149. 世界一大きな問題のシンプルな解き方 (ポール・ポラック著 東方雅美訳 2011年6月)
「私が貧困解決の現場で学んだこと」
OUT OF POVERTY 「 What Works When Traditional Approaches Fail 」
『 一二歳のとき、イチゴを一クオート(0.95L)摘むと五セントもらえると聞いた。一九四五年六月半ば、イチゴの季節がやってくると、私は友人たちとイチゴ摘みを始めてどんどん腕を上げた。
季節の終わりごろには、一日に二〇〇クオートを摘み、ポケットに一〇ドル札を入れて家に帰るようになった。そこで私は考えた。
「イチゴ摘みで一日に一〇ドル稼げるのなら、イチゴ畑の主人はいくら稼げるのだろう」私はこのとき、イチゴ事業を始めようと決心したのだ。
一五歳のとき、地元の農民二人を説得して、パートナーになってもらった。モーリー・デザーデールは街で仕事をしていて、空いた時間に繫駕競争用(けいが:二輪馬車を引かせる競馬)の馬を育てていた。
ちょうど家の裏側に、なだらかな起伏のある三エーカーのローム質の土地を持っていて、そこをイチゴ事業に提供してくれた。エド・カミンズは一六〇エーカーの農地を父親から相続していた。
ヴィクトリア調の赤レンガの家も相続しており、その家は私にとってはまるでお城のようだった。エドは農場の後ろにある砂質の肥沃な土地、四エーカーを提供してくれた。
最初の仕事は、両方の畑に分厚い肥しの層をつくることだ。エドは納屋に一二頭の乳牛を飼っていて、肥やしが入れ物から溢れ出ていた。
ある春の朝、エドと私は肥料散布機にエドの馬を何頭かつなぎ、干し草用の熊手で肥やしを散布機に投げ入れ始めた。エドは手につばをし、次々と投げ入れていく。
ゆっくりだが安定したペースだ。彼は六〇歳近くだったが、私はとても体力があった。これは自分の力を見せつけるチャンスだと思った。「こんなの朝飯前だ」と、私は思った。そして、猛烈な速さで肥やしを投げ入れた。
三〇分ほどのあいだは、エドよりも明らかに速かった。だが、その後三〇分で追いつかれ、二時間たって散布機がいっぱいになるころには、大幅にリードされていた。
それだけでなく、エドは汗もかいていなかったのに、私は大汗をかき、もう倒れて死んでしまいそうだった。荷台がいっぱいになった散布機を、私たちは畑へと走らせた。
エドは赤くて長い、錆びたギアをひいた。すると後輪の車軸についている鎖と歯車の装置が動き、回転している釘の列に少しずつ肥やしが入っていった。
朝の日差しのなか、馬の背中から湯気があがる。牛の肥やしのかたまりが畑に飛び広がっていく。小麦の切り株が残った畑に、数えきれないほど何度も散布した。
一日が終わるころには、私は疲れ果てていた。次の朝にも、もう一度同じことを最初から繰り返す。それが終わると、エドは小麦の切り株と肥やしを土に埋め込み、まぐわで畑を平らにならした。
これでようやく、植え付けの準備ができあがった。馬に引かせる二列式の植え付け機を誰かから借りてきた。現在では、あんな機械は博物館でしかお目にかかれないだろう。
前の方に小さな鋤(すき)がついていて、それが一五センチほどの深さに溝を掘る。後ろ側にはバネがついた丸い金属の椅子が二つあり、鋤が引きずられているあいだ、モーリーと私が腰掛ける。
