チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「奪われし未来」

2012-12-30 12:58:12 | 独学

30. 奪われし未来 (シーア・コルボーン著 1997年発行)
    (Our Stolen Future by Theo Colbrn,Dianne Dumannoski,and John Peterson Myers Copyright 1996 長尾力訳)

 『 環境問題に関してはいわば「歴戦の勇士」だったコルボーンにもなかなか払去れない負い目があった。相手を説き伏せる「権威」をもちあわせていなかたのである。

 こちらに学位がないとわかると、すぐに「迷惑な善行家」「テニス・シューズをはいた小柄な老婦人」という目で見られてしまう。

 知的好奇心に燃えたコルボーンは、それまで独学で身につけてきた知識に大いに触発されてもいた。こうしてコルボーンは51歳の年に、大学院生として新たな門出をむかえた。

 そしてコロラドの西の斜面をとぼとぼと歩き回って方々の水を採取しては、生態学の
修士論文を書き上げることにしたのである。

 男性の指導教官の中には、こんな年を食った大学院生の指導に力を注ぎ込んでも仕方がないという者もあった。

 それでも、コルボーンは、必死で食い下がり、ねばりにねばった挙句にとうとう博士号を取得したのである。』


 『 そもそもの奇妙な現象に関する数百にも及ぶ研究をどうすれば一つの絵柄に組み立てられるのだろうか?

 汚染地域のアジサシはなぜ、巣を見捨ててしまったのだろう?またアジサシの雛に広く見られた奇妙な衰弱は、一体何を意味していたのだろう?

 メス同士でつがいになっていたセグロカモメの報告例があった。しかし、作業が手に負えないほど厄介に思えたときですら、自分はまだついているという実感がコルボーンにはあった。

 実際、五大湖の環境調査に科学者として参加できたのは願ってもないチャンスだった。

 コルボーンは当時58歳ですでに孫もおり、ウィスコンシン大学から動物学の博士号を取得したばかりだった。』


 『 コルボーンの机の上には、野生動物関連のファイルが山のようにつまれていたが、今度はこれに内分泌学の教科書の数冊が、新たに加わることになった。

 まず内分泌系の基礎知識からマスターしようと考えたコルボーンだったが、この作業は実際にやってみると、ひどくストレスのたまるものであった。

 内分泌学の教科書は、分厚く、読みにくかったし、頭字語がいっぱいで、常に前のページを繰って意味を確認しなければならなかった。

 結局コルボーンが内分泌学の勉強に集中できるよういなったのは、実践向きで、わかりやすい「臨床内分泌生理学」を手にしてからのことだった。

 コルボーンは、この教科書をその後数ヵ月ほど、肌身離さず持ち歩いた。

 ホルモンに焦点を絞ってみると、いままでは見過ごしてきたデータが新たな意味を帯びてきた。

 コルボーンはふと、スウェーデンの毒物学者ベングトンソンの基調講演を思い出した。

 ベングトンソンはバルト海での合成有機塩素系の化学物資による汚染が進行してゆくにつれて、魚の精巣が小さくなってきた事実を事細かに報告していた。

 これは、ホルモン作用が攪乱されている証拠だろうか?

 そこでコルボーンはもう一度、ハクトウワシに現れた異常なつがいの行動についての報告を検討することにした。 

 この異常行動は、卵の殻が薄くなったり、ハクトウワシの個体数が激減する以前から確認されていた。ハクトウワシは以前から、つがい行動には一切興味を示さなくなっていたのだ。

 「これはおそらく、ホルモン作用が攪乱されてしまったためだろう」コルボーンはそう考えた。

 ファイルを綴っていてぞっとしたことは、このほかにもいろいろあった。しかもそこからは、ある共通したパターンが浮かび上がろうとしていた。

 鳥類、哺乳類、魚類にはどうやら共通した生殖問題が現れているようだった。』


 『 研究が最終期限を迎えるころまでには、コルボーンは、優に2,000本を超える科学文献と500種類もの政府刊行物に目を通していた。

 コルボーンは自分がまるで鼻の効くビーグル犬にでもなったかのように感じていた。

 この先どうなるかについては見当もつかなかったが、持前の好奇心と直観力に駆られて、ジリジリと獲物を追いつめていたのである。

 コルボーンは、興味深い類似現象を多数見つけ出していたし、いろいろの研究の間に響き合うものが多々あることにも、気づいていた。

 すべてのピースが何とか一つに組み上がりそうだという感触がコルボーンにはあった。

 手持ちのデータをすべて並べてみれば、どんな絵柄になるかがはっきりつかめるかもしれなかった。

 コルボーンはとりあえず、これまでの研究成果を、記録台帳に書き込んでみた。

 「個体数の減少」「生殖の減少」「生殖効果」「腫瘍」「衰弱」「免疫抑制」「行動変化」といった分類項目欄にデータを記入していくうちに、コルボーンは、五大湖に棲息する43種類の野生生物の中でも、特に多くの問題がもち上がっている十六種に焦点を絞り込んでいた。

