チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「翻訳地獄へようこそ」

2019-11-17 09:50:07 | 独学
191. 翻訳地獄へようこそ  (宮脇孝雄著 2018年6月)

 私が本書を紹介しますのは、私がこれから翻訳家を目指すためでもなく、地獄を見たいからでもありません。翻訳家である著者が、悩んでいたことは、英語劣等生の私が、やさしい英書に挑戦して(断念して)、経験してきたことでした。(当然レベルは、全くちがいますが)

 まず、わからない単語を辞書で引いても、英文を理解することができるときもありますが、多くは理解することができませんでした。その理由の一つとして、その単語が、名詞として、使用されているのか、動詞として使用されているのかを明確にできない。さらに品詞が分かっても、沢山あるどの意味を持ってくればよいか判断できない。さらには、それがイデオム(熟語)として使われているのか判断できない。
 これらのことは、私の能力のせいであると考えてきましたが、翻訳家でも同様な問題を抱えていることを知って、安心しました。

 次の問題は、日本語の言葉と英単語が、一対一に対応していないという問題です。あたかも日本の私の受けてきた英語教育では、英語の文と日本語の文を線で結べば、英語は一丁あがりのように、考えてきましたが、むしろ、英語の単語は、全く新しい概念を学ぶと考えた方が、良いと思われます。
 日本文でも、英文でも、生きた文章に接し、自分が学びたい分野の名著、名文に接して、楽しんで、英語に挑戦し続けたいと思います。私は本書で、仏に会ったように感じました。
 前置きが長くなりましたが、さっそく読んでいきましょう。

 『 今回紹介する平尾圭吾さん(「ジョーズ」などの翻訳家)の「ニューヨーク遊遊記」です。この本のなかで印象に残っているアメリカのジョークに、次のようなものがある。

 What  happened  to  summer  romance ?  「彼女の夏のロマンスはどうなった?」
 She  started  looking  for  a  fall  guy . 「今、秋の男を捜し始めたところさ」
 というわけだが、これではまだ意味不明である。 fall guy は文字どおりには「秋の男」であるものの、実はアメリカの俗語で「だまされやすい人」の意味だという。つまり、カモですね。
 で、二つ目の英文は、「夏のロマンスが終わって秋の男を捜し始めた」という表の意味と、「次のカモを捜しはじめた」という裏の意味とをかけた言葉遊びになっているわけである。

 これで私は fall guy という言葉を覚えた。 で、用例を探してみたのだが、手持ちの本の中でレイモンド・チャンドラーのミステリーの中にたくさん見つかった。
 ところが、チャンドラーの文章に出てくる fall guy は、「本当は無実なのに、他人の罪を押しつけられる身代わりの人物」という意味で使われている。

  Now  suppose  Marriott  wanted  that  money  and  wanted  to  make  you  the   fall  guy --- wouldn't  he  have  acted  just  the  way  he  did ?

 (マリオットがあの金を盗んでおまえに罪を着せようとしたんだとしようーーだから、あいつはまさしくあんな行動をしたのではないか=そう考えるとあいつがあんな行動をしたのも納得できる)
 A  dead  man  is  the  best  fall  guy  in  the  world.  He  never  talks  back.
 (死んだ者は世界最高の身代わりだ。ぜったいに口答えしないから)

 つまり、この言葉には、「カモ」のほかに、「身代わり、スケープゴート」の意味もある。したがって、文脈によってどちらの意味で使われているかを見極める必要がある。

 いつか、あるアメリカの小説を読んでいたら、会話の中に、この fall guy がでてきた。

 I  didn't  want  to  leave,  but  I  couldn't  stay.  Somebody  had  to  take  the  initiative.  I  did.  Now  I'm  the  fall  guy  too.

