158. 和製英語と日本人 (ジェームズ・スタンロー著 吉田正紀訳 2010年7月)
Japanese English : Language and Culture Contact by James Stanlaw Copyright © 2004
著者は、イリノイ州立大学教授の文化人類学・認知人類学を専門とし、言語と文化の関係について、日本をフィールドに研究を続けているアメリカ人です。
原書は全一二章、三七五ページにおよぶ大著ですが、原著者が日本語の読者のために六章を選択して、翻訳したものです。 私たち日本人も、和製英語については、明確に意識されてませんが、漢字を日本語に取り入れた、奈良、平安時代の変革にも想いを馳せ、日本語と英語を私たちの人生を構成する有効な道具とするための礎になると考え、紹介いたします。
最初に”はじめに”から、読んでいきましょう。
『 成田空港で飛行機を乗りついだり、東京の街をちょっとでも歩いたことのある人なら誰でも、日本では英語が空気のようなものであることに気づくだろう。どこでも英語に遭遇するからである。
この日本で遭遇する英語が、「問題」であるとか、「パズル」であるとか、コミュニケーションの「障壁」であるとか、あるいは「流行の追っかけ」であるとか、ある種の「汚染」であるとか、さまざまな意見がある。
しかし、英語教育家の松本享がかって書いていたように、日本では日常のごくありふれた会話も、英語という言語装置がなければ成立しない。
”私たち松本家もマンション(mansion)に住んでいる。私はテレビ(television)でベースボール(baseball)を観戦していた。
妻はデパート(department store)に買い物に出かけており、そのあとスーパー(supermarket)に寄って、朝食用のパン(bread)やバター(butter)、ジャム(jam)、ソーセージ(sausage)を買ってくるだろう。
娘はパーマ(permanent)をかけてもらうために、ビューティーサロン(beauty salon)に出かけている。……こんにち、私たちはこうした外来語なしには日本で生活できない。
言語純粋主義者はこのような現実を嘆いているが、彼らは日本語から外来語をすべて消し去ることができると思っているのだろうか。
タクシー(taxi)やテレビ(television)、ラジオ(radio)、タバコ(tobacco)、ビール(beer)、シャツ(shirts)、ベルト(belt)、メートル(meter)を使わずに暮らせるというのだろうか。
日本における統計調査によると、日常の日本語のなかには、英語由来の外来語・文章が・五~十パーセントを占めているという。この数字は何を意味しているのだろうか。
歴史家ルイス・ペレスによれば、日本は精神的国家であるという。「日本人の日常生活にみられるリズムは驚嘆すべきものである。……日本人は世界で類をみないほど、文化的伝統に国をあげて尊敬の念を抱いている。
けれども、日本人は非常に長い間、西洋文化を模倣してきた」と。言語は、このような模倣の典型的事例とされるわけだ。
しかし、日本語のなかに英語がたくさん入り込んでいることをたんに模倣であると非難する人たちは、言語接触のダイナミズムという重要な側面をみていないと思う。本書は日本社会における英語利用のダイナミズムに視点を合わせる。
私は、いわゆる単一言語をもち同質的な人びとが、英語のような外国語に対して寛容であるだけでなく、その利用に積極的なのはなぜかを検討しようと思う。
さらに、この日本語と英語の接触のあり方が日本人だけでなく、国際社会に生きる多くの人々にも重要な課題となっている点を検証したい。 』
『 インドや西ヨーロッパ諸国のように、世界には英語を話すバイリンガルがたくさんいる国がある。だが、日本ほど英語が広く使われている非英語圏の国はない。
この現象を説明するために、今までさまざまな議論がなされてきた。
たとえば、英語は上品で威厳のある言葉であるとか、アメリカの大衆文化が日本社会に深く浸透しているとか、日本人は舶来の品々をありがたがるとか、さまざまである。
とくに第二次世界大戦後、日本の文化と社会が大きく変化してきたことが関係するといえよう。
これらはすべて、ある程度、当たっているだろう。しかし、いくら列挙しても、全体を述べたことにはならない。日本語のなかでの英語の使われ方はきわめて多様で、かつ微妙、複雑なものである。
このような現象をとらえるには、洗練された多角的な見方が求められる。本書で私は、そのような試みをしてみようと思う。
まず第1章では、日本の中で英語と英語由来の外来語がどのように使われているかを紹介しよう。そのうえで、日本で使われている英語に対して、「外来語」という概念が誤っていることを示したい。
いわゆる英語とされている言葉の多くは、実際は日本で、日本人によって創造されたものなのである。そのため英語のネイティブスピーカーは、日本で日常生活に使われている多くの英語の意味を理解するのに苦労することになる。
たとえば、「ベビーカー」とは小さい車ではなく実際は stroller だったり、「ヴァージンロード」が未使用の道路ではなく、結婚式で花嫁が歩く道であることを知って、びっくりするのだ。
こうした言葉を本書では「和製英語」と呼ぶことにしよう。私は、こうした和製英語が、どのような文脈と場において、このような表現として日本人に用いられているのかを説明したい。
というのも、和製英語は社会と言語の関係を考えるうえで重要な位置を占めているからである。日本人の多くはバイリンガルではないし、ある程度英語を理解できるが、決して流暢とはいえない。
なのになぜ、日本ではこんなに英語が使われているのか。その疑問に私は、英語が私的あるいは公的な場においてシンボリックな表現としてとり入れられている事例を提示することで回答しよう。
さらに英語と日本語の言語接触におけるいくつかの理論的課題も論じたい。 』
『 第2章では、多くの洗練された女性シンガーソングライターが、日本語では表現しにくいことを表現するのに、英語を採用していることをとり上げる。
重要な点は、芸術の分野で英語が女性に与えた影響である。たとえば、竹内まりやは、女性がボーイフレンドに結婚してほしいと面と向かって訴える場面で、彼女は英語で語らせている。
それを日本語で歌ったとしたら、印象はまったくちがったものになってしまうだろう。このような日本人女性の「新しい声」、新しいレトリックの意味を探求する。
