チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「推理作家の家(Ⅱ)」

2015-07-21 14:13:41 | 独学

 82. 推理作家の家(Ⅱ)――名作のうまれた書斎を訪ねて (南川三治郎著 2012年5月)

 本書は、すでに30人のうち4人について紹介しましたが、もう少し紹介したく推理作家の家(Ⅱ)としました。

 『 ジェイムズ・エルロイ (James Ellroy 1948~ ) (取材・撮影1992年11月)

 学校にも行かず、ゴルフ場でキャディーをしながら、チャンドラー、ロス・マクドナルド、ヨセフ・ウォンボーを読みあさり、性と暴力と人間の暗い情念をえぐりだすような陰惨な作品を書いてデヴューした、ジェイムス・エルロイ。

 彼の作品は、自身の過去の実体験に少なからず影響をうけているといって過言ではないだろう。私は、むせかえるような血の臭いをプンプンさせているこの力を秘めた作家、エルロイに会うべく、1992年11月にアメリカに着いてから、毎日のように彼に電話をかけていた。しかし、いつかけても留守番電話。

 エルロイは10歳のとき、母が半裸の絞殺死体となって発見されたという陰惨な体験をもつ。この犯人はついに捕まらず、事件は結局迷宮入りした。エルロイが書く作品は、その暗い影を引きずっているといわれる。さらに17歳のときにはライト・ヘビー級のボクサーだった父を亡くし、天涯孤独の身となった鬼才である。

 1992年11月初旬、ロバート・B・パーカー、マーサ・グライムズ、クライブ・カッツラー、ローレンス・ブロックなどにインタヴューをするため、私はニューヨーク経由でボストンに降り立った。1987年、身近に起こった事件を題材に書いた「ブラック・ダリア The black dahlia」で脚光を浴びた、注目の作家エルロイもそのリストの中に入っていた。

 しかし、その段階では、エルロイの連絡先の住所や電話番号などはリサーチができていなかった。11月16日、ロバート・B・パーカーを取材した折、帰り際に「ブラック・ダリア」を書いたエルロイという作家はどこに住んでいるか知ってますか?と尋ねると、パーカーは「ちょっと待ってて……」と言って、どこかに電話をかけ始めた。

 15分くらい待っただろうか、電話番号と住所を書き込んだメモ用紙をヒラヒラさせ、「たぶん、インタヴューの約束を取りつけるのは無理だろうけどね。グット・ラック!」とウインクしてよこした。それから2週間後に、エルロイの隠れ家を急襲、ようやく取材にこぎつけたのであった。

  都会の喧騒を遠く離れ、静寂が辺りを一様に包み込んだコネチカット州ポンス・リッジの湖畔に、エルロイは瀟洒な別荘を借り、2番目の妻であるヘレン夫人と新婚生活を満喫していた。

 出てきたエルロイは、半袖のポロシャツに薄い水色のジーンズといういでたちの長身。若干薄くなった髪の毛をなでながら手を差し出した。神経質そうな顔つき、メガネの奥のまぶたが不安げにピクピクと引きつっている。

 「故郷はロサンゼルスなんだけど、青春の蹉跌を痛いほど思い知らされた、あの街には住み続けたくなくってね。作家でメシが食えるようになったので、どこかいいところはないか……と新天地を求めて方々探し歩いて、ここニューイングランド地方のコネチカット州に移り住むことになったんだ。ここは平和で、静かで、住むには最高の条件だよ」

 エルロイの住まいは、湖から道一本入ったなだらかな丘に沿って建つ2階建て。真っ白に塗られた外壁が芝生の緑に映える。風にそよぐ樹々の音が聞こえるだけの閑静な佇まいだ。エルロイの書斎は、2階にある約10畳程度のシンプルなスペース。

 部屋には小さな机と小さなロッカーが1つあるっきり。執筆するときは、ジョルジュ・シムノンよろしく部屋の窓とカーテンを閉め切り、真っ暗闇のなか、スタンドの光だけを頼りにロング・ハンド(手書き)で、殴り書きの勢いで一気に仕上げるという。

 「俺は石にかじりついても作家になりたかったんだ。え、どうしてかって? 30数回も刑務所に繰り返し放り込まれた人間が、他にまともな職に就けると思うかい? 日雇い仕事も長続きしなかったし……。公共の図書館だけが安心して眠ることのできる場所だったんだ。

 そこで読んだ本、例えばチャンドラーやシムノンの作品は、ほとんど空で言えるほど暗記したね。で、俺も書いてみようと思い立ったんだ。文体、ちょっと似てると思わないかい?」

 「ストーリーのプロットは細部まで――もちろん結末まで――きちんと決めてから書きだすんだ。でも、書いている途中で新しい資料が見つかれば、そのたびに書き直しが必要だ。だから、小説はどうしても2年に1作くらいのスロー・ペースになる」

 学校教育を受けてないため、作家として大成した今も「勉強」を怠ることはない。今でも図書館からチャンドラーやシムノンの名作を借り出し、暇を見つけては名文をノートに書き写す練習を、日々欠かさないという。

 エルロイは優れた書き手がいつもそうであるように、事実に即した資料集めにはたっぷりと時間を費やす。一見豪放に見えるが、誰よりも繊細な神経の持ち主なのだ。

 「書くのに疲れると、好きなクラシック音楽、特にベートーヴェンを聴きながら、歴史書に目を通すんだ」  それは不幸だった青春時代の辛い思い出からできるだけ遠ざかり、悪夢を追い払って心の安静を希求する姿であるように思えた。 』

 

  『 パトリシア・モイーズ (Patricia Moyes  1923~2000) (取材・撮影:1983年1月)

 パトリシア・モイーズを、カリブ海上に浮かぶ地図で探すのもやっとの英国領の小さな島、ヴァージン・ゴーダに訪れたときは、思わず仕事であることを忘れた。モイーズは、その島の、はるか海を見渡す丘の頂上にコテージを建て、夫と4匹の犬、1匹の猫に囲まれて悠悠自適に執筆活動を続けていた。

 ヴァージニア・ゴーダ島へは、厳冬のニューヨークからジェット機でいったんプエルトリコへ入る。そして、ここでセスナに乗り継いで約1時間も飛ぶと、眼下に珊瑚礁とヨットの白い帆が紺碧の海に映えて美しいカリブ海の光景が広がってくる。そのまま、常夏のカリブ海と島々の眺望を満喫しながら、一路ヴァージン・コーダへ。

 山の頂上を切り開いてつくられた空港は、やっと小型のセスナ機が降りられるだけの広さしかない。オーバー・ランすれば、そのまま海にジャンプしてしまいそうだ。

 しかし、小さい島でもそこは英国領、ひととおりの簡単な入国審査と税関のチェックを済ませると、迎えに来てくれたモイーズの運転するジープに乗って、島内を一周した。

 「この島は、この世のパラダイスね。花は一年中咲いているし、年中泳げるの。そして、なによりも観光客が少ないことね。この島に来るには、ヨットかパワー・ボートで海から入って来るか、今、サンジローが来たように、1日4便のプエルトリコのサン・ファンからの小型セスナ機に乗って来るかに限られるの。

 このセスナがたとえ満席でも、空からは1日24人しか入ることができないわけ。たから2,3マイルの海岸線を歩いたって、人っ子ひとり見つけられない完全なプライベート・ビーチが実現するわけよ! 素敵でしょ? 

 それに、この島の住人といっても、白人が約50人、あとは現地の人が500人程度いるだけ。みんなお互い顔見知りだから泥棒もいないし、犯罪もない、とても平和な島よ」と、アップ・ダウンとカーブが織りなす風光明媚な、入り組んだ海岸線をドライヴしながら、モイーズは話してくれた。

 ――あなたが小説を書き始めたきっかけは? 「1957年、イタリア・アルプスのサンタ・キアラにスキーに行って、2日目に足を脱臼したことかしら。ギブスで足を固定されてしまったので、全然滑ることができなかったの。

 もともと推理小説を読むことが大好きだったし、そのときもイタリア語の長編をテラスで日光浴をしながら読んでたわ。そして、目の前で上り下りするリフトを見ていたら、ふと、このスキー・リフトを素材にして私にも推理小説が書けるんじゃないかしら……なんておもいついたの。

 なにせ自由に動くこともできず、何もすることがなかったから(笑)。すぐにプロットを考えて友人に見せたら、皆、面白い!って言ってくれるし、前の主人は、”これはぜひ小説にしなさい”って励ましてくれたの」

 ――作品に出てくる、エミーはあなた自身? 「探偵ヘンリー・ティペットは、まったくの架空の人物だけど、彼の妻エミーはもちろん私自身よ。エミーはストーリーのなかで、いつも重要な謎解きのきっかけをつくるでしょ。

 夫が困っているときには必ず目立ちすぎないようにしながら、彼を助けるの。そのくらいの”公私混同”は許されてもいいんじゃなくって?(笑)」 

 ――あなたの執筆スタイル?  「書き始めるときには、最低でもストーリーの基本的なアウトラインは描けていなければね。新聞用語でいえば 「5W1H」 っていうのかしら?」

 「もうひとつ肝心なことは、そのストーリーがどうやってディスカヴァーされていくかを知り尽していることよ。私の場合は、まず場面の設定が重要なポイントとなるわね。

 その設定のなかで、どんな犯罪を引き起こすのかといったシチュエーション(状況)を決めると、プロットはおのずから浮びあがって来るわ。

 テーマを考えたら、次には登場人物たちの名前、年齢、それぞれのバック・グランドと作中での役割を書いたカードをつくるの。これが私の出発点ね。

 そして基本プロットを400~500ページくらいにしてノートに書きつけ、そのノートを見ながらストーリー展開を頭のなかで再構成して、どうでもいい紙にタイプするの。

 これを繰り返し、繰り返し読みながら、”良い文章になっているか?” ”文法は間違っていないか?” を慎重に隅々までチェックして手を入れてゆくの。これでOKとなったら、今度はカーボンを入れてエア・メール用の薄紙にタイピングすれば、できあがりよ」

 ――執筆のスピードはどれくらいか? 「今のペースは長編を年に1本、短編はどんどん書くわね。私にとって短編を書くのはとても簡単よ。約3,000~8,000語のストーリーを書くために、少しの背景、多少の登場人物、ちょっとしたアイディア、それにひねりのきいた結末があれば十分。

