チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「セレンディピティと近代医学」

2015-08-27 09:26:19 | 独学

 86.  セレンディピティと近代医学  (モートン・マイヤーズ著 小林力訳  2010年3月)

  HAPPY ACCIDENTS : Serendipity in Moden Medical Breakthroughs  By Morton A. Meyers   Copyright ©2007

 『 セレンディピティは一七五四年に作家ホレス・ウォルポールによって英語になった。セレンディピティの重要なポイントはウォルポールの紹介した古代ペルシャの物語にある。

 セレンディップ(今のスリランカ)に三人の王子がいた。「彼らが旅に出ると、いつも意外な出来事と遭遇し、王子たちの聡明さによって、彼らがもともと探していなかった何かを発見した」

 偶然の出来事プラス聡明さ(sagacity)。サガシティーとは、奥まで見通す知性、鋭い感受性、深い判断力によって定義されるもので、セレンディピティにはなくてはならないものである。

 自らに起こる幸運な出来事をつかむ人は、知恵のない人ではない。実際彼らの心は、特別な能力を持ち、確立された原理から脱却し、新しい可能性をイメージできる。

 そしてそのとき取り組んでいたものとは別の問題であっても、何らかの解決法をみつけたら、そのことに気づく知性を持つ。偶然の発見は、何が起きたか分かる鋭くて創造的な心がなければ得られない。

 「セレンディピティ」という言葉は、アメリカの生理学者ウォルター・キャノンが一九四五年の著書「研究者の道」によって現代の科学に導入した。キャノンによれば、セレンディピティをとらえる能力は科学者に必要な特質という。

 現在この言葉は大衆メヂィアによって、幸運、偶然、あるいは出来事の幸運な展開といったゆるい意味で使われている。しばしば知性というファクターが抜け落ちていることがある。悲しいことにこれは誤った使い方だ。

 セレンディピティは、準備された心によって、予期せぬ観察が、求めていなかった何かに到達すること、あるいは何かを発見し、価値あるものになることを意味する。

 幸運な偶然(チャンス)というだけでは発見には結びつかない。判断力を伴った偶然でなくてはならない。

 ルイ・パスツールの有名な言葉「観察において、チャンスはよく準備された心にのみ微笑む」の限りにおいては、セレンディピティはチャンスと同義に扱われている。

 ノーベル医学賞受賞者サルバドル・ルリアは、セレンディピティを「受け入れる力のある目にとまった幸運な観察」とした。 』

 

 『 研究者やクリエイティブな人々に言わせると、創造的な成果に至る思考方法には三種類あるという。理性、直感、イマジネーションである。

 理性や推理力は、研究活動の中心になるものだが、三つの中でもっとも生産的なのは直観である。多くの理論家さえ、論理は、正確さと堅牢さを持つけれども生産的な思考を生むものではないと認めている。

 アインシュタインは「本当に価値あるものは直観だ……基本原理を発見するためには論理的な方法は役に立たない。直観により思考するには、表から見えないところに潜む原理を感じることだ」といっている。

 「表から見えないところに潜む原理」。これは医学の多くの重大発見に共通してあるものだ。この直観は、未だかって誰も疑問に思わなかったことに疑問をもつことを必要とする。

 ノーベル賞物理学者イジドール・ラービは、彼の探求心に及ぼした幼年期の影響について述べている。彼が毎日学校から帰ると、母親は「今日は何を勉強したの?」と尋ねずに、「今日はいい質問をしましたか?」と聞いたという。

 ノーベル医学賞を受賞したジェラルド・エーデルマンはこう主張する。「疑問をもつことは重要である……さらにいうと、答えに到達しやすい疑問をもてるかどうか。本当に偉大な科学者はそうしていると思う」

 直観は、曖昧なひらめきといったものではなく、単なる「予感」でもない。むしろ認識する上での技術だ。ほとんど情報がない中で判断する能力のようなものだ。

 三つ目のイマジネーションに関していうと、これはその言葉からも分かるように、視覚的イメージの概念を中にもつ。実際、「洞察」とか「心の目で」といった語句もこれを裏付ける。

 一九〇八年ノーベル医学賞を受賞したパウル・エールリッヒは、化学物質の三次元構造を心の中で映像化できるという特別な能力をもっていた。

 「ベンゼン環と他の化学構造が私の目の前で戯れている……私はときとして、ずっと後になって構造化学の原理からようやくわかるようなことも、予測することができた」。

 他の科学者でも化学構造の決定でブレークスルーをしたような人にはこのような才能をもつものがいた。

 人は創造というと言葉に芸術を連想する。しかし偉大な発見をした科学の天才たちにおいても、ほとんど常に創造の心が底流にある。科学における創造は、その心の衝動について芸術と多くを共有する。

 両者に共通するものは、 一、 自己表現、真実、秩序追求、 二、 宇宙に潜む美の鑑賞、 三、 現実を見るときの独特の観点、 そして四、 自分が見た世界を他人にも見てほしいという願望、である。

 作家のウラジーミル・ナボコフは「空想のない科学はなく、事実のない芸術はない」と論理と直感を結びつけている。クリエイティブな人々は、心が広く、おかしな経験に出くわしても柔軟である。

 アーサー・ケストラーはその大著「創造活動の理論」で、しっかりした洞察は、さまざまな知的引き出しに収まっているアイテムを並べることで生まれると述べた。

 彼はこの過程を「二元結合」(bisociation)と呼んだ。多くの科学的発見において、「最も重要なことは、それ以前に誰も気づかなかったところにアナロジー(類似性)をみることだ」と彼は主張する。 

 クリエイティブな発見をする過程で、アナロジーを引き出すことと同じくらい重要なものは、よく説明できない物事をしっかり見ることである。

 トーマス・クーンは、科学の革命は変則的なもの――すなわち常識となっている科学の枠組みや伝統、パラダイムに当てはめることができないような発見――が溜まってくると、科学的革命に向かう道が開かれるとした。 』

  

 『 当時フレミングは、吹き出物や膿瘍、感染した鼻、のど、皮膚からとった黄色ブドウ球菌を使って研究していた。彼は実験台にプレートを積み上げ、何が起きているか毎日のように観察した。

 コロニーはこの本の活字くらいの大きさで、たいてい黄金色をしていた。いくつかの細菌はさまざまな明るさの色をした特徴的なコロニーを作る。フレミングは、多様な環境因子でコロニーの色が変わるとき、その菌の毒性も変わるのかどうか調べていた。

 フレミングは鋭い目をもっていて、「バクテリアと遊ぶ」ことを楽しんだ。彼の中にいる芸術家がユニークなパレットを作った。例えば黄色ブドウ球菌は黄金色のコロニーを作る。

 セラチア菌は鮮やかな赤、B・ビオラセウス菌は紫、といった具合だ。彼はこれらカラフルな細菌を全て用意し、それらを先につけた白金耳で寒天培地の上をなぞった。

 線の形や場所は注意深く決めてある。彼はこうして四インチの円の中に多くの絵やデザインを ”育てた”。色鮮やかな岩石園、赤白青のユニオンジャック、赤ちゃんを抱く母親。これらはまるで魔法のように、孵卵器へ入れた二四時間後に現れるのだった。

 七月の終わり、フレミングが夏休みを取る時期だった。彼はブドウ球菌のプレートを四〇枚から五〇枚ほど実験台の上に放置したまま出かけてしまった。

 九月三日に戻った彼は、実験台の上を片付け始めた。プレート皿は洗って再利用するため、消毒液の入った浅いトレーに入れていく。(現在、培養皿はプラスチック製で使い捨てである)。

 彼はそのとき何か興味深いものが生えていないか一つ一つ見ていった。このことは彼の尊敬すべき性質の一端を示している。彼は常に面白い事実を求め、そして実際に二度目のチャンスを手にした。

 そのプレートはカビに汚染されていた。これはそれほど珍しいことではない。しかしフレミングは、このカビの島の周りにバクテリアがきれいに抜けた場所があるのを見て驚いた。

 皿の端のほうに黄緑色の、細かい羽毛のようなカビが生えている。他方にはブドウ球菌のコロニーが生えているが、カビの周りだけは細菌が溶けていた。

 このカビは、細菌を育たないようにしているのではなく、細菌を殺していた。このカビは、あとで分かったことだが、階下にあった菌類学の研究室が発生源で、非常に珍しいペニシリウム・ノータタムであった。

 フレミングはそのプレートを同僚たちに見せたが、誰も興味を示さない。フレミングは、カビからとった明るい抽出液を一滴、ブドウ球菌のコロニーにたらすと、数時間後にバクテリアは死に、まさに目の前で消えるのを見て彼は確信した。

 彼は試験管に血液を採りそこにペニシリン抽出液を加えたとき、不活性化されてしまう――人体では効かないことを示唆する――という事実に、研究の進め方を誤ったのかもしれない。

 フレミングはこの結果にがっかりして、ペニシリンは表面の局所的感染以外には臨床で役に立たない、ただし実験室で特定の微生物を単離するのには使えるかもしれないと、結論した。

 しかしフレミングは、おそらく単に頑固さから、そのカビの株を保存し、いつでも使える状態にしていた。このことが彼の栄光と、人類にとって大きな福祉につながる。彼はペニシリウムの株を小分けにして他の研究室にも送った。

 もし数年後にオクスフォード大学で行われた研究がなかったら、フレミングは医学史において無名の人物のままで終っただろう。

 オクスフォードの献身的な研究者たちは、それまで培養皿で不要なバクテリアを生やさないようにするだけの「奇妙なもの」だったペニシリンを、「奇妙な医薬品」に変えた。

 ペニシリンは、ついにその本来の性質――世界で最も命を救う薬――を明らかにされ、その瞬間に、感染症の治療を永久に変える存在となった。

 フローリーとチェインはたまたまフレミングが九年前に発表したペニシリンの論文を読んだ。チェインはペニシリンがどうやって細菌の細胞壁を分解するのか詳しく研究すれば、細胞膜の構造について有用な情報が得られると信じた。

