35. イワナの夏 (湯川 豊著 1987年発行)
『 イワナのもっとも堅固な隠れ家は、「昔」の中である。私に釣られるはずの幾千のイワナは、どういうわけか知らないけれども、幽谷の滝壺の奥深くではなく、みな「昔」の中へ逃げ込んでしまうのだ。
――十年前は足で踏みつぶすぐらいいたんだけれども。
――五年前に大水が出てから釣れなくなったねえ。
――二年前の九月に行ったときは、あの大淵で尺物が三本出たんだが。
イワナを釣りはじめて十年このかた、そういう話ばかり聞きつづけてきた。それでも、「二年前まではよかった」というならまだしもいいもである。
それが「去年はよかった」のなり、「この春はよく釣れた」になり、「一週間前は入れ食いだった」ということになる。そしてさらにひどいことがある。
いま確実に釣れているという谷へ、週末に万障繰り合わせて駆けつけてみると、一日前に来ていた仲間が、「おかしいなあ、昨日は半日で二十ほど出たんですが」などといって首を傾けるのだ。
これはもはやイワナの特性なのだと考えるほかはない。イワナの特性は「昔」の中へすばやく、じつにすばやく身を隠すことにある。だから私が行って釣れないのは、イワナたちが「昨日」という「昔」の奥深くへ逃げ込んだからに違いないのだ。
イワナたちはこのようなワルい性格を私だけに見せるのかという疑問をいだき、仲間にそれとなく訊いてみると、大方がやっぱり「昔」の中に逃げられた体験を持つらしい。
また、私に向って「昔はよかった話」をする先輩の釣り師さえ、さらにその先輩から「昔はよかった話」を聞かされていることが判明してきた。
とすれば、おそらくその先輩も同じことを体験しただろう。昔より昔のさらなる昔へ、無限の昔の中へイワナが逃げていく。
行きつく果ては魚をとる人間がいなかった、薄明の風景の中を泳ぐイワナということになるだろうか。そこでは、もうイワナは逃げる必要がない。
だが、イワナはさらにさらに怪しい魚なのである。他人の歳月の中に逃げ込むばかりでなく、あろうことか私自身の「昔」の中まで逃げ隠れしようとしたがるのだ。
昔は魚が多かったなどという他人の話には耳をかしたくもないのに、私自身の体験の中から「それでも昔はもっと魚がいたなあ」という囁き声があぶくのように浮かびあがり、その囁き声はひとりでに大きくなって、しきりに他人の耳に入りたがっているようなのである。
たとえば、私は渓流釣りをはじめて五、六年の間、信濃川上を基地にして千曲川源流一帯に通いつめたけれども、行きはじめて二、三年は今から思うとたしかに魚が多かった。
いいたくないが(いや、ホントは私もいってみたいのだ)、千曲川源流の水系も、昔は魚が多かった! 』
『 アイザック・ウォルトンは「釣魚大全」の末尾に、「穏やかに生きることを学べ」と書きつけた。
すでに穏やかに生きている人はそれを学ぶ必要などないはずだから、釣り師とは穏やかに生きることを心して学ばなければならない類の人間なのだろう。
しかし、私の個人的体験からすれば、釣りをやってるかぎり穏やかになんか生きられるものか。
釣り師は釣りをしているときだけ、もっと厳密に言えばヤマメやイワナをかけた後の数刻だけしか穏やかでいられない。
フライ・フィッシングの本格的なシーズンに入るのはまだまだ先のこと、そう自分にいい聞かせてもダメなのだ。
ひらひらと桜が散るのを見ていると、私の頭の闇のなかで、幻のヤマメがこっちの都合におかまいなく無責任に泳ぎだしてしまう。
そういう春の真夜中の、あてどない焦りと退屈を慰めるために、私はヘッドフォンをつけてレコードを聴きさらに時間を空費するのだ。
とっかえひっかえ聴くレコードのなかで鎮静剤として私に一番効き目があるのは、カナダの天才ピアニスト、グレン・グールドが弾くバッハである。
もともとカミサマに捧げるお経のようなバッハの音楽は、私をカミの御許にではなく、少しは安らかな眠りに導いてくれる。
「ゴルトベルク変奏曲」でも「平均律」でも、グールドの弾くバッハは私の心身の状態とは正反対に、衰弱や退嬰からもっとも遠いところにあるのがいい。
激しく健全であろうとし、偏執的に穏やかであろうとするグールドの意志が、粒だつような一音一音から伝わってくる。
しかしそういう音楽を聴かせてくれるグールドという人物は、健全円満な性格というにはほど遠く、奇人であり変人であり怪人であった。
五十年の短い生涯は、奇行のエピソードでみちみちている。そのエピソードのひとつに、グールドは釣り師の敵だったということがある。
グレン・グールドは少年時代、夏になると湖畔の別荘で過すのがならわしだったが、ある日、グレン少年は隣りの家のオジサンに湖のボート釣りに連れていってもらった。
最初の獲物であるパーチが釣りあげられ、魚は舟の上でのたうちまわった。そのとき六歳だったグレン少年は、雷に打たれたかのように、この出来事を「魚の立場からみてしまった」のだという。
以来、グレン・グールドは、断固として釣り師の敵たらんと決意した。最初の標的は父親だった。
グレンの父親はそうとうなフライ・フィッシング狂だったが、少年は父に釣りをやめるようこんこんと説諭しはじめたのである。
そして信じがたいことだけれども十年かかってとうとう父親に釣りをやめさせてしまった。 』
『 あの桜の花と新芽、摘んで食べたらうまそうですね、と植村はマジメ顔でいった。春の草木の新芽や若葉は、特に毒のあるものを除いたら、すべておいしく食べられる、というのが彼の持論だった。
何年ぶりかで、植村と山で遊ぶ。南極横断とビンソン・マッツフ登頂を断念し、三月に帰国していた植村をひっぱり出した。
むろんそんなことで彼の深い失意を慰さめられるわけもないが、春の山麓でキャンプをし、山菜とイワナをとって食べる、僕のささやかな野外生活になぜかこの大冒険家を誘いたくなった。
彼のやっていることからすれば児戯というんも価しない自然のなかでの遊びに、彼を連れだしたくなった。
五月の一日(1983年)、三人の仲間と一緒に千曲川の最上流でテントを張った。
昼間採った山菜を、植村がてぎわよく衣をつけて天ぷらに揚げた。コゴミはさっと湯がいてひたしにした。そして焚火のまわりに串ざしにしたイワナを並べた。
僕たちは片っ端からそいつを平らげていった。「うまい」「こりゃいける」「ウン、よしよし」言葉は少なく、ビールを飲み、食べるのに熱中した。
満腹すると、コーヒー・カップを片手にみんなが焚火のまわりに集った。植村がポツリポツリと極地の食べものの話をし、僕は炎を見つめながらそれに耳傾けた。