 この「私」は離婚を考えていて、奥さんに「家を出る」といったばかり。今、それを後悔して、このようなことを言っている。訳本(ノーベル賞作家の代表作なのです)を読むと、次のような日本語になっていた。

「出たくなかったんですけど、とどまるわけにもいかなかった。誰かが主導権をとらなきゃならないでしょう。ぼくがそれをやったんです。つまりいいカモでもあるわけです」
 Somebody  had  to  take  the  initiative. (誰かが主導権をとらなきゃならない)というのは、離婚確定の夫婦であるなら、妻か夫のどちらかが先に離婚を切り出さなければならない、つまり主導権をとらないといけない、という意味だろう。

 Fall  guy  は「カモ」と訳されているが、たぶん、この文脈でカモはおかしい。この場合は「スケープゴード、本当は無実なのに、他人の罪を押しつけられる身代わりの人物」の意味に解釈しないと文脈に合わない。
 そんなわけで、最後の「 Now  I'm  the  fall  guy  too 」は、「(先にどっちが離婚を言い出したのか、裁判では問題になるはずなので)ぼくのほうが悪者にされる結果にもなった」ということになる。簡潔に訳せば、
 「つまり、貧乏くじまで引かされたわけです」
 でいいのではないかと思うが、平尾さん(2011年2月逝去)ならどう訳しただろう。』

 『 「ティファニーで朝食を」は、何十年も前から日本版が文庫で手に入るし、最近は新しい訳も出ているので、原作のファンも多いだろう。その冒頭の部分は翻訳の講義に使えるのではないか。と気づいた。次のような文章である。

 I  am  always  drawn  back  to  places  where  I  have  lived,  the  houses  and  their  neighborhoods.  For  instance,  there  is  a  brownstone  in the  East  seventies  where ,  during  the  early  years  of  the  war.  I  had  my  first  New  York  apartment.

 be  drawn  back は「引き戻される」で、この文脈では「思い出す」と訳してもいいのだが、ここは無理をしてでも「引き戻される」と訳したい。a  brownstone は褐色砂岩を壁に使った建物で、高級なイメージである。
 the  East  Seventies はニューヨークの東70丁目から79丁目までの「70丁目台」の地域で、これも高級なイメージ。

 さて、大きく分けて翻訳には「英文解釈方式」と「流れにまかせる方式」の二種類があり、たいがいはその二つの組み合わせでできている。この文章をまず「英文解釈方式」で訳してみると、次のようになる。

 「私はいつも、自分が住んできたさまざまな場所、住居やその近所に引き戻される。たとえば、戦争が始まったばかりのころ、何年か住んだ、ニューヨークにおける私の最初のアパートメント、東70丁目のブラウンストーンの建物がある」
 この訳し方の特徴は、がっちりした構築感があることだが、最後まで読まないと意味がつかみにくい欠点がある。「私はいつも」で宙ぶらりんになって、最後の「引き戻される」でやっと着地するわけですね。

 それに対して、「流れにまかせる方式」だと、次のように訳すことができる。
 「私がいつも引き戻される場所は、これまでに住んできたところ、そのときに暮らしていた建物やその界隈だ。たとえば、東70丁目台にブラウンストーンの建物があって、戦争が始まったばかりの数年間、そこをニューヨークで最初の住まいにしていた」

 これは原文の流れに沿った訳し方で、読みやすいが、酔っ払いの繰り言のように、だらだらと長くなる傾向がある。』 

 『 あるイギリスの小説を読んでいたら、次のような一節がでてきた。
 There  had  been  a  time  when  he  had  thought  his  wife's  stupidity  a  misfortune;  now  he  knew  that  it  was  a  vice.

 これをうまく訳すのは、実は難しい。ポイントは vice をどう訳すか、である。手もとにあるリーダーズ英和辞典で vice を引くと、「悪、悪徳:非行、堕落行為、悪徳;売春;〈馬・犬などの〉悪癖‥‥‥」 と出ている。お馴染みの英辞郎でも、 1. 悪徳,不道徳 2. 悪習、悪行 3. とだいたい同じことが同じ順で記されている。

 日本の英語学習者は、こういう辞書を見て、 vice の第一義は「悪徳」だと確認し、さっきの文を 「彼は妻の愚かさを不運だと思っていた時もあったが、今はそれは悪徳だとわかった」 と 訳すのである。

