62. 空と森の王者 イヌワシとクマタカ (山崎享著 2008年10月)
『 これほど存在感のある大きな鳥が滋賀県に生息しているとは夢にも思わなかった。「風の精・イヌワシ」と「森の精・クマタカ」である。滋賀県で初めてイヌワシやクマタカの姿を見つけてから34年。
さまざまな季節で、さまざまな場所で、さまざまな情景の中で、さまざまな人たちとともに、イヌワシとクマタカを観察してきた。しかし、いまだにイヌワシやクマタカが空を翔る姿を見ると胸の高ぶりをおさえることができない。
それほどイヌワシやクマタカの飛翔する姿は勇壮で、美しく、人の心を捉える魅力を秘めている。イヌワシもクマタカも一年中、同じ場所に生息している。四季折々に表情を変える自然環境の中で、その時々の表現力をもって存在する姿が人々の心をひきつけてやまないのだと思う。
イヌワシやクマタカはともに、日本の山岳地帯に生息する大型の猛禽類であるが、その形態や生態は大きく異なる。しかし、いずれも日本の山岳地帯の生態系に見事なまでに適応し、日本の山岳風景のひとつになっていったのだ。
イヌワシは翼を広げると2m近くにもなる、大きくて力強い山鷲である。全身は黒っぽい茶褐色だが、頭の後ろの羽が年齢を重ねるごとに黄金色になることから、英語ではゴールデンイーグルと呼ばれている。
イヌワシは北半球の山岳地帯に広く分布しており、世界の多くの人々がその美しさと強さに憧れを抱いてきた。そのため、王家の紋章やさまざまな装飾品のモデルともなっている。
イヌワシの魅力はその勇姿もさることながら、何と言ってもその飛翔能力にある。イヌワシは風の申し子のように風を巧みに操り、ほとんど羽ばたくことなく、広い行動圏を翔け回って生活している。
空中の一点にピタッと停飛していたかと思うと、突然、翼を折りたたんでくさび形になり、弾丸のようにまっさかさまに地上に向かって急降下する。さまざまな風を捉え、翼をさまざまな形に変えることによって、自由自在に空を謳歌しているのがイヌワシである。
クマタカは翼を広げた長さは150~160cmほどで、イヌワシに比べると少し小型であるが、翼の幅が広く、重厚感のある大型の猛禽類である。全身は茶褐色だが、翼の裏面は白っぽく、見事な横縞模様がある。
イヌワシが主に日本よりも北に広く分布している「北の猛禽類」であるのに対し、クマタカは東南アジアに生息する熱帯雨林が故郷の「南の猛禽類」である。クマタカは森林におおわれた日本各地の山岳地帯に広く生息し、大きくて強い鷹として知られてきた。
東北地方の山岳地帯で主として狩猟により生計を立てていたマタギはクマタカを、鷹狩りに用いていた。クマタカはイヌワシほど飛翔のダイナミックさは感じられないが、何とも言えない、とらえようのないファジーな魅力を持った猛禽類である。
クマタカは森の申し子のように、さまざまな森に見え隠れしながら、したたかに森に棲む生きものを糧として生活している。森の上空を舞っていたかと思うと、すぐさま森に溶け込んでしまう。幅広い翼を巧みに操って、木洩れ陽のちらつく森の空間を自由自在に移動していく。
また、時には、そこにクマタカがいるとは誰も気づかないほど、木の一部と化して何時間もじっと枝に止まってることもある。色彩が森や樹木に溶け込むだけでなく、存在そのものも森の一部になることができる、それがクマタカである。
「びわ湖の森」は、この空と森の王者である「イヌワシ」と「クマタカ」が棲むことができる、自然環境の多様性と豊かさを持ち合わせた森である。この大型の2種類の猛禽がいなかったら琵琶湖の源流部の風景は何とつまらないものになってしまうだろうか。いや、この2種類の大型の猛禽が生存することを可能にするすばらしい「びわ湖の森」があったからこそ、琵琶湖は存在したのかも知れない。 』
『 中学校では、友人たちと朝早く学校が始まるまでに、裏山を駆け回り、あるいは自転車でさまざまな所に行って、野鳥の名前を覚えていった。野鳥は姿だけでなく、鳴き声でも識別できる。鳴き声の持ち主の姿を覚えていくと、鳴き声だけでどこにどんな鳥がいるか、すばやくわかるようになる。こうして、周囲に棲んでいる野鳥はほとんどすべてわかるようになった。
