チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「米原万理の「愛の法則」」

2017-01-31 14:35:19 | Weblog

 125. 米原万理の「愛の法則」 (米原万理著 2008年8月)

 米原万理は2006年5月に亡くなっていますので、本書は生前の講演をまとめたものです。『 第一章 愛の法則、第二章 国際化とグローバリゼーションのあいだ、第三章 理解と誤解のあいだ、第四章 通訳と翻訳の違い 』 の四つの講演をエッセイとしてまとめたものです。

 ここでは、第四章の「通訳と翻訳の違い」の一部分を紹介致します、「本書に寄せて」と題して、生物学者の池田清彦が序文で以下のように書いてます。

 『 第四章は「通訳と翻訳の違い」。プラハでの子供時代から超一流の同時通訳になるまでの自伝と言ってよい内容だ。どうしたら語学ができるようになるかという方法論にもなっている。

 言語を理解するとは、記号と概念のあいだの変換プロセスを体験することだ、と米原は述べる。外国語を極めたいと思っている者たちにとって、これは本質的アドバイスである。

 治る見込みのない転移がんに冒されて、泣きたいときもあったろう。怒りたい時も、怨みたい時もあったろう。しかし、表現者としての米原は最期まで読者へのサービス精神を失わなかった。あっぱれと言う他はない。 』


 『 これは私自身の苦い経験からきています。私は小学校三年のときに、九歳でしたけれども、まったく言葉の通じないチェコスロヴァキアのプラハに一家が移住しました。

 チェコスロヴァキアですから、いちばんいいのは地元のチェコ語の学校に通うことだったのですが、親たちは考えたわけです。チェコに滞在するのは三年から五年である。

 だから、この三年から五年間には、日本語とか日本の勉強に空白ができるわけです。ところがその代りとしてチェコ語を勉強したとしても、三年や五年で、ある国の言葉をちゃんと身につけることは不可能ですよね。

 そして日本に帰ったときにチェコ語の勉強を続けられるためには、本や教科書を入手できなくてはいけないし、先生が必要だけど、そういう人は日本ではたぶん見つからないだろう。

 だからロシア語のソヴィエト学校に入れられたんです。なにもわからない、いっさい言葉の通じないところに毎日毎日通わなくてはいけないのは、もう、苦痛を通り越して恐怖でしたね。

 先生の話すことがなにもわからない。そこに一日中座りつづけていなくはならない、拷問以外のなにものでもありませんでした。それから周りの子どもたちが笑っているときに一緒に笑えない、これも切ないですね。

 悲しい、寂しい。それから、理不尽なことをされても、相手に抗議もできないし、相手を罵ることもできない。これも非常に悔しい、辛い。

 大人だったら、自分の人生の主人公になれますから嫌だと思ったら、荷物をまとめて出てしまう、通うのをやめてしまうことができたはずですが、私は子どもで、あくまでも被保護者ですから、親の言うとおりに通いつづけなければならなかったのです。

 だから、私の体はこちこちに堅くなってしまって、九歳だったですけど、偏頭痛と肩こりに悩まされるようになりました。いつになったらこの地獄から抜け出せるのか、あるいは抜け出せないのか、もう胸が張り裂けそうでした。

 毎日学校に行くのが怖くて怖くて……。それでも、三ヵ月くらいたってくると、少しずつ薄皮がはがれるように、話されていることがわかってくるんですね。わかってくるけれど話す方はもっと難しい。

 わかるけど言えない。このわかるけど言えないというのは、ちょうどアンデルセンの人魚姫の感じと同じです。だから私は「人魚姫」を読むと、自分のことのように涙があふれてくるのです。全部わかっているのに、なに一つ自分で表現できない辛さ悲しさ。 』


 『 さらにもう少し時間がたってくると、非常に簡単なことならば言えるようになってきました。例えば、「そのセーター、いいセーターね」、それから「図画の先生ってキザね」とか。

 そういう実に他愛もないことなんですが、これがきちんと相手に通じたときの喜び。あれだけ物が通じない地獄を味わうと、通じた瞬間の喜びはおおきいですね。

 今までの苦痛がチャラになって、お釣りがくるほど大きいと思いました。だから私が通訳の仕事に就いたのは、お互いを全然わかり合っていない人たちが通じ合った瞬間の喜びを、無限に味わえるからではないかという気がしたからです。

 飛躍的にロシア語力が伸びたのは、三ヵ月間の夏休みです。6月1日から8月31日まで、まったく宿題がないんです。このあいだ、ピオニールラーゲリ、強制収容所のラーゲリも同じ言葉ラーゲリを使いますが、学校主催の林間学校みたいなもので、申し込めば参加できます。

 そこでは基本的に子どもたちの自治になっています。食事の時間や就寝時間などは全部枠ができているけれど、自由時間に何をするかは、子どもたちが侃々諤々議論して決めていくのです。

 そこで毎日ロシア語で生活する中で、だんだんコミュニュケーションができるようになりました。

 実は、われわれの日常では、ボキャブラリーは七百語くらいで足りるのです。文型は五つくらいあれば十分です。私の知人でロシア大使館に勤めていた日本人がいますが、この人は動詞は命令形だけで通じたと言います。

 基本的に単語があって、疑問文、肯定文、感嘆文、仮定法とか、いくつかの文の形を知っていれば十分です。知らない単語は、相手がそこにいれば手で示すか、指示代名詞か単なる代名詞で済ますことができるのです。 

 状況に応じて代名詞を使い分けることで、七百語と五つの文型があれば、日常生活の普通のコミュニケーションには不自由しません。ですから、バイリンガルの帰国子女が同時通訳ができるかというと、ほとんどの人はできません。

 それは七百語くらいで済ませてきたからです。ところが会議ではもう少し抽象的な話とか学問の話になるので、通訳には膨大な量の語彙が必要ですし、文の形も微妙で複雑なものが必要になります。

 そういうものを身につけなくては、お金をもらう通訳はできるはずがないですね。 』


 『 そのキャンプに図書館がありました。ある日図書館の本を漁っていたら、その中に漢字で「箱根用水」と書かれていたものがありました。私は日本を離れて六ヵ月くらいたっていたので、異郷で同郷の人に会ったような懐かしさを感じて、その本をがっと握りしめました。

 ところが、表紙は漢字だったけれど、中はロシア語がずらっと並んでいました。それなのに私はためらうことなく読みはじめたんです。これは高倉テルという日本人作家が書いた小説です。

 富士山麓の人たちの生活が水に左右されていた江戸時代に、地下トンネルで箱根芦ノ湖の水を引いてきて、貯水池や運河を造り、農業に役立てるために、権力と渡り合ったり、いろいろな人の協力をえながら、その事業を成功させていくという話で、私は夢中になって読みました。

