40. 骨董ハンター南方見聞録(島津法樹著 2001年)
『 1969年頃のマニラは東洋のマドリッドと呼ばれる、落ち着いた佇まいの街であった。清潔で深い緑の街路樹が茂る通りには南国の花々がこぼれるように咲いていた。
マニラ湾と平行して走っているマビニ大通りとエルミタ通りの間には数軒の小さな骨董屋がある。表通りの洒落た店とは違って割れた壷と土産物程度の木彫品、田舎の手織りの布などが雑然と置かれていた。
ある時その中の一軒を覗くと、埃にまみれたショーケースの中に一枚の鉄絵の大皿があった。
それは、白い小砂混じりの胎土にたっぷりと暖かみのある白化粧が施され、その上に黒々と鉄絵が施された南国風な作品だった。太い線で一匹の魚と花が中央いっぱいに活き活きと描かれていた。
その魚はかわいい目で下からチラッと見上げて僕の心を捕らえた。三十女が「クッ、クッ、クッ」と笑っているような明るい色気を感じさせる。
魚に表情などないが、絵付けをした職人はそんなことお構いなしに、人間臭い表情を思いきり出している。
僕は立て付けの悪いガラスケースをガタガタいわせながら、埃まみれのその皿を取り出した。午後四時頃の南国の太陽がショーケースに伸びてきている。皿から手に心地よい温もりが伝わってきた。
描かれた魚が甘えるような目で「連れてって」と語りかけてきた。「旦那、そのベッピンの魚を買うのかね」しわがれてやや詰まったような声が肩越しに聞こえてきた。
振り向くと七〇歳くらいの赤い目をした、くたびれた感じの男が僕の手にした皿を覗き込んでいる。男も魚を女と見ているのだろう、ベッピンのところに力を込めている。
「イエス。これいくら?」「旦那は目が高い。その皿はミンダナオから一週間前にやって来た飛び切りの上玉ですぜ」 ショーケースや皿に積もった埃から考え、少なくとも数年間はここにあったと思われる。
「この魚は店の主かね。ずいぶんと年増のようだが」 「ヘッヘッヘッ」と黄色い歯を出して笑いながら、「旦那、1000ドルでどうです。拾い物ですぜ。今時こんなコンディションのいい魚文皿はマニラ中探してもありませんぜ」
市内の骨董屋を隈なく歩いたが、確かにこんなに心惹かれる皿はなかった。しかし、親父の言い値で買うほど甘くない。
「冗談じゃない。三〇〇でどう」彼女に対してチクリと心が痛んだが厳しく親父に切り込んだ。
「ヘッヘッヘッ」の笑いですべてを清算した親父は五年前の値段だといい、「旦那、今時マニラはインフレでこの皿も昔の値段だから随分安い買い物ですぜ」と付け加えた。
狭く汚いショーケースの中で五年間も耐えていたかと思うと彼女が可哀想になった。埃を払ってやるとぱっちりとした目元や、ちょっと短めなボディラインがやるせないほどかわいい。
「親父。飛び切りの値段を出しな。埃をかぶせて根を生やしておくと売れる物も売れなくなってしまうよ。僕が見初めたのが潮時だぜ」
「旦那。知らんね。骨董は埃も値打ちといいますぜ。これ以上の値引きは無理。大見切だ。七〇〇でどうです」
小さなガラクタ屋だったので交渉は簡単に成立すると踏んだが親父はなかなか強(したた)かだった。ショーケースから取り出した彼女は実に魅力的だ。
親父に悟られないようチラッ、チラッと熱い視線を彼女に送った。すると彼女の下方になにやら小さい四角い香合が見えた。
交渉中、相手をイライラさせるためによく使う手であるが、棚の中の品物に手を伸ばすことがある。親父は僕が奥の手を使い交渉をはぐらかしていると思ったらしい。
「旦那、浮気はアカンよ」僕も始め親父の言う通り浮気のつもりで香合をつかんだが、蓋の上に施されている文様をみてびっくりしてしまった。
何と日本に三点しかないといわれる白呉須台牛の香合だったのだ。少傷もない完全な状態だ。彼女と同じように埃がこってりと付いていたので以前に覗いたときは気づかなかなかった。
安く見積もっても一万ドル以上はする代物だ。男は両手に花の時ひとりでに頬が緩んでしまう。
しかし、交渉する品物に惚れてしまったことを見透かされると立場が弱くなるので、ポーカーフェイスで親父の肩をドーンと叩いてファイナルプライスを告げた。
「五〇〇が最後」と僕が言うと、親父は七〇〇が最後と又切り返してきた。結局この交渉は中間を取って六〇〇ドルで決着した。
「オッケー、あんた素人にしてはハードネゴシェイターだ」と煙草の脂で汚れた歯を見せ、商談成立のおべんちゃらか親父がほめてくれた。
「親父、この汚い香合を今日の記念に付けてくれよ」親父が疑い深い赤い目でジロッと僕と香合を交互に見た。「アンタ、やるね」ドスの利いた声だった。
親父がまさか日本の形物香合番付表を知っているとは思えなかったが僕はどきりとした。「これ明の地方窯の量産品なんでしょ」一瞬、彼女の事を忘れ、手にした香合をぐっと握った。
「値切り倒しておいて更に小物を持っていくなんざぁ、この頃の若いのにはかなわんな。プロでもそんな事はやらないんだよ」どうやら親父は香合については何も知らないようだった。