高校に入ると、「滋賀県野鳥の会」に入会した。野鳥の会の「探鳥会」に県内のいろいろな所へ行った。中でも春の比叡山で無数の小鳥たちのさえずりを聞いた時の森のシンフォニーの響き、琵琶湖にじゅうたんが舞い降りたかのように無数に浮かぶカモの群れを見た時の情景は、今でも鮮明に脳裏に刻まれている。
観察を積み重ねるうちに、滋賀県内の野鳥はほとんどわかるようになり、このため、県外に行っても図鑑さえあれば、識別はそれほど難しいことではなくなった。ところが、図鑑の中で、どうしてもたどり着けない、あきらめのページがあった。
68ページの「イヌワシ」の挿絵がのっているページである。このページのイヌワシの説明にはこのように書いてあった。「本州の山岳地帯で繁殖し周年生息するが数は少ない。高空を帆翔し獲物を見付けると翼をすぼめて猛烈な勢いで降下して、これを捕える」
イヌワシは長野県の高山帯のごく限られたところに生息する孤高の鷲であり、まず見ることはできない、本当にそう思っていた。一生に一度見ることができればよい、イヌワシはそんな現実離れした、幻の存在だった。 』
『 1973年3月に放映された「日本の自然 イヌワシ」を見た時のことだった。真冬の日本海から横殴りの風雪が吹き付ける鳥取県と兵庫県の境界部にある氷ノ山(標高1510m)の北壁に巣づくりの小枝を運ぶイヌワシの姿が映し出された。
日本アルプスにしか生息してないと思っていたイヌワシが中国山地に生息し、しかも繁殖している! 繁殖生態はほとんどわかってないイヌワシが調査可能な山岳地帯にいる。
その事実をテレビの映像で知りえた時、全身が武者震いするのを感じた。本当に夢のようなことだった。自分の目で、幻の鳥の生態を観察する可能性があるということは。
この時、私は獣医学科のある大学に行くことを決め、いくつかの大学を受験していたが、この番組で迷いはなくなった。氷ノ山に最も近い鳥取大学に進学することを決めた。
大学に入るとすぐに氷ノ山のイヌワシを観察する計画を立てた。1973年5月、氷ノ山のある八頭郡若桜町に行き、氷ノ山スキー場の裏山の林道から稜線を観察した。天候は”大快晴”。
何の前触れもなく、青空をバックに黒い塊がスーッと赤倉岩から出現し、尾根上を流れ、須加ノ山に消えていった。今までに見たこともない、空気の抵抗を感じさせない、存在感のある飛翔。これがイヌワシとの初めての出会いだった。
NHKで紹介さてた氷ノ山のイヌワシを観察していたのは、神戸に住む故重田芳夫氏であった。早速、東中国山地のイヌワシのことを学ぶため、重田さんに手紙を書いた。ぜひともイヌワシを観察したいという思いを必死に伝えた。そして、人生で最も影響を受けた一人の重田さんと出会うことなった。
待ち合わせ場所は扇ノ山山頂の避難小屋。1973年6月のことだ。霧が流れ込むコンクリートブロックで造られた暗い山小屋の中で重田さんの話に聞き入った。重田さんの野鳥の分布、生態に関する博識、本には書いてない新鮮な情報の一つひとつに胸をときめかされた。
重田さんは当時57歳、私より38年の先輩の方であったが、野鳥、とりわけイヌワシの研究についての情熱はものすごいものがあった。神戸の海運会社の社長でありながら、兵庫県の山岳地帯の野鳥を調べ尽くしたと言っても過言でないくらい、野鳥の研究に人生のすべてを費やした人だった。
重田さんが中国山地で最初にイヌワシを目撃したのは1963年47歳の時であった。今まで見たこともない、圧倒するような勇壮に魅せられて調査を始めたものの、最初は「きっとアルプスから飛来したものに違いない」と本当にそう思っていたそうだ。
しかし、調査を続ける度に地図に記した飛行跡は増えていき、中国山地にイヌワシが生息していることを確信した。そして、ついに1969年、初めて中国山地でイヌワシの巣を発見し、すべてをイヌワシの生態研究にかけるようになってしまった。