椅子は地面ギリギリの高さだ。私は自分の前にある平箱から苗を一つ右手でつかみ、それを逆手で溝に置いていく。私の姿を鏡に映したかのように、モーリーは右側の椅子で同じことをする。
永遠につづくスローなテニスの試合のように、私たちは一日中、順番に苗を置き続けた。溝に苗を置くとすぐに、頭上のタンクから水が苗に噴きかけられ、さらに後ろにある二つのローラーが、溝を埋めてゆく。
こうして七・五エーカーの畑に苗を植えるのに、一日半かかった。苗を植えた後の最大の問題は、ブタクサやアカザなど、たくさんの雑草がどこからともなく生えてきて、イチゴの苗と競い合っていたことだ。
雑草の大量虐殺の共犯者になってくれたのは、ディックという名の年老いた馬だった。ディックはひどいオナラをしながら、六つ歯の耕運機を引いた。私はしだいに、馬の汗と革の馬具の臭いが混じった刺激臭が好きになっていった。
雑草取りで私が編み出したコツは、イチゴの苗を抜かないように、間を縫って耕運機を動かすことだ。こうすることで、除草の時間を短くすることができた。
中耕は除草よりずっと簡単だということを知った。イチゴの苗すれすれのところで一掘りする動きで、かなりの地面が耕せた。だが、四エーカーのイチゴ畑を除草するのは何日もかかった。
やっと最後の列まできたかと思うと、また次の除草が必要になっているのだ。このとき私は、大多数の農民が知っていることを学んだ。日々の農作業は、非常にうんざりするものだということだ。
最初の年の終わり、イチゴ畑の様子は悪くなかった。だが、イチゴ摘みで現金収入があった前年以前とは違った。私はひどい赤字に陥っていたのだ。イチゴ畑の主人になっても、考えていたほど大儲けはできないかもしれない。
翌年の六月に収穫期がやってくると、私は父の二トントラックを借りて、毎朝六時十五分前にハミルトン(カナダのオンタリオ州)のダンダーン・キャッスルに行った。
イチゴ摘みをしてくれる、たくましいウクライナの女性たちを迎えに行ったのだ。彼女たちには、一クオート当たり五セントの賃金を支払った。ようやく事業が立ち上がったのだ。
だが、まずは作物を売る場所を探さなければならなかった。当時、ハミルトン最大の食糧チェーン店は、ロブローズだった。今日でも、カナダ最大のスーパーマーケット・チェーンであり、食料販売業者である。
私は街で最大のロブローズの店舗の裏口に行き、青果部門のマネージャーと話させてくれと頼んだ。そしてマネージャーに、七・五エーカー分の新鮮なイチゴがあると言った。
「いくらだい?」と、彼は聞いた。私たちはその場で話を決めた。一クオート当たり二五セントだ。その日から、私はロブローズにおける最大のイチゴ供給業者となった。ハミルトンの住民、一九万五千人の半分ほどに、イチゴを供給した。
七月の第二週、いよいよ私のイチゴ事業が利益を出したかどうか、計算するときとなった。すべての費用を支払い、父への借金を返したのち、残ったお金は一四〇〇ドルだった。これを私のパートナー二人と分けるのだ。
私は二夏分の労働の対価として、七〇〇ドルを稼いだ。今のお金にすれば、約七千ドルだ。大金とは言えないが、当時の私にとって大きな金額だった。
これは、裕福なイチゴ帝国を築く、最初のステップだろうか?私はオンタリオのイチゴ王となる運命にあって、その後ずっと幸せにくらしたろうか?