 コルボーンは、椅子の背にもたれたまま、でき上がったリストに目を通してみた。

 ハクトウワシ、マス、セグロカモメ、ミンク、カワウソ、ミミヒメウ、カミツキガメ、アジサシ、ギンザケ。

 さて、ここには一体どんな共通点があったのだろうか?ここに挙げた野生生物はみな、五大湖の魚を食べて生きている生物の頂点に立っていた。

 五大湖では、PCBのような汚染物質の濃度はかなり低いので、通常の水質検査ではその濃度を測定することはできない。

 しかし、この残留性の高い化学物質は、組織的に濃縮され、食物連鎖の頂点へと登りつめていくにつれ、その蓄積量も指数関数的に増していくのである。

 分解されぬまま体脂肪中に蓄積されていった化学物質の濃度は、セグロカモメのような食物連鎖の頂点に立つ生物では湖水の2500万倍にもなる。

 このスプレッドシートからもう一つ、驚くべき事実が浮かび上がってきた。

 科学文献によると、健康上の問題が現れたのは主に野生生物の子どもであって、親にはこれといった異常は見られなかった。

 次世代に及ぼす化学物質の影響については、コルボーンも以前からずっと考えていた。

 とはいえ、これほどまでに鮮やかな対照性が野生生物の親子の間で見られるとは思いもよらなかったのである。

 いまや、情報のピースは、一つの絵柄にまとまりかけていた。

 親の体内から検出された化学物質が有害であれば、それはまさに世代を、超えて譲り渡された「有毒の遺産」であり、胎児や生まれたばかりの子どもにも被害を及ぼすはずだ。

 これは、背筋がゾッとするほど恐ろしい結論だった。

 カモメには、メス同士のつがいや奇妙な行動が見られたし、ミミヒメウには、内反足をはじめとして、背骨の湾曲、嘴の奇形、目の先天的欠如といった重度の障害がはっきりと現れていた。

 しかし、コルボーンは勘を頼りに得た結論を再検討していると、混沌とした情報の断片から、あるパターンが浮かび上がってきた。

 すでに挙げた現象はいずれも発達異常であり、そのほとんどがホルモンによって誘発されたものだ。

 おそらく大半の現象が内分泌系の攪乱と連動しているにちがいない。

 こうした洞察がきっかけとなり、コルボーンは研究の方向を子どもが生まれてすぐ死んでしまう野生生物の組織から頻繁に検出された化学物質に関する文献を手当たりしだいに読みはじめた。

 野生生物の脂肪から検出された各種の「有毒の遺産」には内分泌系に作用するという共通点があった。

 内分泌系とは、生態機能のかなめともいえる生理プロセスをつかさどり、出生前の発生を促す系である。

 「有毒の遺産」はホルモン作用を攪乱していたのである。』


 『 マウスのような哺乳類には子宮内のホルモン・レベルのわずかな変化をも敏感に察知する鋭い感覚が備わっているが、これは長い進化の歴史の中でかたちづくられてきたものだ。

 この柔軟な適応力のおかげで、子孫には多種多様な変異が生じてきた。

 しかもその多様性は遺伝子が生む多様性をはるかにしのぐものである柔軟な適応力とは、哺乳類が急激な環境変化を生き抜くための「賭け」にも似た賢い戦略なのだ。

 子孫繁栄の最適条件が割り出せないとなれば、あらかじめいろいろな種類の子孫をつくっておくことが最善の策となるだろう。

 そうしておけば、少なくともそのうちのいくつかは環境の激変に適応することもできるからである。』


 『 1962~1971年にかけて、米軍は1900万ガロン(1ガロン3.8L)を上回る合成除草剤をヴェトナムの1万5千Km2もの地域に散布した。

 この作戦に投入された主な化学兵器の一つが、オレンジ剤だった。これは、除草剤2,4-Dと2,4,5-Tとの混合物だ。

 ダイオキシンは通常2,3,7,8-TCDDでこの他にも74種あり、フラン類とはダイオキシンに似た構造と毒性を持った135種類の化学物質からなる化合物群だ。』


 『 ホルモン作用攪乱物質は、環境でごくふつに検出される程度のレベルであれば細胞死も引き起こさないし、DNAも傷つけない。

 この化学物質のターゲットは、ホルモンだけなのだ。ホルモンは体中に張りめぐらされたコミュニケーション・ネットワーク内を絶えず循環している化学メッセンジャー(化学伝達物質)である。

 それに対してホルモン様合成化学物質というのは、生体の情報ハイウェーに住みついて、生命維持に不可欠なのコミュニケーションを寸断してしまう暴漢のような役割を演じる。

 化学信号を混乱させ、はてはニセ情報をばらまいたり、悪行の限りを尽くす。

 ホルモンのメッセージは、性分化から脳の形成にいたる実に多様な発育プロセスにかかわり、コーディネーターという大役を演じているのだ。

 成人にはこれといった影響が出ないような比較的低レベルの汚染物質でも、胎児には致命的な打撃となる場合がある。

 五体満足で健康な赤ん坊が生まれるかどうかは、妊娠中のしかるべき時期に、しかるべきホルモンメッセージが正しく胎児に送り届けられるかどうかにかかっている。

 この種の毒物汚染を考える場合、何よりも大切なのは、化学メッセージという発想だ。』(第31回)


ブックハンター「郷愁の詩人 与謝蕪村」

2012-12-28 09:03:28 | 独学

29. 郷愁の詩人 与謝蕪村 (荻原朔太郎著 昭和63年発行、昭和11年初出)

 『 僕は生来、俳句と言うものに深い興味をもたなかった。興味を持たなかったというよりは、趣味的に俳句を毛嫌いしたのである。

 何故かというに、俳句の一般的特色として考えられる、あの枯淡とか寂びとか、風流とかいう心境が、僕には甚だ遠いものであり、趣味的にも、気質的にも容易に馴染めなかったからである。

 反対に僕は、昔から和歌が好きで、万葉や新古今を愛読していた。和歌の表現する世界は、主として恋愛や思慕の情緒で、本質的に西洋の抒情詩とも共通するものがあったからだ。

 こうした俳句嫌いの僕であったが、唯一つの例外として、不思議にも蕪村だけが好きであった。なぜかと言うに、蕪村の俳句だけが僕にとってよく解り、詩趣を感得することが、出来たからだ。

 彼の詩境が他の一般の俳句に比して、遥かに浪漫的の青春性に富んでいるという事実である。したがって彼の句にはどこか奈良朝時代の万葉歌境と共通するものがある。

 例えば春の句で

 遅き日の つもりて遠き 昔かな
 行く春や 逡巡として 遅桜  (しゅんじゅん おそざくら)
 菜の花や 月は東に 日は西に

 等の句境は万葉集の歌「 うらうらと 照れる春日に 雲雀あがり 心悲しも 独りし思えば 」と同工異曲の詩趣であって、春怨思慕(しゅんえんしぼ)の若々しいセンチメントが句の情操する根底を流れている。』

