チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「アフリカ旅日記」

2014-12-25 14:33:48 | 独学

 68. アフリカ旅日記 ゴンベの森へ(星野道夫著 1999年8月)

 著者の星野道夫は、1952年、千葉県市川市に生まれる。20歳の夏、アラスカでエスキモーの家族と三ヵ月間暮らす。慶応大学卒業後、動物写真家の助手を2年務め、1978年、アラスカに移住。アラスカ大学野生動物管理学部で4年間学ぶ。以降アラスカの自然と動物、人間を撮り続ける。1996年8月、カムチャツカ半島クリル湖取材中、ヒグマの襲われ死亡。

 本書の原稿は、星野道夫がカムチャツカ撮影行の旅立つ前日、1996年7月21日に脱稿された。私も著者の多くの本と写真を読んいるが、著者がなくなって後、何年振りかで(現在2014年12月)本書を読んで、詩のような文、美しい(懐かしいような)写真に感動し、紹介したくなった、著者といい、植村直巳といい、もっと話を聴きたかった。でも残された美しい写真と詩のような文を通して、我々に何か大切なものを伝えてくれるのでないだろうか。

 

 『 東京発12時40分。スイス航空機はチューリヒへ向かっている。窓ガラスに顔をつけ、眼下に広がるシベリアの冬の風景を見下ろしていると、いつものようにアラスカの原野を飛んでいるような気がしてくる。

 今の時代、アフリカに行くなんて何も珍しいことではないのだろうが、アラスカをほとんど出たことがないぼくにとって、そこは遠い大陸だった。その遠さは、できるだけ大切にしたい感覚でもあり、旅慣れなんてしたくはなかった。

 世界とか、地球とかいう言葉に、無限の広がりを感じていたいのである。人が旅をして、新しい土地の風景を自分のものにするためには、誰かが介在する必要があるのではないだろうか。どれだけ多くの国に出かけても、地球を何周しようと、それだけでは私たちは世界の広さを感じることはできない。

 いやそれどころか、さまざまな土地を訪れ、速く動けば動くほど、かって無限の広さを持っていた世界が有限なものになってゆく。誰かと出会い、その人間を好きになった時、風景は初めて広がりと深さを持つのかもしれない。

 私たちが知っている海の音は、本当の海の声ではないという。浜辺で波が打ち寄せる音、船が波を切ってゆく音……。しかし、気球で海原を超えながら、その男がシーンとした静けさの中で聞いたものは、海そのものが持つ壮大なうねるような音だったらしい。

 ぼくはその本当の海の声を、いつの日か聞いてみたいものだと思った。やがて海の音が消え、何とも言えない和音に包まれてくると、雲間からアフリカ大陸が見えてくる。ジャングルのさまざまな生き物たちがかもし出すその和音が、ぼくのイメージの中の最初のアフリカだった。

 機内のアナウンスが聞こえてきて、窓の下にスイスの田園風景が広がっている。成田を飛び発ってからずっと読み続けていた本、「心の窓――チンパンジーと三十年」を閉じ、ザックの中にしまう。チューリヒの空港では、友人のミヒャエルと、この本の著者ジェーン・グドールが待っているのだ。

 「オーイ、ミチオ、こっちだ!」しばらく空港のロビーの中で迷っていると、エスカレーターで降りてくるミヒャエルの姿が目に入った。昨年(1994)の十月、オーストリアのザルツブルクで別れてから、四ヵ月ぶりの再会である。

 「よく来たな。とうとう夢が実現したってわけだ!」ミヒャエルはぼくの肩を揺さぶりながら、何だか遠足へ出かける子どものようにはしゃいでいる。そう、夢が叶ったのだ。時差ボケで頭が回らないぼくも、急に嬉しさがこみ上げてくる。

 「出発までまだ時間があるけど、ジェーンもすでに来て、上で待っているんだ」待合いロビーに向かうと、人混みの中で、その女性はひとり際立っていた。着飾った人々の群れの中で、あまりに質素なたたずまいだったからだ。まわりのすべてのものが動いていて、彼女だけが取り残されて静止しているかのようだった。

 「ジェーン、紹介するよ、友人のミチオだ」彼女はぼくの目を見つめ、ほほえみ、手を差し出してきた。「はじめまして。ジェーン・グドールです」「はい、はじめまして……」さっきまで読んでいた本の著者が、いつの間にか目の前にいて、ぼくは次の言葉が出てこない。

