チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

物は置き場所、人には居場所(その12)

2016-10-29 20:07:07 | 哲学

 物は置き場所、人には居場所(その12)   日常をデザインする哲学庵  庵主 五十嵐玲二

 11. 森をつくる営みが農業である (アマゾンの日系人移住地トメアスで生れたアグロフォレストリー)

 今回紹介しますのは、ブラジルアマゾン川の河口の都市ベレンから南へ230kmの日系移住地トメアスに入植した坂口陞(のぼる)(1933~2007)のアグリフォレストリー実践の記録です。

 この農業のお話は、単に日系移民の話にとどまらず、地球の肺であるアマゾンの熱帯雨林と農業の共存の可能性を探る物語でもあります。

 これまでの近代農業は、森の木を切り尽して、そこに残った土壌に単一作物を、化学肥料と農薬、農業機械を活用して、大規模に栽培されてきました。作物の収量は得られますが、それを支える土壌と地下水脈は、少しづつ消耗していきます。

 これを自然の理にかなった、「森を作りながら、農業を営む」、すなわち、熱帯雨林と農業の共存への道を開くお話です。(本文はjapan-Brazil Network News Letter 1998年4月 原後雄太より)


 『 「森を保護しようというより、これまでアマゾンで何とか生き抜いていこうとしていたら、結果的に森を育てることになったんです」

 海外林業コンサルタント協会の招きで来日し、実に36年ぶりに日本の冬を経験したというトメアス農村振興協会の新井範明会長は、アマゾンでの営農をみずから振り返ってそう語った。

 アマゾン川の河口に位置するベレン市。そこから230キロ南下したところに、アマゾンで最大の日系移住地トメアスがある。1929年から移住が始まり、1942年までに352家族、2104名が地球の裏側にある広大な密林に入植した。

 カカオ栽培と米作を基本に入植したものの、カカオは全滅。陸路はなく、船で10時間かけてベレン市まで野菜を出荷することになった。

 少し落ち着いたころに、悪性のマラリアが現地を襲い、治療もできないままに多数の移住者の命が奪われた。入植者の8割にあたる276家族が脱耕してトメアスを去った。

 1933年、移住者のひとりだった臼井牧之助氏の手でシンガポールからコショウの苗20本が海を渡った。そのうちわずか2本だけが生き残り、トメアスに持ち込まれると、空前のコショウ景気に沸くことになった。

 ジュート(麻)と並ぶ日系人によるアマゾンの二大産業として成長を遂げ、トメアスは世界有数のコショウ産地に変貌したのである。ところがコショウブームも60年代後半になると陰りが生じる。

 水害と土壌菌による病害の蔓延で74年までにコショウ畑は全滅してしまった。マラリア以来の悪夢の再来とばかりに、半数以上の入植者がふたたびトメアスを後にした。

 なぜそんな悪夢がふたたび訪れたのだろうか。熱帯林は種の多様性こそが命だ。そして遺伝子の多様性は、自然条件の変化に備えて種を存続させる自然の知恵である

 それなのに、「黒いダイヤ」(コショウ)だけをできるだけ作り出そうと、森林をすべて焼き払い、表土をツルツルにした。化学肥料をまいて、わずか2本の苗木から何百万本もの「クローン」を仕立てた。

 生産性は上がったように見えたが、「ひとたび一人が風邪をひいたらみんな風邪をひいてしまう」のは自然の理だった。(坂口陞さんはそう考えた) 』


 『 「水害や病害は自然の摂理に反したことのしっぺ返しだったのではないか」。トメアスに残った人々は、再建計画をつくるなかでそう考えるようになった。

 「それでは、これまでの逆をやってみよう」。野菜のほかに、メロンやスイカを植えて地表をできるかぎり覆う。柑橘類のほか、アセロラ、クプアスといった樹木性の果樹を植える。

 コショウの枯れた畑には日陰をつくるために木を植え、その間にカカオを植えた。カカオの大きな葉は落葉して降り積もり豊かな腐葉土をつくる。そこに木を植えると何を植えても驚くほどよく育った。

 カカオ、ゴム、コーヒーといった主要な樹木作物に、クプアスやグラビオラ、アセロラ、マンゴスチンといった果樹を植え込む。

 さらにブラジルナッツや薬用となるアンジローバ、家具材となるフレジョ、マホガニー、セドロなどの価値ある樹種を植えていった。

 東アマゾンの森も、いまではトメアスだけで40を超える製材所がひしめき、森林が急速に消えている。ところが日系移住地に入ると急に森が深くなる。古くは1930年代にブラジルナッツをうえ、60年代にゴムをうえ、70年代から本格的に植林をしているためだ。

 「コショウの病気は人害です」そう言い切るのは、樹木作物を熱心にうったえるトメアスにおける農業の先駆者で、その指導的な立場にある坂口陞さんだ。

 76年から森を切って焼くことをやめた。それと同時にコショウとも縁を切った。「自分の生より長く生きる作物を植える。それをつくって死ぬのが生だ。枯れるようなものを植えるのは百姓ではない」というのが坂口さんの持論だ。

 森を切り開くのではなく、森をつくる営みのなかで生かされるのが農業である、と考えるのだ。そうしたアプローチはこれまでの農業観をくつがえすものだ。

 森と対峙するのではなく、森を模倣して森を復元することで生かされる生業としての農業——。それをトメアスの人たちは”森林農業”と呼んでいる。

 くしくもそれは、かってアマゾンの地で行われてきたカヤポ人らの先住民の農法を模倣したものである。トメアスにはほっとする温かさがある。

 それは山村を荒廃させ、あるいは放棄して発展させてきた日本の産業社会の、さらに先にある大事なことに気づいているからではないか。

 森林という自然環境のなかで生かされる森林共存型の文明を築こうとしている。それは、アマゾンという濃密な自然のなかで生き抜こうとして行き着いた人類共有の知恵であるようにも感じられる。

 焼かずにむしろ木を植える農業——。トメアスの混作農業はかねてから世界の研究者に注目されてきた。そんな農業がアマゾンでももっと広まってほしい。 』


 『 「父は当時、『自然を見て学びなさい』としょっちゅう口にしていた」。坂口さんの次男で、現在、トメアス総合農業協同組合(CAMTA)の理事長を務めるフランシスコ・渉・坂口さんは振り返る。

 父はこうも言っていた。「土地を守るために、木の葉っぱで傘をつくれ」。森が育って、木の葉っぱで「傘」ができると、木が葉っぱを落として、そこに微生物が付いて、土壌になる。

 さらに、いろいろなフルーツの殻を堆肥にする。表土が流れやすいアマゾンの貧しい土壌を改良していく仕組みだ。CAMTAはいま、アグリフォレストリー農法で栽培したアサイーなどの熱帯フルーツの実をすりつぶし、ペースト状にした冷凍パックを出荷している。

 年間の出荷量は年々増え、パルプ(果汁ペースト)4千トン、原料で8千トン(うち半数がアサイー)にも達する。アイサ―の実は植物繊維やカルシウムが豊富なほか、ポリフェノールはブルーベリーの約18倍とも言われる。

 鉄分はレバーの3倍だ。90年代、テレビ番組をきっかけにブラジル人の間で人気が出て、その後、米国や日本でも愛飲者が増えている。 』 (第12回)


物は置き場所、人には居場所(その11)

2016-10-24 10:10:25 | 哲学

 物は置き場所、人には居場所(その11)   日常をデザインする哲学庵  庵主 五十嵐玲二

 10. 社会のことを自分ごとに(島根県海士町の試み)

 ホイジンガの人間の三つの生き方の第二道 「世界そのものの改良をめざす」とある〔世界そのもの〕を〔身のまわりの現実〕に換え、「身のまわりの現実の改良と完成をめざす」第2.5の道とします。

 第一の道(彼岸への道)や第三の道(芸術への道)を目指すにしても、此岸(しがん)(現実への道)が安定していることが、大切なのではないのではないでしょうか。

 第2.5の道として、フィリピンの小さな島カオハンガ島での取り組みと、中国黄土高原の小さな村でのアンズの取り組みを紹介しました。

これらは、海外での取り組みなので、ここでは、鳥取県の沖合六十キロの日本海に浮かぶ、隠岐(おき)諸島の島前三島のひとつ・中ノ島に位置する、 面積33.5平方キロ、人口二四〇〇人の海士(あま)町での取り組みを紹介いたします。