僕は思い切り明るく「じゃあもらってくからね」と、たたみこんでやった。「しょうがねえな。代わりにアンタのそのペンを置いていきな」親父も中々の猛者だったが、僕のボールペンはタイ航空のスチュワーデスからかっぱらたサービス備品だった。ヘッ、ヘッ、ヘッ。
強い線で黒々と描かれた一四世紀スコーター魚文の大皿と日本に三つしかない台牛香合の名品を入手した。腹の底から嬉しさがぐっとこみ上げてきた。
魚文皿が僕の人生を変えた。数々の美術品や多くの素晴らしい人々との出会い、波乱に満ちた人生は上目遣いの三十女が持参金の台牛香合とともに持ってきてくてた最高のプレゼントだった。 』
『 メーホンソンのミャンマー側の骨董屋に、染付けの大きな皿があるという話しが僕の耳に入った。見つけたのはタイ人のヒッピーだった。
彼もバンコクやチェンマイでガイドやポン引きをし、金が貯まると翡翠原石に賭けている男だった。タイ人はミャンマー領に自由に出入りできるので、彼は常時ミャンマーに行っていた。
ヒッピー君の案内で染付大皿を見る為国境のゲートへ向かった。川舟でミャンマー側に着くと岸の上にイミグレと税関があり、役人たちが五,六人トランプ博打をしていた。
邪魔をしたら悪いので黙って税関の前をてくてく歩いて通ったが、チラッと見るだけで見ぬふりをしてくれた。通常外国人はこのゲートを通れないことになっている。勿論帰りには袖のしたを渡すことになっている。
目指す骨董屋はゲートから歩いて10分ほどのところにあった。狡(こす)っからそうな小男がキンマを噛み噛み、巻きスカートの端を直しながら出て来た。
「客を連れてきたので、皿をみせてやってくれ」とヒッピー君が言った。品定めをする様に、僕の顔を見ていた骨董屋の親父は無愛想に「無い」と一言。僕とヒッピー君はまったく無視されている。
こんな時は一発かますのが一番いい。「おい、帰ろう」 「オッケイ。ミスター」ヒッピー君もさる者、調子を合わせた。「日本人のビッグディーラーがわざわざここまできたのに残念だったなぁ」とヒッピー君が聞こえよがしにつぶやいた。
「チェンマイのディーラーが買いたいといっているんだ」親父が慌てたように言った。「それならいいや。そいつに売れよ」もったいぶって態度が悪い親父に強い調子でいってやった。
すると、「仕方ない。見せてやるか」という感じで二階へ案内された。階段を上がる時靴を脱ごうかと迷ったが、厚い一枚板の両端には埃がたっぷりと積もっていたので土足のまま上がってやった。
二階の薄暗い部屋のベットの上に五〇センチ前後の染付の大皿がドカッと置かれていた。その皿を見た途端、全身から汗が引いてしまった。
大皿は極上のペルシャ産のコバルト顔料を使っている。枇杷の木に尾長鳥がとまっている文様の明初永楽時代の見事な品であった。がっしりとした厚い器体はやや青みを帯びていて、ガラス釉の肌には一点の曇りもない。
構図は大胆で皿いっぱいに伸びやかに展開されていて、今にも飛び立ちそうな尾長鳥の微妙な動きが伝わってくる。五〇万ドルは下がることはないと見積もった。
大皿は官窯で焼成された器である。これと同じような作品がトプカプ宮殿に所蔵されている。恐らくこの皿は特別注文でミャンマーでの宮殿か大寺院の什器であったのだろう。
二時の方向に五センチくらいの欠損部分があるがそんなことは問題にならない。「幾ら」と思わず聞いてしまった。僕の声はかなり興奮してうわずっている上に、渇きによるかすれも伴っていたと思う。
「ミスター。これはチェンマイのディーラーのオーダーを受けている」 「誰? 僕が話をつけるからこの皿を売ってくれ」骨董屋は暫く考えていた。
小さな窓から射す光と天井に張り付いたジージーと音を立てている蛍光灯の薄暗い灯りの中で時間が止まった。
「四万ドルだったら売る」思い切ったように親父は言った。今僕の手元には二万ドルしか持ち合わせがなかった。僕は四万ドルをのんだが、二万ドルしか手持ちがないというと、親父は二万ドルを保証金として預けろと言う。
「じゃあこの皿を持って帰ってもいいか」 「ノー! 貴方、初めての人。信用できない」 「僕も初めての取引だからブツ無しで金は渡せない」
お互い信頼できないので話がつかず、結局二週間後四万ドルを持ってくることにし大皿を取り置いてもらうことにした。
他のディーラーに見せない事、取り扱いは注意して粗相の無いようにする事等細かく幾度も念を押した。しかし、親父の顔に何か引っかかるものを感じた。
当時バンコクにそれほど親しい取引先もなく、日本まで金を取りに帰らざるを得なかった。大皿のことを思うと気が焦り、二週間という約束を短縮して、五日間で四万ドルを持って引き返した。
ヒッピー君と二人で威勢よく「ヨォー、帰ってきたぜ!」と明るく店に飛び込んだ。骨董屋の親父はシレッとした顔でぼくの顔を見るなり、横目の金壷眼で「大皿は売ってしまった」といった。
