16.3 火、鉄、蒸気機関、内燃機関、タービン、電気(その3)
内燃機関に対する初期の企ては実用的な蒸気機関の現れる以前にすでにあった。燃料を直接シリンダーのなかで使うことは、火と汽罐とシリンダーという比較的複雑な蒸気機関に比べて簡単である。
しかし内燃機関が観念としては蒸気機関より簡単であるにしても、実際に使用できるようにすることは、はるかに複雑困難な問題であった。そういうわけで、実用的な蒸気機関が現れると、内燃機関の研究は当分おあずけとなった。
しかしそれにもかかわらず、内燃機関は発明家の心をひかずにおかない、いくつかの特徴がある。
1)原理がきわめて簡単である。
2)火格子と汽罐の必要がないため目方をかるくし小さくなる可能性がある。
3)エントツと汽罐と蒸気パイプで失われるロスがなくなるため効率が見込める。
4)小さな工場や仕事場に適する小型の内燃機関を作れる可能性がある。
最初の内燃エンジンは1860年フランスのエチェンヌ・ルノアールによって、蒸気エンジンの本体を借りながらも蒸気の代わりに石炭を高温で蒸し焼きにして得られる石炭ガスをシリンダーに送り込み、点火、燃焼させた、非圧縮式内燃機関エンジンであった。ルノアールのエンジンは百年ほど前のワットの蒸気機関に近い効率しか残せなったが、始動までの時間とコンパクトなエンジンとして使いやすい長所があった。
現代のガソリンエンジンの動作原理は1876年ドイツのニコラス・オーグス・オットーによって発明された。(この時点で、ガスエンジンで、1886年に液体燃料に)
オットーはルノアールのエンジンの話を聞き、もっと新しい形の小型のエンジンを作って田舎道に車を走らせ、小さな企業の動力としてのエンジンの開発を目指した。そこでまず、燃料としてはガスよりも石油のような液体からの蒸気の方がどこでも、いつでも使えるエンジンの燃料になると考え、キャブレータ(気化器)を設計し作らせた。
そして、小型のエンジンを作り実験を開始した。燃料と空気の割合を変え、点火の時期を変え、エンジンの特性を調べた。そこでオットーは重要な発明の入口に到達した。それは、混合気をエンジンに吸入してから”ピストンをもう1回余分に回転させる”と強い爆発が起こり、続いて速くて、強力な回転がえられることを発見した。
この現象から、1つ目のストロークを混合ガスの充填に
2つ目のストロークを混合ガスの圧縮に
3つ目のストロークを混合ガスの燃焼に
4つ目のストロークを混合ガスの排出に使うという考えが生まれた。
そして1862年に最初の4サイクルエンジンを製作し、運転したがエンジンは調子よく回ったが、軸受がもたず耐久性に問題があることが分かった。
オットーは、燃焼による爆発力をどうして穏やかな力に変換できるか。薄い混合気をどうしたら確実に点火できるかを考えていた。混合気の濃い所に点火すれば、爆発力は薄い方向にむかって広がり、爆発力は空気のクションにより緩和されると考えた。そして1876年にオットーは世界最初の4サイクルエンジンを完成された。
4サイクルエンジンの理論は、フランスの学者のニコラス・レオナード・ザディ・カルノーによって、「カルノーサイクル」として、オットーの4サイクルエンジンが出現する前の1824年に存在していた。しかしオットーは、その理論の存在さえ知らずに4サイクルエンジンを創造し、それまで「カルノーサイクル」の理論は忘れられていた。(エンジン進化の軌跡 荒井久治)
カルノーサイクルの最大の熱効率は e=(q2ーq1)/q2=(T2ーT1)/T2
T2:高熱源の絶対温度、T1:低熱源の絶対温度、q2:高熱源から吸収する熱量、q1:低熱源に捨てた熱量
カルノーサイクルの可逆理想エンジン dS=dq/T をクラウジウスは dS を積分した量である S をエントロピーと呼んだ。エントロピーの変化 dS が熱現象の方向を決定することに気が付いた。(第29回)
16.3 火、鉄、蒸気機関、内燃機関、タービン、電気(その2)
