16. 日本歴史を点検する (海音寺潮五郎、司馬遼太郎 対談 1974発行)
『司馬 斉彬(なりあきら)は確か中国語ができましたですね。
海音寺 斉彬のひいじいさまの重豪(しげひで)ですよ。ひいじいさまは中国語が自由にできたんですね。「南山俗語考」という中国語辞典の著述まであります。実際は注文と検閲だけして、侍臣や学者にやらしたんでしょうけどね。
司馬 なるほど。
海音寺 日常の家来どもとの会話は中国語でしたそうですよ。当時のダンディなんですね。(笑)この人はオランダ語も少しはいけました。オランダ語まじりに書いた手紙が残っているのです。もちろん原語で書いています。シーボルトとも親交がありました。
この人の影響は、ひとり薩摩といわず、日本全体に及んでいます。この人は大変長生きした人で、斉彬の二十六の時まで生きていますが、斉彬はこのひいじいさまの大変なお気に入りで、斉彬の洋学敬重思想はこの人の影響です。
この人の子の一人昌高は、豊前中津の奥平家に養子に行ったのですが、中津藩に洋学好きの気風をおこし、家老クラスの連中まで洋学を修めています。この空気の中に福沢諭吉が生まれたんですよ。
また重豪の子の一人長搏(ながひろ)は筑前の黒田家を継ぎましたが、ここである程度の洋学熱がおこって、家臣の永井青崖は洋学者ですね。この永井が勝海舟の蘭学の師匠なんですね。
初め海舟に洋学をやれと奨めたのは、彼の剣術の師匠の島田虎之助ですね。島田は中津藩士ですね。一介の剣客が洋学の重要性を知っていたのは、藩にそういう空気があったからでしょう。海舟は終始一貫。重豪の流風余韻に浴しているわけです。
司馬 あの頃の学問好きというのは大変なものですね。よそにもあるかも知れませんが、肥後の熊本あたりの大きな藩になると、数学師範まであったんですね。学問、兵学、剣術、それら学芸諸部門の師範がおびただしくある中で、数学まである。
池辺啓太という人がなかなか偉かったらしいですが、この人が数学はむろん、天文暦数という奴ですが、そういう和算を基礎にしていたものだけでなく、池辺は長崎の高島秋帆に学んで弾道学のようなところまでやつたようです。
それでもって、数学師範です。今でいえばたかだか熊本県一県で、そういう専門家までが、官僚として藩に抱えられている。
ですからそういうことは、案外、中国や朝鮮では行われなかった。ああいう中央集権的な一種理想的な体制のように見えますが、そこでは行われなくて、むしろ日本のような封建割拠とまでいかなくても、各藩が競う体制では、かえってできるんでしょうね。
海音寺 江戸時代の封建の姿は、今では具象的なイメージは描きにくくなっていますね。各藩にそれぞれ特徴ある文化がある。
司馬 政治上の首都である江戸にはいわゆる旗本8万騎が棲んでいますが、これは余り勉強をしない。江戸は文化といっても遊芸などが発達したが、学問文化は地方地方にむしろ無数に中心ありましたですね。封建体制のおもしろいところだと思います。
むしろ肝腎の江戸そのもの、あるいは江戸っ子はだめで、例えば幕末に語学の塾を開いている人たちが、江戸っ子が語学を学びに来るのを喜ばなかったという話があります。
「お前は江戸っ子か」とまず訊く。江戸っ子だというと、「だめだよ、お前たちはすぐあきてやめる。語学のような、砂を噛みつづけて何年かでやっとモノになるような学問は、田舎から来た根気のいい連中でないとだめなんだ」という。』
この対談の「あとがき」で。司馬遼太郎は以下のように語っている。
『海音寺さんにとって私の年齢は、氏の息子さんであっても不自然でないほど後進である、私が中学生のころ、氏はすでに堂々たる大家であり、生涯このようなひとに会えるとはおもえないほど遥かな存在であった。
私は三十になって小説のまねごとをはじめた。最初に書いた小説は、モンゴル人とペルシャ人しか出てこない小説で、小説というよりそれができそこなって叙事詩のようなものになってしまった。
ところがそれが氏の目にとまり、小説の概念をひろげた見方で、なにがしかの取柄をほめてくださった。
そのあと私は、モンゴル人とダングート人しかでてこない小説を書いてしまった(このころ、私はちゃんと日本人の出てくる小説が書けないのではないかと自分自身にたいしてくびをひねっていた)が、その小説までがお目にとまり、そのうえありえぬほどの幸福なことに、それについて毛筆で長文のほめことばをいただいたことである。
私は少年のころ、いわゆる匈奴といわれる人種に興味をもった。匈奴が東洋史上数千年のあいだ北方の自然に追われてときには南下し、さらには漢民族の居住地帯の文化と豊穣にあこがれ、それを掠奪すべく長城に対してピストン運動をくりかえしてきた歴史と、その人種の、歴史のなかでの呼吸のなまぐささをおもうとき、心がふるえるようであった。
もしそういう自分の気持が文章にできるとすれば、寿命が半分になってもいいともおもったりした。小説を書き始めたとき、それを書きたかったが、しかしそういう情念が小説になりうるはずがないし、第一、人種そのものが、小説の主人公にならない。