「あほんだれ!」と思わず日本語で怒鳴った。意味はわからないが、怒っていることがわかったのか親父は、「あんたはドルをデポジットしなかった」と言い返してきた。
「しかし、二週間待つと言ったぜ」ヒッピー君も今にも殴りかからんばかりに睨み付けている。これ以上トラブると何が起こるかわからないので話しの方向を変えた。
「誰に売った?」 「バンコクのディーラー」 「バンコクの誰?」 「これはシークレットだから教えない」 きつい親父であの日の取引を思い出すと残念で今でも腹が立つ。
それから約二年が経ち、香港で行われた中国陶器オークションの図録を見て息をのんだ。何と僕が予約した大皿が三億円という天文学的数字で落札されていた。 』
『 一通の手紙が中部タイに住む掘屋のチャロンさんから届いた。文面は簡単で、古い窯跡が発見され多くの皿や鉢、壷が見つかったので買ってほしいとの内容だった。
この種の話はよく持ち込まれるが、実際に現地へ行くと例外なく偽物やがらくたばかりである。今回も多分そんなことだろうと思って期待もせずにシ・サッチャナライの掘屋の村を訪ねた。
住人は五十人くらいで、ほとんど全員が骨董品を発掘し生計を立てている。ピサヌローク空港から車で二時間、シ・サッチャナライに昼過ぎに到着した。
彼の家の前に車を止めると、いつものように五,六匹の犬が警戒しながら近づいて来て、喧しく吠え立てる。久しぶりに訪ねたこの村はあい変らず長閑だ。子供たちは小川で釣りをしたり、近くの田圃で蛙を捕まえたりしていた。
チャロンさんは家の横の洗い場で、発掘した陶磁器の土を洗い流していたのか手を拭きながらやって来た。「サワディ・カップ。ミスター・ノリキ、手紙見たか」
「イエス、内容に間違いはないだろうね」「家に入ってください。たくさんあります」彼は自信満々だ。直感でこれは何かあるなと思った。
先に立って行く彼の歩き方は力強く大きなチークの落ち葉をガサガサと踏みしめながら玄関へ向う。屋内に入っても早く見てくれといわんばかりに階段をドンドンと音を立てて二階に上がって行く。
広い部屋に入るなり、思わずうなってしまった。二十枚ほどずつ重ねた大皿や鉢が所狭しと置いてあり、1000点以上はあるようだ。
「すごいね。これ全部掘ったの」「ミスター、堀屋をやって三〇年になるが、こんなにたくさんの品物を扱うのは初めてです」「チャンロンさん、この発掘はあんただけの仕事?」
「いいえ、チェンマイの業者も山からの連絡で四,五人行きましたよ」「誰なの?」と尋ねると良く知っているディーラーたちだった。
大量の古陶器がタイ・ミャンマー国境の山岳部から出土したことを、この時初めて知った。チャンロンさんが言う四,五人のディーラーを除き、研究者や古美術愛好家もまだこの出来事をつかんでいないようだった。
僕は今誰も知らない宝の山に踏み込んでいるのだ。彼の説明を聞きながらこのヤマをどう料理するか考えた。
1000点を越える鉢、茶碗、壷等を調べ、必要なものだけを抜き出すのは大変な作業であり体力を必要とするが、「さ、やるぞ」と気合いを入れて取りかかった。
14世紀に製作された美しく澄んだ宋胡録青磁の数々や、同時代に製作されたスコータイ窯の鉄絵魚文の盤等が一番多かった。貴重な宋から明代の中国陶器も見られる。
東京国立博物館に収蔵されているものよりまだコンディションの良い安南(ベトナム)赤絵の茶碗もあった。
しかし、かなり乱暴に発掘したらしく、90パーセントくらいのものは破損している。更にカセという上釉が酸化したボロボロ状態のものも多かった。残り10パーセントはすばらしい作品だと見分けた。
この宝の山から良いものを抜き出して、うまく買い付けることができれば2,3年分の稼ぎがあるだろう。僕は運転手のウイッチェンさんとチャロンさんの家族全員を叱咤激励しながら作業を進めた。
端から手渡しで僕のところに皿や鉢が回ってくると瞬間に瑕や絵柄を見、仕分ける。中部タイの最も暑い時期、冷房もない二階は蒸し風呂のようで、汗が滝のように流れ、体力を消耗する。
丸二日間かけて1000点余の陶器の選別を行った結果、最上、上、普通、下と分け、買うべき作品を分類した。最上分類の中に世界の骨董市場で非常に価値の高い元染付の皿が四点含まれていた。
一計を案じ、この四点は安物の作品に混ぜ込んでおいた。これを安く買い付けることができれば、残りの品物は少々高く買ってもただのようなものだと計算して交渉した。
取引の大きなヤマ場である価格の折り合いがついてどちらもほっとした。美人の奥さんを冷やかしながらお茶を飲んでいると、「ミスター・ノリキ、緑絵の皿を見るか」とチャロンさんが訊く。
「ウン」といったが、ボロボロに疲れていたのでどうして一度に言わないのだと腹立たしかった。気を取り直し立ち上がったが、この手のやり方にはいつもうんざりさせられる。
しかし、疲れているからと面倒がっていては儲け仕事は転がってこない。むしろここからが本番というほど大事なこともある。
