チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「どこに行ってしまったの !? アジアのゾウたち」

2018-01-28 09:45:26 | 独学

 156. どこに行ってしまったの !? アジアのゾウたち  (新村洋子著 2017年9月)

 私がこの本を紹介しますのは、森(熱帯雨林)が地球をつくり、ゾウが森(熱帯雨林)をつくってきたからです。現在地球上には、三種類のゾウがいます。

 アジアゾウ、アフリカゾウ、マルミミゾウです。マルミミゾウは、アフリカのアフリカゾウの居住範囲の中心部にすむ、小型のゾウです。アフリカの森(熱帯雨林)の植物は、マルミミゾウによって散布されたものが、多数あるそうです。

 ゾウは草食動物なので、頂点捕食者ではありませんが、食べる植物の量とその排出されるフンの量、その賢さからいって、森(熱帯雨林)の頂点に位置する動物です。

 ゾウの食事によって、森(熱帯雨林)の代謝が維持されます。森(熱帯雨林)は、地球の肺とも言われています。

 地球は、今、森(熱帯雨林)からゾウが消え、地球から、熱帯雨林やサンゴ礁や、マングローブの森が消え、地球の生物環境が消える方へ、私たちは歩いています。

 この本での話は、二頭のアジアゾウのお話ですが、そこには私たちの未来を教えてくれているように感じられます。


 『 「あ、ここならよい写真が撮れそう」、と車を止めてもらいました。急いでシャターを切っていると、ファインダーの中に突然、ゾウが飛び込んできました。「あっ、ゾウだ」

 少女たちの背後にあった農園をゾウが横切ったのでした。あわてた私はドライバーのコンさんに「カメラバッグを取ってきて」と叫びましたが、間に合いません。

 手持ちの短いレンズで3枚撮っただけでゾウは視界から消えました。望遠レンズで撮れたらと悔しい思いをしました。

 私は近くにいた女性に「いま、ゾウがいましたよね。どこへ行ったのでしょうか」と聞いたら、「そうですか、山へ帰ったんじゃないですか」 「えっ、山ってどこですか?」

 突然、目の前に現れさっと姿を消したゾウの姿がまぶたにこびりついていました。女性は「近くにゾウ使いの親方の家があるから、そこへ行って聞いてごらんなさい」と言って家を教えてくれました。

 親方の家に行きましたが、家には誰もいませんでした。ドライバーのコンさんが車でゾウが消えたあたりをあちこち探し回ってくれましたが、とうとう人家が消え、森に続く草原に出ましたが見つけることができませんでした。 』


 『 最初からコンさんは知っていたかどうかわかりませんが、気がつくと車はヨックドン国立公園のゲート前にいました。事務所でゾウがいるかと聞くと職員の方が、ゾウを見たければ明日の朝早くいらっしゃい、と案内してくれました。っ

 早朝、ゾウに会えると期待してヨックドン国立公園のゲートをくぐりました。ヨックドン国立公園の門から管理事務所までの道は未舗装でごつごつしていました。

 雨水が溜まってできたと思われる水溜まりでは牛が一頭悠々と水浴びをしていました。私はこの素朴さが大変気に入りました。

 職員の出迎えを受け、ゾウ使いのイマさんを紹介されました。公園でのゾウ探しは、イマさんのバイクの後ろに乗ってするというのです。イマさんは30歳代後半くらいの少数民族の男性で、国立公園の職員とのことでした。

 ヨックドン国立公園の美しい熱帯の森を15キロは進んだでしょうか、突然、頭上に青空が見える場所に出ました。少数民族の村人が国立公園になる前から耕作している田んぼで、ちょうど稲刈りの終わったときでした。

 ゾウ使いのイマさんが「ここで待っていてください」と言い残して森の中に消えました。待つこと30分、イマさんがゾウの背に乗って現れました。2頭の子ゾウを連れていました。大人のゾウの名前はイクーンでした。

 このとき出会った2頭の子ゾウとは、その後長くつき合う縁で結ばれていますが、だいぶあとになってからこの子ゾウの名前が、トンガン(銀くん)、トンカム(金くん)ということを知りました。