なったためしもないし、小説という概念のなかにはそんな考え方はふくまれていないのである。しかし私としてはなんとかねじまげてでもそれを小説らしいものにしたかった。
それを、ともかくも小さいながら書いてみたのが、氏からの激励のお手紙をいただいた第二作であった。小説通の友人が、これは小説ではなく別なものだ、といって私を落胆させたが、落胆のあと、氏から望外の手紙をいただき、胸中、非常な蛮勇がわきおこった。
小説には小説の概念がある、小説の概念にあてはめて小説を書くのは概念の奴隷になることであり、こんなつまらないことはない、せっかく小説を書くうえは概念から自由になるべきだという自己流の弁解を自分にほどこし、やっと書きつづける勇気を得た。
その勇気を得させてもらった唯一のひとが氏であった。もし路傍の私に、氏が声をかけたくださらなかったら、私はおそらく第三作を書くことをやめ、作家になっていなかったであろう。
「いま、会いたい人がある」とある夜、氏は不意に夫人にいわれた。夫人はすかさず、「司馬さんにですか」といわれたという、じつはこのときの会いたい人は別人だったらしいが、ともかくも氏は私にとって感動的なことに、私を知己の一人に加えてくださっていることである。私もふとしたとき、たまらなく氏に会いたい思いに駆られる。
今年の正月、そのようなことで、雑木林にかこまれたしの那須の別荘に二泊三日も泊めていただいた。まる二昼夜というもの、ほんの数時間まどろんだだけで、聴いたり語ったり、じつにもう法楽ということば以外にあらわしようのない愉しさをきわめた。
地上にこれだけの人がいるのに、氏と対いあっているときのみ、私は歴史の実景のなかを歩いている思いがするのである。条件さえそろえば月にさえゆくことができるが、歴史という過ぎた時間のなかにはたれもゆけない。
私にとっての奇跡は、氏とむかいあっているときのみ、自分がたしかに歴史の光景のなかを歩いているという実感がありありともつことができるのである。氏にとっても、私というものにたいして思ってくださっているだろうか。』(第17回)
15. ホーキング、宇宙を語る (Stephen W.Haking著 1989年発行)
『紀元前340年に、アリストテレスは「天体論」の中で、地球は球体だと信じる論拠を挙げている。第一の論拠は、月食は、地球が月と太陽の中間に入りこむために起こることをアリストテレスは理解していた。月の上に落ちる地球の影はいつもまるい。
第2の論拠は、ギリシャ人は旅行のさいの見聞から、南方では北極星が北方より低く見えることを知っていた。第三の論拠はなぜ水平線の向こうから近づいてくる船は、先ず帆が先に見え、つづいて船体が見えてくるのか。
二世紀にはプトレスマイオスは、地球を中心に、月の天球、水星の天球、太陽の天球、火星の天球、木星の天球、土星の天球、一番外に恒星の天球というモデルを提示した。このモデルは、天空に見える天空の位置を予測する上では、かなり正確なシステムであった。
1514年にポーランドの聖職者コペルニックスは、太陽が中心に静止しており、地球と惑星がそのまわりを円軌道を描いて運動していると考えた。(最初、教会から異端の烙印を恐れて匿名で流布した)この考えは真剣に取り上げられることもなく、そのまま一世紀近い歳月が流れた。
そして百年後ガリレオは望遠鏡で、木星のまわりを小さな衛星が回っているのを発見した。さらにケプラーは惑星は円ではなく楕円軌道を動いたいると唱え、予測と観察は合致した。
1687年ニュートンは「プリンキピア」の中で、物体が空間と時間の中で、どのように動くか、微分、積分と万有引力によって、説明した。ニュートンの重力理論によれば、星はたがいに引き合うので、本質的に動かずにいることはできないように思われる。
地球が太陽のまわりをひと回りする間に相対的位置を少し変化して見える星がいくつかある。これらの近い星への距離が直接測れる。近ければ近いほど大きく動くように見える。もっとも近い星はケンタウル座プロクシマと呼ばれる星で約4光年である。(太陽から地球は八光分)
1750年ころすでに何人かの天文学者が、天の川が見えるのは、肉眼で見える星の大部分が、一つの円盤をなすように配置されているためだと説明している。
それから数十年もたたないうちに、天文学者ウイリアム・ハーシェルは大変な手間をかけて、莫大な数の星の位置と距離をカタログにまとめ上げ、この考えを確証したのだった。とは言っても、この考えが完全に受け入れられたのは、今世紀はじめになってからである。』
『現代の宇宙像はアメリカの天文学者エドウィン・ハッブルがわれわれの銀河は唯一の銀河ではないことを1924年に証明した。ハッブルは、それらの銀河までの距離を決定しなければならなかった。
銀河はわれわれの近傍にある星とは異なってはるか遠方であり、実際に天球に固定されているように見える。そのためにハッブルは、距離を測るのに間接的な方法を用いざるをえなかった。
星の見かけの明るさは二つの要因で決まる。どれだけの光を放射しているか(星の光度)、およびどれだけ離れているか、の2つである。ある特殊な形の星はすべて同じ光度をもっており、その中に近くにあるために、距離を測定できるものがある。
