チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「劉邦」

2017-07-15 09:13:48 | 独学

 142.  劉邦(上、中、下)  (宮城谷昌光著 2015年6月)

 ”89.劉邦と項羽” で、文芸春秋の記事を紹介しましたが。私は、宮城谷の作品である三国志が文藝春秋に連載されていましたが、読めませんでした。宮城谷の作品は、史実に忠実ですが、漢字があまりに多く、スーと頭の中に入りませんでした。

 今回 ”劉邦” を読んでみて、毎日新聞に連載されただけあって、漢字の割合が少なく読みやすいなと感じました。現在の中国に宮城谷より中国史についての深く研究している研究者が、”いるのかなあと” ふと考えてしまいました。


 ”劉邦と項羽” の中で、以下のように述べています。 

 『 秦王朝の末期には、劉邦のみならず、多くの英雄が生まれました。進路に迷う人々は自分の夢や将来を「この人に托そう」と考えて、それぞれの選んだ英雄に期待を寄せました。

 そして、最後に最も多く期待を集めた英雄が劉邦だったのです。私は、個人の才能や徳ではなく、天下の人々が劉邦に托した意望の強さと多様性を書くことで、より多面的で複雑な劉邦像を描けるのではないか、と考えたのです。

 ではなぜ、劉邦はそれだけ多くの期待を集めることができたのでしょうか。その理由を探っていくと、一つの結論に行きつきます。劉邦は聴く耳を持った男だったということです。ライバルだった項羽と最も大きな違いです。 』


 劉邦(紀元前247年~195年)は、前漢(紀元前221年~西暦8年)の高祖で、都を長安に定め、長安はシルクロードによって、西アジアから地中海に至った。(長安が全盛だったのは、唐(西暦618~907)の時代です)

 私がこのインターネットの英語全盛に時代に、何で紀元前の中国の話と思われるかもしれませんが、集団で死力を尽くして戦うためには、現代でも、紀元前でも、リーダーの度量にかかっているからです。

 では、最初に上、中、下を本の帯から紹介した後、中巻の最初の部分を読んでいきます。


 劉邦(上)の帯より、『 秦末、王朝を覆す「天子の気」を遠望した始皇帝は、その気を放っ者を殺すように命じる。配下に襲われた泗水亭長・劉邦は九死に一生を得る。始皇帝の死後、陵墓建設のため、劉邦は百人の人夫を連れて関中に向かうことを命じられるが……。 』

 劉邦(中)の帯より、『 民に推されて沛県の令となった劉邦は、近隣の県を平定しながら勢力を拡大していく。行軍中に名軍師張良との出会いがあった。楚と結んだ劉邦は項羽と共に秦の城を攻めるが、戦地に衝撃の一報がもたらされ……。

 劉邦(下)の帯より、『 秦王の降伏を受け劉邦は秦の都・威陽に入る。しかし、項羽によって劉邦は、巴、蜀、漢中の王となって左遷されることに、項羽と天下を争うことを決意した劉邦は、関中に兵を挙げる! 』


 『 なぜかうわさのほうが劉邦(りゅうほう)の帰還より早く沛(はい)県に着いた。 「沛公が秦(しん)軍を破った」 沛県の官民は歓喜にふるえた。劉邦の将器(しょうき)を疑っていた者たちも、———沛公はぞんがい用兵に長じている。

 と、ようやく安堵(あんど)のため息をついた。もしも劉邦が負けて帰ってくるようであったら、かれらは父老(ふろう)に強く迫り、城門を閉じて劉邦の帰還をこばみ、あらたな県令を立てたであろう。

 胡陵(こりょう)と方与(ほうよ)という二県の攻撃に成功をおさめなかった劉邦にとって、監平(かんへい)の軍と野天(のてん)で戦えたことは天祐(てんゆう)のひとつであったといってよい。

 凱歌(がいか)とともに帰着した劉邦を、県丞(けんじょう)である蕭何(しょうか)、獄をあずかっている任敖(じんごう)、それに父老らがにこやかに出迎えた。

 だが、劉邦は冴えぬ表情で、「大切な子弟をすくなからず喪(うしな)ってしまった」 と、父老にむかって頭をさげた。父老はおどろいた。秦王朝のもとでは、兵卒の死に心を痛めた将など、ひとりもいない。

 父老はとまどって蕭何をみた。そのまなざしを承(う)けた蕭何は、「戦えば、かならず死者がでます。が、戦わなければ、もっと多くのものが死ぬでしょう」 と、いった。———そうであろうか。

 それは儒教(じゅきょう)的詭弁(きべん)ではないか。そうおもった劉邦は、とにかく戦いというものは、勝っても負けても、気が重くなるものだ、と実感した。 


 『 兵を解散させた劉邦は、妻子の顔をみるまえに県庁にはいり、蕭何とふたりだけで話あった。

 最初に劉邦は、「戦場で勲功を樹(た)者に与える賞がない。秦が作った級(きゅう)とは、便利なものだな。銭や物を与えるかわりに、級をあげてやればよい。制度とは、そういうものか、とよくわかった」 と、苦笑を蕭何にむけた。

 人民を階級わけする。この発案者は商鞅(しょうおう)という戦国時代の大才である。その案が新法となって実施されたのは、秦の孝(こう)公のときである。

 国主が王ではなく公であることからもわかるように、当時の秦は雄国(ゆうこく)と呼ばれる以前の後進国で、現状を嘆いた孝公が他国からきた商鞅を鈎用(こうよう)しておこなわせた大改革のひとつがそれであった。

 極端ないいかたをすれば、商鞅の新法が天下統一の道を拓(ひら)いた。それはそれとして、その階級についていえば、最下級は一級であり、「公士」(こうし) と、いう。最上級が十七級であり、「大良造」(だいりょうぞう) と、いう。

 公士も大良造も、正確には爵名(しゃくめい)であり、級名とはいわない。それらの級は軍籍に適用される。公士は兵卒にすぎないが、大良造は大将である。

 ちなみに、のちにその級数と爵名に多少の変更があり、二十等爵となる。敵兵の首をひとつ獲れば、公士となり、ふたつ獲れば上造(じょうぞう)となる。 「首級」(しゅきゅう) ということばは、その制度による。

 「たしかに秦の制度はよくできています。 が、血のかよっていない制度は改めなくてはなりますまい」 蕭何は法官ではないが、秦の法令の欠点はわかっている。 』


 『 その血のかよっていない法令によって痛い目にあわされた劉邦は、「皇帝ひとりを守る法令を、人民を守る法令に更(か)えればよい、ということではないのか」 と、いった。

 すこしまなざしをさげた蕭何は、「皇帝ひとりを守るだけの法令はたしかにまちがっています。陳勝(ちんしょう)が起こした叛乱は、そのまちがいを匡(ただ)そうとしたものです。しかし法令は人民を守るためにあるのか、国家を守るためにあるのか、と考えてゆくと難解さにつきあたります」 と、慎重に答えた。