夜の小さな風が、鬼ごっこのように焚火の中を出たり入ったりして、そのたびに炎が呼吸するように揺れた。
テントの中は、完全な暗闇ではない。どこに光があるのだろう、いちどつぶった目をあけると、ぼっと三角形の天井が見える。
不意に、という感じで、隣りの植村が話しはじめた。問わず語りに、ゆっくりと、とめどなく話す声を聞きながら、僕は訝しんだ。
これは彼一流の僕に対するサーヴィスなのだろうか、それとも、自然に話したいような気持になたのだろうか……。
「子供の頃はね、やっぱり魚捕りが一番の楽しみで、毎日のようにやってました。
家で牛を一頭飼ってましてね、学校から帰るとそれを円山川の土手まで連れていって、草を食べさせるのが小学生のおれの仕事だったんですよ。
牛を放牧している間、川で遊べるわけです。いろんな魚をとったなあ。五月頃、ちょうど今時分ですが、夕方、浅瀬に毛鉤を流すと、ハエっていってた、小さいきれいな魚がかかってきて……」
――オイカワだね。
「小さいけど、煮て食べるとけっこううまかったですよ。それから同じ毛鉤に、たまーにアユもかかったな。これはもう、家に持って帰れば大喜びされる……。
それから、ウグイ。長いタコ糸の先に拳より大き目の石を結び、そこに延縄みたいにナマズ鉤をたくさん出して、ミミズをくっつける。
そして今の石をポーンと、流れと直角に沖の方へ放り投げるんです。流れが強すぎないようなところ、広いたるみになっているような場所で投げる。
しばらくおとくと、ウグイの大きいのがかかる。大きいといっても二十センチから二十五センチくらいだったかな。それとナマズ。
でも、そんなにたくさんはつれません。一匹か二匹、三匹釣れるなんてことはめったになかった。それでも釣れるともう嬉しくてね。
なんであんなに嬉しいもんでしょうか、とにかく嬉しくて、意気揚々と家に持って帰って……」
――で、みんな食べた。
「もちろん食べましたよ。 田んぼに水を引く細い用水路がたくさんあるでしょ。あれを何人かで堰き止めてね、水をかき出して、そう、かい堀りです。
これはフナや小さいナマズがもうたくさんとれました。それから、もぐって、コウモリ傘の骨の先に鉤をつけたもので、魚をひっかける。
あれ、やりませんでした? アユねらうんです。なかなか思うようには取れませんでしたけどね。ほかに小さい銛もときどきは使ったけど、でもおれはだいたいコーモリ傘の骨せんもんでした」
植村の声がだんだん間のびしたような感じになった。「寝ようか」といいあい、二人とも黙り込んだ。
僕はしばらく闇の中で目をひらいて、山の夜の音に耳を澄ました。それから遠い瀬音にさそわれるように眠りがきた。 』
私(ブログの筆者)が、魚や鳥や両生類が昔に隠れた訳を考えてみました。
魚や鳥や両生類は、広葉樹の森と豊かな干潟や海を川や田が繋いでおり、森の湧き水の源流、川の中流域、河口流域、大海を季節と成長、産卵により移動しながら、森と川と海のゆたかさをつくりあげてきた。(うなぎは、日本の田から、深海まで、サケは、源流域から、北洋の海まで、カニさえ河口から源流域まで、イワナは洪水のときは、森の奥深くまで溯る)
すなわち、海は森の恋人であり、川が源流から河口まで、田や小さな用水路を含めて彼らの生きる場である。
ダムが川を分断し(魚道は詭弁では)、森は広葉樹の森から、放棄された針葉樹に、田畑には農薬が、川は排水溝に、欺瞞に満ちた学者の環境アセスメント、釣り人は魚を採り尽し、外来魚を放ち、トキやオオタカやシマフクロウが絶滅の危機を向え、日本の原風景を河川流域住民が協調して、守りきる必要があるのではないでしょうか。(第36回)
34. 英語散策 (猪飼篤著 1991発行)
『 独創性については私は、「ろくでもない独創性を育てよう」と言いたい。
科学・技術・芸術の進歩に役立つ独創性も結構ですが、各個人の日常生活における「ろくでもない独創性」こそが生活を楽しくしてくれるのです。
各個人がもう少し人の使わない言葉を探して日常生活に独創性を取り込むべきだと思います。
独創性、国際性というと大変おおげさで、「湯川博士」、「福井博士」がどーんと目の前に現れて、日本では独創性や国際性のある人は13人ぐらいしかいないのではないかという気がしています。
しかし、creative、original という言葉はもう少し庶民的に考えてもよろしいでしょう。
creative writing、creative cookinng、creative painting、creative drinking などというレベルでまず自分の精神を解放していくことからはじめたいと思います。
そこで、「みんなと一緒」(to go in hand with everybody else)を避けることからはじめます。
1人でものごとに対する人間を、よい意味でも悪い意味でも、
a lone wolf (一匹狼 孤独を好む人)
a lone eagle (孤独なワシ 王者は孤独 Eagle fly alone)
a loner (孤独な人 一匹狼)
a maverick (所有者の焼印をいてない牛 独立した立場をとる知識人)
と呼び、lonerはスリなどの単独犯も意味します。
一人でやることは、to play a lone hand と言います。一か八か突進するのは、
to go for broke (やけっぱちでゆけ)
It's all or nothing. (のるかそるかだ)
It's a hit or miss (operation). (当たるか、それるか、やってみろ)です。
そういうやりかたをする enterprising (進取的、積極的)な人を a go-getter (敏腕家)と呼びます。
そして得られる勝利は、a single-handed victory (一人で勝ち得た勝利)ということになります。つまりfootballでの応援に言う。
Go, go, Duke, go get Duke! (それゆけ!デューク、やれゆけ!デューク)の精神です。(Dukeは私が留学した大学の名です、失礼)。
話がそれましたが、私は一度本格的な breain storming というのをやってみたいと思っています。
"Sounds interresting. Why don't you do it? It will be fun.