残念ながら、そうではなかった。つまるところ、私はまだ一六歳だった。女の子や社交ダンス、そしてソフトボールがおもしろくなってきたのだ。だから、私はお金をもらって、イチゴ事業からさっさと手を引いた。 』
『 しかし、五七年が経った今になって思う。イチゴ事業をやっていた二年間の経験があったからこそ、小さな農場を営むとはどういうことか、そこでお金を稼ぐには何をすべきかが、深く理解できるようになったのだと。
これまで二五年間にわたり、農村部での貧困問題の現実的な解決方法を探し続けてきたのだが、イチゴ畑での経験はその核となっている。イチゴ事業で私が経験した問題やチャンスや重労働は、一エーカーの農民が毎日向き合う問題そのものだ。
小さく散らばった農地から生活の糧を得ようとするとき、彼らは同様の問題に直面する。そして今だからこそ、私が営んでいたのが今で言う有機農業だったことがわかる。
私は七・五エーカー分のイチゴに関する作業を、すべて自分でやった。だが、私には馬が引いてくれる鋤や、耕運機や、肥料散布機があった。アフリカの貧しい小規模耕地の農民に比べると、はるかに有利だった。
彼らの多くは動物の力を利用できず、自分の手で溝を掘り、耕し、除草しなければならない。世界の貧しい小規模耕地の農民の大半は、動物の力を利用するといった程度の、私がカナダの小さな農場で六〇年も前に導入していたような機械化からも、大きく取り残されている。
ほかにも、いくつか大切なことを学んだ。当時は認めたくはなかったが、人生においては、他の人の助けを求めて、それを手に入れなければ先に進めないということ。
また、とても小さな農場でもたくさんのお金を稼げることを学んだ。ただし、そのためには価値の高い作物を育てる方法を学び、利益の出る値段でその作物を売れる市場を見つけ、手ごろな値段で苗木や肥料を仕入れなければならない。
病気や害虫で作物が全滅してもダメだ。そして、毎日新しいことを学ぶのは、人生における他の何にも勝る喜びであり幸せであるということも知った。
太陽や風、雨、黒色根腐れ病などは、自分ではまったくコントロールできないことも学んだ。コントロールするという幻想を捨てれば、私は世界を変えられるかもしれない、ということも学び始めた。
どんなイチゴ王が描く夢より大きく、世界を変えられるかもしれないと。再び農業にかかわるようになるまでに、三十年かかった。
そのあいだ、私は医学部に通い、結婚し、精神科医となり、不動産事業と石油・ガスの事業を営んだ。農業に再び興味を持ったのは、一九八一年のことだった。
しかし、このときからかかわり始めた農業は、私が支配していた七・五エーカーのイチゴ農場に比べると、まったくもって小さな、手作業による農業だった。
八億人の非常に貧しい人々が、一日一ドル未満で生き延びてきた一エーカーの農場——それに関して私は、学べることはすべて学ぶようになった。
どうすれば、その小さな農場でももっと稼げるようになるのか。この答えをこのとき求め始めたのだ。 』
『 ホームレスのジョーと過ごした午後ではっきりしたのは、ホームレス問題の現実的な解決方法を編み出すには、ホームレレスの人たちが住んでいる場所へ行き、彼らの生活の様子や、彼らがとる行動の理由を直接聞き、今どんなチャンスがあれば利用するか、将来どんなチャンスを利用したいかを聞く必要がある、ということだった。
私はジョーとの一日で学んだことを、貧困について知るために活用している。一日一ドル未満で暮らす世界中の人々に話を聞き、一エーカーの農場をともに歩き、土と編み枝でできた草ぶき屋根の家の前で、椅子に腰かけて、家族と一緒にお茶を飲むのだ。
彼らは、「一エーカーの農場で十分に稼げないから貧しいのです」と話す。収入を増やせるような価値の高い作物を育てるためには、手ごろな価格の灌漑装置が必要だ。
その作物を利益の出る値段で売れる市場を探すため、手助けが必要な場合もある。そう彼らは話すのである。だから私は一九八一年にIDE(International Development Enterprises)を設立し、彼らのニーズに応えることにした。
私たちは、足踏み式灌漑装置など、安価な灌漑装置を幅広く開発し、地元の民間会社を通じて小規模耕地の農民に販売してきた。
また、各地域でうまく育てられそうな高付加価値の野菜や果物を四つか五つ選び、民間の流通網を構築して、それらの作物を育てるための種子と肥料を売った。