 ———われはなんのために挙兵したのか。基本的には沛県の民の総意に従い、沛県の民を守ろうとしたにすぎない。陳勝の志行(しこう)にはとてもおよばない。 「これから、われはどうすべきかな」 劉邦は素直に蕭何に訊(き)いた。

 もしも劉邦が今後の戦略的方向を問うのであれば、その問いを曹参(そうさん)にむけるであろうと考えた蕭何は、答えをひとひねりした。

 「陳勝は秦の法令の批判者であったことはたしかですが、是正(ぜせい)者にはなれなかった。あなたさまが是正者になればよろしいではありませんか。あなたさまが新法となり、人民を守る。それ以外に、あなたさまが為(な)すべきことがありましょうか」

 「ふむ……」 蕭何の回答はやや抽象的ではあったが、劉邦がばくぜんと想(おも)ってきた理念に比(ちか)かった。 いうまでもなく劉邦はおのれの利益のために挙兵したわけではない。

 苦しんでいるもの、哀(かな)しんでいる者など弱い立場におかれている者たちを助けようとして立ったのである。ただし秦に叛逆するかたちで立つかぎり、強者にならなければ、理念は具体化できない。

 「よく、いってくれた。これからも迷ったわれをさとしてくれ」 これほど素朴な劉邦をみたことがなかった蕭何は、感動して、しばらくことばをだせなかった。———また器量が大きくなった。 』


 『 時が劉邦を急速に変えているともいえる。ここにいるのは、泗水貞長(しすいていちょう)であった劉邦ではない。そう断定しておかなければ、その変化についてゆけない、と蕭何は軽い恐怖をおぼえながらおもった。

 「ところで、ひとつ解せぬことがある」 泗水群府から兵がでたのは当然であるとして、群府には交誼(こうぎ)の篤(あつ)い周苛(しゅうか)がいるのだから、かれはそれに関してなぜ黙ったままであったのか。

 「周苛のことだから、われが窮地(きゅうち)におちいりそうになったことを推測したはずなのに、なんの報(しら)せもよこさなかった。よこさなかったのではなく、よこせなかったのか。それが気がかりでならぬ」

 「あなたさまは、それほど周苛を信頼なさっていたのですか」 蕭何は劉邦と周苛のつきあいの深さをはじめて知った。

 「周苛にはずいぶん助けられた。もしも周苛が苦境に立たされているのであれば、助けたい」 「わかりました。しらべてみます」 蕭何の答えにうなずいた劉邦は県庁をでて帰宅した。

 三日間、妻子とともに過ごした劉邦は県庁にでなかった。四日目には樊噲(はんかい)と妻子それに尹恢(いんかい)や夏侯嬰(かこうえい)などを招いて慰労の会を催した。

 この会で、表情に魯(にぶ)さのある劉邦に気づいた樊噲は、「どうなさったのですか」 と、問うた。

 「ふむ、周苛がどうしているか、まったくわからなくなった。蕭何にかれの消息をしらべさせているが、なにもいってこない。まだわからないということだ」 すると尹恢が、

 「周苛の実家は、ここ沛県にあります。明日にでもわたしがたずねてみます」 と気働(きばたら)きをみせた。翌日、県庁へでるつもりの劉邦であったが、尹恢の報告を自宅でまった。

 「お待たせしました」 そういってなかにはいってきた尹恢の表情にも冴えがなかった。 「なにもつかめなかった、と顔に書いてある」 

 「その通りです。あなたさまが挙兵なさるまえから、実家には便(たよ)りがなくなったそうです。じつは周苛の従弟の周昌(しゅうしょう)の家もおなじで、いまふたりがどこにいてどうなっているかは、実家でもまったくわからないそうです。ついでに申しますと、すでに蕭何の属吏(ぞくり)が実家にしらべにきたということです」

 「なるほど、蕭何にはぬかりはなかったということか」 劉邦はやるせなげにうつむいていた。 「あなたさまとの密(ひそ)かな通好(つうこう)が、郡守に知られたのでしょうか」 

 「われに通じたと見なされれば、かならず斬られる。みせしめのために郡守はその屍体(したい)を沛県へ送りつける。そうなっていないのだから、周苛と周昌は生きている」

 「そうあってもらいたいものです」 この尹恢の声をきいて、劉邦は県庁へ行った。執務室に坐るや、蕭何がはいってきた。その顔をひと目みて、———手がかりがあったな。 と、劉邦は感じた。

 「まだ憶測(おくそく)にすぎませんが、周苛は薛(せつ)にいるのではありますまいか」 と、蕭何は述べた。 』


 『 現今、諸城の門が閉じられているので、情報の蒐集(しゅうしゅう)は困難をきわめている。 が、蕭何は多くの属吏を三方に放って、うわさをも摭(ひろ)わせた。そこでわかったことは、泗水郡と薛郡が連合しようとして、泗水郡守が薛県へ往ったという事実である。

 「これはまちがいないところです。当然、泗水郡の兵も郡守に従って薛県へ行ったはずですが、その一部があなたさまを急襲した。すなわちその急襲は予定になかったことなので、周苛はあなたさまに報せようがなかった。

 また郡府のある相(しょう)県に郡守がおらず、周苛が残っているのであれば、報せを密送(みつそう)することが可能です。だがそれができないとなれば、周苛は郡守の近くにいて、遠ざかることができない、と想うのが妥当(だとう)です」

 「ははあ、それで周苛は薛にいると推理したのか」 劉邦はすこし安心した。 「ただし周苛はあなたさまにひそかに通じているのではないかと郡守などの上司に疑われているのでしょう。なにしろ沛県の出身ですから」

 周苛が実家にも何も伝えなかったのは、用心を累(かさ)ねて、自分にむけられている疑いの目をかわそうとしたためであろう。

 「ひとつのことがわかると、わからぬことがひとつ生ずる。人は、悩みの種(たね)が尽きぬものだな」 劉邦はあえて笑ってみせた。

 「べつに不可解が生じましたか」 「なんじは一をきいて十を知るほどの怜悧(れいり)さをもっているのに、ときどき一をきいて二がわからぬことがある。それとも、わからぬふりをしているのか」

 「何のことでしょうか」 蕭何はとぼけてみせた。 「では、問おう。 薛郡の守は泗水郡の守を招き、両郡の兵を合わせた。何のためであるか」

 「沛公すなわちあなたさまを討滅(とうめつ)するためでしょう」 「しかしながら、われが沛県にもどってから五日目になるのに、薛の兵に動きはない。なにゆえであろう」

 「そのことですか……」 両郡の兵が連結したのに起(た)たないのは事実である。劉邦はその理由を知りたがっているが、蕭何はその原因を知りたいとおもっている。 疑問の質がややちがう。