 チェインはペニシリウム・ノータタムの株菌がすぐ近くにあることを知って驚き、喜ぶ。彼はカビのサンプルをもらい、直ちに実験を開始した。彼は後に言う。

 「我々はたまたまペニシリンに行った。なぜならそのカビがちょうど自分の研究所で育っていたからだ」

 チェインはフレミングが諦めたことに挑戦した。アイデアは、安定した形で得るためにペニシリンを冷やして結晶化することだった。彼もフローリーも臨床的な利用については考えなかった。

 「こうして我々は」一九三八年に「精製と単離を始めた。抗菌作用のある新しい化学療法剤を探したいという気持ちはなく、ただ病原菌の表面にある化学物質を分解する酵素を単離したいと考えていた」と数年後にチェインは、曲りがりくねった思わぬ道筋を再び語っている。

 フローリーも認める。「我々は人類の病気という問題でペニシリンを考えたことはなかったと思う。これは単に興味深い科学的な行為だった」

 一方、チェインとヒートリーの仕事は、ペニシリウムの培養液から満足できる純度の物質を十分量取ることで、これは大変な作業だった。

 一九三九年に第二次世界大戦が始まり、研究のための資材は極端に不足するようになった。カビは酸素がなければ育たない。どのカビも空気に触れられるよう、広い表面積での培養が必要だった。

 ヒートリーは、ラドクリフ診療所から病人用便器を一六個借りてきて減菌したあと、水面でカビを培養できるよう肉汁をいれた。

 一九四〇年初めには少量の茶色い粉――純度わずかに0.02%であった――が得られた。二匹のマウスに注射してみたが毒性はなかった。

 ここで起きたことは三つの点で幸運だった。第一に彼らは、当時普通に実験動物として使われていたモルモットではなくマウスを選んだ。ペニシリンの毒性はマウスよりもモルモットのほうで強く出る。

 二つ目、マウスに注射した粉には大量の不純物がまじっていた。もし不純物に毒性があったら、科学者たちは実際のペニシリンの安全性に気づかず、研究を中止していたかもしれない。

 三つ目は、チェインとフローリーは注射されたマウスの尿が濃い茶色であることに注目したことである。彼らはペニシリンが分解されずにほとんど尿に出たと考えた。これは体内で壊されなかったことを示すだけでなく、どこの組織にも染みこんで感染症と戦いうることを示唆する。

 チームは、ここに至って初めてペニシリンの異常な抗菌活性に気がついた。さらに彼らはペニシリンを100万分の1まで薄めてもバクテリアの発育を抑えることを発見する。

 彼らはこの物質の治療上での可能性をつかみ始めた。そこでフローリーはきちんとした動物実験を決意する。ヒートリーは精製技術を改良し、その純度は三%にまで上がっていた。

 一九四〇年五月二五日、フローリー、チェイン、ヒートリーは八匹のマウスに致死量の連鎖球菌を感染させ、ペニシリンの効果を見る草分けとなった実験を行った。

 四匹にはペニシリンを注射し、残りは対照群として注射しない。ヒートリーは興奮して一晩中実験室にいた。翌朝までに対照群の四匹は全て死ぬ、ペニシリンを注射された四匹のうち三匹は生きていた。

 チェインが思い切り踊りだす一方で、フローリーも例によって慎重であったが「どうやらこれは奇跡のように見える」と認めた。マウスの実験でチームのペニシリンは使い果たしてしまった。

 そしてヒトはマウスの三千倍も大きい、フローリーは自分の研究部門をペニシリン工場に改造し、製陶所に六百個の陶器を注文した。一九四一年の二月から六月にかけての人の試験では、動物実験の結果を劇的に再現する。

 ペニシリンは今までの抗菌剤よりもはるかに効果が強く、毒性もなかった。一九四五年三月には商業販売も始まった。肺炎、梅毒、淋病、ジフテリア、猩紅熱、多くの感染症、産褥熱。かってこれらは死の病だったが一転して治るようになった。 』

 

 『 当時二五歳の外科研修医、ドイツのウェルナー・フォルスマンは一九二九年、初めて人に心臓カテーテルを施した。対象は自分自身! 医学史上、自分を使った人体実験として驚くべき例である。

 フォルスマンは医学校時代、その数十年前の一八六一年に行われた二人のフランス人の研究に感銘を受けた。エチアン・マレイとオーギュスト・ショボーが、意識のある立ったままの馬の頸動脈に細いチューブを入れて、それを心臓まで押し込み心室の内圧を記録したという研究である。

 この先駆的技術は、馬の心臓を乱すことがなかった。その出来事を描いた古い版画を見て、フォルスマンはイメージを膨らます。「この技術を人間に使うことは可能だと私は考えた」

 彼は一九二九年、ベルリン大学から医学の学位を得る。その年、フォルスマンはベルリンの北、エーベルスワルデの小さな病院、オーギュスト・ビクトリア・ハイムで研修医となった。

 そこで上司たちに、薬を直接心臓に注入する新しい技術の研究を許可してくれるように願い出る。しかし新しいアイデアの正しさを上司たちに納得させることはできなかった。

それでもまったくひるまず彼は自分自身で計画を進める。目的は、緊急手術のときに血液循環の中心部へ薬物を投与する方法を開発することだった。

 彼は、必要な器具や装置を利用できる外科看護師の信用を得た。そしてフォルスマンのビジョンに惚れこんだ彼女は、自ら実験台になることを志願する。

 彼は彼女に実験するふりをして、同僚たちが午後の昼寝をしているときに小さな手術室に入り、そこの台に彼女を縛り付けた。そして彼女の見ていないときに自分の左肘の内側に麻酔を打つ。

 麻酔が効いてくるとすぐに彼は自分の腕を切開し、静脈を露出させた。そして柔らかい尿管カテーテルを、大胆にも三〇センチほど心臓に向かって挿入した。

 この細いゴム管は減菌してあり、泌尿器科医が腎臓から尿を導くために使うものだ。長さ六十五センチあった。彼はそのあと、怒っている彼女を解いてやった。

 二人は二階下のレントゲン室まで歩いて降りた。そこで彼は怖がることもなくカテーテルをさらに押し込む。蛍光透視画面に映る像を看護婦が手にもった鏡でみせてくれ、彼は先端を右心部上室(心房)まで入れた(蛍光透視法はX線撮影技術の1つで、臓器や造影剤、カテーテルなどの動きがリアルタイムで見られる)。

 彼は実験の証拠をX線フィルムに撮った。ところで、心臓の内側にある心内膜は敏感で、何かが触れると致命的な不整脈が起きる。フォルスマンはこういう危険に気がつかなかったようだ。

 フォルスマンのレポートは、ドイツの有名な医学雑誌に載ったが、賛美の声は聞こえず、同業者からの凄まじいまでの批判と叱責が起きた。また、人間の心臓は命の中心であり、器具や手術で冒すなどとんでもないことだと信じられていた。

 その結果、フォルスマンの外科医としてのキャリア」は、以後ひどく苦しいものになった。しかし、彼は犬や自分自身にカテーテルを入れてX線造影剤を注入する実験を続けている。

 彼は一九三一年四月、ミュンヘンで開かれたドイツ外科学会の年次総会でそれまでの結果を発表する。しかし反応は氷のようで、拍手もなけば討論もなかった。

 フォルスマンが自身への実験をやめたのは、静脈を17ヶ所切開し、使える場所がなくなったときだけだったと言われる。

 しかし、数年後の一九四〇年、心臓カテーテルを発展させ患者に使ったのはフォルスマンではなく、ニューヨークにいた二人の医師、ベルビュ病院のアンドレ・クルナンとディキンソン・リチャーズである。

 一九五六年ノーベル賞委員会は、その年の医学賞をフォルスマン、クルナン、リチャーズに与えると発表。先駆的な実験から四半世紀、”黒い森” 地方の田舎医師をしていたフォルスマンは、そのニュースで無名の状態から引っ張り出される。

インタビューには「主教にまつり上げられたことを知ったばかりの村人の気分だ」と答えた。一方、クルナンはノーベル賞講演で「心臓カテーテルは……錠前を開ける鍵であった」と述べる。

 フォルスマンの受賞に対しても触れた。「当時、彼はひどく過大な批判に曝された……カテーテルが危険だという根拠のない迷信によるものだ。これは――啓蒙の進んだ現代にあっても――価値ある発見が、先入観のせいで顧みられないこともある、ということの証拠である」 

 一九五〇年代、先天的な心臓疾患に対する新しい手術が期待いされるようになってきた。このとき心臓カテーテルに関連して必要になったものは、「選択的血管心臓造影」と呼ばれる技術を開発することだった。

 この技術は、カテーテルを通して動脈や心臓へX線不透過物質、すなわち「造影剤」を注入するものだ。すると心臓の内部や動脈の異常が見えるようになる。

 それには動脈系に安全で信頼できるテクニックでカテーテルを入れなくてはならない。当時は血管を切開することが最もよく行われていた。

 この問題を巧妙に改良したのが、ストックホルム、カロリンスカ研究所にいた三二歳の放射線科医、スウェン・イーバル・セルジンガーである。

 彼は血管を露出させるための外科手術をすることなく、皮膚の上から(たいてい脚の付け根)カテーテルを血管に入れる手法を開発した。従来の手法より簡単で安全、合併症の危険もほとんどなかった。

 医師たちは、セルジンガーの方法を使って造影剤を血管に入れると、血管の位置や走り方だけでなく、動脈硬化で起きる塞栓の存在、程度、場所なども見られるようになった。

 セルジンガーの方法は一九五三年、簡単な九ページの論文になって、スウェーデンの一流医学雑誌「Acta Radiological」(放射医学雑誌)に掲載される。この業績は医学の歴史における記念碑の一つである。

 セルジンガーの技術は、以後の大きな進歩を可能にした輝くばかりの発見ということで、血液循環を発見したハーベイの業績に例えられるかもしれない。

 この技術は血管系へのカテーテル導入に広く使われ、現代の心臓学、循環器外科でも重要な技術である。

 左心室が収縮し、大動脈が酸素の豊富な血液を運び出すとき、すぐに枝分かれした最初の血管は心臓そのものの筋肉に血液を送っている。これらの枝分かれ血管は、ちょうど心臓の上部から始まるので、王冠にたとえられ、冠動脈という。

