チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「なんで英語やるの?」

2012-11-28 10:21:32 | 独学

24. なんで英語やるの? (中津燎子著 1978年発行)

 『 英語の最大公約数的基礎ルールとは、

 1、英語は、人間同士の言語で、お互いの意志を伝達するために存在し、あらゆる他の国の言語と対等である。
 
 2、英語はある規定によって発せられた音を伴い、しかも、音を重視する聴覚型言語である。

 3、英語は、腹式呼吸で発生し、発音する。

 4、英語は、自他を明快にわける思考を土台にしている。』


 『 先ず、英語は音を伴う、と言う常識的な段階で、いや、それ以前に、音をどう出すか、と言うよりも、もっと前に、呼吸する段階で、私も文子さんも七転八倒した。呼吸そのものが出来ないのである。

 英語には破裂音と言う音があるのは皆知っている。ところがこの破裂は文字通り、破裂するのがあたり前で、破裂するためには十分な呼吸が用意されなければならない。

 破裂しない音は破裂音とはみなさないのが常識と思っていた私は、文子さんの破裂音に驚愕した。

 正式に、B,D,F,K,P,T,Vなどが、破裂音として彼女は考えているようだがそれすら十分の一の息と音である。

 その音のほかに、CH,SH,TH,H,L,M,N,S,C,Qもやはり正規の破裂音と同様の呼吸量を必要とする。

 おおむね、英語の単語はそうした一つ一つの単音の合併と連結で出来上がり、文章はその単語と単語の、連結で出来上がる。

 その上英語のアクセントの中で、破裂音がうけもつ役割は重要で、規定の分量の音を出してくれないと、次の音にさしつかえ、次々と節回しにも影響が出てくる。

 従って十分に息をすい、吐き出す時に音を出す、と言う基本ルールが出来ない文子さんのスピーチが私にまるきり、ききとれなかったのは当然であったわけだ。

 私は彼女に複式呼吸をやらせた。彼女は呆然自失して、英語と呼吸が関係あるんですか? と目を廻しそうになったし、私は嘆息しか出て来ない。

 世界中にどれだけの数の民族が住み、どれだけの数の言語が存在しているかは、克明にしらべた事がないのでわからないが、英、独、仏、伊、スペイン、ポルトガル、ロシア、中国、韓国、蒙古、中近東、東欧、アフリカ、全く限りがない。

 その言語の音声をざっときいてみると、かなり破裂音のような強い息を出す。したがって強い音をもつ言語が多い、と思う。

 それにくらでて、我が日本語ははっきりちがう。あまりわめく必要がない。わめくよりむしろ、静かにやさしい音を出す。従って、大して呼吸や音に気を使わずに、言語が発展したような気がする。』


 『 私を教えた、J.山城と言う二世の先生は、鬼のように残酷で、悪魔のように非情で、妥協を許さぬ人であった。怒り心頭に発して、何度レッスンをやめようと思ったかわからない。

 だがその鬼よりひどい教師が教えた英語のおかげで、私はそれからの長い年月英語によって安定した職業につき、留学の機会を得た。

 在米時代も不自由一つしなかったどころではなく、自由自在に生きて、あらゆるものを学ぶ事が出来た。

 私の子供が成長した時に、必要ならば彼らに伝えることができる、英語の最大公約数的基礎条件、と言うものも、その先生が叩き込んでくれた基礎から、得たものである。

 いかに、彼の叩きこんだ基礎がほんものであったかは、アメリカにいる間中、骨身に徹して悟らされたものである。

 彼の主張は、単純で、言語を習得するのに必要な事は、その目的と、基礎訓練で、頭脳も、才能も、学歴も、人間も、関係ない、と言う事であった。私も全面的にそう思う。』


 『 J.山城は、ロサンゼルス生まれの二世で終戦後、老いた両親をつれて鹿児島に帰ってきたと言う事とロサンゼルスのカレッジを出たらしい事の二つしか知らなかった。

 彼のレッスンは、最初から四メートル離れて、ごく短い説明と模範の発音をした後、アルファベットから始まったが、驚いた事に一時間中Aだけで終始した。

 何しろ四メートルはなれた彼の耳に届くには声を発するだけでも至難のわざであった。結局、最初のレッスンはわめくだけでAの音にならず「きこえません」で片づけられて終わった。

 声はかれ果て、汗びっしょりで目が廻りそうになって帰宅しその夜は泥のごとく眠ったのをおぼえている。

 そう言う調子なのでアルファベット二十六文字が無事にすらすら行くわけがない。母音、破裂音、それにRにL、と難問の山だった。大体26文字全音が根底からやり直しで、口先だけのぺらぺらやごまかしが一切通じなかった。

 無我夢中でやっている中に一ヵ月たらずで、腹式呼吸で音が出せるようになり、のどもよく開くようになった。

 アルファベットが終わると四センチ程の厚さの本をわたされた。第一頁からずらりと「This is a pen」「This is a book」と言う基本文型が並んでいて、基本文型で本一冊が埋まっていた。

 これを一行ずつよみあげて行くのがレッスンであったが、これはABCの単音とちがって、単音の結合に入り、文章になると、トラブルの続出で、THがよければ、Iがきこえないと言われSの息はどこだとかきかれる。

 私はテキストをよむが、彼は何も持っていず、向こうむきで煙草を吸っていたりする。私が妙な音を出すと、大変静かに、「すいませんがもう一度」(I beg your pardon?)と言う。

 二回言い直して、三回目がだめな時はていねいに「もう一度、最初から始めてください」と言う。

 私はこの「もう一度、最初から始めて下さい」と言う彼の声が、夢にまでひびいて来てうなされた。何故なら彼の最初からと言う意味は、又、ABCのAからやり直せ、と言うことであった。

 どんなに頁数が進んでいようとも、Aからのやり直しが鉄則であった。本の三分の二まで行っていながら、Aからのやり直しで、Oあたりでひっかかってしまい一時間が終ったりすると、全身の血が逆流した。

 この循環方式は実にきびしいもので、誰でもがこの方式の訓練をうけられるとも思わないし、又うけるべきだとも考えない。やはり英語を使う職業人以外は無理だろうし、その必要もないだろう。

 文章の基本型の最後のあたりでひっかかって二回もAからやり直しがつづいた時、私は二度目のやめたい「やめたい病」の発作を起こした時、危うくやめてしまうところだった。

 彼は私がいらいらするのがどうしても理解できないらしい。煙草を吸いながら、

 「あなたは私の英語をまねするから出来ないのです。あなたの英語を発見してください。まねた英語はほんものでないから、ほんものの価値はあたえれれません。ものまね英語を喋るより自分の国の言葉を堂々と喋るべきです」