 「一緒にアフリカに行けて光栄です」やっと思い浮かんだ陳腐なセンテンスだが、それは正直な気持ちでもあった。初めてのアフリカをジェーン・グドールと一緒に旅することができるなんて……。

 私たちは、ここからケニアを経て、タンザニアの首都ダルエスサラームへと向かう。だいぶ遅れているらしい出発便を待つ間、ぼくとジェーンは、現地のタンザニア人のスタッフへ、いつも持って帰るという、おみやげのチョコレートを買いに出かけた。

 「ミヒャエルから、いつもあなたのこと聞いていたわ。アフリカは初めてなの?」「ええ、まったく……本当に楽しみにしていたんです」ぼくがジェーン・グドールに会いたかったのは、彼女を通してアフリカという世界を垣間見たかったからだろう。

 生まれ故郷を離れ、新しい土地へ移り、そこで生き続けてゆくことの意味を、ぼくは少しずつわかりかけていた。アラスカとアフリカという違いこそあれ、ぼくが彼女の著作を読みながら、ある共通する想いを感じていた。

 これから長旅なんだと思うと、何だか気も楽になり、それにアラスカに共通の友人がいることもわかって、急に親しみが湧いてきた。そして、ジェーン・グドールは、すてきな人だった。出発ロビーの長椅子に三人で腰かけていると、近くにいたスイス人が、ミヒャエルに小声で聞いている。

 「もしかすると、そこにいるのはジェーン・グドール博士ですか?」日本ではあまり知られていないけれど、ヨーロッパでは、ジェーンを知らない人はいないくらい有名なのだ。 』

 

 『 ぼくは、アラスカの友人、ジョン・ヘクテルのことを思い出した。ジョンはアラスカ野生生物局の研究者で、クマのフィールド調査にかけては右に出るものはいない、グリズリーベアの専門家である。アラスカ野生生物局とは、アラスカの野生生物の状況を調査する州の機関で、アラスカの自然と関わってゆきたい若者たちの憧れの仕事場かもしれない。大自然がそのまま仕事場なのだ。

 ジョンは生物学者の枠を超えて、クマという生き物に限りない想いを抱いていた。仕事を離れ、冬になると、老人ホームや小学校をまわりながらクマの話を聞かせる彼を、ぼくはいつも遠くから見つめていた。ジョンの中のある種のアマチュアリズム が好きだった。

 アラスカ野生生物局の中でもジョンのおかしさは定評があり、ぼくたちは同い年のこともあって、会えばいつも冗談を言い合う親友だった。おたがいに生物の骨や頭骨を集めるのが好きで、ジョンのコレクションの素晴らしさは、まあ仕事柄ということもあるが、もしかするとアラスカで五本の指にはいるかもしれない。

 ジョンのほしい古くなったぼくのカメラの機材と、ぼくがほしいジョンのコレクションを、これまで何度交換したかわからない。「おい、ミチオ。三〇〇ミリのレンズを捜しているんだが、使っていないのあるか?」「ああ、あるよ……そうだな、オオカミの頭骨ひとつでどうだ」といった具合に、ぼくたちは昔ながらの物物交換をたのしんでいる。 

 話がそれてしまったが、ぼくはつい数ヵ月前に、ジョンと交わした会話をおもいだしていたのだった。「ジョン、今度ジェーン・グドールと一緒にアフリカに行くことになったんだ」「えっ、……信じられないなあ、おれをからかっているんだろ」「本当、本当だってば……ジェーン・グドールと一緒にアフリカに行くんだよ」

 ジョンは二十代の頃、ピースコア(アメリカの青年海外協力隊のようなもの)でアフリカに行っているが、オートバイの事故で九死に一生を得、その時の大手術で脾臓を失い、もう二度とアフリカに戻ることができない。アフリカの伝染病に対する抵抗力がないのだろう。

 それだからなのか、ジョンは何年かを過ごしたアフリカでの話をほとんどしたことがない。そしてジョンにとって、同じ動物行動学者として、ジェーン・グドールは憧れの人だった。 』

 

 『 この旅が実現したいきさつは、友人のミヒャエルの話から始めなければならない。ミヒャエル・ノイゲバウアーは、オーストリアのザルツブルクで小さな絵本の出版社を経営している。ずっと以前、そこでジェーン・グドールのチンパンジーの絵本を作成したことがきっかけで、ふたりは親しくなったのだ。