 医師たちは大動脈や冠動脈の中をなんとかして見たいと思ってきた。弁の漏れや血管の閉塞、その他の異常を探すためである。

 しかし研究者たちは、冠動脈の開口部からカテーテルを直接入れて造影剤を注入することなど、恐ろしくて決してしなかった。心筋から酸素を奪ってしまう危険な顛末が二つも予想されたからだ。

 つまり、カテーテルを入れることによる冠動脈の攣縮と、酸素を含まないヨード系造影剤で血液が置換されてしまうことである。数年にわたり、無数の研究施設で、たくさんの方法が検討された。

 しかし人間の冠動脈にカテーテルを入れようとした人は誰もいない。その代り、造影剤を送り込もうと、カテーテルの先端を胸部大動脈の中でできるだけ冠動脈の入り口近くに置くことが行われた。

 そして一九五九年、「サーキュレーション」(循環)誌に短い抄録が載る。それはクリープランド・クリニックのF・メイソン・ソーンズ・ジュニアらが米国心臓病学会(ACC)年次総会で口頭発表した研究の要旨であった。

 その最初の文章はこうである。「動脈硬化の病変を示すための冠動脈の造影に関して、安全で信頼できる方法が開発された」。

 当時さざなみ程度の興味しか持たれなかったものが、やがて記念碑的な発見とみなされるようになる。冠動脈閉塞の場所、数、程度が分かるようになったのだ。この手法は、半世紀前の心電図と同じように、心臓病学を大いに進歩させた。

 しかし、ソーンズの方法がいかにして「発明」されたかは、数年後にこの技術が冠動脈再建術の革命的進歩で広く使われるようになるまで、明らかにされなかった。

 一九五八年一〇月三〇日、ソーンズは二六歳になるリウマチ性心疾患の男性患者を診ていた。助手はカテーテルを患者の動脈に入れ、大動脈を通って心臓に向けて上がり、カテーテル先端を大動脈弁のすぐ上に置こうとした。

 このとき穴の中で画像を見ていたソーンズは恐怖で凍りついた。先端がくるっと回り造影剤が直接冠動脈に入ってしまったのである。それも凄まじいほど大量だった。

 今までヒトの心臓への使用としては考えたこともないほどの量だ。心臓停止を恐れて、彼は穴から飛び出し患者の脇に駆け寄った。胸を開いて心臓マッサージをするためだ。

 患者の心臓は停止していた。恐ろしい数秒間。しかし、患者は意識があって、ソーンズは彼に咳をしてみるよう言った。すると全員が安堵したことに、心臓は再び動き始め、後遺症はまったくなかった。

 このぞっとする災難でソーンズが考えたことは、当時の定説と違って、酸素の含まない液体を冠動脈に入れても安全なのではないかということだった。

 彼は冠動脈循環の鮮明で詳細な画像を得る方法を発見したと思った。 「それから数日、私はこのアクシデントがまさに、我々がずっと探していた技術の開発につながるのではなかろうか、と考え始めていた。

 もし人間がこれほど大量の造影剤に耐えられるなら、もっと薄い造影剤を少量投与して冠動脈を不透明にすることも、十分現実的ではないだろうか。 少なからぬ恐怖と不安を抱えつつも、我々はこの目的に向かってプログラムをスタートさせた」。

 彼は先端が柔らかく先細になったカテーテルを作り、直接簡単に入るようにした。その後ソーンズは、少量の造影剤――四から六ミリリットル――を入れることで、選択的に冠動脈だけを造影することに成功した。

 試した患者は一九六二年までに一〇〇〇人以上。彼は、十分大人数の患者で試して自信が出るまで発表しない性格だった。そして簡単な論文が、アメリカ心臓学会の配布する月刊小雑誌「Modern Concept of Diseases」(現代循環器病学)に発表される。

 論文は、その大きな重要性にもかかわらず、控えめに書かれていてわずか四ページだった。しかしインパクトは強烈で、一九六〇年代を通じてこの技術は急速に普及することになる。 

 一九六七年五月、ソーンズの同僚、ルネ・ファバロロは、初の冠動脈バイパス移植手術を行う。これは脚を走る長い静脈である伏在静脈を使って、狭窄、閉塞した冠動脈の部分の両端をつなげ血流をバイパスするものだ。

 微小縫合術の開発もまた、外科領域におけるセレンディピティの例である。バーモント大学の若い外科医ヤコブソンはあるとき血管につながっている神経を切り離してくれと頼まれた。

 ヤコブソンは、神経を一緒に走っている血管ごと切り離してしまうのが一番簡単だと考えた。神経の影響がない状態で実験したあと、今度はこの細い血管をまた繋げなくてはならないという問題に直面する。

繋げなければ犬が死んでしまう。しかし当時の縫合手法は、これほど細い血管には適用できなかった。縫合はほとんど不可能に思えてはずだ。

 ここでヤコブソンは、「問題はことを行う手の能力よりも、それを見る目のほうにある」ということに気づく。彼は高性能の顕微鏡の助けを借りて、小さな血管の端をつなげることに成功した。

 そして一九六〇年、この技術で1.4ミリという細い動物血管の縫合に成功し、微小血管縫合術は生まれた。 』

 

 現在では、カテーテルバルーン血管形成、ステント留置によって、日本でも年間数十万件の処置が行われています。

 実を言いますと、私も2015年3月に冠動脈狭窄が2ヵ所見つかり、すぐに脚の付け根からカテーテルを入れ、バルーン血管形成、ステント留置を行い、その一週間後に、手首の動脈からカテーテルを入れ、2ヵ所目の狭窄をバルーン血管形成、ステント留置を行いました。

 私の場合は救急車で運ばれて、すぐ手術であったため、心臓へのダメージはまったくなく、半年経った現在元気です。 (第85回)       


ブックハンター「どんどん上達する驚異の語学術」

2015-08-18 07:58:22 | 独学

 85. どんどん上達する驚異の語学術   (文芸春秋2015年7月号 佐々木淳子著)

 『 今まで外国人に縁のなかった日本人が、ごく普通に外国人と仕事をすることになるだろう。それでは、日本に赴任する外国人たちはいったいどんな所で日本語を学んでいて、どんな苦労をしているのだろう。

 今回は日本在住の外国人エグゼクティブなどにフリーランスで教えている日本語教師、小山曉子に話を聞いた。彼女は日本語教師になってから三十二年間、非常にバラエティに富んだ人々を教えてきた。

 「外国人から聞かれて驚いた質問は?」と聞いてみると、「そうねえ、天皇陛下に謁見するための馬車の乗り方と、おじぎの仕方とか?」と言って、彼女はふふっと笑った。

 小山は複数の国の大使館員も教えている。その時は、宮内庁からもらったというマニュアルと首っぴきで、作法を教えてそうだ。

 世界展開している大型小売店の初代支社長も彼女のクライアントだ。金髪に青い目をした彼は、通訳を連れて、出店用地買収に回ったがうまく行かない。日本語を猛勉強して、地元住民と直接対話を試みた。

 飲み会では、応仁の乱と明治維新が好きという歴史のうんちくを披露し、日本好きをアピール。用地買収に成功し、日本支社を世界一の売り上げにした。

 同じく彼女のクライアントである、「日本――喪失と再起の物語」を上梓したフィナンシャルタイムズの元東京支局長、デイヴィド・ピリングは、その日本語能力を駆使して、大地町のイルカ漁や、まぐろ漁船の取材のほか、七人の総理経験者、村上春樹などのインタビューに成功している。

 日本語教育の現場は、世界から見た日本の立ち位置を映し出す鏡だと小山はいう。バブル崩壊時も、リーマンショックの時も、日本人のほとんどがまだその危機に気づかないうちに、外国人学習者が日本から消えた。

 「バブル崩壊と騒がれる半年ぐらい前から、学習者がガクッと減って、どうしたんだろうと思ったら経済危機が来た」と小山は振り返る。

 バブル崩壊と報道された直後には、暴落した土地や建物を買収した外資系金融会社やメーカーなどに勤める外国人が日本に入ってきて、かえってクライアントが増えたという。そして東日本大震災から五年目の現在も学習者は増えており、教師は人手不足の状態だ。

 彼女は徹底して「日本語を使って何がしたいか」にこだわっている。たとえば、あるイギリス人ジャーナリストは、N1(旧日本語能力試験一級レベル)に合格したいと小山のところにやってきた。

 彼の弱点は、多くの欧米人と同じように漢字とカタカナだ。N1に受かるために必要な漢字は約2000字。これは一般の新聞が読めるレベルである。これを習得するのが彼の望みだった。

 彼によく聞いてみると、日本の競馬に興味があるという。そこで彼女が解読の教材に選んだのは、「競馬新聞」だった。「日本語教師は、どういうわけか「AERA」を教材に使う人が多い。

 でも、あそこに載っている記事で使われている語彙が彼らに必要かっていうと必ずしもそうじゃない。日常で使えなくては勉強する意味がないでしょう?」

 もし競馬新聞が読めれば、漢字は十分クリアできるだろうと彼女は踏んだ。しかも馬の名前を読んでいるうちに、彼の苦手なカタカナも克服できる。一石二鳥というわけだ。

 この学習が彼の日本での活動の幅を一気に広げた。競馬場に足しげく通うようになり、とうとう彼はこんなことを言い始めた。「馬主になってみたい」

 日本には一口馬主の制度があるという。彼は、その制度を利用して馬主になり、馬主会に入会、ほかの馬主たちと一緒に北海道の牧場に馬を見に行きジンギスカンをつつき、酒を酌み交わし、好きな馬のことについて熱く語った。

 すると、その行動が彼の日本語に更なる磨きをかけた。そしてついにN1に合格、日本の馬が香港やイギリスで出走するとなれば、同行してそれを記事にする。そんな趣味と実益を兼ねた仕事も手に入れた。