 「あなたさまの問にお答えできるのは、一をきいて十一を知るものだけです。薛には、兵をだせぬ事情がある、と申すしかありません」

 不確実な情報をもとに推量をかさねていっても事実には到達しない。なぜであるかわからないが、薛は討伐軍を起こさない。 が、この状態がいつまでもつづくとはかぎらないので、防備をおこたらないでおく、というのが蕭何の任務である。

 「一をきいて十一を知る者か……。そのような者はいまい。十年後のことを知る占い師でも、十一のことはわかりそうもない。時が教えてくれるのを待つか」 そういって劉邦は蕭何をさがらせた。』


 『 たしかに時はかくされた事情を曝露(ばくろ)する力がある。十月の末に、ひとりの男が薛県をぬけだして沛県に趨(はし)りこんできた。氏名を、「陳胥(ちんしょ)」と、いう。

 かれは薛の有力者の使者である。その有力者とは、「陳武(ちんぶ)」である。劉邦がつけている竹皮冠(ちくひかん)は、薛に住んでいる冠職人が作ったものである。

 往時(おうじ)、薛にしばしば行った劉邦であるが、陳武の名は知らなかった。が、蕭何と曹参はその名を知っていた。

 「数百人を養っている豪族ですよ。ただし威勢を張りだしたのは数年まえですから、ご存じないかもしれません」と、蕭何が説明した。

 「その陳武が、われに訴願(そがん)することがあるらしい。なんじらもわれとともにその使者に会ってくれ」ほどなく三人のまえにあらわれた陳胥は武骨そのものの人物であった。

 直観にすぐれている劉邦は、―――ひとくせありそうだが、欺騙(きへん)の人物ではない。と陳胥をみた。「至急のたのみごとであるときいた。それはどのようなことか」

 この劉邦の声に、一礼した陳胥は、いささかも口ごもらずに述べはじめた。「来月の三日の明け方に、薛を攻めていただきたい」突飛(とっぴ)な申し出である。

 劉邦は眉(まゆ)をひそめ、蕭何と曹参は顔をみあわせて目語(もくご)した。

 正確には、明日が十月の晦日(かいじつ)で、明後日が十一月一日である。三日の明け方に薛城の攻撃を開始するためには、軍を明後日に発たせ、しかもどこかで夜行しなければまにあわない。

 徴兵にてまどると、一日に出発できない。「むりです」蕭何が目で劉邦に伝えた。が、劉邦はいきなり使者の申し出を拒否せず、「三日の明け方に何があるのか」と陳胥に問うた。

 「県内で陳武が挙兵し、郡守らを襲います。まえから陳武は挙兵の機をうかがっていたのですが、それを察してか、郡守は郡外どころか県外にもでません。

 城外に泗水郡の兵の駐屯地があり、そこに三千の兵がとどまったままです。泗水郡の監平の兵が沛公の兵に敗れたため、泗水郡守に従って薛にきた兵も畏(おそ)れて一千以上の兵が逃げ去りました。

 また、どうやら陳王の属将でもある周市(しゅうし)が泗水郡内を東進しはじめたようなので、泗水郡守は相県に帰ることをためらったまま、薛にいます。

 その郡兵が薛の郡守と県令をかばう側に立つと、陳武の苦戦は必至です。そこで沛公には、泗水郡守と郡兵を伐(う)っていただきたいのです。

 三日をすぎても沛公の助力をいただけなければ、おそらく陳武もそれがしも、捕縛(ほばく)されて、処刑されるでしょう」 この語気には力があった。』


 『 もしも陳胥が薛の郡守か県令の配下で、劉邦を誘いだして殺すために弁舌をふるったのであれば、かれの語ったことはほとんど妄(うそ)であろう。

 しかしながら、たとえ妄でも、これほど滔々(とうとう)と語ったのはたいしたものだ、と考えるのが劉邦であった。

 しばらく陳胥を観察するようにみつめていた劉邦は、「陳武は、自身の都合で、われを利用するのか。虫がよすぎないか」と、つき放ちぎみにいった。

 「陳武は、ひごろ秦の悪政を憎み、嘆いておりました。陳勝の挙兵とめざましい進撃を知って大いに喜びましたが、かれが王になったとしり、失望しました。陳武は冷酷さも貪欲さも嫌っています。ところが沛公だけが民も兵もいたわると知って、恃む(たの)むのはこの人のみ、と喜悦したのです」

 劉邦は破顔(はがん)した。―――おだててくれるではないか。すこしからだをかたむけた劉邦は、「なんじと陳武のおだてに乗って、われは薛に征くつもりであるが、急遽(きゅうきょ)、兵をあつめるのはむずかしい。そのときは、われ独(ひと)りで薛の城外に立っているであろう、そう陳武につたえよ」と陳胥にいった。

 「しかと、つたえます」 再拝した陳胥はすみやかに退室した。 「沛公―――」蕭何と曹参が同時に発したのは諫(いさ)めの声である。

 が、片手を挙(あ)げてそれを掣(せい)した劉邦は、「死の淵に片足をいれた者が、助けてくれといってきているのだ。それを、是非を問わず助けるのが義侠(ぎきょう)というものさ。朔日(さくじつ)(一日)の朝までに、集められるだけ兵を集めてくれ」と、強い口調で命じた。

 独りでも行くと名言した劉邦を止めることはできないと判断したふたりは、手わけして兵を集めはじめた。

 帰宅した劉邦が妻の呂雉(りよち)にその話をすると、翌朝に、妻の兄である呂沢(りよたく)と呂釈之(りよせきし)がきて、「兵が足りぬときいた。われらも参じよう」と、いった。

 おどろいたことに、県庁にはいった劉邦に蕭何までが、「参戦したい」と、申し出た。―――よほど兵が足りぬ。そう感じた劉邦は、蕭何の申し出を聴(ゆる)すと、獄の主吏(しゅり)となっている任敖(じんごう)を呼んだ。

 「蕭何がわれに従って薛へゆくことになった。この城を守る者は、なんじを措いてほかにいない。たのむぞ」

 「はあ……」 任敖は、一瞬、くやしそうな表情をみせた。―――参戦したかったにちがいない。任敖の心情を察した劉邦は、「戦いは、はじまったばかりだ。なんじの戦いの場はこれからだ。われがなんじの力量を知らぬはずがないではないか」

 と、なぐさめた。おそらく任敖が守った城は陥落しない。すなわち任敖は墨守(ぼくしゅ)のひとである。そういう長所を任敖自身が意識したことはあるまい。が、劉邦にはわかる。』


 『 ―――敵を知っておく必要がる。と、考えた劉邦は、蕭何と曹参に諮(はか)り、百人程度の隊をつくると、先遣(せんけん)隊として、夜間に出発させた。

 一日の朝に集合した兵の数をかぞえてみると二千未満である。―――これでも多いほうだ。一千の兵でも出発するつもりであった劉邦は、兵にみじかく訓辞を与えると、すぐに兵車に乗った。