Anyway you ain't gonna die for doing it."
"Hey, let's do it! Let's have some fun out of it."
"Go ahead! You are gonna make it. Why not?" (gonna = going to)
「面白そうじゃないか。やってみたらいいじゃないか。きっと面白いぞ。とにかくやって死ぬわけじゃないんだから」
「よし、やってみようじゃないか! とにかく少し楽しもうぜ」
「よしやれ! きっと成功だ。成功しないわけがない」 』
『 時々、私の口をついて出るカントリーの名文句に "Now and then, there's a fool such as I am" (私のようなバカも時にはいるさ)というのがあります。
「利口だ、馬鹿だ」という表現はどこの国でも多いものです。英語で、「利口な」という言い方には、
bright : quick at learning (覚えるのが早い)
smartt : good or quick in thinking (よい考えがひらめく、考えが早い)
brilliant : very bright (非常に頭がよい、きれる)
clever : quick at learning and understanding (覚えも理解も早い)
sharp : quick and sensitive in thinking (考えが早く鋭い、まとをついている)
ingenious : haveing cleverness at making or inventing things
(ものを作ったり発明したりする才がある)
cunning : having cleverness in deceiving
(ずるがしこい、deceive はごまかすこと)
crafty : cleverly deceitful (人をだますのがうまい)
calculating : coldly planning (計算高い)
shrewd : clever in judgement (判断にすきがない)
wise : having good sense (知恵がある)
hardheaded : practical and thorough (実務的に周到である)(thorough:完全な)
intelligent : having powers of reasoning or understanding
(分析的で理解力が高い)(reason:推論する)
resourceful : able to find a way round difficulties
(難局に打ち勝ついろいろな手を知っている)
sage : wise as a result of long thinking and experience
(長年の知恵の蓄積がある知恵者)
omniscient : all-knowing, knowing everything
(ああ、何でも知っているあの人のこと)
sophisticated : having a knowledge of social life
(社会生活が洗練されている)
cool-headed : calm ; hard excite (落ち着いて沈着冷静) 』
『 私の知る限り、多くの大学院生は修士論文は日本語で書き、博士論文を英語で書きます。私が読んだ論文からいくつか気がついたことをあげると、まず日本語の論文の場合、
1. 日本語の中へ precipitation(落下、促進), incubation(抱卵、孵化),reaction(反応),cell membrane(細胞膜)などの英語がそのままの形で入っている。
2. ;(セミコロン)とか、:(コロン)のように本来日本語の句読点でないものが、勝手な使い方ではいっている。
この2点がいつも気になります。使うなら、;は "and",:は ”これらから網羅するぞ”と言い換えられる使い方をして下さい。
英語で書かれた論文はかなりレベルに差があります。一番大切なのは、
1. 文章は一回読んだだけでわかる(関係代名詞、挿入句はできるだけ避ける)
2. 結論、判断、意見などの記述には必ずその前後に理由が書いてある。
3. 一つの結論、判断、意見とそれを支持する理由を書いたら一つのパラグラフとする。
つまり文法的にやさしい構文で、一つ一つの文章が続いていく間の理屈の流れが備わっていればとてもわかりやすい、という案外あっけないことです。
英語で博士(または修士)論文を書くときは、「文章の流れとともに理屈が頭にはいる」というのが鉄則です。ですからせっかく勉強した英文法の大半が使えません。文法的に解読しなくてはならないような文章はむずかしいからです。
1. 関係代名詞はできるだけ使わない。
2. 自分のやった実験とその結果はすべて過去形で書く。
3. 分詞構文、独立不定詞句は格好いいけど使わない。
4. できるだけ受動態を避ける。
5. しゃれて使いたいと思った単語、句、熟語は使わない。
(例:in order to elucidate, lest……should, on the other hand, etc.
on the one hand がないのに on the other hand と書く人が多すぎます。 (elucidate:説明する))
そして、一文を書いたら、
1. 主語はあるか
2. 動詞はあるか
3. 動詞は主語の数と一致しているか
4. 時制は大丈夫か
5. 証拠もないのに勝手な結論を述べていないか
6. 三段論法として筋が通っているか
をチェックして下さい。何気なく読むと間違いもなく、正しいと思う文章も、理屈の上ではおかしいということもあります。もちろん日本語で書く時も十分気をつけて書いたほうがいいのです。 』
『 To read an English book you ought to know English, to learn English you ought to read English books.