 「自分の英語を発見しろ。おうむのまねには限度がある」と言った山城氏の言葉がはっきり納得できないうちは癪にさわってやめるにやめられないのである。

 半ば、けんか腰で数回つづけている中に、ふしぎな事に何だかわかって来た。要するに彼の発音をそのまままねようとするため、私は、自分本来の声や、舌の動き方に関しては案外無神経だった。

 彼の声や唇にばかり気をとられ、自分のを最初からそちらの方向にむける事にばかり、けんめいだったのだ。

 「ああ、私にも私の声があったんだわ」とはじめて気づいて、自分を研究し始めた時から私はどんどん進んで行った。破竹の勢いで忽ち基本文型は終了しストーリィブックの一冊目もすらすらと進んだ。

 私は三度目の正直で、みたびやめたい発作をおこしてしまった。最後の三百頁程のストーリィブックの五分の四まで行ったあたりでひっかかり先に進まなくなったのだ。

 本の内容は十歳前後の子供の生活やおとぎ話の短編がいくつも」集めてあって面白いのだが、場面、人物、感情、あらすじの描写も複雑になって単に「読む」だけで通じないし、いざ山城氏の背中にむかってわかるように朗読するのは大変だった。

 そこでほんの一寸の舌のしくじりでも私は最初の一頁からやり直さねばならない。苦労して本の五分の四まで来てひっかかった単語は「りす」であった。

 りすは、SQUIRRELとつづってある。元来、RとLが一つの単語の中の入っていると舌は七転八倒なのだ。

 Rで舌先はのどの奥に向ってまきあげられ、Lではさっと出て前歯の裏にしかるべく強さであてねばならない。その間、声は出しっ放しだから舌が動くにつれて音がちがって来るわけだ。

 しかも、そのRとLの間にIとE顔を出していると、苦労倍増である。このIとEを消す事は出来ず、かと言ってやたらに強調すると一語として長くなりすぎる。

 そこで非常に巧妙に、素早くRとLにくっつけて、しかも存在を示す発音が必要なわけである。私は一冊の本を丸三回ゆきつもどりつした。

 すべてがこのりす君が、チョロチョロしたおかげである。三回目も、NOが出た時、私は本を投げて泣いた。本は二つに割れて床におちた。私は、悲しくて泣けたのではなく、口惜しさと怒りでカッとしたのだ。

 「でも……私にはEがきこえません」と言った。私の興奮はその時冷水を被ったようになり、口がきけなくなった。

 「あなたはSQUIRRLと言うけれど、そう言う単語はないので困ります」彼は心から当惑していた。何と言っていいかわからず、途方にくれたように立ち上がって床から、二つに割れた本を拾い上げ、セロテープで丹念に修理した。

 それから、その本を私に手渡して言った。「I am very sorry,but I can't say yes to you when I knew it was wrong. Let's try it again」(すみませんが、まちがいと知っていて私はあなたに、イエス、と言うわけにはいかないのです、もう一度、やってみましょう)

 私は呆然として一語もなかった。だまって本をとりあげ、四度目の繰り返しを開始した。しかし、如何に何でも四回目である。

 前半の部分など暗記している位だから、風の如き早さで一語もまちがわずによみ進んで来て、問題のりす君の所にさしかかった。

 それがするりと通過して遂にこのりすの章を終わった時私は全くびっくり仰天してしまった。

 山城氏は依然として四メートル向こうにいたが、大して感激した風もなく、「O.K,今日はこれまでです」と言っただけであった。十五分ほどの時間超過であった。

 それから二回目のレッスンでこの本の最後の頁を終えたときも、「Perfect」(完全です)と言っただけで、ぽかんとしている私に淡々と、「あなたの基礎訓練は終わりました」と告げた。

 それで私は卒業したわけだ。あっけない事限りない。それ以後に行われた年一回の恒例の英語のテストの結果、私の給料はぐんとはね上がった。』 (筆者は当時国際連合軍交換台の要員であった)


 『 人々はよく、国際的感覚の持主だとか、国際的な人間だとか、コスモポリタンだとか口にするけど、精神的無国籍者と国際人とは、全く別人でありながら紙一重でよく似ている。

 私自身、もし、通訳(ウラジオストック、ロシア領事館)だった父の配慮がなっかたら、前者の方向にたやすくむいて行ったのではないかと思う。

 私の子供の時にもそうした二種類の人々を見かけた記憶があるし、アメリカに行っても、更に多くの、精神的無国籍者と、国際的感覚の持主やコスモポリタンと出あった。

 真の国際人とは、自分自身の、ひいては自分の母国の文化をしっかりと持っている人だ。だから他国の人々と対等に話が出来、相手の文化を理解できる。

 自分が何もない人間は、相手をはかる尺度すらなく、その時、その時の風の吹きようで、どのような色にも染まる。

 精神的無国籍者の典型的なタイプは、たとえどのように自由に見えても、結局は相手によって色が変えられる、と言うむなしさを持っている。

 しかも本人が殆どそれに気づいてないのも特色で、もし、気づいていたらとしたら精神的無国籍者にはなり得ない。

 私は、文化と言う言葉より、民族の土着性と言う方があたっていると思う。どんな民族でも、たとえ流浪の民のジプシーでも、ユダヤでも、その民族のもつ何万年の歴史の重みからにじみ出る土着性がある筈だ。

 ある一人の人間が赤ん坊の時から十歳位までに出来上ってゆく過程では、その土着性が何よりも大切なものではないかと痛感している。』

 (「何で英語やるの?」は昭和49年大宅ノンフェクション賞を受賞)(第25回)


ブックハンター「森田療法」

2012-11-26 09:36:07 | 独学

23. 森田療法 (岩井寛 昭和61発行)

 『 西欧の心理療法と森田療法とのいちばん大きな違いは何かというと、西欧の心理療法においては、神経症者が何らかの形で心の内に内在させる不安や葛藤を分析し、それを”異物”として除去しようとする傾向がある。

 これに反して、森田療法では、神経質(症)者の不安・葛藤と、日常人の不安・葛藤が連続であると考えるのである。

 したがって、その不安・葛藤をいくら除去しようとしても、異常でないものを除去しようといているのであるから、除去しようとすることそれ自体が矛盾だということになる。

 つまり、この点で西欧の心理療法が考える不安・葛藤およびそれに対処しようとする理論は、まさに相反する立場をとるということができる。

 神経症の原因である不安・葛藤が、人間の本来のあり方と相反していて、その原因が人々を苦しめるとするなら、それを取り除くために分析を行い、原因を究明し、それを除去する必要があるのは当然である。