 私が近づいて子ゾウに触ろうとすると、「それ以上近づかないで」と止められました。子ゾウは野生のままなのでなにをするか予想がつかず、危険だからというのです。

 その日はそれだけでしたが、子ゾウは私をジッと見つめていました。子ゾウの目には私の姿がやきついたようです。それからというもの、私を警戒する様子は見られませんでした。 』


  『 2頭の子ゾウが生まれたのはヨックドンの森ではありません。ヨックドンの森から400キロほど離れたピントゥアン省にあるタイリン山だと聞きました。「百聞は一見にしかず」です。

 私は子ゾウたちが生まれたその山の森へ行ってみたくなりました。私がその森へ行きたいと言うと、ゾウ使いのイマさんや国立公園の職員の方が「そこへ行ってももうゾウはいませんよ」と言います。

 「ゾウはいなくても行きたいです」 「もう森はないですよ」 「森はなくても行きたいです」という押し問答でした。

 とにかく、山の森で何が起こったか、2頭の子ゾウがヨックドン国立公園にきた理由を知るためには現地へ行くしかないと思ったのです。

 翌日、コンさんの運転で公園のガイドに同行してもらってタイリン山に向かいました。朝の8時にヨックドン国立公園を出発して7時間、約400キロの道のりを車を走らせて午後3時にタイリン山のふもとに着きました。

 タイリン山の周辺には人家はなく、見晴らしのよい丘陵地でした。一面がキャッサバとバナナで、よく手入れされた畑になっていました。

 ベトナム戦争で家や職場を失った人びとがこの山に移住して開拓した土地でした。畑ではキャッサバの収穫作業をしていました。

 森だった痕跡を探し回ると、直径40センチ以上はある切り株が至る所に残っていました。森を焼き払ったあとに残った灰が切り株の周りに残っていました。

 さらに森があったことを証明するものがありました。1メートルほどの川幅でしたが、いまさっき、森の中から流れ出たようにきれいに澄んだ小川でした。

 突然、目の前に巨大な岩が現れました。「あ、これぞゾウがすんでいた森の痕跡だ」と一瞬思いました。大岩をとりかこむように数本の大木が残っていました。この巨岩だけは取り除くことができなかったようでした。

 私の目の前に現れました。この巨岩をはさんで山に住む野生のゾウとゾウ使いが操るゾウが戦って、山のゾウが負けて公園に連行されるシーンでした。山のゾウと人間に飼いならされたゾウの物語がくり広げられました。

 でも、あとになってイマさんに聞いたら「そんなことはしていないよ。麻酔銃で眠らされたゾウたちをトラックまで運ぶ仕事をしただけだよ」と一言で否定されていまいました。

 山の森を見たことで、山の森のゾウが消えてしまった状況がおぼろげに見えてきました。 』


 『 私がヨックドン国立公園を訪れた前年の2001年のことです。タイリン山では野生のゾウたちが畑に現れ、畑を守ろうとした村人と衝突する事件がありました。

 それも8月と10月の2回にわたって起こったのです。その事件で、村人21人が死亡するという痛ましい事故になりました。ゾウの事情からすると森の木が切り倒され、畑にかわってすみ処を失ったことが原因のようでした。

 この事件を知ったダクラック省政府は野生ゾウを捕獲して、まだ野生ゾウが生息しているヨックドン国立公園に移住させる決定を下しました。

 この捕獲作業には、8人のマレーシアからの技術者、ベトナム人の作業員22人、ヨックドン国立公園の家ゾウ(使役ゾウ)3頭、ゾウ使い3人が動員されました。

 山で発見されたゾウ9頭、1頭は隣の山に逃げ、2頭が麻酔銃の事故が原因で死亡、6頭が捕獲されトラックで約400キロ離れたヨックドン国立公園に移送されました。

 この6頭のその後ですが、4頭はすぐヨックドンの森の奥深く姿を消しましたが、2頭の子ゾウは群れから離れ、村人の畑に迷い出てしまいました。

 私の想像ですが、麻酔銃が原因で死亡した2頭が子ゾウたちの母親だったのではないかと思っています。

 2頭の子ゾウは、森から出て村人の畑でトウモロコシを食べているところを村人に発見されました。村人から知らせを受けてイマさんが迎えに行き、2頭はヨックドン国立公園に戻りました。