 以下の話は、朝日新聞フロントランナーと海士町のブログよりの抜粋です。

 『 山内町長が当選した二〇〇二年は、平成の大合併の嵐が吹き荒れる中で離島が合併してもメリットがないと判断し、単独の道を選んだ。

 ところが二〇〇三年の三位一体改革による地方交付税が削減され、「二〇〇八年には海士町は財政再建団体へ転落する」これが当時のシミュレーションだった。すなわち財政破綻や過疎の危機にひんし、「島が消える」寸前だった。

 ここで、徹底した行財政改革を断行するには、自ら身を削らなければならない。そう考えた山内町長は、町長給与三〇%カットを宣言する。

 ある夜、残業中の町長に町幹部から電話がかかる。指定の店に行くと管理職全員がそろっていた。「僕らの給料も下げてください」と頼む彼らに「やかましい。お前らには求めん言うただろう」と答えた。

 翌日。町長室に総務課長が来て、「本気です。僕たちもついていかせてください。」と言った。町長は泣きながらその申し出を受ける。四月から管理職は二十%減。

 組合が「僕たちも」と申し出た、十月から一般職員も十~二十%減。翌年はカット率がさらに上がり、町長五〇%、議員四〇%、職員一六~三〇%カットし、二億円の人件費削減に成功した。

 「職員がそこまでやるのか、というのが住民意識を変えた」と町長は振り返る。町のことが、住民の自分ごとになった。 』


 『 海士町は「日本一給料の安い自治体」となったが、小さく守りに入ったわけではなかった。生き残りをかけ、ここから攻めに転じる。

 「前の民主党の時代だったでしょうか。官から民へということがいわれた。それは理想的な言葉なんですが、私たちのような民力がない小さなところだと、やっぱり官が本気にならないといけない。漁師も農家も自分たちだけで営業できるわけではない」という山内町長。

 しかし、海士町には離島というハンデがあった。「うちには市場がないですから、漁師が魚を捕ったら漁協へ渡して、漁協が境港(鳥取県)の魚市に出す。今日獲ってきたものでもあくる日の船で行けば、鮮度は落ちて買い叩かれる。この流通機構を変えて漁師が儲けられる仕組みをつくらないと、後継者は育ちません」

 そこで海士町では第三セクター「ふるさと海士」を立上げ、細胞組織を壊すことなく冷凍、鮮度を保ってまま魚介を出荷できる「CASシステム」という最新技術を導入した。

 (CASシステム : とは水を瞬時に凍らせることで氷晶化を防ぎ、細胞膜を無傷に保つことを可能としている。

 食品を冷却しながら磁場環境の中におき微弱エネルギーを与えることで細胞中の水分子を振動させることにより過冷却状態に保ち、その後瞬時に同時に冷凍させることにより水分の氷結晶化を抑える。 

 細胞を傷つけずに冷凍が可能なため、テェースバンクなどの医療の移植技術の分野でも応用されつつある。1997年に、株式会社アビーによって開発された。)

 海士町で一貫生産に成功したブランド「いわがき・春香」や特産の「しろイカ」などを直接、都市の消費者に届けることがねらいだ。システムそのものは一億円しなかったが、建物まで含めて五億円が必要だった。

 「県議会はなんでそんなにお金がかかるのか、絶対に黒字にならないと批判しましたが、あれが海士町のものづくりの一大革命だった」と山内町長は振りかえる。

 背水の陣だったが、産地直送の新鮮な魚介は人気となり、首都圏の外食チェーンをはじめ、百貨店やスーパー、米国や中国など海外にも販路を広げていった。

 山内町長が社長を兼ねた「ふるさと海士」は見事黒字化。2012年には売上2億円、595万円の黒字決算となり、4期連続で黒字が続いている。

 「運ぶための氷代や汽船運賃、漁協の手数料、魚市場の手数料をすべて抜いた。でも、町が儲けているわけではありません。今、しろイカの最盛期ですが、一番儲けた漁師さんだとふた月半くらいで600万円。

 漁師さんからすれば、ありがたい話です。ようやくそれがわかってもらえました」 「目標は外貨獲得」 と笑って話す山内町長だが、「島の中だけで経済をまわしてもだめ。島の外からいかにお金を持ってくるか、それが大事です」と話す。

 「それまでは予算ありきで、国から補助金が下りて終わり。自ら役場が企画しなかった。これからの行政は、特に我々のように小さいところは、営業をやらないと」 』


 『 海士町を訪れると、のんびりと草をはむ隠岐牛に出会う。隠岐特有の黒毛和種。急峻な崖地で放牧されながら、ミネラルを含んだ牧草を食べて育つため、足腰の強くおいしい肉質牛が育つという。

 これまで海士町では子牛のみが生産され、本土で肥育されて松坂牛や神戸牛となって市場に出ていた。しかし、公共事業が減ったことで売上が激減した建設業の経営者が、2004年に異業種だった畜産業へ進出。

 「隠岐潮風ファーム」を立ち上げて、島生まれ島育ちの隠岐牛のブランド化を目指した。2年後に3頭を初出荷、すべて高品位の格付けをえて、肉質は松坂牛並みの評価を受ける。

 現在、月間12頭を品質の厳しい東京食肉市場に絞って出荷しているが、今後は新しい牛舎を建設して、出荷頭数を倍の24頭に増やす計画だ。

 インタビューした日、山内町長は東京に出張中だった。東京都中央卸売市場食肉市場で10月に開かれていたイベント「東京市場まつり2013」で、隠岐牛をPRするためだ。

 イベントでは、海士町の職員がしろイカを始めとする島の特産品を、声を上げて販売していた。町長以下、職員全員で海士町を売りだしているのだ。

 「東京のお客さんは舌が肥えているので、良いものは買ってくれます。東京で認められれば、ブランドになる。一見、短絡的な考え方ですが、間違いではなかったなと。また、東京の人たちに食べてもらえるというのが、漁師や農家の人たちの誇りになる」 』


 『 海士町の快進撃はビジネスだけではない。最近、特に注目を集めているのが、島外からの高校の入学者やIターン、Uターンによる住民の増加だ。

 山内町長は、離島が生き残るために産業を立ち上げ「島をまるごとブランド化」する戦略をとった。「では、そもそも島が生き残るとは何か。それは、この島で人々が暮らし続けること」という。

 そのために必要なのが、「地域活性化のための交流」。海士町では、島外から人を呼ぶため、さまざまなプロジェクトを行ってきた。

 たとえば、隠岐諸島の島前地域で唯一の高校である島根県立隠岐島前高校は、少子化と過疎化で2008年度には生徒数が30人を切っていた。

 このままでは高校は統廃合され、島の子供たちは15歳で島外に出なくてはいけなくなる。人口が流出、その仕送りも島民にとって負担になる。だったら、島外の子供たちを高校に呼ぶしか存続の道はない。「島前高校魅力化プロジェクト」が立ち上がった。

 難関大学進学を目指す「特別進学コース」や地域づくりを担うリーダーを育てる「地域創造コース」などを新設、島外からの”留学生”に旅費や食費を補助する制度を作り、「島留学」を銘打った。

 この取り組みは評判を呼び、2012年度からは異例の学級増、2013年度も45人が入学、島外からの生徒は22人だった。「22人のうち、19人が県外です。しかも、東京あたりから。ドバイから帰国した子もいます。

 19人のうち15人は学校長推薦を受けた優秀な子たちです。今年も東京と大阪で高校の説明会をやったのですが、201人の親子が参加されていました。ただ、建物が手狭な関係で、島外から入学できるのは24人ぐらい。

 今、島外からの子供たちにとっては狭き門になっています。島の子供たちとの間で、摩擦は生まれないか初めは心配していました。でも、島の子供たちは刺激を受けているし、うまく同化もしている」 』