 読んでいる最中には、それがロシア語であることに気づかなかったのです。実は、キャンプに行く前に学校の図書館で何度か本を借りて読もうとしたのですが、大多数の本は、やはり言葉がわからない。

 単語の意味がわからないと、辞書を引きますね。いちいち辞書を引くと興味が薄れて、途中で挫折することが多かったのですが、このとき初めて全部読むということをしました。

 それで辞書なしで読む自信がついたのです。なぜこういうことができたのか、後で説明します。そのキャンプでは、気の合う者同士が集まって輪読会がいつも行われていました。

 おもしろそうな本を声を出して読む、朗読するわけです。そうすると、おかしいところで一緒に笑ったり、悲しいところで一緒に涙を流したり。人間の心の振動は、別な人間の心の振動と共鳴し合うと、より深くより大きく喜怒哀楽を味わえるという魅力がありました。

 それから同じ文章について、人とまったく別な解釈をすることもあります。解釈が違うところでぶつかり合うおもしろさもあって、輪読会はお勧めです。その輪読会に一度、夏目漱石の「吾輩は猫である」がかけられました。

 駄洒落なども非常にうまく訳してあったのです。いろいろな国の子どもたち、その学校は大体五十ヵ国の子どもたちが通っていたのですが、みな抱腹絶倒しました。

 明治時代の日本人が書いた物語を、こんなにいろいろな国の子どもたちが楽しく自然に受け入れることができるんだ、と大変誇らしく思いました。こういうことを重ねているうちに、ロシア語で文字を追うことが楽になったのです。

 それでロシアの作家の本にもどんどん挑戦していくようになりました。それはなぜと今考えますと、ちょうど小学校四年五年生頃って、男女関係の機微とかセックスのこととか、ものすごく知りたくてたまらないけど、親にも先生にも聞けない。

 だけど文芸作品にはそれがいっぱい出ている。だから一生懸命読めたと思うのです。とにかく本を読んでいました。 』


 『 それでは、なぜ辞書を引かないで読めたのか? と思うと、その理由は、単語の意味というのは前後関係や言葉の構成要素で、自ずと浮き上がってくるからなのです。

 だから気づかないうちに語彙が増えていくわけです。ふつう外国語の勉強をするときは、わからない単語をいちいち書き出して、反対側に日本語の訳を書いて、一生懸命暗記していく。

 あるいは、本を読んでわからない単語があると辞典を引いて、その意味を知って、またその言葉が出てくるとまたわからなくて、もう一度辞典を引いて、と二回も三回も引くということをしますね。

 辞典を引かないで読むと、もちろん二十パーセントくらいの単語はわからないのです。けれども、物語の中の重要な粗筋、本流に関係している大事な言葉は何度も出てくるんです。

 そうすると、前後関係からわかってくるんですね、意味が。たぶんこういう意味だろうとわかっていって、終わった後で辞典を引いて、やっぱり私が思ってた意味と同じだったとなると、なんだか自分は天才じゃないかと元気が出るでしょ? 嬉しくなるでしょ? こういうふうに自分で見つけた言葉の意味は、絶対に忘れないですね。

 ところが安易に辞書を引いて、辞書に意味を教えてもらうと、苦労しません。自分が一生懸命どういう意味だろうと考えて、言葉の前後関係から類推していくプロセスがあって辞書を引く場合と違って、単にわからないからすぐ辞書を引くというのでは、その言葉に関する関与度、関心度が低いので、なかなか覚えられないのです。

 しかし、辞書を引かないで本を読んでいくと、そういうふうに自然に意味が浮き上がってくるんです。さらに本のよいところは、日常語にない抽象的な概念、複雑な文型などが自然に入ってくることです。

 もちろん本を読むのはそれが目的ではなくて、あくまでもおもしろいから読むのです。魅力的な主人公、あるいは、おもしろい筋に乗せられて読むわけですけども、結果的にそれで語彙や文の形が非常に増えていくわけです。 』 (第124回)


 

 

 

 


ブックハンター「アルファ碁VS李世乭」

2017-01-24 09:01:05 | 独学

 124. アルファ碁VS李世乭 (2016年7月 ホン・ミンピョ/キム・ジノ著)

 本書は、コンピュータプログラムのアルファ碁と韓国の世界的プロ棋士である李世乭(イ・セドル)との対局を本にしたものですが、囲碁の本としても、人工知能の本としても、対戦記としても、一級であると考えますので、紹介いたします。

 私は、人工知能に関する本を30年以上前から、数十冊は読んできましたがなかなか良い本には出あえませんでした。まず人工知能は分野が広く、それぞれが勝手に思い描く、人工知能でした。

 私が興味を持ちましたのは、翻訳、ゲーム、医療診断、教育(学習)の分野です。しかし、本当に実績のある人は、そのノウハウは公開しません。素人に不向きな数式の羅列や、人工知能のキーテクノロジーについて、触れられていなかったり、……でした。

 本書は、人工知能の本としても、ベストです。さらには、人間と人工知能がどのように共存すべきかについても、一石を投じています。単にプロ棋士の問題だけでなく、私のような囲碁初心者であっても、人工知能とどのように向き合えばよいか。

 例えば、ちょっとした計算であるとか、ちょっとした記憶であるとか、電卓や電子辞書にもかないませんが、私たちはそれらを自分の脳の延長として、活用してます。さらには、私たちの知能とは何かについて、問い直すヒントになると思います。


 『 人工知能囲碁プログラムである(アルファ碁)が、世界で初めてプロ棋士のファン・フィ二段を相手に5対0で完勝した。そして、世界最強のイ・セドル九段に挑戦状を出したと聞いて、私は驚愕した。

 Crazy Stone や Zen のような現在最強の人工知能囲碁プログラムも、せいぜいアマ五~六段レベルにすぎない。それがある日突然、囲碁プロ棋士を制して、それどころか最強のプロ棋士に挑戦状を出すほど急成長したことが信じられなかった。

 「(アルファ碁)がファン・フィ二段と対局したあと、さらに強くなっていたとしても、イ・セドルに勝つのは難しいだろう」という世間の評価に対して、アルファ碁を開発した、グーグル・ディープマインドのハサビス代表はこのように述べた。

 「彼らはプログラマではない( They are not programmers! )」 この発言は、自分たちはプログラマであり、プログラマとして、今回の対局で勝利することをすでに検証したから挑戦するという意味だ。

 アルファ碁は、イ・セドル九段と闘うためだけではなく、圧倒的な勝利を全世界に認めてもらうためにソウルにやって来た!彼らのこの信じられないほどの自信は、いったいどこから出てきたのか。