英語の本を読むには英語を知らなくてはいけない。英語を知るには英語の本を読まなくてはいけない。
To get job you need experience, to get experience you need a job.
仕事を得るには経験がなくてはいけない。経験を積むには仕事につかなくてはならない。
If you are too busy to attend a meeting you must see your boss in person, if you have time to see your boss you are not busy enough.
(in person : 自分で)
仕事が忙しくて会議に出られないときは、君の上司に直接会いにゆかなくてはならない。しかし、もし上司に会う時間があれば君は忙しいとはいえない。 』
私(ブログの筆者)の口癖 ”何かをするには、(別の)何かをしなくてはならない、その何かをするには、(また別の)何かをしなくてはならない。”(第35回)
33. 男語おんな語 翻訳指南 (リレーエッセイ 森瑤子 堀池秀人 1993発行)
『 サザンプトン(ロンドンから南へ150キロのイギリス海峡に面した港町)を出港してまもなくおそってきた思いがけない感傷と戦っているうちに、ドーバー海峡(正確にはイギリス海峡)を渡りきろうとしている。
周囲のざわめきとともに船がセーヌ河口の街ル・アーヴル(パリから北西に200キロ)の港に到着した。いよいよノルマンディ上陸作戦の開始である。
貧乏旅行の若者にとって、まずやらなくてはならないのが、安い足の確保である。英国と比べ中古四輪車の値が張るこの国では、単車が手軽だ。
やっとの思いで捜したモーターバイクのジャンク屋で、最も安いパーツを集めていったら、シャーシはカワサキ、エンジンがプジョーならダンパーとマフラーはモトグッチ……といった按配である。
ハチャメチャの混成も、異国の気安さで乗り切ることにした。アサブレールと呼ばれる組立屋さんが、四時間弱でものの見事に組み上げてくれる様子は、正に欧州の職人芸(アルチザン)の世界。
代金五十フランを値引いてもらったつり銭をジーンズのポケットにねじ込むと、「気をつけてな、無事を祈るぜ」の声を背に急発進で出発した。
とにかくボクは急いでいた。一度しかない青春時代の、しかも限られた時間で、一つでも多くのものを見なければならなかった。瞬間瞬間を精一杯生きていくことだけが大切だった。
次なる目的地はルーアンだ。15号線から29号線へと、新しい恋人(バイク)は怪音を背に走り続けた。それにしても、初春のノルマンディは猛烈に寒い。
小雨の中を突っ走るバイクでは、寒さを通り越して耳がちぎれるように痛い。途中で幾度となく襲ってくる後悔の念と戦いながら、ルーアンを目指して、とにかく走り続けることだけに没頭した。
あたりがいつの間にか暗くなり、ヘッドライトの照らす僅かな空間を睨み続けていると、寒さの中で気が遠くなっていくような睡魔が襲ってくるのだ。
三時間も走っただろうか、窓から灯りをこぼす一軒家が目に飛び込んできた。びしょ濡れの腕時計の針は水滴の下でとうに夜半を指していた。とても今夜中にルーアンには辿り着けまい、と思うと同時にスロットを閉じた。
真夜中の執拗なノックの扉の向こうに躊躇(ためらい)が感じられた。「すいません。開けて下さい、バイクで一人旅……寒い……」下手な仏語で必死に懇願するボクに、
「パレ・ヴー・アングレ?(英語話しますか)」優しい声が恐る恐る返ってきた。
「シュア(もちろん)」と叫ぶと同時に扉が隙間分だけ開いた。
僅か覗いた薄茶色の髪で女だとわかった。ブルーグレイの目が驚きと疑いを表しながら素早く頭のてっぺんからつま先までチェックしたいる。
一瞬の間をおいて、「どうしたの?とにかく入りなさい」ガウン姿の女の目には、母親のそれに変わっていた。
ヘルメットも被らずに走っていた頭から水が滴り落ち、服はもちろん、靴の中まで全身ずぶ濡れだった。「こちらに来なさい」女は命令口調でバスルームへ引きずり込んだ。
「こんなに濡れちゃって……」と言いながら手を休めることなく、髪にバスタオルを巻き付けてきた。奪い取り自分で拭いていると、女は慣れた手つきで、またたく間に服を剥ぎ取った。
ハッと息をのんだ一瞬、見上げるブルーグレイの瞳と無言で向き合った。あわててどちらからともなく目をそらすと、「体、冷え切っているわ、コニャックを飲むのよ」依然命令口調のまま、女はダイニングへ走った。
どれ位たったろうか、カーテンの隙間から差し込む日射しで目が覚めた。疲れきった身体に、たて続けにあおったストレートのコニャックのせいで、死んだように眠ってしまっていたのだ。
「主人は水産貿易関係の仕事で出張が多いの。私の名前はカトリーヌ」女は安心した素振りで自分の事を語り始めた。南仏モンペリエの出身であるという。御主人との出会いから今日までのラブストーリー。
二度の流産のあとの一粒種の愛息を交通事故で失ったこと。等々。女は長いこと人と会ったことがなかったかのように、一気に自分を語った。時折遠くを見る目つきをしながら。
いくぶん苦悩を表した表情は、年よりも老けてみえるが、三八歳という。ボクが眠りこけていた古めかしい長椅子が祖母の選んだ家具だ、と言うと自慢気に初めて微笑んだ。
フランスでは親子三代もつ家具を選べる目をもつことが、良い嫁の条件らしい。暖炉脇の書棚に目をやると、ヤコブセン、アアルト、コルビュジュといった見慣れた名前が並んでいる。