 「初めて会ったのは、動物行動学者コンラッド・ローレンツ(1973年ノーベル賞生理医学賞)の家だった。当時、野生動物をテーマにした絵本のシリーズを考えていて、ローレンツの他に、ジェーン・グドールにも参加してほしかった。でも、彼女の本を出す出版社は決まっていて、無理だと断られたんだよ。

 ジェーンはすでに世界的に有名だったし、こちらは家族経営のような小さな出版社だからね。それはそれで仕方がないと思って、とにかくその日は仕事の話をしないでジェーンらと楽しく過ごしたんだ。そして車でジェーンをホテルまで送る帰り道、彼女が突然、一緒に絵本を作ると言い出した」

 それからは、ふたりは出版人と著者の関係を超え、ミヒャエルは彼女を陰で支え、ジェーンは彼を自分の弟のように大切にしてきたらしい。素朴で、のんびりとして、いたずらっ子がそのまま大人になったようなミヒャエルを見ていると、ジェーンの気持ちがわかるような気がする。

 一年の大半を、研究資金を集めるために世界中を飛び回り、身をすりへらしている今のジェーンにとって、ミヒャエルは数多くの彼女を支える人々の中でも、とりわけ心を許せる存在なのだろう。ジェーンは、毎年クリスマスが近づくと、ザルツブルクでミヒャエルと過ごすのを楽しみにしている。

 さて、ぼくとミヒャエルとの関係も、同じシリーズでクマの絵本を作った時から始まっている。それよりずっと以前から、ぼくたちは共通の友人が日本にいることもあり、初めてザルツブルクで会った時から古くからの友人のように親しくなっていた。

 そしてその時から、いつか一緒に、ジェーンのフィールドであるタンザニアのゴンベの森を訪ねようと、ミヒャエルはずっと計画していたのだった。アラスカとオーストリアの間で、ぼくたちは何度電話でこの旅の夢を語り合っただろう。

 「ミチオ、絶対に時間を作れ!三人の都合がうまく合う時なんてなかなかないんだから。きっと、素晴らしい旅になるぞ!」受話器から聞こえてくるそんなミヒャエルの声は、今も心に残っている。誰にも、思い出を作らなければならない「人生のとき」があるような気がする。わずか十日ばかりにすぎない旅だが、一日一日が珠玉のような時間なのだ。

 深夜のチューリヒを飛び立ち、一路アフリカへ向かいながら、いつかアラスカからニューヨークへ飛んだ夜のことを思い出していた。飛行機で旅をする時、ぼくは夜行便が好きだった。零時近くにフェアバンクスを発ち、明け方にはニューヨークに着くのだが、時差が四時間あるので、十時間近くアメリカの夜を飛び続けるのだ。

 窓に顔をつけて眼下を見下ろしていると、アラスカの雪の原野が月光に照らし出され、凍てついた山々や氷河の陰影がくっきりと浮かび上がっている。そんな中に、時折、ポツンと、かすかな灯を見ることがあった。誰かが原野で暮らしているのだ。

 そう思うと何だかひどく切ない気持ちになって、いつまでもその光から目が離せない。やがてシアトルの大都会の夜景が飛び込んできて、そこからはニューヨークまで地上の光が絶えることはない。原野に浮かぶ光にも、大都会を埋め尽くす夜景にも、ぼくは同じような愛しさを感じていた。

 それは人間の営みが抽象化され、私たちの存在がひどくはかないのもに見えるからかもしれない。そしてこの夜、アフリカの光を見ることができるだろうか。ダニエスサラームまで七時間三十分。すっかり寝込んでしまい、目が覚めると眼下にアフリカが広がっていた。

 朝陽を浴びたキリマンジャロの真上を通過する時、ふと後部座席のジェーンに目をやると、彼女も窓ガラスに額をつけて食い入るように見つめている。ジェーン・グドールにとって、キリマンジャロはどんな山に映っているのだろう。

 二十代から三十数年の歳月をアフリカで生きた彼女に、この山はさまざまなことを語りかけているはずだ。風景とは言いかえれば、人の思い出の歴史のような気もする。風景を眺めているようで、多くの場合、私たちは自分自身を含めた誰かを思い出しているのではいか。誰だって、他人の人生を分かち合うことなんてできはしないように、それぞれの人間にとって、同じ風景がどれほど違って映るものなのだろうか。 』