隣りの部屋に入ると大小の仏像が雑然と祭ってあった。そんな仏間兼寝室に20点ほどの見たことがない緑絵の皿が重ねて置いてあった。それは白い化粧土の上に緑の顔料でアラビア風の鳥や魚や花を描いた作品であった。
「何世紀ごろの、どの窯の作品?」と聞いたが、返事は要領をえないものだった。「わからない。隣の部屋の品物と同じ場所で見つけた」と言うのだ。
かなり高価だったが骨董屋の直感で全部買った。これが今まで世界の磁器研究者にも全く知られていなかった、新種のミャンマー陶磁が世に出るきっかけだった。
この美しい緑絵の皿や鉢はタイ・ミャンマー国境の深い山中に何らかの理由で埋められていたが、何故か忘れ去られて今日に至ったようだ。
15~16世紀に製作された緑絵皿は現在でもまだ窯跡が確認されず、なぜか短い期間だけしか作られなかったようだ。
その為発見後暫くして最高水準の珍しい絵付けの皿などは5万ドルの高値がついた。コレクターの間では幻の緑絵陶器と呼ばれた。
すべての取引が終わり、一息ついたところでチャロンさんにこれらの作品の発掘現場を尋ねた。
「これだけの陶磁器をどこから出してきたの?」「タイ・ミャンマー国境のタークの南です」
地図で詳しく場所を確認しようとしたが、この地域の道路などは未だに所々空白の箇所がある。軍事的な理由なのか測量の不備かわからないが特定するのに苦労した。
チャンロンさんが発掘現場近辺の写真を持って来た。森、象、人々が着ている黒い服、引っ詰めた髪はカラー写真であるがまるでモノクロのように単調だ。
現代のプリントなのにどこか明治時代のセピア色に変色した写真に似ている。「この村に行っても大丈夫?」と写真を指差して彼の顔を見た。
彼は発掘現場を荒らされては困ると思ったのか複雑な表情をしたが、思い切ったように言った。「危ないけど、ミスター・ノリキなら大丈夫」
何故僕だったら大丈夫かよく解らないが、少々荒っぽいことでもこなすと思ったのだろう。 細かい道順や写真に写っている村の事、訪ねる相手等をウイッチェンさんに詳しく聞き取らせた。
話しによるとそこは首長族もいるすごい場所らしい。持って来たキャッシュも底をついてきたので、いったんバンコクに引き返し、四点の元の染付け皿を売却し資金を作ることにした。 』
『 西部タイ・ミャンマー国境の町タークはこのあたりで一番大きな町だ。そこから少し南へ車を走らせると、ミャンマー国境を南下する道に出る。
山の峰や谷を縫うように造られた道を1時間ほど走行するとタイ軍の国境監視所がある。車を停止して、パスポートを預け書類にサインをした。
「トラブルに巻き込まれても此処から先タイ政府は責任をもたない」という誓約書である。
「この道は安全か?」「ちょっと前にカレン・ゲリラとミャンマー軍が向こうで撃ち合ってましたけど、大丈夫だと思います」運転手はどちらでも取れるような言い回しで状況を教えてくれた。
「ノリキさん、どうする?行きますか?」「行こ、行こ!」と自分自身を励まし出発した。国境監視所から約2時間半ほどのところで車を降りると、そこに10戸ほどの村があった。
「今日は」と一番近くの家に声をかけると、中年の女が出てきたのでチャロンさんにもらった写真を見せた。一言の断りも無く女は奥へ消えてしまった。
10分位たつと七、八人の男女がなんだなんだとやって来た。「ウイッチェンさん。拳銃くれ」「もう遅いです。変に動かない方がいい」彼も極度に緊張している。
我々はぐるりと取り囲まれてしまった。その中に写真の男がいた。彼らは全員腰に山刀をさし長い銃身の手製銃を持っていた。
写真の男に声をかけ、チャロンさんから紹介されたことを話した。すると男は肯くように僕らの前にやって来た。僕は陶片を取り出し、彼に見せた。
「これと同じ物があれば買いたい」男は陶片を手にとって眺めた。「ここにはない」「どこにあるの」「山を五つ越えた焼畑地の倉庫にある」この辺りの道のりを聞くと山一つ向こう、あるいは山の下というふうに山が基準となっている。
僕たちは早速村で二頭の象を雇って写真の男と数人の手伝いを連れ、山五つ向こうのメオの村に行くことにした。
象はゆっくりと歩いているように見えるが、実際に乗ってみると意外に早い。そして訓練されている象は乗せている人に前方の木の枝が当たらないよう、ボキボキと鼻で折ってくれる。
切り立った崖の上を通る時は、細心の注意を払っていて、厚い背中の皮膚から緊張感が伝わってくる。雄、雌、二頭の象を雇ったが、雄は荒々しく、雌は心優しいしぐさだった。
雄の目は優しく雌をいたわっているし、雌はちゃんと甘えていた。こんな出来事に感動したり、驚いたりしながら五つの山を越えた。
思ったより時間がかかり、太陽が西に傾く頃やっと目的地のメオの村に入ることができた。村は五戸ほどで住民は三十人くらいだと思われる。
写真の男は挨拶もせずに村の端の家に入っていった。暫くして、顔を出した彼が手製のパイプの煙を燻らせながら顎で入れというしぐさをした。
