82. 推理作家の家(Ⅱ)――名作のうまれた書斎を訪ねて (南川三治郎著 2012年5月)
本書は、すでに30人のうち4人について紹介しましたが、もう少し紹介したく推理作家の家(Ⅱ)としました。
『 ジェイムズ・エルロイ (James Ellroy 1948~ ) (取材・撮影1992年11月)
学校にも行かず、ゴルフ場でキャディーをしながら、チャンドラー、ロス・マクドナルド、ヨセフ・ウォンボーを読みあさり、性と暴力と人間の暗い情念をえぐりだすような陰惨な作品を書いてデヴューした、ジェイムス・エルロイ。
彼の作品は、自身の過去の実体験に少なからず影響をうけているといって過言ではないだろう。私は、むせかえるような血の臭いをプンプンさせているこの力を秘めた作家、エルロイに会うべく、1992年11月にアメリカに着いてから、毎日のように彼に電話をかけていた。しかし、いつかけても留守番電話。
エルロイは10歳のとき、母が半裸の絞殺死体となって発見されたという陰惨な体験をもつ。この犯人はついに捕まらず、事件は結局迷宮入りした。エルロイが書く作品は、その暗い影を引きずっているといわれる。さらに17歳のときにはライト・ヘビー級のボクサーだった父を亡くし、天涯孤独の身となった鬼才である。
1992年11月初旬、ロバート・B・パーカー、マーサ・グライムズ、クライブ・カッツラー、ローレンス・ブロックなどにインタヴューをするため、私はニューヨーク経由でボストンに降り立った。1987年、身近に起こった事件を題材に書いた「ブラック・ダリア The black dahlia」で脚光を浴びた、注目の作家エルロイもそのリストの中に入っていた。
しかし、その段階では、エルロイの連絡先の住所や電話番号などはリサーチができていなかった。11月16日、ロバート・B・パーカーを取材した折、帰り際に「ブラック・ダリア」を書いたエルロイという作家はどこに住んでいるか知ってますか?と尋ねると、パーカーは「ちょっと待ってて……」と言って、どこかに電話をかけ始めた。
15分くらい待っただろうか、電話番号と住所を書き込んだメモ用紙をヒラヒラさせ、「たぶん、インタヴューの約束を取りつけるのは無理だろうけどね。グット・ラック!」とウインクしてよこした。それから2週間後に、エルロイの隠れ家を急襲、ようやく取材にこぎつけたのであった。
都会の喧騒を遠く離れ、静寂が辺りを一様に包み込んだコネチカット州ポンス・リッジの湖畔に、エルロイは瀟洒な別荘を借り、2番目の妻であるヘレン夫人と新婚生活を満喫していた。
出てきたエルロイは、半袖のポロシャツに薄い水色のジーンズといういでたちの長身。若干薄くなった髪の毛をなでながら手を差し出した。神経質そうな顔つき、メガネの奥のまぶたが不安げにピクピクと引きつっている。
「故郷はロサンゼルスなんだけど、青春の蹉跌を痛いほど思い知らされた、あの街には住み続けたくなくってね。作家でメシが食えるようになったので、どこかいいところはないか……と新天地を求めて方々探し歩いて、ここニューイングランド地方のコネチカット州に移り住むことになったんだ。ここは平和で、静かで、住むには最高の条件だよ」
エルロイの住まいは、湖から道一本入ったなだらかな丘に沿って建つ2階建て。真っ白に塗られた外壁が芝生の緑に映える。風にそよぐ樹々の音が聞こえるだけの閑静な佇まいだ。エルロイの書斎は、2階にある約10畳程度のシンプルなスペース。