 

 『 ダルエスサラームの空港に降り立つと、眩いばかりの陽の光と、ムッとするような熱気に包まれた。ミヒャエルと顔を合わせ、初めてのアフリカの大気を胸いっぱいに吸い込んだ。チューリヒの空港の人混みの中で、どこか場違いだったジェーン・グドールの姿も、アフリカの風景の中に溶け込んでいる。私たちは、誰しもいつの間にか風景さえも背負い込んで生きているのだろう。 

 空港には、留守をあずかるジェーンの友人が迎えに来ていて、私たちはジープに乗り込み、ダニエスサラームの彼女の家に向かった。今日はここで一泊し、明日、タンガニーカ湖のほとりのキゴマへ飛び、そこからボートでゴンベの森に渡るのだ。

 タンザニアの首都、ダニエスサラームは、質素なたたずまいの町だった。中央通りを抜け、郊外のジェーンの家にだどり着くまで、たったひとりの白人も見かけることがなかった。タンザニア人でごった返す露店の風景を眺めながら、この大陸が抱える悲劇性をふと思った。が、アウトサイダーが決めつける客観的な悲劇性と、そこで日々生きる人々の想いは必ずしも重ならない。

 「過酷な自然の中で生きているエスキモー」と私たちが思う時、「過酷な自然」と感じながら生きているエスキモーは、おそらくひとりもいない。きっと、何と豊かな世界に生きている、と思っているだろう。見知らぬ異国にやって来て考えることは、そこで暮らす人々と自分の埋めようのない距離感と、同じ時代を生きる人間としての幸福の多様性である。

 どれだけ違う世界で生まれ育とうと、私たちはある共通する一点で同じ土俵に立っている。それはたった一度の人生をより良く生きたいという願いなのだ。思った時、異国の人々の風景と自分が初めて重なり合う。

 アラスカを旅しながら、さまざまな人に出会い、それぞれの物語に触れるたび、ぼくの中のアラスカは塗りかえられていった。それは、とても一言でくくることのできない現実の多層性というものである。「アル中、若者たちの自殺……新しい時代のはざまで方向を見失ってゆくアラスカのエスキモー、インディアン」と言い切ってしまった時、そこにより良い道を模索しようとしている若者たちの姿は見えてこない。

 そして少し見方を変えれば、現実のマイナスの状況さえも、次の新しい時代を獲得するための通らなければならない道かもしれないのだ。幸福を模索するひとりの人間の一生が、一本のレールの上をできるかぎり速く走ることでないように、民族や人間の行方もまたさまざまな嵐と出会いながら舵をとってゆく終わりのない航海のようなものではないだろうか。

 「カリブ、カリブ!……」ダルエスサラームの町からずっと離れたジェーンの家に着くと、タンザニア人の使用人たちが出迎えてくれた。カリブとは、スワヒリ語で「ようこそ」という意味。石造りの家のまわりには色鮮やかな花が咲き乱れ、裏手のテラスを抜けるとインド洋が広がっている。

 この海から世界を描くと、アラスカははるかなる北の異国だ。人の暮らしも、風が運ぶ匂いも、幸福のあり方も、また違って見えた。旅とは、さまざまな意味において、今自分がいる場所を確認しにゆく作業なのかもしれない。

 ジェーンの家に入ってゆくと、ひんやりとした心地良い空気に包まれた。皆がテラスの方へ出て行ったが、ぼくはひとりで家の中を歩いていた。使い古した机と椅子、時代物のタイプライター、アフリカの人を彫った小さな置物……人間の記憶とは不思議なもので、長い歳月がたった時、そんな何でもない風景が浮かび上がってくるものだ。

 ふと、殺風景な部屋の壁にかけられている一枚の写真に目が止まった。それはタンザニア政府の要人たちの古く色褪せた集合写真だった。真ん中に大統領らしき人が立っていて、その中にたったひとり白人がいた。この人がジェーンの二番目の夫、デレック・ブライソンに違いない。多くは書かれてないが、彼の存在はジェーンの本の中で強い印象で残っていた。

 デレックは第二次大戦中、英国空軍の戦闘機のパイロットだった。だが、数ヵ月勤務しただけで、中東で撃墜されてしまう。彼はその時わずか十九歳。命は取り止めたものの、脊椎に損傷を受け、医者から歩くことができないだろうと告げられる。しかし彼は、不屈の精神でハンディを克服し、ケンブリッジ大学で農学の学士号を得る。