第3章では、英語が会話に利用されているだけでなく、広告、テレビコマーシャル、Tシャツなどさまざまな日用品に広く用いられていること、そしてそれらのさまざまなビジュアルな英語表現が、強い印象を、時としてユーモラスな印象を与えていることを提示したい。
第4章では、英語と日本語の出会いの歴史を述べる。一九世紀後半、幕末にイギリス人やアメリカ人と最初に接触して以来、日本語と英語の言語接触がダイナミックに展開してきたことが明らかになるだろう。
オランダ通詞たちの苦闘に始まり、明治期には日本社会の近代化や日本語の言文一致運動ともからんで英語の受容が展開する。さらに戦時期の禁止や戦後の隆盛がある。
そして、それぞれの時点で、いくつかのピジン語が発展した。英語が多用されるようになった今日までに、ダイナミックな言語接触と多くの人の努力があったのである。
第5章では、日本人とアメリカ人双方が、お互いの言語の優位性と劣等性をどうとらえてきたのかを論じる。
一世紀以上前、日本語は海外であまり使用されないので、日本の政府高官のなかには、英語をとり入れて日本語を廃止することを提案した者もいた。
しかし今日、数千の英語を借用しているにもかかわらず、日本人は日本語へ新たな自負心をもちはじめている。それはややもすると、言語をナショナリズムのなかに埋め込んでしまう危険性があることを指摘しておこう。
最後に第6章では、世界で、またアジアで、英語がどの程度使用されているかをみるとともに、今日、英語を使わなくては日本語が成り立たないことを明らかにしよう。
また、前章からのつながりで、日本語は英語に支配されているという見方を検討していく。異なる文化が接触するとき、そこにはまず、言語の問題が立ちあらわれる。
言語接触を通じて、言葉がどのように変容し、生き残り、新たなものになっていくのか。そのあり方からみえてくるのは、その国・地域の文化と社会の特質ではないか。
和製英語は、日本文化と社会の隠れた特質を明らかにするための格好の入り口なのである。 』(以上は”はじめに”より)
『 初めて日本を旅行したとき、「米」について二つの単語が使われていることを発見し、感心させられた。「ごはん」は伝統的な日本語の言葉づかいで、「ライス」は日本語化した英語の外来語である。
私は英単語が日本人の主食に用いられていることに興味をそそられた。この使い分けには理由があるにちがいないと思い、すぐにいくつかの考えが浮かんだ。
第一の仮説は、ライスは外国人と接しているときにだけ使われるのだと思った。しかし、外国人と接していないときでもライスは使われていた。新聞や雑誌によく登場するのである。
第二の仮説は、ライスはカレーライスのような洋食に使われ、ご飯は栗ごはんとか鶏ごはんのような伝統的な日本料理に使われるという説である。
これはおそらく正しいと思われるが、いくつかの例外があることもわかった。ちなみに、ごはんは朝食、昼食、夕食などの食事自体も意味する。
三つ目の仮説は、飲食店のタイプによって異なるというものである。伝統的な日本の飲食店ではごはんが用いられるが、現代的な、あるいは西洋式の飲食店(レストラン)では、ライスが用いられると。
このような傾向はたしかにあったが、必ずしも一貫してはいなかった。ごはんが茶碗で出される一方、ライスが平らな皿で出されるという事実に気づいたとき、私はやっと問題を解決したと思った。
しかし、西洋的な文化変容を経ていない東北地方で見たある広告は、この仮説を否定するものだった。浴衣を着て、茶碗をもった年配の男性が、微笑みながら、「ナイス、ライス」と言っていたのである!
これはたんなる広告だが、家庭でもときとして茶碗にライスを入れ、あるいはお皿にごはんをのせている。
結局、ライスと呼ぶことに規則などないのである。多くの日本人はそのようなことにまったく無関心であるということが私の発見だった。どちらの言葉を使っても、まちがっていることはほとんどないのである。 』
『 いまから千年前、日本の女性は、公に用いられていた中国伝来の漢語を使用することができず、社会的に差別されていた。
しかしこんにち、音楽、詩、ファッションなど芸術分野で日本女性は、日本に流入している英語を幅広く使用している。英語や英語の外来語をかしこく使って言語表現の幅を広げ、新たな力としているのである。
英語の外来語や言いまわしはポピュラーソング、とくに女性によって作詞された歌のなかでたくさん生み出されている。これは偶然のことではない。
日本の女性作詞家はよく、日本語では表現しにくいことを英語で表現する。軽いジョークをはさんだり、独特の音楽的、抒情的雰囲気を醸し出すために、英語を幅広く用いているのだ。
似たような技法は、短歌の世界に新風を吹き込んだ歌人、俵万智にもみられる。彼女の歌集は多くの女性の心をつかみ、ベストセラーになった。女性をターゲットにする広告や雑誌でも、英語が頻繁に使用されている。
つまり、英語や英語の外来語が女性の「新たな声」として、また技法として存在しているのである。
古代・中世を通じて、日本では男性と女性の言葉が大きく異なっていた。男性は読み書きができ、文芸に通じており、漢語を用いて、公の場で書き物をすることができた。
一方、女性は漢語を学ぶことができなかった。女性は土着の、つまり和語を用いて、もっぱら個人的な想いを書くのみであった。
このような分断された言語生活が幸いして、日本女性は当時、世界でも非常にめずらしい、卓越した文学様式を生み出すことになった。
けれども近年まで何百年ものあいだ、文学と詩の正統のスタイルを独占してきたのは男性であり、女性には許されていなかった。周知のように、日本では依然として言語は性によって明確に二分されている。
日本語になかには、女性にはとても使用しづらい言語表現がある。しかし、英語を使用すれば、詩的表現や創造力、また感情表現に可能性を与えることになる。
日本女性は、英語の外来語を使用することのよって社会言語的な拘束を打破し、自らの考えや想いを表現し、「新たな声」を獲得することになるのである。 』
『 農耕民であった大和人は複雑な政治と儀式の形態を有していたようであるが、四〇〇年ごろに中国と政治的・宗教的関りが深まるまでは書き言葉を持たなかった。
仏教が日本に伝わった五三八年ごろに、中国から漢字が日本へ持ち込まれた。当時、日本人は自分たちの文字を持っていなかったので、国家情勢を記録するときは、伝来した漢字を「そのまま」使っていた。
