チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「ナマズ博士放浪記」

2015-12-21 08:38:49 | 独学

 99. ナマズ博士放浪記  (松坂 實 著 1994年4月)

 本書は、今から35年前に、ナマズとナマズが生息するアマゾンでの釣りと旅の話です。私がこの本を紹介するのは、ナマズの釣りマニアで共感したからではなく、アマゾン河とアマゾンの熱帯雨林とそこで生きる人々について、生き生きと描かれているからです。

 私は緑の地球に於いて、最も大切なものは、何かと問われれば、川(河)と熱帯雨林と答えます。熱帯雨林は、生命の宝庫としての重要性は無論ですが、森林の木の葉によって、光合成によって炭酸ガスと水から、酸素と糖を生成します。

 熱帯雨林の木の葉から、水が蒸発し、1グラム当たり、540カロリーの熱を奪って、地球を冷却しています。川(河)は、昆虫、魚、両生類、爬虫類、哺乳類の生息する膨大な生態系です。人も川辺で生活の糧を得てきました。文明さえも大河の流域で生まれてきました。

 川は森と海を繋いでいます。ウナギなどは、深海から海から川へ、森へと旅をします。サケ、マスは川から海へ、海から産卵のために川に昇ります。その川がダムによって分断されるとき、川は衰退します。

 私達は、熱帯雨林と健康な川(河)が、失われたとき、はじめてその重要性に気付くのではないでしょうか。わずか三五年前の旅のお話ですが、そのアマゾンの主でもある、大ナマズを釣ることは、今となっては、夢でしょう。ではナマズ釣りの旅に元気を出して、出発しましょう。

 

 『 私は再び、秘境パンタナルの湿原をブチ抜くクヤバ河の上を小船に乗って遡っていた。はじめてアマゾンに来たとき、この地で黄金の魚”ドラド”を必死の思いで釣り上げた。そしてそのとき現地の人に、ここには全身金色に輝くナマズがいる、と聞いたのだ。

 そんなことウソだと思うのがあたりまえ。でも、ウソと思っても行ってみたいのが夢なのだ。日本に帰ってからも夢を見続けた。そして夢の続きを見たくて再びやって来た。

 蛇行するたびに、ジャングルに消えんとする真っ赤な太陽が見えては消え、消えては見える。ジャングルシルエットが、真っ赤な空をバックにクッキリと浮かぶ。

 よし、ここがポイントだ。船は船首をザザーッと砂場に突っ込み、止まる。私は今から見る、一年がかりの夢の続きを思うとき、全身の血がフツフツと動き燃えあがってくる。筋肉がピクピクと痙攣するのを感じるのだ。

 さっそく、用意した”現地式釣り具”を手に取り、釣りの用意だ。現地式釣り具は、70号か80号という太いナイロン糸の先に、10センチもある大きな釣り針をつける。ハリスはピラニアに噛み切られないような、針金でできている。

 重いオモリを一個つけ、餌には30センチもあるタライラ―という魚を背がけでつける。糸を頭上でグルグルとまわし、「エイヤー」と投げるのである。黄金のナマズ”ジャウーペーバー”のいると思われるポイントへ投げ込むのだ。

 あとは運を天にまかせて満天の星でも眺め、乱舞するホタルを見てロマンチックな気分に浸ていればよいのだ。漆黒の世界が訪れた。背後に迫るジャングルの城壁は、巨大な悪魔のような威圧感をもって迫ってくるが、川の水面は満天の星を映してキラキラとダイヤモンドのように輝く。

 ナマズ釣りは夜釣りが主だ。川の流れしか聞こえぬはずの奥地だが、暗闇の中で耳を澄ますと、リーンとかジーとか虫の声らしいものが聞こえたり、ときにはボーとかくクワクワとかいう鳥の声が聞こえたり、バシャンという魚の飛び跳ねる音や、

ジャワジャワというワニの餌をあさる音、ザワザワ、ゴソゴソという正体不明の音、そして心臓が一瞬止まる、ウーという猛獣の声らしきものも混じる。パンタナルの夜は休みなく生き続けているのだ。

 単純な作業の繰り返しの中、音と星の移動だけが私の心をなごませる。夢を追い、私は夢の続きを見ているのだ。果たして夢の結末、黄金のナマズは目の前に現れてくれるのだろうか?

 一日目、二日目、三日目と、長く楽しい果てなき夢の結末を迎えることなく過ぎてゆく。私はナマズの魚信を待つ間、糸を木に結び、岸辺の小魚を採集したりして長い時を過ごしていた。 』

 

 『 そのとき、糸がピーンと張り、何かがヒットした。急いで糸を手に取り、グイグイとかなり急いで手もとに引く。相当激しい引きだ。大物だ。すこし退屈していた私は一気に活気づいて、「来いよナマズよ!」 「来たかナマズ!」 と叫びながら糸を引く。

 ところが相手が突然グイグイと強く引くときは一瞬負けてしまい、糸が沖へスルスルと引っ張られるほど強い。しかし私は満身の力をこめて引き寄せる。体重八五キロの私に魚が勝てるわけがない。確実に手もとに近づいてくる。

 そろそろ上がると思ったときだ。水面に巨大な円形の影が浮いてきた。一瞬ドキッとしてブルッと震えがきた。何だこれは? 私は一瞬糸を引く手を止めた。その瞬間この巨大な円形の物体は、棒状の尾を水面に突き立てバシャと身をねじった。

 ブツンと鈍い音がして、私は後ろにもんどりうってひっくり返った。しばらく何が起こったかわからずに茫然としていた。何かやばい怪物だ。一瞬恐怖におののき、私は急いで身を起こして身構えた。

 しかしそこには何事もなかったような暗闇と静寂だけがあった。わずかに、今の出来事を証明するように水面に波紋が乱れていたのと、糸が手もとでダラリとぶら下がっていただけだ。

 しばらくして私はこの巨大な怪物の正体がわかった。”エイ”なのである。アマゾンに棲む巨大な淡水エイなのだ。オレンジに縁どられた黒いスポットのある、直径二メートルもありそうな巨大な奴なのだ。

 サメでさえも釣り上げることができる太い糸を簡単にブッちぎったスゴイ奴だ。砂場はアマゾン淡水エイの棲息地でもある。日中はめったに浅場に来ないが、夜は安眠の場を求めて浅場に集まる。