この型の星は、他の銀河の中にあっても、同じ光度をもっていると見なせるのではなかろうか。だとすれば、その銀河の距離も計算できることになる。エドウィン・ハッブルは、このやり方で九個の銀河の距離を求めた。
わが銀河は、現代の望遠鏡で見ることが出来る何千億の銀河の中の一つにすぎない。ハッブルは他の銀河が存在することを証明したのち、何年間も銀河の距離のカタログづくりやそのスペクトルの観測に打ち込んだ。
星のスペクトルにはいくつかの色がきわめて特徴的な形で欠けているのが見られるが、この欠けている色は星によって変わる場合がある。どの元素もきわめて特徴的な一組の色を吸収することがわかっているので、これを星のスペクトルの中の欠けている色とくらべれば、星の大気中にどんな元素あるかが正確にわかる。
1920年代に他の銀河にある星のスペクトルの観測がはじまると、たいへん奇妙なことが見つかった。そのスペクトルからは、わが銀河中の星と同じように、特徴的な一組が欠けていたが、欠けている部分がすべてスペクトルの赤い方に向かって相対的に同じ大きさでずれているのである。
光の場合も、ドプラー効果によって、われわれから遠ざかっていく星のスペクトルは赤い端の方にずれ、近づいてくる星のスペクトルは青い方に偏光する。
大部分の銀河が赤方偏移を示していることがわかったときには、びっくりしてしまった。ほとんどすべての銀河がわらわれから、遠ざかっているとは! だがもっと驚くべきことは、銀河が遠ければ、遠いほど、それだけ速く遠ざかっているというのだ!
これは、宇宙はそれまでだれもが考えていたような静的なものでなく、膨張していることを意味している。銀河どうしの距離は大きくなっているのである。
宇宙が膨張しているという発見は20世紀の偉大な知的革命の一つである。静的な宇宙がまもなく重力の影響で収縮を始めることはニュートンや他の人たちも理解していたはずである。
かりに膨張がかなりゆっくりであれば、重力がいずれ膨張を停止させ、ついて収縮に転じるだろう。だが、もし臨海速度以上の速さで膨張しているとすれば、重力はそれを食いとめるほど大きくは決してなれないので、膨張しつづけることになる。』
『ペンローズが彼の定理をつくりあげたのは、私が大学院生で、博士論文を書くためのテーマ探しに必死になっていたときだった。その2年前に私はALS(筋萎縮性側索硬化症)にかかっていると診断されていた。
これは、普通ルー・ケーリック病と呼ばれているもので、あと1,2年しか生きられないと私は告げられた。そんな状況では博士論文のために研究してもしかたがないと思った。――それまで生きていられるとは期待していなかったからだ。
しかし、2年間がすぎても、私の病状はそんなに悪化していなかった。それどころか事態はむしろ悪化していなっかた。それどころか事態はむしろいい方に向かっており、私はすばらしい女性、ジェーン・ワイルドと婚約したのである。だが結婚するには職がいる。職を得るにために、私は博士号を必要とした。』
『1965年、私は、重力崩壊を起こしている物体はどんなものでも最後には、特異点を作るというペンローズの定理について読んだ。宇宙が現時点で、大局的にみて、フリードマン・モデルとほぼ同じであれば、ペンローズの定理で時間の方向を反転させたとき、彼の定理の条件は依然成立したまま、崩壊が膨張に変わることを私はすぐに見抜いた。
ペンローズの定理はいかなる崩壊する星にも特異点に終わるべきであることを示していた。時間を反転させるという論法で、いかなるフリードマン流の膨張宇宙も特異点から始まるべきであることが示されたのである。
いくつかの技術的な理由のために、ペンローズの定理は宇宙が無限大であることを要求していた。そこで私は、再崩壊をさけれれるほど速く膨張している場合にだけ、宇宙は特異点をもたねばならないことを、この定理を利用して証明した。』(第16回)
14. 楽しく学ぶ民族学 (藤木高嶺著 1983年発行)
『地図と申しあげましたが、なかなか手に入らない地域が多い。一昨年、中国のいちばん西端のパミール高原の遊牧民の住む村へ行ったのですが、あの地域になると絶対にわれわれの手に入りません。
ついていた中国の連絡官が航空写真を持っているので、見せてくれと言うと、ちらっと見せたらすぐ伏せてしまう。写真に撮るからと言うと、とんでもない、こんな所は地図の空白地域で国の機密に属するから絶対にだめだ言う。
二、三日して、私がカラーの全紙の写真数枚をみていたら、彼がのぞきに来ました。これはNASAに注文した人工衛星から撮った写真です。NASAに注文しますと、お金さえ払えば世界中どこの写真でも分けてくれます。
日本の窓口になる事務所は東京にあります。そこへ行って分類の本で番号を言って注文すれば送ってきます。赤外カラーで撮っていますが、全紙ですと非常に高いので白黒で十分です。
私たちは、パミールの地域のできるだけ詳しいのを全紙で八枚ぐらいつないで地図がわりに持っていったのです。真上から撮ったものですから、飛行機から斜めに撮ったものとは比べものにならないくらい正確です。
