チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「世界を変えた6つの飲み物」

2013-10-20 13:09:59 | 独学

 50. 世界を変えた6つの飲み物 (トム・スタンデージ著 2007年3月)

  A HISTORY OF THE WORLD IN 6 GLASSES
     (by Tom Standage Copyright 2005)

 『 のどの渇きは、空腹よりも重大な死活問題だ。人は食べ物がなくても、二、三週間は生きられるかもしれないが、飲み物がないと、よくてせいぜい二、三日しかもたないだろう。水分は呼吸に次いで重要なのである。

 何万年もの昔、小さな集団で狩猟採集生活をしていたわたしたちの祖先は、新鮮な水を十分に確保するために、川や泉、湖を近くで暮らさなければならなかった。

 水を溜める、あるいは運ぶことは技術的に非常に難しかったからだ。いかにして水を確保するかという問題が、人類の進歩の方向性を決め、発展に向けた第一歩を踏み出させたのである。以来、飲み物はわたしたちの歴史を形成し続けている。

 水の優位性を水以外の飲み物――自然のものでなく、人の手によって作り出された飲料――が脅かすようになったのは、ほんの一万年前のことだ。

 それらは、細菌に汚染された危険な水に変わる、より安全な飲料を人間の居住地に供給するだけでなく、さまざまな役割を担ってきた。

 多くは通貨代わりとして、宗教行事の必需品として、政治的シンボルとして、あるいは哲学的・芸術的発想の源として利用されてきた。

 選民の権力と地位を際立たせる役をはたすものもあれば、虐げられた者たちを従属させる、あるいはその不満を鎮める役割をはたすものもあった。

 飲み物は人間の誕生を祝い、死を悼み、社会的絆を構築し強化するためにも、仕事上の取引や契約を成立させるためにも、感覚を研ぎ澄ます、あるいは思考力を鈍らせるためにも、命を救う薬としても、命を奪う毒薬としても使われている。

 歴史がさまざまな変遷を経てきたように、石器時代の集落から、古代ギリシャの食堂、あるいは啓蒙運動が起きた17世紀のヨーロッパのコーヒーハウスまで、時代や地域、文化に応じて、さまざまな飲み物が人気を博した。

 どの飲み物も特有の必要性を満たしたときに、あるいは歴史的傾向と合致したときに、多くの人々に受け入れられている。飲み物が思いも寄らない形で歴史の流れに影響したこともある。

 ならば、考古学者が石器時代、青銅器時代、鉄器時代と主要な道具の材質で歴史を分けるように、各時代の中心的存在だった飲み物によって世界史を区分することもできるはずだ。

 とりわけビール、ワイン、蒸留酒(スピリッツ)、コーヒー、茶、コーラの六種類の飲み物には、世界の歴史の流れが記録されている。

 三つはアルコールを、三つはカフェインを含んでおり、統一性はないが共通点が一つある。どれも古代から現代までに至る歴史の転換点において、各時代を特徴づけてきた飲み物なのだ。

 人類の近代化に向けた歩みは、農耕を取り入れたことから始まった。およそ一万年前、西アジアで穀物を栽培したのが最初で、これにともない原始的なビールが登場した。

 それからおよそ五〇〇〇年後、最初の文明がメソポタミアとエジプトで誕生する。いずれも、大規模な組織的農業が生み出した穀物の余剰分の上に成り立っていた。

 このような農業の確立により、ごく一部の人々が畑で働く必要性から解放され、神官、官史、書紀、工芸家となる。

 ビールはこの世界最古の都市の住民や、初めて書き物を残した人々の身体を滋養しただけではない。彼らに対する報酬や配給もまたパンとビールだった。穀物が経済の基盤だったからである。

 紀元前一〇〇〇年頃、古代ギリシャの都市国家群のなかで発展し、栄華を極めた文化は、哲学、政治学、科学、文学など、今も近代西洋思想を支える学問を育んだ。

 ワインはこの地中海沿岸の文明にとって欠かせない活力源であり、広範な海洋交易の基盤だった。交易を通じて、ギリシャの思想はさらに普及した。

 正式な酒宴「シュポシオン」において、人々は水で薄めたワインを一つの盃で回し飲みながら、政治や詩や哲学について語り合った。

 ローマ帝国の時代も、ワインを飲む習慣は続いた。ローマ人は厳格な階級制度を反映させて、ワインを細かく格づけした。ワインに対して、世界に二大宗教は相反する態度を取った。

 キリスト教は聖餐の儀式において、ワインは中心的役割を担っているが、ローマ帝国の崩壊とイスラム教の台頭後、ワインはその誕生の地で禁止されることとなった。
 
 ローマの没落から千年後、ギリシアおよびローマの知識の再発見が引き金となり、西洋思想の復興が起きる。その知識の大半は、アラブ世界の学者が守り、拡大してきたものだった。

 同時に、ヨーロッパの探検家たちは、アラブの独占状態だった東方との貿易に割って入りたいという思いに突き動かされて海を渡り、西はアメリカ大陸、東はインドおよび中国に達する。