 まるで昔ばなしの「わらしべ長者」だ。使える日本語を手に入れれば、それがきっかけで一層日本語が上手になり、さらに価値あるものが手に入る。そうやって彼は新しい日本語をどんどん獲得していった。

 「人は好きなことなら、自分で勝手に勉強します。私はちょっと好奇心をくすぐってあげるだけ」と、小山はてのひらで何かを転がすしぐさをした。

 もちろん彼女の方にも苦労があるそうで、「競馬の用語は、意味がわかんないから、以前アルバイトしていたスナックで「鼻の差って何?」「八馬身って?」と意味を聞いたりして予習が大変だった」と笑う。

 たいていのビジネスパーソンは、多忙で日本語を学ぶ時間が足りない。「メールのやりとりなどが英語で済むなら、ひらがなが書けるようになるより、人脈を広げる会話ができるようになった方がいい。

 また、ビジネスの日本語と一口に言うけど、市販の教科書がその人に合っているとは限らないですよね。たとえば、ITエンジニアに商談のための日本語はいらないし、製薬会社勤務の中国人だったら、必ず耳にするであろう「ブラシーボ(偽薬)」という言葉は覚えていたい。

 弁護士だったら。法律用語が必要です。ビジネスの日本語は、彼らが頻繁に使うものを教材にした方がいいんですよ」さらに初対面の人と会話しなければならない事態を想定して、自国の新聞と、日本語の新聞を二紙購読し、自分の国のネタを仕込んでおくといいと生徒にアドバイスする。

 「雑談をするためには、相手を想定してシュミレーションしておくようにと指導します。日本語では、初対面の人にはスーパー敬語、何度か会っているうちに丁寧語、親しくなったらくだけた表現と、話し方は変化する。相手によって表現が変わるので」

 しかし、具体的な商談などについては中途半端な日本語より、通訳を介したほうが無難だと小山は学習者に釘をさす。日本人は最後まで言わない言語習慣を持っている。

 裏にある日本文化を理解せずに、流暢な発音でコミュニケーションすると、誤解されてしまうことがある。特に中国人や韓国人は容姿が似ているだけに、その姿ではっきりものを言いすぎると、失礼な人だと思われやすい。

 学習者の立場によっては、プライベートでは日本語を話しても、会社の中では日本語を話せないふりをしておけとアドバイスすることもあるという。 』

 

 『 小山自身は高校時代に米軍横田基地内でベビーシッターのアルバイトをしながら、英語を覚えた。 「自分の日本語教師としての強みは、語学を勉強するのが嫌いだったことでしょうね。

 英語が好きな人は万遍なく英語を勉強しようとするでしょう? でも私は、必要最小限伝えなければならないことを伝えればいと思っていたんですよ。

 たとえば、「今日は、テストがあるから九時までに帰りたい」とか、「土曜日は一日働けます」などのフレーズを、英語のできる日本人に教えてもらってそれを覚えていったんですよね」

 彼女にとって英語は学問ではなく〔道具」なのだ。その徹底的な割り切りが、彼女の今の日本語教師としての姿勢につながっている。

 高校卒業後、小山は大学に進学せず銀行で働きはじめた。しかし、二〇歳の頃に父親が倒れ、彼女は家計を支えるため、渋谷の場外馬券売り場の向かいに喫茶店を開いて客を集めた。

 ところが、ショバ代を求める暴力団が毎日押しかけては営業を妨害する。そこで、彼女は組長に直談判して嫌がらせをやめさせたという武勇伝を持っている。

 その後妹に店をまかせてからは英会話喫茶のマネージメントなどいくつかの職を経たのち、日本語教師養成講座に通い、日本語教育能力検定試験に合格。

 昼は日本語教師、夜はスナックで働いて、自分の運命を切り開いてきた。日本語教師として十分な評判を得ても、彼女は長い間スナックを辞めなかった。

 「お客さんは、デパートやメーカー勤務、製薬会社、弁護士など様々な分野の人達で、隠語や専門語、裏話など、業界のことを教えてくれた。上司と部下で連れ立ってやって来るお客さんの会話を聞いているのも勉強になりました」

 そして接客業の経験が彼女にこう語らせる。「教師だってサービス業だよね。本当に使える日本語を教えて、お客さんを喜ばせるのが私の仕事」

 政府系金融機関に勤めるイギリス人はこう漏らしているという。「本国ではみんな、笑ったり冗談を言い合ったりしながら、楽しく仕事をしている。でも、日本のオフィスでは誰も話さず、笑いもせず、黙って下を向いている。

 前任者も、その前も、日本にいると鬱になるからと、任期が終わるのを待って帰っていった」 「子どものお遊戯会に参加しようと思い有給休暇を取ると驚かれる。なぜ休む理由を一々申告しなければならないんだ」

 「意見が聞きたくて会議を開くのに誰も発言せず、ただの報告会になっている。時間の無駄だ。報告だけならメールで足りるだろう」

 日本語が道具として使いにくい背景に、排他的で、変化を歓迎しない日本人の在り方が透けて見える。

 小山はこう指摘する。「日本に来たビジネスパーソンたちの中には、職場環境になじめず帰国してしまう人もいる。せっかく二年、三年教育を施しても、優秀な人材は、活気のあるほかのアジア諸国にどんどん取られてしまう。

 もったいないよね。今はまだ日本の経済状態がいいけど、このまま日本企業が変わらなければ、今後も日本に来てくれるかどうか。社内で英語を使うからグローバル企業だ、なんて言っているけど、いくら言葉を身につけてもだめ。

 グローバル化っていうのは、表面的な話ではない。要するに、どんな労働者であろうと、もっと個人を尊重する働き方をしようっていうことなんですよ」

 最後に、小山が学習者から聞いた、日本人に見え隠れする優越感を表す言葉を記してこの記事を閉じることにしよう。「日本人は、すぐに「日本語は難しいでしょう?」と聞くけど、そんなことはない。

 漢字は難しいけど、そんなことはない。漢字は難しいけど、発音も文法も難しくない。ほかの言語だって簡単なところも難しいところもあるよ。それに、日本人はすぐ「日本人は特別だから」と言う。

 でも、どこの国だって、それぞれ特別だろう? 日本だけが特別だと思うのは間違いだよ」 』

 

 どんな言語であろうと、言語は道具であり、役立つことが重要である。日本の学校の校長先生の形式だけの挨拶、日本人の形式で内容のない様々な儀式から卒業し、より役に立つ内容のあるものを目指すべきではないでしょうか。

 英語に於いても、日本語に於いても、より内容のある、役に立つ教科書、役に立つ知恵を授けることのできる教員、真摯に学問を向き合う学生を目指すことで、世界に通用する人材が育つのではないでしょうか。 (第84回)

 


ブックハンター「アトリエの巨匠に会いに行く」

2015-08-07 08:18:21 | 独学

 84. アトリエの巨匠に会いに行く  (南川三治郎著 2009年6月)

 今回は、「推理作家の家」にたびたび出てくるサンジローの代表作「アトリエの巨匠たち」(1980年1月)を紹介したかったのですが、1ページ目は、アーティストの自筆のサイン、活字体のフルネーム(アルファベット)、小さく撮影日付けと場所、のみでほぼ白紙です。2ページ目は、フルサイズのアーティストがいるアトリエの写真です。

 一人のアーティストに対して、この2ページで85人の巨匠のアトリエの写真集です。この写真集は、芸術に対して自分がどれほどのものを持っているかによって、その一枚のアトリエの写真の価値が変わります。絵画や彫刻を自分で製作した経験があるとさらに深いものが見えてくる気がします。

 紹介できる文章はないのですが、私の感想では、芸術家のアトリエの雰囲気とその作品の感じは、どこか似ています。サンジロウも秘密の発想工房を写真にすることに挑戦し、アーティストと奥さんは、アトリエが公開されることを拒みます。(見る人が見れば、多くの価値のある秘密が隠されてますから)

 今回は、一部そのときのエピソードをふくめて書かれている、「アトリエの巨匠に会いに行く」を紹介します。

 

 『 僕は1960年に大学を卒業後、出版社写真部を経てパリで1年間充電。持って行ったお金も使い果たし、無一文で帰国したのが25歳のとき。

 幸いにも当時はパリ帰りというだけで仕事に恵まれた。70年、フリーランスになったとたん仕事が舞い込み、3ヵ月で当時のカメラの名機、6×6cm判の八セルブラッド500Cとリンホフ・テクニカ4×5in判一式が手に入ったのも懐かしい。

 しかし、楽あれば苦あり。1974年のオイル・ショックで、これまで順調だったのが嘘みたいに、あっという間にほとんどの仕事を失ってしまった。茫然自失! なんだか今の社会状況と良く似ていますね。

 ここで、転んでもただでは起きない、人呼んで ”起きあがりこぼしのサンジロー”。正直落ち込みながらも孤独に自分の心と向かい合い、悩みに悩んだ。

 そして「地に足が着いた仕事をしなければ……」と、父が遺してくれた土地と母の援助で、好きだったアートの世界に目を向けて「20世紀を代表するアーティストの世界を覗いてみたい」と奮起。

 野次馬精神、捨て身の覚悟で青春の思い出の地パリに旅立った。当時、日本の巨匠たちの姿を撮った先輩諸氏はいたが、こと海外のアーティストに焦点(フォーカス)を当てた写真家は見当たらなかった。

 誰もこれまでやったことのない大きなテーマだ。針の穴をこじ開けてでも、コンタクトを取り付け、アーティストの屋根裏(アトリエ)に忍び込んで、羽目板を1枚外し、上から覗いて見たら、いったいどんな光景が見えるだろう……?

