107. チェンジング・ブルー 〔後〕 (気候変動の謎に迫る) (大河内直彦著 2008年11月)
『 第10章 地球最後の秘境へ
10-1南極ノアイスコア研究の幕開け 10-2 地球最果ての地、ボストーク基地 10-3 大気の化石 10-4 埃っぽい氷河期 10-5 さらに古い氷を求めて 10-6 キリマンジャロの雪
第10章の説明
ボストーク基地とは、世界初の有人宇宙飛行船「ボストーク」の名前を取って付けられた、南極のもっとも「奥深い」場所にあるソ連の基地である。東南極氷床のほぼ中央部、南緯87度、東経106度、標高3488メートルの地に1957年に建設された。
年平均気温がマイナス55℃、最低気温にいたっては、なんとマイナス91℃(地球上で観測されたもっとも低い気温)という、まさしく「極寒の地」である。ドライアイスの温度がマイナス79℃だから、大気中の二酸化炭素も凍りつく想像を絶する世界だ。
このボストーク基地は、海岸から1400キロメートルも離れていて、南極にあるどの基地からももっとも遠い、孤絶の基地でもある。この「地球最果ての地」において、氷床コアがはじめて掘削されたのは1970年のことだ。
キャンプ・センチュリーでのダンスガードの研究に刺激を受けたソ連の古気候学者たちは、ここで長さ950メートルのアイスコアの採取に成功した。そのコアの酸素同位体比は、わずか400メートルの深さに最終氷期にできたと考えられる氷が存在することを示していた。
この結果によい感触を得たソ連の研究者たちは、1980年からさらに長いコアの掘削プロジェクトを開始した。そして1984年10月には、ボストーク3Gと呼ばれる深さ2202メートルに達する歴史的なアイスコアの採取に成功したのだ。
南極とグリーンランドの気候のもっとも大きな違いは、南極は降水量がグリーンランドより格段に少ないことである。南極大陸では、一年間に平均100ミリメートルほどの降水量しかない(雪量に換算すると年30センチメートル)。
極域は下降気流が卓越するため、降雪が少なく、非常に乾燥しているが、気温の低さが幸いし、年々わずかずつだが積りつづけている。
ただし、積雪量が少ないことは、古気候の研究にとって諸刃の剣だ。最大の短所は、南極で掘削されたアイスコアは年層が薄くて見にくいことである。
アイスコアの年代を知るには、氷床の流動モデル、火山灰層との対比、年層のカウントなど多くのテクニックを駆使し、総合的に判断する必要がある。
年層が見にくいことは、南極のアイスコアの年代決定をグリーンランドのそれよりもはるかに難しく不確実なものにしている。それに対して、最大の長所は、短いコアでも長期間の記録が得られることだ。
たとえば、グリーンランドでは三キロメートル以上の氷床を掘削しても、たかだか過去十三万年程度しかさかのぼれない。ところが、南極では、同じ長さがあれば過去五十万年以上、場所によっては100万年近くさかのぼれる。
さまざまな「天水」(自然界の水)の酸素同位体比と水素同位体比を測定していたハーモン・クレイグは、両者の間にきれにな直線関係を見出していた。
ボストーク3Gの過去一六万年にわたる水素同位体比の記録とは少々雰囲気がことなっている。氷期と間氷期が明瞭にわかる、メリハリの効いたパターンを示すのだ。
氷期の最中に極端に温暖化したダンスガード・-オシュガー・イベントのような、短期間の気候変動も見られない。海底堆積物の酸素同位体比カーブに見られるゆったりとしたパターンに、より近いと言ってよいだろう。
グリーンランドは気候変動に敏感な北大西洋の北方に位置している。そのため、アイスコアには、北大西洋の大きく振動する気候を強く反映した古気象の記録が刻まれている。
それに対して、南極のアイスコアは、同じ氷床ながらも、その記録はより「バックグランド的」な気候を反映している。したがって、地球の平均的な姿を見るにはグリーンランドより南極大陸の方が適していると言えそうだ。
雪の中に入り込んだ空気は、ついに締め固まって氷の中に閉じ込められる、その気泡の中に含まれる空気の組成は、当時の大気の化学組成に一致する。