 
 『 蕪村は不遇の詩人であった。彼はその生存した時代において、ほとんど全く認められず、空しく窮乏の中に死んでしまった。

 漸く二流以下の俳人として影薄く存在していた蕪村について考える時、人間の史的評価や名声が如何に頼りなく当てにならないかを真に痛切に感じるのである。

 すべての天才は不遇でない。ただ純粋の詩人だけはその天才に正比例して、常に必ず不遇である。

 殊に就中(なかんずく)蕪村の如く、文化が彼の芸術と逆流しているところの、一つの「悪しき時代」に生まれたものは、特に救いがなく不遇である。

 蕪村の価値が始めて正しく評価されたのは彼の死後百数十年を経た後世、最近明治になってからのことであった。

 換言すれば、詩人蕪村の魂が詠嘆し、憧憬し、永久に思慕したイデアの内容、即ち彼のポエジィの実体は何だろうか。

 一言にして、言えば、それは、時間の遠い彼岸に実在している、彼の魂の故郷に対する「郷愁」であり、昔々しきりに思う、子守唄の哀切な思慕であった。

 実にこの一つのポエジィこそ、彼の俳句のあらゆる表現を一貫して、読者の心に響いて来る音楽であり、詩的情感の本質を成す実体なのだ。』


 『 藪入りの 寝るや小豆の 煮える中 (あずき うち)

 蕪村は、他人の薮入りを歌うのではなく、いつも彼自身の「心の薮入り」を歌うのだ。

 彼の亡き母に対する愛は、加賀千代女の如き人情的、常識道徳的の愛ではなくって、メタフィジックの象徴界に縹渺(ひょうびょう)している、魂の哀切な追懐であり、プラトンのいわゆる「霊魂の思慕」とも言うべきものであった。

 英語にスイートホームという言葉がある。郊外の安文化住宅で、新婚の若夫婦がいちゃつくという意味ではない。

 蔦かずらの這う古く懐かしい家の中で、薪の燃えるストーヴの火を囲みながら、老幼男女の一家族が、祖先の画像を映すランプの下で、むつまじく語り合うことを言うのである。

 詩人蕪村の心が求め、孤独の人生に渇きあこがれて歌ったものは、実にこのスイートホームの家郷であり、「炉辺の団欒」のイメージだった。』


 『 葱買って 枯木の中を 帰りけり

 と歌う蕪村は、常に寒々とした人生の孤独を眺めていた。そうした彼の寂しい心は、炉に火の燃える人の世の侘しさ、古さ、なつかしさ、暖かさ、楽しさを、慈母の懐抱(ふところ)のように恋い慕った。

 何よりよりも彼の心は、そうした「家郷」が欲しかったのだ。』


 『 薮入りの 夢や小豆の 煮えるうち

 薮入で休暇をもらった小僧が、田舎の実家へ帰り、久しぶりで両親に逢ったのである。子供にご馳走しようと思って、母は台所で小豆を煮ている。そのうち子供は、炬燵にもぐり込んで転寝(うたたね)をしている。

 今日だけの休暇を楽しむ、可憐な奉公人の子供は何の夢を見ていることやらと言う意味である。

作者が自ら幼時の夢を追憶して、亡き母への侘しい思慕を、遠い郷愁のように懐かしんでいる情想の主題(テーマ)を見るべきである。』(第30回)



ブックハンター「地球のささやき」

2012-12-21 10:33:55 | 独学

28. 地球(ガイヤ)のささやき 龍村仁著 1995年発行)

 『 ダフニーさんは、ナイロビ国立公園で動物の孤児院を運営している。そこで象牙密猟者のために親を殺されたゾウの赤ちゃんを育て、野生に帰す活動を三十年以上にわたって続けているのです。

 エレナはダフニーさんが初めて育てたメスのゾウです。エレナは三十歳を過ぎた現在でも、ダフニーさんが三歳まで育てた孤児たちを預かり、一人前に成長するまで、養母の役割を果たしていました。

 この日は、ダフニーさんとエレナが半年ぶりに再会するシーンを撮る予定だったのです。適当な位置に立ってもらい「エレナ」と呼んでもらうことにしたのです。

 するとどうでしょう。ハット気がつくくらい何百メートルも先から一頭のゾウがやって来たのです。

 そしてすぐ手の届く距離まで接近したとき、何のためらいもなく、エレナは自分の鼻でダフニーさんの体を抱きしめ、まるでいとしむように彼女の背中を撫でるのです。

 私はエレナと目が合いました。するとエレナはダフニーさんの体から鼻を外し、真っすぐこちらに向かってきたのです。

 突然のことにスタッフは、慌てました。するとエレナは目の前までやって来て、鼻で私の体を抱き、やさしく背中を撫でてくれるのです。

 その瞬間は、エレナがゾウであること、ここがアフリカであることなど一切忘れていました。私にとってそれほど熱い感動だったのです。』


 『 イタリアの登山家ラインホルト・メスナーは、世界でただ一人、単独で世界の八千メートル峰、全山十四座を制した男です。

 「私は山を征服したのではありません。登れるということを証明したのでもない。ただひたすら、私は自分を知りたかったのです。

 この有限の肉体を持った裸の私が、生命の存在を許さぬ死の地帯で、どこまで命の可能性を広げることができるかを知りたかったのです。

 だから、大きな組織や科学技術の助けを借りて山に登ることは、私にとって、意味がなかったのです。」

 実際、1970年には、弟ギュンターを亡くし、自らも六本の足の指を失っています。彼は下山途中、八百メートルもの崖を墜落しました。

 このとき彼は落ちてゆく自分を上から静かに見つめている、もう一人の自分がいることに気づきます。

 そして、人間は普段は一方しか見えないが、実は二つの次元の中に生きているのではないかと、感じるようになったといいました。

 「私は、自分が自然の一部であるということを強く感じています。私と水や木や草との間には、なんの区別もない。同じひとつの流れの中にあるんです。

 科学や医学の進歩によって私たちは、昔の人よりずっと多くのものが見えるようになった。その代償として、なにか一番大切なものが、見えなくなっているように思うんです。」

 「科学の進歩を後戻りさせることはできないと私は思っています。しかし、人間と自然とのコンタクットを失わず、自然が伝えてくれるメッセージに素直に耳を傾けるのなら、人間はたぶん大きな過ちは犯さないだろうと思います。