紀元前1300年頃ヒッタイト文明で発明さてた鉄の熔錬法が、ユーラシア、中国、百済を経由して、1800年の時を経て、6世紀に日本にも到達した。
その鉄が、カマや鋤き、オノや鋸へとその用途を拡大することによって、食料生産と建築物の規模と質を向上させた。人力以外の動力で最初に登場するのは、紀元前2千年には、馬が登場するが権力の象徴であり、農耕などに普及するには多くの時間を必要とした。
次に動力として登場するのは、中世ヨーロッパに於いて、水車が製粉の動力として、利用された。熱エネルギーを動力として利用するには、自然科学に於いて、大気圧、温度、圧力、エネルギーについての知見が深まった、18世紀まで待たなければならなかった。
18世紀の後半まで、工業用機械の主な材料は木材であり、金属の使用は軸受部とか切削刀とかどうしても必要な部分に限られていた。金属はまだ非常に高価であった。
イギリスの鉄の生産の規模は、森林の大きさに制約され、18世紀のはじめには木材価格は、騰貴し、イギリスの製鉄業は滅亡に運命づけられていると考えられた。
そこで石炭が木炭の可能な代替物であることは、早くから考えられており、事実、16世紀にはすでに多くの工業で木材のかわりに石炭を使っていた。しかし、鉄の熔錬に石炭を使うことは、他の工業の場合よりはるかに困難な問題であった。1610年代には多くの特許や試みもなされたが、いずれも失敗に終わった。
1717年アブラハム・ダービーが、石炭をあらかじめコークスとして、使用することによって成功した。これによって鉄の生産量は、飛躍的に増大した。しかし、これらはすべて銑鉄に関したことで、炭素の含有率が高いため、もろく多くの用途に不適当であった。
可鍛鉄の大規模生産は1787年コートの発明によって可能になった。反射炉でパドル法を完成した。石炭の炎だけを鉄と接触させて、炭素含有量を下げ可鍛鉄の大量生産を可能にした。これによって材料である鉄による蒸気エンジンへの道が開けた。
最初は、ニューコメンによって、炭鉱の揚水のために、揚水ポンプのレバーを引き上げる時、水蒸気を満たしたシリンダーに水を入れ、真空になる時、大気圧の力でレバーを引く蒸気を利用した大気圧機関であった。
1763年にワットは、ニューコメン機関の模型の修理を頼まれ、その効率の悪さに気がついた。しかしそれをなくす問題は非常に困難であったので、彼が解決の糸口をつかんだのは、思索に思索をかさね科学者たちとの相談と自分自身の実験を繰り返した後の1765年のことであった。
ニューコメン機関の非能率の主な原因は、蒸気の凝結をシリンダーの中で行うことにあった。つまり、シリンダーが一行程ごとに冷やされるためであった。それゆえに、シリンダーをスチーム・ジャケットで包んで、凝結は、常に冷たいままに保たれる分離凝結器の中で行い、シリンダーを冷やすときは、分離凝結器とのバルブを開く事で行なった。
ワットは次に蒸気圧を利用して、直接ピストンのストロークに利用する高圧複式蒸気エンジンを開発し、往復運動から回転運動に変換する”平行運動機構”、エンジンのインジケーター(指圧計)を発明し、エンジンの出力単位の「馬力」を定義し、遠心ガバナーによる最初の自動制御を考案した。そしてこれらは、炭鉱、銅山、紡績工場で使用されるに至った。
しかしながら、ワットの機関は大気圧をいくらも出ぬ圧力で動き、根本的にはまだ大気圧機関の域を脱してなかった。高圧で動く近代的な機械への移行は19世紀終わりころの鉄鋼技術の改善に依存していた。蒸気機関の進むべき道は、エヴァンスの高圧ボイラーとワットの真空凝縮器を併用し、安全弁により爆発事故を防ぎながら、高圧に耐える鋼鉄の開発であった。(人類と機械の歴史 S.リリー)
石炭を使用した蒸気機関は、紡績工業、スクリューと蒸気機関と結合して、船舶、軍艦に、レールと蒸気機関と結合して、鉄道へと発展し、熱エネルギーを運動エネルギーに変換するエントロピー逆走エンジンの幕開けであった。(第28回)
16. 人間が創ったもの
16.3 火、鉄、蒸気機関、内燃機関、タービン、電気
ここでは、熱エネルギーから運動エネルギーへ更には電気エネルギーへと話を展開する。