私が重田さんと出会ったのは、まさに重田さんがイヌワシに取りつかれ、東中国山地におけるイヌワシの生息地や新たな生態的な知見を次々に発見している時であった。私のイヌワシにかける想いが重田さんに伝わったことは言うまでもない。年齢差を超えてイヌワシのことを語り合い、いつも時間が飛ぶように過ぎていった。
機会を見つけては、重田さんに同行し、イヌワシを観察するとともに、重田さんの知識や観察の方法を吸収した。しかし、何よりも刺激を受けたことは、自然界の謎を解明しようとするすさまじい情熱と並外れた実行力であった。
もう一人、鳥取市内でイヌワシに取り付かれた人がいた。高校の先生をしていた塩村功氏である。塩村先生は鳥取県内で長らく野鳥の観察を続けておられたが、氷ノ山にイヌワシがいるをことを知って、重田さんに連絡を取り、イヌワシの虜になった人である。
山間部のイヌワシを観察に行くため、定年後に自動車の運転免許を取るほどの熱の入れようだった。私も時々、塩村先生の小さな自動車に乗せてもらい、繁殖しているイヌワシの巣を観察に行った。
1ヵ所、毎年繁殖するイヌワシのペアがあり、繁殖行動をつぶさに観察することができた。シャクナゲの咲く岸壁の巣で生育する雛はとても美しく、魅力的だった。
しかし、とくに印象的だったのは、初めて見る巣立ち後の幼鳥だった。幼鳥は親ワシよりずっと黒っぽい色をしているが、両翼の真ん中と尾羽の付け根に純白の大きな班(はん)がある。
イヌワシの巣立つのは6月上旬。濃い緑の斜面を黒地に三つの白斑を持つ流体がすべるように流れていくさまは、たとえようのない美しさであった。ある日、徐々に飛行技術を獲得してきた幼鳥は実に興味深い行動をとった。
枯れ枝を足でつかみ、真っ青な空を背景にどんどん上昇していった。すると、突然、持っていた枯れ枝を落としたのだ。その途端、幼鳥は瞬時に身を翻し、まっさかさまに地上に向けて急降下した。
そして、その枯れ枝が地上に落下する直前に、突き出した両足でしっかりと捕らえた。これを何回も何回も繰り返すのだ。獲物を捕捉するハンティング技術を磨こうとしているというより、枯れ枝を使って遊んでいるようにしか見えなかった。幼鳥とは言え、イヌワシの卓越した飛翔能力のなせる技に言いようのない感動を覚えた。 』
『 滋賀県にイヌワシが生息していることは誰も知らなかった。当然、私も滋賀県に「幻の鳥」イヌワシが生息しているとは夢にも思っていなかった。中国山地で重田さんとイヌワシを観察しているうちに、私は重田さんにこのように尋ねた。
「中国地方にイヌワシが生息しているのなら、滋賀県でもイヌワシが生息している可能性はありますよね?」。重田さんは私の問いかけにこう答えた。「地形から、滋賀県では鈴鹿山脈にイヌワシが生息している可能性がある」
この重田さんの言葉に、本気で滋賀県にもイヌワシが生息しているに違いないと思い始めた。東中国山地で何カ所もイヌワシの生息地を見て回っているうちに、イヌワシの生息環境がどういうものかがわかりつつあった。
それを地形図を眺めているだけで、イメージが湧くようなものになっていった。やはり、滋賀県にもイヌワシが生息しているに違いない。いつしか、そんな確信を抱くようになった。
1976年3月、大学3年の春休みに帰省し、国土地理院の5万分の1の地図で鈴鹿山脈を眺めた。ここならイヌワシは必ずいるはずと思う谷が。永源寺町から多賀町にかけてのところにあった。3月24日、父親の軽自動車を借りて、友人の片岡君とともに永源寺町の谷奥に向かった。
最終集落の君ヶ畑を過ぎ、残雪の残る林道を行けるところまで車で進めた。そこから山歩き。積雪は80~100cm。深い所は腰まで埋まるほどの雪が残っていた。しかし、最も可能性のあると思われる谷や尾根が見渡せる標高1000m付近まで行かねばならない。
大汗をかきながら、やっとの思いで見晴らしのきくピークに到着。天気は晴れ。対岸の尾根線はくっきりと見え、視界も良好だった。観測地点到着9:20.9:50にトビ2羽とクマタカ1羽が出現。イヌワシは現れない。