 兵車に近づいてきた任敖に、「われが帰らなかったら、王陵(おうりょう)を迎えて、県令に立てよ」と、いった。が、任敖はうなずかず、「まっぴらですな。沛公には子息がいる。仕えるなら、そのご子息がよい」と、いいかえした。

 小さく笑声を立てた劉邦は、全軍を出動させた。慣(な)れた道である。閉じられた泗水亭のまえをまたたくまに通過した。

 そこから東北にすすむと戚(せき)県に到るが、戚県はあいかわらず秦の城なので迂回することにした。その迂路(うろ)で露営(ろえい)した。戚県から兵が出撃しないともかぎらない。

 翌日、さらに東北にすすみ、薛県に近づいた。先遣隊がひきかえしてきた。泗水郡の兵の駐屯地を遠くから実見(じつけん)してきたのである。

 「善(よ)し、夜間にすこしすすみ、明け方にこの駐屯地を襲う」と、劉邦は決定した。かれには迷いも畏れもない。あえていえば、―――周苛ひとりを救いにきた。それだけの水師(すいし)である。

 東の天空が明るくなるまで、すこし待った。本営にいる蕭何は、曹参をみかけたので、「これが薛の郡守がしかけた罠(わな)であったら、われらはひとたまりもない」と、いってみた。

 不安があるわけではないが、すでに三つの戦場を踏んできた曹参がどうみているかを知りたくなったからである。曹参は蕭何の近くにきて、

 「薛の郡守は、泗水の郡守の力を借りようとしたくらいだから、小心者で、みずからが動くことはできない。だからといって、巧妙な策はない、とは断言できないので、罠の有無(うむ)についてはなんともいえない。ただし、泗水郡の兵にはわれらを迎え撃つ用意はない」

 と、はっきりいった。「ほう、どうしてそれとわかる」「けはいだな。待ち構えているのであれば、早めに腹ごしらえをしているはずだ。が、そういうけはいはなかった。あたりが明るくなって、駐屯地に炊煙(すいえん)が立てば、まちがいなく無警戒であることがわかる」

 「なるほど」戦地にあっては、蕭何は曹参から教えられることが多い。 』


 『 このころ劉邦の近くにいた樊噲は本営をでて先陣にむかった。「なんじは先鋒(せんぽう)にくわわり、なるべく早く周苛をみつけて、保護せよ」劉邦にそう命じられた樊噲は、先陣の将である紀成(きせい)への伝言をたずさえていた。

 「矛(ほこ)をさかさまに持っている者を、撃ってはならぬ」劉邦の命令である。矛をさかさまに持つ、とは、敵意のないさま、をいう。劉邦は泗水郡の兵をなるべく多くとりこみたい。

 やがて東天(とうてん)の雲が紅く染まった。雲が多く、天地の暗さが衰えないのに、突然あらわれた紅色はぶきみな美しさをもっていた。それをみた劉邦は、「午下には、雨になるか」と、つぶやいた。

 東天の紅色は徐々にひろがった。その紅色が大きくわかれると淡い水色の天空があらわれた。駐屯地にひとすじの炊煙が立った。直後に、劉邦軍の先鋒が動いた。

 樊噲(はんかい)の比類(ひるい)ない剛力(ごうりき)があきらかになったのは、薛(せつ)の城外においてである。かれは楯(たて)で飛矢をはらいつつすすみ、まっさきに土の壁を登った。

 この侵入者をはばもうと数人の兵がかまえて待ち構えていたが、樊噲が旋回(せんかい)させた矛に吹き飛ばされた。数人が同時に地から浮いて墜落したのである。それを目撃した兵は、「わっ」と、あとじさったまま、樊噲にむかっていけなくなった。

 かれらをひと睨(にら)みした樊噲は、「秦(しん)の悪政を憎み、正義に与(くみ)したい者は、沛(はい)公に降(くだ)れ。矛をさかさまに持つ者を、われらは撃たぬ」と、大声でいった。

 「どけ―――」 この樊噲に一声で、敵兵が左右にわかれた。樊噲を先頭に十数人が営所のなかを突きすすんだ。まだ樊噲の剛力を知らぬ兵がこの集団を襲ったが、またたくまに蹴散(けちら)された。

 「守壮(しゅそう)は、どこだ」そう叫びながら樊噲は前進しつづけた。かれの背後では乱戦がはじまり、樊噲の声が消されるほどの喚声(かんせい)が挙(あ)がった。

 造りのよい兵舎をみた樊噲は、―――ここが上級の吏人(りじん)のすまいだ。と感じ、なかをのぞいた。くらがりから矛がつきでた。それをかわして柄(え)をつかんだ樊噲は、なかの兵をひきずりだして抛(ほう)りなげた。

 なかが無人になったことを確認した樊噲は、「この舎に、火をかけよ」とうしろの兵にいった。城内では、陳武(ちんぶ)が私兵を率いて郡守と県令を急襲しているはずであるが、連絡をとりあっているわけではないので、現状はわからない。

 この兵舎を焼けば、いちおう合図となる。つらなっている兵舎のなかをいちいちのぞいてゆくわけにはいかないので、「周苛よ、樊噲だ」と、呼びかけながら歩いた。

 また数人の兵にゆくてをさえぎられたが、樊噲はかるがると排除した。ながれ矢がかれの鼻さきを通過した。「おおい、樊噲、ここだ、ここだ」遠い声である。

 いちばん端の兵舎のほとりにふたりの影があった。―――あれだ。高々と矛を揚げた樊噲は、喜び、走った。周苛は泗水(しすい)郡の吏人でありながら、樊噲のような下賤(げせん)な者をさげすまず、山沢(さんたく)に逃げこんだ劉邦を陰で支えてくれた。

うれしい再会である。立ったまま樊噲を待っていたのは周苛と従弟(じゅうてい)の周昌(しゅうしょう)である。周苛は剣しかもっていなかったが周昌は戈(か)をもっていた。

 「やあ、おふたりとも、ごぶじでしたか」そういって歯をみせた樊噲の甲(よろい)をこぶしで周苛は、「遠くからでも、なんじとわかったわ。よくきてくれた」と、ため息をまじえていった。

 その周苛の耳もとで、「沛公はあなたを救いだすための水師(すいし)したのです」と、劉邦の真情を察している樊噲はささやいた。えっ、と小さく叫んだ周苛は目をまっ赤にした。

 かって周苛はこれほど深く感動したことはない。酒屋で酔いつぶれた劉邦の上にかならず龍があらわれるという話からはじまって、劉邦はさまざまな奇談に装飾されてきた。

 それらを奇瑞(きずい)とみて、劉邦とのつきあいをおろそかにしなかった周苛であるが、驪(り)山へむかった劉邦が途中で少数の人夫とともに郡境近くの山沢へ逃げこんだと知ったときには、さすがに、―――あの奇瑞は、まやかしであった。