中国の連絡官は、どうして手に入れたのかとえらいけんまくで、びっくりしてました。余談になりますが、関野吉晴君は、衛星考古学というのを言い出しています。
衛星の地図を基にインカの遺跡を探してやろうと、アマゾン源流地域の衛星写真を取り寄せて丹念に拡大して調べ、三年目にアマゾンの源流地域にすごい遺跡を発見しました。インカはアマゾンまで進出してないという今までの学説をくつがえすような発見をしたわけです。』
『仲良くなっていく上でまず大切なのは言葉です。行く前に辞書とか会話の本が手に入るような地域に行くのは楽ですが、たいがいの場合は、フィールドワークは単語の採集からはじまります。
だから近づくまでに、たとえば片言の英語などのできる者が案内する場合が多いのですが、そういう人がいる間に、「これは何か」「名前は、年齢は」というような簡単なものの聞き方の会話を、十くらい覚えておくことです。
あいさつとかお礼の言葉とか。あとは現地に入って自分でやります。徹底的に、「これは何か。何に使うのか」。たとえば体に関しては、目から鼻、口など全部を指して、何とよぶか聞いて採取して単語帳をつくる。
ローマ字でも片仮名でも良い。単語をどんどん採集していくのですが、適当に分類しないとややこしくなります。あいさつの言葉のページとか、身体に関すること、食物に関すること、衣服に関することとかを、それぞれ二、三日に一度くらい分類していきます。
そういうことから始めていけば、必要に迫られる会話はわりと早く上達するものです。これは私の体験ですけど。』
『フィリピンの南西の端、ボルネオにいちばん近いところに、細長い形をしたパラワン島があります。島の面積は、日本の四国の三分の二くらいです。パラワン島の南部の山地にコノイ族という、フンドシ一つのハダカでジャングルを走りまわり、木から木へとトウにぶらさがって空中をとぶ少数民族がいるといわれていました。
「コノイ」というのは「世の中から隔絶さらた人々」という意味です。もともとパラワン島の先住民族です。
村の存在がわかったのは、いきなりジャングルがひらけて、畑があり、イモがたくさん植えてあったからです。ああ、ここはコノイ族が住んでいる居住地だな、とわかったのです。
私たちは下ばかり見ていたので気がつかなかったのですが、1人の隊員が「ああ」と叫びました。指さす方向を見上げると、なんと木の上に、鳥の巣のような小屋が乗っかっているのです。
高さは地上から床下までが、約八メートルもあります。かなり高いですね。これがめざすコノイ族の住み家だと感激しました。
焼畑では、キャッサバ、サツマイモ、タロイモ、トウモロコシ、バナナなどを作ります。陸稲もわずかに作っています。タバコもあります。スワ(夏みかん)、サトウキビ、カボチャ、ヒョウタン、ササゲ、トウガラシ、ワケギなども作っています。
ここは動物性タンパク質も豊富なのです。主な動物をあげますと、ヒゲイノシシ、ビンツロング(クマネコ)、ハクビシン、マングース、テン、スカンク、アナグマ、カワウソ、カニクイザル、センザンコウ、オオトカゲ、ネズミ、リス、モモンガ、オオコウモリなどです。
食料にならないもので、ヘビ、ムカデ、サソリ、ヤスデなどがいます。鳥類の種類も多くて、タカ、ワシ、オオム、キツツキ、ハチドリ、ムクドリ、ハト、カラス、キクイダタキなどです。
ほとんどの動物が山の人の食料になるのですが、特に好んで食べるのはヒゲイノシシ、センザンコウ、サル、モモンガ、リス、ネズミ、ハト、オオコウモリです。
コウモリなんか食べられないと思われるでしょう。日本のは食虫性ですが、ここのオオコウモリは果実、つまり植物を食べています。草食動物に匹敵するオオコウモリだからおいしいのでしょうか。
私も食べてみましたが、燻製にしたものなんか、鶏肉の燻製かと思ったくらいおいしい味でした。第一、日本にいるコウモリは、小さくて骨ばかりで食べるところがありません。オオコウモリは足の付け根のところに肉がかたまっていて、なかなかおいしいのです。
狩猟法としては、吹き矢、ヤリ、ワナがあります。ワナがいちばん多いのは、わざわざ狩猟に出かけなくても、ワナにかかってくれる動物だけで十分だからです。ジャングルの中はワナがこわくて勝手には歩けません。
けもの道に、細い竹ひごが張ってあって、足を引っかけると、満月のように引き絞った弓から矢が放たれて飛んでくるワナは危険です。ヒゲイノシシなどは、このワナでとります。矢に毒が塗ってあって、その場では死なないが、ずっと追っていくとどこか先で倒れているといったぐあいです。
さて、コノイ族はなぜ鳥の巣のような樹上家屋に住むのでしょうか。私自身が樹上家屋に住んでみた経験から、その利点と思われるものを考えてみました。
雨の多い湿地帯ですから、高いところほどよく乾燥しています。ということは衛生的で、害虫も防げるわけです。このあたりはイブス(アブラムシ)が無数にいます。