「何故建築関係の本を」と尋ねるボクに、「いい嫁になろうと家具を学ぶうちに、インテリアや建築に魅かれていったの」と意外な答え。
「女ってそんなものよ。初めは些細なことがきっかけなのよ。知らず知らずに深みにはまてしまう……」と意味深いことを口走りながら遠くを見つめる目が、いつの間にか女のそれにかわっていた。
「男は違うわ。目的があって、それに向ってつき進んでいくの。その途中に女がいるのよ。女は通過地点かもしれないわ」こちらの顔を窺いながら。
「丁度、貴男のように二五位の男は……」と言いかけて、カーテンを開けに立った。窓から新鮮な朝日が飛び込んできた。
昨夜の雨で濡れた木の葉がクリスタルのように輝いている。透明感の中に生きることへの賛歌が聞こえてくるようだ。
「貴男はシロッコ」、突如ポツンと彼女の後姿が呟いた。「シロッコ?」「風のことよ。私の故郷では時々乾いた熱風が吹いてくるの」
灼熱のサハラ砂漠の風が地中海を渡ってくると、異国の香りとともに南仏にバカンスを連れてくるらしい。
「そう、 男って風ね、隙間風ってこともあるけど……。突然入ってくる風に押されたり、流されたり、女って風に弱いのよ」どこか陰りのあった表情はもうそこにはなかった。
「貴男にはフランス人にはない香りがあるわ」「どんな?」怪訝そうな顔を向けると、「少なくともべタッとしない。そう、乾いた香りよ」
「風に香りがあるの?」「ハリケーンのように荒々しい風にはないし、モンスーンのようなじっとりにもないわね」
雨上がりの朝日に小鳥達のように、女の声には明るさとリズムがあった。「昨夜のこと、覚えている?」「い、いや」答えるのに、思わず躊躇った。
一杯目のコニャックを口にしたころから、目が覚めるまでブラックホールに入ったかのように、まるで記憶がないのだ。
「何か変なことを言わなかった?」恐る恐る尋ねると、「貴男は疲労困憊していたくせに……」と言いかけて、台所のカフェオレの火を止めに立った。
一瞬ドキッとたじろいだこちらの様子をみてとったのか、含み笑いを浮かべた。「目だけは元気に輝かせて、建築への情熱を語ってたわよ。
そのあと、あっという間に少年のような寝顔をみせて眠ってしまったけれど……」「……」「きっと伸びていくわ。私はその風を見ていたい……」独り言のように呟いた。
「貴方がインテリア、ボクが建築をやる。いつかはそんなコンビをやりたいね」ようやく二人の間の隔壁がなくなり始めた頃、ボクは出発の準備にかかった。
誰に相談する訳でもなく、会社を辞め、建築の再勉強を志したボクには時間の余裕はなかった。
大学院へ復学前の限られたフリーな時間に一つでも多くの建築に接していたかった。
乾かしてもらった洋服を着ると、彼女が用意してくれたバケットとワインを積めるだけ積んだ。作業が進むにつれ、二人の間に交わす言葉がなくなっていった。
お互い無言のうちに、来るべき時間(とき)が加速してくるのを感じていた。そして、いよいよの時間(とき)。
ボクは無言のまま、ブルーグレイの瞳から目をそらせないことだけで精一杯だった。「貴男は風……」
再びポツリと呟くカトリーヌに目で返事して、スターターをキックした。振り返らない、と心にきめ、乾いた爆音と共にボクは一路ルーアンを目指した。
1978年9月、パリ、ムフタール通りのギャラリー。そこではコンペ(設計競技)の受賞パーティーが開かれていた。
会場に届けられた送り主名なしの大きな花束。中から出てきた一枚のカードが、三年ぶりの風の詩を運んできた。
「おめでとう、パリにもシロッコが吹いていますか?」十数年経った今、ボクはシドニー行きのファーストクラスのキャビンの中にいる。
シドニーとタスマニアの新しいプロジェクトの敷地を見るためである。あの出会いからしばらくしてカトリーヌはプロのインテリア・デザイナーになっていた。
四年前、ボクが設計したパリのレストランの、家具とインテリアの一部を約束通り彼女にやってもらった。
それは受けた親切への御恩返しが十年ぶりにやっと果たせた心地良い体験だった。
貧乏旅行のあの頃が今の自分を支えていることを自覚しながら、窓から見えるジェットストリームに語りかけた。
「HOW YOU DOING?」
今ボクは貴女を書いています。』(第34回)
32. 自分の魅力に気づく本 (滝沢悦子著 1990年発行)
『 アルトマンに勤めていたが、パートナーはなかなか探せなく、「父親なら自分の娘の見合い相手の一人も連れてきてよ!」
父親は早速知り合いの大学教授のところに連絡を入れてくれた。自分の教え子のところに、片っぱしから連絡してくださり、結局私の夫の弟のところまで電話がいった。
義弟は不在だったが、電話口に出た母親が「次男では年齢がちょと下だと思いますよ。それより30歳の長男が残っているのですが、長男ではいかがでしょうか」
結果として、私はその先生もまったく面識のない滝沢家の長男とお見合いをすることになった。』
『 初デートは、帝国ホテルで待合わせをしたが、「ああ、今日は天気がいいですね。散歩に行きましょう」という彼の提案に従って、結局三時間くらい日比谷公園から皇居へと歩く羽目になった。
その日私は10センチもあるハイヒールを履いていたからたまらない。そして「どこで食事をさせたくれるのかしら」との期待に反して彼が連れて行ってくれたのは、なんとチェーンレストラン。
「別々の定食を取って、半分ずつ食べましょう」と言うではないか。「何か、かなり違う世界の人だなぁ」というのが私の正直な感想だった。