 2頭の子ゾウをどうするかダクラック省政府の方針が決まらず、その間にゾウ使いさんたちがひそかにトンガンとトムカムと名づけてかわいがっていたのです。

 子ゾウは、2頭ともオスゾウです。いつ密漁者に牙を狙われて殺されてしまうかわかりません。

 しかし、密漁の恐れがあるからといって、野生ゾウを保護下におくにはクリアしなければならないさまざまな難問があります。そんな悲しい物語が進行しているときに、私はトンガンとトムカムに出会ったのでした。 』


 『 トンガンとトムカムの話を聞くと、無性に野生ゾウたちに会いたいという気持ちがつのりました。

 ハノイ動物園の園長チュック氏に相談したところ、私が熱帯雨林での過酷なキャンプに耐えられるかどうかチェックした上で、ヨックドン国立公園ユン園長から野生ゾウ探しの許可を得てくださいました。

 2004年3月、ヨックドンの森の中に入って、野生ゾウに会いに行くことになりました。国立公園の職員の方たちが装備を整えてくださいました。

 イムさんはまだ積み込むものがあるからと先に出発し、5キロほど離れた分岐点で合流することになりました。私は分岐点まで歩いていきましたが、イムさんとブンカムは現れませんでした。

 なにか突発的なことが起きたのだろうと思い、決められていた野営地までおよそ16キロを歩き通しました。道は小型自動車が通れる整備された道でしたが、途中森林管理の農民3人の自転車隊に会った以外は誰にも会いませんでした。 

 途中、中小の川は干上がり、林は完全に枯れていました。農民に分担管理させている林は、焼き払ったのか自然発火なのか、すっかり落葉はなくなっていて、灰の下からピンクや黄色のフヨウに似た花が咲いていました。

 森林地帯を抜けて疎林地帯に出ると直射日光が肌を刺し、汗と砂ぼこりで化粧が流れ、顔はひどいことになりました。やっとの思いで野営地にたどり着きました。

 行く手はセレポック川の支流、ダッケン川で遮られています。乾季でありながら葉をつけた高木の下は涼しく、生き返る思いでした。私が冷たい水を飲んでいる間にブンカムに乗ったイムさんが到着しました。 』


 『 イムさんは休むまもなくブンカムの背から荷物を下ろしはじめ、2人の男性が手伝いました。

 イムさんはブンカムを水場へ連れていき背中から足までくまなく洗い、自分も一緒に腰まで浸かって水浴びをしていましたが、面倒見のよさには感服しました。ブンカムは、もうすぐ35歳になるメスゾウです。

 村のどのゾウ使いにも馴れない暴れゾウで、飼い主が6人も代わり、10歳のときイムさんのところにやってきましたが、イムさんが調教に成功して以降は、ゾウ使いなら誰でも乗れるようになったということでした。

 イムさんのゾウの扱い方を観察していると、手鉤が他の人のものとは違っています。手鉤は人それぞれ形が少しずつ違いますが、共通しているのは手鉤の先が尖っていて、その鋭い先でゾウの急所を突き、言うことを聞かせるのです。

 でも、イムさんの手鉤の先にはピンポン球くらいの鉄の玉がついていました。ですから、手鉤の先が皮膚に突き刺さることはありません。イムさんは手鉤さえもたずにゾウに乗っていることもありました。

 その鉄の玉がついた手鉤は私の家にあります。イムさんから「また、作るからあげる」と記念にいただいたものです。

 平日のイムさんの献身的とも言えるブンカムに対する世話ぶりを見ていると、ゾウはゾウ使いの愛情に応えているのだと感じ入りました。

 私たちがおやつで一服していてもイムさんは加わりません。かいがいしくブンカムの寝場所作りをしていました。私たちが夕飯を食べはじめる頃、イムさんは両手に葉っぱをたくさん抱えて現れました。

 夕飯のメニューを知っていたのでしょう。その木の葉で塩コショウして焼いた豚肉を包むと見事な香りを発し、豚肉の臭み抜きハーブとなりました。

 熱帯の森が闇に覆われ、指先さえみえない漆黒の闇になりましたが、焚き火は燃え続け、不安はありませんでした。天窓から見上げた天空にはすばらしい星空がありました。

 朝、大変な騒々しさで目を覚ましました。さまざまな鳥の声が熱帯の森から聞こえてきました。姿は見えず、鳥についてのなんの知識もない私は、ただひたすら鳴き声を片仮名で書きとりました。

