86. セレンディピティと近代医学 (モートン・マイヤーズ著 小林力訳 2010年3月)
HAPPY ACCIDENTS : Serendipity in Moden Medical Breakthroughs By Morton A. Meyers Copyright ©2007
『 セレンディピティは一七五四年に作家ホレス・ウォルポールによって英語になった。セレンディピティの重要なポイントはウォルポールの紹介した古代ペルシャの物語にある。
セレンディップ(今のスリランカ)に三人の王子がいた。「彼らが旅に出ると、いつも意外な出来事と遭遇し、王子たちの聡明さによって、彼らがもともと探していなかった何かを発見した」
偶然の出来事プラス聡明さ(sagacity)。サガシティーとは、奥まで見通す知性、鋭い感受性、深い判断力によって定義されるもので、セレンディピティにはなくてはならないものである。
自らに起こる幸運な出来事をつかむ人は、知恵のない人ではない。実際彼らの心は、特別な能力を持ち、確立された原理から脱却し、新しい可能性をイメージできる。
そしてそのとき取り組んでいたものとは別の問題であっても、何らかの解決法をみつけたら、そのことに気づく知性を持つ。偶然の発見は、何が起きたか分かる鋭くて創造的な心がなければ得られない。
「セレンディピティ」という言葉は、アメリカの生理学者ウォルター・キャノンが一九四五年の著書「研究者の道」によって現代の科学に導入した。キャノンによれば、セレンディピティをとらえる能力は科学者に必要な特質という。
現在この言葉は大衆メヂィアによって、幸運、偶然、あるいは出来事の幸運な展開といったゆるい意味で使われている。しばしば知性というファクターが抜け落ちていることがある。悲しいことにこれは誤った使い方だ。
セレンディピティは、準備された心によって、予期せぬ観察が、求めていなかった何かに到達すること、あるいは何かを発見し、価値あるものになることを意味する。
幸運な偶然(チャンス)というだけでは発見には結びつかない。判断力を伴った偶然でなくてはならない。
ルイ・パスツールの有名な言葉「観察において、チャンスはよく準備された心にのみ微笑む」の限りにおいては、セレンディピティはチャンスと同義に扱われている。
ノーベル医学賞受賞者サルバドル・ルリアは、セレンディピティを「受け入れる力のある目にとまった幸運な観察」とした。 』
『 研究者やクリエイティブな人々に言わせると、創造的な成果に至る思考方法には三種類あるという。理性、直感、イマジネーションである。
理性や推理力は、研究活動の中心になるものだが、三つの中でもっとも生産的なのは直観である。多くの理論家さえ、論理は、正確さと堅牢さを持つけれども生産的な思考を生むものではないと認めている。
アインシュタインは「本当に価値あるものは直観だ……基本原理を発見するためには論理的な方法は役に立たない。直観により思考するには、表から見えないところに潜む原理を感じることだ」といっている。
「表から見えないところに潜む原理」。これは医学の多くの重大発見に共通してあるものだ。この直観は、未だかって誰も疑問に思わなかったことに疑問をもつことを必要とする。
ノーベル賞物理学者イジドール・ラービは、彼の探求心に及ぼした幼年期の影響について述べている。彼が毎日学校から帰ると、母親は「今日は何を勉強したの?」と尋ねずに、「今日はいい質問をしましたか?」と聞いたという。
ノーベル医学賞を受賞したジェラルド・エーデルマンはこう主張する。「疑問をもつことは重要である……さらにいうと、答えに到達しやすい疑問をもてるかどうか。本当に偉大な科学者はそうしていると思う」
直観は、曖昧なひらめきといったものではなく、単なる「予感」でもない。むしろ認識する上での技術だ。ほとんど情報がない中で判断する能力のようなものだ。
三つ目のイマジネーションに関していうと、これはその言葉からも分かるように、視覚的イメージの概念を中にもつ。実際、「洞察」とか「心の目で」といった語句もこれを裏付ける。
一九〇八年ノーベル医学賞を受賞したパウル・エールリッヒは、化学物質の三次元構造を心の中で映像化できるという特別な能力をもっていた。