 アマゾンではピラニア以上に恐れられているのがエイだ。エイの尾にある毒針は、人間の足を一発でブチ抜く。刺されれば二、三日は激痛に襲われ、後遺症が残ることもある。

 河口から遥か何千キロも上流にこんな巨大なエイが棲んでいるくらいだから、アマゾンとかバンタナルは、それ自体が得体の知れなぬ怪物だ。(バンタナル:南米大陸のほぼ中央部に位置する世界最大級の熱帯性湿地) 』

 

 『 黄金のナマズ釣りも一晩中やっていると退屈しそうだが、そんなことはない。こんな巨大なエイが釣れて驚かされたり、ピンタードという一メートル以上のナマズや、六〇センチもある巨大なピラニアが釣れたりと、結構忙しいものである。

 ときには猛烈な引きで、暗闇の中に水しぶきがバシャバシャと上がる超大物に驚くことがある。ナマズだと思って引いてくると、突然目の前に二メートルもある巨大なワニが現れ、あわてて糸を捨てて逃げだしたこともあった。

 四日目、五日目とがんばってもいっこうに黄金のナマズはほほえんでくれない。このポイントに来る前に何ヵ所かナマズを釣り歩いた。もう、ここも移動して次のポイントを探すか……、そんなあきらめの気持ちを持ちはじめたのは七日目頃であった。

 ここに棲む黄金のナマズは、何百匹、何千匹に一匹の珍種で、数は極めてすくなく、よほどの幸運がなければ無理だ。やはり、幻の黄金ナマズは私の夢なのだ。永遠に私に夢を与えてくれるものなのだ。

 ここまでよくがんばってきた。いつの日か再び私はやって来るだろう。明日は移動しよう。今晩が最後だ。たき火の火が赤々と燃え、興奮して汗びしょりの体をさらに熱くする。

 満天の星に雲のように見える天の川。星はいまにも降りそうだ。夜の十二時頃には頭上にいつのまにか大きく丸い月が輝いている。水面はよりいっそう明るくなり、キラキラと輝く。

 対岸のジャングルがシルエットとなってぼんやりと見える。夜明けまではまだすこし時間がある。疲れたな……。全身がけだるく感じ、目もトロンとしてきた。夢から目覚めるときのように脳の記憶が失われていく瞬間だ。

 そのときだ、グッグッグッと糸が引かれる感触。なすがままに糸を持つ。何かがヒットしたようだ。しかしけだるく、全身がおねむになる寸前の、いちばん気持ちのよいときだ。

 どうでもいいや、どうせピラニアだろう、そう思いつつグイと糸を引く。相手もグイと弱々しく引き返す。グイ、グイ、グイ、半分面倒臭そうに糸を引く。ピラニアではなさそうだが大物でもないようだ。

 感触を楽しむような気分で引いてくると、”バシャン!” という音をたてて水面に一匹の魚がジャンプした。脳天をブッ叩かれたような衝撃が全身を貫いた。思わず水の中に二、三歩バシャ、バシャと入り込み、再びグイと引っ張った。

 全身に衝撃が走り、エネルギーが爆発した。金色だった。今の魚は金色だった。私は一気に糸をたぐり寄せる。飛んだ、キラッ。星あかりと月あかりを受けて黄金色に輝く魚だ。

 私は相手の抵抗をまったく無視するように、渾身の力でグイグイと引き寄せる。そして、浅瀬に来てバシャン、バシャンと跳ねる魚を見て叫びをあげた。「やった!ナマズだ、黄金のナマズだ‼」

 ジャウーペーバー……私はついに見たのだ、ついに釣ったのだ。全身金色のナマズだ、頭から尾まで金色だ。見よこの輝きを、夢は本物だった。

 私は陸に揚げた黄金のナマズのまわりを小踊りしながらまわった。手を叩いた、笑った、泣いた。やはりいたのだ、伝説の黄金のナマズは。美しい、美しすぎる。私は肌をさわり、目を見、口に手を入れ、黄金のナマズをなでまわす。

 私の人生で最もすばらしい笑顔のはずだ。午前三時のパンタナルの一角は燦然と輝いている。夜の明けるまで、私の興奮はおさまることはなかった。あゝ信じることのすばらしさ。夜明けだ。私は興奮さめやらぬまま眠りにおちた。そして再び、新しい夢を見るだろう。 』 (第1章 「黄金の郷の黄金のナマズ」より)

 

 『 突然 目の前がひらけて、巨大なうねりが見えた。アマゾン河最大の支流、リオ・マディラ河をせき止めんかのように横たわる巨大な滝、「チオトニオの滝」が目に飛び込んでくる。

 全長三キロメートルもある巨大な滝だ。対岸はボリビヤか、遠く遥か彼方に真っ黒な城壁となってジャングルが見える。これは大きい滝だ。落差こそないがとにかく広い。

 激流となって流れ落ちる水は唸り、悶え、怒り、砕け、ゴーッという轟音は腹の底に重く響く。こんなところに魚がいるのだろうか。まして、こんな激流の中をナマズが遡るのだろうか……。

 私は以前、この滝を膨大な数のナマズが上流に遡るという話を聞いていた。川をのぼる魚は、サケの仲間やウナギなどがよく知られている。だが滝をのぼる魚は、世界広しといえどもそんなに多くはないだろう。

 ましてやナマズが滝をのぼるなんて……、なかなか信じられないことだった。信じられないが、それを自分で確かめなければ反論できない。私は、マラリア銀座と呼ばれるポルト・ベーリョからレンタカーを飛ばして再びやって来たのだ。

 前回は無念の涙で引き返したチオトニオ、今度は絶対にナマズの滝のぼりを見せてくれ。今回は前回に比べ、水がかなり引いている。期待できるぞ。いっときも無駄にできない。ナマズはわれわれを待ってはくれない。

 滝をのぼるナマズの集団は一定期間をおいてやって来る。何百キロの何千キロも集団で移動するナマズたちは確実にやって来るのだ。漁師に聞くと、リオ・マディラの中流をナマズの一群が通過したとのこと。

 そろそろ、小グループがこの滝つぼに集合しだしたという。無数のナマズたちは長旅の疲れをここで休め、激流が気をゆるめる瞬間を待って一斉に遡りはじめるのだ。

 強靭な体をもった勇気あるナマズ軍団は今も激流に挑戦している。いつ滝をのぼりはじめるかわからないが、その瞬間を待つのだ。岸辺にあった漁師らしき家に行き、小さな船外機つきの舟をチャーター、滝つぼへと向かうことにした。