そこにはアーティスト、作品、アトリエ等々、創作の秘密工房が垣間見えるに違いない。これを1枚の写真にしたい! と、僕は決めた。無我夢中、手あたり次第のコネクションを使い、秘密の住所を探し当て、明けても暮れてもパリの屋根裏部屋に籠もり、タイプを叩いた。

 1通の手紙を書くにも打ち直し打ち直しを繰り返して1日かかったことも。今のように便利なコンピューターはなし、携帯電話もなかった時代、時間は静かにゆっくりと過ぎていった。

 いまから思うと、よくこんなことが出来たと思うくらいの超ヒドイ、片言の英語とカタコトのフランス語を ”心臓に毛を生やして” 駆使し、体当たりも体当たり、当たって砕けろ! の精神で、300人以上のアーティストの門を叩き続けた。

 ミロ、ダリ、シャガール、キリコ、マリーニ、ムーア……。名だたる巨匠たちにとって僕は ”東洋からやってきた子供のような、どこの馬の骨とも分からないカメラマン”という印象だったようだ。

 まるで、孫にでも接するような眼差しで僕を優しく包み込んでくれた。アーティストそれぞれと交わした手の温もりの余韻が今も残っている。(プロローグより) 』

 

 『 当初、僕の心強い案内役となってくれたのが、パリの友人で画廊主のM氏だった。1975年、彼の紹介によって、マルク・シャガールと取材の約束を取り付けることができた。

 ところが車の事故で僕は右足を骨折、左股関節を脱臼する大怪我を負ってしまい、9ヵ月の入院生活を送ることに。幸いシャガールとの約束は、延長してもらえた。

 「もう杖なしでは立てない」と医者から宣告を受けながらも、必死のリハビリテーションを続けていた僕に、M氏から連絡が入った。「サンジロー、アーティストとの約束の有効期限は1年間というのが不文律だ」。

 このチャンスを逃すわけにはいかなかった。僕は、痛む足を引きずりながら、翌1976年、シャガールのもとへ向かった。

 南フランス観光の中心地ニースから約25キロ、小高い丘陵地帯にあるサン・ポール・ド・ヴァンス。街には緑があふれ、石造りの家々が並び、その軒下を石畳のデコボコした小道が続き、レストランやカフェの石壁に、蔦が絡まる風情はロマンチックなムードが漂う。

 また、南国の花々があちらこちらで咲きみだれ、その強い香りに酔わされてしまうほどだ。この地方には、1920年代から多くの芸術家たちが移り住むようになって、気候温暖で親しみやすい街は一躍世界中にその名を知られるようになった。

 シャガールもこの街を愛したひとりで、1949年に移り住み、52年には街はずれの広大な敷地を買い求め、「レ・コリーヌ」と名付けた山荘で静かな回想にひたっていた。

 谷間の一本道を登り、バラのアーチも美しいファンダンシォン・マーグを左手に見てさらに登りつめること約5分、自動車がやっと1台通れる程の道のどんづまりが門だ。

 インタ-ホンで案内乞うと頑丈な鉄の扉が自動的に開き、そこから玉砂利を踏みしめてさらに約5分、あたりはうっそうと繁った樹々に囲まれている。

 丘を登り切ると石造りの邸宅が姿を現した。玄関にはシャガールのタブローと、珍しい自作の陶器類が飾ってあり、それをとり巻いて花の鉢植えが置かれていた。

 ニコニコ笑顔で顔をクシャクシャにした、シャガールの第一声は、「Bonjour!  Il  fait  beau, n'est-ce  pas?」 (こんにちは! 良いお天気じゃないか?)

 1つの仕事をやり遂げたシャガールのシワだらけの手は温かかった。巷間伝えられるシャガールの気むずかしげな人物像とは似ても似つかないほど親しげであった。

 シャガールは先に立ってあちらこちらの部屋を自慢げに案内してくれた。そして、その部屋部屋には、いたる所が花、花、花で埋まっていた。

 「ワシは小さい頃、貧しくて花を買うお金も時間もなかった。今は余裕が出来たので花の中で暮らしていたいんじゃ……」 

 しかし、僕が覗いてみたいと念願していたアトリエをシャガールは見せてくれようとはしなかった。「アトリエをぜひ拝見したいのですが」とお願いすると、

 「アトリエは見せものじゃないよ。画家にとっては神聖な場所なんじゃ。それに、今は何も絵を描いとらんよ。入ってみたって見せるものは何もないんじゃよ」 とぶっきらぼうに答える。

 僕が重ねて、「でも、何か制作なさっているでしょう」と、問うと、傍らに立ってジーッとやりとりを聞いているヴァヴァ夫人に目をやり、何か許しを乞いたそうな様子であった。

 しかし、夫人の鋭い視線に射すくめられたシャガールは、心なしか淋しげに首をすくめるのであった。

 あとで考えてみると、シャガールは、あれほど自由に憧れて故郷ヴィテブスク(現・ベラルーシ)を後にしたのに、何をするにもヴァヴァ夫人の監視の下で、晩年になっては不幸にも本当の自由なしに暮らしていたにちがいない。

 僕が撮影している間も、2,3枚シャッターを切るたびにヴァヴァ夫人がしゃしゃり出てきて、「もう充分じゃなくって? モン・マリー(私の夫つまりシャガールのこと)は疲れているのよ」と、いう。

 これには僕もほとほと参ってしまった。この時の取材に同行して下さったシャガール美術館(ニース)の当時の館長ピエール・プヴィール氏が見かねて、シャガールに何事か耳打ちすると、シャガールはゆっくりと腰をあげ、しっかりとした足どりで隣の小さな居間に移動した。

 シャガールの家には未発表の大作が部屋ごとに掛けられており、まるで個人美術館の様相をていしている。この部屋には、故郷の風景を描いた200号大のタブローと、旧約聖書をテーマにした4曲の屏風が置かれていた。

 アトリエの代りにここで写しなさいといわんばかりに、どっかと腰を下ろしたシャガールは、ヴァヴァ夫人に何事か言いつけ、夫人が部屋を1歩出たとたん、「パピエ……紙じゃ! 早く! なんでもいいから早く紙をよこしなさい!」

 まわりを見渡しても、あいにく1枚の紙も見つからない。シャガールの語気に押されておそるおそるカメラバックの中から、シャガールに宛てた取材依頼状のコピーを差し出すと、依頼状の裏にボールペンで自画像をくるくると描き、「Marc Chagall  1976」とサインを入れ、紙をくしゃくしゃに丸めてポンと僕に投げ、

 「ヴァヴァがうるさいのじゃよ。あのバアさんがいる限り、何ひとつワシの自由にはならん。ワシは、昔から写真が好きじゃったし、画家でメシが食えなかったら写真屋でもやろうとか思っとたくらいじゃ……。

 君に協力してあげたい気持ちはあるんじゃが、何せあのヴァヴァが絶対にアトリエの中に入れちゃいかんというんじゃよ。それに、この ”ゴミ” も見つかっちゃいかん、早くカバンの中にしまうことじゃよ」

 と、一抹の淋しげな表情を漂わせて早口に語るシャガールがそこに立っていた。 』 (マルク・シャガール (1887~1985) 1976年撮影)

 

 『 アーティストの連絡先を知るためには、作品を扱っている画廊に聞くのが正攻法。このプロジェクトを企画した当初からジョアン・ミロの取材をしたいと思っていた僕は、パリ中の画廊にミロの連絡先を問い合わせた。

 しかし、教えてもらえないまま数年がたってしまう。そもそも、ミロは取材を受けないことで知られていた。あきらめかけたとき、シュールレアリスムの巨匠アンドレ・マッソンの取材時に、ミロの住所がわかるチャンスがやってきた。

 マッソンとミロは第二次世界大戦の時、一緒にニューヨークに亡命した仲だ。このことを何かで読んでいた僕は、取材の最後に、さりげなく 「ミロ先生はどちらにお住まいなんでしょうね?」 と近況を聞いてみた。

 すると、「確かミロからのクリスマス・カードが届いていたんじゃないか」 とマッソン。住所を聞き出したい、とはやる気持ちを抑え、その場は引き下がった。

 翌日、マダムに電話をして取材のお礼を伝えながら、「ミロ先生からのカードは何処からでしたか?」 とできるだけ何気なく尋ねてみると、カードを探してくれて 「スペインのマヨルカ島って消印にあるわね」 とだけ教えて下さった。

 僕はすぐさまパリからマヨルカ島へ飛び、レンタカーを借りて、島中をくまなく探し続けた。 しかし、手がかりがつかめないまま一週間がすぎ、手持ちのお金が底をついてしまた。

 あきらめきれずに帰りのフライト直前まであちらこちらを探しまわっていたときに、ふと立ち寄った雑貨屋で尋ねると 「ミロの家なら、すぐそこですよ」 との返事。

 教えられたとおりにさくらんぼの花が咲き乱れるホワン・サリダキス通りを登りつめると、「SON ABRINES」 (避難場所) と書かれた銅板が僕の目を釘づけにした。

 ミロの強烈な個性を表すかのようなシンボルマークの太陽も右上にある。まぎれもなくミロの家であった。やった‼

 翌日、改めて取材に訪れた。南国の陽光に照らし出された白亜の殿堂は広くおおきかった。顔面一杯に笑みをたたえたミロが玄関に出迎えてくれ、「ずい分遠くから来たものだね。ま、自分の家だと思って好きなようにゆっくりしなさい」と抱きかかえてくれる。

 私の持参した日本の雑誌を1ページずつ丁寧に繰りながら、「C'est  bien! 」 (とても良いね)を繰り返し、日本に滞在した時の思い出などをおりまぜて語ってくれる。