 と、落胆した。劉邦は山賊になりはてるだけだ、とおもわざるをえなかった。それでも劉邦の力になろう、と危険を承知で蔭助(いんじょ)したのは、義侠(ぎきょう)心というもので、一個の劉邦を一個の周苛が助けようとしたといってよい。

 劉邦は沛公とよばれる県令になったのに、一個の劉邦が一個の周苛を助けにきてくれたのである。周苛は全身でそう感じた。「さあ、沛公がお待ちです。十人ほどつけますので、おふたりは早く駐屯地の外へでて、本営へ趨(はし)ってください」 』


 これ以降、鴻門の会へと続きますが、これまでで、宮城谷の劉邦の雰囲気は十分に伝わったと思います。(第141回) 


ブックハンター「億万長者の黄金律」

2017-07-09 08:28:45 | 独学

 141.  億万長者の黄金律  (グレン・アーノルド著 峯村利哉訳 2012年1月)

 The Great Investors : Lessons On Investing From Master Traders   by Glen Arnold   ©2011

 私が本書を紹介しますのは、これを読めば億万長者になれますからという意味はまったくありません。彼らは結果として、億万長者でありますが、その前に学者であり、哲学者であり、慈善事業家(お金をどのように使えば、社会が良くなるかを考える人)です。

 原題には、億万長者とも黄金律ともありません。直訳しますと「偉大なる投資家:名トレーダーから学ぶ投資の教訓」となります。

 株式投資は、資本主義の基礎を形づくり、企業の経営内容をオープンにし、投資家が企業を評価し、結果として、社会の未来に対する方向づけを行っていると私は考えています。

 株式市場は、常に個々の企業を評価することによって、企業の方向性、社会の将来を導いています。そのために、株式市場は、社会に開かれ、公平で、企業は社会の未来に貢献し、利益を得て、企業価値(株価と信頼)を高め、株主に配当を支払い、国家には税を支払います。

 たしかに、20万円の投資と2億円の投資では、利益が出ても雲泥の差ですが、元金に対する割合は同じです。

 私のように70歳を過ぎたわがままな貧乏な投資家を受け入れるところはありませんが、わずかな投資額であっても、公平に受け入れてくれるのがオープン・ソエティの象徴としての株式市場の素晴らしいところです。

 開かれた社会の未来の価値を形づくる株式市場で、成功した男の生き方と哲学の話として、私は紹介したいと考えました。


 この本に出てくる名トレーダーは、以下の八人です。

 ベンジャミン・グレアム : Benjamin Graham(1894年~1976年) 20世紀の投資界における最高の知恵者

 フィリップ・フィッシャー : Philip Fisher(1907年~2004年) 成長株投資の第一人者

 ウォーレン・バフェットとチャールズ・マンガー : Warren Buffett(1930年~) Charles Munger(1924年~) 能力を補完し合う最強のコンビ

 ジョン・テンプルトン : John Templeton(1912年~2008年) グローバル・バリュー投資の大家

 ジョージ・ソロス : George Soros(1930年~) 投資界の哲学者

 ピーター・リンチ : Peter Lynch(1944年~) 最もパフォーマンスが高いファンドマネージャー

 アンソニー・ボルトン : Anthony Bolton(1950年~) 地球上で最も優秀な投資家の一人

 彼らの中での、直接的な手法よりも、その時代、その国の政治や経済、株式市場、個々の企業をいかに観察し、分析し、矛盾と失敗の中から、自分の哲学を構築し、成功を勝ちえたかを読んでいきましょう。


 『 ベンジャミン・グレアムは1894年にロンドンのユダヤ系の家庭に生まれた。一歳のとき、家族とともにアメリカに移住してきた。父親は陶器を商売にしており、家族は楽な生活を送っていた。

 しかし、1903年に父親が死亡すると、どんどん家計は苦しくなっていった。収入を得るために、母親は自宅で下宿屋を始め、世帯所得を上げるべく、株による投機に手を出した。

 初めはそこそこの利益が出ていたものの、1907年の株価暴落で全財産が失われた。投機は危ないという教訓は、グレアムが投資哲学を築きあげる際、投資の安全性を重視する原動力となった。

 もしも、あなたが投資と投機の違いを真剣に考えた経験を持っていないなら、グレアムの生涯にわたる熟考は大いに役立ってくれることだろう。

 きわめて優秀な生徒だったグレアムは、さまざまな子供向けのアルバイトをこなしながら、小中高を飛び級で修了した。そして、コロンビア大学に全額奨学生として入学したあとも、パートタイムで働きながら、全科目で優秀な成績をおさめ、わずか2年半で卒業した。

 1914年に若干20歳で卒業するころには、コロンビア大学の英語科、哲学科、数学科から教鞭を執るように誘われた。しかし、彼はこれらの誘いを断り、母親の件があるにもかかわらず、いや、母親の件があるからこそ、ウォール街で働く道を選んだ。

 証券会社の使い走りから始まったキャリアは、窓口係、アナリスト(分析専門家)と進み、最後には共同経営者にまでのぼりつめたのだった。 』


 『1923年、グレアムは同級生たちと〈グレアム・コーポレーション〉を設立した。この会社は2年半のあいだ活動し、高い資本収益率を達成した。

 グレアムは固定給と歩合給をもらっていたが、共同経営者たちからいいように利用されていると、自分はもっと高い歩合をもらうべきだと感じていた。

 ウォール街での金儲けの仕方について、すべてを知っていると自負するグレアムは、固定給を辞退する代わりに、収益に応じてスライドする20~50パーセントの歩合給をもらいたいと提案した。

 この一件は、〈グレアム・コーポレーション〉の解散につながり、〈ベンジャミン・グレアム・ジョイント・アカウント〉の設立につながった。総額40万ドルの出資をしたのは、グレアム自身と彼の旧友たち。

 以前に提案した通り、グレアムはスライド制歩合給をもらうこととなった。1929年までに、出資金は250万ドルに膨らんだ。良く知らない相手からの出資を断ってきたにもかかわらず、投資者の数は増えていた。

 学生時代から親交が続く友人グループの一人に、ジェローム・ニューマンという後輩がいた。コロンビア大学の法科大学院を出たジェロームは、1926年、グレアムの会社に応募するとき、自分の能力が証明されるまで無給で働くという条件を出した。

 グレアムはこの条件を受け入れた。つまり、バフェットよりも高い評価を与えていたわけだ! ジェロームはすぐに頭角をあらわし、このときから始まった2人の関係は、グレアムの引退まで続くこととなる。

 2人は親友という中ではなかったものの———グレアムの場合、知り合いは何百人もいたが、親友と呼べる存在は1人もいなかった———仕事面では素晴らしい協調性と実績を見せた。