 舟は、ゴウゴウと渦巻く流れに必死に抵抗しながら、滝つぼにある巨大な岩場へ接岸した。船頭によれば、ここが最もナマズが遡りやすい場所なのだそうだ。滝つぼに落下してくる激流は、ときには激しく、ときにはすこし静かになる。

 ふと、足もとの水面に目を落とす。ナマズだ、ナマズがたくさんいる。それも一匹、二匹ではない、重なり合うようにいる。何だろう、バルバードか、ジャウーペラドか。灰色の奴、黒い奴、縞のある奴……、無数に集結しているのだ。

 大きなものは二メートル近いものもいる。小さいものは四〇センチくらいだろうか。なぜこんなにたくさんのナマズが集まっているのだろうか。みんな聞いたとおり滝をのぼるのだろうか。しかしこの激流を遡れるのだろうか。

 私は岩場の上に立って、ジィーッとナマズ軍団を見続けた。ナマズたちがほんとうに滝をのぼるとしたら、その理由は何なのだろう。この広い大河を悠々と泳いでいればよいではないか、なぜこんなに苦労をしてまで遡るのだろう。

 わざわざ滝をのぼらなくとも食べるものはたくさんあるはずだ。本能がそうさせるのか、それとも上流へ上流へと安全な産卵場所を求めての旅なのだろうか。

 アマゾン上流のペルーやコロンビアではしばしば大型ナマズの稚魚が大量に捕えられ、日本に輸入されることがある。これらを考えると、ナマズは上流に向かい何らかの生態的行為を起こすのかもしれない。

 ナマズの仲間は容姿に似ず子煩悩なのである。産みっぱなしでどこかえ行ってしまう他の魚たちに比べて、大切に卵を守り、子を守るものが多いのである。 』

 

 『 「あっ」。怒涛の合い間を縫うように、一匹が遡りはじめた。グイグイと波の間を力強く遡りはじめた。激しい波しぶきに見え隠れしながら確実に遡る。

 ドドーン、大きな波が全身を襲う。一瞬見えなくなる。どこ行った⁉ あっ、流されていく。しかし続いてまた灰色のナマズが一匹、挑戦してきた。ドドーン。巨大な波が襲う。襲う。消えた。また流された?

 いや今度は、わずかに露出した岩場に生えた水草の間に身をひそめている。巨大な波が通り過ぎたあと、再び力強く上流に向かう。頭と体をクネクネと力強く動かし、尾は激しく水を叩く。

 巨大な水しぶきの中に、ナマズの小さな水しぶきが、キラキラと光り散る。「がんばるのだ」 私は思わず声援を送っていた。もうすこしだ。次の怒涛が来た。「もうすこしだ、ここで負けるな」

 ゴーッ、バシャン、ゴーッ。あっ流された。水の中でクルクルとまわって流されていく。私は、”自然”との激しい闘いに感動せずにはいられなかった。滝つぼのナマズがどんどん増えてきた。

 ナマズは力強く波の中に身を突っ込む。グイグイのぼった。「のぼったぞ、立派‼ 立派‼」 ほめたたえられたナマズの姿がスーッと消えてゆく。よかったな、元気な子を産むんだぞ。私は消え去った後ろ姿に声援を送った。

 一匹、二匹のトライが次々とはじまる。今度は三匹が編隊になって挑戦してきた。一匹は左に切れて流されたが、あとの二匹は無事にのぼりきる。遡るナマズの数がどんどん増えていく。

 何十匹ものナマズが一斉にのぼりはじめた。実にすばらしい光景だ。小さな奴、大きな奴、みんなが滝という巨大な障害に向かって挑戦する。人生と同じだ。巨大な障害を乗り切る奴、押し流される奴……、人生の縮図だ。

 しかし、ここでは一方で”自然”と”人間”の激しい闘いもあるのだ。生命を賭けた闘いが。一斉にナマズ軍団が滝をのぼりはじめた頃、先ほどから長い棒を持って見ていた、私と同じ岩場にいる男たちが、身構えだした。

 彼らは岩場の上から魚を捕ろうとしているのである。三メートルほどの棒の先に大きな釣りがついている。それにはロープが結んであり、手もとで持てるようになっている。

 ドドーンと大きな怒涛が足もとで砕け散っていくと、一瞬滝つぼの岩が数メートル露出する。水の勢いが弱くなったその瞬間をみはからって、一斉にサオを持って岩の上を走りだす。

 と同時に、ナマズも岩陰から一斉にアタックをはじめた。渾身の力をふりしぼって遡りはじめた健気なナマズめがけて、サオがさし出される。グイッ、バシャン。ナマズにかかった。血の混じったしぶきが水面を飛ぶ。

 釣が棒から外れる。バシャバシャン。ロープの先を持った漁師は素早く身を反転させると、岩づたいに急いで戻って来る。ドドーン、次の大きな波が後ろから襲って来る。

 一秒でも遅れれば、怒涛のような波が人間もろとも滝つぼに押し流されてしまうだろう。実に見事な早業である(ちょっとナマズがかわいそうになるが)。

 ロープの先で暴れるナマズ、全身灰色でこれはスポット(点)がない。ヒゲがたいへん長いものが一対と、あと二対は下アゴにある。特に一番長いヒゲには皮状のヒラヒラがついている――こんなヒゲははじめて見た。 』

 

 『 またたく間に六十センチ以上もある大物が数十匹も捕えられる。なかには全身銀色に輝く美しいナマズもいる。滝つぼではあいかわらず銀色と灰色の乱舞が続く。

 すると後方に巨大な黒い影。漁師は岩場から投網を投げる。ここの漁師は投網に十五メートルほどのロープを結んでおり、一〇メートルの高さから見事に開いた投網を投げることができる。

 パッと開いた投網はその集団めがけて落下し、ザッパーン!と鉛のオモリが水しぶきを上げる。滝つぼに沈み流される投網。漁師は岩づたいにロープを持って移動する。

 そして足場のよいところに来ると思い切り引き上げる――ズッシリと重そうだ。二人がかりで引っ張ると、黒い魚が網の中で大暴れして岩にゴツン、ゴツンとぶつかる。

 網から出てきたのは、巨大な体、「黒い弾丸」の異名を持つ、ジャウーというナマズである。一メートルはあるキングサイズだ。こんな奴までが滝をのぼろうと、ここに集結していたのか。

 全身のエネルギーを使って遡るナマズを、命がけで捕える漁師。そこには自然と人間の激しい闘いがある。魚にとっては受難であるが、人間にとっても生命を賭けた仕事なのだ。どちらも負けるなと叫びたくなる。