けれどもその後喫茶店に入ったりして、半日くらい一緒に過ごした後の、別れ際の彼の感激ぶりは印象的だった。
「わー、今日は実に楽しかったなぁ。女の人とこんなに話したのは久しぶりだな。本当に楽しかった。来週もまた会いましょう」と実に率直な申し入れ。
私も断る理由もなかったので、「そうですね。よろしくお願いします」という具合に二人の交際は始まった。
たぶん相手に注文をつけ始めればきりのないことだろう。が、私はむしろ誠実に付き合ってみようと思った。
まあ、若い娘のようにあまり選んでいられないという事情もなきにしもあらずだが、彼の人となりを知るために、三ヵ月くらいは付き合うことを決めた。』
『 私も初めて彼に会った時、正直言ってしまえば、「なんとなく垢抜けない人だなぁ」という感じが否めなかった。
顔の作りが悪いとか、下品だとかいうのではないが、着るものにもあまり構わないようだし、自分の外見を磨くということをほとんどしたことがないように見受けられた。
ネクタイも何だか時代遅れみたいなものだし、一緒に会う時は大きな紙袋を下げてくるなど、なんとなく「あーあ、ダサイ人」という感じすらした。
実際、デートのたびに「この人は、一体どこが垢抜けないんだろうか?」と観察していたくらいだ。
けれど私自身は、素材がよほどひどくないかぎり、磨けば多少は光るという自分自身の過去の体験があったから、「よし、彼のハードの部分は私が磨こう!」と思い切って発想を変えることにした。
もちろん面と向って「あなたは格好が悪いからこうしなさい」という言い方をすれば角が立つ。でも「あなたに似合うと思ってこれを買ってきたの」と気の利いたものをすこしずつプレゼントしていけば、相手を不快にしないで自分のセンスで相手を磨くことだってできるはずだ。
私の夫の場合は、自分でも内心素敵になりたいと思っていたフシがある。だから私のアドバイスを素直に聞き入れてくれた。
これが「俺はこれでいいんだ!余計なお世話だ」みたいな頑なな人だったら、そうはいかない。
したがって本当にパートナーとして見極めておくべきは、表面的なファッションセンスの善し悪しではなく、その下に覆われている人間性の問題の方ではないかと思う。』
『 異なった歴史を持った二人がいきなりわかり合えない。 私たちが、新婚旅行から帰った次の日に起こった「福神漬け事件」である。
当時はレパートリーがなかったので、単純にカレーライスでも作ることになった。そこで、二人でスーパーへ行き、いろいろ材料を買い揃えた。
ところが最後に「そういえば、福神漬けも買わなきゃね」と言った時、伸びた手の先が違っていたのだ。
我が家はずーっと酒悦の福神漬け。ところが彼の方は、かなり着色された真っ赤っかなものだった。そこで喧嘩が始まった。
「うちはこれだ」「私のところはこっちだった」と言って、どちらも譲らない。結局両方買ってきた。
そして食事の時に、お互いにそれぞれの福神漬けをとったついでに、少しずつ相手のものも食べてみることにした。
私はその直前まで「このメーカーじゃなきゃ、とんでもないわ。そんなの着色料が使ってあって……」などと、さんざん相手の福神漬けをけなしていたのだ。
ところが予想に反して、その真っ赤っかな福神漬けは実においしかったのだ。
育ってきた環境が違う二人は、食べ物一つにしてもイメージが全然違うということを、新婚生活一日目に私たちは実感してしまった。
自分のやり方だけに固執するのではなく、お互いに相手の馴染んできたものを知っていくことが大切だ、ということを知った。
この時私の福神漬けの方がおいしかったら、「それ見たことか」という具合に、私の結婚生活ももう少し違ったものになっただろう。
けれどそうならなかったからこそ、「ああ、やっぱり私には知らない世界がきっとまだたくさんあるんだな、知って良かったと思える世界が」と、謙虚に認めるようになれたのだ。
それ以来、我が家の福神漬けは真っ赤っかになったことは言うまでもない。』
『 オシャレは知性の窓口とも言われるくらいで、装いにはその人の人間性や良識が驚くほど表れてくる。
これはオシャレというよりも「オシャレ心」と言った方がいいかもしれない。むしろ日常大切なのは、着飾るということよりもケアのほうである。
肌や髪の手入れや、クリーニングの行き届いた洋服を着るという身だしなみがあくまでも基本で、これにプラスアルファの「オシャレ心」が加わると、自分をより美しく演出できるのである。
だからファッション雑誌に登場するようなファッショナブルな洋服やヘアスタイルを、マニュアル通り真似るのでなく、その中に自分らしさを感じさせるような演出、すなわち「オシャレ心」を加えること。それがいい意味での自己アピールだと思う。』
私(ブログの筆者)が考える「オシャレ心」「素敵な人」「魅力的な人」に自分がなったり、素敵な人と交際するには、どうすべきか。
その方法として、「自力」と「他力」があるが、基本は「自力」であって、「他力」は、その付録のようなものである。
その第一は、健康であり、体と心の健康である。体の健康のためには、食べること、胚芽米(玄米)、豆、醗酵食品を良く咀嚼して食べ、食物繊維と規則的な生活で排出、睡眠のリズムをつくる。
さらに、ヨガやストレッチ、腹式呼吸法、ラジオ体操などの体操を自分なりにアレンジして、体を柔軟で、持久力のある、働き者で努力家の体力をくる。
心の健康のためには、まず無条件に感謝の気持を持つ、そしてオープンマインド、包容力を常に心掛け、好奇心を広く持ち、森羅万象を観察し、小さな創意、工夫を実行する。