「ベンゼン環と他の化学構造が私の目の前で戯れている……私はときとして、ずっと後になって構造化学の原理からようやくわかるようなことも、予測することができた」。
他の科学者でも化学構造の決定でブレークスルーをしたような人にはこのような才能をもつものがいた。
人は創造というと言葉に芸術を連想する。しかし偉大な発見をした科学の天才たちにおいても、ほとんど常に創造の心が底流にある。科学における創造は、その心の衝動について芸術と多くを共有する。
両者に共通するものは、 一、 自己表現、真実、秩序追求、 二、 宇宙に潜む美の鑑賞、 三、 現実を見るときの独特の観点、 そして四、 自分が見た世界を他人にも見てほしいという願望、である。
作家のウラジーミル・ナボコフは「空想のない科学はなく、事実のない芸術はない」と論理と直感を結びつけている。クリエイティブな人々は、心が広く、おかしな経験に出くわしても柔軟である。
アーサー・ケストラーはその大著「創造活動の理論」で、しっかりした洞察は、さまざまな知的引き出しに収まっているアイテムを並べることで生まれると述べた。
彼はこの過程を「二元結合」(bisociation)と呼んだ。多くの科学的発見において、「最も重要なことは、それ以前に誰も気づかなかったところにアナロジー(類似性)をみることだ」と彼は主張する。
クリエイティブな発見をする過程で、アナロジーを引き出すことと同じくらい重要なものは、よく説明できない物事をしっかり見ることである。
トーマス・クーンは、科学の革命は変則的なもの――すなわち常識となっている科学の枠組みや伝統、パラダイムに当てはめることができないような発見――が溜まってくると、科学的革命に向かう道が開かれるとした。 』
『 当時フレミングは、吹き出物や膿瘍、感染した鼻、のど、皮膚からとった黄色ブドウ球菌を使って研究していた。彼は実験台にプレートを積み上げ、何が起きているか毎日のように観察した。
コロニーはこの本の活字くらいの大きさで、たいてい黄金色をしていた。いくつかの細菌はさまざまな明るさの色をした特徴的なコロニーを作る。フレミングは、多様な環境因子でコロニーの色が変わるとき、その菌の毒性も変わるのかどうか調べていた。
フレミングは鋭い目をもっていて、「バクテリアと遊ぶ」ことを楽しんだ。彼の中にいる芸術家がユニークなパレットを作った。例えば黄色ブドウ球菌は黄金色のコロニーを作る。
セラチア菌は鮮やかな赤、B・ビオラセウス菌は紫、といった具合だ。彼はこれらカラフルな細菌を全て用意し、それらを先につけた白金耳で寒天培地の上をなぞった。
線の形や場所は注意深く決めてある。彼はこうして四インチの円の中に多くの絵やデザインを ”育てた”。色鮮やかな岩石園、赤白青のユニオンジャック、赤ちゃんを抱く母親。これらはまるで魔法のように、孵卵器へ入れた二四時間後に現れるのだった。
七月の終わり、フレミングが夏休みを取る時期だった。彼はブドウ球菌のプレートを四〇枚から五〇枚ほど実験台の上に放置したまま出かけてしまった。
九月三日に戻った彼は、実験台の上を片付け始めた。プレート皿は洗って再利用するため、消毒液の入った浅いトレーに入れていく。(現在、培養皿はプラスチック製で使い捨てである)。
彼はそのとき何か興味深いものが生えていないか一つ一つ見ていった。このことは彼の尊敬すべき性質の一端を示している。彼は常に面白い事実を求め、そして実際に二度目のチャンスを手にした。
そのプレートはカビに汚染されていた。これはそれほど珍しいことではない。しかしフレミングは、このカビの島の周りにバクテリアがきれいに抜けた場所があるのを見て驚いた。
皿の端のほうに黄緑色の、細かい羽毛のようなカビが生えている。他方にはブドウ球菌のコロニーが生えているが、カビの周りだけは細菌が溶けていた。
このカビは、細菌を育たないようにしているのではなく、細菌を殺していた。このカビは、あとで分かったことだが、階下にあった菌類学の研究室が発生源で、非常に珍しいペニシリウム・ノータタムであった。
フレミングはそのプレートを同僚たちに見せたが、誰も興味を示さない。フレミングは、カビからとった明るい抽出液を一滴、ブドウ球菌のコロニーにたらすと、数時間後にバクテリアは死に、まさに目の前で消えるのを見て彼は確信した。