 最盛期には何人いても捕りきれないほどのナマズがこの滝をのぼる。遡上する期間は一年のうち三ヵ月間だけだ。その間に多いときでトラック一台分のナマズを一日で捕ることもあるという。

 いったい何万匹のナマズがこの滝をのぼるのか、とても想像できない。三ヵ月間で一年分のお金を稼ぐのだ。岩場をトントンと走り抜ける人間の早業とグイグイと必死にもがき遡るナマズ。

 そこには自然のすばらしいリズムがあるのだ。一対一の男の闘いが、ドラマが演じられているのだ。ナマズの滝のぼりという雄大な自然のドラマは私を感動させずにはおかなかった。 』 (第2章 「ナマズの滝のぼり」より)

 

 『 ここ一〇年ほど。アマゾンに年二回ほど一~二ヵ月滞在し、転々と移動していてまず第一に感じることは、ナマズがすくなくなっていることと奥地へ奥地へと移っていることである。

 流域に人口が増え、汚染されていることも原因のひとつであるが、金を掘るときに多量の土砂を川に流すことや、金を採るために多量の水銀を使用していることも大きい。

 それと日本でも報道されているが、森林伐採と森林を燃やす問題もある。木を伐ったり焼いたりした後は、単純な放牧地となったり、巨大なプランテーションになったりするわけだが、一度消滅したジャングルは永久に戻ってこないのである。

 そして最大の原因の一つである鉱物資源の開発には、日本の企業が大きくかかわっているし、私たち日本人も多くの恩恵を受けていることを知ってほしい。

 アマゾンなんて遠い国の無縁なところと思っている人がほとんどだろうが、アマゾン破壊の大きな原因の一つが日本企業との合弁会社なのである。宇宙から地球上の人工物でよく見えるのが万里の長城とアマゾン横断道路(トランス・アマゾニカ)である。

 何千キロメートルにおよぶ道路が先住民族のインディオを追い払うように、ジャングルの中を延々とのびる。その道路の両側へ人が入り込み燃やし、貧相な畑をつくる。

 そして、世界一、二といわれる巨大ダムができ、東京都がすっぽり収まるくらいのジャングルを水没させる。そこに住むインディオや動物はさらに奥地へと逃げなければならない。逃げられるものはまだ幸せだ。そのまま水底に消えたものも多い。

 人の住むこともないところ(インディオは別。もともと彼らの土地)に巨大なダムをつくり、どこで電気を使うのか? 答えはその数年後にわかる。世界最大のアルミ工場ができる。

 御存知のとおり、アルミ精製には膨大な電力を必要とする。このアルミ工場も日本資本が大きなウエートを占めている。その後、世界最大の鉄鉱脈が見つかったニュースが流れる(最初からわかっていた?)。

そして世界最大の埋蔵量を持つ鉄鉱石の採掘が始まる。製鉄には膨大な電力と木材(炭)を必要とする。この炭をとるためにジャングルはまた消える。この巨大プロジェクトにも日本資本が参加している。

 アルミ、鉄、木材が姿を変えて多量に日本に輸入されてくるのである。アマゾン横断道路も巨大ダムも巨大プロジェクトもすべて、日本企業の資本参加か世界銀行の融資である。

 御存知、世界銀行のお金は、アメリカと日本がほとんど出しているのである。私はこのままではいけない、日本人が二一世紀を迎える子供たちになにかを残さなければいけない。

 そんな思いから「ピララーラ基金」という、アマゾンの空と緑と水と魚を守る運動をはじめた。この運動を始めてみて、さらに日本人が見えてきた。一部の人以外はまったく無関心なのである。

 いつも熱帯魚という生きものに接しているアクアリスト、ショップ、カメラマン、メーカー、ライター、ほとんどが無関心なのである。友人と思っていた人も無関心なのがわかった。

 お金を寄付してくれというつもりはないが、応援してあげようという声すらかけてこないのである。もう少し地球的視野でものを見る人がいないかと思う。

 私は「ピララーラ基金」を草の根運動で広げ、ジャングルをたくさん買い、そこにアマゾン自然学校をつくり、個性を求める子供、若者の自由な遊び場を提供したいと思っている。 』 (「あとがき」より) (第98回)


ブックハンター「得手に帆あげて」

2015-12-08 10:28:19 | 独学

 98.  得手に帆あげて  (本田宗一郎著 昭和五二年六月発行)

 著者の本田宗一郎(1906(明治39)年11月~1991(平成3)年8月)は、松下幸之助(松下電器)、井深大(ソニー)とならぶ、ホンダの創業者である。本書は昭和52年の本ですが、自分の能力をのばして何かを成し遂げるための哲学は、今日でも通用するものです。

 本書にもありますが、小学校2年生の宗一郎少年は、1914年(大正3年)の秋に浜松歩兵連隊に苦労の末に見た飛行機を自分の手でつくる夢を見て、原動機付自転車、オートバイ、自動車、F1レースへの参加、本田賞の創設と生前に実現しました。

宗一郎少年が夢見て、百年後の2015年12月にホンダジェットの認証がとれるというニュースが 入っています。松下幸之助は、技術者から、経営の神様となり、井深大は、技術者から、研究者となりました。

 しかし、本田宗一郎は、生涯にわたり、技術者であり、少年の心をもっていた気がいたします。常に自分に率直であり、生涯経営者としての面は専務の藤沢が受け持っていたと言われています。

 

 『 人間には勉強が一生ついてまわる。学ぶ心は常に意欲的に保たなければならない。学ぶことは、前進することである。向上することである。だから勉強というものには、これがそうだという唯一絶対のやり方は無いと思う。

 あるのは、それがどれだけの効果が上がるかという「能率の差」だけである。なぜかといえば、勉強は生きるための一つの方法論である。たとえていえば、生活を向上させる合理化のアイデアを得ることと同じだ、と私は思う。

 勉強は個性に合ったやり方でやれば能率が上がる。学校で先生に教えてもらうことも、その人の個性によっては努力の割に効果の上がらぬ場合だってある。

 成績を気にして、コンプレックスを持つほど、バカなことはない。彼も人ならオレも人である。どだいそんなに差のあるものではない。勉強の機会はどこにもあるし、親切な教師はうんといる。

 私は小学校のときから勉強は嫌いだった。家が鍛冶屋だったせいか、小さいときから機械いじりが好きで、学校に行くようになっても理科だけは好きだったが、ほかはてんでダメだった。