しかし、核エネルギー、核融合は対象外とする。それは制御することが出来てないからである。重水素を原爆の温度と圧力で、核融合は出来るが、それを制御することは出来ない。核エネルギーも廃炉、使用済みウランの制御が出来てないからである。
いよいよ、蒸気機関、ガソリンエンジン、タービン、電気などの、人や家畜の筋力以外のエントロピーに逆走するエンジンについて述べるつもりであったが、その前に、火、鉄について検討しなくては、その意味が明確にならない。
人類は、チンパンジーと分かれ、二本足歩行を獲得し、80万年前頃火の使用を手に入れ、その後言葉を獲得したと考えられる。
火は、食物を焼いて食べ、強い動物から家族を守り、暖を取り、焼畑を行い、食物を蒸し焼きして、人類は火を制御することを手に入れた。
人類は、鉄器を手に入れる前に、青銅器を手に入れた。紀元前3500年頃の初期メソポタミア文明で、木炭と銅と錫によって、青銅を手に入れた。青銅の融点は900°Cと鉄の1600°Cに比べて低く、形を制御でき武器や農具としての可能性はあったが、銅と錫は貴重な資源であったので、権力者の象徴的使用に留まった。
メソポタミアのヒッタイト人は、紀元前1200年頃、青銅の技術から、さらに融点の高い鉄の製鉄法を手に入れた。このためには、火力の高い針葉樹の大量の木炭、酸素(乾いた空気)を送るためのフイゴ(最初は谷の乾いた風)、1600°Cの高温に耐える耐火煉瓦の炉(岩を利用した)の3つによって、製鉄法を手に入れた。(更に鍛造によって、炭素を抜き、成形する必要がある)
この条件を満たし、製鉄法を発見したのは、ヒッタイト文明だけであり、この技術がここから地球上に伝播した。鉄は、高度の技術と大量の森林資源を必要とするが、鉄は地球上でありふれた資源であったため、武器としての刀はもちろんのこと、農具として麦の穂を刈るためのカマ、耕すためのクワや鋤き、木を切るためのノコやオノとして使用され、農地を拡大し、農業生産を飛躍的に増大させ、最初の産業革命を成し遂げた。
(第27回)
16.2 言語、文字、数式 (その3)
メソポタミア文明の紀元前3千百年頃、財の種類ごとに特定の形のトークンで計算さていたが、数字が発明され計算の対象物と数とがついに分離した。これら二つの概念は各々の特定の記号で表現されることになり、計算対象物は粘土板に線描絵文字で描かれた。財の単位数は、1,10,60,600そして3600を表す数字によって示された。
この10進法と60進法(暦や角度のため)によって、大きな数量を容易に表現された。これらが数を抽象的につまり計算される対象物から独立して表現された最初のシンボルである。これは今日の財務会計のために、数と単位が発明された。
紀元前2千~1千年に於いて、エジプトにとってもバビロニア人にとっても体積の問題は重要だった。なぜならピラミットや神殿、治水設備の建造に実際に適用された。
建設に必要な物資の量を決定することは、必要な労働者の数や彼らが食べるパンがどれだけ必要かを計算する必要があった。これは、暦、農地の測量、灌漑事業、神殿建設のため、面積計算、体積計算、方程式、幾何学が行われた。
5世紀頃インドに於いてアラビア式10進記数体系が確立し、現代の数学の様式となった。
15世紀末にコペルニクスが「天球の回転について」に於いて、太陽を中心におき、これを静止の基準としたが、主要な構造、つまり恒星や惑星を制御する天球は残っていた。コペルニクスは、太陽の回りを地球が回っているとしながら、それを説明することはできなかった。すなわち重い地球が宇宙空間に浮かぶことを説明できなかった。
コペルニクスが亡くなって1世紀、ブルーノは宇宙は無限で中心がなく、その中の恒星はすべて太陽であるという説を唱え、ケプラーは球が要求する円運動を捨て、惑星の軌道は楕円であると述べた。ガリレオは自分の望遠鏡をつかって、銀河がブルーノの考えたとおりであることを見出し、木星の衛星を発見した。