 しかし、森田が論ずるように、不安・葛藤をつくり出す心理的メカニズムそれ自体が異常なものでなく、人間性に本来付随している心理状態だとするならば、それを分析し、原因を究明し、除去する必要はなくなってしまう。

 この点において森田は、人間性ならびに人間の欲望の二面性を認めているのである。森田は、神経質(症)者は「生の欲望」が非常に強いという。これは、フロイドが「性」を中心にして神経症を考えたのに対抗する考え方である。

 神経質(症)者は、理想が高く、”完全欲へのとらわれ”が強いために、常に”かくあるべし”という自分の理想的な姿を設定してしまう。

 しかし、我々が住む不条理の現実には、そのような都合のよい状態はないので、そこで”かくあるべし”というという理想志向性と”かくある”という現実志向性がもろに衝突してしまう。

 そのために両者の志向性が離れれば離れるほど、不安・葛藤が強くなり、神経質(症)者は現実と離反してしまうのである。

 そこで、ある者は自己否定的になって、劣等感に陥り、現実の苦悩に耐えられなくなって逃避的な態度をとるようになる。』


 『 森田の欲望論は、欲望の二面性を肯定するところから出発している。美に対して醜があり、善に対して悪があり、喜びに対して悲しみがあり、自身に対して不安や葛藤があるといったように、人間には、常に相反する志向性が内包されている。

 そこで、人間の欲望には、時には美を求めることがあると同時に、醜に関心を抱くこともあり、善を求めると同時に、その反対の悪に身を浸したいと考えることもある。

 森田はこれを人間性の真実、あるいは事実と考えるのである。したがって、人間性の事実を求めていくためには、内面に存在する一方の欲望を切り捨てて、他方の欲望にのっとていくというわけにはいかず、そこに、森田の治療的中核である「あるがまま」の理念が生まれるのである。

 「あるがまま」とは、事実をそのままの姿で認めるということである。たとえば、苦手な上司と面接をしなければならないときに、会って自分の構想をよりよく披瀝しようと考える一方で、あの上司は苦手だからなんとかその場を繕って逃げてしまいたいという考えも浮かぶ。

 これは両者ともに、その現実と直面している人間の欲望なのであって、一方では、苦しくても自己実現をしたいという欲望と、他方で、苦しいから逃避をしたいという欲望と、両者ともにその人に付随する人間性なのである。

 そこで森田は、低きにつこうとする欲望を”そのまま”にして、もう一方の自己実現の欲望を止揚していこうとする欲望の方向性を考える。
 
 つまり、自己実現欲求も、逃避欲求も、ともに人間性の一部なのであるから、後者を”そのまま”にし、前者をとってゆくところに森田療法の本質を認めるのである。

 そして、後者を”そのまま”にすることを「あるがまま」という。

 「あるがまま」は、ただ単に自分の欲望に従って思いどおりに振る舞うということではなしに、自己実現欲求を遂行するための手段であって、自己否定的な欲求を「あるがまま」にしておき、もう一方の自己実現欲求に従い、これを実践するとき、人間には進歩があるとするのである。』


 『 植物は花を開き、実を結び、種子をつくってまた新たな植物を生み出す。動物は性を営み、胎児を宿し、新たな子孫をつくり出す。ウイルスは宿主細胞と接触して導管を注入し、自分と同じ鋳型様の細胞を宿主細胞の中にいくつもつくり出す。

 このように、自己の意思で動く機能をもたない植物も、自己の意志によって行動をおこす動物も、生物と無生物の中間であると考えられているウイルスも、すべては自己の種族保存の方向に向って、変化の過程をたどっている。

 変化のただなかにあるのは生物ばかりでない。生物と無生物の中間にあるウイルスも、いや、ウイルスや生物を生み出す以前の無機的な地球も、地球生誕以前の宇宙も、すべては変化のただなかのある瞬間としてある。

 ところで、動物は意志活動を付与されたことで、自らを守り、意志的に種族を保存していくような活動を行うようになったが、さらに加えて、精神活動を与えられた人間は、「いかに生きるか」という、自らが生きるための方向性と目的性をもつようになった。

 つまり、動物は無意識的に自己の個性と種族の保存に向って、生きるための強い欲望をもつようになったが、人間はその上に、いかにという、己の生き方に対する、反省的であると同時に生産的な欲望をもつようになったのである。』


 『 森田正馬は、非常に東洋的な自然観、人間観をもっているが、彼の精神医学的素養がそうであるように、その思想の背景には東洋と西洋の思索の融合が察知できる。

 そこで、ある学者は森田理論では人間を楽観的に観すぎていると批判する。しかし、人間が自ら法律をつくり、芸術を創り、さまざまな抗争をくり返しながらも今日の人間社会を築いてきたのは、善悪両面を内包しながらも、人間が自己保存、民族保存、人類保存の方向性をもって生きてきたからであり、したがってそのエネルギーを否定することはできない。

 以上のように、森田が唱える「生の欲望」は、生得的、内発的に人間に存在するものであって、人間は生まれながらに生存欲と人間として生きる方向性をもっていると森田は考えるのである。

 しかし、同時に森田は、「生の欲望」を人間を規定するための”決定論”にしてしまっているわけではない。彼は、人間のそれぞれの生き方によって、本来存在する「生の欲望」のありかたが固有の形をとると考えるのである。

 つまり、「生の欲望」の一面は、人間がよりよく生きようとする向上発展の欲望を代表するもであり、もう一つの側面は、生を求めるがゆえに死を忌避しようとするが、ためにおこる「心気的」側面である。』


 『 かってフロイドは、神経症者は倫理感をもち得ぬ偏向した人間であると決め付けた。彼は、ドストイェスキーを例にあげ、”ドストイェスキーは、人間の苦悩と葛藤を描き出して真実に迫るすばらしい小説を書いたが、彼がもし神経症者あるいはてんかん者でなければ、倫理的な思考の上に立ち、聖人になっていたであろう”という意味のことを語った。

 フロイドは、十九世紀末の退廃的なヨーロッパを生き、彼自身が神経症的な要素を自覚しており、さらに科学的生理主義と倫理的個人主義の時代的洗礼を受けていた。

 したがって、彼の言葉には、自分の弱さに対する弁解が含まれていたかもしれない。
しかし、筆者はこのフロイドの考えに反対である。

 もし筆者が、ドストイェスキーのような小説家の立場と、崇高なる宗教を奉ずる聖者のどちらかを選べといわれたならば、躊躇なくドストイェスキーのような小説家の立場を選んだであろう。