 ことに国語とか習字とかいったものは、逃げ廻ったことさえ記憶する。だから成績が悪かったのはいうまでもない。

 ところで、このような私も生来の好きな機械いじりを一生の仕事にしようと、東京の「アート商会」へ小僧に入り、そこを振り出しに現在に至っている。 

 しかし、ここまでくるには、失敗に失敗を重ね血の出るような思いで仕事に取り組んだこともあった。これも勉強だと私は考えている。学校での勉強嫌いの私には、基礎知識がなかったから、こうした方法でそれを学ばなければならなかった。 』

 

 『 私には、結局その方が個性に合っていたのだろう。学んだことは何一つ無駄になったものはない。例えば浜松で「東海精機株式会社」の看板をかかげ、ピストン・リングの製作を始めたときのことである。

 ピストン・リングというのは、わかりやすく説明することはむずかしいが、要約すれば爆発ガスがもれないような役目をする小さな輪で、エンジンのカナメともいえる大切な部分である。

 その当時、すでに理研などでも大量生産していたが、まだ日本ではそれほど研究がすすんでいなかったので、民間で製造しているところはあまりなかった。それだけに困難な仕事であったわけだ。

 しかし、結果は私の敗北に終わった。思うようなピストン・リングができない。くる日もくる日も失敗の連続だった。このときくらい学校時代に勉強をほったらかしにして、遊びに夢中になっていたことを悔いたことはなかった。

 学問は学問、そして、商売は商売と割り切っている人もいる。たしかにそういうこともいえるだろう。しかし、学問が根底にない商売は、一種の投機事業みたいなものでしかなく、真の商売を味わうのは不可能だといえないだろうか。

 私のようなものが、こんなことを口にするのは、いかにも厚顔千万ないい分かもしれないが、しかし、骨身にこたえるほど自分の基礎の弱さを後悔した体験が、強く私にそのことを悟らせたのであった。

 つまり「泥田からアゼ道へのぼることはできても、大道にのぼることはできない」というわけで、私は大きな仕事をやるには、やはり技術の基礎がなければいけないと思い知らされたのである。

 そこで私は当時の浜松工業専門学校、現在の静岡大学工学部の藤井先生をたずねた。「どうして早く持ってこなかったのですか」と、すぐに専門の田代先生に紹介してくれた。

 田代先生が私の製作したピストン・リングを分析し、「これはシリコンというものが足りません」ズバリ原因を解明してくれた。私は敬服してしまった。考えてみれば、そんな初歩的な基礎も知らずにピストン・リングを作ろうと考えていたのだから、我ながらあきれてしまう。

 でも私は自分の不明を知ったとき、やはりこれは根本的に基礎からやるべきだと、はっきりハラを決めた。そして早速、浜工の校長に依頼して、とにかく聴講生の一人に加えてもらうことになったのである。 』

 

 『 五十人の従業員をかかえた会社社長兼二十九歳の老学生が、ここに誕生したわけだ。お陰で、私はいっそう多忙な日々が繰り返されるようになった。

 学校から帰ってくると、私は仕事ととっ組み、夜中の二時三時まで研究を重ね、一日も怠らなかった。このような事情から専門学校に通い出しただけに、私は真剣そのものだった。

 だが、私の入学は、自分で一定の目標を持ち、たずさわる仕事を持った上での入学であったから、授業の中の講義はすべて仕事へ直結させて耳に入れたかったし、目標にそった課目を勉強させてもらいたかった。

 ところがここでの勉強は、一般教養課目とか、教練とか、私にとってはどうでもよいような勉強が多すぎた。きのう聞けば明日役立つような物理、応用科学などの科目はその割に少なかった。

 これは、私のように「腹がへったから、飯を食ったら、すぐふくれた」式に、効果をあせる方が無理なのかもしれないが、とにかくじれったかったので、私は不必要だと思った学課にはいっさい出席せず、その科目の試験には全然応じなかった。

 私としてみれば、ただ立派なピストン・リングを作ることだけが唯一の目的のようなものだったから、試験などには少しもこだわらなかった。落第もなけりゃ進級もない。学校から見れば前代未聞の学生だったに違いない。

 ともかく二、三年は学校へ通って講義を聴いていたように思う。もっとも三年通えば、普通なら卒業だ。私は退学の通知を貰った。若干の不満はあったが、私もその処分を納得した。しかし、その後も一年ぐらいは、学校へ顔を出して講義だけは聴いていた。

 月謝は納めなかったが、学校は何もいわなかった。浜松工専も、この型破りの学生にはさぞ迷惑したに違いない。しかし私にしてみれば、自分なりに懸命の勉強であった。そして九ヵ月目に、宿願のピストン・リングの製作に成功していたのである。 』

 

 『 それでもこの浜松工専時代は、それまでの私には皆無といってよかった技術の理論を、ある程度身につけることができ、当面の必要をみたしてくれた。同時にそれは後年大いに役立った。

 それはなぜかといえば、何か一つのものを見たり聞いたりしたときに、それを正しく判断するための力となり、次のものを考える基礎となったわけだ。「大きく飛躍するには、やはりしっかりした基礎がなければダメだ」ということは真実である。

 現在の学生諸君とは時代も違うし、学科の構成や勉強の内容なども変わってきていると思う。だが、私が後年痛感したような、基礎理論を身につけるということは、今も昔も変わらないはずである。

 これは学生時代のうちはわからない。社会に出てから切実に感じるものだ。ことに将来技術者を目指している若い人には、とくにこのことを強調しておきたい。

 昔から、「見たり、聞いたり、試したり」という言葉がある。これは物事を覚えるたとえに使われる言葉と思うが、「百聞は一見にしかず」の方が効果的だ。しかし、私はこの中で最後の「試したり」が一番大切だと思っている。

 つまり、私の場合は「なすことによって学ぶ」という実践的勉強法が、一番力になり、身にもついたというわけである。私は、工員のくせに、勉強などする必要はない」という人に対して、いつもこう話すのである。 』  (ここまで、「なすことによって学ぶ」より) 

 

 『 「刀鍛冶の正宗の時代には、特定の縦にも横にも広い天才がいれば、それで仕事ができた。次の産業革命後のフォード(アメリカの自動車王)の時代には、仕事をバラバラに解体して、それを一つの流れにして作り上げるようになった。

 それが現在ではどうであろうか。製品が年々型を変えて市場に放出されるために、同じ流れの作業でありながら、個人は一つの技能をマスターした瞬間には、もう次の来るべき技能を予想しなければならなくなり、ついでに他の関連部署の仕事まで、ことごとく知っておく必要に迫らせてきた。