ガリレオは、地上の運動(力学)と天空の運動を同じ法則によって説明しようとした。彼は、地球の自転という観念に対する障害を、地球が回転するなら地表のあらゆるものは、空気をも含めて回転するから、人々はまるで静止しているような印象を受けると考えた。
17世紀にニュートンは、太陽と地球、地球と月の関係を詳細に観察し、太陽のまわりを地球が回り、地球のまわりを月が回るのを説明するために、引力は互いの質量に比例し、互いの距離の二乗に反比例する、という考えを受け入れ、近代的な慣性の原理を受け入れ、それを惑星の運動に適用した。
彼は、月は投石器の中の石のようなもので、接線方向へ飛び去ろうとはするが、引力によって引き止められているのだと想像した。そして計算により、月をその軌道にひきとめておくに必要な「引力」は重力に等しいこと、じっさいにリンゴを地面にひっぱっている力に等しいことを明らかにした。(近代科学の歩み H.バターフィールド)
ニュートンは「プリンキピア」(自然哲学の数学的原理)として、1687年に出版した。ニュートンは、重力、速度、加速度、距離、時間の関係を説明するため、微分積分を見出した。微分積分が最も威力を発揮するのは、惑星の運動であり、これによって人類は宇宙空間に進出する基礎を確立し、エントロピーに逆走する計算方法を確立した。(第26回)
16.2 言語、文字、数式(その2)
ことばが伝達の文化であるのに対して、文字は伝達のための文明であり、文明世界の工夫である。現在使用されている文字は、大きくアルファベット系と漢字系の2つに分類される。アラビア文字もインド文字もアルファベット系であり、ハングル文字、かな文字は当然漢字系である。(漢字 鈴木修次)
文字の起源は、メソポタミア文明紀元前8~3千年に於いて、大河の定期的な氾濫による灌漑農業と大麦の改良により、穀物(大麦)の余剰を産み都市人口を支えることが可能になった。この穀物の数量計算を行うために、トークンが使用され同時に60進法により、都市の税と貢納物の管理が行われた。
トークンとは、焼成された陶製品で、幾何学上すべての基本形を持ち、その形状ごとに、穀物の種類とある単位を表す。トークンが会計に関連する最初の証拠である。しかし、単に農耕の当然の帰結というよりは、むしろ農耕に由来する社会構造の産物である。モートン・フリードの造語「序列社会」(ランク・ソサエティ)では、再配分がその経済の主要課題であって、首長が、中心的な徴収者かつ再配分者として行動していたと考えられる。
これは、次の3組のデータから読み取れる。1)テル・ムレイベトで発見された最初の計算具の出土状況、2)墓地に副葬されていたトークンそして3)前4千年期末および前3千年紀の文献資料と美術資料からである。
穀物の計量単位は、順次大きくなっていく数量を表す独特の記号系列から構成されていたので、1,6,60,600といった、抽象的計算の単位へと容易に転換出来たであろう。絵文字と表音文字の発明が、数字の発明と同時に発生したことは偶然ではない。両者ともに抽象的計算の帰結なのである。
計算対象の質概念と数量概念(数:how many)とが分離したことによって─トークンではこの両者は不可分に結合していた─文字が誕生したのである。絵文字は、ひとたびあらゆる数の概念から切り離されると、それ独自の進化を遂げることとなった。概念をそのイメージに即して表現する真の絵文字は、抽象計算の成果だったのである。
シンボルは、最後には表音機能を獲得し、物ではなく音価を表すようになる。表音文字を生み出す動機は、粘土板文章上に貢納者/受領者の名前を記録したいという行政上の新しい要請にあったと思われる。個人の名前は、表音的な語呂合わせで読まれたシンボルによって文字化された。(文字はこうして生まれた デニス・シュマント=ベッセラ)
トークンからBC3100年頃、数字とシュメール・アッカド楔形文字が発明された。アルファベットはBC3000年頃、エジプト・ヒエログリフに継承され、BC1500頃原シナイ/カナン文字に、BC1000年頃初期フェニキア文字に、BC700年頃ギリシャ文字に、BC300年頃ローマ(ラテン)文字に継承され、現代ヨーロッパ文字となった。このように文字が文明に引き継がれ、文明がエントロピーに逆走し、ヨーロッパ文明へと発展した。(第25回)