 人生のあらゆる機微に潜む不安や、葛藤や、苦悩を通してこそ、赤裸々な真実が見えてくるからである。

 筆者がドストイェスキーに畏敬を抱くのは、彼が神経症的な不安・葛藤や、てんかん者としてアウラ(発作の前兆)や発作を引き受けながら、なおかつ膨大な作品を創ったことである。

 つまりこれこそ、「目的本位」に小説を書き上げたといってよい。人間にはこのような汚ない側面がある、このような苦しい側面がある、このような淫らな側面がある、このような残酷な側面がある、などというように、次々と人間の弱点を抉(えぐ)りながら、なおかつ否定しきれない崇高ななにものかにぶつかっているのであり、そこにこそ彼は神を見ようとしている。

 聖者が天啓を得て神を見るよりも、もっと真実の神を見ているのである。これはひとえに、彼が自分の神経症体験を自己克服しつつ、それを創造性へと転化させているからである。』(第24回)


ブックハンター「会話を楽しむ」

2012-11-23 08:53:22 | 独学

22. 会話を楽しむ (加島祥造著 1991年発行)

 『 「対話は興あらせたきものなり」森鴎外(智慧袋)

    話(talk) と会話(conversation)』

 
 『 人と人が言葉を交わしあうこと――それが会話だとすれば、会話とは大きな社会活動であり、すべての国の人々が、毎日行っており食事とセックスの次に人間が古来から親しんでいるが、前の二者ほどは考察されてない、興味の対象になってない。

 しかしこの下手な会話でひとつ大切なものは、人間の対等観と心の開放を内にもつこと、そして相手の考えをつかむことだ。その上で自分の考えを明確に言い表すことだ。

 フランス在住の桐島敬子さんに、フランス人の会話意識とは?
「フランス人は会話では常に説得(persuasion)を意識している」

 英語圏の会話では、相手のお喋りを遮って自分も喋るのであり、こういう「やりとり」が会話の運びの基になっている。

 私は時おり「チョットマッテ」と日本語でいいつつ手をあげて、それからPardon me,but…とか、Wait a minute、Wait a secondなどの遮り用のきまり文句を言う。

 相手ははじめてさっきの日本語の意味を知って、こっちの発言を待つ態度になる。この方法のほうが、じかにPardon me,but…というより、私には心理的に楽になった。』 


 『 会話の最大のこつは相手の話を聞いてやることだ。これはよく言われることで、また間違ってもいないが、なかなか実行しがたい。
 
 元来会話とはひとつのボールを投げたり受けたりすることだけれども、まず大切なのは相手の球をしっかり受けとめてやることだ。

 こちらがそうしていると知ると、相手は安心して球を投げてくる。あるいは全力投球してくる。それをしっかり受けてゆっくりと投げ返してやる。

 あなたがそういう受け手になったとしたら、あなたと会話する人はみな喜びと満足を感じるだろう。「あの人は話の分かる人だ」というだろう。

 しかし問題はそれであなたが喜びや満足を覚えるかどうかだ。多くの人は、相手が自分の話をしっかり受けとめ、口数少なく答えてもらいたいものである。』


 『 私たちは、会話で「なぜなら」をしばしば省略する。英語の会話では当然に「……だ、なぜなら(because)……」とつづくべきところを、私たちは「……だ」で終えてしまう。

 英語の会話では、because……を省略した言い方は、しばしば、対等でない間柄におこるものであり、それは無礼な言い方ととられがちだ。

 彼らは対等の立場から会話しようとするから、疑問に思うことは、問いただす気持を持ち、先にbecause(やfor,since)を用いて先に説明する。』


 『 会話で大切なのは、その場での自分の意識である。自分がいまなにを喋っているかだけは、意識していたい。その意識はしばしば薄れてしまうけれども、夢中で喋っている自分を、時おり、自分で目覚めさせる意識だけは、持っていたい。

 いつも冷静でいろというのではない。いつも冷静な人間の会話はたいていつまらない。時には夢中になり、空想に脱線し、そんな自分に驚いたり笑ったりするのも、会話には欠かせないことだ。だが根元には自分がいま何を口にしているかを自覚する能力がほしい。

 英語で喋っていると、時おり相手が、「君はいま自分が言っていることが分かってるのかね?」”Do you know what you are talking about?”などとたしなめたりする。」

 「会話というものは、軽いものであれ、荘重なものであれ、慌てた早い喋り方だと記憶が混乱して取りとめのないものとなりがちで、逆に、ゆったりした話し方は、表情や口調が美しいばかりか、記憶も確かだから、聞く人にこちらの知性に高さを感銘させることになる」(サミュエル・ジョンソン)』


 『 生きた会話と開いた心とは、非常に大切な関係にある。会話と知性との関係も大切であるが、それ以上に言える。
 
 なぜなら知性が足りなくとも、開いた心からは、すばらしい会話が生まれるが、どんなに知性が高くとも、閉じた心かは、いい会話が生まれてこない。

 それでは開いた心とはなにか。根本をたずねれば、「受け容れる心」そして「自我自執のない精神」と言えそうだが、少し具体的に考えてみたい。

 会話には当意即妙の閃きや、空想力や創造性、経験や体験からくる他への共感力、情緒やユーモアへの転化など、数々の要素がその場に応じて織り込まれてゆくが、それらは己れひとりの頭脳の働きだけでは生じない。

 共に楽しむ開いた心が第一条件なのだ。もし開いた心の男女幾人かが集まって、ゆったりとした食事やお茶の中で話しをはじめそれがやがて空想力で一転したり、想像力で伸張したり、情緒の深みやユーモアの軽さで綾どられながら、つづくとする。そのような会話を私は「輝かしい会話」という。』


 『 老子は「道」(タオ)を説くにあたって、それを捉えがたいものとし、玄妙の境と言った。会話と老子――これは意外な組合せであるが、老子の哲学は会話のエッセンスを捉えていると思う。

 老子は水のもつ受容性と変化を生命力の根源の想としてとらえ、それが人に現れる時は女性なのだと語っている。

 そして会話とは本質的に女性性に深く根ざすと私には思われてならない。』(猿の文化は、母親によって伝達され、言葉も母親を通して、伝達されるからではないか?)(第23回)


ブックハンター「ピグミーチンパンジー」

2012-11-19 20:27:44 | 独学

21. ピグミーチンパンジー(未知の類人猿) (黒田末寿著 1982年発行)

 『霊長類目は、大きく原猿類、真猿類に分かれ、後者はオマキザル上科、オナガザル上科、ヒトニザル上科の三つの系統群からなっている。

 ヒトニザル上科は、人科、ショウジョウ亜科、テナガザル亜科からなる。ショウジョウ亜科は、オランウータン属、チンパンジー属、ゴリラ属からなる。

 テナガザルとオラウータンはアジアに分布する類人猿である。テナガザル類には七種が含まれるが、いずれも一雄一雌と子どもからなる単位集団をつくる。

 集団間は排他的で、声を張りあげ、ときには攻撃行動によってテリトリーを防衛する。この社会の配偶関係は安定しているが、それ以上の個体との社会関係を拒絶しているが故に、発展性がないといえなくもない。