それも歴史的に、一つの漢語が伝来したわけではなかった、中国大陸の東部には中国起源のじつに多くの言語があり、時期も異なるにしても、それらが日本に伝搬してきた。
現在でも、日本の漢字には漢音・呉音・唐宋音といった複数の読みがあるのはそのためである。日本で最初の文字が漢字になった理由は、文化的に進んだ中国から文字を借りることが現実的だったからだろう。
しかし、言語体系がまったく異なる漢語から漢字を借り、日本独自の文字にすることはきわめて難しいことであった。
名詞であれば比較的簡単に借用できるが、和語に特有の助詞や接辞、時制、語尾変化なども漢字で表現しなければならない。
日本語の最初の書き言葉である四五〇〇首ほどの歌をおさめた詩歌集「万葉集」では、漢字は音をあらわすためにのみ使用された。
それゆえ漢字は万葉集の中で、本来の意味が何であれ、音としてのみ使用された。これらは「万葉仮名」として知られて、本来の意味と音のまま使用されるものは少なかった。
それだけに、この歌集を理解するには何世紀もの間、言語学者の力を必要とした。この結果、言語学者アンドリュー・ミラーがいうように、万葉集は美しい表現を備えた作品として尊ばれるようになった。 』
『 こんにちの日本語になかにも、独特の漢字の使われ方が多く残っている。日本で使われている漢字のほとんどは少なくとも二通りの読み方ができ、日常でよく使われる漢字のなかにはもっと多くの読み方ができるものもある。
日本語は、漢字から多くの恩恵をえているといえる。それらは、洗練、博識、学問、教養といったイメージが付与され、英語のなかのラテン語やギリシャ語の働きと似ている。
しかし、万葉仮名はまるで可能なかぎり複雑な書き言葉を創り出そうと、日本人があえて決意して臨んだかのようなところがある。
とはいえ、再びミラーが指摘したことだが、私たち現代人の簡素で実用主義的な考えで、はるか前の時代の文化や異国の文化を理解しようとするのはまちがいであろう。
さて、万葉仮名を創り出したことが独自の日本語の表記を可能にしたわけだが、その後も数世紀にわたり、依然として多くの書物は漢字によって書かれた。
ここで注目したいのは、この言語的発展が女性に与えた影響である。平安時代(七六四~一一九二年)に、二つの新たな文字が生み出された。どちらも万葉仮名の音韻的特徴にもとづく音節文字である。
一つはカタカナである。ある文字の一部が省略されてできた形をしており、それゆえ速記で使われるような働きをした。
また、カタカナは文章を接続する言葉として使用されたり、漢字の読みを示すために使われたりした。今日でも外来語や他国の事物の名を記すためにカタカナを使用するのはここから来ている。
もう一つはひらがなである。万葉仮名の漢字を草書体にした形からできている。カタカナとひらがなはどのように使われたか。この問いに答える前に、二つのことを書き記しておく必要がある。
一つは、当時の日本では庶民には識字能力がなかったということである。複雑な日本語の書き言葉を学ぶ時間があり、またそうしようと考える人間は貴族階級のみであった。
二つめに、当時の日本語の使用法は大まかにいって二通りあったことである。一つは公的機関で用いれれるような、おもに男性によって書かれ、漢字を用いた日本文である。
これらのなかには役所の文書や布告、史書、その他のあらゆる公的文書が含まれていた。もう一つは、ドナルド・キーンが「大和言葉」と表現したものである。
漢語の影響を受ける以前に、大和の人びとが使用していた言語やフレーズがあった。大和言葉は、おそらく当時の話し言葉を反映した書き言葉であろう。
大和言葉で書き記される文字のほとんどがひらがなで、この筆記法は一般的に女性のものであった。
実際にひらがなは「女手」「女文字」などと呼ばれていた。女性にしてみれば、これが自己を表現するための唯一の言葉であった。 』
『 女性が著した書き物(歌、手紙、日記)の多くは、きわめて個人的なことについて書かれたものであった。しかし、これらの書き物から重要な文学的発展が生まれたのである。
「和文」の誕生である。それらは日本語を基礎にした語彙や構文を使用し、ひらがなを用いて書かれた。
このジャンルの文学的発展は、多くが女性の力によるものであり、平安文学に、ひいては世界文学に偉大な貢献をしたのである。「枕草子」「蜻蛉日記」「和泉式部日記」など日本文学のいくつかの大作である。
女性による新たな文学で特に重要なのが、紫式部の「源氏物語」である。散文形式の物語と八〇〇ほどの歌を含んだこの書物は、世界で最初の小説といわれている。
ドナルド・キーンによれば「日本文学の最高傑作であり、出版から現在まで一〇〇〇年ものあいだ、日本人の美学と感情の世界に影響を与え」、「英文学でいえばシェイクスピアのような位置をしめている」という。 』
和製英語の話から平安文学にまで話は広がりましたが、大和言葉の中に漢語をとり入れ、ひらがなを生んだように、日本語の中に英語をとり入れるための創意工夫の余地は、あるような気がします。
日本語をより国際化し、インターネットや科学技術の英語を自在に使える、橋渡しができる和製英語への工夫をする必要があると考えます。(第157回)
50. 世界を変えた6つの飲み物 (トム・スタンデージ著 2007年3月)
A HISTORY OF THE WORLD IN 6 GLASSES
(by Tom Standage Copyright 2005)
『 のどの渇きは、空腹よりも重大な死活問題だ。人は食べ物がなくても、二、三週間は生きられるかもしれないが、飲み物がないと、よくてせいぜい二、三日しかもたないだろう。水分は呼吸に次いで重要なのである。
何万年もの昔、小さな集団で狩猟採集生活をしていたわたしたちの祖先は、新鮮な水を十分に確保するために、川や泉、湖を近くで暮らさなければならなかった。
水を溜める、あるいは運ぶことは技術的に非常に難しかったからだ。いかにして水を確保するかという問題が、人類の進歩の方向性を決め、発展に向けた第一歩を踏み出させたのである。以来、飲み物はわたしたちの歴史を形成し続けている。
水の優位性を水以外の飲み物――自然のものでなく、人の手によって作り出された飲料――が脅かすようになったのは、ほんの一万年前のことだ。
それらは、細菌に汚染された危険な水に変わる、より安全な飲料を人間の居住地に供給するだけでなく、さまざまな役割を担ってきた。
多くは通貨代わりとして、宗教行事の必需品として、政治的シンボルとして、あるいは哲学的・芸術的発想の源として利用されてきた。