建物の中に入ると土の付いた大鉢や皿、壷等があちこち無秩序に積み上げられていた。太陽は山の端に引っかかって段々と暗くなってくるし、山気というか夕方の冷気はやる気を著しくそいだ。
僕は写真の男に暗くてチェックできないから明日の朝見せてくれるように言うと、彼も異論は無かった。この村の村長らしき男が彼を通じて今夜ご馳走するといった。これもチャロンさんが落としていったお金の余得なのだろう。
山に沈んだ太陽が村全体に薄い靄を呼び、陸稲のもち米を蒸す匂いが僕たちの小屋にも漂ってきた。ついで豚肉と香草を焦がす美味しそうな香りがしてきた。
唐辛子をごろごろ擂り潰す音に混じって牛や鳥などの動物が小屋に帰ってくる声がする。小さな村は今夜の食事を前に沸き立っているようだ。
この村だけでなく、東南アジアの農村では食事時には楽しい団欒がある。分厚い一枚板の低い食卓の上に様々な料理と共に、砂糖椰子の樹液から作る濁酒に似たすっぱい味の酒、もち米で作った強い蒸留酒等も並べてあった。
「ノリキ。あんまり飲むなよ」とウイッチェンさんが耳元でささやいた。主食はもち米だ。指で強く三,四度こね、半殺し状態にして豚のミンチをつけると美味しくてとめられない。しかし、これがなかなか消化せず眠くなる。
身体の小さい村人たちでも僕の三,四倍を平気で食べている。僕の横に若い娘がいて何かと食事の世話をしてくれた。目が合うとにっこり笑って蝉のから揚げや豚皮の煎餅を酒と共にすすめてくれる。
その夜は、服も脱がず、ごろ寝した。村の朝は日の出前から鶏や犬や豚や牛の声で賑やかに始まった。簡単な食事をして昨日見た陶磁器をチェックしに行った。
中に緑の絵付けの大皿が三十枚ほどあった。破損したものを除き、完全な緑絵の皿五枚と宋胡録青磁や安南染付の皿を買うことにした。
これらはバンコクでも相当の値打ちの品々であった。世慣れない山岳民族と高をくくっていたのに、したたかで鼻白む場面もあったが、昨夜のご馳走のお礼もかねて買い取ることにした。
支払いはシ・サッチャナライのチャロンさんの家で三日後と約束した。来る時の二頭と村の象二頭を引き連れて、凱旋将軍のような気持で帰路についた。 』
『 インドネシアは世界最多のイスラム人口を抱える国だ。ちょうど僕が訪れたその月はラマダンの最中で皆気だるそうに疲れた表情をしていた。
日中、幕で覆った小さな食堂のがたがたの椅子で飯を食っていると、何時しか僕も罪を共有しているような気持になった。
そんな時隣りに坐っている口利き屋のEさんがボソボソとした口調で情報をくれた。何時覗いてもめぼしい物のない、初老の男の骨董店に珍しい銅箱があることを聞かせてくれた。
覗くと店主もやはりラマダン中のだるそうな感じだった。「ウン? 目新しい物はないよ」と、そっけない。いつものことながら商売気のない親父だ。
「親父、口利き屋のEさんに聞いたんだが、奥の銅箱は売り物なの?」「この店の物はワシを除いて全部売り物だよ。ヒヒヒ」この男も冗談が言えるようだ。
「あんたを買ってもしょうがない。俺の美意識が耐えれんわい」と切り返してやった。「はやく銅箱を見せなよ」「あれは重くてちょっと動かせない」
「じゃあ僕が引っ張り出すから、あんたも手伝って」一番奥の隅に幅五十センチ高さ三十センチぐらいの青く錆びた蒲鉾形の箱があった。
隅々には厚さ1ミリくらいの黄銅の金具がついていて、がっしりとした作りの中にいい雰囲気を漂わせている。取っ手がついているが錆びて千切れそうなのでそこを持つわけにはいかなかった。
銅箱はずっしりと重く、狭い店内なので他の壷などに当たらないよう注意しながら表に引っ張り出した。何しろこの場所に20年間あったというだけに根が生えたのか、なかなか動かなかった。
「この箱の鍵はあるの?」「鍵は買った時からなかった」「随分重いけど中に何が入っているの?」
「開けようとしたんだが、錠が錆びついているのでそのままにしてあるんだ。それに壊れると値が下がるからなあ」
それは横着でしょう。20年間開かずの箱という訳?中を見たくなかったの?」僕の言葉に挑発されたのか彼の声が説教調になった。
「若い者は何でも見たがるし、知りたがる。見たり知ったりするより、そのままそっとして置く方がいいことがこの世には多いがね」
「でもね!。箱を売る時何が入っているか確認せずに売るなんて僕には考えられんねぇ」「あんたは若い。ワシくらいのキャリアになれば、もう焦ることはないよ」
「ところでこの箱幾ら?」「焦るな。値段は話し合いの後で作られる」「だって、僕が幾らかと聞いているんだよ」
「今日はラマダンであんたと話している間だけ空腹をわすれる。ヒッ、ヒッ、ヒッ」この親父結構やるな。
「あのね、僕は先程お腹一杯飯を食ってきた。それにしても川向こうのスマトラ料理の鶏はうまかったなぁー。水も冷たかった。フフフフ」