この気泡の化学組成が詳細に分析されるのは、微量ガスの分析技術の発展を待たねばならなかった。この二酸化炭素の濃度を精密に測定したのは、ベルリン大学のハンス・オシュガーのグループである。
その結果最終氷期の大気は二酸化炭素濃度が200ppm程度であったことを明らかにした。間氷期の大気中の二酸化炭素濃度がおよそ280ppmだから、氷期には30パーセントも減少していたことになる。
ボストーク・アイスコアの二酸化炭素記録で特に興味深い点は、その時間変動のパターンが、氷の酸素同位体比、すなわち南極の気温変動にそっくりのノコギリ刃状であることだ。
さらに二酸化炭素だけでなく、もう一つの重要な温室効果ガスであるメタンの濃度も、そっくりな時間変化をしてきたことが明らかにされた。二酸化炭素は温室効果ガスのひとつだから、それが最終氷期から後氷期にかけて増加したということは、それにともなって「地球温暖化」が起きたことを示唆する。
しかし、二酸化炭素が増加しはじめるタイミングは、氷床が融けはじめた1万九千年前よりも後だ。しかも、氷床の大規模な融解は、気候変動を引き起こす外力に対して時間差をもって応答する。
気象モデルを用いた計算結果も、二酸化炭素の濃度が200ppmから280ppmへと増えたくらいでは、気温として1℃程度の上昇にしかならない。
このようなことから研究者たちは、大気中の二酸化炭素やメタンの濃度変動は、気候変動の「原因」でなく、気候変動にともなって地球環境中の炭素のサイクルが変化したことによる「結果」だと考えている。つまり、因果関係が逆なのだ。
1980年代初頭から現在にいたるまで、この事実を説明するために多くの学説が登場した。たとえば、氷期に陸化した大陸棚から流れ込んできたり、大気を経由して運ばれてくる栄養塩が増加することで、海洋における生物生産量が増加したという生物ポンプ説や、氷期に深層水循環が変化して、アルカリ度が上昇したというアルカリポンプ説がある。
さらに、エアロゾル粒子の量が、氷期にはグリーンランドも南極もともに、1~2桁も大きかったことを示している。現在に比べて、氷期の大気は桁違いに埃ぽかったのだ。 』
『 第11章 気候が変わるには数十年で十分だ
11-1 短期間に起こった気候変動 11-2 ヤンガー・ドリアス・イベント 11-3 アガシ湖の決壊 11-4 ダンスガード-オシュガー・イベント 11-5 ハインリッヒ・イベント 11-6 短期間の気候変動の原因
第11章の説明
気候変動が、天文学的な時間スケールよりもずっと短い時間スケールで起こってきたことは、じつはずいぶん以前から地質学者には広く知られていた。氷河時代から間氷期にいたる途中に見いだされる「寒の戻り」ともいうべき、「ヤンガー・ドリアス・イベント」である。
これは元来、かって存在したフェノスカンジア氷床の周辺で見出される変動で、氷床の一時的な拡大や縮小を反映した地域的な気候変動だろうと長い間考えられてきた。
しかし研究が進むにつれて、北ヨーロッパ以外でもほとんど同じ時期に、「寒の戻り」のあったことが報告されるようになる。1980年代になると、それに輪をかけるように、「ダンスガード-オシュガー・イベント」と「ハインリッヒ・イベント」と呼ばれる二種類の短期間の気候変動が見出された。
短期間の気候変動は、場所によっては数十年という時間スケールで起こったことがわかっている。ヤンガー・ドリアス・イベント(一万二千九百年前から一万一千五百年前)のヤンガーは(若い)であり、オールド・ドリアス(一万三千五百年前からの200年間)である。
ドリアスとは(Dryas Octopetala)というバラ科の植物に由来する。(日本名:チョウノスケソウという高山植物)
スカンジナビア半島で採取された湖沼堆積物の中の花粉分析によって、フェノスカンジア氷床が融解しはじめると、縮小していく氷床のまわりには、まず最初にチョウノスケソウなどツンドラに特徴的な植生が現れた。