さらに、育てた作物を利益が出る価格で売る手伝いをした。こうした活動により、一日一ドルで暮らしていた千七百万人が貧困から脱却した。
こうした、あきれるほどに単純で当たり前の結論に達するまで、二五年が必要だった。そして、私はようやくわかった。当たり前のことを理解して、当たり前のことを実行するのは、おそらく最も難しいことの一つなのだと。
そして、当たり前のことを理解して、当たり前のことを実行するようになるうえで——二五年もかかってしまったが——、私が大きく影響を受けたのは、父がホロコーストの生き残りだという事実である。
生き残るために必要なのは、目を開いて世界をよく見ることなのだ。ネビル・チェンバレンがズデーテン(チェコ)地方をヒットラーに譲ったときには、父のカナダへの脱出計画は完成していた。
のちに父は、すべてを投げ出して脱出する必要があり、それは当たり前のことだと私に語った。何年ものあいだ、ドイツとの国境を越えて難民が流れ込んでいたので、私たちにも災難が降りかかろうとしているのは、明らかだった、と父は言った。
父は友人たちや親戚たちに、どうか手遅れになる前に逃げてくれと頼んだ。「でも、家具はどうしたらいい?」と、彼らは答えた。彼らのほとんどがチェコスロバキアに残り、亡くなった。
あまりに多くの人が悲惨な間違いを犯すのを、私はこれまでの人生で何度も見てきた。まわりで起こっていることに対して、目を閉じてしまうのだ。
そのたびに、逃げてくれと父が頼んだとき、友人と親戚たちが言ったことを思い出す。「でも、家具はどうしたらいいか?」
家具に相当するもののために——ヨーロッパやアメリカ、裕福なアジアの地域で多くの人が所属する中流クラスにおいて——、貧困に関して当たり前のことが見えず、実行できなくなっている。
貧しい人たちから学んだ四つのポイント
① 貧しい人たちが貧困状態にある最大の理由は、十分なお金を持っていない、いうことだ。
② 世界で極度に貧しい人たちのほとんどは、一エーカーの農場から収入を得ている。
③ 高付加価値で労働集約的な作物を育てる方法わかれば、貧しい農民たちはもっとお金を稼げる。たとえば、シーズンオフの果実や野菜を育てるのである。
④ そのためには、非常に安価な灌漑装置、良い種子と肥料を手に入れる必要がある。利益の出る価格で作物が売れる市場にもアクセスできなければならない。 』
以上は、序章からの抜粋です、以下目次のみを紹介していきます。
序章 答えは単純で当たり前のこと
〇 イチゴ事業で学んだこと 〇 精神科医時代の先生はホームレス 〇 貧しい人たちから学んだ四つのポイント
第1章 現実的な解を導く12のステップ
① 問題が起きている場所に行く ② 問題を抱えている人と話し、その話に耳を傾ける ③ 個々の固有の情況について、可能な限りすべてを知る ④ 大きく考え、大きく行動する
⑤ 子供のように考える ⑥ 当たり前のことを見て、実行する ⑦ すでに誰かがやっているかどうか調べる(やっていればする必要はない) ⑧ 目に見えて良い影響をもたらし、大規模化できる手法を採る
⑨ 具体的な費用と価格目標を決める ⑩ 現実的な三ヵ年計画に基づいて実行する ⑪ 顧客から学び続ける ⑫ 他の人の考えに流されず、前向きでいる
参考のために原文を併記します。
① Go to Where The Action is. ② Talk to The People Who Have The Problem and Listen to What they say. ③ Learn Everything You can about The Problem's Specific Context.
④ Think Big and Act Big. ⑤ Think Like a Child. ⑥ See and Do the Obvious. ⑦ If Somebody has Already Invented it, You don't Need to do so Again.
⑧ Make Sure Your Approach has Positive Measurable Impacts That can be Brought to Scale. ⑨ Make Sure it can Reach at Least a Million People and Make Their Lives Measurably Better.