低い家で寝ていて、あくびなんかすると、口に入ってくるし、ご飯を炊いても、イブスが入ってないものなどめったにできないほどです。ちょっとしたすき間でもツルッと入ってくるので、気持ち悪いなんて言っていたら、生きていけません。
しかし、乾燥しているところには、イブスのほとんどいないのです。もう一つ、樹上家屋は高いから、太陽光線を浴びるのに適しています。ジャングル地帯ですから、低いところでは、ほとんど太陽光線が届きません。だから樹上家屋は健康上にもいいのではないかと思いました。
さらにもう一つ。湿地帯だから柱はくさりやすいのですが、生木なら大丈夫で、その心配がいりません。建てるのに簡単で、安定性も強いのです。このようなわけで、樹上家屋はここの環境に適したすばらしい住居だと思いました。』(第15回)
13. アマゾン動物記 (伊沢紘生 1985年発行)
『ピグミーマーモセットは、人間の手のひらにのるほどの大きさしかない。体重わずか二〇〇グラム、新世界ザルのなかではもっとも小さい。私は1976年の四回目の調査の時、ペルーでこのサルの生態を調べた。かれらの日課は、おおよそつぎのようなものである。
夜明けとともに起き、一本の木へ樹液の採食に出かける。その木ははっきりきまっていて、前日の夕方、暗くなる直前まで採食し、そうしながら再び樹液がしみ出るように細工をほどこしておいた木だ。
細工とは、歯を使って、大木の幹にすでにほってある丸い穴を少し拡大するか、新しく樹皮に傷つけることである。そこからは夜のうちに樹液がしみ出て、かたまっている。すなわちそこに、やにができているわけだ。
私がピグミーマーモセットの樹液採食行動をつぶさに観察して、強く興味を覚えたのは、このサルが毎日の食物を得るために、”待つ”ことを知っていることだった。樹液は、すぐにはにじみ出てこない。十分にたまるまでには、半日以上かかる。
すなわち、かれらは半日先をみこして、木の幹に穴をほっているということだ。半日も先の報酬のために労働をするサルは、世界に現存する20種のサル類の中で私たちヒトと、このピグミーマーモセットを除いて外には、いないだろう。』
『イノシシによく似たクチジロペッカリーは、木の実が大好物である。しかし、自分で木に登ってとるなんてことは、もちろんできない。だから、サルたち、特に数十頭の群れをつくって生活しているウーリーモンキーにいつもついて歩き、かれらが落とす食い残しをちょうだいしている。
そんなとき、ウーリーモンキーは、よく、大きな木の実を口にくわえたまま、下の方におりていって、ペッカリーにその実をぶつける。痛くもかゆくもないのに、ペッカリーはブウブウ鼻息を立て、キバをカチカチ鳴らして、わざと威嚇しているような格好をする。
サルは面白がってまた実を取りにいく。サルにとってはいくらでも木の実があるわけだから、ベッカリーをからかうのは愉快な遊びにちがいない。木に登れないバッカリーは、サルをたのしませてやって、その実をいただく。
私はこれまでの長い調査行の間に、動物たち相互の興味深い生態をつぶさに観察してきた。そして、ウーリーモンキーとクチジロベッカリーで見られたような、のどかさやほほえもしさを感じる関係をたくさん見てきた。
アマゾンの動物たちはみな、悠々と生きており、しかも、同じジャングルにすむ他の動物たちのことをほんとうによく知っていて、驚くほど賢く生きている。かれらには、われこそは生き残るんだとむきになっているところが少しもない。
他の動物を自分の競争相手として位置づけ、蹴落とそうとやっきになったいるところも、まったくない。むしろ、相手の存在を十分に認めた上で、他の動物からのなんらかの利益を上手に自分の生活の中にとり込もうとしているように見える。
私の知るかぎりでは、アマゾンの原住民インディオたちも、同様のつきあい方をジャングルの動物たちとしていて、近代文明の殺伐とした荒波がこの大地に押し寄せる前までは、ほんとうに悠々と、そして賢く生きていた。』
『ところでチンパンジーは、野生状態であろうと飼育下であろうと、やたらに穴や隙間になにかと突込みたがる行動上の”くせ”をもっている。シロアリ釣り行動やスポンジ行動やなめ行動はこのような、一般的にはくせと呼べる行動上の素質の上に成り立っている。
オマキザルは堅いやしの実やブラジル・ナッツの実を竹の節や木の幹にたたきつけて、じょうずに割って食べる。しかもかれらは、野生状態だろうと飼育下だろうと、やたらと物を手で握ってたたきつけたがるくせをもったサルだ。
すなわち、サル類の道具使用行動は、そうするサルの行動上のくせの上に成り立っていると考えることができる。初期人類については、かれらはやたらと物を投げつけたがるくせをもっていたのだとすれば、なんとか説明がつくことになる。
そう仮定する一つの根拠を現代の幼児の多くがまだほんのよちよち歩きのころからやたら物を投げつけたがるくせが発現するという事実に求めることはできないだろうか。』(第14回)
12. アインシュタインの就職願書 (木原武一著 1994年発行)