 これにより大航海路が確立され、ヨーロッパ諸国は競い合うようにして地球を分割し、領土を広げていく。

 この大航海時代に新種の飲み物が登場する。蒸留という古代世界に伝わる錬金術の一プロセスに、アラブの学者が大幅に改良を加えて誕生した飲み物である。

 これによって、コンパクトで長期保存の利く、海洋運搬により適したアルコール飲料の生産が可能になった。

 ブランデーやラム、ウィスキーといった蒸留酒は奴隷売買の際の通貨代わりとして、特に北米の植民地でもてはやされた。

 これらの飲み物は激しい政治的対立の原因となり、アメリカ合衆国の建国に重要な役割を担った。

 領土の拡大に続いて、知性の拡大も起きる。西洋の思想家たちは、古代ギリシャ人から受け継いだ思想を越えることを目指し、科学、政治、経済の新たな理論を生み出した。

 この理性の時代に主流となったのが、中東からヨーロッパにもたらされた神秘的でしゃれた飲み物、コーヒーである。

 その後またたくまに各地に登場したコーヒーハウスは、アルコール飲料を売る酒場とは性格をまるで異にする、商売、政治、学問について語るための場となった。

 コーヒーには頭脳を明晰にする働きがあるとされ、科学者や実業家、哲学者らは、理想的な飲み物としてこれを重宝した。

 そして、コーヒーハウスでの議論が数々の科学界、新聞社、金融機関の誕生につながり、とりわけフランスでは、進歩的な思想を生む肥沃な土壌を人々に提供した。

 ヨーロッパのいくつかの国々、特にイギリスでは、中国から輸入された茶がコーヒーの王座を揺るがすことになる。

 ヨーロッパで茶の人気が高まったことで、大金を稼げる東方との交易路が開け、巨大な規模の帝国主義と工業化の基礎が作られ、イギリスは世界で初めて地球規模における超大国となった。

 茶がイギリスの国民的飲料になると、茶の供給を安定化させたいという思いが、イギリスの対外政策に非常に大きな影響を与え、これがアメリカ合衆国の独立、中国の古代文明の影響力の衰退、インドにおける茶の大規模生産体制の確立につながった。

 人工的に炭酸を加えた飲み物は十八世紀後半にヨーロッパで生まれたが清涼飲料水はそれから百年後のコカ・コーラの発明とともに登場する。

 もともとアトランタの薬剤師が作った”気つけ薬”だったコーラは、その後アメリカの国民的飲料となり、合衆国の超大国への変身をあと押しする消費者資本主義の象徴となった。

 20世紀のあいだ、世界各地で戦争を続けたアメリカ兵たちとともに旅を続けたコーラは、ついに世界一の流通量を誇る世界一有名な製品となり、現在では単一の世界市場の形成という、賛否両論ある趨勢の代表と考えられる。

 飲み物は一般に考えられているよりも密接に歴史と結びつき、人類の発展に大きな影響を与えている。

 だれがなにをなぜ飲んだのか、そしてその飲み物はどこで生まれたのか、といった一連の流れを理解するためには、農業、哲学、宗教、医学、技術、商業など、普通に考えればまるで無関係な数多くの分野の歴史を包括する調査が欠かせない。

 本書で取り上げた六つの飲み物の歴史には、異なる文明間の複雑な相互作用と、異文化同士の相関性が証明されている。

 これらの飲み物はどれも、過ぎ去った時代の様子を伝える生きた証拠として、また近代世界を形成した力の証として、今もわたしたちの身近に生き長らえている。それぞれの歴史を知ってほしい。そうすれば、お気に入りの飲み物が今までと違って見えることだろう。 』

 これは、「A HISTORY OF THE WORLD IN 6 GLASSES」の新井崇嗣(たかつぐ)訳のプロローグ(生命の液体)の全文である。

 第1部 メソポタミアとエジプトのビール
 第2部 ギリシャとローマのワイン
 第3部 植民地時代の蒸留酒(スピリッツ)
 第4部 理性の時代のコーヒー
 第5部 茶と帝国
 第6部 コカ・コーラとアメリカの台頭

 と続きます。飲み物を通して、世界の歴史を描き直し、”6つのグラス”とその壮大な構想を軽やかな題名としたところにセンスを感じることができる。

 お酒は、季節の料理と共に宴をかこむメンバーの機知に富んだ話題によって、より楽しいものになります。

 『 紀元前5世紀のギリシャのエウブーロスの戯曲の中に、こんな一節がある。
「分別ある男たちのために、わたしはクラテルを三個だけ用意する。

 一つめは健康のためで、これを空ける。二つ目は愛と喜びのためで、三つめは眠りのためだ。三つめを空にしたら、賢者は家に帰る。

 四つめのクラテルはもはや、わたしのものではない――それは悪しき振る舞いのものだ。五つめは大声で叫ぶため、六つめは無礼と侮辱のため、七つめはけんかのため、八つめは家具を壊すため。九つめはふさぎ込むため。十個めは狂気と意識消失のためである」 』

 お酒は本来は、非常に貴重なもので、これをていねいにだいじに、ギリシャの賢人のような格調の高い会話とともに、飲むことによって、健康と愛と喜びが得られるのでは、ないでしょうか。(第51回)