 彼らはほとんど地上には降りず、主食の果実のほか、木の葉、芽、昆虫、小鳥などを食べる。

 オラウータンは、母と若い子どもの結びつき以外に永続性のある個体間の結びつきをもたない。真猿類中、唯一の単独生活者なのである。

 彼らは、巨大になりすぎて木から木への移動ができなくなったオスのほかは、ほとんど木の上だけで生活している。食べ物は果実が主で、木の葉、樹皮なども食べる。』


 『アフリカの類人猿は、アジアの仲間よりもっと複雑な社会をもっている。ゴリラは地上性で、草本、樹皮、根茎を食物とした菜食主義者である。

 その単位集団のサイズは、数頭から40頭におよぶものまであるが、原則として成熟したオスがいる例もあるが、それは中心となるオスの息子が集団を出てゆく時期が遅れているという場合か、あるいは中心となるオスが老齢に達し、息子がその跡を継ごうとしている場合であるらしい。

 生まれた集団を出た息子は、他の集団に近づき、メスを誘い出し新たな集団を形成する。

 オスが巨大化したということと、オス同士が相容れないということとの間には関係があるかもしれない。そして比較的安定した一夫多妻の配偶関係を保って生活しているというのがゴリラの社会であるといってよい。

 すなわちゴリラの社会は、オス間の社会関係の発展を否定したその上に築かれているのである。そのために彼らの社会は、つねに他のオスによる暴力的な配偶関係の破壊の危険にさらされているといえよう。

 また、一般に血縁の支えのないメス相互間には社会交渉はほとんど見られず、まさに薄情な間柄といってよいであろう。』


 『ミナミチンパンジーは、地上性でありかつ樹上性であり、果実を主食としているが、植物のさまざまな部位、昆虫、ケモノの肉も食べ、食性の幅は広い。

 単位集団は複数のオスとメスを含み、20頭から80頭で構成されている。この社会の著しい特徴は、一つの単位集団がその内部でつねに離合集散を繰り返していることだ。

 これは個体間の社会的緊張の解消にも、また彼らの生活環境で生産される食物の量と分布の変動への対応にも役立っている。わかれた固体が再開するときには、身体接触による多彩なあいさつ行動が緊張緩和の役割を果たす。

 オスたちは、集まりあう傾向があり、このオスの集まりを核としてメスがルーズに結合しているというのが、彼らの単位集団だといってよい。

 オスの間には順位があり、第一位のオスが社会統合の中心になっている。チンパンジーも、メス同士の交渉は淡白で、メス間をつなぐ絆のようなものはほとんど認められないといってよい。

 オスとメスとの性関係は一般的にはいわゆる乱交である。しかし、優位のオスによる発情したメスの独占や、メスが特定のオスとペアをつくって、二頭だけが集団から少し離れてすごすといった例も見られている。』(ミナミチンパンジーとは、一般に言われるチンパンジーである)


 『つまり、ビーリャの単位集団もミナミチンパンジー同様にオスによって継承され、メスが移籍する父系的集団である。ミナミチンパンジーでは、経産のメスも発情するとしばしば所属単位集団を変えるが、ビーリャの経産メスは安定した存在である。

 ビーリャのメスは、初発情後、単位集団間を往復しはじめ、初産(13歳以降)までに所属集団を決定するようだ。

 そして「嫁入り」はただ一回しかなく、そこを終生の住みかとするらしい。これでミナミチンパンジーとピグミーチンパンジーはともに父系的傾向を持つことが明らかになったのである。』(ビーリャとピグミーチンパンジーとは、同じと考えて差し支えない)


 『何にも増して性行動ほどビーリャの世界を特徴づけているものはない。そのシンボルが、あの巨大なピンクの性器である。暗い森の中でこれほど目立つものはない。また、高木に登ればこれほど光に美しく映えるものはない。

 しかも、それだけで一頭一頭が識別できるほどに個性的な形状をしているのである。一方、オスのほうはといえば、暗い森中では姿、形さえさだかではなく、光を浴びてやっと顔と性器が判別するのである。

 メスはいわば見せる者であり、オスは見る者なのだ。ビーリャのメスは、ニホンザルのように、発情していてもそれとわかるような匂いはしない。また「恋鳴き」といったものもしないし、通常の声もオスのそれとそう変わらない。ビーリャの性は視覚的なのである。』


 『出産後、ゴリラでは二、三年間、ナミチンパンジーでは、三、四年間、そのメスは発情しない。彼女たちは発情を再開すると、一ヵ月あまりの月経周期のうち、ゴリラで一日から数日、ナミチンパージーで一、二週間の発情を繰り返す。

 ところが彼女たちの多くはそれを二、三回も繰り返すと妊娠してしまい、再び長い性的不活性な期間を迎えるのだ。彼女たちにとって、発情とは完全に非日常的なできごとなのである。

 ところが、ビーリャのメスは出産後一年以内に発情を再開する。奇妙なことに、彼女たちはいくら交尾しても子供が五、六歳にならないと妊娠しない(平均出産間隔は約六年、最短例で約三年)。

 再開後最初の発情は一週間ほどしか続かないが、そのうちだんだん長期化して二、三週間以上も継続するようになる。子どもが四、五歳以上になると、発情を示す性皮は一ヵ月以上腫れっぱなしというメスが少なくない。

 若いメスははじめのころの性皮は小さいが、それでもよくもてる。先に述べた移籍メスのアエイは、湯のみ茶碗ほどの性皮だったが、みんなこぞって求愛した。ナミチンパンジーのオスはこんな若いメスは相手にせず、経産メスによく求愛するらしい。妙な対照である。

 若いメスはいくら交尾しても、十三歳ごろまでは妊娠しない。この不妊性が彼女たちの性的能力を保持させ、移籍先のあらゆる個体と親和的関係を取り結ぶ時間を保証する。彼女はその間に、さらに他の集団に移ってもよいのである。

 メスの不妊にはオスも一役買っているらしい。交尾で射精が確認できるケースはまれで、数度の交尾を繰り返してもペニスが立ったままということが多い。

 オス、メス双方にとって、大部分の交尾は生殖とは関係なく、ただ両者を結びつけるのに役立っている行為だと考えてよいだろう。』(第22回)


ブックハンター「人間であること」

2012-11-18 10:45:33 | 独学

20. 人間であること(田中美知太郎著 昭和59年)