部屋には小さな机と小さなロッカーが1つあるっきり。執筆するときは、ジョルジュ・シムノンよろしく部屋の窓とカーテンを閉め切り、真っ暗闇のなか、スタンドの光だけを頼りにロング・ハンド(手書き)で、殴り書きの勢いで一気に仕上げるという。
「俺は石にかじりついても作家になりたかったんだ。え、どうしてかって? 30数回も刑務所に繰り返し放り込まれた人間が、他にまともな職に就けると思うかい? 日雇い仕事も長続きしなかったし……。公共の図書館だけが安心して眠ることのできる場所だったんだ。
そこで読んだ本、例えばチャンドラーやシムノンの作品は、ほとんど空で言えるほど暗記したね。で、俺も書いてみようと思い立ったんだ。文体、ちょっと似てると思わないかい?」
「ストーリーのプロットは細部まで――もちろん結末まで――きちんと決めてから書きだすんだ。でも、書いている途中で新しい資料が見つかれば、そのたびに書き直しが必要だ。だから、小説はどうしても2年に1作くらいのスロー・ペースになる」
学校教育を受けてないため、作家として大成した今も「勉強」を怠ることはない。今でも図書館からチャンドラーやシムノンの名作を借り出し、暇を見つけては名文をノートに書き写す練習を、日々欠かさないという。
エルロイは優れた書き手がいつもそうであるように、事実に即した資料集めにはたっぷりと時間を費やす。一見豪放に見えるが、誰よりも繊細な神経の持ち主なのだ。
「書くのに疲れると、好きなクラシック音楽、特にベートーヴェンを聴きながら、歴史書に目を通すんだ」 それは不幸だった青春時代の辛い思い出からできるだけ遠ざかり、悪夢を追い払って心の安静を希求する姿であるように思えた。 』
『 パトリシア・モイーズ (Patricia Moyes 1923~2000) (取材・撮影:1983年1月)
パトリシア・モイーズを、カリブ海上に浮かぶ地図で探すのもやっとの英国領の小さな島、ヴァージン・ゴーダに訪れたときは、思わず仕事であることを忘れた。モイーズは、その島の、はるか海を見渡す丘の頂上にコテージを建て、夫と4匹の犬、1匹の猫に囲まれて悠悠自適に執筆活動を続けていた。
ヴァージニア・ゴーダ島へは、厳冬のニューヨークからジェット機でいったんプエルトリコへ入る。そして、ここでセスナに乗り継いで約1時間も飛ぶと、眼下に珊瑚礁とヨットの白い帆が紺碧の海に映えて美しいカリブ海の光景が広がってくる。そのまま、常夏のカリブ海と島々の眺望を満喫しながら、一路ヴァージン・コーダへ。
山の頂上を切り開いてつくられた空港は、やっと小型のセスナ機が降りられるだけの広さしかない。オーバー・ランすれば、そのまま海にジャンプしてしまいそうだ。
しかし、小さい島でもそこは英国領、ひととおりの簡単な入国審査と税関のチェックを済ませると、迎えに来てくれたモイーズの運転するジープに乗って、島内を一周した。
「この島は、この世のパラダイスね。花は一年中咲いているし、年中泳げるの。そして、なによりも観光客が少ないことね。この島に来るには、ヨットかパワー・ボートで海から入って来るか、今、サンジローが来たように、1日4便のプエルトリコのサン・ファンからの小型セスナ機に乗って来るかに限られるの。
このセスナがたとえ満席でも、空からは1日24人しか入ることができないわけ。たから2,3マイルの海岸線を歩いたって、人っ子ひとり見つけられない完全なプライベート・ビーチが実現するわけよ! 素敵でしょ?