 30種類ほど書きつけて根がつきました。ヨックドン国立公園のユン園長にお聞きしたらヨックドンの森では最大351種の鳥が確認されたが、いまはだいぶ減っているという話でした。 』


 この後、ブンカムに乗って、野生のゾウを探しにいくのですが、今回はここまでに致します。ゾウが生きるには、森が必要ですが、人間と共存するためには、ゾウ使いがいなくてはならないようです。

 ゾウや馬にかえて、ブルドーザーによって森林伐採をおこなうと、伐採した樹木だけではなく、森林を破壊することになる多くの事例を私たちは見てきました。

 豊かな森には、三百数十種もの鳥類が生存し、それらの支える何百種類の樹木、さらには昆虫の生物多様性の豊かな熱帯雨林は、アジアから、地球から、消えないことを祈ってペンをおきます。(第155回) 


ブックハンター「OPSとチーム得点の相関係数」

2018-01-20 16:05:39 | 独学

 155. OPSとチーム得点の相関係数  (佐藤健太郎著 文芸春秋2017年10月)

 これは「数字の科学」14に書かれていたものです。これを紹介しますのは、私が野球に詳しいわけでもなく、数学に詳しいわけでもありません。

 この考え方は、実用性と応用性に富む考え方なので、紹介したいと思いました。

 現実の様々な事象に於いては、数学的に美しく割り切れるものは、少ないのですが、複数の事象をある数式にしたものが、ある範囲において、相関関係があり、実用性がある可能性は、残されていると考えます。

 では、「数字の科学」を読んでいきましょう。(OPS :on-base plus slugging 出塁率+長打率)

 

 『 プロ野球に於いては、ペナントレースの行方と並び、最多勝や首位打者といった個人のタイトルにも注目が集まる。これらは永遠の記録として残るし、契約にも大きく影響するから、選手たちも必死になる。

 しかし、これらは選手の評価基準としてどの程度妥当なものなのだろうか? 先発投手の勝ち星は、味方打線や救援投手の実力に大きく左右される。

 打率には、長打力や四球による出塁が反映されてないから、打者の能力のごく一部しか表していないともいえる。

 こうしたことから、米国では統計学的手法による選手の実力数値化の試みが行われてきた。その結果編み出された指標の一つがOPSで、長打率と出塁率を足し合わせて算出する。

 この両者は性質の違う数値なので、本来は合計すべきではない。湿度六十%と降水確率三十%という数字を足し合わせるようなものだ。

 ところがこのOPSという数値は、チームの得点数と極めてよく関連することがわかっている。二つのデータの関連性は相関係数という数字で表され、これが一に近いほど関連性が高い。

 解析してみると、打率とチーム得点の相関係数は0.七七六にすぎないが、OPSとのそれは0.九四一にも達する。試合に勝ちたいなら打率ではなく、OPSの高い打者を並べるべきということになる。

 OPSは0.八を超えれば一流、0.九以上なら球界を代表する打者とみなされる。本稿執筆時点で0.九を超えているのはエルドレッド、鈴木誠也、柳田悠岐、秋山翔吾ら九名。

 ちなみに王貞治はOPSが一.二を超えた年が五度あるというから、いかに傑出した打者だったか知れる。米国では、OPSを重視したチームづくりが成功して以来、データ分析が飛躍的に進歩した。

 今や、全ての投球や打球の軌道が正確に計測されており、野手の守備能力はもちろん、捕手がきわどい球をうまく捕球してストライクに見せる技量までが精密に数字ではじき出され、査定に生かされている。

 打率や勝ち星はファンの間では受け入れられているが、能力評価の際にはもはやあまり重視されなくなった。

 現代社会では、視聴率や内閣支持率といった数字が大々的に発表され、多くの人々が振り回される。しかしこれらわかりやすい数字は一体何を表し、どの程度実態を捉えたものか。考え直す余地は、大いにありそうだ。(第154回)


ブックハンター「マッケンナに学ぶ未来を知るすべ」

2018-01-14 16:36:49 | 独学

 154. マッケンナに学ぶ未来を知るすべ (校條 浩著 週刊ダイヤモンド2018年1月)

 校條浩(めんじょう ひろし)は、シリコンバレーに本拠本拠を置くネットサービス・ベンチャーズ・グループ代表。日本企業への事業イノベーションのアドバイスとシリコンバレー・日本でのベンチャー投資を行なう。