 『人間に場合については、昔から人間の定義というものがいくつかありますが、その一つの規定は、人間は、animal rationale であるというものです。これは、ロゴスを持っている動物であるという意味です。

 これはアリストテレス、あるいはもっと前にさかのぼれる一つの人間の定義です。ただロゴスを持てるというのは二つの意味をもっています。

 一つは、ロゴスを言葉と解すること、すなわち言葉を持っている動物、言葉を持っている動物として人間を特徴づけること。

 もう一つは、計算能力という意味に解すること、すなわち、計算能力を持つ動物として人間を特徴づけることです。』


 『しかし、他面から考えると、このわずかなもの、経験の上に科学とか技術というものを発展させてきたわずかなもの、それは解剖学的にあるいは生理学的に見ればごくわずかな、脳のどこかにあるとしか考えられない一つの小さな差というものですが

 ――そこにおいてわらわれはかろうじて人間であると言われるわけですが――そのわずかなものによって、人間というものはその科学技術の発展と同じように、今日の学問というものを生んだわけです。

あるいは芸術というもの、あるいは道徳であるとか、法律であるとか、あるいは政治であるとか、いろいろなものをみな生んだわけです。

 そのわずかなところにおいて、しかしそういうものを人間が自分で、今日のいわゆる広い意味において文化とか文明とかいわれているものをつくったわけですが、この文明あるいは文化というものこそ、実は非常に人間的なものです。人間がつくったところの、独自のものです。

 そういう「つくってきたところのもの」、それがサルと人間との間の大きな差を開いているわけですね。

 人間とは何かということについては、生物学、あるいは生理学、その他いろいろなものが多くのことを教えてくれますけれども、しかし、実際はそういうところで見出されるところのものとは違った、むしろ人間の歴史のうちにおいて初めてこれを見ることが出来るような大きな領域、その人間がつくったところのものにおいて、実は人間の本質がみられるのではないかと思うのです。

 わたしは人間とは何であるかといえば、人間がつくるところのものがそれであるというふうに言ってもいいのではないかと思います。』


 『例えば哲学を勉強するという場合、科学知識のように、最新の教科書を読めばすっかりわかるということはありません。哲学概論とか最近の哲学何々とかいうものを、いくら読んでも、哲学はわかりません。

 哲学を勉強する最も確実な道は、過去における偉大な哲学者が築いた業績について直接勉強する、ということよりほかはないのです。われわれが挑戦するためには、その業績について直接学ぶことです。

 これは欲張って全部を知る必要はないのです。自分が挑戦しようと思う人を徹底的に勉強することです。

 われわれの教育は、科学知識を教えることはできるが、発見を教えることは出来ません。発見は、自己による自己の仕事で、自分でやるよりほかにないのです。

その道は、過去の記録に挑戦するという意味で、過去のどれかのモデルをとって、それを真似してもいいが、それにもとづいて、それに自己を比べながら、自己を試していくという仕方で、完成していくほかはないのです。』(第21回)



ブックハンター「文明が漂う時」

2012-11-17 13:52:47 | 独学

19. 文明が漂う時(木村尚三郎著 1992年)

 『ボーダーレスの時代は、すなわち都市の時代である。様々な人がそこで出会い、互いに知恵を出し合うといった広場、つまりコミュニケーション・センターとしての都市が大きな役割を果たすのである。

 こういう都市は、国境の壁が低くなっていく今日、「国の都市」から「ヨーロッパの都市」、あるいは世界の都市という性格に変ってきている。

 海外旅行をする時、荷物に行き先のラベルが貼られるが、それはパリであれミュンヘンであれロンドンであれ、国名はいっさいなく、書いてあるのは都市名だけだ。

 都市と国はどこが違うか。国というのは、国語とか法とか、あるいは国民的な意識の統一を求める人間の集団の単位である。

 そこでは国境が重視され、国境内の人びとを内へ内へと向わせ、まとめ上げようとする力がつねに働いており、そこから国と国の対立や衝突が生じる。内に向って閉ざされた、戦争にまで発展する可能性を持った組織的な人間集団、これが国家である。

 それに対して、都市は先ほど述べたコミュニケーション・センターであることに意味がある。つまりそれは、外に向って開かれたさまざまな人間交流の場である。

 どのような人も受け入れて、言葉、風俗、習慣、歴史、伝統の違う人がそこに集い、楽しみつつ交流し、その中から知恵を出し合うのが、都市である。

 このように様々の文化を背負った人々が集まり、知的な刺激を加え合い、新しい知恵を生んでいく、そういう意味での都市の時代が、いま始まりつつあるのだ。』


 『都市としてのパリは五つのプリンシプルをもっている。歴史としてのパリ、科学技術センターとしてのパリ、芸術センターとしてのパリ、スポーツセンターとしてのパリ、コミュニケーションセンターとしてのパリである。

 そういうプリンシプルを持った都市に集い、遊び、その中でお互いに明日に生きる知恵を見出していく。そこでは生活とビジネスとレジャーの各要素が、これまたボーダーレスに渾然一体となっている。

 半ば遊びつつ、お互いに顔見知りになり、仕事が進められる。そういったことが、おいしい料理や酒、洗練されたサービス、歴史や魅力ある文化伝統、建築物などのある都市において、日常生活を通して実現される。

 むしろ、これら観光、ビジネス、生活の三点が、お互いに相乗効果を発揮して、これからの都市を育て、発展させていくことになるのだと思う。』

 『うっかりすると、アジアにおける国際的な中心地は、ソウル、シンガポール、香港、台北といった地域に奪われる可能性がある。21世紀には、アジア経済の主導権は、東京からこの四つの”ミニドラゴン”に移るだろうとジョン・ネスビッツは述べている。

 というのは、この四つの地域、またその周辺の地域は、いまアジアにおけるコミュニケーション・センターとしての自覚と位置づけに、非常に積極的だからだ。

 たとえばシンガポールのホテルは、目標を単に観光だけでなく、ビジネスと境目のないところに置いている。スイート・ルームに泊まらなくても、立派なビジネス用の机があり、スタンドがあり、電話がつけられている。

 しかも、ビジネスマンのアシスタントとして、ゲスト・リレーションというサービスまである。ビジネスマンのために街に出て、地図を買ってきたり、名刺を作ったり、資料を翻訳したり、通訳やタイピストを用意したりもしてくれる。

 台北のリッツというホテルに泊まったときのことだが、支配人が真っ先に言ったのは「わがホテルはビジネス・センターを完備しております」だった。』


 著者の言う都市論は、楽天的で良いが、都市の自由は犯罪を生み出す可能性をも孕んでいる。ハブ空港化した都市に於いて、都市で生活している住民と訪問者になんらかかの利益や知恵や活力を供給し続ける都市でなければならない。