 そのために私は、”アイデアの玉手箱と名付けたノートを私はいつも持ち歩いて、買物に出たときでも気づいたことがあれば、すぐテイク・ノートするの。私はいわゆる”3日間ライター”といえるかしら(笑)」

 ――この家は眺めもいいし、素敵ですね。 「この家は山の斜面に張りつくように建っていて、少しでも海の見晴らしがいいように南東に開いているの。だから、お天気の良い日は海側に張り出したデッキ(深い日除けの屋根のある)で太陽の移動とともに私も移動しながら仕事をするのよ。

 つくづく、新鮮な空気を吸って光を浴びながら仕事ができるのは、ものすごく恵まれていると思うわ! ロンドンでもニューヨークでも、こんな生活は望めなかったもの。

 もちろん文化的生活にはほど遠いわよ。でも、自然をとるか、便利さをとるかは個人的な価値観の差よね。私にとっては、ここは住めば都。島の人たちは親切だし、私はこの島の生活を存分にエンジョイしているわ」 』

 

 『 トム・クランシー  (Tom Clancy 1947~ ) (取材・撮影:1995年10月)

 旧ソ連の最新式超大型ミサイル原子力潜水艦のアメリカへの亡命をめぐって、米ソ二大国が火花を散らす諜報戦。北太平洋の海と空とで、最先端のエレクトロニクス兵器を駆使して繰り広げられる壮絶な駆け引き。現代戦のインテリジェンス……。

 戦争のリアリティを見事に描き出した 「レッド・オクトーバーを追え Hunt for Red October」 が出版された折、それを読んだ当時の米国海軍長官ジョン・レチマンは「一体、誰が許可したんだ!」と部下たちに怒鳴った、という話が漏れ伝わっている。

 また、この軍の機密の一端を曝露したようなミステリーに、長官同様のコメントをした軍の高官は他にも何人もいたという。当時、機密漏洩についての調査もおこなっていたワインバーガー国防長官が「インターナショナル・ヘラルド・トリビューン」紙からの取材に、次のように答えて絶賛したことでも知られている。

 「スパイ小説や軍事テクノロジーを扱った小説はあまたあるが、正確さ、わかりやすさ、プロットの面白さ、話術の巧みさを併せもつ、クランシーの小説には感動をおぼえる」

 訪問した私に、さっそくクランシーは、面白い話をしてあげようか? とウインクを送った。 「ある女性がね、アルゼンチンのベノスアイレスからアメリカに帰るとき、空港のブック・スタンドで「レッド・オクトーバーを追え」という本を見つけて買い、飛行機に乗りこんだ。

 彼女はワシントンD.C.に着くまでのあいだにそれを一気に読みきってしまうほど、とても気に入ってね。そこで、彼女はこの本を友人たちへのクリスマス・プレゼントにしようと1ダース買い込んだんだ。

 そのうちの1冊が、大統領のもとに届いた……。彼女はレーガン家の古い友人だったんだね。大統領は送られた小説を3日で読み終え、「タイム」誌に”実に面白い小説だった”と語った。

 これが記事になって、ドーンと売れ行きがのび、たちまちベストセラーになったのさ。さらには、大統領はその作家、つまりは私をホワイト・ハウスに招いてくれてね。おかげで私は保険代理店の仕事に精を出す必要がなくなったというわけさ」

 クランシーはワシントンD.C.から約1時間、ハイテイング・タウンの先にあるペリング・クリフに面し、チェサピーク湾を見下ろす400エーカー(約49万坪)もある広大な敷地に、ワンダ夫人とともに住んでいた。

 案内の地図で、かろうじてそれが入口だとわかるつづら折りの細い道を登ると、頑丈な鉄の扉に突き当たる。その脇にあるインターホンを押して案内を乞うと、「ゴー・オン・ストレート・アップ(そのまま、まっすぐお進みください)」というコンピューターの音声が木立のあいだから響き、扉がシュルシュルと開いた。

 アップ・ダウンとカーブが繰り返す細い道に沿って車を進めると、砲身をこちらに向けた戦車が鎮座しており、度胆を抜かれてしまう。そのはるか奥まったところに、大きな2階建ての瀟洒な家が建っていた。

 玄関先で、コリー犬を連れた190cmはゆうにある長身のクランシーが、ニコニコ顔で迎えてくれた。紺のセーターにジョギング・シューズというラフないでたちだ。

 ――今、庭に戦車があるのを見たんですが? あれは一昨年のクリスマスにカミさんがプレゼントしてくれたものだよ。アーミー(軍隊)の払い下げ品らしいけどね。なぜ戦車なのか、理由を聞いたことはないけど、変わった贈り物だよね」

 全体で何部屋あるかわからないほどの広い邸宅。1つひとつの部屋の広さも想像がつかないほどだ。なかでもクランシーの書斎は、窓から海が見える40畳ほどもある大きな部屋。

 天井が海側に傾斜し、壁一面の書棚には、本と野球帽のコレクションがぎっしりと詰まっている。きちんと整理整頓された蔵書は、数千冊にものぼるのではないだろうか。はっきりとはわからないが、軍事関係の本が多く目につく。

 部屋の真ん中にはビリヤード台が置かれており、よいアイデアが浮かばないときなどはひとり、ゲームをして気分転換を図るという。

 小説を書くのは、この大きな部屋の奥まった角に位置する、ほんの片隅。L字型に配置された机の上に最新モデルのIBMのコンピューターと携帯用のワード・プロセッサー。

 そして、ナイフ、望遠鏡、コンピューター・ゲームのコントローラーなどが雑多に置かれている。 ――執筆はどんな風に勧めるのですか?

 「私の小説作法かい? その質問には答えたくないね(笑)。なぜなら、それは女性が出産をするときの状態に近いんだ。いろんな資料を読んでお腹の中にため込み、それが自然に発酵、醸成されてゆくのを待つ……。

 とにかく書き上げるまでは、苦しみに苦しむよ。苦しみが延々と続くなか、その苦しさも紛れていつのまにか作品が書き終わっている……といった感じかな。でも、本が完成すれば、そんな苦しみは一気に吹き飛び、喜びに変わるわけ。君にもわかるだろう? この気持ちが……」

 敷地内にはプール、テニスコート、ボートなど、遊びの設備はひととおり揃っているというが、中でも自慢は、”地下射撃練習場”。地元の警察官や射撃愛好家たちの格好のたまり場にもなっている。

 むきだしのコンクリートの壁に囲まれた地下射撃練習場は、間口5m、奥行は30mはあろうか、射撃位置から25mくらいのところに標的が下がっている。

 「サンジロー、君はピストルを使ったことがあるかい? いや、怖がることはない。きちんと使い方を教えてあげるから、試しに撃ってみるといいよ」と、ずっしりと重いピストルを私に渡し、構え方を教えてくれる。

 私が怖がっているのを感じとったクランシーは、じゃ、手本を見せてあげよう……と、私に両耳をふさぐヘッド・ギアを付けさせると、愛用のピストルを手にとり、25m先の標的に向かい、腕をまっすぐに伸ばして的を絞る。

 一瞬、パンパン!! と耳をつんざくとうなピストルの発射音が鳴り響く。きなくさい硝煙の匂い。ヘッド・ギア を付けていてもお腹にズズーンと音が響いてきて、思わず失禁しそうになり、その場にうずくまってしまった。

 クランシーは満足そうな笑みを浮かべると、傍らのボタンを押してスルスルと標的を引き寄せ、その華々しい結果を見せてくれた。標的には、10発撃った弾と同じ数の穴が見事にあいていた。

 「ここはプールやテニスコートも完備しているし、環境的には魚釣りなんかも楽しめる。でも、なんといってもスリリングなのはハンティングだね。この家の周りには熊や鹿、野兎がいくらでもいてね。ここで練習した射撃の腕が実践で生かせるってわけだ。 』

 

 『 ロアルド・ダール (Roald Dahl 1916~1990) (取材・撮影:1982年6月)

 ロアルド・ダールはロンドンから北に100㎞ドライブ したところにあるグレート・ミッセンデンに、女優の元夫人パトリシア・ニールとの間にもうけた3人の子供たちと一緒に住み、畑仕事や園芸を楽しみながら趣味の骨董品屋を営むなど、悠々自適の生活を送っていた。

 ダールは、会うなりすぐに「なんだってこんな田舎までノコンコやってきたんだ? 君はこれまでにどんな仕事をしてきたんだ?」と、矢つぎばやに私を質問攻めにした。

 私が持参した自著「アトリエの巨匠たち」を渡すと、さっそくそれを広げ、ヘンリー・ムーア(イギリスを代表する彫刻家)のページに目を留めて「この写真、本当に君が撮ったのかい?」。私がこっくりと頷くと、電話機を手をのばし、どこかにダイアルしている。

 相手としばらく話をしてから受話器を置くと、「今、ヘンリーに電話して、君の身元を確かめたよ。時間が許すかぎり取材したらいい。君、今日はどこに泊まるの? よかったら今夜一緒に食事しよう。

 娘も写真に興味があるようだから、彼女の相談に乗ってやってくれないか」。 願ったり叶ったりの展開に、私は喜びいさんでインタヴューを始めた。

 ――なぜ、作家に? 「君にひとつ面白い話をしよう。1940年、ごくごく普通の人間、つまり若いビジネスマンが第二次世界大戦に徴用されて英国空軍に入ったんだ。彼が乗ったハリケーン(英国空軍の戦闘機)はギリシャの上空でドイツ軍に撃墜され、センベイのようにぺしゃんこになって地上に叩きつけられたんだ。

 乗っていた彼の背骨は折れ、自慢の高い鼻も壊れ、頭蓋骨が砕け、そのうえひどい火傷。6ヶ月入院して、すぐにまた前線に復帰したものの、その事故で少々頭がおかしくなってね。 それでその男は、文章を書き始めたってわけだ。 フフフ……誰だかわかるかい?」

 ――ふだんの生活について聞かせていただけますか?  「朝は7時半に起きて朝食は自分でつくる。グレープ・フルーツに3杯のブラン(小麦外皮と胚芽)、それに小麦の胚芽をお茶で流し込むんだ。