やはりいないのか?そう思い始めていた13:00、谷下の尾根部に出現した1羽の黒い存在感のある鳥が東方向のピークに向かって冷気を切り裂くように、一直線にすごいスピードで流れてきた。飛行形は戦闘機のようだ。
向かって行ったピークで2~3回旋回した後、ピーク上の大きなアカマツの頂上に止まった。ただちに望遠鏡で確認。まぎれもなくイヌワシだ!あまりにも劇的な滋賀県のイヌワシとの出会いに、胸が一杯になった。
滋賀県にイヌワシが生息していることが証明できた以上、次はどうしても繁殖していることを確かめたい。そして、繁殖生態を研究したい、そんな熱い思いがどんどんと高まっていった。
3月28日、次は地形的に営巣している可能性の最も高い谷を絞り込み、父と二人で早朝からその急峻な谷に入って行った。8:09、早速一羽のイヌワシが谷の西斜面上に出現。谷を横切って東方向の上空に消失。
イヌワシの出現した西斜面を見渡せる東斜面へ登ることにした。あまりにも急峻な上に、岩がもろく、見晴らしの利く尾根にたどりつくのは命がけだった。そこにはカモシカの糞が多数あり、カモシカにとっては安心して休める場所だった。
そこで観察を始めてすぐ、9:13にイヌワシ一羽が南方向から戻って来て対岸の岩崖のある斜面を低く、山肌に沿って飛んだ。2~3回旋回した後、岩棚に入り、すぐに出て、また同じように岩崖斜面を低く飛び、再び岩棚に入った。
すると、また岩棚から出て辺りを旋回した後、今度はぐんぐんと高度を上げ、東方向に消失。このイヌワシは初列風切羽(羽の先端)に欠損があり、背面にはかなり白っぽい羽毛が多かった。
9:27、はやる気持ちを押さえながら、そのイヌワシが出入りした岩棚を望遠鏡で注意深く観察してみる。私と岩棚との距離は約1Km。遠いが、巣材が見える。そして巣の中にイヌワシの頭が見えた!
巣は北向きでイヌワシの頭は東を向いている。巣の端に羽毛が2枚ほど引っかかっている。夢ではない、本当に滋賀県でイヌワシが繁殖している。
10:21、巣に伏せていたイヌワシが立ち上がり、腹の下に頭を入れ、ごそごそしている。卵を満遍なく温めるための転卵という行動のようだ。
その後、3月31日から4月2日まで観察を続けたが、同じような行動が続き、雛を確認することはできなかった。しかし、4月2日の夜には鳥取大学に戻らなければならず、調査を中断せざるを得なかった。
5月3日、連休を利用して帰省。すぐさま観察に行ったが、巣には期待した雛の姿は見えなかった。また、親ワシも巣には入らなかった。残念ながら、この巣では卵は孵化せず、繁殖に失敗したものと思われた。
滋賀県で初めてイヌワシの生息と繁殖の確認をした状況はすぐさま重田さんに手紙で報告した。私の報告に対する重田さんからの手紙は以下の内容であり、その手紙は今も大切にしている。
「 イヌワシの調査は非常に困難である。そのため外国の有名な人々も繁殖期に重点を置き、非繁殖期の研究は不足している。
若しイヌワシを本当に保護して残してやるなら、イヌワシを知りつくさなければならない。それも国内という特定条件の環境下で生息繁殖 している個体だけでどうこう言っては誤りである。
環境の全く異なった地帯で生き続けているイヌワシの共通した生息繁殖しうる絶対条件で物をいわねばだめだ。しかし、国内の各地でのワシの共通点に気が付けば外国までゆかなくても(行けばもっとよいが)その生息地区(外国北緯60度前後)での様子はほぼ正確に認定できる。 草々
昭和51年4月 重田芳夫 山崎享様 」
この手紙がわたしの人生を決定づけたといっても過言ではない。滋賀県のイヌワシを観察するだけではなく、日本中のイヌワシの生息地を訪ね、本来、草原や低灌木の広がる環境に生息しているイヌワシがどうして日本に生息しているのかという謎を突き止めたい、そう思った。 』
『 最初に抱卵を確認したペアでは、翌年も雛の孵化は確認できなかった。イヌワシはよほどのことがない限り、ペアを維持するので、何年も繁殖に成功しないことが起こりうる。