 彼は、シリコンバレーの本質を知る稀な日本人です。(本稿は、シリコンバレーの流儀の第12回です)


 『 シリコンバレーの成長を支え「シリコンバレーを作った25人」の一人といわれる、レジス・マッケンナとの出会いは1990年代中ごろだった。

 彼の誘いで、彼のコンサルティング会社に入ったことがきっかけで、私は日本企業にへ新事業創造にかかわるコンサルティングを始めることとなった。

 何度も一緒に日本に出張し、その時間を独り占めできたのはとても幸運なことだと思う。レジスは70年代、シリコンバレーの黎明期に、米インテルや米アップルコンピュータ―にマーケティングを指南したことで知られる。

アップル初の本格パソコン「Apple Ⅱ」が開発された当時、共同創業者のスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックはそれぞれ、21歳、25歳の血気盛んな若者だった。

 開発したウォズが技術的なスペックばかりを説明するので、レジスは「ユーザーにとってどのような価値があるかを説明してくれ」と言うと、ウォズは怒って部屋を出ていってしまった。

 だが、そのときにジョブスは「待てよ、こういうユーザーとのコミュニケーションは大事かもしれない」と考え直し、マーケティング戦略をレジスと進めることになった

 コンピューターがまだ”オタク”の趣味でしかなかった時代に、利用者への提供価値という観点でマーケティングの重要性を説き、ジョブスのマーケティング能力を開花させたのがレジスであったのだ。

 レジスは、アップルの立ち上げに必要な資金の調達も支援した。当時はまだ「ベンチャーキャピタル(VC)」が確立していない時代である。

 最初の資金調達のために、彼の知り合いのドン・バレンタイン(後の米セコイア・キャピタル創業者)に頼み、投資家を紹介してもらった。「エンジェル投資」の元祖といえよう。

 また、メディアはシリコンバレーのスタートアップなどごこも相手にしていなかった。だが、レジスは、メディア対応はPRの要だとしてメディアとの交流に努力を惜しまなっかった。

 パソコンを販売するチャンネルもなかったので、流通も開拓した。77年の時点で、レジスのプランの中に「アップルストア」が入っていたのは驚くべきことだ。

 日本では、マーケティングを「広告宣伝」「販売」「営業」ぐらいに捉えている人が多い。

 だが、レジスは、「製品のユーザー価値」「製品戦略」「マーケットイン」「資金調達」「メディアの啓蒙」「チャンネル戦略」など製品以外の「全て」を包含するものだと説いた。

 ジョブズ亡き後にアップルの経営を引き継いだティム・クックは流通経験が長い。「地味なクックではアップルを引っ張れない」とやゆする人も多かったが、レジスはこう語っていた。

 「必要なときに顧客の前に製品があること。流通も重要なマーケティングなのだ。私はクックはいい仕事をしてくれると思う」と。

 時価総額が100兆円を超えたアップルを見れば、この見立てに間違いはなかったことが分かるだろう。

 それだけではない。レジスは、90年代から、ソーシャルネットワークとスマートフォンが市場を完全に変えてしまうことを見抜いていた。

 インターネットの商用化により、企業と顧客との関係が劇的に変わった。レジスはそれを「リアルタイム」と「双方向」というキーワードで説明し、ネット社会でのソーシャルマーケティングの重要性を説いた。

 革新的な製品は、市場の「インフルエンサー」(影響力のある人)から口コミで広がることを示し、それを系統的に進める戦略である「マーケットインフラストラクチャー」の考えを提唱したのもまた、レジスである。

 「アーリーアダプター」と呼ばれる先進的な利用者と「マジョリティー」と呼ばれる市場の中心的な利用者の間には、「死の谷」が存在する。

 そう説いたベストセラー、「キャズム」の著者ジェフリー・ムーアは、実はレジスの門下生であった。なぜレジスには「未来」が見えていたのだろうか。 』


 『 もちろん、生まれつきの感性や揺るぎない価値観によるところが大きいとは思うがレジスと接してきた私には他にも感じる点がいくつかある。

 まず、レジスが高学歴ではないよそ者であったことだ。フィラデルフィアで地元の大学を卒業し、シリコンバレーに流れ着いた彼に失うものはなかった。

 学歴を利用して有名企業に入社する発想がなかったから、目の前にある面白い企業に就職し、シリコンバレーが産声を上げる時期の企業と関わった。

 その企業がたまたまインテルやアップルだったというわけだ。レジスと周りの友人たちは「建前」「会社の事情」「大人の賢さ」からは遠い価値観の人たちだった。従って、物事を真っさらな気持ちで見ることができたのだろう。