 味は良くないが、お通じは良くなるし……君も試してみたら? そのあと、毎朝50通くらい届く手紙(ダールは子ども向けの本も書いてることから、子どもからのファンレターが多く、これに返事を書くための専用アシスタントもいた!)に目を通し、10時半にはコーヒーを持って仕事場へ行く。

 そこで2時間みっちりと仕事をし、昼にはジン・トニックを2杯。レタスとノルウェー産のエビを半袋、これにドレッシングをかけて食べる。1年365日、変化のないメニューだ。

 そして昼食後の昼寝は欠かさないよ。私の健康の秘密さ。その後庭いじりをしたり、本を読んだりして、午後4時に仕事場にもどる。そして6時きっかりには仕事をやめて、ウイスキーを2,3杯ひっかけてから夕食。

 来る日もくる日もこの繰り返しだね。もちろん夕食のときには、私のコレクションのなかから上等のワインを必ず1本開ける。ワインは私の40年来のコレクションでね。良いものがオークションに出ると、ロンドンまで競り落としに出るんだ」

 「書くのは全部手で。マシーン(タイプ)など、文明の利器は使わないよ。こいつはアメリカ時代からの習慣でね。アメリカ製の鉛筆、黄色い原稿用紙、そして消しゴム、こいつが私の三種の神器ってわけだ」

 「書くペースは、1日4時間で1ページ程度。消しては書き、消しては書きしているから、ほら、原稿用紙が真っ黒だろう?」

 「私は精神を集中しないと書けない性質だから、子どもの世話や掃除、女どものおしゃべりから逃げ出して、ここでひとり、雑音をシャット・アウトし、籠りっきりになって書くんだ」

 「小説を書くうえで最も重要で難しいのは、話のプロットづくりだね。アイディアは、浮かんだらすぐメモをとっておく。鉛筆がなかったら口紅でも何でも使ってね。そして仕事場に持って帰って”短編小説”とタイトルのついたノートに書き写すんだ。

 このノートは物書きになろうとしたときから使っている。だから、私の作品はすべて、この古ぼけたノートのなかの3~4行の走り書きから生まれていることになる。このノートなしではお手上げだね」

 プロットを考えに考えて過ごした長い長い時間の歴然たる証拠が、部屋のいたるところで目につく。メモが貼り付けられた左右の壁と傾斜した天井は、何万時間ものあいだ葉巻とパイプの煙にさらされた結果。「黄色く」染まっていた。

 ダールの仕事場は整然というにはほど遠く、天井からは赤外線暖房機がぶら下がっていた。冬のあいだのこの部屋の寒さは想像に難くない。

 最後に、ダールは傑出した小説家として、作家志望の人間が持つべき7つの基本的な資質を、こっそりと読者のために教えてくれた。

 1. 豊かな想像力を持つこと。  2. 上手な文章を書けること。  3. スタミナがあること。  4. 完全主義者であること。 

 5. 強い自立心を持っていること。  6. 鋭いユーモアのセンスを持っていること(これはあらゆる場面で大いに役立つ)。 

 7. 適度の羞恥心を持っていること。

 インタヴューと撮影が終わると、ダールは私を地下のワインセラーに案内してくれ、「何でも好きなワインを選んでくれ、今夜、一緒に飲もうよ」。天にも昇る気持ちとはこのことだった。 』  (第81回)

 


ブックハンター「この6つのおかげでヒトは進化した(後)」

2015-07-19 09:20:58 | 独学

 81. この6つのおかげでヒトは進化した(後) (チップ・ウォルター著 2007年8月)

 THUMBS、TOES,AND  TEAR (by Chip Walter Copyright©2006) 梶山あゆみ訳

 本書は53.で紹介したのですが、文字数が多すぎたため、文字を大きくすることができませんでした。(拡大記号が入るため、文字数が2万文字を超えた) しかし、ここに今回分割した後半に、人間がどのようにして、コミュニケーションをとり、言語を生みだしたか?

 どうも人間には、言語を生みだす、基本的な能力が存在しているのではと、感じられます。したがって、それぞれの民族に、れぞれの言葉があり、それは文化です。一方、文字は2~3文明で、発生したものが発展、伝搬したので、文字は文明です。

 

 『 1990年代、ジョゼフ・ガルシアという研究者はあることに気づいた。聴覚が正常で健康な赤ん坊は、耳の正常な親のもとに生まれるよりも、耳が不自由でアメリカ手話を使っている両親のもとに生まれたほうが早い時期から話をしはじめるのである。

 おもしろいのは、話と言っても声を使うのではなく、両親と同じように手話で話すことだ。ガルシアはその後の研究を通じて、赤ん坊が誰に教わるでもなく手話で「おなかがすいた、のどが渇いた、オムツが濡れた」と話しはじめること、しかもそれが、口から言葉を発する八ヵ月も前であることを発見した。

 つまり、赤ん坊の脳はすでに話ができるほど発達しているのに、まだのどから声が出せないために手をつかっているのである。 』



 『 手振りや手真似が本物の言語へと進化していく過程を、鮮やかに示す事例がある。ニカラグアでは1975年のサンディニスタ革命のあと、耳や言葉の不自由な子供たちのためにふたつの聾学校が設立された。

 その学校で、驚くべき物語がくり広げられたのである。もしも科学者がどこからともなく現れて、まったく新しい言語が無から生まれていくのを見守ることができるとしたら、このニカラグアの聾学校のケースほどそれに近いものはないだろう。

 ニカラグア政府とサンディニスタ民族解放戦線との内戦は八年間続いた。1985年には新政府が樹立され、耳や言葉の不自由な子供を助けるための施設がスタートする。

 首都のマナグアにふたつの聾学校が設立されると、全国から子供たちが続々と集ってきた。世界で手話として認められている言語は200種類あるが、長い内戦のために、この子供たちはそのどれも教えてもらったことがなかった。

 家族や友人とのコミュニケーションをとる必要に迫られて、ごく荒削りな手真似を各自が編みだしていただけである。しかも、食べる、飲む、寝るといったジェスチャーがせいぜいで、それ以上のこみ入った表現はできない。

 あいにく、聾学校の教師たちはあまり役に立たなかった。彼らは旧ソ連の専門家から助言をもらって、生徒に指文字を教えようとした。指文字とは、言語のアルファベットを一文字ずつ指の形で表現する方法である。

 問題は、子供たちにはアルファベットが何かも、単語が何かも、そもそも言語が何かもまったくわからないことだ。口はおろか手で綴ることもできない。

 それでも子供たちには、どうしても人と意志を通じあわせたいという強い思いがある。そこで彼らは驚くべきことを始めたのである。

 自分たちの手を使って、お互いに話を始めたのである。はじめはそれぞれが家で使っていた素朴な手真似をもち寄った。

 次にそれらを土台にして、まったく新しい独自の言語を編みだしていった。教師たちはわけがわからないまま、呆気にとられて見ているばかりだ。

 1986年6月、ニカラグア教育省はアメリカ手話の専門家であるジュディ・ケグルを招き、何が起きているのかをつきとめてもらうことにする。

 ケグルは、子供たちの手話のやり方をおおまかに把握して、彼らが使っている手話表現の簡単な辞書を作ってみようと考えた。最初にケグルが訪ねたのは、年長の子供たちが通う中学校である。

 ちょうど生徒たちは理髪の講習を受けていた。ケグルはアメリカ手話を淀みなく使いこなせたが、子供たち相手では何の役にも立たなかった。彼らが使っているのは、自分たちでこしらえた手真似だけだったからである。

 それらは独創的ではあったけれど、アメリカ手話とは似ても似つかないことにケグルはすぐに気づく。似てないどころか、まったく洗練されてない。本物の発話はもちろん、本物の手話でさえ基本パターンと呼べるものがあるのに、それがない。何のルールもないように見えた。

 ケグルが目にしているのは、いわばピジン手話、あるいは原始手話とも言うべきものだった。言語学者ビッカートンが紹介したハワイ移民のピジン英語のいわば手話版である。

 だから、子供たちの手振りには本当の意味での文法や規則体系が見られないのだ。少なくとも、その時点ではまだ。だが、ピジン言語はたった一世代のあいだに自らを変化させることがあるのにビッカートンは気づいた。

 はるかに成熟した言語へと変貌を遂げ、洗練された構文と文法を備えるようになる。そういうふうに進化した言語をクレオール言語と呼ぶ。ケグルもその変化の過程を目の当たりにした。ただし、それをああいう場所で見ることになろうとは予想だにしていなかった。

 ケグルは中等学校を訪ねたあと、サン・フーダスにある小学校に向かった。耳の不自由な年少の子供たちが勉強している。小学校の訪問中、ケグルはマジェラ・リーバスという名の少女に目を留める。

 マジェラは学校の中庭で手話をしていて、それは年長の子供たちには見られないリズムとスピードを備えていた。自分なりのルールブックが頭のなかにあるのではないか。ケグルはそう考えた。ある意味では実際にそうだったのである。

 やがてわかったのが、年少の子供たちは年長の子供たちが作った「ピジン手話」を新しい次元にもっていこうとしていた。1986年当時、大学院でケグルの生徒だったアン・センガスは、のちにこうふり返っている。

 「言語学者にとっては夢のような状況だった。ビッグバンを目撃しているみたいだった」。センガスは「サイエンス」誌に発表した論文のなかで、年少の子供たちは概念や物や動作をいくつかの単位に分解し、その個々の単位を手話で表現していた。と説明している。つまりは、本物の言語を作りつつあった。

 それにひきかえ、年長の子供たちにはそれができず、一つの動作を写実的な身振りで表現することが多かった。

 たとえば「転がりおちる」という動作を表したい場合には、動きの種類や方法(転がる)を示す身振りと、方向や進路(おちる)を示す身振りを同時に行い、手をバタバタさせたり、ジグザグの線を描くようにして下向きに動かしたりする。

 私たちが会話をしているときに、何かの例を見せたくて身振りをするのに似ている。だが、複雑なコミュニケーションをするにはこうした動作ではややこしすぎるし、ほかの人が正確に真似するのも難しい。