選民の権力と地位を際立たせる役をはたすものもあれば、虐げられた者たちを従属させる、あるいはその不満を鎮める役割をはたすものもあった。
飲み物は人間の誕生を祝い、死を悼み、社会的絆を構築し強化するためにも、仕事上の取引や契約を成立させるためにも、感覚を研ぎ澄ます、あるいは思考力を鈍らせるためにも、命を救う薬としても、命を奪う毒薬としても使われている。
歴史がさまざまな変遷を経てきたように、石器時代の集落から、古代ギリシャの食堂、あるいは啓蒙運動が起きた17世紀のヨーロッパのコーヒーハウスまで、時代や地域、文化に応じて、さまざまな飲み物が人気を博した。
どの飲み物も特有の必要性を満たしたときに、あるいは歴史的傾向と合致したときに、多くの人々に受け入れられている。飲み物が思いも寄らない形で歴史の流れに影響したこともある。
ならば、考古学者が石器時代、青銅器時代、鉄器時代と主要な道具の材質で歴史を分けるように、各時代の中心的存在だった飲み物によって世界史を区分することもできるはずだ。
とりわけビール、ワイン、蒸留酒(スピリッツ)、コーヒー、茶、コーラの六種類の飲み物には、世界の歴史の流れが記録されている。
三つはアルコールを、三つはカフェインを含んでおり、統一性はないが共通点が一つある。どれも古代から現代までに至る歴史の転換点において、各時代を特徴づけてきた飲み物なのだ。
人類の近代化に向けた歩みは、農耕を取り入れたことから始まった。およそ一万年前、西アジアで穀物を栽培したのが最初で、これにともない原始的なビールが登場した。
それからおよそ五〇〇〇年後、最初の文明がメソポタミアとエジプトで誕生する。いずれも、大規模な組織的農業が生み出した穀物の余剰分の上に成り立っていた。
このような農業の確立により、ごく一部の人々が畑で働く必要性から解放され、神官、官史、書紀、工芸家となる。
ビールはこの世界最古の都市の住民や、初めて書き物を残した人々の身体を滋養しただけではない。彼らに対する報酬や配給もまたパンとビールだった。穀物が経済の基盤だったからである。
紀元前一〇〇〇年頃、古代ギリシャの都市国家群のなかで発展し、栄華を極めた文化は、哲学、政治学、科学、文学など、今も近代西洋思想を支える学問を育んだ。
ワインはこの地中海沿岸の文明にとって欠かせない活力源であり、広範な海洋交易の基盤だった。交易を通じて、ギリシャの思想はさらに普及した。
正式な酒宴「シュポシオン」において、人々は水で薄めたワインを一つの盃で回し飲みながら、政治や詩や哲学について語り合った。
ローマ帝国の時代も、ワインを飲む習慣は続いた。ローマ人は厳格な階級制度を反映させて、ワインを細かく格づけした。ワインに対して、世界に二大宗教は相反する態度を取った。
キリスト教は聖餐の儀式において、ワインは中心的役割を担っているが、ローマ帝国の崩壊とイスラム教の台頭後、ワインはその誕生の地で禁止されることとなった。
ローマの没落から千年後、ギリシアおよびローマの知識の再発見が引き金となり、西洋思想の復興が起きる。その知識の大半は、アラブ世界の学者が守り、拡大してきたものだった。
同時に、ヨーロッパの探検家たちは、アラブの独占状態だった東方との貿易に割って入りたいという思いに突き動かされて海を渡り、西はアメリカ大陸、東はインドおよび中国に達する。
これにより大航海路が確立され、ヨーロッパ諸国は競い合うようにして地球を分割し、領土を広げていく。
この大航海時代に新種の飲み物が登場する。蒸留という古代世界に伝わる錬金術の一プロセスに、アラブの学者が大幅に改良を加えて誕生した飲み物である。
これによって、コンパクトで長期保存の利く、海洋運搬により適したアルコール飲料の生産が可能になった。
ブランデーやラム、ウィスキーといった蒸留酒は奴隷売買の際の通貨代わりとして、特に北米の植民地でもてはやされた。
これらの飲み物は激しい政治的対立の原因となり、アメリカ合衆国の建国に重要な役割を担った。
領土の拡大に続いて、知性の拡大も起きる。西洋の思想家たちは、古代ギリシャ人から受け継いだ思想を越えることを目指し、科学、政治、経済の新たな理論を生み出した。
この理性の時代に主流となったのが、中東からヨーロッパにもたらされた神秘的でしゃれた飲み物、コーヒーである。
その後またたくまに各地に登場したコーヒーハウスは、アルコール飲料を売る酒場とは性格をまるで異にする、商売、政治、学問について語るための場となった。
コーヒーには頭脳を明晰にする働きがあるとされ、科学者や実業家、哲学者らは、理想的な飲み物としてこれを重宝した。
そして、コーヒーハウスでの議論が数々の科学界、新聞社、金融機関の誕生につながり、とりわけフランスでは、進歩的な思想を生む肥沃な土壌を人々に提供した。
ヨーロッパのいくつかの国々、特にイギリスでは、中国から輸入された茶がコーヒーの王座を揺るがすことになる。
ヨーロッパで茶の人気が高まったことで、大金を稼げる東方との交易路が開け、巨大な規模の帝国主義と工業化の基礎が作られ、イギリスは世界で初めて地球規模における超大国となった。
茶がイギリスの国民的飲料になると、茶の供給を安定化させたいという思いが、イギリスの対外政策に非常に大きな影響を与え、これがアメリカ合衆国の独立、中国の古代文明の影響力の衰退、インドにおける茶の大規模生産体制の確立につながった。
人工的に炭酸を加えた飲み物は十八世紀後半にヨーロッパで生まれたが清涼飲料水はそれから百年後のコカ・コーラの発明とともに登場する。
もともとアトランタの薬剤師が作った”気つけ薬”だったコーラは、その後アメリカの国民的飲料となり、合衆国の超大国への変身をあと押しする消費者資本主義の象徴となった。
20世紀のあいだ、世界各地で戦争を続けたアメリカ兵たちとともに旅を続けたコーラは、ついに世界一の流通量を誇る世界一有名な製品となり、現在では単一の世界市場の形成という、賛否両論ある趨勢の代表と考えられる。
飲み物は一般に考えられているよりも密接に歴史と結びつき、人類の発展に大きな影響を与えている。
だれがなにをなぜ飲んだのか、そしてその飲み物はどこで生まれたのか、といった一連の流れを理解するためには、農業、哲学、宗教、医学、技術、商業など、普通に考えればまるで無関係な数多くの分野の歴史を包括する調査が欠かせない。
本書で取り上げた六つの飲み物の歴史には、異なる文明間の複雑な相互作用と、異文化同士の相関性が証明されている。