それに、この島の住人といっても、白人が約50人、あとは現地の人が500人程度いるだけ。みんなお互い顔見知りだから泥棒もいないし、犯罪もない、とても平和な島よ」と、アップ・ダウンとカーブが織りなす風光明媚な、入り組んだ海岸線をドライヴしながら、モイーズは話してくれた。
――あなたが小説を書き始めたきっかけは? 「1957年、イタリア・アルプスのサンタ・キアラにスキーに行って、2日目に足を脱臼したことかしら。ギブスで足を固定されてしまったので、全然滑ることができなかったの。
もともと推理小説を読むことが大好きだったし、そのときもイタリア語の長編をテラスで日光浴をしながら読んでたわ。そして、目の前で上り下りするリフトを見ていたら、ふと、このスキー・リフトを素材にして私にも推理小説が書けるんじゃないかしら……なんておもいついたの。
なにせ自由に動くこともできず、何もすることがなかったから(笑)。すぐにプロットを考えて友人に見せたら、皆、面白い!って言ってくれるし、前の主人は、”これはぜひ小説にしなさい”って励ましてくれたの」
――作品に出てくる、エミーはあなた自身? 「探偵ヘンリー・ティペットは、まったくの架空の人物だけど、彼の妻エミーはもちろん私自身よ。エミーはストーリーのなかで、いつも重要な謎解きのきっかけをつくるでしょ。
夫が困っているときには必ず目立ちすぎないようにしながら、彼を助けるの。そのくらいの”公私混同”は許されてもいいんじゃなくって?(笑)」
――あなたの執筆スタイル? 「書き始めるときには、最低でもストーリーの基本的なアウトラインは描けていなければね。新聞用語でいえば 「5W1H」 っていうのかしら?」
「もうひとつ肝心なことは、そのストーリーがどうやってディスカヴァーされていくかを知り尽していることよ。私の場合は、まず場面の設定が重要なポイントとなるわね。
その設定のなかで、どんな犯罪を引き起こすのかといったシチュエーション(状況)を決めると、プロットはおのずから浮びあがって来るわ。
テーマを考えたら、次には登場人物たちの名前、年齢、それぞれのバック・グランドと作中での役割を書いたカードをつくるの。これが私の出発点ね。
そして基本プロットを400~500ページくらいにしてノートに書きつけ、そのノートを見ながらストーリー展開を頭のなかで再構成して、どうでもいい紙にタイプするの。
これを繰り返し、繰り返し読みながら、”良い文章になっているか?” ”文法は間違っていないか?” を慎重に隅々までチェックして手を入れてゆくの。これでOKとなったら、今度はカーボンを入れてエア・メール用の薄紙にタイピングすれば、できあがりよ」
――執筆のスピードはどれくらいか? 「今のペースは長編を年に1本、短編はどんどん書くわね。私にとって短編を書くのはとても簡単よ。約3,000~8,000語のストーリーを書くために、少しの背景、多少の登場人物、ちょっとしたアイディア、それにひねりのきいた結末があれば十分。
そのために私は、”アイデアの玉手箱と名付けたノートを私はいつも持ち歩いて、買物に出たときでも気づいたことがあれば、すぐテイク・ノートするの。私はいわゆる”3日間ライター”といえるかしら(笑)」
――この家は眺めもいいし、素敵ですね。 「この家は山の斜面に張りつくように建っていて、少しでも海の見晴らしがいいように南東に開いているの。だから、お天気の良い日は海側に張り出したデッキ(深い日除けの屋根のある)で太陽の移動とともに私も移動しながら仕事をするのよ。
つくづく、新鮮な空気を吸って光を浴びながら仕事ができるのは、ものすごく恵まれていると思うわ! ロンドンでもニューヨークでも、こんな生活は望めなかったもの。
もちろん文化的生活にはほど遠いわよ。でも、自然をとるか、便利さをとるかは個人的な価値観の差よね。私にとっては、ここは住めば都。島の人たちは親切だし、私はこの島の生活を存分にエンジョイしているわ」 』
『 トム・クランシー (Tom Clancy 1947~ ) (取材・撮影:1995年10月)