彼は試験管に血液を採りそこにペニシリン抽出液を加えたとき、不活性化されてしまう――人体では効かないことを示唆する――という事実に、研究の進め方を誤ったのかもしれない。
フレミングはこの結果にがっかりして、ペニシリンは表面の局所的感染以外には臨床で役に立たない、ただし実験室で特定の微生物を単離するのには使えるかもしれないと、結論した。
しかしフレミングは、おそらく単に頑固さから、そのカビの株を保存し、いつでも使える状態にしていた。このことが彼の栄光と、人類にとって大きな福祉につながる。彼はペニシリウムの株を小分けにして他の研究室にも送った。
もし数年後にオクスフォード大学で行われた研究がなかったら、フレミングは医学史において無名の人物のままで終っただろう。
オクスフォードの献身的な研究者たちは、それまで培養皿で不要なバクテリアを生やさないようにするだけの「奇妙なもの」だったペニシリンを、「奇妙な医薬品」に変えた。
ペニシリンは、ついにその本来の性質――世界で最も命を救う薬――を明らかにされ、その瞬間に、感染症の治療を永久に変える存在となった。
フローリーとチェインはたまたまフレミングが九年前に発表したペニシリンの論文を読んだ。チェインはペニシリンがどうやって細菌の細胞壁を分解するのか詳しく研究すれば、細胞膜の構造について有用な情報が得られると信じた。
チェインはペニシリウム・ノータタムの株菌がすぐ近くにあることを知って驚き、喜ぶ。彼はカビのサンプルをもらい、直ちに実験を開始した。彼は後に言う。
「我々はたまたまペニシリンに行った。なぜならそのカビがちょうど自分の研究所で育っていたからだ」
チェインはフレミングが諦めたことに挑戦した。アイデアは、安定した形で得るためにペニシリンを冷やして結晶化することだった。彼もフローリーも臨床的な利用については考えなかった。
「こうして我々は」一九三八年に「精製と単離を始めた。抗菌作用のある新しい化学療法剤を探したいという気持ちはなく、ただ病原菌の表面にある化学物質を分解する酵素を単離したいと考えていた」と数年後にチェインは、曲りがりくねった思わぬ道筋を再び語っている。
フローリーも認める。「我々は人類の病気という問題でペニシリンを考えたことはなかったと思う。これは単に興味深い科学的な行為だった」
一方、チェインとヒートリーの仕事は、ペニシリウムの培養液から満足できる純度の物質を十分量取ることで、これは大変な作業だった。
一九三九年に第二次世界大戦が始まり、研究のための資材は極端に不足するようになった。カビは酸素がなければ育たない。どのカビも空気に触れられるよう、広い表面積での培養が必要だった。
ヒートリーは、ラドクリフ診療所から病人用便器を一六個借りてきて減菌したあと、水面でカビを培養できるよう肉汁をいれた。
一九四〇年初めには少量の茶色い粉――純度わずかに0.02%であった――が得られた。二匹のマウスに注射してみたが毒性はなかった。
ここで起きたことは三つの点で幸運だった。第一に彼らは、当時普通に実験動物として使われていたモルモットではなくマウスを選んだ。ペニシリンの毒性はマウスよりもモルモットのほうで強く出る。
二つ目、マウスに注射した粉には大量の不純物がまじっていた。もし不純物に毒性があったら、科学者たちは実際のペニシリンの安全性に気づかず、研究を中止していたかもしれない。
三つ目は、チェインとフローリーは注射されたマウスの尿が濃い茶色であることに注目したことである。彼らはペニシリンが分解されずにほとんど尿に出たと考えた。これは体内で壊されなかったことを示すだけでなく、どこの組織にも染みこんで感染症と戦いうることを示唆する。
チームは、ここに至って初めてペニシリンの異常な抗菌活性に気がついた。さらに彼らはペニシリンを100万分の1まで薄めてもバクテリアの発育を抑えることを発見する。
彼らはこの物質の治療上での可能性をつかみ始めた。そこでフローリーはきちんとした動物実験を決意する。ヒートリーは精製技術を改良し、その純度は三%にまで上がっていた。