16.2 言語、文字、数式 (その1)
言語は、家族での子育て、集団での大型動物の狩り、火の使用、石器の使用によって人類は言語の習得に至ったと考えられる。
最近の遺伝子系統論の知見では、「ホモ・サピエンス」がアフリカで出現した15~20万年前とされ、そのとき人類は現在のような形の言語を獲得していたかどうかは定かでない。現生人類はその後10万年近く、アフリカの東部地域で成長期を過ごした後、5~6万年前に、アフリカを出てユーラアに進出した。
現生人類の本格的な「出アフリカ」とその後の地球規模の拡散という壮大なドラマの幕開けである。そしてこの時すでに、人類はほぼ確実に言語を獲得していたはずで、それはまた現在話されている全世界の言語と何らかの形で継っている。
とすれば、人類言語の歴史は少なくとも5万年という射程を持つことになり、この視点から眺めれば、5~6千年という年代幅の語族の歴史は、人類言語史のごく最近の出来事にすぎない。
伝統的比較言語学の手法でも遡れる年代幅は、5~6千年である。言語年代学に於いてある2つの言語で、共有された基本語彙も時間と共に消失し、千年で14~19%で5~6千年以上は、その手法は意味をなさなくなる。
先ず主要6大語族を見てみるニジェル・コンゴ語族(1495)、オーストロネシア語族、(1246)、トランス・ニューギニア語族(561)、インド・ヨーロッパ語族(430)、シナ・チベット語族(399)、アフロ・アジア語族(353)であり、その他3分の1は、十分に分類しきれない。
そのために人称代名詞(一人称、二人称、包括人称)とY染色体とミトコンドリアDNAによって以下のように、5万年の人類の移動と言語を分類する。
大きくアフリカ系と出アフリカ系に分かれる。アフリカ系はコイサン諸言語、ナイル・サハラ諸言語でアフリカでも少数派であり、85%を占めるアフロ・アジアとニジェル・コンゴという2つの大規模語族が一部を除き出アフリカ系に属する。今ではその言語を完全に失ったと見られるピグミー集団を含めてアフリカ系は遺伝的多様性をそなえている。
出アフリカ系は
A型 トランス・アフリカ型 (アフリカ)
南アンダマン型 (東南アジア)
サフル(パプアA)型 (オセアニア)
アメリカ東部内陸型 (南北アメリカ)
B型 シナ・チベット型 (東アジア)
ナデネ・エスキモー型 (北アメリカ)
C型 古南アジア型 (南アジア)
大アンダマン型 (東南アジア)
スンダ(パプアB)型 (メラネシア)
D型 太平洋沿岸型 (東アジア、南北アメリカ)
E型 ユーロ・アルタイ型 (内陸ユーラシア)
F型 カフカス型 (内陸ユーラシア)
(世界言語の人称代名詞とその系譜 松本克己)
言語は、常に変化し、さらに科学技術及び経済活動の拡大によって、専門分野ごとに数十万語の単語が存在し、交通、通信分野の発達によって、母国語と経済活動用の言語の習得を必要とし、母国語でもその深さと広がりを知るには、かなりの努力を必要とする。
言語は、自分の世界を表現し、他者の世界を知り、自分の考えを整理し、他者とのコミュニケーションを行い、言語は人類をある意味で賢くするので、様々な物語、他者とのコミュニケーションによって、エントロピーに逆走する。(第24回)
16. 人間が創ったもの(文明、文化、科学、技術)
16.1 栽培作物(小麦、稲、トウモロコシ)
「文化」というと芸術、美術、文学や学術を思い浮かべるが、英語で「カルチャー」ドイツ語で「クルツール」の訳語であり「耕す」すなわち地を耕して作物を育てること、これが文化の原義である。
人類はかって猿であった時代から毎日食べ続けてきて、経過した時間は数千年でなく、万年単位の長さである。その膨大な年月の間、人間の活動、労働の主力は、常に毎日の食べるものの獲得におかれてきたことは疑う余地のない事実である。