⑩ Design to Specific Cost and Price Targets. Follow Practical Three-year Plans. ⑪ Continue to Learn from Your Customers. ⑫ Stay Positive: Don't be Distracted by What Other People Think.
第2章 3つの誤解(なぜ、貧困をなくすことができないのか?)
誤解1 寄付によって人々を貧困から救いだせる 誤解2 国家の経済成長が貧困をなくす 誤解3 大企業が貧困をなくす
第3章 すべては「もっと稼ぐこと」から(ネパール農家は訴える)
〇 専門家に届かない貧しい人たちの声 〇 「てこ」を見つける 〇 稼いだお金をどう使うか 〇 収入がもたらす生活改善
第4章 残り九〇%の人たちのためのデザイン(現場のニーズを掘り起こす)
〇 貧しい人たち向けのデザインは、どのくらい複雑なのか 〇 低価格を徹底的に追求する 〇 馬一頭に匹敵するには、アリが何匹必要か 〇 ヤマアリからアスワン・ハイダムへ
〇 一〇〇ドルの家を建てる方法 〇 デザインに革命を起こす 〇 デザインにおける原則 〇 低価格の製品をデザインするための現実的なステップ 〇 将来お金がある場所はどこか?
第5章 新たな収入源を求めて(一つの作物では解決できない貧困)
〇 緑の革命は貧困を解決したか? 〇 多様な収入源でやりくりする農民たち 〇 草の根事業の歴史 〇 貧しい人たちが持つ強み
第6章 水問題を解決するイノベーション(あらゆる場面で生産性は向上する)
〇 水を手に入れる 〇 水をくみ上げる 〇 貯水する 〇 水を与える 〇 灌漑の次に必要なもの
第7章 一エーカー農家から世界が変わる(冬にキュウリが育てられる!)
〇 小規模農場の大きな役割 〇 一日一ドルの農場の大きさ 〇 誰のための農業研究? 〇 一日一ドル、一エーカーの農民のための新しい農業
〇 モンスーン・トマト——小規模農場の収益革命がおこるか? 〇 「土地のない」労働者が稼ぐ方法 〇 小さな土地に見合った肥料作りや害虫管理
第8章 主役は貧しい人たち(商品が売れる市場をつくる)
〇 さまざまな市場の参加者 〇 起業家の役割——ニッチなニーズを見つける 〇 ソニーがつくった新しい市場
〇 開発途上国の市場がうまく機能しない理由 〇 新しい市場を作るための戦略 〇 どうすれば付加価値をつけられるか 〇 よく見えるように市場をつくて!
第9章 スラムの可能性(誰にもチャンスは開かれている)
〇 草の根事業の宝庫 〇 密集して暮らすスラム住民 〇 スラムには機会があふれている 〇 貧困から脱出する四つのステップ
第10章 貧困と地球(貧困はあらゆる問題にかかわっている)
〇 水と衛生環境 〇 健康 〇 教育 〇 輸送 〇 住宅 〇 エネルギー
第11章 私たちには力がある(貧困をなくすために行動を起こす)
〇 あなたができること 〇 あなたが今始められれること 〇 貧しい人たち自身ができること 〇 支援者ができること 〇 多国籍企業ができること
〇 大学ができること 〇 研究機関ができること 〇 小規模農場繁栄のためのネットワーク 〇 デザイナーができること
第12章 バハドゥ一家、ついに貧困から抜け出す
〇 クリシュナ・バハドゥ・タバの死 〇 現在の灌漑方法 〇 育てた野菜を市場に届ける 〇 さまざまな草の根事業 〇 タバ家は増えた収入をどのように使ったか
以上ですが、基本的な道筋は、足踏みポンプの普及、低価格ドリップ灌漑システムの普及、二重ビニールチューブ式一万リットル貯水システム、乾季での作物栽培、新しい市場づくりがメインの解決方法のように感じました。(第148回)