 ジェロームが明晰な頭脳を実務と交渉に役立てたのに対し、グレアムは投資に革命をもたらすような新しい理論と戦略を生み出した。 』


 『 グレアムが参入した当時、ウォール街は大変革期を迎えていた。「ウォール街の長老の回顧録(The Memoris of the Dean of Wall Street )」と題した自叙伝の中で、彼はこう書いている。

 「草創期のウォール街では、ビジネスはおおむね紳士たちのゲームであり、複雑なルールのもとでプレーされていた」。

 紳士たち! 当時のウォール街では、いかにしてインサイダー情報を入手するかが重視され、財務分析にはまったくといっていいほど関心が払われなかった。

 人間の感情と ”コネ” が株価を左右すると見なされていたため、無味乾燥な統計数値に没頭するのは無駄な努力と考えられたのだ。しかし、1920年代に入ると、この体制は衰退しはじめ、近代的な財務分析ツールが幅をきかせていった。

 グレアムこそが、株式分析に知力を注ぎ込むという新しいやり方の先駆者だったのである。真の価値を大きく下回っている株を探す、という投資哲学をグレアムは築きあげたが、そのためには、企業の根源的価値の分析方法を自ら編み出す必要があった。

 過大なリスクをとることなく、安心して大きなリターンを得るには、どんな点に注意すればいいのか? グレアムは自分にこう問いかけ、苦労の末に答えを見つけ出したのである。

 いったん評価方法を習得してしまえば、安く売られている株を買うこともできるし、高く売られている株を避けることもできる。すべての産業が大規模に拡大し、それに伴って証券市場が上げ相場になるという状況は、グレアムとその新理論にとって完璧な環境だった。

 彼は金銭的勝利の時期を謳歌し、彼の生活水準は劇的に向上した。1927年、グレアムは自分の投資理論を本にまとめようと考えていた。

 これはやがてデビット・ドットとの共著「証券分析」として具現化され、同書はバリュー投資の概念と、”グレアム・ドット村”の考え方を世に広めることとなった。1934年の初版以来、「証券分析」は継続的に版を重ねてきた。

 グレアムは執筆前に、自分の考えを実証するため、コロンビア大学で講座を開設した。この講座は成功を収め、以後40年間に及ぶ教授生活のきっかけとなった。

 グレアムは資金運用の傍ら、さまざまな学術機関で教鞭を執ってきたのである。グレアムは博識で、さまざまな分野と言語に精通しており、学問に対する真の好奇心を持っていた。

 投資と教育のほかにも、暇を見つけては数多くの戯曲を書き、1つの脚本は実際に上演された。多くの重要な米国政府の聴聞会では、株式評価の専門家として証言を行った。

 グレアムは詩も書き、1949年には「賢明なる投資家」を執筆した。「証券分析」と同じく、「賢明なる投資家」も世界的なベストセラーとなり、今日でもランキングの上位を賑わせている。 』


 『 1920年代のグレアムは、”比較的” 安全第一主義をとる投資家だった。しかし、自身が認めていたとおり、周りの浮かれ騒ぎに便乗してしまう場合もあった。

 「わたしはすべてを知っていると確信していた。少なくとも、株と債券で金を儲けることに関しては、必要な事柄はをすべて知っていると……。自分はウォール街の急所をつかんでいると……。自分の野望と未来は無限であると……。若かったから、重度の自信過剰に陥っていることがわからなかったのだ」

 1929年から32年にかけての株式大暴落では、それまで利潤をあげてきた投資が損失に転じ、資金の約70パーセントが失われた。この事件は、物的所有に対するグレアムの姿勢を変え、身の丈を越える出費はもう絶対にしないと彼は決意した。

 二度とふたたび、誰かに誘導されたり、虚飾や不必要な贅沢に突き動かされたりしたくなかったのだ。さらにグレアムは、1928年から29年までを振り返り、根本的な過ちがどこにあったのかを探り出そうとした。

 彼の結論では、原因は投資家が自ら投機家に転向してしまったこと。じっさい、当時の株式市場の参加者たちに、”投資家” という言葉はふさわしくなかった。

 彼らは、投資価値についてゆがんだ考え方を持っており、重要な原理原則を踏み外していた。安全第一の手法で株を評価する際には、用心の上にも用心を重ねなければならないが、彼はそれをすっかり忘れていたのだ。

 収益予想に基づく評価は、当てにならない可能性が高く、有形資産に基づく評価がもっと重用されるべきだった。

 グレアムは、いまだに自分を信頼して資金を託してくれている人々に対して、名誉をかけて優れた実績をあげる義務があると感じていた。世界大恐慌のあいだ、グレアムは給料をまったく受けとらず、失った資金を取り戻すべく、身を粉にして働いた。

 大暴落の後始末を終えた1933年、彼はわずか37万5000ドルの顧客資金で再挑戦を始めた。〈グレアム・ニューマン・コーポレーション〉は同年、50パーセントの収益率を達成し、グレアムが引退するまでの約20年間、世界屈指の長期投資の実績をあげることとなる。

 グレアムは1955年、市場の発展に関する合衆国上院の調査委員会でこう証言した。自分の顧客たちは ”長い期間” にわたり、年20パーセントの粗利益、〈グレアム・ニューマン〉の手数料を引いたあとで、17パーセントの利益を手にしてきた、と。この数字は、市場平均の約2倍にあたる。

 リスクを冒さない投資家は低いリターンに甘んじるべきである、という昔ながらの物の見方にグレアムは与しなかった。ローリスク・ハイリターンは可能だと彼は考えていたのだ。

 しかし、それには条件があった。投資家が投資(投機ではない)の主要原則についての充分な知識を持っていることと、業界分析と企業分析についての充分な知識を持っていることだ(ビジネスの仕組みに対する真の好奇心があることは大前提)。

 さらに、投資家は難しい投資学を勉強しながら、長い時間をかけて経験を積みあげ、絶えず自分の失敗から学ぶというオープンな姿勢を持たなければならない。

 最後に、投資家は感情を制御しなければならない。投資家が重視すべき事柄は価値の分析であり、投資家全般の一時的なムードや騒ぎに乗らない方法を学ぶ必要がある。 』


 次に紹介しますのは、ジョージ・ソロスです。ソロスは自分自身をまず何よりも哲学者と見なし、社会構造の中で集団として人々は、ときとして経済のファンダメンタルズ(基本的条件)を、”均衡に近い” 状態から、”均衡にほど遠い” 状態に変える……。

 ソロスは、この仕組みを哲学的に理論づけ、”再帰性” 理論といわれる。私もソロス自身の本を読みましたが、よく解かりませんでしたが、本書はソロス自身の著書より、解りやすく書かれていると思います、では読んでいきましょう。


 『 1930年8月、ジョージ・ソロスはハンガリーのユダヤ人家庭に生まれた。母親は愛情に満ちあふれていたが、とても内省的で、詮索好きで、自己批判に陥りやすく、その姿勢は自虐的に見えるほどだった。