 言葉をかえていえば、自分に高度の知識と技能を植えつけると同時に、隣の部署の仕事をも理解できなくてはならないということである。したがってやはり勉強が大切であるといえるだろう」

 殊にこれからは、技能者であると同時に経営者の才腕をそなえた人でなければ、事業を進展させることは不可能の時代に向かいつつある。生産と販売とのいずれが主体になるべきかといえば、その重さはまさに伯仲しているからである。 』

 

 『 私が小学校二年のとき、私の胸を沸き立たせる事件が起こった。大正 三年(1914年)の秋だったと記憶している。私の家から約二〇キロほど離れた浜松歩兵連隊に、飛行機がきて、飛んで見せるという噂を聞いた。

 そこで何とかしてその飛行機というものを見たくてしょうがなかった。絵で見ただけではどうしても承知できなかったのである。そこで私はあれこれと作戦を練った。

 親父にせがんだところで、どのみち許してもらえそうもないと悟った私は、家族の目を盗んでそっと「金二銭也」をせしめ、まず必要な資金を確保した。あとは決行あるのみ、というわけである。

 学校はサボることにした。あとは親父やお袋、祖母の目からいかに盗塁するか、ということだけだった。その日は、私は何食わぬ顔で自転車を持ち出し一気に浜松に向かってペダルを踏みだした。

 小学校二年生の私には、まだ自転車のサドルにちゃんと尻をつけて乗ることはできない。いわゆる「三角乗り」というやつで、横から片方の足を三角に突っ込み、苦しい姿勢でペダルを踏む、あの乗り方しかできなかった。

 だが、私はもう夢中だった。連隊に到着したときは、もう憧れの飛行機が間もなく見られるというので、私の胸は、まったくいいようのない嬉しさで一杯だった。

 それはナイルス・スミスという、グライダーに簡単なエンジンをつけたような、まことにチャチな飛行機であったが、さて入場となると、練兵場には塀がめぐらされていて入場料を取っている。

 もちろん入場料を取られることは予想していたが、「二銭あれば、大丈夫」と考えてきたのは大きな誤算で、大金(十銭ぐらいだったと記憶している)が必要だった。

 その瞬間、私の小さな胸は絶望にふさがれてしまった。しかし、私はあきらめなかった。ふと目についた松の木に登って、見たい一念を遂げることにした。私は周囲に気を配り、松の木に登った。

 下から見つけられないように、枝を折って体を遮へいした。実際には、見つかってもどうということはなかったのだが、子ども心にも万全を期したわけである。

 こうして、やや遠望ではあったが、私はナイルス・スミスの飛行振りに感激するとともに、魅せられていたガソリンの匂いを満喫したのであった。帰途、私の踏む三角乗りのペダルの足は軽かった。

 スミス号の飛行士が、ハンチングのツバを後ろに廻して飛行眼鏡をかけていた勇姿を思い出した。これがまた非常に男らしく見えたのだ。

 ペダルを踏みながら。私はいつの間にか学帽を後ろ向きにかぶっていた。そうして飛行機にも負けないスピードをペダルに托して、私は疲れも知らず風を切って田舎道を突っ走った。 』

 

 『 家にはいったとたんに、親父の怒声に見舞われたことはいうまでもない。でもその親父の怒声も、私の弁明を聞くと、にわかにおだやかになった。「お前、ほんとうに飛行機をみてきたのか……」

 親父自身ひどく感激してしまったからであろう。そのときから、私はどうしても飛行士がかぶっていたような、鳥打帽子が欲しくてたまらない。遂に親父に鳥打帽子をせがみ倒して、自分の所有物にすると、今度は飛行眼鏡が欲しくなった。

 だがこればかりは田舎のことだけに、どうしても手に入れることができない。やむなく生来の器用さを生かして、ボール紙製の眼鏡で我慢することにした。

 それで一切の準備が完了した。私は鳥打帽のひさしを後ろに廻し、ボール紙の飛行眼鏡をかけて、朝に夕にちょっとした飛行士気取りで、得意になって歩き廻った。

 遂には竹製のプロペラを自転車の前に取りつけて、まさに天空をかける心地で、自転車を縦横に乗り廻したものであった。

 そのような私だっただけに、四年生頃、青白い煙を尻からふき出しながら悪魔のように村を通過してゆく自動車の出現には、完全に魅了された。

 「まるで金魚のフンだ」と笑われながらも、自転車でその後を追った。そして、ガソリンの匂いをかぎ、気が遠くなるような歓喜にとらわれたものである。

 その頃から私の抱いた最大の望みは、自分の手で自動車をいじり、運転し、そして思いきりすっ飛ばしてみたい、ということであった。

 その念願が達成できるのは、いつのことか予想もつかなかったが、いつかはその時が来ると信じて疑わなかった。そして小学校高等科を間もなく卒業という頃、「輪業の世界」という雑誌を読みふけったいると、ふと広告欄が目についた。

 東京の「アート商会」という自動車修理工場で、デッチ小僧の募集広告を出していたのである。「よし、アート商会の小僧になって、自動車の勉強をしよう……」と。私は胸をおどらせて決心を固めた。 』

 

 『 私は高等科を終えると、ただちに親父にともなわれて上京することになった。たった一つの柳行李をかついで、燃えるような希望を持て余す思いで、浜松から汽車に乗った。そのときの姿は今でも目に焼きついている。

 しかし現実は、私が空想していたものとはまったくかけ離れた、みじめなものであった。あれほど憧れていた自動車には触れることさえ許されず、私に与えられる仕事といえば、明けても暮れても主人の子どもの守りをすることだけ。

 そして私の手に握らされるものは、スパナでもなくハンマーでもなく、すり切れた雑巾とバケツだけであった。燃えるような夢を抱いて上京した私にとって、これは余りにも残酷な現実であった。

 「見ろよ、お前の背中にはいつも地図がかいてあるじゃねえか」と毎日、兄弟子達にひやかされる屈辱に、歯をくいしばって耐えた。しかし、二ヵ月たち三ヵ月たつと、こと志と違う現実に、すっかり失望した私は「国へ帰ろう」と、何度か行李をまとめた。

 しかし、今考えると、そのとき私をアート商会に留まらせていたものは、やはり両親への誓いであった。もしも、私が辛抱し切れないからといって故郷に帰れば、両親は困惑のあまり、私の意気地なさを怒るに違いない、という考えであった。