 いま一番大切なことは、国や企業を糾弾するキャンペーンよりも、一人ひとりの人間の心の中の革命です。

 それも、普通の人々の普通の生活の中で心の変革が実は一番大切だと思っています」

 「八千メートル級の山を、酸素ボンベもなしに、一人で登る。この体験はだれもができることではありません。

 しかし、自分の限界をこえたメスナーの体験を映画を通して、皆で分かち合い」こそが、私たちは地球の一部であるという「意識の進化」の自覚につながると信じます。』


 『 鯨や象と深く付き合っている人たちがみな、人間としてとても面白かったからだ。人種も職業もみなそれぞれ異なっているのに、彼らには独特の、共通した雰囲気がある。

 彼らは、象や鯨を、自分の知的好奇心の対象とは考えなくなってきている。鯨や象から、何かとてつもなく大切なものを学びとろうとしている。そして、鯨や象に対して、畏敬の念さえ抱いているように見える。

 人間が、どうして野生の動物に対して畏敬の念まで抱くようになってしまうのだろうか。この、人間に対する興味から、私も鯨や象に興味を抱くようになった。

 そして、自然の中での鯨や象との出会いを重ね、彼らのことを知れば知るほど、私もまた鯨や象に畏敬の念を抱くようになった。

 今では、鯨と象は、私たち人類に重大な示唆を与えるために、あの大きなからだで、数千万年もの間この地球に生き続けてきてくれたのでは、とさえ思っている。

 大脳皮質の大きさとその複雑さからみて、鯨と象と人は、ほぼ対等の精神能力を持つ、と考えられる。すなわち、この三種は、地球上で最も高度に進化した”知性”を持った存在だ、と言うことができる。

 実際、この三種の誕生からの成長過程はほぼ同じで、あらゆる動物の中で最も遅い。一歳は一歳、二歳は二歳、十五、六歳でほぼ一人前になり、寿命も六、七十歳から長寿の者で百歳まで生きる。

 本能だけで生きるのではなく、年長者から生きるためのさまざまな知恵を学ぶために、これだけゆっくりと成長するのだろう。

 この点だけみると鯨と象と人は確かに似ている。しかし、誰の目にも明らかなように、人と他の二種とは何かが決定的に違っている。

 現代人の中で鯨や象が自分たちに匹敵する”知性”を持った存在である、と素直に信じられる人は、まずほとんどいないだろう。

 それは、我々が、言葉や文字を生み出し、道具や機械をつくり、交通や通信手段を進歩させ、今やこの地球の全生命の未来を左右できるほどに科学技術を進歩させた、この能力を”知性”だと思い込んでいるからだ。

 この点だけから見れば、自らは何も生産せず、自然が与えてくれるものだけを食べて生き、後は何もしないでいるようにみえる鯨や象が、自分たちと対等の”知性”を持った存在とはとても思えないのは当然のことである。

 しかし、六〇年代に入って、さまざまな動機から、鯨や象たちと深い付き合いをするようになった人たちの中から、この”常識”に対する疑問が生まれ始めた。

 鯨や象は、人の”知性”とはまったく別種の”知性”を持っているのではない?あるいは、人の”知性”は、この地球(ガイア)に存在する大きな知性の、偏った一面の現れであり、もう一方の面に、鯨や象の”知性”が存在するのではないか?という疑問である。

 この疑問は、最初、水族館に捕らえられたオルカ(シャチ)やイルカに芸を教えようとする調教師や医者、心理学者、その手伝いをした音楽家、鯨の脳に興味を持つ大脳生理学者たちの実体験から生まれた。

 彼らが異口同音に言う言葉がある。それは、オルカやイルカは決して、ただ餌がほしいがために本能的に芸をしているのではない、ということである。

 彼らは捕らわれの身となった自分の状況を、はっきり認識している、という。そして、その状況を自ら受け入れると決意した時、初めて、自分とコミュニケーションしようとしている人間、さしあたっては調教師を喜ばせるために、そして自分自身もその状況の下で、精一杯生きることを楽しむために、”芸”と呼ばれることを始めるのだ。

 水族館でオルカが見せてくれる”芸”のほとんどは、実は人間がオルカに強制的に教え込んだものではない。オルカのほうが、人間が求めていることを正確に理解し、自分の持っている超高度な能力を、か弱い人間(調教師)のレベルに合わせて制御し、調整をしながら使っているからこそ可能になる”芸”なのだ。

 たとえば、体長七メートルもある巨大なオルカが、狭いプールでちっぽけな人間を背ビレにつかまれせまま猛スピードで泳ぎ、プールの端にくると、手綱の合図もないのに自ら細心の注意を払って人間が落ちないようにスピードを落としてそのまま人間をプールサイドに立たせてやる。

 また水中から、直立姿勢の人間を自分の鼻先に立たせたまま上昇し、その人間を空中に放り出しながら、その人間が決してプールサイドのコンクリートの上に投げ出されず、再び水中の安全な場所に落下するよう、スピード・高さ・方向などを三次元レベルで調整する。