 また、物事を実行するときに必要な「大人の態度」を備えていた。例えば、批判的なジャーナリストにも丁寧に対応していた。

 多くの先進的なスタートアップにコンサルティングや投資をすることで、独り善がりの理論に流されることなく、実践的なアイデアを磨いていた。そのため、数多くの「世界初」を演出してきた。

 常にスタートアップの内側に入り、フロンティアに立つことによって、いち早く未来を「知る」ことができたのだと思う。彼にはならずとも、その足跡から未来を知るすべは学べるはずだ。

 レジスでも唯一読めなかったのが「アップル株をもらわずに後悔する自分の姿」だった。ジョブスに紹介した投資家が資産1000億円超の「ビリオネア」になったのは言うまでもない。 』 (第153回)


ブックハンター「通貨ユーロがヨーロッパを滅ぼす」

2018-01-08 09:14:21 | 独学

 153.  通貨ユーロがヨーロッパを滅ぼす (エマニュエル・ドット著 文芸春秋2018年1月号)

 まず著者エマニュエル・ドットは、フランスの家族人類学者です。この家族人類学という言葉を知っている人は、かなりの学識のある方だと思います。

 ドットは、世界の家族の形態を八つの型に分類し、それらと共産主義、イスラム教などとの親和性についても、言及しています。では、ドットの説を見ていきましょう。


 『 スペインからの分離独立を目指すカタルーニャの問題は、ヨーロッパの単なる一地方の問題ではありません。

 興味深いのは、ヨーロッパ主義者(EU統合推進派)と反ヨーロッパ主義者(EU統合懐疑派)の対立の構図が変化していることが、この問題を通じて見えてくることです。

 まずヨーロッパ主義の地域主義に対する態度が変化しています。従来、EU統合に賛成する人ほど、地域主義に好意的でした。逆に、EU統合に反対あるいは慎重な人ほど、地域主義に批判的でした。

 EU統合は上から国民国家を脅かし、地域主義は下から国民国家をつき崩すものだからです。

 ところが今回、EU統合派ほど、カタルーニャの分離独立の動きに批判的で、EU統合懐疑派の方が寛容的、好意的態度を採っています。

 私自身について言えば、EU統合派ではなく国家重視派ですから、本来、カタルーニャの分離独立の動きには批判的であるはずなのに、自分自身の中にカタルーニャの分離独立運動の高まりに対するシンパシーが次第に高まっているのを感じます。

 逆にEU統合派は、本来、スペインよりもカタルーニャにシンパシーを感じるはずですが、徐々にそうではなくなってきています。 』


 『 なぜこうした変化が生じているのか。私の考えでは、それは、EUがもはや緩やかな国家連合ではなく、国家から主権を奪い、それ自体が中央集権化したからです。

 そこで、「反国家」のニュアンスを帯びるはずの地域主義が、「反EU」の意味を持ち始めたのです。

 単一通貨ユーロや画一的な政策、緊縮財政を各国に中央集権的に課すEUは、それ自体が非常に強力なヒラルキー構造を持つ政治空間、いわば「牢獄」のような存在になってしまいました。

 そうしたなかで、カタルーニャのような動きは、EU統合派から見れば、一種の「不服従」という意味あいを持ちます。逆にEU統合反対派から見れば、「理のある抵抗」となります。

 たから私のシンパシーを誘うのでしょう。カタルーニャは、スペインの中でもとくに豊かな地域で、強い産業力を有しています。

 こうした地域が貧しい地域を置き去りにして独立しようという動きは、これまでなら、豊かなイタリア北部のケースのように、「金持ちの地域のエゴイズム」と批判されてきました。

 ところが今日、スペインの首都マドリードは、EUの中枢であるブリュッセルの指令に忠実なだけの経済政策ーー通貨ユーロの価値維持と緊縮政策ーーを行なっていて、国家としてのスペインに必要な経済政策を放棄しています。