 物事は考えようだ。毎日こうして好きな自動車を眺めたり、その機械の組み立てをのぞき、機械の構造を見ることができるだけでも、幸せではないか。こうした日々を繰り返しているうちに、半年ほど過ぎてしまった。

 そんなある日、大雪の降ったひどく寒い日であった。珍しく主人が、私を呼びつけた。「おい小僧、きょうは滅法忙しいので、お前も手伝え、そこの作業着を着て……」というのだ。

 私は思わずとび上がりたい衝動にかられた。待ちに待った「晴れ着」を着る日が、とうとうやってきたのだ。私は側にかけてあった作業着にとびつくと、すばやく腕を通した。

 それからそっと鏡の前に立ち、自分の晴れ姿に見入った。それは兄弟子たちがさんざん着古した、油のしみで真っ黒に汚れたものであったが、私には頬ずりしたいほどの晴れ着であった。 』

 

 『 どう見てもダブダブの借り着といった感じで、さぞ珍妙な姿だったろう。しかし、私は得意だった。「おい、何をぐずぐずしてやがんだ。早くきて手伝わんか……」

 どなる兄弟子の声に我にかえって鏡の前を離れた。とんで行くと、雪の中を走り、まだしずくがポタポタと垂れている自動車の下へ潜り込まされた。

 アンダーカバーを修理するのである。仕事としては実にたわいないことであったが、その時の私は無我夢中であった。「おい、小僧なかなかやるな……」と主人が側へきていった。

 そのときから、私もいくらか主人に認められたのだろう、嫌な子守りの仕事は次第に遠のき、自動車の修理が多くなった。こうして、一年半ほどは夢のように過ぎてしまった。

 その年の九月一日(大正十二年:一九二三年)、もう間もなく昼食になる頃のことであった。突然遠い地鳴りが聞こえたかと思うと、グラグラと大地が揺れだし、建物がきしみ、立って歩くこともできない大地震となった。

 関東大震災である。地震とともに、私は何を考えたのか、電話の側へとんで行くと、ドライバーで電話機をとりはずしていた。私にしてみれば、電話というものが珍しいばかりでなく、非常に高価なものと聞いていたからであった。

 しかしこの行為はどうも私の失敗だったようだ。「電話機だけでは、何にもならん」と主人に笑われた。「電話が高いのは、電話機そのものではなくて、権利が高いのだ」

 私は何となく不満だったが、そういうものかと、赤くなる思いでうなずくしかなかった。この電話というやつが、また私達田舎者にとっては、恐ろしいそんざい存在であった。電話のベルが聞こえると、びくっとしたものだ。

 誰かが受話器をはずすまで落ちつけなかった。というのは、電話に出れば必ず失敗するか、田舎弁を笑われるかするのがオチだったからである。

 地震と同時に、方々から火の手が上がり、アート商会にも廻ってきた。修理工場だから、あずかっている自動車を焼いたら大変である。「自動車を出せ、運転できる者は一台ずつ運転して自動車を安全な場所へ運べ!」と主人の怒鳴る声が聞こえた。

 私は内心しめたと小躍りする思いで、修理中の自動車にとび乗って路地へ出たが、そこは避難民でごった返している。その群集の間を縫って、ぐらぐら揺れる路上を、私はとにかく自動車を運転して行ったのである。

 自動車を運転しているのだという感激のほかには、私は何も感じなかった。まさに私の人生にとっては、歴史的感激だったといえる。運転そのものはまったく危っかしいものであったが、あの時の歓喜は二度と味わえないものであった。 』

 

 『 震災で、アート商会も焼け出された。私達は主人一家と共に、神田駅に近いガード下に移転した。その隣がどこかの食料品会社の倉庫だったので、私達は毎日その倉庫へ出かけ、焼け残りの缶詰類を持ってきて、飽きるほど食べたものであった。

 しかしこの震災を境に、私も一人前に近い修理工になれたようなものである。それというのも、震災後、芝浦のある工場でたくさんの自動車が焼けたまま放ってあったのを、主人が見つけてきた。

 「とにかくこれを、動くようになおすのだ」 十五、六人いた修理工達も、震災ではほとんど田舎へ帰っていたときだったので、私と兄弟子の二人でインチキ車の修理にかかった。今考えると、修理の方も大変インチキだった。

 スプリングにしても、何で焼を入れるのかわからない。シャーシにしても焼けているし、塗装だけはニューのようにやれというわけで、とにかく自動車の体裁を整えることに一生懸命であった。

 それで組み立ててみると、立派にエンジンがかかった。自分ながら不思議に思うほどであった。すると主人がそれをどこかへ運転して行って、高く売りつけてくる。

 この仕事で一番困ったのは、やはりスポークであった。当時自動車のスポークはみんな木製であったから、焼けてしまってはどうしょうもない。木製スポークといえば、車大工でさえ作れなかったのだから、私達が苦労したのは当然である。

 しかし、ともかくそれが成功したのだから、私達の歓びはちょっと言葉では表現できないほどのものであった。その翌年、私は数え年の一八歳になっていた。すっかり一人前の修理工になっていた。

 夏のことであった。不意に主人が、私に盛岡へ出張してくれという。「仕事は消防自動車の修理だが、たいしたことはない。お前の腕なら、もう十分やれる」 私は喜んでこの役目を引き受けた。

 生まれてはじめて見る東北地方である。上野から十数時間汽車に揺られて、盛岡へ到着すると、「なんだ小僧じゃないか……」 とがっかりした表情で迎えられた。私は内心不服だったが、一八歳では反駁のしようもなかった。

 したがって、旅館の女中達からも小僧扱いを受け、女中部屋の隣室に押し込まれる始末であった。翌朝、早速仕事にかかった。消防自動車を次々と分解していくと、「小僧さん、そんなに分解しちまって、組立てができるかね」とまた小僧扱いにする。

 私は心の中で歯を食いしばりながら、クソッ今に見ていろと無言の抵抗を続けていた。やがて、分解から組立てを終わり、試運転してみると、見事に動き出した。 「おお動いたぞ。水が出る!」 まるで奇跡が起こったような騒ぎになった。

 私は内心ざまァ見ろといいたいところであった。その日の夕方、仕事を終えて旅館に帰ると、早速床ノ間つきの一等室に案内された。夕食には酒まで一本つけてくれた。立派な一人前の修理工に昇格したわけだ。 』

 

 『 帰京すると、主人もひどく喜んでくれた。その月末、私ははじめて金五円也の給料らしい金を貰った。このようなことから、私の技術も、主人から高く買われるようになり、徴兵検査まで精一杯奉公を続けた。