ダーク・ブラウンのパンタロンにブルーのセーターを粋に着た小柄なミロの表情には、孫にでも接するような温かい優しさと、思いやりにあふれていた。

 ミロは7年前にバルセロナとパリにあったアトリエを引き払って、この風向明媚な常夏の島に移り住み、1983年に亡くなるまで悠悠自適、制作三昧の余生を送っていた。

 眼下に地中海を見下ろす白い波のような屋根をもつアトリエは、1956年、スペインの建築家ホセ・ルイ・セルトの設計によって建てられたとか……。

 内部はまるで体育館のような広さで、足の踏み場もない程に作品が置いてあり、その中にはミロ自身が焼いたセラミック、彫刻などもあった。

 壁際には制作中の大小のカンヴァスが立ち並び、床にはボール紙の上に描かれた、ところどころ切り取ったり、はり合わせたりした作品が敷きつめられてあった。

 さらにアトリエの片隅には、壊れた椅子や廃品などが山のように積みあげてあり、まるで雑多なガラクタ倉庫の様相を呈している。

 制作の様子を見たいと希望すると、すぐさまミロは、絵筆といおうか、ペンキ塗りの刷毛のようなものに黒の絵の具をたっぷりとしみ込ませ、床に置いたところどころ破れているボロ紙の上に、一気に象形文字に似た画面を創りあげ、さらにグワッシュを鋭いナイフを巧みに繰りながら、画面を作っていった。

 エネルギッシュで情熱あふれる仕事ぶりは、とても84歳とは思えず、ひらめき動く魔術師のような指先から精気がほとばしり出るようで、その迫力に圧倒されてしまった。

 そばにいた夫人が、「彼は夢中になると、ところかまわず絵の具を塗り、木片やら、段ボールやら、セメントの袋やら、手あたり次第にその上に描いてゆく……、まるで駄々っ子のようですよ。

 写真を撮られることが大好きで、私が注意してないと、ついつい写真家の注文に応じて一生懸命サービスするでしょう、それで疲れ果ててしまう。困るのは私よ」

 「私は、前もって頭で考えたような、知的なやりかたはしないんだ。 ちょっとした偶然から生まれる絵の具のしみや、したたりが、生命を持ってアニメートされ、思ってもみない形ができあがってゆく。

 絵があるがままの状態でとどまっているよりも、それが萌芽として残り、そこから別のものに生まれ変わる種子をまきちらすべきだ。そして、なににも増して、”遊び” の精神が必要だ。大切なことは魂を自由に、素っ裸にしておくことだよ」

 ミロは時々人に見られないよう、こっそりとアトリエの外に飛び出して海岸や道のあちこちに捨ててある、気に入った無用の品を拾い歩くという。

 「自然や人間たちが見捨て、忘れ去り、放り出したもの、つまり廃品こそは無限の可能性を持っている。折れた釘、錆びた金物、煉瓦のかけら、コルクの栓など、普通の人には何でもないものが、私にとって ”何か” を起こさせるきっかけになる。創るべき作品を暗示するんだよ」

 自作のデザインによるタビ(絨毯)が掛かる応接間で、孫を横に甲高い声で目をキラキラ輝かせ、作品、コレクションなどについて語ってくれたこの巨星は今はいない。2度にわたって来日の時に持ち帰った埴輪は一緒に旅立ったであろうか。 』 (ジョアン・ミロ Joan  Miro (1893~1983) 1976年撮影)

 

 『 アーティストにしてみれば、アトリエをさらすことは、自らの手の内をみせるのと同じ。そのうえ自宅のようなプライベートな面は、伏せておいたほうがミステリアスでいいと思っている節もある。

 バルテェスもまた、「孤独の画家」 「ヴェールに包まれた画家」と評されたフランスの画家だ。スイス・アルプス山中で、作家としての執念と情熱を燃やしつくすかのように制作を続けていたバルテェスの住まいを、僕が世界に先駆けて独占取材できたのは、1993年のことだった。

 神秘的で異次元の世界に誘うような、独特の白日夢の世界をカンヴァスに託す孤高の画家・バルテュス。本名はバルタザール・クロソウスキー・ド・ローラ伯爵。

 1930年代《ギターのレッスン》など、エロティックな少女像風景を描き、リアリズム復興の気運が高まったパリで、シュールレアリストたちの称賛を受け、不動のイメージを確立した。

 バルテュスは、1752年に建てられた、スイス最大で現存最古の木造建築 ”グラン・シャレー” に、異郷にあって日本人の誇りと優雅さを持ち、常に選び抜かれた和服に身を包む節子夫人と、愛娘春美ちゃんと共に暮らしていた。

 「1977年にローマから引っ越してきました。この家がまだホテルだった頃、たまたま主人とお茶を飲みに来て、ホテルのオーナーと出会い、四方山話をしている間に、このホテルの買い手を探してるということを聞くに及び、すぐさま全館を案内してもらいました。

 そして、歩けばギシギシと音がするこの古い木の館に、主人も私もすっかり魅せられてしまい、とんとん拍子に話が決まってしまいました」 と、美しい顔を輝かす節子夫人。

 さて、この撮影は2日間の約束だった。初日は節子夫人の手前もあってか、グラン・シャレー内での節子夫人とのツー・ショットや夕食時のスナップなど、渋々……。

 といた体で撮影に協力してくれたが、あくる日に予定したアトリエでの撮影は頑として聞き入れられず、バルテュスは部屋に籠ったきりで、コトリとも音はしなかった。節子夫人に都合を聞いても顔を曇らせるばかり。

 おそらくバルテュスは ”音無しの構え” で、別棟になってるアトリエで秘かに制作をしているに相違ない……と、僕は想像をたくましくし、いったん節子夫人に別れを告げてグラン・シャレーを辞し、車を村はずれに置いてアトリエに引き返し、外から中の様子をうかがった。

 しかし、なんの物音もせず、扉も閉ったまま。意を決してアトリエの裏手に回り、明り取りの窓のひとつを押してみた。 ”なんと! まるで僕に開けられるのを待っていたかのようにスーと開いたではないか‼”

 この光景こそ僕が狙っていた通りの構図「屋根裏(アトリエ)に忍び込んで、羽目板を1枚外し上から覗いてみたら、どんな光景が見えるだろう。そこはアーティストの情念と執念を燃やす行動の場であると同時に、思索の場であり、憩いの場であるはずだ」

 このアトリエこそが、まさにバルテュスの芸術活動が凝縮されて存在する空間であった。 』 (バルテュス (Baluthus  1908~2001)  1993年撮影) 

 

 三治郎がアトリエの巨匠100人、推理作家50人に、取材を求める手紙を書き、電話で予約をとり、突然の訪問での、取材の会話とそれも、英語、フランス語で、三治郎は日本人、それもすべてが巨匠であることを、考えるとそのすごさが分かります。

 本人は、謙遜して片言の英語とカタコトのフランス語と言っていますが、巨匠の趣味の話から、写真撮影と、巨匠の創作の核心部分を写真にしたり、聞きだしたりと、私たちも使える英語、役立つフランス語を学ぶ何かがあるのではないでしょうか。

 巨匠たちとの時間は、三治郎にとっては、貴重な時間であったのは、無論のことですが、巨匠たちにとっても至福の時間であったことが、写真の笑顔であったり、貴重なコレクションのワインと料理をふるまったり、巨匠とする会話の中に読み取れます。

 これらのアトリエの巨匠、ミステリー作家の作品についても、三治郎は熟知していて、話題が作品や巨匠たちの経歴、趣味と変化しても、対応し、三治郎の写真家としての力量を彼らは認めていたと、考えられます。

 本来、三治郎の作品は写真集ですが、文章だけでも、切れがよく、躍動感があり、その場の情景と楽しさが、伝わてきます。これらの巨匠の半数は、その作品と三治郎の本でしか会うことはできません。 (第83回)

 


ブックハンター「インドの衝撃」

2015-08-01 09:33:59 | 独学

 83. インドの衝撃  (NHKスペシャル取材班 編著 2007年12月)

 『 インテルでは、インド人の優れた頭脳に早くから注目していた。1993年のインテルを代表するマイクロプロセッサとなる「ペンティアム」を開発したのは、実はインド人エンジニアたちだった。

 ペンティアムは、一つのチップに、三百十万ものトランジスターを集積し、コンピュータの演算速度をそれまでの三百倍に、演算の容量を五倍にもした画期的なものだった。

 そのため、ペンティアムは「高速、高性能」の代名詞となり、アメリカではマンガやテレビのトークショーでも頻繁に引き合いに出され、コンピュータとは縁のない人たちにまで広く一般的に使われる言葉となった。

 その開発チームを率い、「ペンティアムの父」と呼ばれるのが、インド出身のビノッド・ダームである。開発当時四十歳。のちにインテル本社でマイクロプロセッサ・グループの副社長にまでのぼりつめた。

 ダームは世界的にも優れな頭脳を持つインド人の代表として、しばしばその名を挙げられている。しかし、実はペンティアム開発チームには複数のインド人エンジニアがおり、ダームの活躍もアメリカのインテル本社では氷山の一角だった。

 今、インテルがインドで「創業以来、最も早い」というスピードで成長を遂げているその背景にも、一人の傑出したインド人エンジニアの存在があった。

 ラム・バサンサラム、六十歳。洗いざらしの白いシャツに、ジーンズという出で立ちで颯爽と登場したバサンサラムは、インテル・インドの№2である。彼はインドの工科大学を卒業後、アメリカ大学院に学び、インテルに入社して二十九年になる。

 上司は、「ペンティアムの父」ダームと共に、初代ペンティアムを開発したインド人エンジニアの一人で、その活躍ぶりを間近に見ながら研究開発に励んできた。

 彼自身もアメリカのインテル本社で様々な新しいテクノロジーを生みだしてきた。今やパソコンをプリンターやマウス、メモリースティック等、周辺装置と接続する上で欠かせない「USB]やコンピュータ上の三次元グラフィックスなどインテルが誇る新世代の技術を開発してきた。

 1999年、当時、アメリカは空前のITブームで、インテルが必要とするエンジニアの獲得が困難になっていた。年明け早々、バサンサラムは上司から呼び出されて、こう切り出された。

 「インドに研究開発拠点を作ってくれないか」 バサンサラムは、二つ返事で引き受けた。 当時、バサンサラムはアメリカに暮らして三十年になっていた。

 インテル本社で順風満帆のエンジニア生活を送っていたが、いつかは生まれ育ったインドに帰り、インドの発展に貢献したいと常々思っていたという。

 早速、その年の三月、バサンサラムは単身インドに乗りこんだ。そして、バンガロールにある雑居ビルの一室で、たった一人でインテル・インドを立ち上げた。

 それからわずか七年で、インド全土でエンジニア三千人を抱え、世界中にあるインテルのR&Dセンターのなかでも、アメリカに次ぐ規模の研究開発拠点となったインテル・インドはコンピュータのネットワークやセキュリティなど、以前はアメリカの本部でしか行えなかった分野を担うようになった。 』