 それを知るために、彼らがアルファ碁についてネイチャー誌に発表した「囲碁征服——(深層神経網とツリー探索で征服)」と傲慢な題名の付いた論文を繰り返し熟読した。また、その論文作成に参加した共著者20人の過去10年ほどの研究も調査した。

 そして、私は結論に到達した。今回の対局はアルファ碁が完勝する。もしイ・セドル九段が一勝でもすれば、それは彼が天才だからだと。しかし、このような予想をした専門家は私だけだった。

 私は、イ・セドル九段がアルファ碁に勝てなかったときに、後悔しないよう、5局全体に関する戦略をがっちり準備すべきだと主張したが、誰も私の話に耳をかさなかった。さて、なぜ私は、アルファ碁が圧勝すると予想したのだろう? 』


 『 囲碁以外の古典的ゲームでは、すでに人工知能が人間に勝ってきた。チェスでは、1997年にIBMの「ディープブルー」が世界チャンピオンのカスパロフに勝った。

 けれども専門家たちは、囲碁については少なくとも10年後には、そのような挑戦が可能となるかもしれないとしか予想していなかった。二つの特徴によって、囲碁は人口知能には難しいと思われていた。

 一局で平均的に碁盤上における点が平均250個、平均150手まで進むとしたときに、250¹⁵⁰ となる。次に、対局中のある状況で、どちらが勝つかを予測するのは、非常に難しい。

 チェスや将棋の場合には、それぞれの駒が変わらない機能を持っている。したがって、両対局者が互いに持っている駒とその位置を知っていれば、誰が勝つか予想することができるのだ。

 しかし、囲碁では、石自体の価値はすべて同じだが、状況によって変化する。要石が捨石作戦によって不要な石になって捨てられることもあれば、重要でない石がシチョウアタリになって重要な価値になることもある。

 したがって、囲碁では盤上の石の数や位置に基づいて、その局面で誰が有利なのかを判断することは非常に難しいものだ。

 コンピュータソフトの研究が活発になり始めた60年代以降に、多くの研究者がコンピュータ囲碁プログラムを開発したが、前述の二つの理由で、そのレベルは、アマチュア五級程度のものだった。

 そうするうちに2008年頃、モンテカルロ・ツリー探索(Monte Carlo tree search )と呼ばれるシュミュレーション方法を適用してから、そのレベルがアマ五段まで飛躍的に上昇した。

 モンテカルロ・ツリー探索(Monte Carlo tree search )を一言で要約しますと、分岐に評価値をつけて、低い評価値の分岐について、は探索を打ち切るという手法です。)

 アマ五段レベルの人工知能囲碁プログラムは、一手の着手にあったって2万回のシュミュレーションを実行して、最も勝率が高い手を選択して打つが、まだプロのレベルに達してはいなかった。 』


 『 それなら、プロ囲碁棋士であるファンフィ二段を相手に、史上初めて勝った人工知能囲碁プログラムは(アルファ碁)はどのような構造になっているのか?

 アルファ碁がプロ棋士に勝つほど、素晴らしい性能を発揮するようになったのは、ディープラーンニング(深層学習)の代表的な手法である深層人工神経網(Convolutional Neural Network )を用いたからである。

 深層人工神経網は、比較的新しい機械学習理論であるが、各種のパターン認識大会で優れた効果を出している。この手法が本格的に活用されるようになったのは、2012年からです。

 まず、アルファ碁は、政策網(指導学習+機械学習)と政策網の深層人工神経網、モンテカルロ・シュミュレーションで構成されている。なお、アルファ碁には素早いシュミュレーション fast rollout のための深層人工神経網が、実際には13層あると言われている。

 まず、政策網は深層人工神経網で構成されていて、指導学習する最初のステップでは、まず、ヨーロッパのアマ高段者らがネット囲碁 KGS Go Server で打った16万の対局譜から2940万の盤面を抽出したあとで、つぎにどこの位置に着手するかを学ぶようにした。

 実際にアマ高段者らが次にどこに着手したのかをしっているから(それで指導学習とよばれる)一貫したパターンを分析して身に付ける。この段階で開発されたモデルは、すでに57%の正解率で次の手を予測できた。

 アマ高段者らの打ち方をまねできたとしても、対局で勝利が保証されるわけではない。だからアルファ碁は次のステップで、次の着手の選定の精度をさらに高めるために「機械学習」をする。

 自分自身との対局——すなわち現在のモデル、および以前のモデルから抽出したモデルと数百万回の対局を繰り返すことで試行錯誤しながら自ら学習することにより、モデルを徐々に改善していったのだ。

 たとえば、自分が勝った試合については、勝利に貢献し着手を考えながら、着手の選択率を上げる。特に、この部分でアルファ碁は知能の重要な要素である経験に基づいて、自ら学習する能力を発揮している。

 機械学習をしたモデルは、最初のステップの指導学習をしただけのモデルとの対局では80%以上の勝率を記録した。アルファ碁の最も重要な要素は、人工知能囲碁プログラムで、機械学習を活用して、次の着手選択の精度を高めたことである。 』


 『 ステップ3では、次の着手を最終的に選択するために、打っている対局の状況で、それぞれの着手の候補位置に打った場合、あとに表示される結果が自分にどれだけ有利なのか(勝利率がいくらなのか)二つある方法で評価する。

 一つは、深層人工神経網を用いた評価網 value network で、もう一つは既存のモンテカルロ・シュミレーション rollout を利用するものである。

 評価網は、自分自身との3千万回の対局から3千万の場面を抽出し、深層人工神経網を使って、まだ最後まで打ち終えていない状況で、どちらが勝つかを学習したモデルである。

 アルファ碁の勝利の3番目の要素であり、最も重要な要素は、人工知能囲碁プログラムで初めて深層人工神経網を利用して、非常に優れた評価関数を開発したことである。

 機械学習を活用した評価網では計算は遅くなる。モンテカルロ・シュミレーションは比較的正確で速いけど、あま高段者のレベルくらいである弱点がある。

 アルファ碁は相互補完的なこの二つの手法の長所をいかすために、二つの手法の結果を50%ずつ反映して、最終的に着手位置を決定する。

 アルファ碁の勝利の4番目の要素であり、また非常に重要な要素は、アルファ碁が最良の手を探すツリー探索の過程で、評価網とモンテカルロ方法を初めて精巧に結合して性能を高めたという点である。 』


 そして、アルファ碁とセドル九段との5番勝負が、セドル九段が勝てば破格の賞金100万ドルであった。勝負の経過が書かれていますが、結果は、3敗で勝負は決まったのですが、さらに4戦目を戦って、セドル9段が気力を振り絞って一勝をもぎ取ります。さらに5戦目を戦い疲れても伴い敗れます。


 ここで、囲碁のルールについて、述べます。

 (1) 19×19(361ヶ所)のマス目の交点に、黒石と白石を交互に打つ。

 (2) 相手の石を囲むと取ることができます。(前後、左右を)