旧ソ連の最新式超大型ミサイル原子力潜水艦のアメリカへの亡命をめぐって、米ソ二大国が火花を散らす諜報戦。北太平洋の海と空とで、最先端のエレクトロニクス兵器を駆使して繰り広げられる壮絶な駆け引き。現代戦のインテリジェンス……。
戦争のリアリティを見事に描き出した 「レッド・オクトーバーを追え Hunt for Red October」 が出版された折、それを読んだ当時の米国海軍長官ジョン・レチマンは「一体、誰が許可したんだ!」と部下たちに怒鳴った、という話が漏れ伝わっている。
また、この軍の機密の一端を曝露したようなミステリーに、長官同様のコメントをした軍の高官は他にも何人もいたという。当時、機密漏洩についての調査もおこなっていたワインバーガー国防長官が「インターナショナル・ヘラルド・トリビューン」紙からの取材に、次のように答えて絶賛したことでも知られている。
「スパイ小説や軍事テクノロジーを扱った小説はあまたあるが、正確さ、わかりやすさ、プロットの面白さ、話術の巧みさを併せもつ、クランシーの小説には感動をおぼえる」
訪問した私に、さっそくクランシーは、面白い話をしてあげようか? とウインクを送った。 「ある女性がね、アルゼンチンのベノスアイレスからアメリカに帰るとき、空港のブック・スタンドで「レッド・オクトーバーを追え」という本を見つけて買い、飛行機に乗りこんだ。
彼女はワシントンD.C.に着くまでのあいだにそれを一気に読みきってしまうほど、とても気に入ってね。そこで、彼女はこの本を友人たちへのクリスマス・プレゼントにしようと1ダース買い込んだんだ。
そのうちの1冊が、大統領のもとに届いた……。彼女はレーガン家の古い友人だったんだね。大統領は送られた小説を3日で読み終え、「タイム」誌に”実に面白い小説だった”と語った。
これが記事になって、ドーンと売れ行きがのび、たちまちベストセラーになったのさ。さらには、大統領はその作家、つまりは私をホワイト・ハウスに招いてくれてね。おかげで私は保険代理店の仕事に精を出す必要がなくなったというわけさ」
クランシーはワシントンD.C.から約1時間、ハイテイング・タウンの先にあるペリング・クリフに面し、チェサピーク湾を見下ろす400エーカー(約49万坪)もある広大な敷地に、ワンダ夫人とともに住んでいた。
案内の地図で、かろうじてそれが入口だとわかるつづら折りの細い道を登ると、頑丈な鉄の扉に突き当たる。その脇にあるインターホンを押して案内を乞うと、「ゴー・オン・ストレート・アップ(そのまま、まっすぐお進みください)」というコンピューターの音声が木立のあいだから響き、扉がシュルシュルと開いた。
アップ・ダウンとカーブが繰り返す細い道に沿って車を進めると、砲身をこちらに向けた戦車が鎮座しており、度胆を抜かれてしまう。そのはるか奥まったところに、大きな2階建ての瀟洒な家が建っていた。
玄関先で、コリー犬を連れた190cmはゆうにある長身のクランシーが、ニコニコ顔で迎えてくれた。紺のセーターにジョギング・シューズというラフないでたちだ。
――今、庭に戦車があるのを見たんですが? あれは一昨年のクリスマスにカミさんがプレゼントしてくれたものだよ。アーミー(軍隊)の払い下げ品らしいけどね。なぜ戦車なのか、理由を聞いたことはないけど、変わった贈り物だよね」
全体で何部屋あるかわからないほどの広い邸宅。1つひとつの部屋の広さも想像がつかないほどだ。なかでもクランシーの書斎は、窓から海が見える40畳ほどもある大きな部屋。
天井が海側に傾斜し、壁一面の書棚には、本と野球帽のコレクションがぎっしりと詰まっている。きちんと整理整頓された蔵書は、数千冊にものぼるのではないだろうか。はっきりとはわからないが、軍事関係の本が多く目につく。
部屋の真ん中にはビリヤード台が置かれており、よいアイデアが浮かばないときなどはひとり、ゲームをして気分転換を図るという。
小説を書くのは、この大きな部屋の奥まった角に位置する、ほんの片隅。L字型に配置された机の上に最新モデルのIBMのコンピューターと携帯用のワード・プロセッサー。
そして、ナイフ、望遠鏡、コンピューター・ゲームのコントローラーなどが雑多に置かれている。 ――執筆はどんな風に勧めるのですか?