一九四〇年五月二五日、フローリー、チェイン、ヒートリーは八匹のマウスに致死量の連鎖球菌を感染させ、ペニシリンの効果を見る草分けとなった実験を行った。
四匹にはペニシリンを注射し、残りは対照群として注射しない。ヒートリーは興奮して一晩中実験室にいた。翌朝までに対照群の四匹は全て死ぬ、ペニシリンを注射された四匹のうち三匹は生きていた。
チェインが思い切り踊りだす一方で、フローリーも例によって慎重であったが「どうやらこれは奇跡のように見える」と認めた。マウスの実験でチームのペニシリンは使い果たしてしまった。
そしてヒトはマウスの三千倍も大きい、フローリーは自分の研究部門をペニシリン工場に改造し、製陶所に六百個の陶器を注文した。一九四一年の二月から六月にかけての人の試験では、動物実験の結果を劇的に再現する。
ペニシリンは今までの抗菌剤よりもはるかに効果が強く、毒性もなかった。一九四五年三月には商業販売も始まった。肺炎、梅毒、淋病、ジフテリア、猩紅熱、多くの感染症、産褥熱。かってこれらは死の病だったが一転して治るようになった。 』
『 当時二五歳の外科研修医、ドイツのウェルナー・フォルスマンは一九二九年、初めて人に心臓カテーテルを施した。対象は自分自身! 医学史上、自分を使った人体実験として驚くべき例である。
フォルスマンは医学校時代、その数十年前の一八六一年に行われた二人のフランス人の研究に感銘を受けた。エチアン・マレイとオーギュスト・ショボーが、意識のある立ったままの馬の頸動脈に細いチューブを入れて、それを心臓まで押し込み心室の内圧を記録したという研究である。
この先駆的技術は、馬の心臓を乱すことがなかった。その出来事を描いた古い版画を見て、フォルスマンはイメージを膨らます。「この技術を人間に使うことは可能だと私は考えた」
彼は一九二九年、ベルリン大学から医学の学位を得る。その年、フォルスマンはベルリンの北、エーベルスワルデの小さな病院、オーギュスト・ビクトリア・ハイムで研修医となった。
そこで上司たちに、薬を直接心臓に注入する新しい技術の研究を許可してくれるように願い出る。しかし新しいアイデアの正しさを上司たちに納得させることはできなかった。
それでもまったくひるまず彼は自分自身で計画を進める。目的は、緊急手術のときに血液循環の中心部へ薬物を投与する方法を開発することだった。
彼は、必要な器具や装置を利用できる外科看護師の信用を得た。そしてフォルスマンのビジョンに惚れこんだ彼女は、自ら実験台になることを志願する。
彼は彼女に実験するふりをして、同僚たちが午後の昼寝をしているときに小さな手術室に入り、そこの台に彼女を縛り付けた。そして彼女の見ていないときに自分の左肘の内側に麻酔を打つ。
麻酔が効いてくるとすぐに彼は自分の腕を切開し、静脈を露出させた。そして柔らかい尿管カテーテルを、大胆にも三〇センチほど心臓に向かって挿入した。
この細いゴム管は減菌してあり、泌尿器科医が腎臓から尿を導くために使うものだ。長さ六十五センチあった。彼はそのあと、怒っている彼女を解いてやった。
二人は二階下のレントゲン室まで歩いて降りた。そこで彼は怖がることもなくカテーテルをさらに押し込む。蛍光透視画面に映る像を看護婦が手にもった鏡でみせてくれ、彼は先端を右心部上室(心房)まで入れた(蛍光透視法はX線撮影技術の1つで、臓器や造影剤、カテーテルなどの動きがリアルタイムで見られる)。
彼は実験の証拠をX線フィルムに撮った。ところで、心臓の内側にある心内膜は敏感で、何かが触れると致命的な不整脈が起きる。フォルスマンはこういう危険に気がつかなかったようだ。
フォルスマンのレポートは、ドイツの有名な医学雑誌に載ったが、賛美の声は聞こえず、同業者からの凄まじいまでの批判と叱責が起きた。また、人間の心臓は命の中心であり、器具や手術で冒すなどとんでもないことだと信じられていた。
その結果、フォルスマンの外科医としてのキャリア」は、以後ひどく苦しいものになった。しかし、彼は犬や自分自身にカテーテルを入れてX線造影剤を注入する実験を続けている。
彼は一九三一年四月、ミュンヘンで開かれたドイツ外科学会の年次総会でそれまでの結果を発表する。しかし反応は氷のようで、拍手もなけば討論もなかった。