 『 子供だけではない。大人もなぜか海士町に集まっている。その数、246世帯、361人(2012年度末)で、一流大学の卒業生や一流企業でキャリアを持つ20代から40代の現役世帯が続々とIターンしているのだ。

 海士町教育委員会で島前高校魅力化プロジェクトを手がけるプロデュサーは、ソニーで働いていた岩本悠さん。一橋大学を卒業後、海士町で「干しナマコ」の加工会社を立ち上げ、中国に輸出を始めた宮崎雅也さん。

 他にも、島の活性化に一役買うような人は枚挙にいとまがない。一体、なぜ? 「町はIターンの人たちに直接的なお金の援助はしません。ただ、本気で頑張る人には本気でステージを与えようと思っています。

 若い人たちは、都会の生活に疲れたり、海士町に仕事があったから来たのではなく、新しい仕事を作りに来ている。友達が友達を呼んで、次々に縁によって来ている人たちです。

 逆に言えば、彼らをお金で引き止めることは絶対にできません。彼らが島の閉鎖性とどう向き合うか心配でしたが、島民と良い化学反応を起こして、活性化につながっています」

 山内町長の持論は、「役場は住民総合サービス株式会社」だ。町長は社長、副町長は専務、管理職は取締役、職員は社員で、税金を納める住民は株主で、サービスを受ける顧客でもあるという。

 「2012年は全国の自治体などから1400人ほどの視察が来ましたが、CASシステムや島前高校を見ながら、最終的には職員の動きを見ていました。「町長、ここは役場じゃないですね」って言われます(笑)。

 私は社長のつもりでやってきましたが、トップ一人のアイデアでは成功しません。職員に恵まれて、その意識も変わりました。そして、役場が変われば、町民も変わります。

 海士町は小さな島なので、自分がやったことが、どう自分に返ってくるかという連鎖がすごくちっちゃいんです。だから島全体のことが自分ごとになりやすい。社会のことを自分のことに出来るのです。 』 (第11回)


物は置き場所、人には居場所(その10)  

2016-10-22 14:33:26 | 哲学

 物は置き場所、人には居場所(その10)   日常をデザインする哲学庵  庵主 五十嵐玲二

 9. ぼくらの村にアンズが実った (菌根菌と樹種の多様性)

 ぼくらの村にアンズが実るために乗り越えなければならない、様々な困難を紹介していくうちに、ページ数が多くなりましたので、二つに分けます。

 

  『 黄土高原における緑化協力にために、「緑の地球ネットワーク」は四ヶ所の苗圃を確保しており、合計で二五ヘクタールほどになります。大同県国営苗圃の一角を借りている針葉樹育苗基地を九九年春に訪れると、責任者が興奮ぎみに話してくれました。 

 「ここの苗圃で二〇年以上働いているけど、こんないい苗は育てたことがないし、見たこともない。マツの育苗ではここは有名で、先日は新栄区から引き合いがあった。 

 従来からの苗を見せると、「いい苗だ。一本0.2元で買いたい」という。そのあと、日本側の技術で栽培した苗をみせると、「0.3元でもいいから、こっちの苗がほしい」という。 

 でも、みなさんの苗だから売ることができなかった。今年からは全部の苗を新しい技術で栽培しますよ」というのです。私たちがみても、その差は歴然としています。第一に私たちのマツ苗はよく生えそろっています。 

 ここらで種明かしをしましょう。私たちが栽培しているマツ苗は、種を蒔く前の苗床にマツ林の表土を少量と木炭クズを加えました。生育のちがいを生み出したのが、菌根菌の働きです。 

 菌根菌というのは菌根をもつ菌、植物の根に共生する微生物のことで、キノコやカビのなかまです。植物の根の細胞のなか、あるいは細胞と細胞のすきまに菌糸をはいりこませ、栄養は糖のかたちで植物からもらいます。 

 そのかわりに、菌糸を土のなかにも伸ばして、根と土とを密接に結びつけ、植物の根が水やミネラルを吸収するのを助けるのです。そのために植物の生育がよくなり、また菌糸によって根が保護されることで寒さや病害虫に強くなります。 

 九七年春、菌根菌研究の草分けである小川真さんに大同で指導してもらいました。そのときは数百本のポット苗で実験したのですが、菌根菌を接種したものは四ヵ月後には二倍に生育し効果が確認できました。 

 そこで、九八年春からこの針葉樹育苗基地を立上げ、実用化に乗り出したわけです。さっきは実験区と書きましたが、じつは毎年二百万本以上生産する体制をとったんです。この機動性がNGOの強みだと思います。 

 えられたデータを小川さんに報告すると、とても喜んでもらえました。そして「菌根菌の効果がでるのは、ふつうはもっとあとですよ。 

 現場の山に植えたあとで効果があらわれるというくらいに考えたほうがいいんです。一年めでそんなにはっきりちがいがでるのは、現場の環境がよほど厳しいからですよ」といわれるのです。 

 小川さんのことばでもわかるように、この技術は大きな苗を育てることに意味があるのではありません。山に植えたとき、活着がよく、乾燥や寒さ、そして病虫害につよい、そんな苗を育てる技術なのです。 

 そして条件の悪いところほど、その効果ははっきりするようです。二〇〇〇年の春から、菌根菌を接種した苗を植林現場に植えるようになりました。活着率は顕著に向上しました。 

 地元の人たちが驚いているのは、これまでの苗だと植えた当年は枯れないで活着するのがせいぜいで、ほとんど伸びなかったのですが、菌根菌を接種した苗は植えた直後から伸びはじめることです。 』

 

 『 材料もすべて現地で調達できますし、方法も簡単です。菌根菌の胞子とその接触を助ける木炭のクズ、軽石といったものがあればいいのです。マツの育苗なら、キノコの生えるようになった松林の表土に胞子がはいっています。 

 大同のばあい、つかっているのはアミタケです。木炭クズは、シリコン精製工場で還元剤につかっている木炭のクズをもらってきました。 

 最初にこの技術を苗圃の技術者に伝えたとき、彼らは半信半疑でした。最初の一年で効果を確信してくれたおかげで、木炭も松林の表土もすすんで準備するようになりました。 

 しかし、それ以上に彼らを駆り立てたのは、菌根菌をつかって育てた苗は、1.5倍の値段で売れることです。 

 この事業を準備する過程で中国林業部の報告書に目を通していたら、「中国は国土が広大なのに、南はコウヨウゼン、北はポプラというたった二種類の樹木で緑化をすすめてきた」という反省がかいてありました。 

 北のポプラにはカミキリムシの害が広がっているという指摘もあったのです。この活動の立上げのころ、相談にうかがった中村尚司さんは「環境問題にとって循環性、多様性、関係性という三つがキーワードですよ」とアドバイスしてくれました。 

 植える樹種に多様性をもたすこと、混植を実現することは、私たちにとって最初からの課題だったのです。でも、言うは易し、行うは難しです。 

 第一の困難は適合する樹種が乏しいことです。大同の一月の最低気温はマイナス三〇度近くですが、実際に木を植える山地ではさらに下がります。その反面、夏の最高気温は三五度を超え、けっこう暑いのです。 

 南の樹木は越冬が困難です。低温に耐える北の樹木は、小さいうちはいいようにみえても夏の暑さでだんだん弱り、弱ったところを病害虫などにやられる危険性があります。 

 そのうえ大同の農村はたいへん貧しく、余裕がありませんので、植える樹木がなんらかの経済性を備えないと、農民の積極性を引き出すことができません。こうした条件を備える樹木は容易にみつかりません。 

 第二の困難は関係者が混植の必要性を認識してないことです。私たちが混植を主張すると、技術者の一人は「複数の樹種を植えると、たがいに太陽光線を奪いあい、水を奪いあい、肥料を奪いあうことになるから、慎重に検討しないといけない」とこたえました。 

 「慎重に検討する」というのは、日本と同じで、「しない」という意味です。自然の森林を目にしたことがなく、環境の厳しさをいやというほど味わっていると、このような考えにおちいるのも無理ないのかもしれません。 