これらの飲み物はどれも、過ぎ去った時代の様子を伝える生きた証拠として、また近代世界を形成した力の証として、今もわたしたちの身近に生き長らえている。それぞれの歴史を知ってほしい。そうすれば、お気に入りの飲み物が今までと違って見えることだろう。 』
これは、「A HISTORY OF THE WORLD IN 6 GLASSES」の新井崇嗣(たかつぐ)訳のプロローグ(生命の液体)の全文である。
第1部 メソポタミアとエジプトのビール
第2部 ギリシャとローマのワイン
第3部 植民地時代の蒸留酒(スピリッツ)
第4部 理性の時代のコーヒー
第5部 茶と帝国
第6部 コカ・コーラとアメリカの台頭
と続きます。飲み物を通して、世界の歴史を描き直し、”6つのグラス”とその壮大な構想を軽やかな題名としたところにセンスを感じることができる。
お酒は、季節の料理と共に宴をかこむメンバーの機知に富んだ話題によって、より楽しいものになります。
『 紀元前5世紀のギリシャのエウブーロスの戯曲の中に、こんな一節がある。
「分別ある男たちのために、わたしはクラテルを三個だけ用意する。
一つめは健康のためで、これを空ける。二つ目は愛と喜びのためで、三つめは眠りのためだ。三つめを空にしたら、賢者は家に帰る。
四つめのクラテルはもはや、わたしのものではない――それは悪しき振る舞いのものだ。五つめは大声で叫ぶため、六つめは無礼と侮辱のため、七つめはけんかのため、八つめは家具を壊すため。九つめはふさぎ込むため。十個めは狂気と意識消失のためである」 』
お酒は本来は、非常に貴重なもので、これをていねいにだいじに、ギリシャの賢人のような格調の高い会話とともに、飲むことによって、健康と愛と喜びが得られるのでは、ないでしょうか。(第51回)
10. 四千万歩の男(井上ひさし著 1990発行)
『十七歳になり、親戚の者の口ききで伊能家に奉公にあがった。伊能家には、経史、諸子、本草、医術、算法、詩文、和歌、物語などの各分野にわたって三千冊を超える蔵書があると噂されていたが、忠敬はこの蔵書を目あてに奉公するつもりになったのだった。
三代前の主人と4年前に亡くなった女婿の景茂がたいへんな読書家だったらしい。店を切り回していたのは、家つき娘で景茂の妻の達(みち)と番頭だったが、忠敬はこの二人のどちらかから「書物を読んでもよろしい」という許可を得ようとして、はじめて学問を忘れ、身を粉にして働いた。
学問をするためにまず学問を忘れなければならなかったとは皮肉なはなしだが、忠敬の働き振りのよさはもうひとつの大きな皮肉を生み出した。達の後見人たちが忠敬を見込んで、彼をこの家つき娘の二度目の婿にしてはと騒ぎ出したのである。
婚礼の宴が果てて母屋の寝間に引き揚げた忠敬は――いまでもはっきり憶えているのだが――物置の書物の山の中から見つけておいた関孝和の「開平方術」という算法書を枕元の行灯の灯のかざした。(これからは多少の暇もできよう。その暇を生かして算法の研究にはげもう)
うきうきとそんなことを思いながら頁をめくっていると、一足おくれて入ってきた達がいきなり忠敬の手からその算法書を叩き落した。「書見をするような婿どのはこの伊能家にはいりませぬ、どうしてもと言うのでしたら、この縁組は破談にいたします」
相手は家つき娘、しかも自分より四つ年上で結婚の経験もある。貫禄のちがいが忠敬の口を封じた。「祖父も亡くなった前の夫も学問が好きでした。小作人や店の差配よりも書物をひろげることに精を出し、おかげで下総第一の名家ともいわれたこの伊能家、すこしく傾きました。
あなたを夫に選んだのは働きぶりが群を抜いて見事だったからで、わたしがあなたを好いたからではありません。あなたの役目はこの伊能家をふたたび下総第一の名家に押し上げること。それが出来そうにないと見たら、いつでもあなたを追い出しますよ。すくなくとも四十歳の声を聞くまでは、書見はいや。ねえ、約束してくださいね」
右の台詞、あとになるにつれて声も鼻にかかりちょっと艶かしくはなったけれど、忠敬はこのとき達を怖い女だと思った。婿入り先を叩き出されたときの父の哀れな様子を知っているだけにひとしお恐ろしかった。(……あの関孝和の「開平方術」をふたたび行灯のそばへ持ち出したのはあの夜から二十年後、達が四十三歳で死んでからであった)』
伊能忠敬(1745~1821)は現在の九十九里町に神保貞恒の次男として生まれた。6歳の時、母が亡くなり、婿養子だった父は兄と姉を連れて、実家の神保家に戻る。生家は、母の弟が継ぎ、10歳の時、父の元に引き取られる。
18歳の時、伊能家の婿養子に入り、酒の醸造、新田の開発、小作人による稲作、米取引、名主、村方後見(新田の開発、水田の水管理の調整役)などの事業をいくつもの台帳の数字によって管理し、江戸と大阪の米相場、関東、東北の米の作柄、の情報によって、忠敬が婿入りしてから、50歳で家督を譲るまでの32年間で、今(1975年)のお金で、資産を3億から70億にした。
忠敬は、利根川の洪水、浅間山の噴火、天明の飢饉のときは、佐原村のために米やお金を使った。
50歳を迎えた忠敬は、隠居後、天文学を勉強する為に江戸へ出る。忠敬は、この当時の天文学の第一人者、高橋至時(よしとき)の門下生となった。高橋至時32歳。忠敬は51歳。当初、至時は忠敬の入門を“年寄りの道楽”だと思っていた。
当時、経度一度の間に、直線距離にして、地表ではどのくらい歩くか、35里だとか、25里とか大問題であった。当時、蝦夷地に行くには幕府の許可が必要で、至時が考えた名目こそが“地図を作る”というものだった。
忠敬は、陸路を北上しつつ、北極星の高度を計り、歩測し、子午線の1度の長さを28.2里を実測した。56歳~72歳までの16年間「2歩で1間」の歩幅で日本の海岸線を歩き回り実測による日本地図を完成させた。
忠敬の作った地図は、幕府に納めた1部と師匠の高橋至時に1部、自分用1部であったが、至時の後継者であり、長男の景保は、シーボルトの洋書と地図を交換した。それが問題になり、高橋景保は、獄死する。(第11回)
6. 植村直己と山で一泊 (ビーパル編集部編 1993年発行)
『入部する前に、ちょっと様子を見てみようと思って、おそるおそる地下にあった山岳部を覗きにいったんです。たちまち上級生らしい部員につかまりました。それで三日後に白馬で新人歓迎合宿をやるからお前もぜひ来いという。