何とか雛が生育している巣を確認するため、1978年には新たなペアを探すことにした。鈴鹿山脈に1ペアが生息して繁殖していることが明らかになった以上、隣接するペアが生息しているに違いない。再び地図を精査し、いくつかの候補地を絞っていった。
その中でイヌワシの繁殖場所として最も確率が高いと判定した谷、その谷が滋賀県で初めてイヌワシの育雛を確認することになる谷であった。必ずこの谷内にイヌワシの巣があることを信じ、中学校の時からいっしょに野鳥観察を行ってきた山崎匠君とともに、谷に入って行った。
谷の中は予想以上に急峻で、岩が自然にガラガラと落ちてくる、きわめて危険な場所だった。急峻な斜面に引っかき傷をつけたかのような細い道。足を踏み外せば、まず命はない。現にこの谷で何名もの人が遭難しているということを地元の人から聞いていた。
谷の奥に進んでいくと、斜面に刻んだ山道は谷底を通るようになった。そこは井戸の底のような場所で、空は一部しか見えない。垂直の近い急峻な崖が左岸にそそり立っているのがわかった。
巣があるとすればこの崖の上に違いない。しかし、その巣を見るには対岸の右岸に上がる以外に方法はない。はやる気持ちを押さえて、崩れ落ちる石に足を取られながら、両手を使って草木をつかみ、一歩ずつ上へはい上がって行った。
肩で息を切りながら、恐る恐る、対岸を振り返って見た。そこには人を寄せつけないような険しい崖がそそり立っていた。崖の中ほどに三角形をした穴があいている。息を殺して祈るような気持ちで双眼鏡をのぞいた。
岩穴に敷き詰められた巣材の上に白と黒のまだらをした鳥が一羽いる。数匹のハエがその周りを飛び交っている。間違いなくイヌワシの雛だ!1978年5月7日、滋賀県で初めてイヌワシの雛を確認した瞬間だった。 』
『 しかし、どうしてイヌワシのような大きくて、人目をひく鳥の存在が知られていなかったのだろう。イヌワシの巣があった谷に近い集落で、古老の人たちに話を聞いてみた。
すると、やはり、イヌワシがこの谷に棲んでいることを知っている老人がいた。しかし、それは「イヌワシ」ではなく、とても印象深い別の名前、「三つ星鷹」と呼ばれていた。
この老人は、「三つ星鷹」は「黒い鷹 」とは違って、初夏になると、この谷にやってくる鷹だと言っていた。イヌワシの幼鳥は全体が黒っぽい色をしているが、両翼の中央部と尾羽の付け根の三ヵ所に純白の良く目立つ斑紋がある。
しかも滋賀県ではイヌワシの幼鳥は6月初めに巣立ち、いわゆる初夏の頃には巣のある谷の周辺をよく飛行する。村の人たちは、一年を通して見かけるイヌワシの成鳥を「黒い鷹」と呼び、イヌワシの幼鳥は、夏にやってくる別種の「三つ星鷹」だと思っていたのだ。 』
『 日本人に最もなじみの深い昼行性の猛禽類はオオタカとトビに違いない。オオタカはよく時代劇に登場する、将軍や皇室が「鷹狩り」に用いた鷹である。この仲間にはハイタカとツミがいる。
海岸部に生息する代表的な昼行性の猛禽類はミサゴとハヤブサである。ミサゴは魚食の猛禽であり、海や河川の上を停飛しながら、魚をさがし、魚を見つけると真っ逆さまにダイビングして魚を捕捉する。
滑りやすい魚をしっかりとつかむため、ミサゴの足指は前2本、後ろ2本となっていて(普通は前3本、後ろ1本)2本の足を同時に使い、タオルを絞るように魚をバランスよく握り締めることができるようになっている。
ミサゴは浮いてきた魚の背が見えるやいなやダイビングして捕捉するため、目論見よりも大きな魚を捕えてしまうこともあるらしい。魚には爪が食い込むため、ミサゴが持ち上げられないような魚を捕捉してもそれを放すことができず、水中に引きずり込まれて死亡することもあるらしい。網にかかった大きな魚の背中に、「鷹」の爪や足の骨がついているのを見たことがあるという漁師さんの話をあちこちで聞いたことがある。
ハヤブサは海岸部に広く分布し、繁殖しているが、ミサゴのように魚を捕食しているのではない。ハヤブサはそのすばらしい飛翔能力を武器に、主に小型~中型の鳥類を捕獲している。ハヤブサが海岸部に多く生息している理由は、海岸部には渡り鳥や海鳥が多く飛来し、容易に獲物を捕食できることと、巣をつくるのに適した岩壁が多いことである。