 転機となったのは九七年、大同県の遇駕山(ぐうかざん)をはじめ、三北防衛林のモデル林で枯れ死するモンゴリマツがでてきたことです。あわてて日本の専門家の数グループにみてもらいました。 

 地元の技術者といっしょに林のなかを観察すると、つぎのことがわかりました。アブラマツにはマツノハマキガが発生しているが、モンゴリマツにはでていない。 

 モンゴリマツにはハダニが発生しているが、アブラマツにはない。そしてモンゴリマツとアブラマツが混じっているところはどちらの虫も発生が少ない。 

 さらに、あいだにポプラやヤナギハグミが混じっているところは虫害の発生が少なく、マツの育ちもいいというものです。その効果があまりに劇的であることに私たちもびっくりしました。もともとの植生が少ないために混植の効果がてきめんにでるようです。 

 地元の技術者も、自分の目で確認するなかで、混植の意義を認識するようになりました。私たちの協力プロジェクトでは、九八年春から最大六種類の樹木を混植するようになったのです。 

 そして植物園建設へむけての思想的な準備もこれによって大きくすすみました。なんらかの飛躍がもたらされるのは問題が起こったときです。悪いことはいいことに変わるのです。 』

 

 『 九九年七月、渾源県呉城郷にアンズをみにいきました。この郷の振興村の小学校付属果樹園にアンズを植えたのは九五年春のことです。 

 私たちが協力したのは、五・三ヘクタール、四五〇〇本ほどですが、郷ではそれから数年かけて、四〇〇ヘクタール、三十万本ものアンズ園をつくりました。 

 この郷がアンズを植えたのと同じ時期、大同全域でアンズの栽培が大々的にはじまりました。乾燥と寒さに強いアンズはこの地方に最適の果樹だ、と政府が奨励したんです。 

 あちこちに大面積の「仁用杏基地」はできましたが、いまはその大部分は記念碑を残すだけになりました。私たちが協力したなかにも、大同県瞳郷のように失敗したプロジェクトがあります。 

 失敗の原因はいろいろでした。冬のあいだにノウサギの襲撃をうけ、壊滅的な打撃をうけたところがあります。暖冬続きで発生したアブラムシの害を受けたところもあります。 

 せっかくついた苗が接ぎ木に失敗した「ニセ苗」だったために、農民に引き抜かれたところもあります。 

 「幸福な家庭は一様に幸福だけれど、不幸な家庭はそれぞれに不幸だ」と書いたのはトルストイですが、成功の原因は一様だけど、失敗の原因はそれぞれだといったところ。 

 成功させるには、ひとつひとつの関門をクリアーしていくしかないんです。ところが失敗のほうは、原因がいくつもいくつもある。 

 呉城郷のアンズは、そのようななかでみごとに成功しました。いま現場でみると、となりあう株の枝が重なるところまで生長し、剪定もきちんとしてあります。 

 株もとの樹皮に白いものが残っているのは、ノウサギの忌避剤です。毎年ちゃんと忌避剤を塗っていました。ちょっとでも塗り残しがあると、そこをノウサギがかじるんですね。 

 本来なら最初の収穫は九八年になるはずでした。ところが花が咲き終わったばかりのとき、急に寒くなり、凍害のために幼果が落ちてしまいました。収穫ゼロです。この一帯はその年、穀物はかなりの豊作でした。 

 ところがアンズに切り換えたこの郷は、みじめな状態です。もし九九年も収穫できないとなれば、せっかくここまできたのにどうなるかわかりません。そのことがずっと気がかりでした。 

 でも話をきいて安心しました。九九年はアンズの大豊作で、この郷は全体で一〇〇万元以上の収入をえたそうです。多い家は一万元にもなりましたから、たいしたものです。これくらいに育つと、ウサギの害や虫害も少なく、手がかかりません。 

 九九年の大同は大旱魃でした。七月中頃に三〇ミリほどの雨が降りましたが、それまでカラカラでした。一メートルに満たないトウモロコシが穂をつけ、二十センチほどのジャガイモが花を咲かせているのをみると悲しくなります。 

 これでは収穫は望めないでしょう。そのうえイナゴやバッタが大発生し、農薬の空中散布がなされています。そのようななかでのアンズの豊作ですから、郷の人たちは去年とはまるで逆の気持ちを味わっていることでしょう。 

 残念だったのは、数日前に収穫が終わっていたことです。取り残しの実がところどころに残っているだけです。 

 この呉城郷は、最近「退耕還林」(退耕還林とは、急傾斜地など条件の悪い畑の耕作をやめ、森林や草地に戻す政策)のモデルとして、省内はもとより全国的にも注目されるようになりました。 』

 

 『 呉城県のアンズは、収穫二年目の二〇〇〇年も豊作でした。一〇アールあたり八二本が標準ですが、そこから一六〇キロの杏仁(きょうにん)がとれたのです。一キロ一〇元ですので、一六〇〇元です。 

 このアンズは果肉を食べる種類ではなく、杏仁を目的に特化したものです。アンズの種を割ると、なかに柔らかい部分、仁がありますが、あれを薬材・食材にするわけです。 

 鎮咳(ちんがい)・去痰(きょたん)をはじめ、幅広い用途の薬剤として使われますし、中国ではジュースや点心に加工されています。炒めてそのまま食べることもあります。日本でなじみのあるのは中華デザートのアンニントウフでしょうか。 

 アンズを植えるまでは、アワ・キビ・ジャガイモを栽培していました。これらの食糧は一キロが二元ほどです。ジャガイモは五キロを一キロに換算します。一〇アールあたりの収穫高は最高でも一五〇~二〇〇キロでした。お金にすると三〇〇~四〇〇元です。 

 ですから、アンズに換えたことで、収入は四~五倍にふえました。アンズはまだ若木なので、あと三年もすれば、最低でもいまの二倍に増えるでしょう。 

 効果はお金だけじゃないんですよ。となりの株と枝が重なりあうくらいにアンズが育つと、水土流失は軽減されます。雨の日に林を歩くときのことを思い出してください。 

 雨水は葉や枝で受け止められ、幹を伝わって地面にふります。それから根を伝わって、土のなかに浸透します。雨が地面をたたくことはないし、地面に水がたまることもない。その効果はアンズだって同じです。 

 それから、いい実をならすには、アンズは毎年、剪定をしないといけないんです。切った枝が燃料になります。そうすると周囲の灌木をつかわなくてすむから、多少なりとも植生が回復します。 

 アワやキビの茎も燃やしていたんですけど、そういう畑の副産物が堆肥になって畑に戻るようになります。これまでは水土流失によって土壌がしだいにやせ、あの悪循環におちいっていました。 

 アンズが育ったことで、それらが止まり、いいほうの循環に少しずつ変わっていくんです。そのうえに、収入の一部が教育支援につかわれ、人材の育成に役立つ。一石二鳥、三鳥なんですね。このあとどうなるか、とても楽しみです。 』 (第10回)


物は置き場所、人には居場所(その9)  

2016-10-14 14:45:50 | 哲学

 物は置き場所、人には居場所(その9)   日常をデザインする哲学庵  庵主 五十嵐玲二

 8. ぼくらの村にアンズが実った (旱魃と植物園)

 「ぼくらの村にアンズが実った」 〔中国(西北部)山西省大同市(黄土高原)・植林プロジェクトの十年〕 (NGO「緑の地球ネットワーク」事務局長高見邦夫著 2003年5月発行)

 本書を「人は居場所」の「現世での桃源郷の建設」の第2弾として、紹介いたします。人の居場所の最大の居場所は、農業的生産手段としての居場所です。

 アンズの苗を植えて、アンズの花が咲き、アンズが実って、村が豊かになって、村でのそれぞれの居場所を確保されて、生活が充実すれば、ベストですが、現実はそれほど甘いものではありませんでした。


 『 自然災害は恐ろしいのですが、もっと恐ろしいのは自然災害が連続することです。この地方の農民は、いい年にめぐりあい、収穫が多くても、食べつくすことはしません。

 凶作に備えて、食料の貯蔵を怠らないのです。ですから、ひどい自然災害になっても、一年だけなら持ちこたえることができます。でも二年三年とつづくと、事態は深刻になります。