「罰当たり、神は許さんだろう」と、突然怒り出した。「ちょっと待って。僕は仏教徒だからラマダンはないんだよ」
「あそこには落ちこぼれどもがたむろしていただろう。それを言っているんだ」「もうラマダンの話はいいから、この箱の値段を言ってよ」僕の言葉は彼には届かなかったらしい。
「ノリキ、この箱はどこの物だと思う?」また親父は方向違いのはなしに持ってゆく。「たぶん、オランダかスペインのものじゃないの?飾り金具の花唐草文様がどこか南ヨーロッパの香りがするよ」
「うーん、さすがプロだ。俺もそう思っていた。何時頃作られた物だと思う?」「あんた俺に鑑定させて高く売り付けるつもりじゃないの。あんたの考えはどう?」
彼はしばらく考えていて、「銅の錆び具合から見て100年は越えると思っとるんだ」
僕の鑑定では16~17世紀のスペインのガレオン船に積み込まれていた金貨や銀貨を入れる銭箱だと見たが、これをしゃべると箱の値段が釣り上がてしまうので止めた。
「まあそんなところじゃないの。ひょっとするともっと若いかも知れんよ。それにしても鍵がないので錠を切ったら傷物になってしまうから安くしなよ」
「ノリキ、この箱をじっと見てごらん。水平線に湧き上がる入道雲がみえるだろう。その横に風をいっぱい受けた美しい姿がみえないかい!」
「全然見えないね! デブのオランダの金貸しが小脇に抱えた銭箱だろ」僕にだってこの男よりもっと美しいバージン・ブルーの海と船、水平線に浮かぶ緑の島が見えるが、ラマダン中の親父をがっくりさせなければならない。
「おー、何たるこの箱への侮辱。ラマダン中で、頭がぼやっとしているが、だまされんぞ!」「煙草を一服吸ってよく見てみな。蓋の開かないボロ箱の海のロマンなんか見えんよ」
「ノリキ、箱の横の青い錆をじっくり見てごらん。刀傷のような凹みがあるだろう。海賊と戦った男が小脇に抱えていて、一太刀浴びた痕がこれなんだ。命の恩人とも言うべき幸運の箱だな、これは」
「作り話なんかするなよ。これが刀傷だって?よく言うよ。ラマダンで煙草や水飲んでないので妄想が見えるんだ」
「神聖なラマダンを馬鹿にするのか。お前にはロマンのかけらもない」「もうこんなボロ箱いらない。この箱も後20年間店の隅に置いときな。そして毎日夢でも見るんだな」僕はむちゃくちゃせめてやった。
「悪かった。ラマダンなのですぐ」カッとするんだ。ちょっと表を締める間待ってくれ」といって入口に布を吊るして、男は煙草をとりだし、震える手でマッチを擦った。
「このボロ箱売るのかね?」「いいよ。500ドルで」「よい、それじゃ250ドルでどうだ」「もういいよ。それでもっていってくれ」といって手を箱の上でヒラヒラと振った。
通りに待たせたあった車の中へ箱を運び込んで鍵穴を見ると単純な構造のようであった。ジャラン・スラバヤにはよろず揃っていて、鍋の蓋のような半端なものから、古い鍵専門の骨董屋まであるので、鍵屋に行き鍵を車まで持ってこさせた。
軽いノリの男が首を振りながら鍵を二百個ほど持ってきた。彼はその中から数個選んで穴に突っ込んでは替え、突っ込んでは替えしていたが突然小さな鍵がグルッと回った。
「ミスター、これで開く筈です」と蓋に手をかけ、ぐっと力を入れたが蓋は全く動かなかった。400~500年間閉じていた箱が開くわけがない。
上下が錆び付いて一体となっているようだ。鍵の部分だけ外せば後はこじ開ければよいので、小銭をやって鍵屋を帰した。
並びの道具専門屋でバールを借りて来て隙間に入れ、こじると「バキン」という音とともに蓋が動いた。
車の外をちらっと見ると口利きやのEさんと仲間数人が真剣に覗き込んでいた。彼らに見られないように少しだけ開け、そっと覗いた。
箱の中には土か泥の塊が入っているだろうとあまり期待はしていなかったが、中に何か丸いものがびっしり詰まっている。
細かい泥が膜を張ったように付着し、全体に波をうっている。僕はそれを見て思わず、ごくりと唾を飲み込んだ。手を差し込んで少しだけ土を擦り落とすと、黒い分厚いコインの端が見えた。
この場で取り出してもっと確認したかったが外から口利き屋が覗き込んでいるので、見たい気持を押さえ、彼等の方を見ながら、独り言のように「へへへ、やっぱり土ばっかし」と、言った。
彼らは疑り深い目をしてこちらをじっと見ている。「暑いからホテルにかーえろ」と独り言を言って運転手に車をスタートさせた。
ホテルの部屋に鍵を掛け、箱を開けると17世紀のメキシコ銀貨1200枚が出て来た。風呂場で一枚一枚歯ブラシを使い丁寧に洗うと六時間かかった。
気が狂うほど興奮したので時間など少しもきにならなかった。こんなこともあるのでジャラン・スラパヤは楽しい通りだ。 』
(注)この本の時代1969年は1ドル360円の固定相場の時代である。(1971年8月より変動相場制)
私(このブログの筆者)が就職した年で、当時の初任給が1~2万の時代であり、海外旅行はハワイくらいで、東南アジアに目を付ける人はまれであった。