 ソロスによれば、母親の自己批判の傾向は息子にも受け継がれていた。大きな勝利をつかむ原動力となったのは、内なる敗北感を打ち消したいという強い欲求だった。

 父親のティヴァダルは外交的で、社交的で、他人の運命に純粋な興味を持っていた。このような美徳を持ちながら、人前で自分をさらけ出そうとしない父親を、ジョージ少年は偶像視した。

 まだ若いティヴァダルには大志があった。しかし、ちょうどこのころ第一次世界大戦が勃発した。義勇兵として参戦し、中尉に昇格した彼は、ロシア軍に捕えられ、シベリアの捕虜収容所へ送られた。

 ティヴァダルは大志を持ちつづけた。少なくともしばらくのあいだは……。彼は収容所内で、”厚板” と呼ばれる新聞(記事は人間の手で板に刻みつけられた)を発行し、人望が厚かったため捕虜代表にも選ばれた。

 しかし、近隣の収容所から捕虜が脱走し、その収容所の捕虜代表が射殺される事件が発生した。見せしめと抑止のための処刑だった。ティヴァダルは決断を下した。

 脱走者の代りに打ち殺されるのを待つよりも、自ら脱走するのが最善の方法である、と。彼は必要な技能を持つ30人の捕虜———大工、コック、医者など———を選び出し、脱走計画を実行に移した。

 イカダを作って川を下りはじめたものの、ティヴァダルたちは大きな間違いを犯していた。シベリアの川は北極海につながっているのだ。数週間後、ようやくミスに気づいた一行は、広大なシベリアを徒歩で横断することとなった。

 当時のシベリアは騒乱のただ中にあった。第一次大戦後、赤軍と反革命勢力が戦いを繰り広げていたのである。無残な光景を目の当たりにしたティヴァダルは、生きつづけることに大きな価値を見いだし、きっぱりと大志を捨てた。 』


 『 富と権力はもうどうでもよかった。望みは人生を楽しむことだけだった。いずれにせよ、無秩序な社会での悲惨な体験は、ティヴァダルにサバイバルの能力だけでなく、”均衡からほど遠い” 時期に入りそうな社会を見抜く能力を与えた。

 ジョージ・ソロスは平凡な生徒で、スポーツとゲーム(モノポリー:資産を増やす双六風ゲーム)を好んだ。特に数学の成績は低く、しかし、古典哲学の本に深い興味を持っていた。

 13歳のとき、美術館からの帰宅する途中で、街中にドイツ軍の戦車がいるのを目撃した。時は1944年3月。ドイツが同盟国のハンガリーに侵攻したのである。

 ソロスはのちに、あのころは人生で最もエキサイティングな時期だったと語っている。しかし、状況をすぐさま理解した父親のティヴァダルは、異常な時代に正常なルールは通用しないと判断を下した。

 当時は父親の独壇場だったとソロスは回顧する。ティヴァダルは法の遵守を ”危険な習慣” とみなし、法を無視することが生残につながる唯一の道だと考えた。

 ジョージ少年は後年の投資に生かせるさまざまなスキルを学んだ。彼にとって父親はサバイバルの教官であり、第二次世界大戦は上級サバイバル講座だった。

 ティヴァダルはロシア革命での体験を手本に、決然と行動し、家族分の偽造身分証明書を手に入れ、生活するための場所や隠れるための場所を探し出した。

 助けたのは自分の家族だけではなく、何十人もの命を救った。ソロスはこの当時を、人生で最も幸せな時期だったと見なしている。

 ハンガリーがナチスに支配され、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)が絶頂を迎えるころに、幸せだったというのは矛盾しているように思えるが、冒険好きな14歳の少年の目に映っていたのは、敬愛する父親が陣頭指揮をとり、他人を助けつつ窮地を乗り切っていく姿だった。

 侵略者を出し抜こうとしたときのリスクに比べれば、大人になってからとったリスクはどれも大したことがない、とソロスは発言している。 』


 『 1945年のソ連軍による占領は、ハンガリー全土に共産主義の圧迫感を蔓延させ、人々は危険な生活というよりも、退屈な苦役のような生活を強いられた。

 ナチス体制と共産党体制を経験したソロスは、現実の客観的側面を尊重するという健全な姿勢を身につけた。また、ドイツとロシアの占領下での ”均衡からほど遠い” 生活は、ソロスに洞察力を与えた。

 この洞察力は後年、ヘッジファンドの運用責任者としての成功に重要な役割を果たすこととなる。ティヴァダルにとってサバイバル技能の先生がロシア革命なら、ジョージ少年にとっての先生はナチスのハンガリー占領だった。

 共産党政権の厳しい管理のもと、ジョージ少年は社会からの束縛と、父親からの過干渉を感じていた。彼はティヴァダルに抗議した。15歳の子供に50歳のような考え方をしろというのは不自然であり、人間の成長にはもっと自由が必要だ、と。

 父親は息子を自立させようと思い立ち、どこへ行ってみたいかと尋ねた。ジョージ少年は、イギリスとソ連を候補に挙げた。ティヴァダルがソ連での体験を残らず息子に打明けたため、結局、行き先はイギリスに決まった。 』 


 『 1947年9月、17歳の誕生日の直後に、ソロスはロンドンの地を踏んだ。金はなく、友達はおらず、彼は深い孤独と絶望を感じた。ソロスの目に映る戦後のロンドンは、重苦しく、よそよそしく、感情的に冷たかった。

 遠い親戚が寝場所として長椅子を提供してくれたものの、諸手を挙げた歓迎ムードとはいかなかった。ソロスはつまらない仕事を転々とした。ブレントフォード(ロンドン近郊)でプールの係員をしたり、皿洗いをしたり、家の塗装をしたり……。

 大きな期待を持つ若者にとって、いちばんつらかったのは、勤め先の給仕長から仕事ぶりが認められ、一生懸命働けばいずれは給仕長補佐に出世するのも夢でないと言われたときだった。

 英語の教室に通いはじめるなど、前向きな進展はあったものの、1年半のあいだ、心の奥の失望は増幅していき。英語能力の不足でロンドン大学スクール・オブ・エコノミックス(LSE)の入学試験に落ちたとき、絶望感は最高潮に達した。

 まさにどん底の感覚。しかし、ソロスは何とか自分の中にポジティブな思考を見つけた。どん底からは落ちようがなく、これからは上に向かうしかない、と。金も友達もない痛みは、一生消えない傷となった。

 本人が率直に認めるとおり、もうあんな経験をしたくないという思いは、恐怖症のように体に染みついてしまっていた。この思いは、大金を稼ぎたいと心に決めた理由の一つでもあった。

 ソロスはしばらくケンティッシュタウン工芸学校に通っていたが、1949年春、ようやくLSEの入学試験に合格することができた。

 78歳のときに執筆した本の中で、ソロスは再帰性の観念を明確に説明したあと、”均衡に近い” 状態と ”均衡から程遠い” 状態の違いを強調すべく、自分の発達期を例に挙げた。