 (3) 自殺手は、打ってはいけない。

 (4) 相手の石が交互に取り合う場合、すぐに取り返せない。(コウのルール)

 (5) 陣地が多いほうが勝ち。(先手が7目半のハンデ)   以上です。


 ここで最初に、学習という言葉の定義をしておきたいと考えます。広辞苑によりますと「まなびならうこと」 「新しい知識、技能を習得すること」 とあります。

 学習とは、習い、そのまま自分でできる、または試験で問いに答えることでしたが、ここでの意味は、少し異なります。

 例えば囲碁や将棋や、チェスや株式投資を自分の考えた、必勝のルールに則って試合を行います。その結果、勝った時は、ここが勝敗の分岐点であったと、必勝のルールに追加します。

 負けた時は、ここが勝敗の分岐点であったと、必勝ルールに追加します。そして次の試合や投資にそれを活用して、勝率の精度を上げていくことが学習です。

 層とは、私の推測では、囲碁は170手から240手で、終局しますが、序盤、中盤、終盤に分けます。麻雀で言えば、一手目、二手目、……、二向聴(リャンシャンテン)、一向聴(イーシャンテン)、聴牌(テンパイ)、和了(アガリ)となります。

 これらのフェーズ(層)ごとに、最善手のパターンを持ち、それらに評価値を持ち、そのフェーズ(層)を評価しながら、最善パターンを更新し、精度を上げていく。

 囲碁の盤面で勝敗の分岐の一手をどのように判別するのかはわかりません。そこから何をどのように学ぶのかわかりません。

 層の分け方、評価方法、勝敗の分岐点の判定方法、学習の方法は不明ですが、私たちも人工知能の学習方法に学び、人間の脳力のすぐれた部分は何か、人工知能をどのように活用するかは、私たちの課題でもあります。

 最後に、第三局を終わってからの部分と第四局を終わってからの部分を引用します。


 『 人工知能と真っ向勝負をするために、リングの上に上がり、三連敗を喫した。人類の敗北により、近い将来人工知能に征服させられるかもしれないという不安感も高まった。

 人工知能がずっと進化をしていくと、人の技術力や知能が必要でなくなる時代がくるかもしれない。シリーズとしては第三局で結果は決まったが、第四局と五局の勝負は、グーグルとセドル九段にとっては重要な対局であった。

 一勝でもすれば、アルファ碁に勝てる可能性を残すことができる。セドル九段は賞金ではなく、囲碁と人間の未来をかけて戦うのだ。そのためか、勝負の重みがより増したように感じた。

 結果は、白盤のセドル九段が180手で、中押し勝ちをおさめた。今回も敗北を予感していた。アルファ碁は強力で、完璧に近い姿をみせていたからである。

 囲碁界の人々は敗北意識にとらわれていた。アルファ碁に対する恐怖感は頂点に達していた。しかし、ただ一人、セドル九段は別のことを考えていた。

 アルファ碁に勝つための苦悩はこれまで以上に深く、その過程で答えを探して勝つことができると自分自身を信じていたのだった。

 アルファ碁の父、デミス・ハサビスと現場解説を引き受けたマイケル・レイモンド九段とソンテゴン九段は、お祝いのメッセージを伝えた。

 そして、現場にいた大勢の記者たちが歓声を上げた。まるで宇宙怪物を倒して帰ってきた英雄を讃える雰囲気であった。この対局によって、アルファ碁に勝つことができる可能性を切り開いた。 』 (第123回)


ブックハンター「坂の上の坂」

2017-01-13 14:07:20 | 独学

 123. 坂の上の坂   (藤原和博著 2011年11月)

 『 校長時代、私は中学生に学問だけを教えるのではなく、世の中の成り立ちや学問と世の中のつながりについて教えていく[よのなか]科という授業を提唱し、実践してきました。

 そのなかで私は、人の言うことを簡単に信じてはいけない、もっと疑え、と教えていました。いわゆる「クリティカル・シンキング(複眼思考)」の技術を伝授したのです。

 しかし、私自身は、いったん「クリティカル・シンキング」で自分の意見や進むべき方向を定めたら、その実現段階では、世の中を信じ切って進めるところがあります。行動を起こすときには、信じて動いたほうが勝負には有利だからです。

 [よのなか]科で十年以上実践している「クリティカル・シンキング」を、義務教育に導入することと、地域が学校を支援する仕組みを全国に広めていくこと。そうして、学校を核に学習コミュニティを再生することがメインの仕事です。 』


 『 ロンドンに一年一ヵ月、そしてパリに一年三ヵ月。家族を連れた私のヨーロッパ赴任は二年半に及びました。私はここで、「成熟社会」の本質を垣間見ることになります。

 日本の高度成長期のように「みんな一緒」の社会ではなく、一億総中流社会と呼ばれた塊が「それぞれ一人一人」に分かれていく社会です。上下にも、左右にも、前後にも、タテ・ヨコ・ナナメにも。

 そこには、生活を楽しもうとする、人生を豊かに生きようとする真摯な人々の姿がありました。例えば、パリの人々に教えられた”Art de vivre”(アール・ド・ヴィーヴル)。

 これは、国よりも、産業社会よりも、自分自身の人生と人々との関わりを大事にするフランス人の生活信条です。フランス語で”Art”は「術」、”de”は英語の”of”、”vivre”は「生活」という意味。

 直訳すれば、「生活術」になりますが、実体験した私の感覚では、「人間と人間の間を取り持つコミュニケーション手段としての芸術的生活術」というのが適切かなと思います。

 しかも、人々の間には「アール・ド・ヴィーヴルとはつまりこれだ」という一般解はありません。一人一人自由に考え、選択し、味わっているのです。夫婦でも考え方が別々だったりする。まさに、これこそが成熟社会の生き方だと感じました。

 この生活信条をイメージするのにわかりやすい事例として、リクルート社が当時行ったフランスの若者へのインタビューを紹介したいと思います。

 「何よりも生きることを楽しみ、日常の平凡さから抜け出す知恵です。ご婦人に道を譲りながら、その服装や髪型を褒めることや、料理を楽しむために美しいテーブルクロスを選ぶことも入ります」

 「それは機会を利用して楽しむ術。昨日の繰り返しを続けないことです。ゆとりある時間の中で生れる楽しみ。”義務感へのアンチテーゼ”ではないでしょうか」

 「電車を一台やり過ごし、次の電車で座っていくことから始まります。時間をとって行動に余裕をもてば、人は胸いっぱいに人生を呼吸できます」

 これを語っているのが二十代前半の若者、というのがミソではないかと思います。「アール・ド・ヴィーヴル」は日常の中に息づき、完全に人々に浸透している。当たり前のように人々は実践しているのです。