その第二は、お金に関係なく(お金がないからできないは理由にならない、出来ることはあるはずである)、自分の部屋をより機能的に、整理整頓し、自分の顔やセンスをほんの少しでも輝かせ、向上する余地がどこにあるかを考え、工夫する。お金についても、今までより、ほんの少しでよいから、ていねいに使う。
その第三は、自分の能力を高める。歴史上の多くの人々がどのように、能力を向上させたかを多くの本を読んで、自分にあったものを探し、試みる。
自分のテーマを3つくらい持つ。私の父は、生涯に渡って、園芸作物を通じて、植物の種子をテーマにしていた。自分が輝くために自分のテーマを少しでよいから探求してみる。
対人関係は、自分の鏡であると言われ、自分を磨くことなくして、対人関係は向上しない。(吉川英治の三国志にありました)
自分の能力を向上させるもう一つのアプローチは、自分の手の指の能力を向上させること、と自分の目で観察し、自分の頭で考えるくせをつける。多くの人は、自分の手の指の能力のほんの一部しか開発してない。
筆を手に持って、文章を少していねいに書く。絵筆を持って、もっと良く、花や自然を観察し、素直に表現する。
自分の好きな曲をピアノやヴァオリンで、少し流れるように演奏する。包丁を上手に使って、美味しい料理をつくる。魚を箸で美しく身と骨を分けて食べ尽くす。
自分の手で、国語辞典や漢和辞典、英和辞典をこまめに引いて、言葉と文字を大切にし、話し言葉と書き言葉をほんの少していねいに話し、そして、書く、言葉と文字に精通している人ほど、こまめに辞書を引き、話したり、書いたりしていることを忘れてはならない。
ことばが伝達の文化であるのに対して、文字は伝達のための文明であり、文明世界の工夫である。(漢字 鈴木修次)
自力によって、自分を磨くことによって、様々な運気も向上するのではなかろうか。(第33回)
31. 月は東に ―蕪村の夢 漱石の幻―(森本哲郎著 平成4年発行)
『 春風の つまかへしたり 春曙抄 (蕪村)
つま:褄(着物の褄)本の端(角)、春曙抄(しゅんしょしょう):(清少納言の「枕草子」のこと、江戸時代に書かれた『枕草子』の注釈書
春風がページをひるがえしている、和綴本の「春曙抄」のイメージが波紋のようにひろがっていった。』
『 ゆたかさとは何だろう。一言でいうなら、美しい世界のことだと、ぼくは思う。何を美しいと感じるかは、むろん、人によって違うだろう。
美しい自然、美しい街並み、美しい住まい、美しい調度、……だれもが、そうした暮らしの中で毎日を過ごしたいと願っているはずだ。
しかし、美しさは、こうした外的な世界だけにあるのではない。そのような環境を願う心のなかにこそ、ゆたかさの根源が秘められているといっていい。
美しさをひたすら求める心、美しさを充分に味わうことのできる感性、美しさを夢見る想像力、これこそが真の文化をつくりだすのである。』
『 ぼくは校庭の一隅にある大きな欅の近くに寝そべって、もう散々読み返した「草枕」を、読むともなしに目で追いながら、桃源郷を思わせる春山の風景を心に反芻していた。
そのとき、妙なことに気がついた。「草枕」の世界が、もう片方のポケットに入っている「蕪村俳句集」の「春の部」にそっくりだ、という気がしたのである。
それは、ぼくのイメージのなかだけで重なっているのだろうか。しかし、読めば読むほど「草枕」は、蕪村の世界に似ているように思えてならなかった。
だいいち、この小説の主人公は画家である。蕪村は俳人として有名だが、本職は画家だった。
とすると、漱石がこの小説を発想したとき、蕪村の姿がどこかにあったと考えられないことはない。
じっさい、「草枕」の文中には、蕪村の俳句こそ出てないが、蕪村の俳境そのままの情景が、いたるところに散文で綴られているのだ。
「草枕」に、――女は黙って向こうをむく。川縁はいつか、水とすれすれに低く着いて、見渡す田のもは、一面のげんげんで埋まっている。鮮やかな紅の滴々が、いつの雨に流されてか、半分溶けた花のうみは霞のなかに果てしなく広がって……。
春の水 すみれつばなを ぬらしゆく (蕪村)
という蕪村の句境とぴったりだ。そもそも春水を下る昼舟に「頭がおかしい」といわれている美しい女――というこの設定からして、次の蕪村の句に借りているとしかおもわれない。
昼舟に 狂女のせたり 春の水 (蕪村) 』
『 オランダの史家ヨハン・ホイジンガは、名著「中世の秋」のなかで、人間の三つの生き方を説いている。
第一の道は、「世界の外に通じる俗世放棄の道」である。すなわち、俗世間を捨てて彼岸にその世界を求める宗教的な情熱、神を求める希求が歩ませる道だ。
すべての文明は、まずこの道を歩んだ。キリスト教もイスラム教も、仏教も、その性格はいかに異なろうと、歩んだ道はおなじだった。
だが、やがて、第二の道があらわれる。第二の道は、「世界そのものの改良と完成をめざす」道であり、宗教が夢みる彼岸を、此岸(しがん)にうち建てようとする悲願、すなわち、現実への道である。
ホイジンガは、こう記す。
――ひとたび、積極的な世界改良への道が切りひらかれるとき、新しい時代がはじまり、生への不安は、勇気と希望とに席をゆずる。(が)この意識がもたらされるのは、やっと十八世紀にはいってのことである。――
けれども、人びとの歩む道は、このふたつに尽きているわけではない。もうひとつ、第三の道がある。それは、夢の道である。