人類は、戦争のためよりも、宗教儀礼のためよりも、芸術や学術のためよりも食べる物を生み出す農業のために、一番多くの汗を流してきた。小麦やイネは私たちの祖先が何千年もかかって、選択し改良してきた生きた文化遺産である。
栽培作物でも特にイネ科のイネ、小麦、トウモロコシとマメ科の大豆は、重要な1年生植物(多年生植物に対して)である。1年生植物は、栽培することで大きな収穫を得ることができる。
脱落性の野生小麦を非脱落性に、そして野生種は熟度が不揃いであり、細くてスマートな穂を、太くて厚ぼったい穂に改良し、牛に犂を引かせ漏斗の中に入れた種が自動的に落ちる仕組の図柄が彫られている。さらに畑地灌漑法によって、その収量を飛躍させた。
そのパン小麦をイースト菌で発酵してパンを焼いた。これらの小麦(大麦)がインダス文明、エジプト文明、地中海文明を支えてきた。
イネは、インド、中国、東南アジアに於いて水田、陸稲の2方向で、より北へ、より高地へと広がり、さらに大豆と組み合わさり、麹によって味噌、醤油を発生させた。揚子江文明、日本文化はイネに支えられている。
米と小麦が入り乱れて主食とされる地域を見ると中国でもインドでも、民衆は常に米を食する方を望んでおり、米からコムギに転換した民族はないが、コムギ食民族はどんどん米食を取り入れている。(栽培植物と農耕の起源 中尾佐助)
しかしながら今日、穀物食から肉を多く食べるようになっている。このアメリカに於ける肉食の大衆化を支えているのは、家畜の改良とトウモロコシの一代雑種による高収量化である。人類はより豊かな、より栄養価の高い食生活を求めて、コムギ、コメ、トウモロコシ、大豆、牛、ニワトリの増産に向かっている。
栽培作物や家畜は、人類の叡智の集積として、食料の高生産性によってエントロピーに逆走している。一代雑種によるところが大きいが、これを実現するために、雄性不稔の形質(ミトコンドリア遺伝子の異常)を遺伝子組み換えによって完成させているが、自然界に本来存在してないものなので、ミツバチの異変や、人の精子の減少に影響してなければ良いのだが。(タネが危ない 野口勲)(第23回)
15.2 鳥によって創られたもの
小鳥の巣は、レベルの高い構築物であり、卵を温め、ヒナを育てるために、限れれた材料によって、雨や風を防ぐ立地、外敵から卵やヒナを守りながら、卵を温めるための断熱性を保ち、病原菌などから守るために乾燥状態をたもって、そして強度と心地良さをそなえていなければならない。
この巣はツガイの親鳥によって約2ヶ月に渡って使用される。鳥が巣を作るタイミングは、春から初夏にかけてであり、秋の渡りの時期には、独り立ち出来ていなければならない。
孵化から巣立ちまでの1ヶ月は、すざましいヒナの食欲と成長のために、猛烈にエサを確保しなければならない。ヒナを育てることは、親鳥の体力と知能とツガイの強い連繋を要求する。産卵や出産後に子育てを行うのは、基本的には鳥類と哺乳類だけである。
鳥類は、精巧な巣造り、求愛のダンスやさえずり、高度な狩り、群れでの渡りなど、脳の大きさに比して高等な知能を持っている。鳥類は哺乳類と同等な知能と長寿を持っている。それは、鳥類が縄張りを確保し、巣を造り、卵を温め、ヒナの成長にあわせてエサを与え、ヒナの糞を排出し、巣立ちへのトレーニングを行い、時には外敵に対して擬態まで行なって、ヒナを守ることによって、その知能は発達したと考えられる。
では、この知力、体力(エントロピーに逆走して、ある目的のために、幾つかの行為を集積する力)は、何によって生まれるのだろうか。鳥類は空を飛ぶために、強力な筋力と強制空気交換される肺、高い代謝率、雌雄の分化、ツガイによる子育て、長距離の渡りによって、筋力と知能を鍛えた。
鳥類の肺は前後に2つの気嚢を持つ。それぞれに肺に繋がる管と、排気(気管)に繋がる管と弁を持つている。気管から入った空気の半分は、直接後部の気嚢に入り、残りの半分は、肺を通って、前部気嚢に入り、次に排気される。後部気嚢に入った空気は、肺を経由して排気される。