『相対性理論で有名な物理学者アインシュタインの場合は、安定した職場を確保するために生涯において、少なくとも二回、自分を売り込まねばならない立場におかれた。最初は、大学を卒業して、特許局に就職するときである。
「……学業も終りになったとき、私は突然すべての人から見捨てられ、人生を前にして途方に暮れていた。そのとき友人が助けてくれ、特許局の吏員になった。もしこの助けがなかったら、私は野垂れ死にはしなかったろうが、精神的には萎縮したことだろう」とアインシュタインは当時を回願いている。
1901年、二十二歳のとき、「スイス連邦工業所有権局」に提出した就職申込書というのが残っている。「私こと署名者が、本書状をもって、工業所有権局の二級技官に応募することをお許し下さい。私は1896年~1900年までチューリッヒ連邦工科大学に在籍して数理物理学部門の専門課程をとり、物理学および電子工学の分野の専門知識を習得いたしました。……」
それから六年後、ベルリン大学に論理物理学の教授のポストが新設されるのを知ったアインシュタインは新たな就職活動を展開することになった。学者の場合、自分を売り込む材料は研究成果しかない。当時すでに彼は相対性理論に関する論文を発表していた。
教授資格審査のために提出した論文の中にはもちろん物理学に新しい時代をひらくこの論文もはいっていた。ところが、この論文は審査員にはほとんど理解されず、また、提出書類の形式がととのっていなかったということもあって、申請は却下さててしまうのである。
これに失望したアインシュタインは、一時、大学での研究生活を断念したほどであったが、翌年、ふたたび申請を出し、ようやく新しい職業を確保することができたのであった。』
アインシュタインは、読字障害があったと言われ、12歳の時に、ユークリッド幾何学と微分積分学を独習したと言われる。1895年に一度チューリッヒ連邦工科大学の受験に失敗したが、アーラウのギムナジュウムに通うことを条件に、来年度の入学資格を得た。
アインシュタインの相対性理論は、 E=mC2 、エネルギー(E)= 質量(m)x 光速度Cの2乗 で表され、核分裂、核融合のエネルギーの発生した分、質量が減少し、エネルギーと質量は、上記の式で表される。
皆既日食時、太陽の重力場を通過する星の光が、太陽の重力により、僅かに曲げられることにより、アインシュタインの相対性理論は証明されれた。そのためアインシュタインは、湯川秀樹らとともに核実験反対運動を行った。さらにブラウン運動が、熱運動媒体の分子の不規則な衝突による現象とした。(ブラウン運動とは、空気中の煙の粒子がゆっくりではあるが、ランダムな運動をすること)
『自己を売り込むにも、自分を高く売りつけるための「余裕のある」方法と、ワラにでもしがみつくような「絶望的な」方法との二種類がある。ハンス・クリスチャン・アンデルセンの場合は絶望的な典型である。
彼は十四歳のとき、ほんのわずかなお金を懐に、故郷をあとにした、コペンハーゲンにやって来て、故郷の名士に書いてもらった紹介状をたよりに、ある舞踏家を訪れる。物もらいと間違えられて、やがて通されるが、彼女は、紹介状の主のことをまったく知らなかった。
芝居にはいりたいという衷心からの希望を言うと彼女はどういう役が出来るかとたずねた。そこでタンブリンのかわりに帽子をたたきながら演じ歌ったが、気ちがいだと思われた。それからは、売り込みの毎日だった。王立音楽学校に新しい校長が着任した時、出掛けていった。
これがだめなら故郷に帰るという悲愴な決意だった。この必死の売り込みが、功を奏し、歌の練習を始めるが、やがて声がわりで、声がつぶれて歌えなくなった。故郷に帰って手織りでも習ったほうがいいといわれ、振り出しに戻った。
アンデルセンに残された道は、脚本を書くことであった。そこで、悲劇の一幕を携えて、シェイクスピア翻訳家の所に乗り込むが、まるで相手にも、されずに追い返されてしまう。アンデルセンほど若い頃から自分を売り込むことに日々明け暮れて、その屈辱を味わった人もまれであろう。
その体験記はすべてのセールスマンにとってなぐさめの書でもある。』
アンデルセンはフューエン島のオーデンセに生まれました。父はまずしい靴職人でしたが、子どもの彼に、よく「千一夜物語」などの話を読んで聞かせていました。
彼は父から詩的才能を、祖母からは空想を、母からは信仰心をうけついで成長しました。貧しくも、あたたかい家庭の中で彼は少年時代を過ごしました。しかし、1812年に父は、出兵して、帰ってきた父は病気となり、33歳の若さで亡なります。
その後、彼はコペンハーゲンに出て歌手、俳優を志しますが失敗。しかし、王立劇場支配人コリンの援助でスラーゲルセの高校に入学。続いて、貧しい暮らしの中からコペンハーゲン大学を卒業し、イタリアに旅行して、そのときの印象と体験をもとにして、1835年に「即興詩人」を書き、一躍有名になっていきます。
美しくも、悲しい、「絵のない絵本」「親ゆび姫」「みにくいあひるの子」「赤い靴」など、多くの傑作童話は人類の宝とさえいわれ、童話の父として今も世界中の子ども達に親しまれています。また、自叙伝「わが生涯の物語」は自伝文学の名作といわれています。(第13回)