 たとえるなら、舌を噛みそうな長い単語なのに、非常に狭い意味しかもっていないようなものである。意味が限定されるので、そういう単語が頻繁に使われることはない。多目的に使えないのだ。

 年少の生徒たちは、年長の子供たちより手の動かし方が上手だったばかりか、その意味を見直して、ひとつの動作をいくつかの小さな単位に分けた。そうすれば、ほかの単位と組み合わせてもっといろいろな考えを表現できる。

 「転がりおちる」をひとつの長い手振りで表すのでなく、「転がる」に当たる手話表現(いわば単語)をひとつ作り、「落ちる」の手話表現も別に作る。

 「転がる」のときは手で円を描き、すぐに続けて「落ちる」の身振りをする。具体的には、手を胸に当ててから、空気を切るように下向きに手を伸ばす。敬礼でもするような感じだ。

 こちらのほうが、本物の手話言語や本物の口頭言語の仕組みにはるかに近い。写真、絵画、パントマイムなどの非言語コミュニケーションとはそこが異なる点だ。

 発話の場合、情報はばらばらな小単位として入ってくる。文字の音や単語なのだ。それらは、単語がつながって句、句がつなかって文というように、しだいに大きな単位になるように並べられている。すべてがひとつの秩序に従って配置されている。

 本物の言語がもつもうひとつの特徴は、物体や動作や場所などを小さい単位に分けることで、コミュニケーションの応用が利くようになることだ。

 同じ単語を異なる文脈のなかで使って、別の意味を表現させられるようになる。このおかげで、「もつ」という言葉を純粋な体の動作として用いもすれば(「ハンマーを手にもった」)、精神的な意味で用いるのも可能になる(「気をしっかりもて!」)。 

 だから隠喩や直喩や文脈といったものが成り立つのであり、それが成り立つからこそあらゆる言語が洗練され、効果的になる。

 ニカラグアの子供たちの場合、「転がる(roll)」を表すジェスチャーを作りなおしたおかげで、それをほかのさまざまなジェスチャーと組み合わせて使えるようになった。

 たとえば、「巻き上げる(roll up)」や「寝返りを打つ(roll over)」などである。最後には「そのアイデアを頭のなかで転がした(I rolled the idea around in my head.)」という比喩の用法も現れた。

 身振りは写実的な要素よりも抽象的な色合いが濃くなり、物真似的なものが減っていくつもの用途に使えるようになる。

 言語にふたつの工夫――個々の部分に分けることと、いろいろな場面で使うこと――を取り入れると、その言語は限られた数の単語で無数の考えを表現でき、無数の光景を描写し、無限の物語を語れるようになる。 』


 『 ニカラグワの聾学校の子供たちは、今日に至るまでの二十年のあいだ、手話表現に絶え間なく磨きをかけてきた。年若い世代が入ってくるたびに、手作りの素朴な手話は改善され、もはや荒削りで不完全な身振りといった面影はない。

 今では語彙も豊富で、時間や感情、皮肉やユーモアといった、ありとあらゆる概念を表現できる。何よりも驚くのは、これを子供たちだけの力で成し遂げた。誰かが中心になって計画したわけではない。

 誰かが椅子に座って文法を書いたり、辞書を作ったりしたわけでもない。研修を実施した者もいなければ、研修を開発した者もいなかった。

 何とかしてコミュニケーションを図ろうと、子供たちが苦労してやりとりするなかから、ただ自然に生まれていった。

 誰かと意志を通わせたいという、人間ならではの強い思いにつき動かされ、彼らは自分たちの力で正真正銘の言語を生みだした。現在では正式に「ニカラグワ手話」と呼ばれている。

 この言語を何もないところから作りあげた。しかも、明確な意図があってそうしたわけでもない。情報を小さな部分に分け、階層構造になるように規則正しく順番に並べる。

 この単純ではあるが重要なルールは、どこかに書かれているわけではない。にもかかわらず、彼らはそのルールをもとに、世界のどんな言語にも引けを取らない表現力豊かなコミュニケーション方法を編みだした。

 ニカラグワの子供たちは、言語がゼロから進化する過程を見せてくれたと言っても過言ではない。同時に、過去をかいま見せてくれたとも言える。

 私たちの祖先もこの子供たちのように、意志を伝えたいというやむにやまれぬ思いを伝えたいという思いを抱えながら、それを叶えられるだけの声も言語ももたなかった。

 だが、長い時間をかけて彼らはその方法を見つけた。どうやら、考えや気持を表現するための基本的なるリズムや構文や、さまざまな構成要素は、単語や音節を声にして言うだけの仕組みよりも脳の深いところに根ざしているようだ。

 人間の精神は何としても情報を共有しようとする。自分の扱える範囲であればどんなものでもいいから、何らかの表現手段を見つけようとする。

 両親が手話を使っている赤ん坊が手話で南語を話すように、また、言葉の不自由なニカラグワの素晴らしい物語からもわかるように、手は表現手段として好まれるらしい。

 何らかの理由で声の出せない人にとって、手は声帯のかわりになる。ということは、私たちは一言も言葉を発しないうちであっても、コミュニケーションできる仕組みが体に組みこまれているのではないか。

 だとすれば、ホモ・エレクトスやその子孫たちも、言語をマスターする前に手を使ったコミュニケーションをマスターしていた可能性がある。 』


 『 脳は食い意地の張ったコストのかかる器官だ。体のどの部分よりもエネルギーをむさぼり食って熱くなる。現代人の脳は、成人が一日に必要とするエネルギーのじつに25パーセントを消費している。同じ重さで比べると、脳は筋肉組織の16倍ものカロリーを食いつくしている。

 熱いサバンナでは、動物が長い距離を走ると体温がかなり上がってしまう。大きな脳を持つ動物ならなおさらだ。どれだけ背が高くても、どれだけ汗腺があってもだめで、まず間違いなく熱射病で倒れる。

 そのために、独創的な冷却システムを突然変異で獲得したと、女性人類学者のディーン・フォークが唱えている。彼女の考えによれば、おおよそ200万年前に私たちの祖先が死肉をあさりはじめた頃、網状の頭蓋血管が発達し、それが脳や顔面や頭蓋骨を流れる血液を冷やしたのではないかという。

 心臓は、私たちの体温が上がりすぎると、体や顔を流れる比較的冷たい血液を頭蓋骨の「導出静脈」と呼ばれる微細な静脈網に送り込む。

 導出静脈は、細かく枝分かれしながら頭皮近くの頭蓋骨全体に分布している。ここからさらに熱が発散し、冷えた血液は静脈から脳に戻って、脳内の温かい血液に置きかわる。非の打ちどころのない天然ラジエーターと言える。

 フォークは、現代の類人猿と、現代人と、私たちの祖先の頭蓋骨を詳しく比較したうえでこの仮説を立てた。化石の頭蓋骨には静脈や動脈はとうの昔になくなっているものの、かつて使われていた血管の通り道は一部はっきりと残っている。

 人間と類人猿では、脳に血液を運ぶ仕組みが異なっているのにフォークは気づく。その違いがとくに顕著なのが、体温が上がったときだ。

 類人猿の場合には、ラジエーターの役目をしてくれる導出静脈網が私たちよりはるかに発達しておらず、冷えた血液を脳に送る仕組みが概してあまり効果的でない。

 現代人の場合、この導出静脈のシステムが十分発達していて効率もいいので、体熱の大部分を汗として放散させることができる。

 体を冷やす仕組みはこれだけではない。私たちは進化の過程で毛皮を失い、ますます直立した姿勢になり、汗腺の数を増やしていった。

 頭蓋の冷却システムも、これらと一緒に進化したとフォークは考えている。しかし、このラジエーターはとりわけ重要だった。

 このシステムができなければ脳はある程度までしか大きくなれず、ホモ・ハビリスのレベルを大幅に超えることはなかっただろう。理由は簡単。次の世代に遺伝子を伝える前に熱射病で死んでしまうからだ。

 ホモ・エレクトスと、それに続く初期のホモ・サピエンスは、肺、声帯、唇、舌をコントロールする能力を少しずつ高めていった。

 では、彼らはどうやって話し方に磨きをかけていったのだろうか。そのヒントは赤ん坊の南語にあるかもしれない。

 南語のいわば進化版が現れたと考えるのだ。人間の新生児ののどの構造は祖先の猿人とほとんど同じで、肺に続く通路と胃に続く通路が別々にある。

 このおかげで、ミルクを飲みながらもスムースに呼吸ができ、窒息する心配がない。ところが、生後3ヵ月くらいになると喉頭の位置が下がり、咽頭が人間特有の形になる。

 これで十分な空間ができるため、舌を前後に動かせるようになり、大人並に母音を発音するための舌の形がすべて作れるようになる。

 赤ん坊は次の数ヵ月間で、自分出だす音と周囲で話されている言葉を比べ始める。フィードバックループが動きだし、音のやり取りのなかから語彙が姿を現す。

 しかも、その言語がもつ文法と構文の枠のなかで表現される。文法と構文は、人間の脳に生まれながらに組みこまれているとの説があるが、まさにそう思えるのだ。

 この変化がひとりでにはじまる。誰かが赤ん坊と一緒に机に向かい、ルールブックを広げて単語や文法の仕組みを教えるわけではない。ごく自然で、しかも万国共通の現象だ。 』(第80回)


ブックハンター「オデッサ・ファイル」

2015-07-12 15:54:44 | 独学

 80. The Odessa File   by Frederick Forsyth  Copyright © 1972    オデッサ・ファイル(フデリック・フォーサス著 篠原慎 訳 1974年1月)

 本書は、推理作家の家の30人にもとりあげられているフデリック・フォーサスのオデッサ・ファイルです。今回は、新しい試みとして、英語版と翻訳版の併用です。私は英語の劣等生ですが、英語についての無駄な挑戦の数では、負ける気が致しません。

 例えば、日本語で読んで、その後で英語版を読む、この方法で、英語版を読める人は、相当の英語の使い手です。私がこの方法を試みたとき、翻訳版と英語版の対応がとれず、英語版を読むことができませんでした。今回は、2~3頁分を取り出して、翻訳版との対応を試みます。テーマは重いけども、切れの良い英語で書かれていると思います。

フデリック・フォーサスは、 1938年、イギリスケント州生まれ。英空軍を経てジャーナリストとなり、1961年からロイター通信、1965年からBBCに勤務。1967年ナイジェリア内戦(ビアフラ独立戦争)の取材をもとに書かれたルポルタージュが「ビアフラ物語」(1967年)である。

小説家としては、ドゴール大統領暗殺未遂事件を題材にした、「ジャカルの日」(1971年)、「オデッサ・ファイル」(1972年)、「戦争の犬たち」(1974年)など。作品は、綿密な取材に基づいた詳細な描写が特徴である。

  

 『 In most countries the rivalry between the various separate Intelligence services is legendary.  In Roussia the KGB hates the guts of the GRU; in America the FBI will not cooperate with the CIA.