 こんなことが果たして、ムチと飴による人間の強制だけでできるだろうか。ましてオルカは水中にいる七メートルの巨体の持ち主なのだ。

 そこには、人間の強制だけでなく、明らかに、オルカ自身の意思と選択が働いている。狭いプールに閉じ込められ、本来持っている超高度な能力の何万分の一も使えない過酷な状況に置かれながらも、自分が”友”として受け入れることを決意した人間を喜ばせ、そして自分も楽しむオルカの”心”があるからこそできることなのだ。』(第29回)


ブックハンター「大健康力」

2012-12-12 13:47:13 | 独学

27. 大健康力 (塩谷信男著 1997年発行)

 『 「正心調息法」は、一種の呼吸法で正心と調息の二面から成っている。正心とは、一口でいえば、心の正しい使い方のことです。

 一.物事はすべて前向きに考える。
 二.感謝を忘れない。
 三.愚痴をこぼさない。

 この三つを平素から心掛けながら、次の調息法を実行します。

 一.姿勢
 背筋は真直ぐに伸ばして座る。肘を直角に曲げて両手を組む。丸い玉を両手で包むように組む

 二.息法
 吸息、充息、吐息、小息、静息に分かれる。

 ① 吸息(息を吸い込むこと)
  鼻から静かに息を吸い込む。胸一杯に、肺の底まで吸い込む。

 ② 充息(息を止めること)
  吸い込んだ息を下腹に押し込む。同時に肛門を閉める。丹田に力を込め息を止めた まま数秒こらえる。

 ③ 吐息(息を吐き出すこと)
  鼻から静かに、息を吐き出す。腹の力を静かに抜き、腹をへこます。

 ④ 小息(小さな呼吸のこと)
  普通の呼吸を一つする。

 以上の①から④を一呼吸(一サイクル)として、25回行う。
 ⑤ 静息(静かな呼吸のこと)
  25回終わったら、丹田に軽く力を込めたまま、静かに、ゆっくりと普通の呼吸を 十回する。

 さらに正心調息法の特徴は、この呼吸の際に、想念と内観を行うことです。この状態のときは、潜在意識に自分の思いを植え付けやすく、想念と内観によって、宇宙の無限の力を体内に取り込みます。

 また、これは、人生百般のことにも応用できます。私はこの宇宙の力を利用して、様々な困難を乗り越えてきました。

 何か困ったときや、人生の岐路に立ったとき、この力と一体になることによって、生きる活力が湧いてくるのです。

 ○ 吸息の間…宇宙の無限力が丹田に収められた。そして全身に満渡ったと心の中で念ずる。

 ○ 充息の間…全身がまったく健康になった。あるいは、何か治したい病気があれば、その病気が治ったと念ずる。一つの病気を五回づつ合計5つの病気を念じ、治したい病気が5つなければ、治したい病気を念じた後に、そのうちで特に治したい病気を念じる。

 ○ 吐息の間…全身がきれいになった。芯から若返ったと念じる。

 ○ 静息の間…このときは想念を止めて、いわゆる無念無想の境地に入ってもよし、また自分で公案をつくってもよい。(公案とは、坐禅工夫させる問題)例えば「自分は大宇宙と一体になった」とか、「短気が直った」とか、自分の自由時間であるから、どう使ってもよい。』


 『 多くの場合、健康とは丈夫な体、病気にならない強い体……など、体力を中心とした身体に重点が置かれているのではないかと思われます。しかし果たして体が丈夫なだけで、人間は健康と言えるでしょうか?

 私は健康という言葉の中に、体の健康である体力に加え、心の健康である精神力、そして英知の健康である知力の3つがふくまれているのではないかと考えます。もちろんこの3つの一つでも欠けていれば、人間は決して健康とは呼べません。

 3つの健康は、決してそれぞれが独立したものではありません。互いに影響し、バランスを取り合い、共存して人間の健康を実現しているのです。

 さらに一歩進んで、私はこの3つの健康、すなわち精神力、知力、体力が最も充実した状態こそ、本来人間が人間としてあるべき正常な姿なのではないかと考えています。言い換えれば個人個人がそれぞれの天分として、持てる能力を最も発揮できる姿といっていいかもしれません。』


 『 インドの神秘的身体論に、チャクラという概念があります。いわば生命のエネルギーの集積所とでもいったものが、脊髄に沿って存在し、その数は7つあり、臍下丹田もその一つに数えられるものです。

 ヨーガは生命エネルギーである息(プラーナ)を止め、それを体に充満させる手段です。そうしてこのチャクラを活性化させ、最終的には宇宙の根本原理であるシバ神と同一になるという考え方で、これが解脱と呼ばれています。

 さて、意識的に肛門をキュッと締めると、自然に会陰部に力が入ることになります。会陰部とは肛門と性器の間を指しますが、実はこの会陰部に力を入れることがチャクラを活性化させる方法であることを、多くのインド、中国の古い文献が伝えているのです。

 会陰部は、体の中央にありながら、なかなか意識の行かない場所でもあります。また消化管の最終部分で、腸が皮膚へと変わる部分が肛門で、その粘膜の静脈が発達していることでも有名です。

 つまり意識を持たない限り血行が悪くなるわけで、鬱血した状態が、体にいいはずはがありません。日本人には痔が多いとされますが、生活習慣の影響もさることながら、こうした意識の希薄さも関係しているのではないでしょうか。

 痔や脱肛、更には肛門癌、直腸癌の予防になるばかりか、自然に会陰部に力のはいることでヨーガが指摘するようにチャクラが活性化するのであれば、なおさら結構なことです。』


 『 私は14歳の時から複式呼吸を始めて、以来、ずっとこれを続けて来ました。その結果、弱かった体を普通の健康体につくり上げることができました。60歳の時、独自の呼吸法を完成させ、それからというもの94歳に至るまで、むしろ若返りました。