 スペインは、もはやEUの一地方でしかなく、主権国家として存在していないのです。そうであれば、カタルーニャの人々が、スペインに自己同一化する必要も魅力も感じないのは当然です。

 しかもカタルーニャは、スペインのなかでも独自の歴史をもつ地域です。私の専門である家族システムの面から言うと、カタルーニャは、日本と同じ直系家族(長子相続)の地域です。

 かつてカタルーニャの民族学者と交わした会話を思い出します。「マドリードの言葉であれ、バルセロナの言葉であれ、フランス語であれ、大体根っこは同じようなものですね」と私は言いました。

 カタルーニャ語は、フランス語とも近いので、シンパシーを感じてそう言ったのですが、「そんなことはない!自分たちは独特なんだ!」と物凄い剣幕で反論されました。

 日本も同様ですが、直系家族の地域は、「自分たちの文化は特殊で他と違う」というタイプの自民族中心主義の傾向が強いです。

 政治的には、カタルーニャは、中世末期以来、代表制ーー当初は寡頭的で、後により民主的なーーの政治システムを伝統的に保持してきました。

 それに対して、スペインは、ヨーロッパの絶対王政のまさに揺籃の地です。この権力集中の政治システムが、十六世紀、十七世紀の大航海時代を生みだしました。

 その意味でカタルーニャの方が、歴史的により自由な政治体制を培ってきたのです。スペイン内戦でも、カタルーニャは、独裁的なフランコ将軍と戦った人民戦線の拠点となりました。

 私のように長いスパンで歴史を見る者の目からすれば、今日のようなカタルーニャの動きは、まったく自然なものです。

 カタルーニャは、ヨーロッパのなかでも指折りの文化の中心地で、バルセロナは、夢を見させてくれるような街です。

 都市として活気があり、建築も街並みも面白い。料理もマドリードのスペイン料理よりはるかに美味しい。小さな地域ながらも、ヨーロッパ文化の中核の一つを成しています。

 それだけに、カタルーニャで起きていることは、ヨーロッパにとって重大なのです。さらに言えば、カタルーニャの人々は、繊細、緻密で、単純素朴ではありません。

 今回、カタルーニャ州の首相をはじめ、分離独立のリーダーたちは、ブリュッセルに、いわば「亡命」しました。

 これについてヨーロッパ主義者は、「卑怯だ」「意味がない」などと批判しましたが、カタルーニャの指導者たちの方が一枚上手です。

 巧妙にも、ブリュッセルというEUの中心に混乱を持ち込んだのですから。現在のヨーロッパは、痙攣を起こしている状態にあります。

 英国がEUから逃げ出し、カタルーニャもユーロ圏の一地方でしかなくなったスペインから逃げ出そうとしている。

 だからこそ、EU統合派も、かってなら味方をしただろうカタルーニャの分離独立運動に恐れをなし、高圧的に批判するのです。 』


 『 諸悪の根源は、通貨ユーロです。現在のヨーロッパの問題は、すべてユーロに起因していると言っても過言ではない。ヨーロッパは、今、ユーロとともに死滅しつつあるのです。

 ユーロは、一九九九年に決算用仮想通貨として、〇二年に現金通貨として導入されましたが、もともと九一年のマーストリヒト条約での「単一通貨を遅くとも九九年までに導入する」という合意に基づくものでした。

 この条件は、九二年にフランスでも国民投票で僅差(賛成51%)で批准されましたが、私は反対票を投じました。

 私自身の人類学的・歴史学的知見から、単一通貨構想は、あまりに経済至上主義的で、あまりに現実無視の企てに見えたからです。

 ユーロは、ヨーロッパの歴史や現実の生活を知らない傲慢な無知の産物、机上の空想です。政治的選択という以前に、ヨーロッパの歴史と現実の厚みを知る学者として、反対せざるを得ませんでした。

 一九九六年に拙著「新ヨーロッパ大全」がフランスで文庫化された際、私は序文に「もし今度、通貨ユーロが万が一にも実現してしまうようなことがあれば、この本は、

 二十年後に、集団意識が存在しないなかで強引に進められた国家統合が、なにゆえに「社会」ではなく「無法地帯」しか生み出さなかったかを人々に理解させるだろう」と記しました。