白馬がどこにあるかも知らないんだからポカンとしていると、靴はこれを履け、ズボンとシャツはちょうどいいのがあるから貸してやる。ザックとピッケルは部屋にあるからそれを使えと、あれよあれよというまえに勝手に向こうに決められてしまった。ま、半分ペテンにかかったようなものです。(笑)
八方尾根にあった山岳部の小屋に入るまでは楽しかったんです。北アルプスの山を初めて見て驚いたりしてましたから。翌日からの白馬登山がすごかった。新人はいきなり三、四十キロのザックを背負わされ、休みなしで一時間も急斜面を歩かされる。雪道に入って足をすべらせて転ぶと「なにやってんだバカモン」です。上級生は鬼だと思いましたね。
僕は新人の中でいちばん小柄で、まあ体力も弱くて、最初にバテちゃったんですが、バテたからって許してくれるどころか、ピッケルで尻とか足を小突いたりぶったりですからね。それから雪上トレーニング。
新人の中でも高校時代に山に行っててピッケルの使い方を知ってる人もいるわけですが、僕は初めてでしょう。「バカ、鈍い」てピッケルで尻を叩かれぱなしでした。しまいには、これはへたすると殺されるんじゃないのかて、本気で思ったですよ。
帰ってきて、もうやめようかと思い、その後も何度かやめようと思ったんですが、自分でも意地があったんでしょうね。今から思うと、苦しかったのは自分ひとりじゃなくて、新人はやっぱりヒーヒーいってたんですね。
合宿のたびに一人欠け、二人欠けしていって、最初二十人ほどいた一年生が、二年になると五人になっていましたから。まあこちらは、しがみついているのが精一杯でまじめに合宿に参加して、年に百二、三十日は山に入っていました。』
『(BP)ヒマラヤの本格的登山までいかなくても日本のやまなどで服装の上で注意すべきポイントは何でしょうか。
意外に大事なのは、下着の替えを常に持っていることです。極地でも山でも、体を濡らさないことが、体力の消耗を防ぐ大事なポイントです。
山で濡れたら、おっくうがらずに、寒いのを我慢して、乾いたシャツに替えることです。これによって体力の消耗が大幅に違ってきます。下着、セータ、雨合羽この三つは必ず持つ習慣をつけるのがいいと思います。』
日本人初のエベレスト登頂や、北極点犬ぞり単独行、アマゾン川6千キロ筏下り、グリーンランド単独犬ぞり横断など、さまざまな冒険に挑み、成功した男が最後の冒険に出かける前に、ビーパルのスタッフとともに一泊二日のキャンプを楽しんだ。焚き火に顔を火照らせながら、とつとつと彼でしかありえない生き方を語る。翌1984年冬、マッキンリーで消息を絶ってしまう。(第7回)
5. 原野の料理番 (坂本嵩著 1993年発行)
『お伽の国の老人は、枯れたとうきび畑の向こうから現れた。窪んだ目は、太く濃い眉と長いまつげに縁どられ、肩まである銀髪と見事な白いあごひげが没しようとする晩秋の西日に燃え立つように輝いていた。
背丈はせいぜい百五十五センチくらい、背中には旧式の単発銃を斜めにかけ、腰には大きなマキリ(短刀)を吊るしていた。原野の人達はこの老人を又吉爺さんと呼んでいた。年齢は八十近いというが、本人も正確なことはわからないという。
爺さんの記憶力は全くすばらしい何年何月何日、どこの川で鮭を何本獲ったかというようなことを実によく覚えている。爺さんが始めてシャモの娘を見たのは十六の頃だという。そして熊を初めて仕止めたのは二十歳。
ある日一人で鉄砲を背にやまべ釣りに行った時、ある沢でこくわの蔓がからんだ大きな木の太い枝に、中くらいの大きさの熊がでんとまたがって、こくわの蔓をたぐり寄せその実を食べている所に出くわした。
話が少しそれるが、こくわとはサルナシという。胸を高鳴らせながら静かに射程内に近づくと熊も彼に気づいて木の上から吠えかかる。初めて熊に銃を向けた又吉青年は手が震えて照準が定まらない。
ままよとばかりに、近くの小さな木の枝に手ぬぐいを裂いて銃身をしばりつけ固定し、しっかりと照準をあわせてぶっ放した。熊を目の前にしてこの冷静さ、むやみにぶっ放さなかったのはさすがに狩猟民族の血か。
弾丸は熊のどてっ腹に穴を開け、ドサリと木の上から落ちて来たが、致命傷ではない。向かってくるかと身構えたが、敵は傷口からはみ出した腸が枝に引っかかるのを引きちぎって逃げた。しばらく追うと草の中で息絶えていた。
ざっとこういうところが、又吉爺さんの輝かしい初陣である。それ以来数限りなく熊を撃ったが、八十にななんとする今も、野宿をしながら熊を執拗に追い詰めてゆく、このエネルギーはどこから来るか。我々農耕民族には計り知れないところがある。
追い詰めた熊は至近距離まで引きつけてからぶっ放す。熊は一定の縄張りをある期間を置いて巡回するという。永年の経験からこの道すじの草の中に先回りして待ち伏せる。何も知らない熊は、ガサゴソと草を踏んで近づいてくる。
至近距離まで引きつけておいて、おもむろに咳払いをする。熊は何ごとかと、後肢で立上がり、深い草の上に首を出してあたりをうかがう。その瞬間心臓めがけて銃をぶっ放す。
四つん這いで歩いている時は心臓に当てるのはむずかしいので、我々から見ると大胆不敵なまた危険この上もない方法をとるのだという。もし当たらなかったらどうするかと聞けば、「なに、わしゃ二間(4メートル弱)まで来なきゃブタないから目つぶても当たるよ」と涼しい顔である。
「不発したらどうするの」と僕たちは声をふるわせた尋ねた。「そんときは、熊の腹の下に飛び込むのよ。そしてマキリで心臓をえぐってやるのサ」爺さんは、ほとんど銃を肩で構えないという。腰のあたりに構え、熊の体に押しつけるようにして、撃つのだという。
鉄砲を見せて貰ったが、これが恐ろしい年代もので、台尻と銃身ゆるんでガタガタの単発銃である。その上照準も狂っている。爺さんにいわせると、手が届くくらいの近さで撃つので照準などいらないのだという。』
この文章の臨場感と又吉爺さんの姿は、孤独な、男らしさで、失われたアイヌ文化の郷愁を私は、感じた。(第6回)
4. 苦境からの脱出 (安藤百福著 平成4年発行)
『保存性、簡便性の二条件を満たすには、乾燥するのがよさそうだが、短時間で元に戻る乾燥法である必要がある。人類は有史以前から、食物の保存に知恵をしぼってきた。気まぐれな自然のなかでは、不作、不漁は、避けられないからだ。
塩蔵、乾燥、燻煙など、さまざまに工夫がなされて来た。私は結局、油熱による乾燥にたどりつくのだが、伝統的な保存法を一つ一つたどっては捨てていった。最初のうち、油熱も多くの乾燥法の一つにすぎなかったのである。