11. 僕は動物カメラマン (宮崎学著 1983年発行)
『オヤジ(カメラ店)が貸してくれたのは、100ミリと200ミリの望遠レンズだ。だが、新品で、お客に売るはずのそのレンズを、私はこともあろうに渓谷の岩登りをしていて、岩にぶつけてしまたのだ。私は青くなった。すぐさま山から引き返して、カメラ店にとび込み、ひらあやまりにあやまった。
そして私の不始末から生じた事故だから2本のレンズは私が買い取ると申し出たのだ。しかし、オヤジはなぜか、そんなことまでしなくてよいと頑強にいいはる。結局、何回かのやりとりのうち、2本のレンズは私が買うが、支払いだけは、無期限にのばしてくれるということになった。
なんという太っ腹なオヤジであるかと、まだそれこそ少年であったわたしはうれしくてしかたなかった。世の中には親切な人がいるものだとつくづく思った。当時の私が、どれほどの経済状態でカメラをにぎっていたか、そのオヤジがもっともよく知っていたはずである。
それほどまでにしてくれたのは、私のカメラにたいする情熱がなみなみならぬものであったからにちがいなかった。そのことを、オヤジは、知っていてくれていたにちがいなかった。』
『その夜、中川村のカラスの大群を絵本にするために伊那谷にこられた、廣岡さんと今江先生を案内したことで、村の小さな旅館で私のスライド映写会が始まった。それまで私が”ライフワーク”とも思っていたニホンカモシカの生態写真に、いたく感動してくださり、そして、その場で、私が撮りだめしていたニホンカモシカを写真絵本として出そうと話が決まったのである。
いつの日か、ニホンカモシカで私はできることなら一冊の本を作ってみたいと夢想していた。だから、その夜のできごとは、文字通り”夢”のような話であった。こうして一年ほどがたって、一冊の本ができた、書名は「山にいきる――ニホンカモシカ」(1970年)。
私にとって、あらゆることが初めての経験だった。物語をくみ立て、写真を選別し、レイアウトしていく、そんな作業をまったく知らなかった私は、いちいち今江先生や廣岡さんの助言にうなずき、そして、ものごとを組み立てるとはこういうことかと目を開かれる思いであった。
ひとつの物語としての写真の選び方、季節感のとり入れ方、また、寒色系だけでまとめていた写真をみて一言「赤がほしいね」と今江先生はアドバイスしてくれた。まだ若かっただけに、廣岡さんや今江先生の一言一言が、骨身にしみた。この、初めての写真絵本作りは、その後の私の作品づくりに大きな影響を与え続けた。』
『今江先生は、これまた手紙で私を励まし続けてくださった。作品を絶対に”安売り”してはいけない、作品が、自分で納得のいく構成としてまとまるまでは、たとえ生活が苦しくても”小出し”にして売ってはいけないと。
そして、最後に「あなたの仕事は、全国でかならず1人や2人の人が注目しているはずだから、多くの人を相手にする気持ちを持たず、注目してくれているひとりの人だけのためにがんばりなさい。そうすれは、多くの人たちが認めてくれるようになるはずだから……」と書き添えてあった。その間に私をモデルにした「水と光とそして私」という作品を書き私の株をあげてくださった。』
『昆虫写真家の栗林慧さんは、小さな昆虫の写真を、見事なクローズアップで、シャープに、しかも生態に忠実なねらい方で、撮られていた。さらに驚かされたのは、自宅の工作室だ。カメラを改造するための工作道具が整然とならべられていた。
撮影目的のためには、自らあらゆる工夫をし、そのための装置をつくりだしていくという姿勢と気迫に満ち満ちた部屋であった。その部屋は、私にとって驚異であったと同時に希望をあたえてくれた。私が以前会社で使ったことのある機械や工具がならべられていて、私にも使える自信があった。
それまでカメラを改造してまで使うということをしなかった私に、自分でも改造できるということを教えてくれた。 これらの作品はすべて、昆虫自身に赤外線ビームを横切らせて、いわば昆虫自身がシャッタを切った写真だった。』
『私がフィールドとしていた中央アルプスの原生林の中に、一本の登山道があり、動物たちが頻々と出現していた。この登山道に赤外線ビームを張り、そのビームを動物が横切った瞬間にシャッターが切れるような仕かけをすれば、登山道に出現する動物のすべてを知ることができるはずだと思った。
私は、栗林さんの撮影装置にヒントを得て、山中でも使用可能な性能の装置の開発を独自に手がけることにした。かって、信光精機という会社へ勤めていた経験があったから、かなりなところまで自分ひとりでおし進めることができた。
しかし、心臓部となる電子回路にいたってはどうすることもできず、信光精機の宮脇社長に全面的に協力してもらうことになった。紆余曲折をへて、一応は目的にあう装置ができあがることになった。
さっそく、装置を山中にセットして、撮影に入ったのであったが、それでもまだ未熟な部分が多く、思わぬトラブルが頻発した。もっとも困難をきわまたトラブルのひとつが、自然現象の湿気と雨である。この対策にはまったく閉口してしまった。