「私の小説作法かい? その質問には答えたくないね(笑)。なぜなら、それは女性が出産をするときの状態に近いんだ。いろんな資料を読んでお腹の中にため込み、それが自然に発酵、醸成されてゆくのを待つ……。
とにかく書き上げるまでは、苦しみに苦しむよ。苦しみが延々と続くなか、その苦しさも紛れていつのまにか作品が書き終わっている……といった感じかな。でも、本が完成すれば、そんな苦しみは一気に吹き飛び、喜びに変わるわけ。君にもわかるだろう? この気持ちが……」
敷地内にはプール、テニスコート、ボートなど、遊びの設備はひととおり揃っているというが、中でも自慢は、”地下射撃練習場”。地元の警察官や射撃愛好家たちの格好のたまり場にもなっている。
むきだしのコンクリートの壁に囲まれた地下射撃練習場は、間口5m、奥行は30mはあろうか、射撃位置から25mくらいのところに標的が下がっている。
「サンジロー、君はピストルを使ったことがあるかい? いや、怖がることはない。きちんと使い方を教えてあげるから、試しに撃ってみるといいよ」と、ずっしりと重いピストルを私に渡し、構え方を教えてくれる。
私が怖がっているのを感じとったクランシーは、じゃ、手本を見せてあげよう……と、私に両耳をふさぐヘッド・ギアを付けさせると、愛用のピストルを手にとり、25m先の標的に向かい、腕をまっすぐに伸ばして的を絞る。
一瞬、パンパン!! と耳をつんざくとうなピストルの発射音が鳴り響く。きなくさい硝煙の匂い。ヘッド・ギア を付けていてもお腹にズズーンと音が響いてきて、思わず失禁しそうになり、その場にうずくまってしまった。
クランシーは満足そうな笑みを浮かべると、傍らのボタンを押してスルスルと標的を引き寄せ、その華々しい結果を見せてくれた。標的には、10発撃った弾と同じ数の穴が見事にあいていた。
「ここはプールやテニスコートも完備しているし、環境的には魚釣りなんかも楽しめる。でも、なんといってもスリリングなのはハンティングだね。この家の周りには熊や鹿、野兎がいくらでもいてね。ここで練習した射撃の腕が実践で生かせるってわけだ。 』
『 ロアルド・ダール (Roald Dahl 1916~1990) (取材・撮影:1982年6月)
ロアルド・ダールはロンドンから北に100㎞ドライブ したところにあるグレート・ミッセンデンに、女優の元夫人パトリシア・ニールとの間にもうけた3人の子供たちと一緒に住み、畑仕事や園芸を楽しみながら趣味の骨董品屋を営むなど、悠々自適の生活を送っていた。
ダールは、会うなりすぐに「なんだってこんな田舎までノコンコやってきたんだ? 君はこれまでにどんな仕事をしてきたんだ?」と、矢つぎばやに私を質問攻めにした。
私が持参した自著「アトリエの巨匠たち」を渡すと、さっそくそれを広げ、ヘンリー・ムーア(イギリスを代表する彫刻家)のページに目を留めて「この写真、本当に君が撮ったのかい?」。私がこっくりと頷くと、電話機を手をのばし、どこかにダイアルしている。
相手としばらく話をしてから受話器を置くと、「今、ヘンリーに電話して、君の身元を確かめたよ。時間が許すかぎり取材したらいい。君、今日はどこに泊まるの? よかったら今夜一緒に食事しよう。
娘も写真に興味があるようだから、彼女の相談に乗ってやってくれないか」。 願ったり叶ったりの展開に、私は喜びいさんでインタヴューを始めた。
――なぜ、作家に? 「君にひとつ面白い話をしよう。1940年、ごくごく普通の人間、つまり若いビジネスマンが第二次世界大戦に徴用されて英国空軍に入ったんだ。彼が乗ったハリケーン(英国空軍の戦闘機)はギリシャの上空でドイツ軍に撃墜され、センベイのようにぺしゃんこになって地上に叩きつけられたんだ。