 しかし、これで意味が通じるだろうか。前半部分はわかる。「妻は愚かだ。馬鹿だ。そんな女と結婚したのはわが身の不運だ」といいたいのだろう。だがそれがなぜ「悪徳」になるのか。 文章の構築法として、 misfortune と vice を対応させているのは明らかなので、 misfortune が「自分にとっての不運」であるなら、 vice は 「自分にとっての vice 」と解釈するのが妥当である。

 つまり、愚かな妻を持つことは、「自分の不運」だと思っていたが、実は「自分の悪徳」だった、といっていることになる。奥さんが馬鹿だと、旦那は悪人なのか。やっぱりよくわからない。
 こういうとき役に立つのが、英英辞書である。私の場合、イギリスの小説を訳すときには、コリンズ社のコウビルド社のコウビルド英英辞典をとりあえず参照することにしている。

 その辞書で vice を引いてみると、「悪」だの「悪徳」だのという説明はいっさいなく、いくなりこう書いてあった。

 A  vice  is  a  habit  which  is  regarded  as  a  weakness  in  someone's  character,  but  as  a  serious  fault.  ( vice とは、性格の弱さとになされる習慣のことで、通常は深刻な欠陥であるとは考えられない)

 つまり、意志が弱くてやめられない癖、たとえば喫煙や飲酒のような「悪習」のことを vice という。 場合によっては「悪徳」と訳すこともあるだろうが、今の用法ではずいぶん軽い意味で使われているのである(例・Chocolate  ice cream  is  my  vice  = チョコレート・アイスクリームはわたしの vice である )
 というわけで、さっきの文をやや説明的に訳せば、「愚かな妻を持つのは身の不運だと考えていたこともあった。今ならわかるが、それは性格が弱くてやめられない悪い癖のようなものだ」

 ということになる。愚かな妻は喫煙や飲酒と同じで、意志を強く持てばやめられる(離婚できる)が、なかなかそれはできない、といっているのである。 (第190回)


ブックハンター「良い句をつくるための川柳文法」

2019-11-14 10:15:22 | Weblog
 190. 良い句をつくるための川柳文法 (江端哲男著 2017年2月)

 本書を読むための前振りとして、俳句と川柳の違いについて、おさらいしておきます。 俳句とは、五・七・五で、季語を含むことを原則とする短詩。
 川柳とは、十七文字の短詩で、季語、切れ字などの制約のない世相を風刺し、軽みをもって滑稽(こっけい)に描くことです。
 川柳は、なぜ”かわやなぎ”と書くのかですが、 江戸中期の柄井川柳(からいせんりゅう)が選んだ句「俳風柳多留」(はいふうやなぎたる)が江戸でベストセラーになったことによって、川柳と書いて川柳と読み、現在の川柳の道を開いたとあります。

 私の好きな俳句を二つ紹介いたします。 荒海や 佐渡に横たう 天の川 (芭蕉) 季語は、秋で、天の川です。
 菜の花や 月は東に 日は西に (蕪村) 季語は、春で、菜の花です。
 次に、川柳を一句紹介します。 本降りに なって出て行く 雨宿り (江戸川柳)
 このように川柳は、世相を描きます。一方俳句は、風景(宇宙)を描きます。
 では、読んでいきましょう。

 『 文法は難しい、という先入観がある。川柳に関わる以上欠かせなものなのに、何となく敬遠されがちなのが文法だ。基本さえ理解できれば、文法は本来、そんなに難しいものではない。文法の力、つまり文法力を身につけることで、作句技術のバリエーションが広がり、飛躍的に表現力がアップする。
 知らないなんてモッタイナイ! そんな思いから筆を執った。川柳と文法。一番対局に位置するもの。そう考えになっている方が大勢おられるに違いない。  川柳=自由闊達 VS 文法=杓子定規 という図式が、固定観念としてすでに摺り込まれているのであろう。だとしたら、それはマチガイ! 本来は、そうではない証明を、本書でしていく。国語教師約四十年のメンツ(笑)にかけても、興味深く分かりやすい講義を展開してゆくつもりである。 』