更に、東南アジアの歴史とその文化遺産に目を向ける人はまれであり、かつ危険であった。そんなのどかな東南アジアはもうない。(第41回)
39. 柳孝 骨董一代(青柳恵介著 2007年12月発行)
『 書画を専門に商売をしていた人で、目利きであったが、ついのめりこみすぎて失敗したHさんという人がいた。美術娯楽部への出入りも止め、店もあったが、夜市の売買の方が主になったように見受けられた。
夜市とは、業者の組合組織である美術娯楽部の市を公的な市とすれば、私的で小規模な市である。昔建仁寺の大中院を会場にかりた夜市があり、H氏はしばしば顔を出していたようだ。そこに玉堂の園中書画が出た。
H氏は玉堂の傑作に興奮し、自分が支払うお金を持っていないことも忘れて競りに参加してしまった。気がつけばH氏は三百万円で落としていた。市が終わればその日のうちに清算しなければならない。
H氏は市の途中で軸を抱え、大中院から花見小路を茫然と歩いて柳さんの店までたどり着いた。「柳さんなら絶対に買ってくれると思って持って来た。見てください」とH氏は軸を広げた。
「Hさん、いいもの買わはりましたなあ」と応じた。H氏は安堵の息をつき、今、貧乏をしているのでせいぜい高く買ってくれと言う。
三百万に五十万を乗せてくれないかという要求に対して、柳さんは百万を乗せた。「こんな嬉しい話はない、恩に着る」といってH氏は大中院に戻っていった。
一銭ももってないのに三百万のものをH氏に買わせたのは、他でもないH氏の目であり、彼の自信であろう。
それを自分なら必ず買ってくれると信じて持った来たH氏に柳さんは胸が熱くなった。玉堂は柳さんの最も敬愛する日本の文人である。 』
『 いつぞや、白洲正子さんの家で山椒鍋というものを御馳走になったことがある。地鶏を土鍋で煮たところに山椒の若芽をいっぱい投げ込んで、食べるというだけのきわめて簡単なものであったが、鍋に投げ込む山椒の葉の量が尋常ではなかった。
両手で山盛り掬った山椒は煮え滾る鍋の中で、あっという間に縮かみ、香りだけを鶏肉に残して消えるといった印象の、上品この上ない鍋であった。その鍋は、洛北の農家に伝わった食べ方だという。
新緑の季節に、柳さんがその山椒と地鶏を京都から持って来るので、食べにこないかと誘ってくださったのである。
柳さんが、お付きの人と現れたとき、私達は目を瞠った。二人共々、両手に径一メートルはあろうかという大きなザルには山盛りの山椒の若芽。あっけにとられるうちに、私たちは陶酔の境地に連れ去られた。
二時間くらい経ったであろうか、柳さんは「新幹線の切符をとってありますので」と挨拶し、台所にいたお付きの人と共に、空のザルを提げて早々に帰ってしまった。
あわてて帰ったというのでもなく、あとは皆さんでお楽しみ下さいといった引き上げ方だった。「なんて見事な引き際であろう」と白洲さんは感嘆した。柳さんは白洲さんの喜ぶ顔を見たら、それで満足といったふうであった。
白洲さんが柳さんの話をするときの一つ話に「最初は自転車、次にスクーター、次は小型自動車、大きな外車、そして運転手さん、会うたびにそのようい出世したのよ」というのがあった。
白洲さんは大東路の店の時代からの御贔屓であった。その話をすると、柳さんは「それは、そういう時代だったんですよ」と、止めてくれといわんばかりの顔をするが、白州さんは柳さんの成長を誰よりも喜んでいる。
柳さんの大事にする人間関係は、同業者を除いて三つの領域があると思う。第一は得意先、仕入れた品物を気風よく買ってくれるお客様だ。
第二が学者、研究者、柳さんは人一倍研究熱心であるけど、独学の危うさも心得ていている。第一線の研究者の研究を視野に入れ、常に彼らと緊密な関係を保っている。
ものの判断には、学者の意見を尊重する。研究者にとってみれば、柳さんは研究対象の重要な提供者だ。一種の共生関係が成立することになる。博物館がそのまま顧客になることだってある。
しかし、第一の顧客、第二の研究者に加えて、柳さんには第三の領域の人々がいる。市井の数奇者である。大金持ちでもないし、学者でもないが、広い教養を持ち、何よりもよい趣味を身につけた風流人。
美しいものを探し求める仕事には、研究的な知識も必要だが、それ以上に、勘と呼ばれる動物的な臭覚のようなものが大事だ。
古美術におけるこの勘は、よい趣味と直結している。数奇者たちとの日常の付き合いのなかで、よい趣味は感染する。柳さんはこの数奇者との付き合いをことさら大事にした。
この人達と付き合う時間をふんだんに作った。柳さんにとって、白洲さんは第一の領域の人であると同時に、第三の領域の人でもあったに違いない。
第三の領域の人々は、遊ぶことに関して贅沢である。「面白い」と思うことを共有しなければ一緒に遊ぶことはできない。 』
『 翌日、柳さんの店を訪れると、柳さんは今度は勾玉を眺めていた。大振りで、透き通った翡翠の勾玉である。前日の金銅の獅子が「力の塊」だとすると、今日の勾玉は命の塊」だ。