更に気候が温暖化するに従って、ツンドラからカラマツ、モミ、トウヒなどの針葉樹へと変わっていった。ヤンガー・ドリアス期が終わると100年もしない間で気候変動が起きている。
ヤンガー・ドリアス・イベントは、深海コンべアベルトが停止したために始まったとする。それはアメリカからカナダにあった日本の国土より広かったアガシ湖が決壊して、メキシコ湾に流れ込み、この淡水でフタをされ、濃い塩分の海水が氷らないため、深海コンベアベルトが停止したとする。
ダンスーオシュガー・イベントは、最終氷期5万年前から1万年前までの間に13回の数十年~百年という短期間で起こる温暖化が発生する。これは氷期にオフであったコンベヤーベルトが、ダンスーオシュガー・イベント時にオンになった。
そうして北部北大西洋に南から温かい表層水が供給されるようになり、北部北大西洋付近が大きく温暖化したというわけだ。
ハインリッヒ・イベントとは、五万年前から一万年前の間に5回発生した現象で海底に堆積物に、方解石や赤鉄鉱などの粒子が含まれ、それらはおもにハドソン湾付近の岩石に起源をもつことを示していた。
おもにローレンタイド氷床のハドソン湾付近にあった氷床の一部が何らかの原因で大量に北太西洋にもたらされたイベントと解釈してよい。 』
『 第12章 気候変動のクロニクル(chronicle :年代記)
12-1 安定した気候へ 12-2 中世温暖期と小氷期 12-3 夏のない年 12-4 小氷期後から現在、そして未来へ
第12章の説明
過去1万年のグリーンランドのアイスコアの記録を注意深く見ると、8200年前の70年間は酸素同位体比で2パーミル近く、気温に換算すると3℃ほど低下している。この変動は、南極のアイスコアからは見出されていない。
これは当時かなり小さくなっていたローレンタイド氷床によって堰き止められていた湖が決壊し、ハドソン湾を経由して北大西洋に流入して、北大西洋深層水の形成を一時期、減少させたというシナリオである。
オハイオ州立大学のトンプソンのグループが、ペルー・アンデス氷帽の標高5670メートルの地点のアイスコアを採取している。その記録は西暦1500年頃から1880年頃までの、およそ400年近くにわたる期間、気候が寒冷化したことを示唆している。これを「小氷期」と呼ばれている。
この最も寒かった17世紀中頃は、太陽の表面の黒点が顕著に減少した時代とよく一致していた。このことから、太陽活動が気候寒冷化の究極的な要因ではないかという説が、一部の研究者の間で囁かれてきた。
しかし、最近人工衛星による太陽観測の結果からすると、黒点数の変化による変動は、およそ0.1%と非常に小さい。このことから現在では、太陽の放射エネルギーの減少が小氷期に直接結びついたとは考えられていない。
中世温暖期から小氷期へといたる気候変動は、私たちが現在直面している温暖化とは逆の寒冷化である。気候変動のスケールとしても少々小さめのサイズだ。
とはいえ、小氷期という気候変動が人間活動にどのような影響を及ぼしたのかを知ることは、今後の地球温暖化で引き起こされる人間活動への影響を予測するうえで参考にもなるだろう。
ヨーロッパ北東部では、中世に比べて耕作地面積が大きく減少した。オランダ、イギリス、イタリアなどでは、小麦の値段が上昇し、ライムギの価格が大幅に上昇した。またフランスではワインの原料であるブドウの収穫が大きく遅れる年が幾度となく記録されている。
ペストも14世紀半ば以降にしばしば猛威をふるい、ヨーロッパの人口の三分の一にも及ぶ人々が感染して亡くなった。日本でも、寛永(1641~42年)、享保(1732年)、天明1781~89年)、天保(1833~38年)の飢饉は特に大きく四大飢饉と呼ばれている。
東北地方で数十万人もの餓死者が出たといわれる天明の大飢饉は、1783年の浅間山の噴火とともに同年のアイスランド・ラキ火山のにともなう気候の寒冷化も一因だったと考えられている。