フォルスマンが自身への実験をやめたのは、静脈を17ヶ所切開し、使える場所がなくなったときだけだったと言われる。
しかし、数年後の一九四〇年、心臓カテーテルを発展させ患者に使ったのはフォルスマンではなく、ニューヨークにいた二人の医師、ベルビュ病院のアンドレ・クルナンとディキンソン・リチャーズである。
一九五六年ノーベル賞委員会は、その年の医学賞をフォルスマン、クルナン、リチャーズに与えると発表。先駆的な実験から四半世紀、”黒い森” 地方の田舎医師をしていたフォルスマンは、そのニュースで無名の状態から引っ張り出される。
インタビューには「主教にまつり上げられたことを知ったばかりの村人の気分だ」と答えた。一方、クルナンはノーベル賞講演で「心臓カテーテルは……錠前を開ける鍵であった」と述べる。
フォルスマンの受賞に対しても触れた。「当時、彼はひどく過大な批判に曝された……カテーテルが危険だという根拠のない迷信によるものだ。これは――啓蒙の進んだ現代にあっても――価値ある発見が、先入観のせいで顧みられないこともある、ということの証拠である」
一九五〇年代、先天的な心臓疾患に対する新しい手術が期待いされるようになってきた。このとき心臓カテーテルに関連して必要になったものは、「選択的血管心臓造影」と呼ばれる技術を開発することだった。
この技術は、カテーテルを通して動脈や心臓へX線不透過物質、すなわち「造影剤」を注入するものだ。すると心臓の内部や動脈の異常が見えるようになる。
それには動脈系に安全で信頼できるテクニックでカテーテルを入れなくてはならない。当時は血管を切開することが最もよく行われていた。
この問題を巧妙に改良したのが、ストックホルム、カロリンスカ研究所にいた三二歳の放射線科医、スウェン・イーバル・セルジンガーである。
彼は血管を露出させるための外科手術をすることなく、皮膚の上から(たいてい脚の付け根)カテーテルを血管に入れる手法を開発した。従来の手法より簡単で安全、合併症の危険もほとんどなかった。
医師たちは、セルジンガーの方法を使って造影剤を血管に入れると、血管の位置や走り方だけでなく、動脈硬化で起きる塞栓の存在、程度、場所なども見られるようになった。
セルジンガーの方法は一九五三年、簡単な九ページの論文になって、スウェーデンの一流医学雑誌「Acta Radiological」(放射医学雑誌)に掲載される。この業績は医学の歴史における記念碑の一つである。
セルジンガーの技術は、以後の大きな進歩を可能にした輝くばかりの発見ということで、血液循環を発見したハーベイの業績に例えられるかもしれない。
この技術は血管系へのカテーテル導入に広く使われ、現代の心臓学、循環器外科でも重要な技術である。
左心室が収縮し、大動脈が酸素の豊富な血液を運び出すとき、すぐに枝分かれした最初の血管は心臓そのものの筋肉に血液を送っている。これらの枝分かれ血管は、ちょうど心臓の上部から始まるので、王冠にたとえられ、冠動脈という。
医師たちは大動脈や冠動脈の中をなんとかして見たいと思ってきた。弁の漏れや血管の閉塞、その他の異常を探すためである。
しかし研究者たちは、冠動脈の開口部からカテーテルを直接入れて造影剤を注入することなど、恐ろしくて決してしなかった。心筋から酸素を奪ってしまう危険な顛末が二つも予想されたからだ。
つまり、カテーテルを入れることによる冠動脈の攣縮と、酸素を含まないヨード系造影剤で血液が置換されてしまうことである。数年にわたり、無数の研究施設で、たくさんの方法が検討された。
しかし人間の冠動脈にカテーテルを入れようとした人は誰もいない。その代り、造影剤を送り込もうと、カテーテルの先端を胸部大動脈の中でできるだけ冠動脈の入り口近くに置くことが行われた。
そして一九五九年、「サーキュレーション」(循環)誌に短い抄録が載る。それはクリープランド・クリニックのF・メイソン・ソーンズ・ジュニアらが米国心臓病学会(ACC)年次総会で口頭発表した研究の要旨であった。
その最初の文章はこうである。「動脈硬化の病変を示すための冠動脈の造影に関して、安全で信頼できる方法が開発された」。