 私は呼吸法を完成させた60歳を過ぎてから、多くの出来事を体験させていただきました。そのひとつは、60歳を過ぎてから、ゴルフの腕前が上達したことです。

 たいていの場合、60歳を過ぎれば体力も落ちるのに合わせて飛距離と腕前が落ちるばかりか、ゴルフをするのさえ億劫になるのが普通のようです。

 60歳の時、私は「よし、シングルになってやろう」と思い立ちました。当時ハンディキャップは13で、普通、体力も技術も落ち勘も鈍る60歳で、一念発起する者は極めて稀です。

 ところがこの目標は、あっさりとはいかないまでも65歳のときに達成されたのです。さらに66歳では、ハンデ8まで上がりました。さらに87歳、92歳、94歳で3度のエージシュートを達成するという、ありがたい経験をさせていただきました。』

(塩谷博士は、105歳まで生きて、正心調息法の潜在能力を証明しました)(第28回)


ブックハンター「読み聞かせ」

2012-12-03 20:31:00 | 独学

26. 読み聞かせ (ジム・トレリース著 1987年発行)
    THE READ-ALOUD HANDBOOK (1985 edition by Jim Trelease)

 『 読書量の低下は一般的現象(1960年以降)だが、すべての子供たちがそうであるわけではない。中には圧倒的な反応で私を驚かせるクラスもあった。そういうクラスの子供たちは、本を愛し、貪欲に読んでいた。

 そうした伝染病的な読書熱流行の直接原因は、どの場合も、受け持ちの教師の態度にあった。教師が本を愛し、子供たちに読み聞かせをし、本について話し合うことで、その愛情を子供たちと共有していたのである。

 私の話に対する子供たちの反応を目のあたりにした教師や親たちから、”読み聞かせにふさわしい本”のリストを教えてほしいという要望を数多く聞いた。

 さて、こうした経験を重ねているうちに、”読み聞かせにふさわしい本”のリストがないことに気づいた私は、自分でそう言うものを作ってみよう、という気になった。

 最初はごくつつましく、自費出版で小冊子を作り、地元の書店に販売を依頼した。初版の費用はわずか六五〇ドルだった。

 ところがその小冊子は、三年間にアメリカ国内三〇州とカナダで二万部が売れた。1982年、そのうちの一冊がペンギンブックス社の目にとまり、同社から出版の話が舞い込んだ。こうして出来上ったのが、この本の第一版である。

 つい最近、私の「読み聞かせのためのハンドブック」を読んだばかりのバージニアの新米ママは、アビー女史の担当する一通の投書を目にした。この新米ママはアビー女史に「ハンドブック」のことを知らせた。

 この新米ママの手紙とアビー女史の反応が新聞に載ってから、10日足らず、ぺンギンブック社には12万部の注文が舞い込んだ。 』


 『 読み聞かせというのは、きわめて多面性を持つ経験で、大人も子供に負けないくらい、恩恵を受けることが多い。とりわけ今日のように自分自身がテレビ育ちと言う親が多くなった時代には、その傾向が強いといえよう。

テレビ育ちの親たちのベットタイム・ストーリーは、耳から入ったものではなく、目から入ったものである。
 
 私に向かって、子供たちに本を読んでやったおかげで、子供時代に一度も読んだことのなかった本を知ったばかりか、子供時代に一度も味わうことのなかった読書の喜びを知った、と打ち明けた教師や親の数は信じられないくらい多い。

 読み聞かせの経験が自分にとってどれほど意味のあることか、と語ってくれたある父親のことである。

 「数年前、私はあなたの講演を聞きました。まだあなたの本が出る前のことです。あれ以来、私は一日も欠かさず息子に本を読み聞かせてます。息子はいま四歳ですが、最近は絵本や詩だけでなく、小説も読んでやってます。

 息子が私の読んでやる物語をとても気に入ってくれるのはもちろんですが、読み聞かせは、私にとっても同じくらい意味のあることです。

 実は、私の両親はスパニックでして、英語は話すことも読むこともできませんでした。ですから、二人とも私には一度も本を読んでくれませんでした。

 やがて私も学校に入り、本を読むようになりましたが、先生が教えてくれたのは、図書室にあるノンフィクションでした。ずいぶんいろいろなものを読みました」

 その父親、そこでひと呼吸おき、こうつけ加えた。「でもいままで――息子と肩を並べて一緒に本を読むようになるまで、私は世の中に人をげらげら笑わせたり、泣かせたり、心を揺さぶったりする本があることを、まったく知りませんでした」

 私はその父親の率直さに打たれ、どこで私の話を聞いたのか、と尋ねた。すると彼はにっこり笑って、こう答えた。

 「私は、あなたがベイステート医療センターで講演をなさったときに、あの場にいた二〇人の小児科医の一人です」 』


 『 私が自分の子供たちに読み聞かせをしているのは、別に大学で幼児教育コースをとったからではないし、かかりつけの小児科医にそうしろといわれたわけでもない。私がそうしたのは、私の父が、子供だった私に読み聞かせをしてくれたからである。

 だから、私が親になったとき、私は一つの世代から次の世代へ受け継がれるべき松明があることを知ったのである。

 いまから半世紀以上もの昔、捨て子を自宅に引き取った、一人の貧しいクエーカー教徒の女性がいた。その女性は毎晩その子にディッケンズを読んで聞かせてた。

 むろん、そのときの彼女は、自分のよんでやる本の言葉や物語が、のちにその子にどれほどの影響を与えることになるかなど、知るよしもなかった。

 その子のジェームス・ミッチナーは、三九歳にして最初の本を書き、七八歳で三二番目の本を書いた。その中には、五二ヵ国語に翻訳され、六〇〇〇万部以上も売れ、数え切れないほどの読者をたのしませることになるベストセラーも何冊か含まれていた。 』