 日常の中にちょっとした喜びを発見し、コミュニケーションし、それを楽しんでいる。実際、彼らは食事を大事にし、会話を大事にし、そこで幸福を共有する時間をきわめて大事にしています。

 日常のささいな事象の中にこそ幸せの本質があると考える彼らの生き方に、私は様々な場面で感動させられることになりました。対して日本人の人生観の中心的価値は何か。

 私はパリでくらしている間に考え込むことになりました。結局、出てきた結論は「上手に生きる」ことなのではないか、という仮説でした。 』


 『 私は、日本に「それぞれ一人一人」の兆候が本格的に出現し始めてから、すでに一五年が経っていると見ています。そして、ここにきて多くの人が「心の拠り所」を強く求めるようになっているように思えます。

 その現れが「ケータイ」メールの大ブームです。普段の生活の中で、人々はほとんどがケータイをいじっている国など、世界の中で日本だけではないでしょうか。

 それだけ現代の日本人は寂しく、不安なのです。一人になってしまう恐怖心から、誰かとつながっていようとする。もうひとつ、日本人の異常なブランド信仰もわかりやすい例です。

 「エルメス」を持っている。「グッチ」を手にしている。それが、特定の価値を共有した仲間、つまりコミュニティへの参加権になる。ちなみに私は、ブランドのことを「制服」と呼んでいます。

それがあれば、同じ仲間だと認めてもらえる、わかりやすいアイコンだから。ヨーロッパでは、そうした孤独に対する不安は、別の社会的機能がやわらげてくれていました。その社会的機能が、宗教です。

 宗教が、心の拠り所を作ってくれている。産業社会とは別に、教会を中心としたコミュニティが地域社会の隅々で機能しています。それが、個人と社会をつなぐ中間集団になっている。

 でも、宗教べったりなのかというと、そうでもありません。うまく宗教を使って、癒しや免罪や、背中を押してもらう行動をとるための道具にしている。フランス人の友人はこんなことを言っていました。

 「フランス人の多くはクリスチャンだけど、大人になるにつれて教会から足が遠のく。行くのは結婚式とか、葬式くらいかな。でも子どもができると、また毎週のように通うようになるんだ。彼らには家庭や学校以外の場が必要だからね。」

 よくできた仕組みだと思いました。日本では、宗教が本来果たす役割をケータイやブランドのコミュニティが受け持っているように思えます。もちろん、私はそれを否定するつもりはありません。

 ただし、自覚を持っておくことが大切です。ケータイもブランドも宗教も、わかってやっている、と認識しておくこと。自分の人生を切り拓くために、宗教的なものもツールとして使う。

 そんな感覚が、成熟社会には必要なのです。何しろ、孤独に加えて、老いもやって来るのですから。 』


 『 新聞やテレビは、日本のシステムの歪みや腐敗をさかんに取り上げますが、私にはどうにも納得がいきませんでした。

 だって、当時のヨーロッパの失業率の高さや福祉の厳しさ、企業の競争力不安や地域紛争、若者の兵役義務など、むしろ「日本はなんて平和でいい国なんだろう」と思うことのほうが多かったからです。

 では、どうしたら日本人は真に豊かになれるのか?何が必要なのでしょうか?やがて私は、いくつかの結論に思い至ります。

 一つ目は、住宅問題。土地が安くなって住まいの値段が売買賃貸とともに値頃になり、地主と店子の新しい関係作りが進めば、日本人の幸福感の一役買うと考えました。

 二つ目は、広い意味でのサラリーマンの比率がもっと下がることです。会社にしがみつかなければいけないことが、人々を苦しめているのではないか。

 さらにいえば、子どもたちを前時代的な「標準化」の罠に引き込んでいるのも、こうした雇用形態が関係しているのではないか。フェロー(個人と会社が対等な契約を結ぶ)のような、企業と個人の新しい関係作りのためのさまざまなチャレンジがなされていいと思いました。

 三つ目は、日本流の個人主義が徐々に浸透しながら、同時に公共心が育っていくことです。個人と個人、個人と社会の新しい関係が求められている。そのためには、産業社会、企業の側も発想をシフトチェンジしていく必要があると感じました。

 さらに四つ目が、高齢化社会を迎え、生きていくということにどう立ち向かっていくか。身体的、あるいは精神的な対策が必要ではないか。

 こうして私は、自らの四十代、五十代でやるべきテーマを四つ、はっきりと自覚するに至りました。住宅、介護を中心とした医療、教育、そして組織の壁を越えて個人と個人を柔らかくつなぐネットワークです。 』


 『 会社と個人との関係を、私は次の三つの言葉で表してます。「企業人」、「起業人」、「寄業人」です。「企業人」は一般的な会社員のこと。入社した会社に忠誠を尽くし、異動したり、昇進したりしながら、一部は経営陣に加わることもあります。

 「起業人」は自ら新しい組織を作る人のことです。会社で培ったノウハウや人脈を生かして、まったく新しい事業を立ち上げます。しかし、大きなリスクも抱えるので、全体から見れば数は少ない。

 「寄業人」は、組織とパートナーシップを保ちながら仕事をする個人を指します。「自営業者」に近い感覚です。士業をはじめ、新聞記者たテレビのディレクターなども寄業人的資質があります。

 あえて組織を離れず、組織にいながら個人の力を発揮することができる仕事のやり方です。会社の中で個人が力を発揮していくためには、会社と個人が互いに合意できる方向性が重要になります。

 いくら個人が力を発揮したくても、それを会社が求めていないのであれば、力を発揮することは難しいでしょう。だから、寄業人=企業内自営業者を目指すときに重要なことは、会社と自分の「ベクトルの和」を最大にしよう、と心がけておくことです。 』


 『 欲しい時計が見つからなかった私は、ではどんな時計が欲しいのか、自分で絵を描いてみることにしました。そんなことをしていると意外な出会いはあるもので、企業や大学で作るオリジナル時計の制作を請け負っている、という人物に出会うことができました。

 もともと時計メーカーにいらした清水新六さんです。諏訪市にある時計企画室コスタンテという会社を経営しておられました。時計のOEM(Original Equipment Manufacturing)製造メーカーです。

 私は単刀直入に聞いてみました。「清水さん、たった一個をOEMで作る、なんてことはありえますか?」こういう無茶な質問にどう答えてもらえるかで、私はその人と付き合うかどうかを決めます。

 「条件付きでありえます」 条件がついていようがなんだろうか、「ある」とおしゃる。こういう人が、私は好きです。「Yes, but ……」の思考をする達人です。やらない理由をあれこれ挙げて、責任回避するタイプの人とは根っこから違う。