その第三の道は、第一の道のように現世を否定して彼岸に至ろうとするのではなく、さりとて、第二の道のように、現実の世界を変革したり改良したりして、そこに理想郷を実現させようというのでもない。
そのまんなかにあって、「せめては、みかけの美しさで生活をいろどろう、明るい空想の夢の国に遊ぼう、理想の魅力によって現実を中和しよう」という生き方である。
この第三の道は、はたして現実からの逃避だろうか。ただ、空想の世界だけに至る道だろうか。ホイジンガはそう問いかけ、こう答える。
いや、そうではない、それは現実とのかかわりを持たぬということではなく、この世の生活を芸術の形につくりかえることであり、「生活そのものを、美をもって高め、社会そのものを、遊びとかたちとで満たそうとするのである」と。
ホイジンガは、”中世の秋”、すなわち、ヨーロッパ中世末期の文化を、この視点からとらえ、そこに中世人の生活の豊かさを発見したのであった。
ホイジンガがさし示した第三の道、すなわち、夢と遊びの道を、蕪村も漱石も歩もうとした。「草枕」の主人公がいう、「非人情」の世界とは、まさしく、その第三の道、人生という「虹」が最も美しくながめられる、そのような境地である。
ホイジンガが中世びとの世界に見つけた第三の道と、蕪村が俳諧で描きあげた”夢の園”、そして「草枕」の画家が逍遥しようとした「非人情の立場」とのあいだに、どれほどの隔たりがあろうか。
とはいえ、ホイジンガがいうように、第三の道を歩むということは、けっして容易ではない。
生活そのものを美の世界へ昇華させるためには、「個人の生活術が最高度に要求される」からである。
したがって、「生活を芸術の水準にまで高めようとするこの要求にこたえることができるのは、ひとにぎりの選ばれたるものたちのみであろう」
この点において、東洋は西洋をはるかに越えている。中国や日本においては、その気になりさえすれば、だれでも容易に「文人」たりうるからである。』
『 鶉野や 聖の笈も 草がくれ (蕪村)
鶉野:うずらの、笈も:おひも
彼は野にたたずんで、遊行の聖(ひじり)がひとり歩み去るのを、じっと見送っている。
我帰る 道いく筋ぞ 春の草 (蕪村)
そして、蕪村は、聖の笈がすっかり草に没したあと、彼は思いなおしたように、野路を我家へと引き返す。
芭蕉は俳諧という道一筋を歩みながら、その道は「第一の道」へ通じていた。だが、蕪村は幾筋もの道を逍遥しつつ、その道はあくまで「第三の道」へ向かっていた。そして、その道の行く手には、むせかえるような茨が咲き乱れているのである。
路たえて 香にせまり咲 いばらかな (蕪村)
路:(みち)、香:(か)、咲:(さく) 』
『 蕪村、漱石二人の書簡集を読みながら、ぼくがあらためて感慨に浸ったのは、時代は異なるにせよ、現代とくらべて天明、そして明治の文人の交遊世界がじつに豊かであったということだ。
もうひとつ、あらためて気がついたのは、昔の人は心のこもった贈り物をよく取りかわしているということだ。
蕪村、漱石の手紙には、いたるところ贈られた品に対する礼の言葉がつづられている。
漱石が四国の松山で、「支那から帰って来た子規が断りもなく、転がりこんできた。彼は肺を病んでいた子規に階下の部屋を譲り渡し、自分は二階へ移った。
ところが、「其のうち松山中の俳句を遣る門下生が集まってくる(遣る:やる)。僕(漱石)が学校から帰って見ると(松山中学校の教師)毎日のように多勢来て居る。僕は本を読むこともどうすることも出来ん。…兎に角自分の時間というものが無いのだから、止むを得ず俳句を作った」というのである。』
『 うつつなき つまみごころの 胡蝶哉 (蕪村)
この句の「つまみごころ」というのは、人間が蝶をつかまえ、その両翅を二本の指でつまんだときの感触ではなくて、作者自身がその蝶になりかわり、花につかまっている。(両翅:りょうし)
そんな胡蝶の”こころ”を「うつつなきつまみごころ」と推しはかったのでないか、という気がしてきたのである。
蕪村自身が荘周のように蝶になったような夢をみて、自分はこうして山吹の花に、ぶらさがりながら、「うつつなきつまみごころ」で花びらを押さえているのではないか。』
『 けれど、漱石の場合は、その「夢」を「幻」(まぼろし)がいつも脅かしていた。過去の、のしかかるような幻影が。だから漱石は夢を捨て、やがてその幻と格闘するようになる。
夢と幻とはちがう。夢は無意識が織りなす別世界である。フロイト流にいうなら、そこには願望がこめられている。
だから夢は「未来」へ向って開いていると、言ってよかろう。それに対して、幻とは、”過去の影”である。
漱石に「幻影の盾」(たて)という短編があるが、その「盾」には過去がしみこんでいる。
「人には云へぬ盾の由来の裏には、人に云えぬ恋の恨みが潜んでいる。人に云えぬ盾の歴史の中には世も入らぬ神も入らぬと迄思ひつめたる望みの綱に繋がれて居る」と漱石自身、書いている。
「こころ」の先生、「門」の宗助、「道草」の健三、「明暗」の津田……。漱石はその幻を何とかして夢に変えようと努める。
幻から夢へ、これこそが彼の作品の軌跡だったのであり、それが、ついにかなわなかったところに漱石の悲劇があった、といえよう。
むろん、蕪村にも暗い過去があった。が、蕪村は人に洩らすことのできないその過去を――彼は故郷の摂津・毛馬村のすぐ近くに暮らしながら、生涯、ついに一度も故園に立ち寄ることさえなかった――美しい夢に変換した。』(第32回)