 
 『 ある日、地方の図書館で開かれる子供を対象にした講演に先立って、私は廊下で一人のおばあさんに呼びとめられた。「すばらしいものをお見せしましょうか?」と、そのおばあさんはいった。

 私が興味ありげな表情をすると、おばあさんは床にぺたりと座り込み、孫を膝に乗せて本を渡した。その孫は三歳半になる男の子だったが、おばあさんから本を受け取ると、すぐに読み始めた。

 楽々と、つかえることなく、みごとな声の表情で、言葉を一つひとつ指さしながらである。私が質問するのを予期してたように、おばあさんがささやいた。

 「八ヵ月前から、この子に本を読んでやり始めたんです。私の膝にのせて、一語一語を指さしながら。すると一ヵ月前、読む役がこうして逆転してしまったのです」

 「お孫さんは、それが気に入っていますか?」と私は尋ねた。「気に入っているなんてものじゃありませんよ。その役に惚れ込んでいます」

 そのおばあさんの成功の大部分は、本を読み聞かせるときに、孫が徐々に目で見、耳を傾けるよう条件づけたところにある。

 おばあちゃんが自分に目を向けてくれているという情緒的な喜びと同時に、その男の子の視覚と聴覚にもそんたびに喜びが与えられていたのである。

 このよう状態を何度も繰り返すことで、男の子は、本は楽しみの対象になるものだ、本は喜びをもたらしてくれる、という観念を持つようになったのである。

 孫の心にそう言う観念を植え付けることによって、このおばあさんはその子の発達の次の課題――集中力持続時間――のためのベースを築いたのである。 』


 『 早くから読める子を生む家庭環境
1) 子供に定期的に読み聞かせをしている。
2) 家庭内に本、雑誌、新聞、漫画などがある。
3) 紙と鉛筆がいつも子供の手の届くところに用意している。
4) 家庭内に、果てしなく続く質問に答え、読み書きをする子供の努力をほめ、子供の作品を家の中の目立つところに飾ることで、子供の読み書きへの興味を刺激する。』


 『 子供のために望ましいこと。
1) 読み聞かせはできるだけ早くはじめること
2) 乳児の言語能力と聴取能力を刺激するために、マザーグースやさまざまな歌を利用すること。単純だが大胆な色使いの絵本で視覚を刺激する。
3) あなたと子供の時間が許す限り、読み聞かせること。
4) あなたが感動した本であること。そして最後まで読むこと。
5) 聞き手が耳から入ってくることを頭の中で思い描けるよう、ゆっくりしたペースで読むこと。
6) 非常用の本を用意し、病院の待ち時間、交通渋滞の時、読み聞かせようの本を用意する。
7) 父親は特に子供への読み聞かせの努力をすること。小学校教師の98パーセントが女性だということもあって、年のいかない男の子は、本といえば女性と学校に関係あるもの、と考えがちである。

 読書力補強指導クラスの70パーセントが男の子なのは偶然ではない。父親が本や読み聞かせにかかわれば、男の子の考えの中にスポーツと同じ位置まで引き上げられる。

8) 子供がテレビの前で過ごす時間を抑えるために、ラジオ、CDを活用し、自分で本を読んだり、絵を描いたりできるように居間を工夫する。
9) 両親が、読書をしたり、手紙を書いたり、絵を描いたり、ギターを弾いたり、歌を歌ったり、料理をしたり、家計簿をつけたり、資料を整理したり、手本を示す。 』


 私が36歳の時(この私とは、ブログの作成者で現在66歳)、子供が生まれ、寝る時に毎日母親が様々な絵本や物語を読み聞かせた。父親である私は、小川家(ノーベル賞の湯川秀樹は祖父・駒橘より漢籍の素読を習った)に倣って、漢文の素読をやりたかったが、私自身漢文の素養がなかったので、漢文の素読はあきらめざるを得なかった。

 私は、会社勤めのため、午前7時に家を出て、午後9時頃帰宅するため、朝食後、出勤前の15分を私と息子の朝読みの時間として使わしてほしいと、妻の許可を得た。

 こうして、子供が小学校2年生から、中学校の2年生まで、毎日朝読みを行った。
本は1冊自分の本を用意し、一緒に並んで座り、一区切りづつ私が指差しながら、読む。次に同じ所を私が指さして、息子が読む。

 この一区切りは、事前に私が電車の中で読んで、次に読むところを確認しておく。
 読んだ本は、素読のすすめ(安達忠夫)、短歌100(山口太一)、俳句100(山口太一)、方丈記、おくのほそみ道、司馬遷(林田慎之助)、万葉秀歌(斉藤茂吉)、論語(貝塚茂樹)、数学のしくみ(川久保勝夫)、A TO Z(Gyo Fujikawa)、Mother Goose (pictures by gyo fujikawa),THE OLD MAN AND THE SEA(hemingway)などで、朝読みを行った。この時、老人と海などは、訳本と事前の調べを行った。

 この朝読みでの一番の成果は、私と息子が朝の15分で多くの本を一緒に読みきり、親子の絆が深まったことであり、バートランド・ラッセルが人生で一番楽しかったのは、新妻と歴史書を読んだことだとあったが、今では朝読みは私の楽しいかった思い出である。(第27回)


ブックハンター「スズメバチはなぜ刺すか」

2012-12-01 09:01:09 | 独学

25. スズメバチはなぜ刺すか (松浦誠著 1988年発行)