 都市生活者のすべてに、何らかの益を供給するためには、都市として発展、充実するための手を打ち続け、その文化と環境の美しさ、文化の成熟度、治安の維持、自由度の確保など、様々な工夫を凝らし、かつ都市間競争を勝ち抜かなくてはいけない。(第20回)


ブックハンター「不実な美女か貞淑な醜女か」

2012-11-12 13:24:22 | 独学

18. 不実な美女か貞淑な醜女か(米原万里著 平成6年発行)

 『 トルストイは、「戦争と平和」の中で、「おおよそ面倒を見た側のほうが、面倒をかけた側より相手のことをいつまでも覚えているものだ」といっている。

 要するに、人間にとって、何はともあれ最大の関心事は自分で、自分の時間、自分のエネルギーや努力、自分の資金を注いだ対象ほど、愛着を覚えるものらしい。母国語についてもまったく同じことが言える。

 小学校三年から中学二年に相当する時期を両親の仕事の都合でチェコスロバキアの首都プラハで過ごした私は、ソ連大使館付属の、すべての授業を本国のカリキュラムに基づきロシア語で教える八年制普通学校に通った。

 それまで日本の区立の小学校に通っていた私は、彼らにとっての母語に当たるロシア語の授業と日本の学校での「国語」の教え方とのあまりの違いに驚いた。

 まず、アルファベットを習い覚えた入学半年目で、ロシア語の授業は文学と文法にハッキリ分けられ、三年までは、一週間24コマのうち半分を占める。四年、五年で三十コマ中十~十二、六年生以降四分の一以上占める配分になっている。

 文学の授業は、次の四点を特徴とする。その一。子供用にダイジェストされたり、リライトされてない文豪たちの実作品の多読。

 学校付属図書館の司書が、学童が借りた本を返す都度、読み終えた本の感想ではなく、内容を尋ねる。本を読んでない人にも、その内容を分かりやすく伝える訓練を、こうして行う。そのうえで、もちろん感想も聞かれる。

 その二。古典的名作と評価されている詩作品や散文エッセーの主なものの暗唱。低学年では、週二編ほどの割合で大量の詩作品を暗記させられていく。

 その三。小学校三年までは日本で過ごした私の経験では、国語の時間、「では、何々君読んでください」と先生に言われて、間違いなく読めたら、それでおしまい、座ってよろしいだったのが、ソ連式授業では、まずきれいに読みおえたら、その今読んだ内容をかいつまんで話せと要求される。

 一段落か二段落読まされると、その都度、要旨を述べない限り座らせてもらえない。
非の打ちどころなく朗々と声を出して読みながらまったく内容が頭に入ってこないということは、往々にしてあるもの。ところが、この方式で訓練を受けると、自分の読む速度とシンクロナイズされる。

 かつ、自分でかいつまんで他人に伝えねばならないから、読み方が立体的、積極的になるという効用がある。ただ受け身で平坦なものが羅列的に頭の中に入ってくるのではなくて、自分の主観を一切まじえないでテキストの内容を立体的に把握しようとする習性が身につく。

 その四。作文の授業は、主題を決めると、そのテーマに関する名作を数編まず教師が読んで聞かせる。例えば「友人について」という題で作文を書く場合は、ツルゲ―ニェフの「片恋」のアーシャや、トルストイの「戦争と平和」のナターシャ・ロストーワという女主人公の描写の場面の抜き書きを読ませたうえで、そのコンテを書かせる。

 一 語り手が初めて出会ったときの様子の描写。第一印象。
 二 顔、口、目の動きなど容貌の描写。
 三 立ち居振る舞い、癖、声などの描写。
 四 どんな場面でどんなことをしゃべり、どんな反応をするか、いくつかの例。
 五 以上から推察される性格。
 六 他人との関係。
 七 自分との交流。
 八 ある事件を通しての成長、新しい発見。 
という、テキストの構造図のようなものようなものを書かせるのである。そのうえで、今度は自分がしたためようと思っている、友人に関する作文のコンテを書かされる。このコンテに基づいて、文章を綴るのである。

 実は、ロシア語の授業に限らず、歴史も地理も数学も生物も物理も化学も○×式のテストは一切なく、すべて、口頭試問か、小論文形式の知識の試し方であったから、プレゼンテーション能力を要求するものであり、結局ロシア語による表現力を鍛えるものであった。

 文法の授業は、母語を徹底的に客観的に分析しよう、その構造を冷ややかに突き放して明らかにしようというもの。ここでは外国語のように意識的な認識の対象にされる。

 中学二年の三学期に日本に帰国し、近所の区立中学校に編入した私は、高校受験用として覚えさせられる文学史に載るような作品を、ほとんど同級生の誰もが読んでないことにショックを受け、作文の際、点(、)の打ち方について教師に尋ねて、納得のできる答えを得られず驚き呆れ、国語のテストで、「右の文章を読んで得た感想を、左のア~オの中から選べ」と求められたのにぶったまげた。 』


 『 この本のタイトルは大変不思議と思われたかもしれませんが、原文に忠実かどうか、原発言を正確に伝えているかどうかという座標軸を、貞淑度をはかるものとし、原文を誤って伝えている、あるいは原文を裏切っているというような場合には不実というふうに考える。

 そして訳文のよさ、訳文がどれほど整っているか、響きがいいかということを、女性の容貌にたとえて、整っている場合は、美女、いかにも翻訳的なぎこちない訳文である場合には、醜女というふうに分類すると、この組み合わせは四通りある。

 「貞淑な美女」、「不実な美女」、「貞淑な醜女」、「不実な醜女」の四通り。
どんな通訳あるいはどんな翻訳が最も望ましいかというと、これは無論文句なく、「貞淑な美女」が一番いい。そして最も困る訳は、「不実な醜女」ということになる。

 ところが、この稼業、お仕えする旦那(テーマも発言者も)めまぐるしく替わっていくのを特徴とし、相性のいい時は「貞淑な美女」を演じきれても、いつもそうであり続けるのは、人間業を超えて不可能。

 「不実な醜女」ばかりやっていると、お声がかからなくなって、稼業が立ちゆかなくなる。そんなわけで、世の中の通訳者は、圧倒的多数の場合において、「不実な美女」と「貞淑な醜女」をしているのである。

 では、「不実な美女」と「貞淑な醜女」とどちらがいいかというと、たとえばパーティーのような席では、どちらかというとムードが大切なので、「不実な美女」が大切で、何億もの商談の場合は、正確に伝わる「貞淑な醜女」のほうが重要である。 』(第19回)