乗っていた彼の背骨は折れ、自慢の高い鼻も壊れ、頭蓋骨が砕け、そのうえひどい火傷。6ヶ月入院して、すぐにまた前線に復帰したものの、その事故で少々頭がおかしくなってね。 それでその男は、文章を書き始めたってわけだ。 フフフ……誰だかわかるかい?」
――ふだんの生活について聞かせていただけますか? 「朝は7時半に起きて朝食は自分でつくる。グレープ・フルーツに3杯のブラン(小麦外皮と胚芽)、それに小麦の胚芽をお茶で流し込むんだ。
味は良くないが、お通じは良くなるし……君も試してみたら? そのあと、毎朝50通くらい届く手紙(ダールは子ども向けの本も書いてることから、子どもからのファンレターが多く、これに返事を書くための専用アシスタントもいた!)に目を通し、10時半にはコーヒーを持って仕事場へ行く。
そこで2時間みっちりと仕事をし、昼にはジン・トニックを2杯。レタスとノルウェー産のエビを半袋、これにドレッシングをかけて食べる。1年365日、変化のないメニューだ。
そして昼食後の昼寝は欠かさないよ。私の健康の秘密さ。その後庭いじりをしたり、本を読んだりして、午後4時に仕事場にもどる。そして6時きっかりには仕事をやめて、ウイスキーを2,3杯ひっかけてから夕食。
来る日もくる日もこの繰り返しだね。もちろん夕食のときには、私のコレクションのなかから上等のワインを必ず1本開ける。ワインは私の40年来のコレクションでね。良いものがオークションに出ると、ロンドンまで競り落としに出るんだ」
「書くのは全部手で。マシーン(タイプ)など、文明の利器は使わないよ。こいつはアメリカ時代からの習慣でね。アメリカ製の鉛筆、黄色い原稿用紙、そして消しゴム、こいつが私の三種の神器ってわけだ」
「書くペースは、1日4時間で1ページ程度。消しては書き、消しては書きしているから、ほら、原稿用紙が真っ黒だろう?」
「私は精神を集中しないと書けない性質だから、子どもの世話や掃除、女どものおしゃべりから逃げ出して、ここでひとり、雑音をシャット・アウトし、籠りっきりになって書くんだ」
「小説を書くうえで最も重要で難しいのは、話のプロットづくりだね。アイディアは、浮かんだらすぐメモをとっておく。鉛筆がなかったら口紅でも何でも使ってね。そして仕事場に持って帰って”短編小説”とタイトルのついたノートに書き写すんだ。
このノートは物書きになろうとしたときから使っている。だから、私の作品はすべて、この古ぼけたノートのなかの3~4行の走り書きから生まれていることになる。このノートなしではお手上げだね」
プロットを考えに考えて過ごした長い長い時間の歴然たる証拠が、部屋のいたるところで目につく。メモが貼り付けられた左右の壁と傾斜した天井は、何万時間ものあいだ葉巻とパイプの煙にさらされた結果。「黄色く」染まっていた。
ダールの仕事場は整然というにはほど遠く、天井からは赤外線暖房機がぶら下がっていた。冬のあいだのこの部屋の寒さは想像に難くない。
最後に、ダールは傑出した小説家として、作家志望の人間が持つべき7つの基本的な資質を、こっそりと読者のために教えてくれた。
1. 豊かな想像力を持つこと。 2. 上手な文章を書けること。 3. スタミナがあること。 4. 完全主義者であること。
5. 強い自立心を持っていること。 6. 鋭いユーモアのセンスを持っていること(これはあらゆる場面で大いに役立つ)。
7. 適度の羞恥心を持っていること。
インタヴューと撮影が終わると、ダールは私を地下のワインセラーに案内してくれ、「何でも好きなワインを選んでくれ、今夜、一緒に飲もうよ」。天にも昇る気持ちとはこのことだった。 』 (第81回)