて、おもしろい本に出会ったことはなかった。名著は、必ず1ページ目からおもしろい。それだけ著者は、1ページ目に力を注いでいるものである。ただし、内容が難しく、よく理解できない時は、その前に読むべき本を、2,3冊読んで、出直す場合はある。
しかし、名著は、レベルの低いものにとっても、それなりにおもしろいように作られている(数式や、英語力により困難なときは、除く)。この中で、何となく面白そうと、判定したものを借りる。数冊でその中に面白そうな本が1冊あれば、上出来である。図書館には百万冊もの本があるから、この作業を繰り返す。
1.5 面白い本を、様々な工夫をして、読み切る。
面白く難なくよみきれれば、ハッピーであるが、そうは問屋が卸さない。5頁目まで読んで、どうも価値が無いと考えれば、ここで終了する。価値がありそうだと考えれば、以下の方法で読み切る。
1) 漢字、言葉の意味が、解らない。私も漢字が読めない、カタカナ英語が解らない、言葉の意味が分からない、世界の地図の位置関係名称が解らない、生命が誕生してから、現在までの年表が解らない、人間の脳の各名称と機能が解らない等々のトラブルが発生する。
このような場合、完全に調べると先に進まない、キーとなる言葉と枝葉なものをより分け、キーとなる言葉は、調べる。次々に調べなければならない、言葉に出会う。しかし、一番言葉を知っている人が、一番沢山辞典を引いていると言うことを知る事で、自分ごときが、引かないでどうするんだと考えて調べる。
2) 途中まで、読んで止まる。価値ある内容と思われたら、後ろの章から、前の章読み進む。これをスイッチバック方式と呼ぶ。さらには、目次から、興味ありそうな章から、読み進む。これを摘み食い方式と呼ぶ。更には、見出し、写真、図に目を通し、ページを1枚づつめくる。とにかく、内容に価値があるが、自分の力不足のせいで、読みきれない時は、なりふり構わず読書を完了する。これを仮完了方式と呼ぶ。(途中半端に、簡単に諦める癖をつけてはいけないが、読む価値がないと思ったら、なるべく早く読むのを放棄する。このとき自分の選球眼のなさを反省する)(第1回)