 私は九二年からここを訪れるようになりましたが、おおざっぱな印象では、奇数の年はかならず旱魃で、偶数の年にはいい年もあるといったところ。

 九七年はひどい旱魃で、九九年は建国いらい最悪の旱魃でした。九八年も雨が降らず、そのうえイナゴの被害を受けました。自然災害が三年つづいたわけです。

 農家を回って残っている食料を見せてもらいました。ジャガイモは麻袋の底にわずかに残っているだけ。多少でも収穫できたのはトウモロコシです。

 旱魃につよいわけではありません。いちばん水条件のいいところに植えるからです。でも、穂軸の長さが小さいうえに、粒が欠けているものが多い。 』


 『 日本には「あとは野となれ山となれ」ということばがあります。手入れをしないと田畑は草に埋もれて野になり、やがて樹木が茂って山になります。

 ところが、私たちの協力地、黄土高原の大部分では、ほっておいても野にも山にもなりません。草もまばらな荒地のままです。最大の原因は、日本では雨が多く、年間1500ミリ以上の降水量があることです。

 それに対して黄土高原では、400ミリ以下なことです。温度の問題もあります。大同では最低気温がマイナス30度近くになり、最高気温は38度にもなります。(雪がないので、冬の寒さは防ぎようがありません)

 土壌も問題です。粒子が小さいうえに有機質の含有量がすくなく、団粒構造になりにくくて作物や植物が育ちにくい。水に恵まれた低いところではアルカリがきつく、塩害になりやすい。

 たくさんのプロジェクトにとりくんできて、その中で成功したものと失敗したものとがあります。それらを比較検討してみると、成功するためには三つの条件が必要です。

 第一は自然の条件です。水、温度、土壌、そういう自然条件を無視したプロジェクトは成功しません。黄土高原をひとくくりにみるのではなく、その場所、その場所を細かくみて、どこになにを、どのように植えるか、科学的な検討が必要です。

 第二は社会的な関係です。中国は政府の存在が大きいので、プロジェクトに関係する県や郷の政府の支持をえられるかどうか、といったことが大事です。関係者の九人が賛成しても、大声で反対する一人がいれば、いろいろな問題がおきます。

 第三は人的な要素です。プロジェクトを建設する村にしっかりしたリーダーが存在するかどうか、その人が村をまとめることができるかといったことが重要です。 』


 『 立花さんの最初のひとことは厳しいものでした。「NGOとかいっても、知識も経験もないから、バカなことばっかりやっている。大量の水を必要とするポプラを乾燥地に植えるなんてことをやってないでしょうな?」

 「先生を訪ねてきたのはバカなことを避けるためです」といって私は率直に実情を話しました。そのあとにつづいた立花さんの言葉が、耳の奥にずっと残っています。

 「工業化以前の世界では植物園が最初の研究機関だった。そして植民地主義の時代、たとえばイギリスはインドのあちこちに植物園を建設した。

 インド中の有用植物をそこに集め、いろいろ研究して栽培方法を確立し、それを植民地経営の基礎にした。しかし、そのときといまとでは時代がちがう。

 いまは地球環境が問題になるときだ。黄土高原のような砂漠化地域に植物園を建設し、可能性のある植物を集めて、試験栽培と馴化をすすめ、有望なものを広めていくといったことが必要なのではないか。

 そこまで本気でやる気があるなら、自分も参加しよう。」

 立花さんが参加したことで、この協力活動に発展の方向づけをしてくれたことです。戦略といってもいい。彼の構想のすべてをすぐさま大同で実現することはできません。

 でも、目標ができたことの意味は大きなものです。私も受け身の状態を脱することができましたし、力をどこに集中すべきか、しだいにわかるようになりました。 

 

 『 1994年春から担当することになったのが、大同市青年連合会の副主席、祁󠄀学峰(きがくほう)でした。都会育ちで農村のことを知らない彼といっしょに農村をまわり、農家に泊まりました。 

 郷の北部の黄土丘陵に環境が厳しく貧乏な村があると小耳にはさんだんです。降水量が極端に少なく、乾ききっているということです。その村をぜひみたいと、私は考えました。  

 ところが地元の幹部は、そんな村を外国人にみせたくなかった。祁󠄀学峰は、幹部を説得して、夕方になって同意を得ました。村の農家はあばら家ばかりです。エサの不足する冬を乗り切ったところで、羊がやせこけているのが毛のうえからでもわかります。  

 一軒の農家をのぞくと、老夫婦と孫が夕食をはじめたところでした。若夫婦は出稼ぎにでていて、村にはいません。オンドルにじかにおいた洗面器の底にアワのカユがちょっとあり、あとはトウガラシ味噌のピンだけ。  

 その様子を私がカメラとビデオで撮影しようとすると、地元の幹部が祁󠄀学峰に詰め寄りました。「こんな貧乏な村に外国人をつれてきて、写真まで撮らせていいのか」というわけです。  

 祁󠄀学峰は間髪をいれずに、「問題が起きたら自分が責任をとる」と応じました。そのとき訪れた村が、広霊県平城郷苑西庄村で、その後、井戸を掘ることになった村です。 

 そのときの思い出を祁󠄀学峰に話すと、彼は「あのころの自分はなにも知らなあったから怖いと思わなかった」と言ってました。 』  

 

 『 ちょうどこのころ、大同では祁󠄀学峰がこの協力活動を担当するようになり、緑色地球網絡大同事務所を立上げて、その所長に就任しました。そのころには大同の各県には十いくつものプロジェクトが成立していました。  

 彼の提案は「各県のプロジェクトがバラバラに存在していては管理ができない。全体を統括し牽引する存在が絶対に必要だ」というものでした。  

 立花さんの戦略は植物園でしたが、すぐに可能だとは彼も考えていませんでした。その前段階として「苗畑も必要だし、実験園や研修施設もほしい。要するにパイロットファームのようなものを準備したらいい」というのです。  

 中国と日本の両方からでてきた提案は、一つのこととして実現できます。祁󠄀学峰からの提案を、立花さんのプランにもとづいて一まわり大きく投げ返しました。 

 そのようにして生まれたのが大同市南郊区の環境林センターです。小さなスタートでしたが、その後、急速に発展しました。  

 植物園計画にとって、もっとも条件があうのは大同市最南部の霊丘県でした。ここに植物園を建設することを決め、地元の技術者たちに周辺の植生調査を頼んだら、なんと、かなりの規模の自然林がみつかったのです。  

 それによって、緑化にたいする私たちのイメージはそれ以前とはすっかり変わってしまいました。そういう発展を引き出したのは、立花さんの植物園にかける執念というしかありません。 』  

 

 『 私たちの協力拠点、環境林センターの技術者たちが「日本のサクラがほしい」といいだしたのは、九六年秋のことです。秋田や北海道の会員に頼んで、チシマザクラやオオヤマザクラの種子を集めてもらいました。  

 その種子を九七年夏、立花さんが自分で配合した土に蒔いておいたのです。翌年の春、その桜がびっしりと生えそろっていました。一本ずつに分け、小さなポリポットに植え替えることにしました。  

 地上部が10センチほど、根の長さもそれくらいでした。センターの技術者たちは、根が良く伸びていることに驚いたようです。私は別のことにびっくりしました。  

 根が土のなかの木炭くずや軽石をつかんで、放そうとしないのです。技術者全員を集めて私は「ほら、みてみろ、根は酸素が好きだから、こうやって木炭や軽石にからんでいくのだ」といいました。  

 立花さんは九七年の夏、もう一つの実験をしこみました。渾源県の照壁(しょうへき)でアンズの苗木を植えたときのことです。そばに石炭の燃やしたカスが捨ててあるのをみつけて、スコップ一杯ずつ、植え穴の一角に加えるようにしたのです。 

 そして絶対に踏まないように求めました。全体の半分はそのようにし、半分は現地のやり方で植えました。翌春、同じ場所にいったとき、バスが停まるなり、私は駆け出しました。  