  The British Security Service regards Scotland Yead's Special Branch as a crowd of flat-footed coppers, and there are so many crooks in the French SDECE that experts wonder whether the French Intelligence service is part of the goverment or the underworld.

But Israel is fortunate. Once a week the chiefs of the five branches meet for a friendly chat without interdepartmental friction. It is one of the dividends of being a nation surrounded by enmies.

  ほとんどあらゆる国で、種々の諜報組織は、互いに熾烈なライバル意識を抱いているのが常識である。ソビエトでは、KGBはGRUを憎んでいるし、アメリカではFBIはCIAとの協力を喜ばない。

 またイギリスのSISは、スコットランドヤードの特別局を、とんまなデカの集団だと軽蔑しているし、フランスのSDECEには暗黒街のごろつきが大勢いるので、専門家たちは、あれは政府機関の一つなのか、暗黒街の出先なのか判断つきかねると酷評する。  

  しかし、イスラエルの場合に限って、こうした摩擦は皆無だった。週一回、五つの部門の長が気楽に一堂に会して歓談し、そこには低劣な縄張り根性など入り込む隙がない。それは周囲を敵に囲まれた国の長所の一つである。 』

 legendary : 有名な、 guts : 内臓、 cooperate : 協力する、 regards : とみなす、 flat-footed : 扁平足、 coppers : 巡査、 crooks : 悪党、 whether : かどうか、 fortunate : 幸運な、 interdepartmental : 各部、 friction : 摩擦、 dividends : 利益

 オデッサは、ナチ残党の秘密組織の名称で、一方、イスラエルは、ユダヤ人の国として大戦後に建国され、あらゆる国はインテリジェンス(諜報組織)をもっている。  

  

 『 Everyone who knew him and many who did not agreed Hans Hoffmann looked the part.   He was in his late fortis, boyishly handsome with carefully styled graying hair cut in the latest trendy fashion, and manicured fingers.

 His medium-gray suit was from Savile Row, his heavy silk tie from Cardin. There was an air of expensive good taste of the kind money can buy about him.

  If looks had been his only asset he would not have been one of West Germany's wealthiest and most successful magazine-publishers.

 ハンス・ホフマンは、その地位と職業にふさわしい雰囲気を、いつもあたりに漂わせている。 年は四十代後半だが、いかにも若々しいハンサムで、白髪まじりの頭を最新流行のファッションにカットし、爪にはマネキュアを施して、光り輝いている。

 ミディアム・グレーのスーツは、ロンドンのセイヴィル・ロウであつらえたもので、重厚な色調の絹のネクタイは、カルダンである。金で買えるものならすべて最高級の品物をという、贅沢な雰囲気を身につけているのである。

 しかしこうした外見だけが、彼の唯一の取柄なのではない。それだけでは西ドイツの有数の金持で、最も成功した雑誌社のオーナー経営者にはなれない。 』

 lastest : 遅いの最上級、この場合は”最新の”、expensive : 贅沢な、asset : 財産、wealthiest : 大富豪 

この中で、一行目が私にはまったく解かりませでしたので、この部分は聞きましたら、 「まずどこで切れるかが非常に重要度です。主語は Everyone who knew him and many who did not です。ここが引っかけなんですね。 

そこで動詞が agreed になる。 did not と agree は実はつながっていないんです。Agree のあとには that が隠れています。そしてHans Hoffmann looked the part がきます。 

look the part で、役職、役割にふさわしく見える、というのが出てきます。 Look というのは、この場合、is みたいなものです。例えば he looks happy 彼は幸せそうな様子だ。という具合です。

 だから直訳すると、「彼を知っている人も知らない人も、ホフマンがその地位にふさわしい見た目であることには同意した、となります。」  このように、ところどころに難問がありますが、仕方ありません。

    

   『 That Wednesday afternoon he closed the cover of the diary of Salomon Tauber after reading the beginning, leaned back, and looked at the young repoter opposite.

 "All right.  I can guess the rest.  What do you want?"  "I think that's a great document," said Miller.  "There's a man mentioned throughout the dairy called Eduard Roschmann. 

 Captain in the SS.   Commandant of Riga ghetto throughout.  Killed eighty thousand men, woman, and children. I believe he's alive and here in West Germany, I want  to find him."

 "How do you know he's alive?"  Miller told him briefly.   Hoffmann pursed his lips.  "Pretty thin evidence."    "True.  But worth a second look.  I've brought home stories that started on less."

 Hoffmann grinned, recalling Miller's talent for ferreting out stories that hunt the Establishment.  Hoffmann had been happy to print them, once they were checked out as accurate.  They sent circulation soaring.

 水曜日の午後、ホフマンは、サロモン・タウバーの日記を、その前書きを読んだだけでぴたりと閉じ、椅子に深く座りなおして、前に座っている若いルポライターの顔を見た。

 「あとは読まんでも想像がつく。で、どうしたいというんだね」 「すごい記録だと思うんですよ」 とミラーは応えた。「その日記には、エドゥアルト・ロシュマンというSS大尉のことが、いろいろ書いてあるんです。

 そのロシュマンというのは、リガにあった強制収容所の所長で、八万人を虐殺しているんです。彼はどうもまだ生きているらしいんです。だからひとつぼくの手で捜し出してやりたいとおもいまして」

 「生きていると、どうしてわかったんだね」  ミラーは、マルクスに聞いた話を簡単に伝えた。  「あまり当てにならんよ、それは」  「わかっています。でも、可能性はあると思います。 これよりずっと手がかりのない事件でも、ものにしたことがありますからね」 

 ホフマンは、体制側をギクリとさせるようなネタを掘り出す、ミラーの才能を思い出して、ニヤッと笑った。彼はそれが正確なものだとわかった場合は、躊躇なく記事にした。発行部数がぐんと上がるのだ。 』

  leaned : もたせ掛ける、guess : 推量する、mentioned : について話す、throughout : を通して、Commandant : 司令官、briefly : 簡潔に、pursed : をすぼめる、evidence : 証拠、look : 調べる、grinned : にやりとする、ferreting : 探り出す、Establishment : 支配体制、accurate : 間違いのない、circulation : 発行部数、soaring : 舞い上がる

 

 『 "So what do you want from me?"  asked Hoffmann.  "A commission to give it a try.  If nothing comes of it, I drop it." 

  Hoffmann swung in his chair, spinning around to face the picture windows looking out over the sprawling docks, mile after mile of cranes and wharfs spread out twenty floors below and a mile away.

 "It's a bit out of your line, Miller.  Why the sudden intrest?"  Miller thought hard. Trying to sell an idea was always the hardest part.  A freelance reporter has to sell the story, or the idea of the story, to the publisher or the editor first. The public comes much later.

 "It's a good human-interest story.  If Komet could find the man where the police forces of the country had failed, it would be a scoop.  Something people want to know about."

 Hoffmann gazed out at the December skyline and slowly shook his head.  "You're wrong. That's why I'm not giving you a commission for it.  I should think it's the last thing people want to know about."

 "But look, Herr Hoffmann, this is different.  These people Roschmann killed--they weren't Poles and Russians.  These were Germans--all right, German Jews, but they were Germans.  Why wouldn't people want to know about it?"

 Hoffmann spun back from the window, put his elbows on the desk, and rested his chin on his knuckles.

  「それで、わたしにどうしろというんだ」 「調査をぼくに委託するというかたちにしていただきたいんです。何も結果が得られなかったら、あきらめます」 

 ホフマンは回転椅子をまわして窓の方を向いた。1マイルほど向こうに広がる、クレーンと岸壁が延々と連なる広大なドックが、はるかに見えた。 

 「仕事としては、きみの得意な分野からはずれるんじゃないのかね。どうしてまた急に、そんなことに興味を持ったんだ」 ミラーはけんめいに考えた。アイデアの売込みは、最も難しいし、大事なことなのだ。ルポライターはまず、出版主や編集者に、ストーリーやそのアイデアを売り込まなければならない。読者は二の次なのである。

 「人間的な興味をそそる、いいストーリーだと思うんです。警察も捜し出せなった男を、「コメット」が発見したとなれば、これは大変なニュースですよ。読者もそういうものを読みたがってますよ」 

 ホフマンは、十二月の街をはるかに見降ろしながら、ゆっくりと首を振った。「そいつは違うね。読者はそんなものを読みたいと思ってないよ。うちの仕事としてきみに委託することはできんな」

 「でもホフマンさん、これはふつうの事件とは違いますよ。ロシュマンが虐殺したのは、ポーランド人やロシア人じゃないんです。ドイツ人ですよ。正しくはドイツ系ユダヤ人ですが、ドイツ人には違いありません。なぜ読者は知りたがらないんです」 ホフマンは再び椅子を回転させて、ミラーの方に向きなおり、デスクの上に頬杖をついた。 』

 commission : 委託、sprawling : 広がる、wharfs : 埠頭、public : 読者、Komet : ホフマンの発行してる雑誌、skyline : 空を背景とした街並み、the last : 最も不適当な

 

 『 "Listen, you're young. I'll tell you something about journalism.  Half of journalism is about writing good stories.  The other half is about selling them.  You can do the first bit, but I can do the second.  That's why I'm here and you're there.

 You think this is a story everyone will want to read because the victims of Riga were German Jews.  I'm telling you that's exactly why no one will want to read the story.  It's the last story in the world they'll want to read. 

 And until there's a law in this country forcing people to buy magazines and read what's good for them, they'll go on buying magagines to read what they want to read.  And that's what I give them.  What they want to read."