海や河川に面したヨシ原にの猛禽類は、チョウヒの仲間である。ヨシ原帯のすぐ上をすれすれにふわふわと飛行しながら、ヨシ原に生息するネズミの仲間や小型の鳥などを探索し、捕食している。日本で繁殖するチョウヒもいるが、多くは冬に飛来する。
その他、留鳥として日本で繁殖する猛禽類で比較的よく見ることができるのは、チョウゲンボウ、ノスリ、である。チョウゲンボウは小型のハヤブサの仲間で、主に地上の昆虫やネズミなどを、ノスリは主に林縁部などでネズミの仲間を捕食しているが、ともに冬になると、農耕地や河川敷などに移動してくるため、人家周辺でも見かけることが多くなる。
渡り鳥の猛禽類として、最も有名なのはハチクマとサシバである。両種とも東南アジアで冬を越し、夏に日本にやって来て繁殖する。ハチクマはその名前のとおり、主にハチの幼虫や蛹を捕食する変わった猛禽類である。
サシバは主に水辺に多い両生類・爬虫類・昆虫などを捕食する。ハチクマの獲物も、サシバの獲物も、日本では、冬に姿を消してしまうため、日本で冬を越すことはできないのである。
日本で繁殖したハチクマは9月下旬頃に次々と本州を南下し、10月初旬に長崎県の福江島付近から、中国大陸に渡った後、インドシナ半島を経由して、インドネシアのジャワ島にまで渡っていく。
ジャワ島で越冬したハチクマは2月頃になると、今度は同じルートを北上し始め、5月中旬頃に日本に戻ってくる。距離にして1万km、60~90日間にもおよぶ壮大な自力の旅である。この東南アジアをまたにかけた壮大な旅を年に2回行っているというのは本当に驚きである。(人口衛星を用いた2003年~2005年の追跡調査で判明)
サシバは、10月初旬に九州最南端の佐多岬から、南西諸島を経由して沖縄本島、石垣島、台湾、フィリピンと渡り、翌年4月下旬頃には再び日本に戻ってくる。
渡りを行う猛禽類にとっては、生活の舞台は、日本だけではない。ハチクマにとっては、越冬地のインドネシア、渡り途中の多くの東南アジアの国々、そして繁殖地の日本のすべての国が一年の生活を支える場所であり、サシバにとっては、越冬地や渡りの中継地であるフィリピンや台湾、琉球列島の森林、国内の主な繁殖地である里山のすべてが生存の基盤であり、そのどれ一つが欠けても生存していけないのだ。 』
『 イヌワシはヨーロッパからロシア、ネパール、モンゴル、北アメリカなど北半球の高緯度地域に広く分布する大型の猛禽類であり、その精悍で勇壮な姿と類いまれな飛翔能力は世界各地の人々を魅了し、神の鳥として崇められたり、力の象徴として紋章に用いられたりしてきた。
イヌワシには6亜種が知られており、日本に生息するのはその中で最も小型のニホンイヌワシである。ニホンイヌワシは朝鮮半島と日本にしか分布しない、きわめて個体数の少ない亜種とされている。
世界のイヌワシの繁殖地域は北緯70~20度であり、日本と朝鮮半島に分布するニッホンイヌワシは旧北亜区の大きな分布域から南方に分離した小さな個体群である。(チベット、ミヤンマー、ラオスの山岳地帯を含むため北緯20度にも分布)
日本の主な繁殖地は北緯34~42度の範囲にあり、ニホンイヌワシの分布域はイヌワシの分布域としてはかなり南方に位置している。イヌワシが高緯度地域に生息している理由は、イヌワシの生息にとって不可欠な環境要素の分布と関係している。
高緯度地域には、草地や低灌木地などの開けた自然環境が広がり、その中に営巣場所となる崖が散在する丘陵地や山地が多いからである。つまり、本来は、森林におおわれた山岳地帯にはイヌワシは生息してないということであり、日本のように森林におおわれた山岳地帯にイヌワシが生息するということはきわめて珍しいことなのである。
このことはイヌワシの形態に大きく関係している。イヌワシの翼は幅広いだけでなく、グライダーのように長い。この大きくて長い翼で上昇気流や斜面を吹き上げる風を巧みにとらえ、羽ばたくことなく広い行動圏を飛行することができる。ところがこのグライダーのような羽では森林の中に入っていくことはできない。