 これほどの結果がでるとは予想もしていませんでした。石炭の燃えカスを加えたほうは活着率が九十パーセントを越えています。もう一方は六十パーセントくらいしか着かず、生育にも大きな差があります。 

 そのことの意味をわかってもらうために、同行していた技術者を呼び集め、それぞれのグループから一本ずつを掘りあげて根の状態を比較しました。 

 石炭カスを加えた方は太い根が石炭カスまでまっすぐ伸びており、そうでないものにくらべ全体に根の発育もいいのがわかります。  

 同行していた武春珍はその様子をみるなり興奮して、「ひじょうにはっきりしている。話は何度もきいてきたけど、今日はその意味がわかりました。これからは全部のプロジェクトでこのような植え方を採用します」といいだしました。  

 ずいぶんと苦労しましたが、事態は前にむかってすすみだしたのです。 』 


 ぼくらの村にはアンズが実るのは、まだまだ先の話ですが、次回の「菌根菌と樹種多様性」に続きます。 (第9回) 


物は置き場所、人には居場所(その8)

2016-10-09 15:29:25 | 哲学

 物は置き場所、人には居場所(その8)   日常をデザインする哲学庵  庵主 五十嵐玲二

 7. 小さな南の島に桃源郷をつくる

 ここからは、著者が6年後に書いた、「青い鳥の住む島」 (崎山克彦著 1997年6月発行)により、前回の続きを紹介いたします。

 

 『 私たちも、もう島に住み始めて六年になる。この間、島をよくしようといろいろなことを試みた。 

 しかし、長い目で見ると、結局は、島民たち、特に子どもたち自身に、しっかりと物を見る目を養い、自分で考え、正しい判断をすることを身に付けてもらうしかない、ということがはっきりと分かってきた。 

 私たちにできることは、まず、良い教育環境をつくるお手伝いをすることだ。新任の先生と話し合った。台風で倒れていた国旗掲揚台を作り直し、国旗を掲揚したい。 

 そして、「カオハガン小学校」と書いた木のパネルを自分で作り、学校に掛けたいそうだ。いいだろう。それから、これも台風で壊れて開かなくなっている窓を修理する。 

 今の教室は昼間でも曇りの日はかなり暗いのが気になる。まわりの木を切ったり、壁をもう一度、白く、明るく塗り直す。先生が必要なもののリストを作ってくれたので、それをできるだけ供給したい。

 物の援助は比較的簡単にできる。問題は中身なのだ。子供たちにぜひ知ってもらいたいことがあるのだ。思いつくままに、箇条書きにしてみよう。 

 一  カオハンガ島に生まれたことに誇りをもつこと。 

 二  世界は広いこと。しかし、その中でも、カオハガンはすばらしい場所であること。 

 三  お金や物をたくさん持つことだけがしあわせではないこと。 

 四  まじめに働くことの大切さ。 

 五  環境を守ることの大切さ。 

 六  ゴミをポイポイ捨てないで、ゴミ箱に捨てること。 

 七  鳥をパチンコでうったりしていじめないこと。 

 八  木が生えていることの大切さ。木をやたらに切らないこと。ココ椰子の実も全部食べてしまったら新しい木が生えてこない。 

 九  徐々に、ウンコをトイレでする習慣をつける。 

 十  魚や磯の生き物、木などを採り尽していまわないこと。 

 学校の教育の中で、こういったことを教えてもらいたいのだ。 

 新しくやって来た、レスディーとフェルマ、男女二人のサロンガ先生は夫婦なのだ。そして、若い。セブ島の南端にある島、シキホールからやってきた。小さな子どもを一人連れて、住み込みで教えてくれるらしい。 

 カオハガンのような小さな島の事情もよく分かっている。三月の末に卒業式があった。島民のほとんど全員が出席して式は進められた。そして、最後のころに、サロンガ先生は大演説をぶったのだ。 

 すぐに終わると思ったが、二〇分、三〇分といつまでも続く。どんどん熱を帯びてくる。島民たちも、帰る人もなく引き込まれるように聞いている。 

 「教育というものがいかに必要か」を、自分自身の例など引いて、とうとうと説いたのだ、うれしかった。将来が明るいものに思えた。 』

 

 『 島の子どもたちは、島全体を自由に動き回り、生活し、遊ぶ。その意味ですばらしい自然環境だ。同時に、「もう少し知的な、自由な遊び場」を私たちの手で創りたいと思うのだ。 

 まず、少し広めの、竹と木と椰子の葉でできた小屋を創る。誰でも、いつでも自由に出入りできる。その場所で、次のようなことをしてみたい。 

 一  絵本など、子どもたちが読んで楽しめる本を中心に、小さな図書館をつくる。貸し出しもしたい。 

 二  絵を描く道具をおいて、誰でも、いつでも絵が描けるようにする。 

 三  資金ができれば、大型のビデオデッキを入れて、良いビデオソフトを週に一度くらい見せる。いろいろな世界の存在を知らせたい。 

 四  週末や、夕方、時々「お話の会」をする。 

 五  日本などからきた方に専門のことを教えてもらう、例えば、絵を描くこと、おりがみ、彫刻、木工、空手など。 

 子どもたちが自由に出入りできる環境で、自由にものを教えてみたいのだ。そして、子どもたちの個性を見つけたら、それを伸ばしてやりたい。 

 それから、大人の島民たちへの教育も大切だと思っている。子どもたちに知っておいてもらいたいことをまず大人に分かってもらいたい、家庭で子どもたちに教えてもらいたいのだ。 

 一  衛生のこと。 

 二  簡単な医療の知識。 

 三  ミシンを使った縫い物などを教える。 

 四  新しい商品、例えば、観光客の買いそうな、島でできるみやげ品を考え、作らせる。 

 五  伝統的な島のクラフト、例えば、ゴザ、籠編みなどの技術を若い世代に引き継いでもらう。 

 六  子どもに教育を与えることの大切さ。 

 これらを、会合を開いて話し合う。特に、婦人向けの集会を定期的に開いていきたい。 』

 

 『 カオハガン島のような小さな島の運営にあたっては、「スモール・イズ・ビューティフル」の考え方だ。カオハンガ島は小さい。だから、そこに入ってくる人の量、物の量、金の量を多くしてはいけない。 

 それらが限度を超えて増えれば、必ず環境が破壊される。人が心を失う。そして、私の心の中でのオカハンガンの「存在の理由」を失うのだ。 

 カオハガン島の自然は美しい。住んでいる人たちもゆったりと伸び伸びと生きている。住めば住むほどそれを感じる。同時に、簡単に環境や人の心が破壊され、美しさを失ってしまう大きさ、いや、小ささなのだ。 

 今までは、台風や、旱魃などによる破壊、島民自身によるダイナマイト漁などによる破壊を考えればよかっただろう。しかし、交通、通信手段の発達した現代では、他の世界と無縁に美しい環境、人の心を保つことが難しくなっている。 

 まずは、私たちの宿泊施設にやってくる人の量だ。一昨年の夏の出版以降、宿泊を希望して島にやって来る人の数が増えた。それまでは、私の友人、知人たちがパラパラと来ていた程度だから、激増したと言っていいかもしれない。 

 さいわいなことに、今までに島を訪れたほとんどの人がカオハガン島に満足してくれた。何回も繰り返して来てくれる方も多い。うれしいことだ。 

 今、私は、宿泊客を一日平均四人、年間で千五百人に制限することを考えている。年間千五百人の人が来てくれると、島の運営は経済的に安定する。 

 私は、カオハガン島の運営で私利を得ようとはまったく考えていない。しかし、事業を永続させるためには、安定した利益を得ることは絶対に必要だ。 

 そして、この程度の数の人間がカオハンガ島を訪れていても、それは自然の中に吸収されてしまう。総体の人の量を考えなくてはならない。数としては島民が一番多い。 

 これについては、「人口についての取り決め」の効果が出始めている。生れて来る子どもの数もこれからは減りはじめることを期待したい。今後五年くらい、カオハガン島の人口は四百人を越さないだろうと思うのだ。 

 島民たちも、人口を増やさないことの問題の重要さを漠然とではあるが、理解し始めている。 』 


 カオハンガ島の例は、小さい島だからできたことですが、小さいといえども四百人もの人々の生活を安定させることは、そう簡単なことではなく、国レベルで発生する様々な問題が発生します。