当時さざなみ程度の興味しか持たれなかったものが、やがて記念碑的な発見とみなされるようになる。冠動脈閉塞の場所、数、程度が分かるようになったのだ。この手法は、半世紀前の心電図と同じように、心臓病学を大いに進歩させた。
しかし、ソーンズの方法がいかにして「発明」されたかは、数年後にこの技術が冠動脈再建術の革命的進歩で広く使われるようになるまで、明らかにされなかった。
一九五八年一〇月三〇日、ソーンズは二六歳になるリウマチ性心疾患の男性患者を診ていた。助手はカテーテルを患者の動脈に入れ、大動脈を通って心臓に向けて上がり、カテーテル先端を大動脈弁のすぐ上に置こうとした。
このとき穴の中で画像を見ていたソーンズは恐怖で凍りついた。先端がくるっと回り造影剤が直接冠動脈に入ってしまったのである。それも凄まじいほど大量だった。
今までヒトの心臓への使用としては考えたこともないほどの量だ。心臓停止を恐れて、彼は穴から飛び出し患者の脇に駆け寄った。胸を開いて心臓マッサージをするためだ。
患者の心臓は停止していた。恐ろしい数秒間。しかし、患者は意識があって、ソーンズは彼に咳をしてみるよう言った。すると全員が安堵したことに、心臓は再び動き始め、後遺症はまったくなかった。
このぞっとする災難でソーンズが考えたことは、当時の定説と違って、酸素の含まない液体を冠動脈に入れても安全なのではないかということだった。
彼は冠動脈循環の鮮明で詳細な画像を得る方法を発見したと思った。 「それから数日、私はこのアクシデントがまさに、我々がずっと探していた技術の開発につながるのではなかろうか、と考え始めていた。
もし人間がこれほど大量の造影剤に耐えられるなら、もっと薄い造影剤を少量投与して冠動脈を不透明にすることも、十分現実的ではないだろうか。 少なからぬ恐怖と不安を抱えつつも、我々はこの目的に向かってプログラムをスタートさせた」。
彼は先端が柔らかく先細になったカテーテルを作り、直接簡単に入るようにした。その後ソーンズは、少量の造影剤――四から六ミリリットル――を入れることで、選択的に冠動脈だけを造影することに成功した。
試した患者は一九六二年までに一〇〇〇人以上。彼は、十分大人数の患者で試して自信が出るまで発表しない性格だった。そして簡単な論文が、アメリカ心臓学会の配布する月刊小雑誌「Modern Concept of Diseases」(現代循環器病学)に発表される。
論文は、その大きな重要性にもかかわらず、控えめに書かれていてわずか四ページだった。しかしインパクトは強烈で、一九六〇年代を通じてこの技術は急速に普及することになる。
一九六七年五月、ソーンズの同僚、ルネ・ファバロロは、初の冠動脈バイパス移植手術を行う。これは脚を走る長い静脈である伏在静脈を使って、狭窄、閉塞した冠動脈の部分の両端をつなげ血流をバイパスするものだ。
微小縫合術の開発もまた、外科領域におけるセレンディピティの例である。バーモント大学の若い外科医ヤコブソンはあるとき血管につながっている神経を切り離してくれと頼まれた。
ヤコブソンは、神経を一緒に走っている血管ごと切り離してしまうのが一番簡単だと考えた。神経の影響がない状態で実験したあと、今度はこの細い血管をまた繋げなくてはならないという問題に直面する。
繋げなければ犬が死んでしまう。しかし当時の縫合手法は、これほど細い血管には適用できなかった。縫合はほとんど不可能に思えてはずだ。
ここでヤコブソンは、「問題はことを行う手の能力よりも、それを見る目のほうにある」ということに気づく。彼は高性能の顕微鏡の助けを借りて、小さな血管の端をつなげることに成功した。
そして一九六〇年、この技術で1.4ミリという細い動物血管の縫合に成功し、微小血管縫合術は生まれた。 』
現在では、カテーテルバルーン血管形成、ステント留置によって、日本でも年間数十万件の処置が行われています。
実を言いますと、私も2015年3月に冠動脈狭窄が2ヵ所見つかり、すぐに脚の付け根からカテーテルを入れ、バルーン血管形成、ステント留置を行い、その一週間後に、手首の動脈からカテーテルを入れ、2ヵ所目の狭窄をバルーン血管形成、ステント留置を行いました。
私の場合は救急車で運ばれて、すぐ手術であったため、心臓へのダメージはまったくなく、半年経った現在元気です。 (第85回)