 ユーロは必ず失敗すると、歴史学者として、導入以前から断言していたのです。遠い日本から見れば、ヨーロッパは、一枚岩に見えるかもしれません。

 家族形態、言語、宗教、文化などは地域ごとに相当異なります。これほど多様な社会に単一通貨を導入しても、絶対に機能しません。

 EUのエリートたちは、単一通貨によってEU諸国の統合を加速しようとしたのです。

 これは、千年にもわたるヨーロッパ史の中で培われてきたそれぞれの共同体を単一通貨によって数年のうちに融合してしまおう、という急進的なユートピア的夢想です。

 貨幣そのものに世界を変える力まで与えるという無謀な試みなのです。ところが、八十年半ば以降、EUのエリートに拡がった「アンチ国家」の安易な風潮が「単一通貨ユートピア」を生み出してしまいました。

 しかし、それぞれの国民経済は、通貨管理に関して独自の必要性を抱えています。

 各国は独自の金融政策、通貨政策をもち、インフレ率をコントロールして失業率を改善するなど自国経済を善導しなければなりません。また独自の通貨政策に独自の財政政策が伴わねばならない。

 ユーロの根本的な欠陥は、各国が、経済上、人口動態上、多様化しているまさにその時に、通貨による強引な統合を強制したことにあります。

 ユーロ圏には、産業力の強い国もあれば、弱い国もあります。ユーロ導入以前には、弱い国は、自国通貨の価値を下げることで競争力を得て、生き延びることができました。

 しかし、ユーロ導入によって、それが不可能になってしまいました。ユーロ圏で産業力の強いのは、ドイツです。ユーロ導入によって、そのドイツが、フランス、イタリア、スペインの産業を破壊しました。

 その結果起きたのは、ドイツ以外の各国の産業破壊と失業率上昇です。ヨーロッパの各国政府が、どんな犠牲を払ってでも、ユーロの安定を維持しようとした結果、ヨーロッパ経済はマヒ状態に陥りました。

 自国の「産業」や「雇用」を犠牲にしてまで「単一通貨」を優先するという愚かな政策を取り続けているからです。

 ユーロ考案者は、単一通貨によってヨーロッパに平和で平等な世界が生まれると夢想しましたが、むしろ弱肉強食の世界が生まれたのです。

 ユーロ推進派がとくに愚かだったのは、ユーロ導入によって、ヨーロッパの域内・隣国同士の間でこそ熾烈な経済競争が生じることを予測できなかったことです。

 ドイツが競争力において優位に立ったのは、中国に対してではなく、ユーロ圏内の他国に対してでした。その結果、ユーロ圏は、ドイツの輸出だけが一方的に増大する空間になりました。

 ドイツが最大の貿易黒字を引き出しているのは、ユーロ圏外ではなく、ユーロ圏内からです。ヨーロッパ経済の第一の問題は、よく言われるような「財政赤字」ではなく、ユーロ圏内部の「貿易の不均衡」なのです。

 しかし、主流派の経済学者は、こうした問題を語ろうともしません。 』


 『 今春のフランス大統領選では、社会党や共和党という既成政党と距離を取り、若さを売りにして政治に新しい風を吹き込むと期待されたマクロン(39歳)が勝利しましたが、メディアでの盛り上がりに反して、マクロンは見かけ倒しの人物です。 

 マクロンの政策は、サルコジ、オランドとあまり変わりません。緊縮財政は従来の政策の継続です。労働市場の流動化をさらに進めようとし、より過激になっているだけで、さほどのオリジナリティはない。

 マクロンの特徴をあえて挙げるとすれば、彼が若いことでしょう。興味深いのはフランスでも高齢者ほど、若い政治家に魅惑されています。ですから、若さを売りにしているマクロンも、実は、高齢者の有権者の意向を反映しているのです。

 マクロンは、独仏連携によるEUの再建を訴えていますが、これは通貨ユーロがある限り、フランスがドイツに服従するだけの話です。

 たとえば、フランスの産業のトップの一つであるアルムストというフランス新幹線を製造する鉄道会社がドイツのシーメンスに買収されました。マクロンはこの買収を認めました。

 ユーロは、主にフランスの政治家たちが中心となって考案したものですが、ユーロ創設は、「フランスの政治家が犯した史上最悪の失敗」と言えます。 』 (第152回)