 急激な人口増加、フィリピンの政治情勢、武装組織の襲来、自然災害、急激な社会情勢の変化、……。

 さらには数十年のレンジでは、地球温暖化による海水面の上昇なども、大きな問題ですが、このように成功している例は稀なケースです。

 第一の道 「あの世での天国」、第二の道 「現世での理想郷の建設」、第三の道 「この世の生活を芸術の形につくりかえる」 の三つの道があります。

 この世の生活を芸術に変えるという、第三の道といえども、現世で生きる必要があり、第二の道といえども、芸術によって潤いのあるものにする必要があります。

 さらには、人間はいずれ死に至るので、第一の道 「あの世での天国」も必要とします。従って、この三つの道すべてを人はバランスをとりながら歩む必要があるのでは、ないでしょうか。(第8回)


物は置き場所、人には居場所(その7)

2016-10-05 08:31:08 | 哲学

 物は置き場所、人には居場所(その7)   日常をデザインする哲学庵  庵主 五十嵐玲二

 6. 人間の三つの生き方について

  最初に、森本哲郎著の「月は東に ―蕪村の夢 漱石の幻」より引用します。すでに記述しましたが、何回も反芻する価値のある文章です、これを踏まえて話をすすめていきます。


 『 オランダの史家ヨハン・ホイジンガは、名著「中世の秋」のなかで、人間の三つの生き方を説いている。

 第一の道は、「世界の外に通じる俗世放棄の道」である。すなわち、俗世間を捨てて彼岸にその世界を求める宗教的な情熱、神を求める希求が歩ませる道だ。

 すべての文明は、まずこの道を歩んだ。キリスト教もイスラム教も、仏教も、その性格はいかに異なろうと、歩んだ道はおなじだった。

 だが、やがて、第二の道があらわれる。第二の道は、「世界そのものの改良と完成をめざす」道であり、宗教が夢みる彼岸を、此岸(しがん)にうち建てようとする悲願、すなわち、現実への道である。

 ホイジンガは、こう記す。
 ――ひとたび、積極的な世界改良への道が切りひらかれるとき、新しい時代がはじまり、生への不安は、勇気と希望とに席をゆずる。(が)この意識がもたらされるのは、やっと十八世紀にはいってのことである。――

 けれども、人びとの歩む道は、このふたつに尽きているわけではない。もうひとつ、第三の道がある。それは、夢の道である。

 その第三の道は、第一の道のように現世を否定して彼岸に至ろうとするのではなく、さりとて、第二の道のように、現実の世界を変革したり改良したりして、そこに理想郷を実現させようというのでもない。

 そのまんなかにあって、「せめては、みかけの美しさで生活をいろどろう、明るい空想の夢の国に遊ぼう、理想の魅力によって現実を中和しよう」という生き方である。

 この第三の道は、はたして現実からの逃避だろうか。ただ、空想の世界だけに至る道だろうか。ホイジンガはそう問いかけ、こう答える。

 いや、そうではない、それは現実とのかかわりを持たぬということではなく、この世の生活を芸術の形につくりかえることであり、「生活そのものを、美をもって高め、社会そのものを、遊びとかたちとで満たそうとするのである」と。

 ホイジンガは、”中世の秋”、すなわち、ヨーロッパ中世末期の文化を、この視点からとらえ、そこに中世人の生活の豊かさを発見したのであった。

 ホイジンガがさし示した第三の道、すなわち、夢と遊びの道を、蕪村も漱石も歩もうとした。「草枕」の主人公がいう、「非人情」の世界とは、まさしく、その第三の道、人生という「虹」が最も美しくながめられる、そのような境地である。

 ホイジンガが中世びとの世界に見つけた第三の道と、蕪村が俳諧で描きあげた”夢の園”、そして「草枕」の画家が逍遥しようとした「非人情の立場」とのあいだに、どれほどの隔たりがあろうか。

 とはいえ、ホイジンガがいうように、第三の道を歩むということは、けっして容易ではない。

 生活そのものを美の世界へ昇華させるためには、「個人の生活術が最高度に要求される」からである。

 したがって、「生活を芸術の水準にまで高めようとするこの要求にこたえることができるのは、ひとにぎりの選ばれたるものたちのみであろう」

 この点において、東洋は西洋をはるかに越えている。中国や日本においては、その気になりさえすれば、だれでも容易に「文人」たりうるからである。』


 第一の道については、私が述べる資格も知識もありませんが、一つだけ私に言えることは、「他力本願」と「自力本願」の二つのバランスをとることではないでしょうか。

 まず「自力本願」を前面に出した後に、自力の及ばないところを「他力本願」ということではないかと考えます。


 次に第二の道は、「世界そのものの改良と完成をめざす」とあります。しかし、一八世紀以降今日まで、革命的に世界を変えようという多くの試みがなされてきました。

 しかしその手法に於いて、全世界、地球上の百億のすべての人々を一つの考え方で、変化させることには、無理があり、世界は多様化した形態に向かう方が、自然な気がいたします。

 そこで、全世界やすべての国民を対象とするのではなく、もっと小さな系を対象として、現実に小さな島や小さな村に自分たちの想い描く桃源郷を創ろうという考え方です。


 ここで紹介するのは、1987年、フィリピンのセブ島沖10kmにある周囲2㎞の小島カオハガン島での話でお話です。「何もなくて豊かな島」 (崎山克彦著 1995年6月発行)です。

 『 私はドドンとは船の上にいた。東京から一緒に来た仲間と船でダイビングに出かけ、午前中のダイビングを終え、ヒロトガン島の島陰に船を泊めて昼の休憩をとっているところだった。

 ドドンははるかかなたに浮かぶ小島を指差して「あの島は、今売りに出ているんだよ。私の知っている一番美しい島だ」と言ったのだ。私の胸は急に高まった。

 四十年以上前の終戦直後から、米軍と共にダイビングを始め、フィリピンでのダイビングの草分けであるドドンは、この辺の海域を自分の庭のように知り尽している男だ。「ぜひ行ってみたい」

 そして私はカオハンガ島と運命の出会いをし、そしてこの美しい南海の小島と不思議な縁で結ばれることになったのだ。

 「いくらですか」私は思い切って聞いてみた。「二百万ペソくらいだったら、買えると思う」 一ペソは五円くらいだろうと、すぐに頭の中で計算した。一千万円だ。何だ、それなら貯金をおろせば買える。

 「ぜひ、買いたいのですが、よろしくお願いします」 私はドドンにいってしまたのだ。 』


 『 ニューヨークに駐在していた時、社宅を二軒買ったことがある。しかし、フィリピンの事情はまったくわからない。その上「島」を買うというのはどういうことなのだろう。

 そして、フィリピンは、外国人が複雑な取引をする場合、関係者と自称する人が続々と名乗り出て、少しでも分け前をとろうとするので有名な国らしい。

 仕事でお世話になっていた、東京の国際弁護士の方にお願いし、フィリピンで最も信頼のおける法律事務所のセブ島の代表のダニーさんを紹介してもらった。

 そして、ダニ―とドドンにこの取引をまかせることにした。ドドンの話では「カオハンガ島全体を、近くのオランゴ島のポーに住んでいるイアスという人が所有しており、登記も済んでいる。

 自分はイアスの親友であり、自分にまかせておけば問題ない」ということっだたが、実際はまったくちがっていた。イアスが八割以上の土地を持っていたが、借金のかたとしてすでにある銀行の持ち物になっていた。

 また、半分くらいの土地は登記されていたが、その他は登記されておらず、いわゆるタックスクラレーションといわれている「税金を払っているので、土地所有者とみなされている」という状態だった。

 土地登記制度が全国規模では完全には実施されてないフィリピンでは、地方に行くと、未だにこのような土地所有形態が多い。おまけにほんのわずかな土地だが、島の中に国有地があることも分かった。

 この複雑な土地買取交渉をし、登記までもっていくのは大変な仕事だったが、ダニ―が実のよい仕事をしてくれた。いまでは、二つの小さな区画を除いて全部私たちの所有になっている。