 『 ハチに刺されるによる死亡のケースを見ると、そのほとんどが刺されてから一時間以内、普通10~30分という短時間におこっている。

 これは毒グモに咬まれた場合(18時間以上)、毒ヘビに咬まれた場合(6~48時間後)にくらべて異常に早く、たんなる毒作用による死亡でないことを物語っている。

 このハチ刺されによる症状はアナフィラキシー型過敏症とよばれており、反応時間がきわめて速いので即時型反応ともいわれる。

 だから、ハチにアレルギー体質の人が刺された場合には、対応が遅れると命とりになりかねないという恐ろしいものである。

 アレルギー体質の人にたいしてハチ毒は抗原として作用しているのであって、毒として働いているわけではない。

 だから、ハチアレルギーの症状は刺したハチの種類にはほとんど関係なく、同じような様相を示す。

 これは一般に人の体組織から多量のヒスタミンやセロトニンなどの化学媒介物質が放出されて、それらがさまざまな症状をひきおこすと考えられている。』


 『 巨大なスズメバチの巣も、最初はたった一匹の女王バチによってつくられる。働きバチが羽化してからの巣というのは、大きく頑丈で手がこんでいて、まさに「ハチの城」の名前にふさわしい。

 ところが女王バチのつくる巣は、大きさがせいぜいテニスボールくらいまでの小さくてもろい単純なつくりの工芸品といったほうがよい。

 こうした女王バチの作品も巣の細部を見ると、さまざまな工夫の跡があちこちに見られる。たとえば、巣全体を支えている吊手に注目してみよう。大型のスズメバチではこの部分は、巣柄とよばれている。アシナガバチの巣と同じように蓮の実の柄のような棒状をしている。

 その表面には女王バチの唾液が塗りつけられ、まるで漆を塗ったように賢固になっている。一方、クロスズメバチやホオナガスズメバチでは、女王バチのつくった巣はたった一枚の三角形をした紙状の吊手に巣の重量のすべてを委ねている。

 この三角形の吊手をよく見ると、下のほうに行くにつれて、しだいにねじれながら細くなっている。

 クロスズメバチでは下側から見ると左まわりに90度のねじれをもっているが、ホオナガスズメバチではさらにねじれた螺旋状をしている。どちらも最後には棒状にのび、幼虫室の底につながっている。

 このねじれの部分に用いられている素材は、外皮や幼虫室の壁にくらべ、はるかに細かく噛み砕かれ密になっている。

 女王バチがこの吊手をつくるときは、数十分かけて念入りの作業をし、たくさんの唾液を混ぜて、材料を強化する。

 こうして、ねじれをもった三角板状の吊手は、しだいに増してゆく幼虫室の重量を巧みに吸収し緩和するばかりでなく、女王バチの動きや外からの振動にたいしても、かなりの弾性で持ちこたえている。

 しかも、これら吊手の部分に、女王バチはたえず手をくわえ、巣全体が落ちないように注意をはかっている。』


 『 外から巣材を運んできたハチは真っ先にその修理にとりかかる。観察を続けた結果、巣内のハチが、巣の内部から外皮をかじりとり、それをさらに細かく噛み砕いて育児室の巣材として利用しているのであった。

 かじりとった後にできたスペースが育児室のスペースとして利用される。スズメバチの建築術は、外から運ばれた巣材はいったん外被として使用され、巣の発達にともなって、内部から削りとられて、それが育児室の壁の材料として再利用されていく。

 また、巣盤をささえている支柱の材料も、同じように外被に由来しているが、このほうは繭の抜け殻などの繊維質も多量に付け加えられて、補強される。』


 『 紙製の巣は断熱性に富むうえ、外被に見られる数重の層と、その内部の空気室や育房が、暖まった空気を貯える機能をもっている。

 外被を明かりに透かしてみると、針で刺したように小さな穴が無数にあいている。それらの穴は巣内でうごめく幼虫や成虫の体から出される炭酸ガスや余分な湿気を巣外へ送り出すとともに、外の新鮮な空気を絶えず供給する通気孔の役目をはたしている。』


 『 どんな動物の社会でも、大人が子供のために餌を与えるのは当たり前の話である。では、その逆があるかといえば、ちょっと想像もつかないだろう。スズメバチでは成虫が幼虫に食物を与えるとき、必ず口移しに一匹ずつ与えていく。

 餌をもらった幼虫は口もとに無色透明な液体をあふれるばかりに分泌している。成虫は、それを熱心になめとる。スズメバチは野外から集めてきた食物を巣の中に貯めておいて利用することがまったくない。幼虫に餌を与えておけばいつでも分泌液の形でフィードバック出来る。』


 『 足立さんが最も精力を傾注したのは、スズメバチのなかでも最大のオオスズメバチが自然状態の巣のなかでどのような生態をくりひろげているか、ということであった。

 このスズメバチの巣はもっぱら土中に営まれるうえ、近くに寄るだけで無差別に遠慮のない攻撃をしかけてくる。その巣の内部をのぞくことの難しさは、このハチを知る者ならずとも容易に想像がつくだろう。

 足立さんが考え実行したのはつぎのような、かって誰もなしえなかった方法である。それはハチの飛ばない夜間に、巣から十数メートル離れた地点に体がすっぽりと埋まる程度の縦穴を掘る。

 さらにそこから横に深い溝を一直線に掘り進めて巣の近くまで到達する。その間、溝の上部は枯れ草や木の枝で厚くおおっておく。

 それから、見当をつけた巣の位置に向かって少しずつ横穴を広げていき、巣に突あたったらすばやく枠のついた金網で外側からふたをする。

 そして、ハチがこちら側にやってこないようにまわりをがっちりと土でかためる。こうして準備が整ったうえで、穴のなかから息をこらして巣の様子を観察するという。

 こう書くと簡単なようだが、もちろん一晩や二晩でできるような仕事ではない。真の徹夜作業三回と午前一時頃から出かける半夜作業七、八回を含むものであった。

 足立さんもスズメバチ観察中に何度もスズメバチの猛攻を受け、死線をさまようほどの激痛の体験も三度にわたってくりかえしている。しかし、そうした体験にひるむどころか、ますますのめりこんでいくのもスズメバチのもつ不思議な魅力といえるであろう。』(第26回)