しかし、享保の大飢饉は西日本での長雨と冷夏が原因で、天保の大飢饉も、天候不順にともなうコメの不作が原因と考えられている。これらがヨーロッパで記録されている気候の寒冷化と、どのような関係にあるのかは定かではない。
日本の場合、エルニーニョなど、太平洋特有の現象がもたらす影響が大きい可能性がある。
1783年に起きたアイスランドのラキ火山の巨大噴火は、その中でももっとも規模の大きなもののひとつである。この噴火は八ヵ月にわたってつづき、噴火した大量の火山灰は偏西風に乗って運ばれて、遠く中東シリアでも視界がかすんだという記録が残っている。
グリーランドのアイスコアには、この噴火にともなって硫酸イオンの濃度が桁違いに大きくなったことを示す。キラ火山の巨大噴火から30年あまり経った1815年、さらに激烈な火山噴火が起こった。
今度は、インドネシアのジャワ島のジャカルタから東におよそ1000キロメートル離れたスンバワ島のタンボラ火山が、過去1000年間で最大規模ともいわれる爆発的な噴火を起こしたのだ。
この噴火は、1500キロメートル離れたスマトラ島でも、大砲を撃つような爆発音が聞こえてという。もともと標高が4200メートルあったタンボラ山は、この噴火で上部1400メートル分が吹き飛んだ。
放出された火山灰の総量は150立方キロメートルにも及び、タンボラ山周辺のあった町々は、あっという間に火山灰に埋もれてしまった。当時、スンバワ島で暮らしていた、およそ一万二千人の住民のうち、生き残ったのはわずかに二十六人だったという。
さらに、崩壊した山体の一部が海に流れ込み、高さ数十メートルにもおよぶ津波が近隣の島々を襲った。インドネシアでは、この噴火により計10万人近くの人が亡くなったと推定される。
タンボラ山の噴火にともなう被害は、貿易風に乗ってハンガリーやイタリアに黄色や茶色の雪を降らせた。タンボラ山が噴火した翌年の1816年は、ヨーロッパや北米東海岸では記録的な冷夏に見舞われ、「夏のない年」として語り継がれてきた。
フランスではこの年、ブドウの収穫が実質上ゼロにまで落ち込み、ワイン生産者を直撃した。 』
『 第13章 気候変動のからくり
13-1 線形性と非線形の共存 13-2 ヒステリシス 13-3 気候の屋台骨
第13章の説明
ミランコビッチ・フォーシングという天文学的な要素は、過去に氷床の量を変化させて重要な原因の一つであることは間違いない。太陽から地球に入射するエネルギーの総量や分布が変わることによって、地球の徐々に、かつ、その変化に見合った分だけ変化した。
すなわち、気候は「線形的に」変化してきたわけである。しかし、この線形的なメカニズムだけでは、過去数万年を通してもっとも大規模な気候変動である、氷期から間氷期への大規模な気候のシフトを直接的には説明できない。
気候システムを構成する個々のピースの研究は確実に進展してきたものの、気候学者がそれらを組み合わせて形作りつつある屋台骨は、まだ綻びだらけで、線形性と非線形性とを兼ね備えたヒステリシスといえども、研究の途中段階における作業仮説にすぎない。 』
エネルギー革命(1960年)以前は、気候変動の問題は、基本的には寒冷化が主たる課題であった。しかし、エネルギ革命(1970年)以降の気候変動の課題は地球温暖化に代り、現に平均気温は上昇し、世界の山岳地帯の氷河は急速に減少した。
現に、キリマンジャロの氷河は2015年頃に消え、ヒマラヤの山々には、本来夏でも雪が降って、氷河となって麓で融けるのであるが、氷河が急速に減少している。さらには、北極海はほとんど氷に覆われることなく、北極グマの生態系が崩れつつある。(深層水循環も弱まる)
その原因として、
(1) 空気中の二酸化炭素の急激な増加による、温室効果。
(2) 石炭、石油の消費による廃熱、原子力発電による廃熱効果。
(3) 熱帯雨林の急激な減少と山火事による、木の葉による、蒸発効果、葉緑体による光合成の減少。
(4) 緑の地球の急激な砂漠化。
これらの課題を克服しながら、気象変動への効果的な手順を模索することが必要なのではないでしょうか。 (第106回)