 "Then why not about Roschmann?"   "You still don't get it?  Then I'll tell you.  Before the war just about everyone in Germany knew at least one Jew.  The fact is,  before Hitler started, nobody hated the Jews in Germany.  

 We had the best record of treatment of our Jewish minority of any country in Europe.  Better than France,  better then Spain,  infinitely better than Poland and Russia,  where the pogroms were fiendish. 

 "Then Hitler started.  Telling people the Jews were to blame for the First War, the unemployment, the poverty, and everything else that was wrong.   People didn't know what to believe.

 「まだ若いね、きみは。ジャーナリズムのなんたるかを、まだ十分に理解してないよ。ジャーナリズムは二つの面から成り立っている。一つはいいものを書くこと。そしてもう一つはそれを売ることだ。きみは前者をこなせるが、わたしは後者の専門家だ。だからきみはそこにいて、わたしはこっちに座っている。

 きみはリガの犠牲者はドイツ系ユダヤ人だから、読者はみんな読みたがるだろうと言うが、わたしに言わせたら、これは読者の最も読みたくないストーリーだよ。

 国民はこれこれの雑誌を買って、これこれの記事はためになるから読みなさいっていう法律でもあるなら話は別だが、読者というやつは自分の読みたい記事の出ている雑誌しか買わないからね。だからわたしも、読者の欲するものしか提供しないんだ」

 「じゃロシュマンに関する記事はなぜ受けないというんです」 「まだわかんないのか、きみは。 じゃひとつ話してやろう。戦争前には、ユダヤ人の友人知己のいないドイツ人なんてほとんどいなかった。ヒトラーが現れるまでは、だれも彼らを憎んでなんかいなかった。

 ヨーロッパでもドイツほどユダヤ人を優遇している国はなかったと言っていい。フランスよりも、スペインよりも、ユダヤの少数民族に対して寛大だった。ポーランドや、たびたび虐殺事件をおこしていたソビエトなどと比べると、雲泥の差があった。

 そこへヒトラーが現れたんだ。第一次世界大戦、失業、貧困、とにかくあらゆる不都合はみんなユダヤ人のせいだと、国民に教えはじめた。国民は何を信じていいのかわからなかった。」 』

 bit : 少し、 victims : 犠牲者、 infinitely : 無限に、 pogroms : 虐殺、 finendish : 残酷な、 poverty : 貧困

 

 『 Almost everyone knew one Jew who was a nice guy.  Or just harmless.  People had Jewish friends, good friends; Jewish employers, good employers; Jewish employees, hard workers.  They obeyed the laws; they didn't hurt anyone.  And here was Hitler saying they were to blame for everything.

 " So when the vans came and took them away, people didn't do anything.  They stayed out of the way, they kept quiet.  They even got to believing the voice that shouted the loudest.  Because that's the way people are, particularly the Germans.

 We're a very obedient people.  It's our greatest strength and our greatest weakness.  It enables us to build an economic miracle while the British are on strike, and it enables us to follow a man like Hitler into a great big mass grave.

 "For years pepole haven't asked what happened to the Jews of Germany.  They just disappeared--nothing else. 

 It's bad enough to read at every at every war-crimes trial what happened to the faceless, anonymous Jews of Warsaw Lublin,Bialystok--nameless, unknown Jews from Poland and Russian. 

  「さっきも言ったように、たいがいの人は、ユダヤ人の友人知己を持っていたからね。 たいていのユダヤ人はいい人間だし、少なくとも無害の人だった。経営者としても、雇い人としても、勤勉で有能だった。法律を守り、他人に迷惑をかけなかった。ところが急にヒトラーが出てきて、みんなやつらが悪いのだと言い出した。

 そしてバンが彼らを連れ出しに来たとき、みんなは何もしなかった。じゃまにならないように隠れて、口をつぐんでいた。いちばん大きな声を信じるようにさえなった。人間というものは、そういうものだ。特にドイツ人にはその傾向が強い。

 われわれは柔順な国民なんだ。それが最大の長所でもあり、短所でもあるのだがね。イギリス人が破産に瀕しているのを尻目に、奇跡の経済繁栄をなしとげたのもその民族性だし、ヒトラーのような男に盲従して墓穴に落ち込んだのも、この同じ特性ゆえなのだ。

 長いあいだ人々は、ドイツのユダヤ人がどうなったか 、あえてたずねようとしなかった。彼らは消え去った。それだけだ、とね。

 戦犯裁判のたびに、ワルシャワやルブリンやビアリストクの、顔も名前も知らないユダヤ人がどうなったか、ポーランドやソビエトから連れ出された無名の、見ず知らずのユダヤ人がどんな目にあわされたか、そういう記事を読まされるだけでもつらい。」 』

 harmless : 無害の、 employer : 企業主、 employee : 従業員、 obey : を守る、 hunt : 悩ます、 blame : 非難する、 vans : 貨車、 obedient : 従順な、 enable : 可能にさせる、 on strike : ストライキ中の、 grave : 墓、

 war-crimes trail : 戦犯裁判、 anonymous : 名の知らない、

 

 『 Now you want to tell them, chapter and verse, what happened to their next-door neighbors.  Now can you understand it?  These Jews"-- he tapped the diary-- "these people they knew, they greeted them in the street, they bought in their shops, and they stood around while  they were taken away for your Herr Roschmann to deal with.

 You think they want to read about that?   You couldn't have picked a story that people in Germany want to read about less" 

 Having finished, Hans Hoffmann leaned back, selected a fine panatela from a humidor on the desk, and lit it from a rolled-gold Dupont.

 Miller sat and digested what he had not been able to work out for himself.  

  「きみは、彼らの隣に住んでいたユダヤ人がどうなったかを、わざわざ読ませたいという。 わからないかね? これらのユダヤ人は」 彼は日記をたたいた。

 「彼らが知っていた人たちなんだ。街で挨拶をかわし、その店で買い物をし、ロシュマンたちの手に渡されるべく連行されていくのを黙って見送った相手なんだ。

そういう過去にふれたストーリーを、彼らが読みたいと思うだろうか。このドイツで、これほど読者の欲しないストーリーがほかにあったら、お目にかかりたいもんだよ」

 一気にしゃべり終えると、ホフマンは椅子に深くもたれ、デスク上の小函から極上の葉巻を一本取り出して、金側のデェポンで火をつけた。

 ミラーは、自分では想像もつかなかった見方を、ホフマンに教えられて、その意味をかみしめた。 』

 chapter and verse : 詳細に(章と節)、 greeted : 挨拶した、 deal with : 扱った、 panatela : 細巻きの葉巻、 humidor : たばこケース、 digested : を熟考する

 

 これから、ミラーは一人で、ロシュマンの追跡のために、オデッサへの潜入を試みますが……。今回はこれで終ります。

 私は小説(ミステリー)の面白さは、 (1) 筋(ストーリー)がよくできている  (2) 主人公が好ましい (3) 会話が小気味いい (4) 地の文にリズムがある  と思います。 (第79回) 


ブックハンター「推理作家の家(Ⅰ)」

2015-07-02 12:33:22 | 独学

 79. 推理作家の家(Ⅰ)――名作のうまれた書斎を訪ねて (南川三治郎著 2012年5月)

 本書は、海外の推理作家、延べ54人の書斎を訪ね、写真を撮り、インタビュー記事を「文藝春秋」、「週刊文春」、「EQ]、「Bacchus」、「MEN's EX」、「駱駝」などに記載したものから30人を選んで、本にしたものである。推理作家は、どんな場所で、どんなふうにアイデアを思いつき、思索を練り、プロットを組み立て、原稿を書き上げているのだろうか。

 まず、取材を求める手紙を送るところから始まる。世界中に散らばっている、それも多忙な作家たちを追いかけるのであるから、躊躇は許されない。相手から”OK”をもらったら、即 ”When? Where?” と間髪を容れずに返事をし、相手が指定してきた日時・場所に、指示どおりに出向くのを基本にした。

 ミステリー・ファンでもある著者は、彼らの創作の秘密が見え隠れする「発想工房」を覗きたいという企画を1982年にスタートさせた。(著者の「あとがき」より)

 著者は写真家であるが、足と天性の性格の良さによって、ある意味一国の元首に会うより難しい、ミステリー作家の書斎の写真を撮り、作家の満足そうな笑顔を、しかも日本人のサンジローが成し遂げた。30人のうち14人がもう永遠に会うことはできない。

 

 『 グリアム・グリーン (Graham Greene 1904~1991)(取材・撮影1985年1月)

 私がグリアム・グリーンを訪ねたのは1985年1月。グリーンは、クリスマス休暇を終え、3日前にスイスに住む娘のところから帰ったばかり。極度のマスコミ嫌いで神出鬼没。一年中、あちらこちらと動き回り、元エスピオナージ(諜報員)の面目躍如たるものがあった。

 イギリスの事務所に取材依頼の手紙を出しても、送った手紙の数だけ、秘書から丁重な手紙が返ってきた。その文面は、決まって、「グリーン氏は現在旅行中で、貴方のご希望には添えません」だった。

 ともかく、自宅の住所さえ探し当てれば何とかなるだろうと思っていた矢先、グリーンがテレビに出ていたよ、と知人が知らせてくれた。1982年の夏のことである。そこで私は、フランス国営テレビの番組担当のディレクターに電話をかけ、グリーンの自宅を教えてほしいと頼んだ。

 彼は、「住所を教えるわけにはいかないが、ヒントは海の見える場所、ヨット・ハーバーのそばだよ」と雲をつかむような情報のみをくれた。当時の最新刊本で、グリーンがニース市長について書いていたのを思い出し、「海の見える場所、ヨット・ハーバーのそば」とは、たぶんニース近くにあって、コート・ダジュールでも最大のヨット・ハーバー、アンティープに違いないと見当をつけた。

 しかし、アンティーブ港の周辺をくまなく探したものの収穫はなかった。ニースに引き返し、もう一度、先のフランス国営テレビのディレクターを訪ね、住所を教えてほしいと食い下がると、しかたないなという表情で、「アンティープ港が眼下に見える上のほうだよ」。

 そこでまたアンティープに戻り、一計を案じ、朝一番にアンティープ郵便局の前に立った。出てくる配達員にだれかれとなく、「グリアム・グリーンの家に配達に行く人はいませんか?」と声をかけ続けて小一時間、ひとりの配達員が「俺がこれから行くから、自転車の後ろに乗りな」と親切に言ってくれた。