 

 『 インドには、理工系の大学や理工系学部で学ぶ学生の人数が非常に多い。こうした大学や学部を卒業した人数は、2006年には四十四万人、2007年には五十万人で、毎年四~五万人ずつ増加している。

 その中でも、最高峰が、インド工科大学(Indian Institutes of Technology)、通称IITである。毎年、五千人の定員に対して、受験者数は三十万人にものぼる。競争率はなんと六十倍である。

 アメリカの名門ハーバード大学がおよそ十一倍、MITが八倍、東京大学が三倍というから、倍率でみると、間違いなく世界最難関の大学ということになる。

 IITは、デリー校、ボンベイ校、マドラス校、カラグプル校、カンプール校、ローキー校、グワハティ校の七校 で構成され、全体で学生数は二万六千人である。

 インドの学制は、日本の六・三・三制とは異なり、五・三・四制となっている。日本の小学校にあたる一年生から五年生と、中学校に当たる六年生から八年生を合わせて「初等教育」と呼び、日本の高校にあたる九年生から一二年生を「中等教育」、大学以上を「高等教育」と呼ぶ。

 IITを受験するのは、このインドでいうところの「中等教育」を終える十八歳となる。IITの試験は、特別にJEE(Joint Entrance Examination)と呼ばれる。

 試験科目は、数学、物理、化学の三科目について、午前中三時間、休息を入れて午後また三時間と、計六時間の試験が行われる。問題は百三十二問、受験者の理解力と分析力、そして論理的思考の能力が評価される。

 結果は、単なる合格、不合格が発表されるだけではない。全合格者の中で、自分が何位であるかも通知される。この順位の上位者から順に、IIT全七校のうち、どのIITの、どの学部に進むかを決める権利を与えられる。

 入学試験の順位が悪いと、合格はしたものの希望の学校、希望の学部に進めないということになる。そのため、中には合格しても進学せず、翌年の受験を目指す学生も多かった。

 日本のように「ビリでもとにかく受かれば」というわけにはいかない。一生を決めるこの入試に、とにかく受験生は必死で取り組んできた。しかし、2007年からIITは受験についていくつかの改革を行った。

 たとえ満足できない順位であっても、合格した学生は翌年以降に再度受験することはできなくなり、不合格の学生も受験できるのは二回までに限られることになったのである。

 IITに入りたい一心で、日本同様の暗記と詰め込み偏重の受験勉強をする若者が現れ、青春時代をIIT受験だけで終らせてしまうのは不幸だということと、そんな学生ばかりがIITに入学しては困る、という考えからだという。

 さて、晴れてIITに合格しても、もちろん次のハードルが待ち受けている。IITでは、学生たちはよほどの特別な事情がない限り、全員が大学の寮で暮らす。外の世界の余計な誘惑から隔離された環境に置かれるわけである。

 寮の部屋は、わずか三畳ほど。机とパソコン、ベッド、本や洋服を置く作りつけの棚以外は何もない。テレビも冷蔵庫もコーヒーメーカーもない部屋で、学生たちは四年間、とにかくひたすら勉強に打ち込むことになる。

 七月、広大なインドのさまざまな州から、地域を代表する精鋭たちがIITに集まってくる。インドは多様性の国である。ヒンズー教徒、イスラム教徒、シーク教徒など様々な宗教があり、公用語のヒンディー語、準公用語の英語のほか、二十二の主要言語と千六百五十もの方言がある。

 デリーのある北インドと、バンガロールのある南インドでは人々の習慣も顔つきも気質もまた大きく異なる。学生たちのほとんどは、IITに入学して初めて、自分が生まれ育った地域とは異なる宗教や言語、文化を持つ「インド人」に出会うという。

 「まるで外国留学をしたかのようだった」と学生たちは言っていた。唯一の共通点は、全員が各地の「一番」であることだ。これまで常にクラスはもちろん、学校でも町でも一番だった生徒たちが、人生で初めて「自分よりできる学生」に出会い、「一番でない」成績を取り、大変なショックを受けるという。

 学生の一人、ジョーシは言う。「本当に刺激的です。ここに集まっているのは全く異なるバックグランドを持つ人たちですが、全員が同じ厳しい試験を受け、六十倍の競争率を勝ち抜いたという大きな達成感を共有しています。

 その自信が、さまざまなことをやり遂げていく上で、大いに役立ちます。不可能なことは何ひとつない。やりたいと思ったことは必ず実現できるという自信です。より高い目標を目指して挑戦し、達成していくことができるのです」

 熾烈な受験競争を勝ち抜いた、インドを代表する若い頭脳集団が集まるIIT。その授業は一体どんなものだろうか。さぞかし高度で先進的なものだろうと思っていたが、聞いてみると、以外にも、授業では、基礎をみっちりと教え込むことに重点を置いているという。

 我々はジョーシの受講する化学反応についての授業を取材させてもらった。この日の授業は、複数の液体をビーカー内で混合させた場合に起こる蒸留のシュミレーションであった。

 といっても実際にコンピュターを用いてシュミュレーションするわけでではなく、教室で、温度や圧力、混合される物質の種類や量など様々な条件を変えながら、複数の方程式を用いて蒸留を頭のなかでシュミレーションするというものである。

 「問題を解くには、いくつもの方程式があります。わかっていない条件が何かによって用いる方程式は異なります。ビーカー内の混合物のバランスによって、考えられる方程式をすべて書きあげてください。皆さんがよく使う方程式の他にも複数ありますからね」

 方程式が出揃うと先生はさらにもう一歩踏み込んで学生たちに問いかける。「さて、同じ方程式を用いる場合でも、解き方は複数ありますね。どういう戦略で解くのがいいのか、それはなぜか考えて見てください」

 あやふやな理解や、「なんとなくわかったような気になっている」ことは、決して許されない。教室には緊張感がみなぎっている。さまざまな理論や方程式を駆使して、化学反応を頭の中でたっぷりとシュミレーションした後は、それを実験で確かめることになる。

 実験室でも、主眼に置かれるのは「何が起きているか?」ではなく、「なぜ起きているのか?」である。現象を観察して記録することよりも、その理由を理解することが、重視される。

 マハジャニ准教授はその理由を語る。「世の中には、基礎科学と数学の知識がなければ解けない問題がたくさんあります。経験はもちろん重要ですが、ある業界に例えば十五年、いや三十年身を置いたとしても研究過程で学んだ科学や数学の基礎知識を生かさなければ、解決できない問題があります。

 非常に込み入った問題に直面した時、IITで学んでいるような科学の知識を応用しなければ解決できないのです。だからこそ学生には基礎的な科学や理論に十分に向き合わせなければならないのです。

 私たちがIITで教えているのは、さまざまな概念や理論であって、化学工学や機械工学といったある特定分野の問題ではありません。

 状況を分析する力を身につけさせ、それが結果的に、化学薬品の開発に結びついたり、土木工学や機械工学の問題解決につながたりするのです」

 高度な技術が発達している今の社会では、原発からジェット旅客機、銀行のシステムなど、ひとたび不具合が生じると、その原因究明や復旧に長い時間かかり、時には最後まで原因を解明できないこともある。

 そんな時でも、複雑なシステムを構成する要素を十分に理解していれば、原因を突き止め、再設計することができる、ということでる。 

 さて、IITではどんな実験や研究開発が行われているだろうか。マイクロソフト、GE、インテルなど世界のトップ企業からの資金提供や、共同開発が数多く行われているというIITのこと。

 きっと超近代的で高額な実験装置がズラリと並んでいるに違いない。その代表的なものを撮影させていただこうと、いくつかの研究室を訪れた。しかし、私たちの期待はあっさりと裏切られた。

 研究棟に入ると、まるで半世紀前のような薄暗い廊下が続く。実験室に入ると、その装置のシンプルなことにさらに驚く。これで高度な実験や研究ができるだろうか? 装置の多くは設計から製造までほとんど自前で作られるという。

 航空工学の実験室では、いかにも手作りらしいシンプルな装置を使って実験が行われていた。直径10センチ、長さ1メートルほどの、家の樋のような円形の管が床に水平に置かれている。

 管の両端は開いていて、この中に片側からバーナーの炎をゆっくりと入れていくと、ある地点から「ボオーッ」と汽笛のような音が鳴り始める。

 実は、これは、熱から音にエネルギーが直接変換される「熱音響現象」という実験であった。現象自体はよく知られているが、研究室では、このシンプルな熱音響現象の実験を通じて、ジェット・エンジンやロケット・エンジンの燃焼効率を上げるために必要な条件を得ようとしているという。

 この実験から、どうしてそんなことがわかるのですか?」と聞くと、研究者はこう説明した。熱エネルギーから変換された音波が「ボオーッ」という音を引き起こすのだが、この音が大きくなるにつれ、エンジンの燃焼室内部では構造的なダメージが与えられているのだという。

 しかし、そのダメージを測定するのは容易なことではない。そこで、音の大きさから、ダメージの大きさとその条件を割り出すというわけである。

 また、ジェット・エンジンから排出される窒素酸化物の量は熱と比例する。この実験では、熱イコール音エネルギーなので、音を測定することで、窒素酸化物の排出量を削減するために必要なデータまで得られるというのである。

 実にシンプルな実験装置を使って、ジェット機やロケットのエンジンの燃焼効率を上げ、環境への配慮までできるという、意外にも壮大な実験が行われていたのである。 』

  

  『 インド式数学の実際を探ろうと三年生の算数の授業をのぞいてみた。教室に入ってまず、日本の算数の授業との違いに気づいた。生徒たちの机の上には教科書もノートも鉛筆も一切ない。