ブックハンター「孫子」

2012-11-06 10:29:51 | 独学

17. 孫子 (孫武著 紀元前480年)

 孫子は、紀元前480年に書かれた兵法書である。この兵法書は多くの解説書がある。私も何冊か読んで、それぞれにすばらしいが、一つだけ不満なことは、それを読む人が、太平洋戦争を分析するために、企業の経営者として、企業戦略のために読んでるわけではない。

 多くの読者は、有能な経営者や軍の参謀や官庁の企画課長ではなく、むしろ私のように無能な悩めるサラリーマンか、むしろ職すらない人の方が、大多数である。この前提の時、この兵法書をどのように読み解くべきかを考察する。

 この兵法書の中で私が扱うのは、次の一文のみとする。”彼(カレ)を知り己(オノレ)を知れば、百戦して殆(アヤウ)からず”

 この兵法書は、戦いの兵の用い方を分析し、体系化したものである。しからば、戦争や企業間の競争にしか活用できないか。私は、この兵法書を自分の能力を高めるための戦いに活用すべきであると考える。

 まず、戦いとは、一般に白兵戦を想定していると思うが、実際には、様々な国力、経済力、技術的な武器の優劣(例えば、鉄器)、食料補給の優劣、君主の知力、参謀の情報集積力、分析力、火力の優劣、外交能力の優劣、貨幣の信用力等々と白兵戦の前に非常に多くの集積があり、多くの場合、白兵戦の前に勝敗は決定される。

 更には、国家間は交易により、国境に於ける人的文化的交流もあり、様々な情報や貨幣までも交流があり、共生している視点も忘れてはいけない。生存競争の動物であっても、先人たちも無意味な争いを避けてきた。


 自分の能力を高める戦いの武器とは何か。例えば、絵筆であり、万年筆であり、ピアノであり、数式であり、楽譜であり、英語の辞書であり、様々な武器によって、戦うことになる。

 個人に於いても、多くの先人が自分の能力を高めるために道具を作り、言葉を完成させ、文字を発明し、鉄器を発明し、数式を完成させ、楽譜を完成させた。

 これらの文明の資産の一つでも、二つでも自分のものにし、これらの武器を自分の脳と手の延長として、戦わなければならない。

 ”彼を知り己を知れば、百戦して殆からず”の彼(敵)は、自分の能力を発揮すべき事柄である。自分の能力が発揮すべき事柄は、ただ本を読んだりするだけでは、その入口に到達できない。

 私のチェロの例で言うと、バッハの無伴奏チェロソナタを弾きたくて、チェロと弓とバッハの無伴奏チェロソナタの楽譜を買ってきて、楽譜の読めない自分、弦の音程を合わせられない自分、チェロの指盤には印がないので途方に暮れる自分、楽譜を暗譜できない自分を発見する。

 これは、チェロを弾くという1つの課題が、数個の絶望的課題に拡大した状態に陥った。これは前進したのではなく、明らかに後退しているが、戦いとはこのように問題点を露出させる。

 ここでもう一度、彼(敵)が何かが少し理解でき、己(自分)がどこに位置し、そのギャップを埋めるために、絶望的な戦いと準備が必要であることを理解する。

 私は、30歳の時フランスのチェリスト、モーリス・ジャンドロンの演奏会を聴いてそう考えたのであるが、悩めるサラリーマンには習いに行く時間も、ゆとりのなかったが現在まで、細々と続けてきた。そして、62歳で退職し、65歳の現在もチェロを自分なりに楽しんでいる。

 チェロの入門書も数冊読んで、弦楽器の本も多数読んだが、一番自分の味方になってくれたのは、比較的易しい名曲である。これは、歌謡曲でも、ポピラー音楽でも、クラッシクでも、民族音楽でも、下手に弾いてもその曲のキャパシィティが大きいため、自分としては楽しめるのである。

 優れたチェリストの演奏を聴いて分析した結果、彼らのチェロの音色は一音だけを弾いてもすでに美しいのである。弦楽器は八割が右手の弓運であるとも言われている。もちろん、楽器も上は億単位であり、弓も上は百万単位である。

 あるヴァイオリニストは、自分の新しい名器と相性の合う弓を数十本を2,3年かけて選んだという話すらある。

 そこで私が現在チェロを楽しみ、何とか他人にも聴いてもらうための、戦法はピッチカートによる戦法であり、歌謡曲、ポピラー音楽、クラッシク、民族音楽の中から名曲を掘り起こし、自分のレパートリーにする戦法である、そのためには、より多くの楽譜(これは、ピアノ、ギター、声楽のための楽譜でよい)を手当たり次第に試してみる戦法である。

 つぎに、”彼を知り己を知れば、百戦して殆からず”のなかで、選択(あるいは決断)は、大は国家間の戦争の決断から、小は昼食の選択まである。ここで、自分にとって、昼食の決断は、ある意味米国のイラク戦争の決断よりも重いと考えるべきかもしれない。

 なぜなら、自分の身体は、他の生命体の命をいただいて、自分が食べたものの集積であり、自分の体の分子は2~3年で入れ替わっている。これは、代謝であり、放射性同位元素の追跡で証明されている。

 この選択を考える時、より多くの選択余地の中から選択することも重要である。イラン戦争で言えば、毒ガスや生物兵器の信憑性、イラクを孤立させないためのイラクの近隣諸国と連携の選択子が用意されるべきであったか!

 自分の能力を高めるために、時間とお金をどう使うべきかも重要な選択である。自分の能力を高めるためにやってはいけないことは偽りの指南書を真に受けること、偽りの指南書を見抜く力を身につけなければいけない。

 まず他力本願的なものは、ほぼ偽りである。寝ていて英語が上達する、億万長者になる方法を教えます…。自分を鍛錬することなく、健康も、自分の能力を高めることも、あり得ない。ただその道の達人の指導を受けることは、非常に良い方法である。

 ”彼を知り己を知れば、百戦して殆からず”ではあるが、争い(キレル)は、個人でも、国家でも、争いを回避することが戦略として重要である。

 ただし、自分の能力を発揮するための戦いを自分の哲学に従って、最良の選択は何かを常に実践すべきである。

 己とは、自分が食べてきた食物の集積であり、己とは、自分が選択してきた結果の集積であり、己とは、自分が読んできた読書の集積であり、己とは、自分と接してきた家族や友達や同僚の集積である。

 ”彼を知り己を知れば、百戦して殆からず”彼(敵、目的)を知ることも、己(自分がどのような能力があるか)を知ることも意外と難しいことである。本来は、自分の能力でお金を得るための近道は、意外にお金に囚われない方が、近道かもしれない。(第18回)