 私は普段から、世の中を幸せに生きていくコツは、「そうですか、ちょっとやってみますか」という思考を持った人と付き合うことだと考えています。オモシロいと思ったことは、実現する過程で条件をつけていけばいいだけのことですから。

 さらに私は、日本人として世界で恥ずかしくない時計にしたくて、あれこれとアイディアを出しました。例えば、漆は世界が認める日本文化の一つで、英語で「japan」と呼ばれるほどですが、これを使ってみてはどうか、と考えました。

 やがて、清水さんはこうおしゃいました。「もうちょっと物語があれば、これは製品として作れるかもしれない」 和田中の校長時代、ゲストティーチャーでいろいろな人たちが来てもらっていたのですが、その常連に、根本特殊化学という夜光塗料で世界一の会社の社長がいました。

 連絡すると、門外不出の橙色の夜光塗料を出してくれるといいます。ただ、大量に生産する場合、品質が安定しないとも。そういうチャレンジもできるのが、オリジナル時計づくりの面白いところです。

 結果的にこの時計は、私のラフスケッチを参考にして「ネオジャパネスク」をコンセプトに専門の時計デザイナーに細部のデザインをしてもらうことになりました。

 こうして、ゴールド系とシルバー系の二種類が、二十万円前後、五十個限定でコスタンテから売り出されることになります。私がデザイン画を持ち込んでから、九ヵ月後のことでした。

 日本の職人の技と愛情を結集して作り込んでもらったこの時計は、ネット上だけの販売だったのですが、一か月で完売。こうして私は本当に欲しい時計を手に入れました。

 世界に五十個しかない時計。時計に目を留めてくれる人がいたら、私はこの物語を話します。 』


 『 不動産の相場感覚を身に付けると、いいことがあります。言われた通りにするのではなく、自分の意見を持つ。自分のマンションに値付けしてみる。そんな分析はなかなかできないと思うなら、「自分の土地勘」のあるところだけに投資すればいいのです。

 私が今住んでいる家の土地も、「土地勘」があったからこそ出会いました。今のエリアはもう二十年以上暮らしており、このあたりのことはとてもよくわかっています。

 実は今の家が建っているのは、かって住んでいた家から駅に向かう途中にあった土地でした。かっての家は建て売りで求めたものでした。

 ヨーロッパから戻ってきて、ずっと自分の家を建てたいと思っていた私は、かっての家から駅までの間に徹底的に土地を探したのです。

 土地が出そうなところ(例えば、駐車場になっているところとか、古家が建っていて誰も住んでいなそうなところ)の情報は、市場に出ない物件も含めて、ほとんど当たっていました。

 そんなふうに集中して情報を集めてるうちに、七十五坪ほどの綺麗な敷地にで出会いました。(普通は、三分割されて建売業者に分譲されてしまいます) 』


 『 私の家には同い年の画家、杉山邦さんの絵が飾ってあります。彼は自分の絵を売ったり、描いた絵をシルクスクリーンにして売ったりするときに画商を使うのですが、私は画商から買いませんでした。

 彼に描いてほしいテーマを伝えて、オリジナル作品を描いてもらったのです。画家の絵は一般的に、画商が買った瞬間に三倍くらいになります。ということは、消費者が持ち帰った瞬間、価値は三分の一以下になってしまうということです。

 ならば直接、画家に頼んだほうが安い。これも、画家への思い入れがあってこそ、できることでしょう。やり方はいくらでもあります。例えばマンションの玄関に飾る小さな絵がほしいとする。

 どこかから絵を買ってきてしまえば、ただの消費者です。しかし、展覧会で見た画家に依頼して描いてもらったら、それはただの消費者では終わりません。

 例えばクルマ好きな人なら、カーデザイナーから車をデザインした際のデザイン画を買ってもいいと思います。誰かが勝手に価値を算定したモノをその値段で買うのではなく、自分が価値を与えて、新しいソフトを創出する。

 自分が付加価値のつくり手になる。これこそが本当の投資だと思います。室町時代から江戸時代にかけて、ある程度暮らしの豊かだった人々はそうやって「投資する」行為を楽しんでいたように思えます。 』


 『 私は、二〇〇八年から、橋本徹大阪府知事のもと、大阪府教育委員会特別顧問を務めていました。私は橋本さんのことをよく知らなかったのですが、東京の教育界での仕事が知られるようになった私に、橋本さんが白羽の矢が立ったのです。

 橋本さんについていろいろ調べてみると、彼はどうにも孤軍奮闘しているようでした。メディアからもずいぶん叩かれていましたが、私から見れば言っていることは正論だと思いました。そこで、私も一肌脱ごうと考えました。

 実際に会ってみると、これなら大丈夫、と感じたので、「教育については七つやりたいことがありますが、やれますか」と単刀直入に聞いてみました。

 すると、「ぜひお願いしたいです。でも、こんなことまでしてもらったら、いったいいくら払えばいいんでしょうか」と不安顔で聞くのです。私は、お金をもらわず、タダで引きうけたい、と伝えました。

 橋本さんは驚いておられましたが、これには明快な理由があったのです。私が杉並区立和田中学校で行った改革は、言ってみれば”点”の改革でした。

 和田中ではできたけれども、他の中学校ではそう簡単にはできないだろう、と多くの人が考えてました。ましてや東京ではなくて文化の異なる大阪です。[よのなか]科という発想が合うか合わないかも含め、不安要素のある大勝負になります。

 しかし、もし大阪で再度ムーブメントを起こすことができれば、今度は”点”でなく、”面”の改革が展開できる。こんな機会は滅多にありません。ぜひチャレンジしてみたい、という気持ちのほうがお金の問題よりもはるかに大きかったわけです。

 そしてもうひとつ、例えば特別顧問で給料をもらってしまったとすると、その瞬間に私は橋本知事の部下になります。私はそれが嫌でした。申し訳ないのですが、私は知事の部下にはなれません、と宣言し、それでいいのならやります。と申し上げました。

 返答は「ぜひお願いします」でした。最初の四十日くらい大阪に詰め、二十五市町村で五十五の小中学校を回りました。これを手引きしてくれたのが、大阪教育大学の監事を務めている野口克海さん。

 現場を知っている人に教育委員に入ってほしいということで来たもらったのが蔭山英男さんです。いろいろな人にサポートしていただき、半年後には全国学力調査で小学校の算数の学力から上がっていくという実績を残すことができました。

 現場では一部に府知事への反発もありましたが、私は橋本さんの部下でもなければ給料ももらっていません。どうも藤原は橋本さんに命じられてやっているのではない、と気づいてもらえたことで、スムースなコミュニケーションが図れたのです。