 二つの内一つは、島を運営していく上でまったく必要ない場所なのでほってある。もう一方は長期のリース契約を結んである。土地の所有の実情がわかり、大部分を占める銀行所有の土地が手に入ったのが1988年の夏だった。 』


 『 その時、私は五三歳。三〇年も続けた「ビジネス」を中心とした生活から、抜け出したかったのかもしれない。ほんとうに「縁」としかいいようのない出会いで、カオハガン島が手に入ったことを、運命のように感じた。

 留学、仕事と、アメリカで約十年生活をしたおかげで、外国に住むことに違和感はなかった。「やはり、島に行こう」と心に決めた。

 退職金などで多少の貯えはあった。しかし、いつまでもあるわけではない。仕事を長く続かせるためにも、収支の合う仕事をすることも大切だ。

 しかし、何と言っても一番大切なこと、それは、この美しいカオハンガ島の自然を守ることだ。長い地球の歩みの中で育ってきたこのカオハンガ島の自然、生態系を、開発の波から守らねばならぬ。

 何事にも優先するのがこのことだろう。また、島には約三百人の住民が住んでいる。ほとんどが何世代も前からここに住んでいるひとたちだ。

 「この人たちをどう扱うか?」多くの人、とくにフィリピンの人の意見は「別に土地を与えてそこに移転させろ」ということだった。島民たちは、現在は土地不法占有者として島に権利なく生活しているのだ。

 「将来の島の利用を考えた時、今の時点で移転させれば問題が残らない」というのは、至極正しい意見だ。しかし、ここのところに私はひどくこだわった。

 自然も大事だが、住んでいる人も大切だ。人の住んでいない大自然もすばらしいが、そこに生活している人々との関係は、私にとって大切に思え、興味があった。

 そして、思い切って、まわりの人たちの親切なアドバイスを押し切り、島民たちと一緒に生活する道を選んだのだ。もう一つ。私一人でこの仕事をするのではなく、できるだけ大勢の人に参加してもらいたかった。

 南の島で生活するという憧れは、大勢の人が持っている。そんな想いを持った人たちが、それぞれに憧れを実現できる場をつくりたい。

 少しずつ、将来への夢がまとまってきた。まず、私自身が、美しい南の島で生活できるということ。第二に美しい自然を守る義務があるということ。次に、島民と一緒に生活し、それを楽しみにしたいということ。

 そして、なるべく多くの人に来ていただき南の生活を体験してほしい。とにかく、まず、自分が住み始めることだ。それにはまず家を建てなければ。そして何人かの友人たちの泊まれる施設もつくろう。

 島の自然の景観を変えてはいけない。自然を生かした美しい建築をすることで名高いセブの建築家カニザレスさんに設計を依頼した。一九九〇年の末に家が完成した。

 水、明かりなどの基本設備もできあがった。そしてその翌年、私は会社を辞め、カオハンガ島にわたり「島の生活」を始めたのだ。 』(第7回)



物は置き場所、人には居場所(その6)

2016-10-02 09:36:21 | 哲学

 物は置き場所、人には居場所(その6)   日常をデザインする哲学庵  庵主 五十嵐玲二


 5. 人は社会とどのように繫がりたいのか 

 本題に入る前に、社会とは何かを捉えれおきたいと思います。広辞苑によりますと「家族・村落・ギルド・教会・政党・階級・国家などが主要な形態」とある。

 ”社会”に対応する英語として、society と community があります。

 socity :  

     ① (人間を全体としてとらえた)社会、世間(の人々)

     ② (共通の文化・利害を有する)社会、共同体

     ③ (共通の目的。関心などで作られた)協会、クラブ、団体

     ④ 社会層(上流社会)

     ⑤ 交際、付き合い、友人

 community :

     ① 地域社会

     ② (利害、職業、宗教、国籍、民族などを同じくする人の)集団

     ③ (共通の利害を持つ)国家群

     ④ 一般社会(大衆)

     ⑤ 交際、親交        

 以上で社会のおぼろげな輪郭が捉えられたと思います。では、これらを踏まえて本題に入ります。


 人は社会に対して何らかの役割を果たしたいと願っていますが、可能性を模索して、実現へのステップを歩める人は、少ないのではないでしょうか。

 人は仕事を通じて社会と繫がりたいとは考えてますが、資格も、技術も、コネも持ち合わせない者に、提供される仕事は継続することが、むずかしく加えて低賃金である場合がほとんどです。

 そこで、人が社会とどのように繫がるかという問いに対して、まずその第一手目は、人が社会とより多くのコミュニケーションをすることであると考えます。

 人は、コミュニケーションを欲する動物です。このコミュニケーションを上手にとることができる人は、残念ながら少数です。上手にコミュニケーションをする中に、お礼状を適切なタイミングで、書ける人は、そう多くはないと感じます。

 西洋では、パーティーによって、初対面の人たちの輪の中に、入って会話をする訓練がなされているように、感じますが日本人はなかなか上手に入れないものです。

 女性は社会と繫がりやすいのですが、男性は孤立しやすいように感じます。特に自分に引け目を感じていたり、意味のないプライドであるとか、様々な理由によって、孤立しやすいようです。

 自分に特技、技術、何らかの魅力を持つことは、大切なことです。社会的には、それに関する資格がなければ、その特技が生かせない、それにふさわしい経歴がなければ、社会的に受け入れられない場合もあります。

 このようなハンディを克服することで、道は開けるように思います。


 人は仕事によって、企業を介して社会と繫がり、学ぶことによって、学校を介して社会と繫がっています。学校が学問によって社会と繫がることができる人間を形成することを、真剣に模索しているでしょうか。

 仕事の性質が現在は変わってきており、単に働いただけでは、ベトナムの労働者の賃金には勝てず、単なる荷役労働では、フォークリフトやクレーンに勝てません。さらには、単なる計算能力では、コンピュータに勝てません。

 現代の仕事は、既得権を持つ、資格を持つ、コネを持つ、充分な資金を持つ、お金を得られる仕組み(ビジネスモデル)を持つ、必要でありますが、これらを持たない人が大半であると思います。

 そのために第二手目は、学ぶ時代と働く時代をサンドイッチにして、三年間働いて、三年間学んで、また三年間研究するという形態、すなわち、学ぶ場、働く場、研究する場をもっと社会は流動的に、もっとオープンに、もっとフェアーに形成されることが必要であると考えます。(第6回)

 


 



物は置き場所、人には居場所(その5) 

2016-10-01 09:01:19 | 哲学

 物は置き場所、人には居場所(その5)   日常をデザインする哲学庵  庵主 五十嵐玲二


 4. 人の居場所とは何か (人の居場所の全体像について)

  a. 人の社会的居場所

  b. 人の経済的居場所

  c. 人が仲間とコミュニケーションできる居場所

  d. 人が眠ることができる空間

  e. 人が楽しく食事のできる空間

  f. 家庭的空間での居場所

  g. 地域社会での居場所

  h. 宗教的空間での居場所

  i. 自分のアイデンティティを確立できる空間

  j. 自分の体を動かせる空間

  k. 自分の役割が存在する居場所

  l. 自分が何かに夢中になれる空間

  m. 自分が仲間と認められる人間関係の居場所

  n. 自分のギャンブル的欲求を満足させる空間

  o. 自分がトライして、能力を発揮できる空間

  p. 音楽を聴ける空間

  q. ゆっくりと読書できる空間

  r. 自分の思いを文章化する空間

  s. 自分の絵を描ける空間

  t. 自分で楽器(ギター、チェロ、ピアノ、…)を奏で、歌える空間


 まったく、何の脈絡もなく、人の居場所を羅列してみましたが、まだまだ果てしないリストがあると思われます。人の居場所をどのように形成し、個人も自分の居場所をどのように確保すべきかは、大きなテーマです。

 自分で快適な居場所を確保すると同時に、社会との繫がりをつくる場を、多様に形成される社会であることも大切なことです。本来は、一つの体系として捉えられるようにすべきと考えますが、私にはわかりません。(第5回)