 彼は安定した中産階級の環境———通常の ”均衡に近い” 状態———で生れ育った。その後、ナチスの脅威と共産主義の抑圧が、”均衡から程遠い” 状態を作り出した。

 よそ者としてイギリスで暮らしたときは、安定した自己完結的な社会を窓越しにのぞき込むしかなかった。安定は有用な生活必需品であり、いつでも手に入るわけではないという事実を、ソロスほど深く認識している者はほとんどいないだろう。 』


 『 ソロスはLSEで経済学を専攻したが、すぐさま自分に向いていないことに気づいた。理由は2つ。(1) 自分は数学が苦手なのに、経済学は数理的要素を重視する傾向を強めていた。

 (2) 教授たちが好んだのは、”知識の完全性” のような古典的前提に基づき、代数的な構造を築きあげることだったが、自分の興味の対象は、経済学の基礎——— ”知識の完全性” のような古典的前提そのもの———にあった。

 大学生活で明るい話題は、カール・ポッパー教授との出会いだった。ホッパー教授は刺激的な発想を与えてくれ、ソロスと真剣に向き合ってくれた。

 「 カール・ホッパーは主張していた……理性には、一般法則化の真実性を一片の疑念もないレベルまで高める能力はない、と。じっさい、科学法則でさえ実証は不可能である。

 なぜなら、演繹的論理学を用いる限り、どれだけ大量の個別的観察結果を集めようと、そこから例外なき有効な一般化を引き出すことができないからだ。

 幅広い懐疑の姿勢を採用したとき、科学的手法は最もうまく機能する。科学法則は、誤りが証明されるまで有効な暫定的仮説としてあつかわなければならない……。

 彼が主張するとおり、科学法則を実証することは不可能だ……。法則に合致する実例がどれだけ存在しようと、疑う余地のない一般法則化の証明には不十分だが、法則に合致しない実例が一つでも存在すれば、一般法則化の有効性は破壊されかねないのである 」

 経済の参加者に ”知識の完全性” を想定しなければならない経済学者と、人間の理解は本質的に不完全であると主張するホッパーは、真っ向から対立する。

 しかし、前者はアイザック・ニュートンを手本に、一般法則化を通じて一つの学問分野を創りあげようとした。この結果、経済学は複雑さを増し、数学の利用頻度が高まったのだ。

 人間の思考と行動から生まれた不測の影響が、予告も前触れもなくやってきたり去っていったりする、というティヴァダルの実体験は、人間の誤謬性を強調するホッパーの主張とがっちり嚙み合っていた。

 ホッパーの影響を受け、標準的な経済モデルを拒んだソロスは、歴史の流れが形成される上で、誤認と誤解が大きな役割を果たしたと考えた。そして、この自説を基に、人間の行動に関する枠組みを構築しようとした。

 市場参加者の意思決定は、知識のみに左右されるわけではない。市場参加者の偏向した認識は、市場価格だけだなく、市場価格を決めるとされるファンダメンタルズにも強い影響を及ぼす。ここで注目すべきは、偏向した認識が2つの効果を持つという点だ。

 ソロスは独創的な哲学者としての成功を熱望し、この思いを生涯持ちつづけた。具体的にいうと、人間の誤謬性を法則にまとめ、幅広く認められたかったのだ。

 しかし、残念ながら学校の成績は中の下でしかなく、学者としてキャリアを積むのはとうてい無理に思えた。

 「観念の冒険」を書いた哲学者、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドからも刺激を受けたソロスは、新しい物の見方を哲学的思索だけではなく、ビジネスという現実世界にも適用した。

 彼を魅了したのは、観念の ”冒険” という発想だった。賢明さを併せ持つソロスは、新理論を経済や金融に適用する場合、塾考よりも行動から多くを学べるということを理解した。彼の思考は行動につながり、行動は思考を向上させた。 』


 ソロスは、これから就職し、ロンドンで働き、26歳でニューヨークに移り、主としてヨーロッパの株を分析し、取引しましたが、ソロスはハンガリー語と同じレベルで、ドイツ語、フランス語、英語を操れたおかげで、経営幹部から直接話を聞くことができた。

 そのため、ほかのアナリスト(分析者)とは比べ物にならない、卓越した知識を手に入れることができた。これから、本格的に投資の世界を歩んでいき、ついにはイングランド銀行を打ち負かした男と呼ばれるまでになりますが、ソロスの話はここまでです。


 ピーター・リンチが投資家としての成功に必要な個人的資質を提示している。

 『 「資質のリストに含まれるのは、我慢強さ、自信、常識、痛みに対する耐性、精神の開放性、超然性、粘り強さ、謙虚さ、柔軟性、独立した調査を遂行する気構え、失敗を認める気構え、世間のパニックを無視する能力だ。

 最高といわれる投資家たちのIQは、最下層の10パーセントより上、最上層の5パーセントより下に分布しているだろう。私の意見では、真の天才は理論的思考に没頭するあまり、株の現実的行動に裏切られつづける。

 完全な情報なしに意思決定を行う能力も重要だ。ウォール街では物事が明確になることはほとんどなく、明確になったあとではもう利益を得ることはできない。

 すべてのデータを知ろうとする科学的精神構造は、投資における成功とは相容れない。最後に人間の ”性”(さが) と ”勘” に逆らうことも重要だ。

 自分は株価や金価格や金利を予想するコツを会得した、という確信を密に持っている投資家は珍しくない。その予言が何度も何度も外れているにもかかわらず」 』 

 リンチはこのような気の滅入るような包括的リストを提示している。


 最後に、アンソニー・ボルトンが良い投資家の条件をあげている。

 『 投資家にとって重要なのは、理論的かつ客観的に思考する能力だ。また、どんなときも当初の原理原則を忘れてはならない。対象企業の真髄が心の最上層に刻み込まれるよう、複雑な物語を短く凝縮する能力が必要となってくる。

 小事のとらわれて大事を見失ってはいけないのだ。”話がうますぎて信じられない” ときは、常識的な判断が助けになってくれる。”うまい” とされる話しの構造が、あなたに理解できないほど複雑な場合は、いっさい近づくべきではない。

 投資家は、自分自身の能力を正確に測る必要がある。自信過剰になるのは禁物。具体的にいうと、投資のパフォーマンスが良い時期が続いても、自分の才能に対する評価を大きく膨らませるべきではない。

 逆に、短期的なパーフォーマンスの悪さを強調して、自分の能力を過少評価すべきでもない。

 ボルトンの信条によれば、すべての保有銘柄は、”投資命題” を持っている必要がある。投資命題とは、当該銘柄を保有した理由———もしくは当該銘柄を保有したいと望む理由———を数行の文章にまとめたもので、あなたの10代の息子や娘にも理解できる内容でなければならない。

 そして、投資命題は一定期間ごとに再試験を受ける必要がある。 』 (第140回)