つまり、森林におおわれた山岳地帯では、たとえ獲物となる動物が多く生息していても、その獲物を捕食することができないため、イヌワシは生息してないのだ。 』
『 クマタカはクマタカ属という大型の森林性猛禽類の仲間である。多くは熱帯や亜熱帯の森林地帯に生息している。中南米にはアカエリクマタカ、クロクマタカの2種、アフリカにはアフリカクマタカの一種、そして東南アジアにはクマタカ、ジャワクマタカ、スラウェシクマタカ、フィリピンクマタカ、カオグロクマタカ、ウォーレスクマタカ、カワリクマタカの7種が生息している。
どうして東南アジアにはこれほど多くのクマタカ属の猛禽類が生息しているのだろうか?世界地図を見るとわかるとおり、東南アジアには多くの島がある。
ジャワクマタカはインドネシアのジャワ島だけに、スラウェシクマタカ はインドネシアのスラウェシ島だけに、そしてフィリピンクマタカはフィリピンだけに生息しており、日本に生息するクマタカは、これらのクマタカが生息してない地域に分布している。
ジャワクマタカ、スラウェシクマタカ、フィリピンクマタカはともに長い冠羽を持っているが、全体によく似た形態をしている。さらに、日本に生息するクマタカも全体の形態はよく似ている。
つまり、元は同じ種であったが、古い時代に島が分離したため、独立した種に進化していったのではないかと、私は思っている。東南アジアの島々は壮大なガラパゴスのようなものだ。
東南アジアには複数のクマタカ猛禽類が生息している地域がある。この中でカワリクマタカの分布域が最も広く、広い範囲でクマタカ、ジャワクマタカの生息域と重なっている。
クマタカ、ジャワクマタカは山地帯の森林に生息するさまざまな小型~中型の哺乳類、鳥類、爬虫類などを捕食しているのに対し、カワリクマタカは平地に近い山地帯や平地の沼の周辺にも生息し、主に爬虫類や両生類などを捕食している。
つまり、東南アジアの自然は異なる2種類のクマタカ属の猛禽類の生息を可能にするだけの多種多様な生物を豊富に生産する豊かな森林に恵まれているということである。
しかし、クマタカ属の猛禽類は東南アジアに広く分布している大型の猛禽類であるにもかかわらず、その生態はほとんどわかってない。なぜなら、クマタカ属の猛禽類は森林内に滞在していることか多く、目撃率がきわめて低いことや東南アジアでは近年まで猛禽類を調査する研究者がほとんどいなかったからである。
日本に生息するクマタカは、スリランカ、インド南部の一部、インドシナ半島からネパール、中国東南部、ロシア極東の一部にかけて広い範囲に分布するクマタカのうち、日本にのみ分布する最も大型の亜種であり、日本はクマタカの分布域のほぼ北限に位置している。
クマタカはイヌワシに匹敵するほど大型の猛禽類であるが、翼の幅が広く、小回りのきく飛行が可能であり、森林内にも入っていくことができることから、全国の山岳森林帯に広く分布している。 』
『 イヌワシは草地や低灌木地に崖が散在する丘陵地や山地に生息する北方系大型の猛禽類であり、クマタカは森林性で南方系大型の猛禽類である。日本はイヌワシにとっては南限で、クマタカにとっては北限である。
イヌワシやクマタカの保護は、生物の多様性と生産性に富む森林の再生なくしてはあり得ない。猛禽類の保護は彼らの生息を可能していた、持続的利用の可能な日本の豊な森林生態系の再生であり、日本人が山岳生態系の中で長期間に渡って育んできた森林文化の再評価に基ずく、新たな森林文化を創造する生産活動の仕組みづくりである。
「びわ湖の森」でクマタカの巣を探すために、急斜面を這い上がり、いくつもの細い沢を超え、どこに来ているかわからなくなるような山奥ですら、あちこちに炭焼き窯の跡を見かけた。
「びわ湖の森」は琵琶湖を育むマザーフォーレストであるとともに、イヌワシやクマタカが舞う世界的にも類まれな多様性に富む豊かな森であり、私たち人間にとっても生活の基盤であった。「びわ湖の森」の空と森の王者が健全であること、それは「琵琶湖」が健全であることの証でもある。 』(第61回)