 『 煙草酒塩と医者から 削られる (今川乱魚) 筆者の師である今川乱魚氏四十代の作品。 「煙草酒塩を」ではない。 「―と」になっている。従って「煙草」「酒」「塩」は並列ではない。つまり、病状が進につれて、医者からの「煙草」「酒」「塩」の順に、指示がきつくなってきたという意味だ。
 一億の 動悸未だに 収まらぬ (植竹団扇) 東日本大震災の年。筆者が代表を務める東葛川柳会の課題「あれから一年」の秀句作品。 「収まらぬ」という下五が秀逸である。
 「収まらぬ」の「ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。終止形でない止め方(連体止め)に、「あれから一年」の余韻・余情が深くなる。 』

 『 「昔昔あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に‥‥。 ここで「おじいさんとおばあさん ”が” いました。」 で二行目の「おじいさん ”は” 山へ芝刈りに、おばあさん ”は” 川に洗濯に‥‥」の違いです。
 なぜ、一行目は、「が」で、二行目は、「は」なのか。 一行目は「未知の格動詞」 ”が” で、二行目は「既知の副助詞」 ”は” だからです。 』

 私がこの本を是非紹介したいと思いましたのは、最後の「昔昔おじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に‥‥。」の話です。
 このフレーズは、いくら国語劣等生の私でも、子供の頃から暗記していました。でも「が」、「は」の違いは、七十二歳のこの年になるまで知りませんでした。もう六十年ほど前に教えてほしかった。(笑)
 余談ですが俳句プレバトの夏井いつき先生も元国語教師だそうです。このような優れた国語教師に習いたいものです。英語の本も読めない(勉強しない)英語教師、実用的文法を知らない(勉強しない)国語教師が多すぎるように感じるのは、私のひがみでしょうか。
(第189回)



ブックハンター「京都の企業なぜ独創的で業績がいいのか」

2019-11-09 15:10:07 | Weblog
 189. 京都の企業はなぜ独創的で業績がいいのか (堀場厚著 2011年10月)
 
 この本を紹介し始めたのですが、文字数が多すぎると、入力出来なくなりましたので、削除して、私(ブログの作成者)の意見だけを書きます。
 京都は室町時代から優れた工芸品(清水焼、西陣織、京仏壇、京扇子、友禅染など)を制作してきました。一つの工芸品を制作するとき、この工芸品を工程(パーツ)に分解し、これを技術集団である家が担当し、問屋は、顧客と絵師(デザイナー)と技術者集団である(家)に、中間製品(工程)分配して、顧客から回収した資本を家に分配します。

 家である技術者集団は、親方と弟子で構成され、高度の技術を継承します。狭い京都の盆地の中に、高度な技術集団が密集しているために、効率よく高度の技術と優れた工芸品を生み出しました。すなわち、工程の分解と技術と資本(商売)を分離し、技術を尊重することによって、京都文化と商業都市京都を支えてきました。

 現在、京都に本社を置く企業は、任天堂、京セラ、島津製作所、ローム、村田製作所、オムロン、日本電産、ワコール、堀場製作所などです。現在これらの企業は、世界的企業として、製品の販売だけではなく、全世界に関連企業を展開しています。

 堀場製作所は、フランスやドイツに関連会社を持ち、その自主性を尊重しながら、堀場製作所としてのポリシーを守っています。役員も日本人だけではなく、人種も多様です。
 
 私が本書で一番うらやましく感じたのは、滋賀県高島市朽木(くつき)にある研修所です。日本の四季を感じながら、京都の一流料理人による料理、日本の一級の木造建築による日本文化を体験しながら、世界の堀場社員が目的のために、人種を超えて、国を超えて集う研修所です。

 最後に私が、本書を勧めるのは、株式投資の入門書として、本書を読むことです。ここで紹介されている京都の企業は、任天堂、京セラ、島津製作所、ローム、村田製作所、オムロン、日本電産、ワコール、堀場製作所などです。
 これらの株を10年前にこれらの株を保有していれば、ほぼ数倍以上になっています。今これらの株を買っても、十年後には、ほぼ数倍近くになる確率は高いと思います。なぜなら、これらの企業は基盤技術と世界シェアをもって、百年単位で生き抜く企業だからだと考えます。 (第188回)