 先生は黒板には何も書かずに、口頭で計算問題を次々と出していき、生徒たちは頭の中だけで計算してどんどん答えていく。「89X73は?」「142X56は?」「256÷16は?」いずれも、計算式を目で見て、日本式に紙に書いて計算すれば何も難しいことはないが、問題を耳だけで聞き、かつ紙に書かずに計算しようとすると意外に難しいことに気づくはずだ。

 前の位の計算結果を、次の位の計算をした時には忘れてしまい、足し算ができなくならないだろうか? やってみていただきたい。ちなみに、この学校でも99X99までのニ桁の掛け算を暗記させてはいない。

 代わりに、こうした暗算を繰り返すことで、頭の中にしっかりとした計算式を思い浮かべられるようになり、また、それを長く記憶していられるようになる。

 インドでは一年生の時から授業で暗算を始め、習慣として身につけさせている。毎日十分間、授業の冒頭で繰り返し行って、生徒たちの計算力向上に役立てているという。

 「暗算は、生徒たちの脳を活性化してくれます。脳を鍛え、記憶力も高めてくれるのです。計算には速さが求められるので、生徒たちにいつも暗算を行うように教育し、計算の速度をキープするように訓練しています」と担任の教師は話す。

 我々は、算数好きにさせるインド式教育の家庭編を探るため。クラスで最も優秀といわれる三年生の女の子ビドゥシの家庭にお邪魔した。

 さぞかし、特別な英才教育をしているだろうと思ったが、父親のバラトが「算数好きを作る鍵」として見せてくれたのは、市販の計算ゲームだった。

 正方形の盤上に、手持ちの数字と+やX、÷などの符号の駒を並べ、縦方向か横方向かに計算式を成立させるというものだ。いわば、数字のクロスワードパズルのようなものである。

 例えば、「12÷4=8-5」と一人が置き、さらに次の人が計算式に駒をつなげて「9÷3+12÷4=8-5+2+1」など。可能な限り計算式を作っていく。

 沢山の数字数字や符号を用いて手持ちの駒を早く使いきった人が勝ちである。単純なようだが、じつは、ひとつひとつの数字や符号の駒に得点が書いてあり、また盤上のマス目には「X3」などが書いてある。この両者を掛け合わせて、同時に得点も計算するまさに計算し尽くしゲームである。

 お母さんが説明する。「子供たちはゲームをしながら学んでいます。妹はまだ掛け算など全く習っていませんが、お姉ちゃんが「4X3=12]とやているのを見て、4に3を掛けるのは4を3回足すのと同じだと自分で導き出しました。ビドゥシもまだ、掛け算とと足し算の方程式を習っていませんが、=の両側にある式が等しくなるということを理解しました」

 生活のあらゆる場面を「学びの場」に変えるインド。これこそが、算数に強い頭脳を育てるのではないかと感じた。 』

  

 『1981年1月、ムルティの自宅のアパートをオフィス代わりにして、インフォシスは産声を上げた。しかし、現実はきびしく、十年間全く利益を出すことができなかった。

 1992年、インフォシスは、アメリカ東海岸のボストンに初めて海外オフィスを構え、少しずつソフトウエア作りを請け負っていた。

 顧客を開拓する上で、大きな力となったのは、IITのネットワークだった。早い時期に、大口の顧客となったリーボックのマーケティングのトップをはじめ、大学卒業後、アメリカに渡った卒業生たちは、様々な企業の中枢にいた。

 インドで起業し、頭脳の力だけでゼロから新しいビジネス・スタイルを創り出そうとするムルティらを彼らは応援した。また、シリコンバレーをITブームの中心地にした起業家たちの15%が実はインド人であった。

 インフォシスは、シリコンバレーのベンチャー企業のソフト作りを請け負って、アメリカのITブームを下支えした。さらなる追い風は、「西暦2000年問題」いやゆるY2Kである。

 古いコンピューに組み込まれているソフトが1999年から2000年になる瞬間を正しく認識できず、事故を起こしてはならないと、ソフトを点検し必要とあれば書き換えるために大量のエンジニアが必要となった。

 膨大な人数がいて、英語ができ、しかも人件費が安いインド人エンジニアは、にわかに世界の脚光をあびることになった。こうした世界の変化を追い風に、インフォシスは、1999年には、売り上げ高が初めて1億ドルに達し、翌2000年に2億ドル、2001年には4億ドルと破竹の勢いで成長し、2007年には30億ドルを突破している。

 創業から二六年。この間にインフォシスは従業員数で1万倍以上に成長し、2006年も売上高は年46%の成長を続けている。ソフトウエア作りの下請けから取引先と関係のできたインフォシスは、顧客企業が直接行わなずとも自分たちが肩代わりできる仕事を引き受けていった。

 たとえば社内のコンピュータネットワークやシステム作り、バラバラに存在していたデータを規格化、データベース化して一括管理するなど、さまざまだ。

 顧客企業はそのようなアウトソーシングで浮いた時間や人材を、より重要な仕事、長期戦略の立案や新商品開発などに集中させることができるようになる。

 一方、インフォシスもどんどん経験を積み、その業務内容を拡大していった。インフォシスの収益の98%以上は海外企業との取引によるものだ。

 例えば、マイクロソフトとアップル、エアバスとボーイング、ビザカードとマスターカードのように、ライバル企業の両方から何らかの形で関わることも多い。

 そのため、インフォシスでは、それぞれの顧客の企業秘密を守るべく、例えば、マイクロソフト専門のビルがあり、そこにはマイクロソフト専属チーム以外の者は許可なく入ることはできないというように厳しく管理されている。

 取材の許可を得て訪れたマイクロソフト・チームでは、アメリカ西海岸にあるマイクロソフト本社と専用回線で結ばれ、インドとのおよそ半日の時差を利用して、アメリカが夜の間に、インフォシスのエンジニアがソフト開発を行い、二四時間体制で開発が進められる。

 2007年1月、マイクロソフトが六年ぶりに発表した、ウィンドウズ・ビスタでも、インフォシスは1年以上にわたり、その開発を支えてきた。

 従来のウィンドウズに比べ多機能になったビスタが、複数のアプリケーションを同時に開いてもスムーズに作動するかどうかなどを詳細に検証し、必要とあれば具体的な改善策を提案した。

 この他にも最近、世界で話題になった製品にインフォシスの技術が生かされた例として、世界最初の総二階建て、世界最大のジャンボジェット機、エアバスA380の設計がある。

 ヨーロッパの複数国が関わるプロジェクトゆえ、開発に予定以上の時間がかかったとはいえ、世界最高水準の技術を選りすぐって作り上げた航空機である。インフォシスは、そのA380で、航空機にとってはきわめて重要な、主翼の一部の設計を担った。

 これまで、航空機の製造では、アイデアから、設計、試作、テスト、再設計、再テスト……と複雑な過程を繰り返し、長い時間かかっていたが、インフォシスはこうした過程の大部分を、コンピュータでシュミュレーションすることを可能にした。

 A380のコンセプト決定の段階から、エアバスが実際に機体を製造する際に使用する最終図面の引き渡しに至るまで、そのデザインや開発をインフォシスは担っていた。

 物理的な製造や実際のテストは一切行わない。インフォシスはマイクロソフトの時と同様、ヨーロッパにあるエアバス本社と専用回線でつながり、共同で開発を進めてきたという。

 チームのメンバーは、航空機の構造計算において20~30年の経験を持つエキスパートが多く、その知識と経験を、シュミレーションソフトなど最新のテクノロジーと組み合わせることで、A380のような巨大ジェットの開発をも可能にしたのだ。 』

 

 『 フリードマンが「The Wold Is Flat」を書くきっかけとなったのは、2004年にバンガロールのインフォシス本社を訪ねて、CEOのナンダン・ニカレに出会ったことだったという。

 「アウトソーシングは、世界中で起きている根本的な変化のほんの一面にすぎません。ITバブルの時代にアメリカを中心に各国ではブロードバンドや海底ケーブルなどに莫大な投資が行われ、コンピュータは世界中に普及しました。

 同時に様々なものがデジタル化され、データを切り分けてインドや中国に送り、離れた土地で誰でも作業ができるようになりました。

 我々の仕事、ことに頭脳を使う仕事の自由度が飛躍的に高まったのです。いまバンガロールであなたが目にしているのは、こうした物事の一大集約なのです」 

 以降、フリードマンは、「フラットな世界」が何をもたらすかについて考えたという。

 「フラット化した世界では、もはや地理的概念も距離も意味をなさなくなります。世界が丸いままだったら、頭脳優秀なインド人や日本人はマイクロソフトやインテルと一緒に最高レベルの技術革新を行いたいと思っても、海外移住するしかありませんでした。

 しかし、世界がフラットになった今、どんな発展途上国にいようと、グローバル・プレイヤーになれるのです。移住しなくても、技術革新を担うことができるのです。

 フラット化した世界では、アメリカ人の仕事、日本人の仕事などというものはありません。仕事は誰のものでもなく、最も生産性が高く、最も優秀で、いい結果を出せ、そして、時に最も賃金の安い担い手のところにいくことななります」 』

  

 インドの科学教育から、我々は何を学ぶべきか。我々は数学と物理化学に関する数式をどうすれば、自分の味方につけることが、できるだろうか。

 どのようなステップで、数学、物理化学の科学的センスを、自分の味方につけるべきか。

 1.四則演算を暗算で自由に素早くでき、定量的把握が常にできるようにする。

 2.幾何の基本的図形問題を通じて、空間的図形認識力を高める。

 3.鶴亀算(連立方程式)によって、様々な問題の中で、鶴亀算で解ける物を識別する力を養う。

 4.微分積分の数学的な意味とその応用分野を理解する。

 5.物理化学の現象を説明する数式の意味を、理解できるように、工夫する。

 6.数学、物理、化学の公式の意味をできるだけ理解して、論理的思考と科学的分析力を向上させる。

 日本の学校(特に大学)が真摯にに学問と取り組んで、世界に通用する人材を養成しているように見えないのは、私の杞憂でしょうか。(第82回)