 そして、当時キリマンジャロの山麓にイギリス政府が開いた農園の仕事に応募、小麦栽培の農業経営者となってゆく。そして、タンガニーカの独立運動をしていたジュリアス・ニエレレと出会い。それは、彼の人生を大きく変えていった。デレックはアフリカ民族主義運動に加わり、タンガニーカがザンジバル島と連合してできた新生タンザニアのために力を尽くし、国会議員に選出されると、ついに農林大臣となってゆくのだ。 』

 

 『 ジェーンが彼に出会ったのは、ちょうど、その頃だった。すでにデレックは、タンザニアの人々の尊敬を一身に集めていた。タンザニアでは、ジェーン・グドールは彼女自身の名前ではなく、「ママ・ブライソン」と呼ばれている。「デレックがいたからこそ、自分はこの国でやってゆけたのだ」とも、ジェーンは言っていた。そして、このダニエスサラームの家は、もともとデレックの家だった。

 泥棒の多いこの町では、すべての大きな家に、見張りとしてタンザニア人の門番が雇われている。が、ジェーンの家だけは今も見張りはいない。ここは「ママ・ブライソン」の家だと誰もが知っていて、泥棒さえも敬意を払っているというのだ。デレックは、それほどタンザニアの国民に慕われていた。

 ジェーンの本を読んでいると、彼女がどれほど夫を深く愛していたかが、ひしひしと伝わってくる。が、デレックは結婚してわずか五年後に癌で亡くなり、ジェーンは悲しみに打ちひしがれた。そして現在の彼女にも、このダニエスサラームの家にも、どこか悲しみが漂っている。ぼくは、ふと、ジェーンがキリマンジャロを見下ろしながら考えていたのはデレックのことではないかと思った。

 インド洋を望むテラスに座り、私たちは旅の疲れを癒していた。長い間ダニエスサラームを留守にしていたジェーンは、さまざまな連絡に追われている。どうやら今夜地元のテレビ局のインタビューもあるらしい。タンガニーカ湖のゴンベの森で私たちと過ごした後も、講演のために南アフリカのヨハネスブルクに向かうことになっている。

 たったひとりでチンパンジーの観察を続けていた昔と違い、研究所の資金集めのために世界中を飛び回る彼女にとって、ゴンベの森で過ごす一週間は大切な時間なのだろう。夕方、ぼくとミヒャエルは、ベットに吊るす蚊帳を買いに町へ出かけた。マラリアにかからないための蚊よけである。

 「アラスカの夏のツンドラの蚊のすごさを聞いたことがあるけど、実際そうなの?」「ああ、ミヒャエルの想像を絶するだろうな。でも、ただかゆいだけ。何の病気もないんだよ。それにヘビや毒虫もまったくいないんだ」ぼくはふと、蚊もいなくなった秋のアラスカを思い出した。

 ブルーベリーの実をたっぷり摘んだ後、ツンドラにごろりと横になって、極北の風に吹かれながらひと眠りする心地良さ。時折、あたりを見回してクマがいないかと確かめる以外、心配することは何もない。のどを鳴らすような合唱に目を覚ますと、カナダヅルの大群が南へと渡ってゆく。

 ワイン色に染まった原野と、新雪をかぶった山々のコントラスト。あの極北の秋の美しさはたとえようがない。ジェーンの家で過ごす最初の夜、旅の疲れもあってか、ぼくはすぐに寝入ってしまった。夜中に目を覚ますと、ほんの一瞬、自分が今どこにいるかわからなくなっていた。寝袋の中から、さまざまな虫たちが奏でる夜の声に耳を澄ませていた。 』

 

 ここまで、本書の最初のページから、ほぼすべての文の部分を書いてしまった。まだゴンベの森にも、タンガニーカ湖にも、一匹のチンパンジーにも会っていないのですが、のままいったら全部乗せなければ、ならないのでここまでにします。

 なぜ、星野道夫の文章は、詩のようなのかを考えて見ました。彼は、撮影の旅で、誰もいないツンドラの原野で、自分の文章や自然や友人との交流について、何度も何度も反芻し、熟成されていったのではないか、そのために文章が詩のように自然に、無駄なく、美しくなったのではないと考えました。(第67回)