 お金が発生しないことをするなんて、そんな余裕はない、忙しい、と感じる人もいるかもしれません。しかし、忙しいと思ってやらない人は、一生、忙しいままです。

 自分にとって、何か新たなチャレンジをすることなく終わってしまう可能性もあります。それでは、あまりにも残念な人生ではないでしょうか。 』


 『 そんな思いをもっていたとき、ひとつの出会いがありました。仙台のNPOが集まる会議に参加していたときのこと、飛び込みでやって来た中年の男性がいました。

 彼は自分の家も、水産品の加工工場も、カキやヤホやホタテの養殖のための筏もすべて流されてしまった漁師だったのですが、一人の父親として、雄勝の中学校を救ってほしいという。(宮城県石巻市の雄勝町)

 その申し出はなんともささやかなものでした。硯の産地なのだが、書道の道具が流されてしまった。だから、書道のセットがほしい。子どもたちを元気づけるためにも音楽の授業が大切になるのだが、リコーダーがない。リコーダーを手配してもらえないか。

 「 書道のセットとリコーダーを五十一セット」という、実に具体的でつつましい要望が、私の心を打ちました。あとで聞いてみると、彼は雄勝中学校のPTA会長だったのです。

 自分の家もホタテの養殖場も筏も何もかも流されていまったのに、現地に踏みとどまり、子どもたちのために学校を再興しようとしている。

 私は、この出会いをチャンスとして、「チーム立花」の面々とともに、雄勝に絞って支援活動を展開することになります。雄勝中学校を、さらには雄勝の町を復興させるために自分に何ができるのか。ささやかな取り組みを始めたのです。

 オリジナルの復興時計を作って、その収益金を支援に充てる、というのもその一つでしたが、他にもいろいろな取り組みをすすめています。

 和田中時代にお世話になった方々をはじめ、文化戦略会議(エンジン01)でご一緒している著名人が、相次いで雄勝中での〔よのなか〕科特別授業を引き受けてくださいました。

 夏には、雄勝中学校の校長、ソフトテニス部の部員と顧問の先生をお呼びして、仙台近郊でテニス合宿を開きました。子どもたちは大会を控えていたのですが、練習場所にも困っていました。

 そこで、東京から合宿に参加してくれる仲間を募り、少し多めに費用を払ってもらって、子どもたちが無料で合宿に参加できるようにしました。いわば、スポンサー付き合宿です。

 中学生たちが声を張り上げ、噴き出す汗を拭きながら必死で練習しているすぐ隣で、テニスをする。こんな経験は、オジサンたちにはなかなかできることではありません。

 これだけでも都会からの参加者には新鮮な感動がある。おかげで、あっという間に参加者が集まり、夏合宿を成功させることができました。 』 


 題名の「坂の上の坂」は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」からのパロデーです。「坂の上の雲」は明治維新から日露戦争の時代の日本人の心意気を見事に描いた作品です。

 日露戦争を戦った百年前に比べ、平均寿命が大きく伸び、雲を夢見て懸命に生きた、先にすぐ死がありましたが、現代では、さらに坂を登った先に、天国があるという意味だそうです。 (第122回)


ブックハンター「HAIKU Vol.2」

2017-01-07 15:37:04 | 独学

 122. HAIKU  Vol.2  Spring (俳句 第2巻) (R.H.Blyth著 1990年1月)

 本書は、71.HAIKU Vol.1 (俳句 第1巻)で紹介しレジナルド・ホーラス・ブライスの(俳句 第2巻)です。

 俳句の初心者で、英語の劣等生である私が、なぜ、再度、英語の俳句の本を紹介するかというと、最近の俳句ブームに乗って、何冊かの俳句の本を読んで見ましたが、私はよく理解できませんでした。

 なぜ、俳句が理解できないかが、最近解かりました。それは以下の4つの理由によるものでした。

 ① 一句の中に正しく読めない漢字がある。

 ② 一句の中の上句、中句、下句の区切りが見えない。

 ③ 季語がどれであるかを理解できない。

 ④ 一句の中に、わからない言葉がある。

 著者のブライスは、英語は無論のこと、日本語、漢文、日本文学、禅についても、超一級の学者です。

 改めて本書を読んでみますと、日本語で俳句を記述し、つぎにローマ字で、読みを記述してますが、このとき、上句、中句、下句に分かち書きし、さらに、単語に分かち書きされてます。

 次に翻訳した英語を記述し、さらに英文で説明されています。今回の第2巻は、新年と春の俳句が紹介されてます。

 俳句は、17文字の中に季語を一つもって、情景を表現し、そこにかもちだされる心情を表現する、世界最小の文学です。さらに、ブライスの尽力によって、俳句は現在日本だけでなく、世界の俳句です。


 本書で紹介されている、芭蕉、蕪村、一茶、子規です。松尾芭蕉は、1644年、三重県に生まれ、「奥の細道」を残して、1694年に50歳で没しました。

 芭蕉の没後、22年の後に、蕪村が大阪にうまれ、江戸に出て絵を修行するかたわら俳諧を学び、京都に住んで、画家として成功する。1783年に67歳で没しました。

 一茶は、1763年、長野県の農家に生まれ、14歳のとき江戸に出て、働きながら俳諧を学ぶ、多くのすぐれた俳句を作りながら、生活が成り立たず、50歳のとき故郷に帰る。1827年64歳で没す。

 一茶没後、40年後の1867年に子規が愛媛県に生まれる。東京の一橋大学予備門でに入り、夏目漱石と友達になる。日清戦争の従軍記者として中国に渡り、帰国し、30歳で結核性カリエスで寝たきりとなり、1902年35歳で没す。

 子規が俳句を学んだ時は、江戸時代から明治時代に変わり、西洋の文化、文明を学ぶことが主力で、江戸時代の古めかしい俳諧は、忘れ去られようとしていた。

 この俳句を私たちの前に甦らせたのは、子規の功績である。年代をたどると、芭蕉は、蕪村も、一茶も、無論、子規を知る由もない。

 蕪村と一茶は、年代的には重なり合うが、蕪村が没したとき、一茶は20歳になっていたが、その時、一茶は俳句と出会ていたかとうかは不明であり、京都と江戸では、出会うことはなかつた。

 蕪村は、一茶を知ることはなかった、ましてや子規など知る由もない。この4人の俳句を並べて読んでいると、お互いに知り合いだったような錯覚に陥ます。


 本書は、大きく新年(The new year)と春(Spring)の二つから構成され、Spring は、さらに、The Season (季節)、Sky and Elements (空と(構成)要素)、Fields and Mountains (野山)、Gods and Buddhas (神と仏)、Human Affairs (行事)、Birds and Beasts (鳥と昆虫)、Trees and Flowers (樹木と花)によって、構成されてます。

 

  それでは、新年の句から、読んでいきましょう。

『 ◎  日の光 今朝や鰯の かしらより    蕪村

   ( Hi no hikari   kesa ya iwashi no   kashira yori )