油熱のヒントはテンプラにあった。材料にメリケン粉を水で練ったころもをつけて熱した油に入れると、ころもは瞬間的に水をはじきだして、ポッポッの穴が沢山できる。私は自分で料理を楽しむ趣味を持っていたから、このことを熟知していたのである。
めんのかたまりも、油を通すと、同様に無数の穴ができる。つまり多孔質を形成するのだ。湯に入れると多数の穴に侵入し、短時間で元に戻る。』
『カップは、即席めんを包む包装材料である。ところが、湯を注いで蒸らす時、それは調理器具となる。さらにフォークで食べるとき、食器の用を足す。一つで三役をこなす。上が広く、底が狭い逆円錐形容器にものを収めるのは、考えたほど簡単ではなかった。』
『めんのかたまりを容器より小さめにして、下に落とし込めば、ストンと入るだろう。しかし、これでは衝撃でめんが痛む。運搬中に転がって、めん自体が崩れる原因にもなる。上にのせたつもりのかやくも、こなごなにくだけて、めんと混じってしまう。しかも、湯をかけたとき一様に戻らない。
「容器にものを入れる」「包む」といった作業は、たいていの場合、簡単に考えがちである。ところが、時によると商品化の死命を制することさえある。私の前に立ちふさがった壁がまさにそれであった。
「底につけてだめなら、中ほどに浮かしてみようじゃないか」開発するものによっては袋小路を出られない場合がある。しかし、それは常識のワクの中だけで考えているためである場合が多い。古来、宙に浮かして包むという方法はない。だから、できないし、やるべきでないというのが常識だった。時代がかわれば、技術は進歩する。すでに非常識は常識化しているのだ。
「宙づりにしたからといって、どんなメリットがあるのか」誰もが、最初のうちは半信半疑だった。いいだした私でさえカップヌードルを製造する上で決め手となるほど重要なアイデアとは、思いもよらなかった。だが、具体化してみるとその利点は驚くべきものがあった。
まず、第一に宙づりのめんが、カスガイの役目をして、容器を補強する。運送中、乱暴に扱われても、こわれることはない。第二に、しっかり固定されるので、めんが揺れて崩れる心配がない。第三に、めんを戻すとき、湯が平均にゆきわたり、ムラができない。底にへばりつくこともない。
めんのかたまりを、上が密で下が疎につくっておけば、平均的に戻る。下部の空間に降りてきた熱湯はめんを下から包み込み、全体をやさしくほぐしていくからだ。第四に、上部の空間にかやく類を体裁よく盛ることができる。フタを開けたとき、エビや、卵、肉、野菜がパッと目に入り、商品価値が高まる。
宙づりのアイデアは、”中間保持”の実用新案として確立した。カップ入り即席めんの製法としていまだにこれ以上の方法はない。というより宙づりにしなければ、商品価値はいちじるしく劣る。』
カップめん開発の経過とブレークスルーの詳細を現場で頭の中身まで、観察しているように、明瞭に記述されている。(第5回)
3. 滅びゆくことばを追って (青木晴夫著 1983年発行)
1960年初夏、若き日本人言語学者は、アイダホ州ネズパース保護地に向かった。消えゆくことばネズパース語調査が目的である。アメリカ北西部の大自然に繰りひろげられる言語調査活動とインディアンとの交流を通して浮かびあったものは何か。これは、ことばによるインディアン文化発見の旅の瑞々しい記録である。
著者は、初夏のキャンプの集会で指名されて、次のように語りだした。
『本日は、かねてからうわさにも聞き、書物でも読んだことのあるネズパース族の皆様に、かくも多数お目にかかれて、たいへんうれしく思います。私がここへ来たのは、ネズパース語を記録に残すためであります。
私は短い時日の間に、皆様のように、美しく流暢にネズパース語が話せるようになるとは夢にも思っておりません。しかし、ネズパース語の話せる皆様が、記録保存のために具体的な活動をしておいでにならない以上、だれかがこの仕事をやらなくてはならないことは明らかであります。
皆様は、確かにりっぱにこのことばをお話になる。しかし皆様のお孫さんのうち、このことばを話せる人が何人あるでしょうか。私は、十歳以下でネズパース語が出来る人はほとんどない、と見てよいと思います。そのうち誰もこのことばを話す人がなくなってしまうわけです。
私は、今日や明日のために仕事をしているのではありません。5年、十年先のために仕事をしているでもありません。今から50年先、百年先、あなたがたも、私も、ネズパース語も、なくなったとき、その時のために私は仕事をしているのです。
何万年の間皆さんの祖先はネズパース語を話してきました。この長い歴史が、とうとう終わりに近づいていているのです。私はジョーゼフ酋長のような偉人を産んだネズパース族、短い期間の間に、アパルーサという世界羨望の的となるような馬の品種改良の才能を示したネズパース族、その人たちのことばが、誰にも記録されずに消滅するのは、人類にとって大きな損失であると思います。』
『このキャンプの片すみに汗ぶろがあった。 汗ぶろとは、英語のスウェットバス(Sweat-Bath)の直訳だ。ネズパース語の原名はウィスティタモ(Wistitiamo)という。
着いた所は、松林をしばらく降りていった小川のほとりの平たい所である。
ここに木枝を曲げ両端を地面に突きさしたものを、何本も使って、半球型の骨組みを作り、その上に毛布やいろんな物を乗せて作ったおわんを伏せたような家ができていた。人間が立つと腰までくらいしかない。このおわんの中に四つんばいになって四,五人がはいれるようになっている。
この回りには、まっ裸のインディァンが四、五人立ったりすわったりしていた。小川の一部が掘り広げてあって、ここには首までつかったのがふたりいた。私たち新着の一行が皆裸になると先着のひとりが「あいているよ」と言った。そこで四人、ぞろぞろ四つんばいになってこのおわんの中に入った。
中には麦わらが敷いてあって、汗臭い。わらは湿っている。中はまっ暗で何も見えない。さっきのひとりが外側から、入口のまくりあげてあった一枚の毛布をおろしてしまったのである。インディアンの年長のひとりが「さあ始めるか」と言った。皆が「よかろう」という。
「ガールフレンドの名は」「マリアン」「ああ、マリアンね。よしよし」そこでシュンシュンという音がした。この年長のインディアン、いわば汗ぶろの頭領は、「マリアン、マリアン」と言いながら、小さな洗面器にはいった水を、おわんの一隅に積み重ねてある焼けた石にぶっかけたのである。