 彼は、アンティープのハーバーからはるか上方の見える6階建てのアパルトマンまで自転車を乗りつけた。私が配達員について玄関ホールに入ると、彼は「G.GREENE」と書かれたボタンを示して、ウインクしてくれた。

 だか、ボタンを押せども押せども返事はない。グリーンの郵便受けを見ると、入りきれない配達物が山と積まれている。悪いと思ったが、そのひとつひとつをひっくり返していると、電話番号のような6ケタの数字を記し小包が見つかった。私は急いでその番号を暗記し、何喰わぬ顔で玄関を出た後、それを取材ノートに書き写した。

 昼食後、ものは試しとばかりダイアルすると、若い女性の声で「ムッシューは不在です」と言う。私は重ねて、「そのムッシュ―とは、グリーンか?」と問うと、「Oui ウィ (そうです)」。

 それから欧米滞在中、機会あるごとにそこに電話をかけたり、アンティープのアパルトマンを直接訪ねたみたりしたが、いつも空振り、たまたまグリーンが電話口に出て「これからそちらに飛んでゆきます」と言って訪ねてみても、彼はもう旅立った後で、もぬけの殻。インタヴュー嫌いは徹底していた。

 そこであるとき、私の写真集「アトリエの巨匠たち」に「貴方に会えるなら世界中、どんなところでも、指定の日にうかがいます。世界で一番粘り強い男、サンジローより」と書き添えて送った。

 すると、今度は本人の直筆で返事が届いた。「チャーミングな本ありがとう。でも私は年をとりすぎているし、写真もさんざん撮られてきた。残念だね」という断りの返事だった。

 それでも「返事が来るのは脈のある証拠」と勝手に決め込み、あきらめずに手紙を書き続けた。結局、出した手紙は100通は超えていただろう。

 1984年になってもあきらめきれなかった私は、その年のクリスマス・カードに「今、ヨーロッパにいます。近いうちにお目にかかれるのを楽しみにしつつ」としたためた。そのまま新年をパリで迎えた私は、ダメでもともと、と電話もせずにニースに車を走らせ、朝の寝起き時間を急襲、玄関のベルを押した。

 すると、「ハロー」とずっしり重い声。「私は日本から来たサンジローです」というと、「ああ、君が来るのを恐れとったんじゃ。しかたない、今起きたばかりだから11時にもう一度訪ねておいで。きっかり2時間だけあげよう」。

 私はそのままグリーンのアパルトマンの前に愛車BMW160を停め、じっと約束の時を待った。11時きっかりに最上階にある、彼のペント・ハウスに上がると、通された部屋からは紺碧の地中海とアンティーブのヨット・ハーバーが一望でき、それは素晴らしい眺めであった。

 ブルーのカーデイガンに長身を包んだグリーンがあたたかい手を差し出し、「長旅ご苦労さん。君の好きなよう、時間が許す限り、やりたまえ」。3年がかりでようやく手に入れた2時間。私は夢中になってシャッターを切り続けた。

 アンティーブの港を見下ろすアパルトマンのテラスで、インタビューは快調に進んだ。「私はインタビューというものが苦手でね。インタビューってのは、活字になるたびにたくさんの間違いが見つかるだろ。テープ・レコーダーを使っているっていうのにねえ(笑)」

――パナマには、よくいらっしゃるんですって? 「パナマに行くのは、大事な友人がいたからだよ。しかし、彼は先年、飛行機事故で亡くなってしまってね。オマール・トリホスというパナマの将軍だよ。パナマは、最初に旅行してたちまちその国と国民に惚れ込んでしまったんだ。

 それ以来、毎年のように訪ねている。だが、1981年、旅行鞄に荷物を詰めて、あと2日で出発というときに、トリホスの乗った飛行機が墜落して彼が死んだという知らせが入ったんだ。彼はパナマのような小さな国の生まれだったが、傑出した人物で、世界的に見ても本当に優れた政治家だった。

 彼の死によって、中南米の状況はますます深刻さを増して混沌としてきた。私は、彼のことがとても好きだったので、昨年、彼の思い出をまとめて本にしたところなんだ。(トリホス将軍の死 Getting to know general 1984)

 パナマ運河の返還交渉のとき、トリホス将軍からワシントンへのパナマ代表団に加わるように勧められたこともあった。あれは非常に愉快だったね」

 「アメリカが今、中南米でとってる政策は醜悪だ。全く醜悪だよ!始末におえない。ニカラグアが脅威となる……、という非常に実に馬鹿げているよ」 

 ――処女作のエピソードを何か。 「オックスフォードで初めて書いた小説のことかね? もうタイトルも忘れたよ。2作目は「挿話」だったかな。この2作は出版されなかったんだ。出版されたのは第3作目の「内なる私 The man within 」(1929)だよ。

 もしこれが出版されなければ、私はおそらく物書きが自分にとって割に合わない仕事だと見切りをつけていたろうね。それでも、最初の2作が出版されなかったのは、ものすごく幸運だったと思っている。なにせ若気のいたりで、かなりひどい出来だったからね。

 さらに、それに続く「行動という名 The name of action 」(1930)と「夕暮れ時の噂 Rumour at nightfall 」(1931)についても、恥ずかしく思っているよ。あれらは三流の作品だね。だから私は、それらの再販を拒否したよ。今では有名な古本屋にもほとんど並んでいなくて、高い値段がついているんだそうだよ、ハハハ……」

 ――これまで別の職業も経験されていますよね? 「私はジャーナリストとしては、プロとは言えなかったね。1923~30年に「タイムズ」社で働いていた頃、私はデスクであって、現地取材はしていなかったんだ。作家として知られるようになってからはじめて、自分の興味ある土地に派遣されるようになった。

 インドシナ、マレーシア、ハイチ、パラグアイなんかだ。私のジャーナリスト経験は、そのときは大して役に立たなかったが、むしろ、小説を書くようになってから非常に役立っているようだね」

――アンティーブではどんな日常生活を? 「仕事があるときは、朝食をすませてから仕事する。仕事がすんだら一風呂浴びて着替えしてをして、友人と会ったりする。夜には手直しだ。先には決して書き進まないで、その日書いた分の手直しだけする。これが私のルーティーンなんだ」

 こうして約束の2時間があっという間に過ぎた。取材を終えて別れを告げるとき、私はもとより、どういうわけかグリーンの眼にも、うっすらと涙に似た潤いがあったのを昨日のことのように思い出す。 』

 

 『 アーサー・ヘイリー(Arther Hailey  1920~2004)(取材・撮影1999年1月)

 1998年12月、バハマのナッソーの消印ので差出人の名前もアドレスも書かれていない手紙が1通舞い込んできた。はて、どこの誰からの手紙だろう……といぶかしく思いながら封を切ると、なんとヘイリーからの、インタビュー承諾の自筆の手紙であった。

 「来月1月後半から2月の上旬までであれば、バハマにいるから訪ねていらっしゃい。喜んで君のインタビューを受けるよ」と非常に好意的な内容であった。さっそくニューヨークでの個展(100 arrists in their atelier)を立ちあげ、ナッソーに飛んだ。

 空から見るバハマ諸島は、紺碧に輝く海とエメラルドグリーンの珊瑚礁、白い砂浜の織りなすコントラストが美しい。ホテルにチェックインし、さっそくヘンリーに確認の電話を入れると、電話口の出たシーラ夫人がこう言った。

 「あなた、今どこから電話をかけているの? アーサーは、午前中からあなたが来るのを待っているのよ。都合がよければ、今すぐにいらっしゃい」。 なんと、私はアメリカの西海岸と東海岸のあいだに6時間の時差があることをすっかり忘れていた。

 「ヘイリー」とだけ書いた板を打ち付けられた、車寄せがあり、訪問を告げるベルを鳴らすと、にこやかな笑顔のシーラ夫人が迎えてくれた。「ようこそ、サンジロー。アーサーが待ちかねているわよ」と言い、すぐにヘンリーを呼びに行った。

 しばらくすると。190cmはあろうかと思われる長身のヘンリーが、私を包み込むようにかがみ込んで「長旅、ご苦労さん。自分の家だと思って、ゆっくりくつろいでくれたまえ。今日は君のために一日、時間を取ってあるんだ」といたわってくれた。

 私が、撮影を始める前にインタビューをしたい、と希望を伝えると、待ってましたとばかり、遠い記憶をたどりながらゆっくりと語ってくれた。

 ――作品の素材はどこからえているのですか? 「私の母は若い頃、たしか12歳のときに学校を終わらせてしまったことから、あまり教養はなかった。でも、彼女はいつも自分でお話をつくり上げ、私に話して聞かせてくれた。

 その影響か、私は幼い頃から人に話をしてきかせるのがとても好きだったんだ。私のストーリーのアイデアはほとんどは、母から聞いた話からきていると思う。

 例えば、画家が手の上に絵筆をのせれば、手が勝手に動いて絵を描き始めるように、私は迷いもなく小説を書き始めていたんだ。しかし、ここまでの道のりはそんなにあまくはなかったね。私が小説家として、自立した生活ができるようになったのは、36歳ぐらいかな」 

 「私は、ちょっとしたニュースや事件を耳にすると、それをすぐに小説にしようと思ってしまう。例えば、今日君が約束の時間に遅れたのは、国際日付変更線を越えて、時間を間違えたからだよね。僕は、それを小説のネタにすることだってできるわけなんだ。

 災害が起こったとか、何か悪い事件が起こったとか、そういう日々の出来事が、すべて私の作品のネタになっていくんだ」

 ヘイリーの作品には、長期にわたる緻密な取材にもとづいて書かれている。作曲家がヴァイオリンやチェロ、管楽器などの組み合わせによって、美しい音色のハーモニーをつくっていくように、アーサーは取材で得た個々の事実や知識を、ジグソーパズルのように再構成する。

 そして、彼独自のリズミカルで大胆なタッチで、研ぎ澄まされた感性と人間の心の深淵に触れるような独特の世界に読者を誘っていく……。

 ――執筆は実際には、どんな手順で進めていくのですか? 「まず最初にごく一般的で漠然としたテーマをいくつか選ぶ。それをどれか一つに決めないまま、取材してゆくんだ。取材の相手には、実際に体験したことは何でも話してもらう。