空を飛ぶことは、高度な運動能力とバランス感覚と徹底した効率の消化気管、循環器と栄養価の高い昆虫、小魚、果実を食べる必要がある。森に多くの鳥がいて、賑やかな鳥のさえずりが聞こえることは、豊かな森の象徴であり、エントロピー逆走の頂きでもある。(第22回)
15. 生物によって作られた芸術
15.1 昆虫によって創られたもの
ハチの巣、クモの網、カイコのマユ等は、昆虫が幼虫を育てたり、蜜を貯めるため、エサを捕獲するため、脱皮するために、これらは構築される。これらの構築物は、ある機能を持って、明らかにエントロピーに逆走しながら創られる。
これらは、本能であるとか、生物進化の産物であるとか、遺伝子のなせる技であるとか言われるが、何十億個の体細胞がなぜその時点で、その生命体をある方向に一歩進める時、その1個の細胞が自分はこの部分を分担しているので、こう行動すべきと判断して、何十億個の細胞が連繋して、その生命体のためにある行動をすることは、素直に不思議なことであるのではないだろうか。
例えば、スズメバチの巣は、常に スクラップ アンド ビルド(あたかも代謝のように) によって、スズメバチの巣は状況に応じて容積を大きくしてゆく。巣を大きくするには、内部より、外壁をかじり取り、幼虫を育てるための六角形の幼虫を育てるための房を増やし、外壁が薄くなったところは補強される。従って、外からの観察者は、スズメバチの巣は、あたかも自然に大きくなったように見える。
このために働きバチがふえるに従って、巣が大きくなることが可能であり、雨や風、外気の暑さ、寒さ、力学的強度にも耐えるように、場所を設定し補強が常に行われている。
単にエネルギー源となる、食物が供給されたとしても、それが人間が考えても、そう簡単には出来ない完成度、すなわちエントロピーへの逆走のレベルの高さは、どのように考えることが可能なのか。
このエントロピー逆走エンジンは、嬢王蜂は卵を生むために、働きバチは幼虫を育てるために働き、オス蜂は受精のために生きる。ドーキンスの言うように、遺伝子を未来に運ぶために、生命はエントロピーに逆走しいるでは、少し飛躍していると感じるのは、私だけだろうか。(第21回)
14.3 ブナ林と昆虫と小鳥とタカ
ブナの葉には、多くの昆虫(幼虫)が葉を食べている。この昆虫を小鳥が食べる。この小鳥をタカが食べるが、タカは、小鳥が雛を育てる時の天敵であるヘビを食べるので、ブナの森は昆虫と小鳥とヘビとタカのバランスによって守られている。
小鳥やタカの糞は、ブナの森の貴重なリン肥料でもある。この頂点捕食者としてのタカの雛が元気に育つには、非常に多くの小鳥やヘビや魚や野ねずみや野うさぎを必要とするため、豊かな森がなければ、タカは雛を育てることは出来ない。
豊かなブナの森には、昆虫がその葉を食べ、ブナの実を小動物が食べ、昆虫(ガの幼虫である毛虫)を小鳥が食べ、その小鳥や野ねずみやヘビをタカが食べる。このキーストーンであるタカやワシがいない森は、その豊かさを維持することが困難となる。
「その地域の種の多様性は、環境の主な要素がひとつの種に独占されるのをキーストンとなる捕食者がうまく防いでいるかどうかで決まる」これはペインの仮説であり、キーストーンとは石造りのアーチを築く際に、最後に頂点に打ち込む楔形の石のことである。
すなわち、森林が水と炭酸ガスと太陽エネルギーから糖類を作り、若葉を茂らせ、若葉を昆虫が食べ、さらに昆虫を小鳥が食べ、ブナの実を野ねずみが食べ、野ねずみをヘビが食べ、それらをタカが食べ、雛を育てる。それらの糞や死骸は、バクテリアによって分解され、菌根菌が窒素やリンをブナの根が吸い上げられるかたちにして、ブナの森を育む。
これらは、エントロピー逆走物語の頂点であり、進化創造された生命体である。オオカミやトラやタカは、食物連鎖によってエントロピーを逆走し続けた生命体であり、彼らの食物は、栄養価が高いため、食物の消化のための胃腸が短くてすみ、食べるための時間が少ない分、群れでの狩り、テリトリーの管理、子育てを行えるため、賢く、俊敏な美しいまでの生命体となる。(第20回)