  A day of light   Begins to shine   From on the heads of the pilchards.          Buson


  ◎  元日や 思えば淋し 秋の暮    芭蕉

   ( Ganjitsu ya   omoeba sabishi   aki no kure )

  The First Day of the Year:   I remember    A lonely autumn evening.            Basho


  ◎  目出度さも 中位なり おらが春    一茶

   ( Medetasamo   chugurai nari   ora ga haru )

   A time of congratulation,—   But my spring   Is about average     Issa


  ◎  元日や 上々吉の 浅黄空       一茶

   ( Ganjitsu ya   jojokichi no   asagi-zora )

   New Year's Day:   What luck!  What luck!   A pale blue sky!     Issa


  ◎  正月の 子供になって 見たきかな     一茶

   ( Shougatsu no   kodomo ni natte   mitaki kana )

   Ah!  to be   A child,—   On New Year's Day!     Issa


  ◎  梅提げて 新年の御慶 申しけり    子規

   ( Ume sagete   shinnen no gyokei   moushikeri )

   In my hand a branch of plum-blossoms,   I spoke the greetings   Of the New Year.    Shiki


  ◎  初芝居 見て来て晴着 未だ脱がず    子規

   ( Hatsu shibai   mite kite haregi   mada nugazu )

   The first theatre of the year;   Coming back, and not yet taking off   Her gala dress.    Shiki


  ◎  初空を 今こしらへる 煙かな    一茶

   ( Hatsuzora wo   ima koshiraeru   kemuri kana )

   The smoke   Is now making   The first sky of the year.    Issa 』


 次に春の中の The Season (時候) より、紹介いたします。

 『 ◎  門々の 下駄の泥より 春立ちぬ     一茶

   ( Kado-gado no   geta no doro yori   haru tachinu )

   At every gate,   Spring has begun   From the mud on the clogs.    Issa

 

  ◎  大佛の うつらうつらと 春日かな     子規

   ( Daibutu no   utsura-utura to   haruhi kana )

   The Great Buddha,   Dozing, dozing   All the spring day.    Shiki  

 

  ◎  あっさりと 春は来にけり 浅黄空     一茶

   ( Assari to   haru wa ki ni keri   asagi-zora )

   Spring has come   In all simplilicity:   A light yellow sky.     Issa


  ◎  あたゝかに 白壁並ぶ 入江哉     子規

   ( Atataka ni   shirakabe narabu   irie kana )

   In the warmth,   The white house-walls   Ranged along the creek.     Shiki


  ◎  のどかさや 浅間のけむり 晝の月     一茶

   ( Nodokasa ya   asama no kemuri   hiru no tsuki )

   Peacefulness:   The smoke from Mount Asama;   The midday moon.    Issas


  ◎  遅き日の つもりて遠き 昔かな     蕪村

   ( Osoki hi no   tsumorite toki   mukashi kana )

   Slow days passing, accumulating,—   How distant they are,   The thing of the past!    Buson


  ◎  等閑に 香たく春の 夕かな     蕪村

   ( Naozari ni   ko taku haru   yube kana )

   Indifferent and languid,   I burned some incense:   An evening of spring.    Buson


  ◎  春の夜や 妻なき男 何を読む    子規

   ( Haru no yo ya    tsuma naki otoko   nani wo yomu )

   A spring evening;   What is the bachelor   Reading?    Shiki


  ◎  草臥れて 寝し間に春は 暮れにけり    几董

   ( Kutabirete   neshi ma ni haru wa   kure ni keri )

   While I shumbered,   O'er-wearied,   Spring drew to its close.    Kito


  ◎  ゆく春や おもたき琵琶の 抱きごゝろ        蕪村

   ( Yuku haru ya   omotaki biwa no   dakigokoro )

   As spring departs,   How heavy   This biwa feels!     Buson 


  ◎  ゆく春や 逡巡として 遅桜     蕪村

   ( Yuku haru ya   shunjun to shite   osozakura )

   Departing spring   Hesitates   In the late cherry-blossoms     Buson   』


  今度は、春の中の Sky and Elements (天文) より、紹介いたします。

 『 ◎  是きりと 見えてどつさり 春の雪    一茶

    ( Krekiri to   miete dossari   haru no yuki )

    As though this were the lot,   A geat deal fell,—   Spring snow.    Issa


  ◎  梅が香の 立ちのぼりてや 月の暈     蕪村

   ( Ume ga ka no   tachinoborite ya   tsuki no kasa )

   The halo of the moon,—   Is it not the scent of plum-blossoms   Rising up to heaven?     Buson


  ◎  草霞み 水に聲なき 日暮かな     蕪村

   ( Kusa kasumi   mizu ni koe nake   higure kana )

   The grasses are misty,   The waters now silent;   It is evening.    Buson


  ◎  春風や 牛に惹かれて 善光寺     一茶

   ( Harukaze ya   ushi ni hikarete   Zenkoji )

   A spring breeze!   Led by  cow   To zenkoji.     Issa


  ◎  春風や 堤長うして 家遠し    蕪村

   ( Harukaze ya   tsutsumi nagoshite   ie toshi )

   The spring wind is blowing:   The embankment is long,   Houses far away.     Buson


  ◎  春雨に 濡れつゝ屋根の 手鞠かな     蕪村

   ( Harusame ni   nuretsutsu yane no   temari kana )

   A hand-ball,   Wet with the spring rain falling   On the roof.     Buson


  ◎  小芝居の 幟ねれけり 春の雨     子規

   ( Koshibai no   nobori nurekeri   haru no ame )

   A travelling show;   The banner is wet   In the spring rain.     Shiki


  ◎  春雨や 暮れなんとして けふもあり     蕪村

   ( Harusame ya   kurenan to shite   kyo mo ari )

   Spring rain;   It begins to grow dark;   Today also is over.     Buson 

 

  ◎  春雨や ものがたり行く 蓑と傘     蕪村

   ( Harusame ya   monogatari yuku   mino to kasa )

   Spring rain:   An umbrella and straw-coat   Go chatting together.     Buson  』


 今回、英訳の句と日本語の句を比較してみますと、以下の三つの点で異なっていることを感じました。

 ① 英語には、"The" や ”A” の冠詞があることです。日本語にはないのですが、ある意味で英語のすぐれた面です。

 ② 英語には、パンクチュエーション(punctuation ,句読点)を、配置して ”や” を ” : ”で詠嘆したり、” ; ”を使って段落を表しています。

 ③ 英語にない言葉を、例えば、蓑を straw-coat という風に、二つの単語を” - ”で組合せて、作っています。

 英語ができる日本人も増えてきたましたが、日本文化を理解していて、日本の文化を世界に発信できる人は、まだ少数のように感じます。 (第121回)