 すると、取材を重ねていくうちに、私の頭の中にあるベルがリンリンと鳴りだし。いくつか考えておいたテーマの中からひとつが私の頭のなかに浮かび上がってくる。

 もうその頃には、主役がどんな人物かも、はっきり見えている。こんなふうにして、私は半年から1年かけてストーリーを構成していくんだ」

 「でも、実際に書き始めたら、最初につくったアウトラインをそのままなぞって書き進めることはまずないね。最初は影の薄い人物が、書いていく過程でだんだん面白い動きを始めることもある。話が展開するたびに、登場人物が増えてしまうこともあるね、フフフ……」

 ――登場人物のキャラクターはどんな風につくりあげるのですか? 「まず、場面設定、プロットを考えてから主人公を考えるんだ。ヒーローをつくり上げるのはとても難しい作業だと、いつもながら思うよ……。主人公を考えるときヒントになるのは、私が実際に出会った人々なんだよ。

 私は、ほとんどの作品に”リアル・ピープル(実際に存在する人々)”を登場させているんだ。だけど、時々架空の人物をつくり出すこともある。実在する人物に、実際に彼らがもっていない要素をつけ加えて作中人物をつくりあげることもあるね」

 ――どうして、ここ(バハマ諸島)に住むことに? 「そうだね、私は生まれはイギリスで、戦後にカナダに移り住んだ。その後はカルフォルニアのナバ・バレーで4年間過ごし、最終的にこのバハマに1969年に移ってきた。ここに越してきて29年になるな。

 ここのどこが気に入ってるのかって? そう、気候が良いこと、海がきれになこと、人種差別がないこと、そして何より、所得税がないことだね。作家として一番厄介なのは、所得税だから(笑)」。

 ヘンリーご自慢のワインとヨットの話を交えながら、結局2日間にわたったフォト・セションは、実に実り多いものだった。イギリス人特有のウィットに富んだ語り口は、まるで孫にでも話しかけるように優しかった。

 そして、耳の遠くなったヘンリーの手となり足となって、彼の健康に気遣うシーラ夫人との二人三脚ぶりは、とてもほほえましかった。 』

 

 『 コリン・デクスター (Colin Dexter 1930~   )( 取材・撮影1993年10月)

 オックスフォード大学裏手にある閑静な住宅街に建つ英国風田舎家。デヴュー前の1973年に手に入れたという、このこぎれい2階建ての屋敷に、コリン・デクスターは夫人とともに暮らしていた。

 デクスターの書斎は2階部分にあるおよそ6畳くらいの狭い空間。床は、壁一面につくられた本棚からあふれ出した本や資料などで足の踏み場もない。机の上にドンと置かれた(机上の3分の1を占める)大型アンプからは、いささか場違いにも思えるワーグナーの「さまよえるオランダ人」の旋律が流れている。

 ――日頃の執筆スタイルは? デクスターは窓際に置いた机の前で、すっかり薄くなった頭に手をやりながら、「私はもともとグラマー・スクールで古典文学の教師をしていてね、オックスフォード地方試験委員会の副書記も1987年までつとめて務めていたんです。

 それで、最初は本業のかたわら退屈しのぎににミステリーを書き始めたのですが、処女作の「ウッドンストック行き最終バス Last bus to Woodstock (1975) 」でシリーズキャラクターとなるモース主任警部を登場させてみたら、読者の熱狂的な支持を受けたものだから嬉しくってね。

 その後、「キドリントンから消えた娘 Last seen wearing (1976) 」、「ニコラス・クインの静かな世界 The silent world of Nichlas Quinn (1977) 」を次々と書いていったんです。そして、「別館三号室の男 The secret of annexe 3 (1986) 」を書いたところで、定年退職しました。

 ところが退職後も、その”後遺症”というか癖というか、昼間はほとんど筆が進まない。したがってフルタイムで書くことはないですね。昼間は、近所の人とおしゃべりをしたり、チャリティーに参加したり、結構忙しい毎日を送っていますよ。

 そんなわけで、執筆はきまって夕方から数時間。近くのパブで一杯やってから家に戻ってきて、ワーグナーを聴きながら書くのです」

 「私はいまだに鉛筆をなめなめのロング・ハンド(手書き)ですから、1作書き上げるのに1年半~2年はかかりますね。私自身、ゆっくりとクロスワード・パズルを解くように、ストーリーの展開を楽しみながら書いていますよ。

 でも、私にとって小説を書くことは、私の生活の一部であって全部でないんです。暇をみて洗濯をしたり、読書をしたり、音楽を聴いたりしています。その上、私は筆マメでね。いろんな人たちに手紙を書くんです。手紙を書かない日はありませんね」

 「そして私にとって、なくてはならないのは深夜の酒だね。ビター・ビールをちびりちびりやりながら、クロスワードの升目を読んで考えているときが、私の至福の時と言えるかな」

 デクスターはそう言って、この後「オックスフォード運河殺人 The wench is dead (1989) 」の舞台となった運河沿いにあるパブに、私を連れて行ってくれた。そして、ギネスを飲みながら、ゆったりした語りは延々と続いたのだった。 』

 

 『 ジョン・ル・カレ (John le Carre  1931~ ) (取材・撮影 1983年9月)

 長いあいだコンタクトを試みていたが、ル・カレからはいつも丁重な断りの自筆の手紙が来るだけだった。しかし、自筆の手紙が来るのであれば、これは脈がありそうだと勝手に決め込んだ私は、1983年のロンドン滞在の折、毎日のようにエージェントに電話攻勢をかけた。

 すると、エージェントの女性はたまりかねて、「もう! 毎日毎日、五月蠅いわね。いい加減にしてよ……!」と、ついに音を上げ、しぶしぶアレリー夫人の電話番号を教えてくれた。

 私は喜びいさんで、さっそくダイアルしてみたが、いつも呼び出し音が鳴るだけ。結局、そのロンドン滞在中には連絡をつけることはできなかった。やっとル・カレに電話が繫がったのは、別の取材でサンフランシスコに滞在中のときのことだった。

 電話口に出たのは男性だった。私は番号を間違えてダイアルしたかと思い、おそるおそる尋ねた。

 ” I beg your pardon, but are you Mr. Cornwell ? ” (恐れ入りますが、コーンウェルさんですか?) すると、 ”Who is on the phone ? " (君はだれだい?) 

 ”This is Sanjiro from Tokyo, it would be great kind enough, can I speak to the Mrs. Cornwell.” (東京のサンジローです。差しつかえなければコーンウェル夫人とお話したいのですが)

 ”I am Mr. Cornwell, why don't you speak to me ? ” (私はコーンウェルだが、私ではだめかね?) ”I am sorry,well…,are you Mr. John le Carre ? ”  (大変失礼しました。では……、ジョン・ル・カレ氏でいらしゃいますか) ”Yes, I am. ” (そうだよ)

 ル・カレは、電話口に出たときから私が誰かを知っていたのだ。私は、はやる心を抑えて、

「いつ伺えばいいですか? ロンドンからは車を運転してゆきますから、お宅の場所を教えてください」と道順を聞くと、「とても遠くって複雑な道だから、今説明すると国際電話では料金がかかりすぎて大変でしょう、ペンザンスに来てからもう一度電話しなさい」と親切にこちらの懐具合も心配してくれた。

 それもそのはず、ル・カレの家までは、迷路そのものだった。近くの大きな町、ペンザンスまでは、ロンドンから南西に約500km。このペンザンスのあるコーンウォール地方は、アガサ・クリスティーにも、しばしばその作品の舞台として取り上げられた。

 映画「ラヴェンダーの咲く庭で」の舞台ともなった場所で、美しい海岸線で知られる。そのペンザンスからさらに半島の端に向かい、海岸線沿いに大西洋に面した道を通って、ル・カレの所有地に入るまでは、ようやく車1台が通れるような細い道を、アップ・ダウンとカーブを繰り返しながら進まなければならなかった。

 ル・カレのナビゲーションなしでは、到底行き着くことはできなかったろう。ル・カレは、切り立った海岸線の上に建つ1軒の農家を、1968年に9,000ポンドで手に入れ、2度目の妻アレリー夫人と3人の子供たちとともに暮らしていた。

 インタヴューの内容は、作品、政治情勢、趣味……と多岐にわたり、アレリー夫人の手作りの昼食をご馳走になりながら、たっぷりと時間をかけて。ル・カレの話を聞くことができた。

 また、ル・カレは私がワイン好きだと知ると、ワイン・セラーからとっておきの〈オスピス・ドゥ・ボーヌ ブルゴーニュ・ブラン〉を出してきてくれた。一緒にグラスを傾けながら、さらにワインの話にも花が咲いたことは言うまでもない。 

 食後、私たちは散歩に出た。 ル・カレは、岬の先にある灯台まで来ると、「ここの海岸線4マイルにわたるエリアが私の土地なんだ。まあ、実際には国が管理しているんだけどね。私は散歩がとても好きで、毎日この岩場のあたりを歩いてるんだよ。

 いつも小さなノートとペンを持ってね。岩場に降りて、波が岩に当たって砕けるのを見ながら、思いついたことを書きつけたり、構想を練ったりするんだ。ここに来るだけで浮世の雑念を忘れ、創作に没頭できるよ」

 ――それにしても、なぜこんな人里離れた場所に家を? 「プライバシーを守るためだね。私はマスコミが大嫌いでね。インタヴューにも、これまで「ライフ」に一度応じただけで、サンジロー、あなたが2度目ですよ。

 このあいだなんか「パリ・マッチ」がヘリコプターを飛ばしてきて、この家に強制着陸を試みようとしていたよ(笑)。車で来るには、私が道順をおしえないかぎり、絶対にわからないように迷路仕立てになているからね……」と。いたずらっぽく笑ってみせた。 』

 

 本書は、本来写真集なので、ミステリー作家の満足げな笑顔と書斎の写真が売りなのですが、文章もまた撮影現場までの道のりの臨場感が伝わって来ます。作家の作品を読んで、これを読むとさらによく、英語で読むとさらに楽しくなると、思われます。 (第78回)