 徴兵検査で甲種合格をまぬがれると、さらに一年間、お礼奉公としてアート商会で働いた。この六年間で私は自動車の構造はもちろんのこと、その修理のコツも呑み込んだし、自動車の運転も習得した。

 自分で運転し、大都会のアスファルトを自由に走れるようになり、私の最初の希望はまずかなえられたことになる。いよいよ年季も明け、私は二十二歳の春浜松へ帰郷し、主人から分けて戴いた「アート商会浜松支店」を開店、店主として独立した。

 「アート商会浜松支店」と看板はなかなか立派であるが、実質はささやかな、修理工場ともいえないような、貧弱な自動車修理場であった。修理工も「店主」でもある私一人、しかし父は私の開店を心から祝ってくれ、家屋敷と米一俵を贈ってくれた。

 開店当初は、店主兼修理工である私が、あまりにも若僧だったせいか、客もなかなかつかなかった、とにかく一通りのことは何でもできたので、次第に見直されるようになった。

 お陰で、その年の暮には「金八十円也」の純益を上げることができた。まだ二十二歳という若僧だっただけに、大いに気を良くしたのはいうまでもない。

 当時浜松には、他に二、三軒しか修理工場がなかったせいか、私は次第に余裕を持つようになった。余裕が出てくると子どものときからの性分で、変わった機械に魅力を感じてくる。

 そこであれこれとモーター(エンジン)の研究を始め、自製のモーターまでできるようになった。そしてモーターボートを製作し、若い工員を連れて浜名湖で乗り廻すのが、私の楽しみの一つになった。前後を通じ、六、七隻のモーターボートを作ったような気がする。

 私の工場は、数年たたないうちに工員もどんどん増え、五十名程になった。しかしそのうちに、特別の理由はなかったが、「修理工場などというものは、いくら伸展したところでタカが知れている」という妙な考えにとりつかれるようになった。

 いくら修理技術がすぐれているからといって、東京からわざわざ頼みに来るわけでもなし、ましてや自動車王国といわれるアメリカから依頼がくるはずもない。そこで、私はこう考えた。

 「所詮、修理は経験を積めば、誰にでもできる仕事だ、だから、これに一生を費やすのは、何かもの足りない。この世に生を受けた以上、どうせやるなら、自分の手で何かを生みだそう。 』

 

 『 工夫し、考案し、そして社会に役立つものを製作すべきだ。他人さまの製作した物を修理するという仕事より、その方が私の性に合っているような気がする。

 だとしたら自分のこの手で何か作ってみよう。ここから更に一歩前進してみようじゃないか……」 やろうと一度決心したら、向うみずで、せっかちな私である。

 決意した通り、五十名程に発展していた修理工場をあっさり投げ出して、今度はピストン・リングの製造工場に転換してしまった。同時に「アート商会」の看板を降ろして「東海精機株式会社」の看板を掲げた。

 しかし、ピストン・リングに切り換えるまでには、重役の間に相当の反対者がいて、「そんな勝手な真似は、たとえ社長でも許せない」と、どうしても承知してくれない。

 決心したとなると、まっしぐらに突き進みたい私の性格が、この暗礁ですっかり参ってしまったのか、私はひどい顔面神経痛にかかった。その治療だと称し、私はあちこちの温泉にいりびったったり、医者だ、注射だと二ヵ月以上も仕事から離れた生活を余儀なくされた。

 そのうち、仲に立って反対重役達を説得してくれる人があって、ようやく転換に踏み切ることになった。するとどうだろう。それまで苦しみ抜いてきた顔面神経痛が、けろりと直ってしまった。この突然の変化には、自分ながら驚くほかなかった。

 病気快癒となると、私はもうじっとしていられなかった。翌日から新しい仕事に全情熱を傾注し始めた。しかし、まったく思うようなピストン・リングが、なぜかできないのだ。

 仕方がないので、とうとう鋳物屋を訪れ、指導を頼み込んだ。ところが、「お前らのような十年者に、できてたまるか……」 と大変な剣幕で、まったく相手にしてくれないのである。

 私は歯をくいしばって、鋳物の研究と取り組む日が続いた。しかし、その努力は一向に実りそうもなかった。私の貯えも底をつき、妻のものまで質屋に運んだこともあった。

 「今ここで挫折したら、皆が飢え死にするしかない」 私は、自分を励まし続けた。こういう中にあって、どうにか物になりそうなピストン・リングを作ることに成功したのは、忘れもしない昭和一二年十一月二十日であった。

 ピストン・リングを製作し始めて、九ヵ月の歳月が流れていた。この時代の生活との苦闘こそ、後年の私の背骨となったと思っている。 』 (「栄光への道」より)

 

 この後に、最初の「なすことによって学ぶ」の浜松工業専門学校での学びに続きます。2015年12月9日にちょうど、宗一郎少年が夢見たホンダジェットの認証が届いたとニュースが入ってきました。

 HondaJet Receives Type Certification From Federal Aviation Administration

GREENSBORO, N.C. - Dec. 9, 2015 - The HondaJet received type certification from the United States Federal Aviation Administration (FAA) on Tuesday. Honda Aircraft Company and the FAA made the announcement today at the Honda Aircraft headquarters in Greensboro, North Carolina.

 certification : 認証、 Federal Aviation Administration : 連邦航空局、  Honda Aircraft Company : ホンダエアクラフト株式会社、 announncemennt : 公表、headquarter : 本部を置く、 Greensboro, North Carolina : ノースカロライナ州のグリーンズボロ 


 今回、本田宗一郎がスーパーカブ(原動機付自転車)、オートバイ、自動車、F1レース自動車、ホンダジェットと実現しましたが。

 私がなぜ宗一郎少年が、ここまで、実現できたかを、私なりに考えてみました。宗一郎の父親が、鍛冶屋であったことにそのルーツがあるように思いました。

 日本の刀鍛冶、及び鍛冶屋のレベルは、種子島に鉄砲が伝来した時、これを見て、鉄砲をつくったのは、世界で、日本の刀鍛冶、鍛冶屋だけでした。

 さらに宗一郎少年は、オートバイや自動車の心臓部は、そのエンジンにあることを見抜きエンジンについて研究してます。 そして、そのエンジンの中でも、重要な部品である、ピストンリングを徹底的に研究して、開発に成功します。

 この宗一郎少年のDNAが、ホンダジェットの開発の中に流れているのではと考えました。  (第97回)