赤外線装置は設計変更をくり返し、レンズ関係から鏡筒づくりにいたるまで、すべて旋盤でアルミの材料のけずり出しからはじめ、ネジ切りして、様々な防水加工の工夫をこらした。
これらは、そのつど、山中にセットした状態で逐次テストされ、改良していくといった作業手順となった。だから最終的に装置がフルに動作作動するようになるまでさらに2年の歳月が流れた。
こうして、雨を待ち、台風を迎えて、雪と氷の季節を乗り越えてきた”ノウハウ”といったものが、結果的にはたしかな手応えとなって、野生動物たちのありのままの姿を写しはじめた。
こうして開発をはじめて4年後、私の「けもの道」の撮影はようやく完成したのであった。そして、初めての個展をニコンサロンで開催することが出来た。』(第12回)
10. 四千万歩の男(井上ひさし著 1990発行)
『十七歳になり、親戚の者の口ききで伊能家に奉公にあがった。伊能家には、経史、諸子、本草、医術、算法、詩文、和歌、物語などの各分野にわたって三千冊を超える蔵書があると噂されていたが、忠敬はこの蔵書を目あてに奉公するつもりになったのだった。
三代前の主人と4年前に亡くなった女婿の景茂がたいへんな読書家だったらしい。店を切り回していたのは、家つき娘で景茂の妻の達(みち)と番頭だったが、忠敬はこの二人のどちらかから「書物を読んでもよろしい」という許可を得ようとして、はじめて学問を忘れ、身を粉にして働いた。
学問をするためにまず学問を忘れなければならなかったとは皮肉なはなしだが、忠敬の働き振りのよさはもうひとつの大きな皮肉を生み出した。達の後見人たちが忠敬を見込んで、彼をこの家つき娘の二度目の婿にしてはと騒ぎ出したのである。
婚礼の宴が果てて母屋の寝間に引き揚げた忠敬は――いまでもはっきり憶えているのだが――物置の書物の山の中から見つけておいた関孝和の「開平方術」という算法書を枕元の行灯の灯のかざした。(これからは多少の暇もできよう。その暇を生かして算法の研究にはげもう)
うきうきとそんなことを思いながら頁をめくっていると、一足おくれて入ってきた達がいきなり忠敬の手からその算法書を叩き落した。「書見をするような婿どのはこの伊能家にはいりませぬ、どうしてもと言うのでしたら、この縁組は破談にいたします」
相手は家つき娘、しかも自分より四つ年上で結婚の経験もある。貫禄のちがいが忠敬の口を封じた。「祖父も亡くなった前の夫も学問が好きでした。小作人や店の差配よりも書物をひろげることに精を出し、おかげで下総第一の名家ともいわれたこの伊能家、すこしく傾きました。
あなたを夫に選んだのは働きぶりが群を抜いて見事だったからで、わたしがあなたを好いたからではありません。あなたの役目はこの伊能家をふたたび下総第一の名家に押し上げること。それが出来そうにないと見たら、いつでもあなたを追い出しますよ。すくなくとも四十歳の声を聞くまでは、書見はいや。ねえ、約束してくださいね」
右の台詞、あとになるにつれて声も鼻にかかりちょっと艶かしくはなったけれど、忠敬はこのとき達を怖い女だと思った。婿入り先を叩き出されたときの父の哀れな様子を知っているだけにひとしお恐ろしかった。(……あの関孝和の「開平方術」をふたたび行灯のそばへ持ち出したのはあの夜から二十年後、達が四十三歳で死んでからであった)』
伊能忠敬(1745~1821)は現在の九十九里町に神保貞恒の次男として生まれた。6歳の時、母が亡くなり、婿養子だった父は兄と姉を連れて、実家の神保家に戻る。生家は、母の弟が継ぎ、10歳の時、父の元に引き取られる。
18歳の時、伊能家の婿養子に入り、酒の醸造、新田の開発、小作人による稲作、米取引、名主、村方後見(新田の開発、水田の水管理の調整役)などの事業をいくつもの台帳の数字によって管理し、江戸と大阪の米相場、関東、東北の米の作柄、の情報によって、忠敬が婿入りしてから、50歳で家督を譲るまでの32年間で、今(1975年)のお金で、資産を3億から70億にした。
忠敬は、利根川の洪水、浅間山の噴火、天明の飢饉のときは、佐原村のために米やお金を使った。
50歳を迎えた忠敬は、隠居後、天文学を勉強する為に江戸へ出る。忠敬は、この当時の天文学の第一人者、高橋至時(よしとき)の門下生となった。高橋至時32歳。忠敬は51歳。当初、至時は忠敬の入門を“年寄りの道楽”だと思っていた。
当時、経度一度の間に、直線距離にして、地表ではどのくらい歩くか、35里だとか、25里とか大問題であった。当時、蝦夷地に行くには幕府の許可が必要で、至時が考えた名目こそが“地図を作る”というものだった。
忠敬は、陸路を北上しつつ、北極星の高度を計り、歩測し、子午線の1度の長さを28.2里を実測した。56歳~72歳までの16年間「2歩で1間」の歩幅で日本の海岸線を歩き回り実測による日本地図を完成させた。
忠敬の作った地図は、幕府に納めた1部と師匠の高橋至時に1部、自分用1部であったが、至時の後継者であり、長男の景保は、シーボルトの洋書と地図を交換した。それが問題になり、高橋景保は、獄死する。(第11回)