熱い水蒸気がパッとからだを打つ、いい気持ちである。「お前はまだメアリが好きか」「そうだ」と返事があり、「メアリ」「シュンシュン」そこでまた湯気がパッと感じられる。こうして皆の女友だちの名が呼ばれた時、このおわんは水蒸気で一杯になった。
自分の体にふれると汗びっしょりである。不思議にそう熱いとは思わない。この蒸し風呂は、ネズパースに限らないのである。カリフォルニアのにもやるのがいる。ただしカリフォルニアでは、汗ぶろでも煙ぶろである。自己燻製式入浴法とでもいうべき妙なやり方だ。目を遠くに走らせると、フィンランド、トルコ、日本など北極圏を囲んで、一種の蒸し風呂文化圏とでも呼ぶべきものが、北米まで広がっていることになる。』
『思えば、今までいろいろな偉い先生にお目にかかったことがある。日本では服部四郎先生、金田一春彦先生、アメリカではインディアン語のハーズ先生、梵語のエメノー先生、言語理論のチョムスキー先生などだ。このかたがたは、世界第一流の学者である。それでいてその謙虚さといったらない。偉い人に限って、人をチンピラ扱いにしないものである。』(第4回)
2. 「聞き書き」砂金堀り飯場(武井時紀著 昭和57年発行)
『砂金鉱業は「拾う」ことから始まる。山間の川をさかのぼり、水底に輝く砂金を文字どおり手で拾うのである。黄金色に輝く砂金は、川底の砂れきのなかにあっても、するどく人の目をひきつける。しかも、金は化学的に安定な金属であり、すぐそのまま利用することが出来、選鉱も精錬の必要もない。高価である。北海道では、明治30年代の初期から、大正、昭和18年まで行われた。』
『昭和49年、私は音威子府村史の編集にたずさわる機会を得た。初めての村史発行である。村役場には文書や資料は、ほとんど残されてない。したがって机に向かうよりは、古老を尋ねて村内を歩く日が多かった。訪れた老人のなかに天塩川のある支流で、砂金堀りをしたという人がいた。老人を訪ねる日が多くなり、何冊かのノートになった。しかし老人の働いた現場は問寒別川で、隣村であり音威子府村史とは、無関係の内容であった。』
このようなに始まる「砂金堀り飯場」であるが、私が一番おもしろかったのは、以下の部分である。
砂金堀り飯場の親方の条件
1) 賃金の清算をキチンとすること
2) 酒を飲んでも泥酔しないこと
3) キタナイ女遊びをしない
砂金堀り飯場の飯たき女の条件
1) 公平に人夫に接すること
2) 愛きょうがあること
3) 料理が上手であること
4) 仕事が早いこと
5) きれい好きなこと
この親方の条件は、何とかクリヤーできる人はいると思うが、親方は20人の人夫をまとめ、夏の半年間で、成果を出すことが大変である。
砂金堀り飯場の命運は飯炊き女に握られている、朝3時に起きて、1升釜2つと鍋1つをかまどにかけ22人分の朝食と、昼のおにぎりとおかずを3時半にくる農家の手伝いのおばさんと6時までに用意する。さらに味噌汁の具は山菜を人夫の協力を借りながら、美味しく用意する。
飯たき女の条件が秀逸である、この条件を満足すれば、私に言わせれば、愛きょうがある(1/30)、料理が上手である(1/20)、きれい好きである(1/10)、仕事が早い(1/8)、公平に人夫に接する(1/25)すなわち、これは120万人に一人の条件であり、この条件をすべて満足すれば、皇族に嫁ぐことも可能ではと考えるのですが、笑い。
この本は1993年に読んで、この5つの条件を何回も反芻するとき、この5つの条件がなぜ秀逸か、今回初めて解かった、それは非常に高いレベルであるが、個人の研鑽と努力で到達可能な目標であることである。愛きょうがあるとは言っているが、美人とは言ってない、愛きょうは本人の努力でつくることが出来る。公平に人夫に接するは、努力で愛きょうを勝ち得た人だけに与えられるご褒美であろう。公平であるは非常に難しく人格者と同等の意味を持っている。
料理が上手で(北海道の山野の食材に精通しており、またその料理、保存方法に精通していること)、きれい好きである、この2つを同時に自分の物にするには、料理を考えながら、如何にして、段取りよく作業を進め、如何に無駄なく、常により美しく機能的に、仕事をこなすことで、周りの協力も得られ、誰でも頭と体をフル回転することで手に入れることが、可能である。(第3回)
1.6 一番面白かった部分を抜き出し、専用の手帳またはノートに書く。
この面白かった部分を抜き出すには、いくつかの基準がある。
1) 十年単位で、十冊以上に渡って、数百冊単位の読書記録の専用ノート(手帳)を作る。ここに、題名、著者、原題(翻訳のとき)、面白かった部分を書く。(後から再度、図書館から、本を検索出来るように)
2) 面白さの基準とは、思わず笑った、今後に役立つと感じた、流石この道のプロと感じた、文体が流れるように美しい、図が本質を言い当てている、二人の会話が胸を打った。1行でも自分の波長に共鳴したものである。
3) 一番面白かった部分を探す。これは、1冊の本を読み終わった後であるが、この一番おもしろかった所を示せと言われても、かなり難しい。もし、それを百字くらいで書けたら、かなりの読解力と記憶力と文才の持ち主であり、2,3百人に一人の確率でしょう。この一番面白かった所を書く、このためにかなりの時間が必要になる。
大きい本だと、どこに書いてあるか解らなくなる。そのためには、時には、別の作業用のノート、またはコピー用紙に、メモを取りながら、読むことも必要である。更には、目次をコピーして、横に並べながら、読むことも必要である。
この本の面白さが、どこを抜粋すれば、どのように要約すれば、伝えることが出来るのか。そのためには、もう一度、目次からそれらしい頁をめくって、候補となる箇所を選択する。意外と迷うが、ある程度妥協し、手帳の1頁程度で選択する。
4) 一番面白かった部分を抜き出し、又はそのおもしろさを要約し書き出す。その手帳の1から3ページ以内を基本に、抜き出す、又は要約する。ほんの1部分でも、書いてみると意外と書き手は丁寧に書き、作者独自の文体を感じることが出来る。
1.7 如何に名著、おもしろい本に出会い自分の人生を豊かなものにするか。
その人がどんな人間かは、その人の友人を見れば分かり、その人の読んで感銘した本の履歴を見れば分かる。面白い本に数多く出会い、好奇心の触手のネットワークを構築し、背表紙でハナを利かせて、面白い本の著者の他の著書を探索し、感銘した本の中に書名があるときその書物を当たる、参考資料の中にある書籍をあたる。自分のテーマを視点にして、あらゆる分野を横断的に、あるテーマを追求し、自分のあるテーマの世界を構築する。(第2回)