太古、海中に生じた生命の命までも、この堂々とした勾玉からは匂いをともなって発散されている。そう思わせるほどに、この玉の透明感は、あたかも海の底の発光物のような神秘的な透明感だ。
私は勾玉の本物、偽物がとんと分からない。一体どこで見分けるのか柳さんに問うと、「そんなこと一言で言えますかいな」という表情を浮かべつつも「先ず穴ですな」と答えてくれた。
急いで開けたような穴はいけない。本物の穴はゆっくり、しかし淀みなく開けられているという。それと全体から感じられる野太い線。
その言葉だけで本物と偽物とを見分けられるはずもないけれど、「命の塊」である勾玉を見る柳さんの視点は何となく伝わってくる。
王者の風格をもった勾玉をギュッと握てみる。光にかざして見る。古代人の心がすぐに伝わって来るはずもないけれど、穴を覗けば、たしかに慌てずに、しかも、率直な線が向こうまで続いている。
「ほのか」という語に掛る「玉かぎる」という枕詞がある。玉の放つ光のかがやき、それが「ほのか」だという古代人の認識である。「玉かぎる」は「魂」のかがやきにも通じよう。 』(第40回)
38. 翻訳に遊ぶ(木村栄一著 2012年4月発行)
『 新学期がはじまる前に、高橋先生に呼ばれて大学へ行った。研究室をのぞくと、「どこかで食事でもしようか」と言われて、三宮にあるレストランへ連れていっていただいた。
最初はどんな話が出るのだろうと不安だったが、先生から思いがけず身に染みる、いい話を聞かせたいただいた。
「木村君、いよいよ四月から授業がはじまるが、教壇に立ったらひとつだけ、絶対にしてはいけないことがある。それは嘘をつくことだ。
授業をしていると、質問されて分からなかったり、答えられなかったりすることがある。そういう時、その場しのぎにいい加減なことを決して言ってはいけない。
嘘をつくと、それを糊塗するために嘘に嘘を重ねざるを得なくなる。それがどんどん膨れ上がって、やがて収集がつかなくなる。T大学のM君を知っているだろうか?」
M先生と言えば、当時のぼくから見ればはるか雲の上の方だったので、はい、お名前は存じ上げていますと答えた。
「あの子は(ちなみに、M先生は高橋先生の教え子のあたる)はそんなに頭は良くなかったんだ。だけど、先生になってから、授業では決していい加減なことを言わなかった。
分からないところが出てくると、分かりませんと正直に言って、そのあと自分で調べたり、ほかの先生方に尋ねてから答えを返していた。語学の先生にとってはそれが一番の勉強になるんだ。
今のM君があるのはそのおかげだよ。教師というのはそんなに頭がよくなくても勤まるものだ。少々頭が悪くても、十年辛抱すればいい。十年間我慢して勉強すれば、誰でもそれなりに一人前の教師になれる。
だから、君も教室で嘘をつかないように心がけて、辛抱しなさい。そうそう四月からの授業は専攻語学の二年生の購読と研修語学のクラスをもってもらうことになっているので、準備をしておきなさい。語学の先生は教えることが何より勉強になるからね」
スペイン語を四年間勉強しただけで、専攻語学の二年生を教えるというのは精神的にかなりきつかった。 』
『 ある日大学のパーラーへ行くと、学生が近づいてきて、「先生、あそこにメキシコ人が迷い込んできたんですが、ぼくのスペイン語では手に負えないんです。代わりに話しを聞いてやってください」と言った。
ぼくのスペイン語能力は君とあまり変わらないんだとも言えず、仕方なくそのメキシコ人のところへ行って話しを聞いてみると、禅を学ぶために来日したが、言葉が分からなくて困っている、よかったら空いた時間に日本語を教えてもらえないだろうか、とのことだった。
そこで、ラウルという名のこのメキシコ人が宿泊している大学近くの禅寺に週に二回ほど行って、彼の僧坊で日本語を教えはじめたが、当時は日本語学習用のテキストがあることも知らなかったので、口頭で会話をはじめた。しかし、そのようなやり方でうまくいくはずがなく、すぐに雑談になってしまった。
「スペイン語で何を研究しているんだ」ある日、彼がそう尋ねてきた。「実は、二十世紀はじめのスペイン文学を研究しているんだけど、最近行き詰まりを感じていて、古典に戻ろうかと思っているんだ」と答えた。
「それなら、ぜひラテンアメリカの現代文学をやるといい。今すばらしい作家たちが出てきていて、とっても熱いんだ。そうそう、ここにいい小説がある。だまされたと思って読んでみるといい。
ぼくが日本にきて禅を学びたいと思ったのも、この本のせいなんだ」そう言って、ナップザックから真っ黒な装丁のぞっとするほど分厚い本を取り出してきた。思わず尻込みして、いや、いいよ、とても読めそうにないから、と断ったが、ラウル君は強引にぼくの手に本を押し付けた。
六〇〇ページを超える分厚い本で、しかもアルゼンチンの作家フリオ・コルタサルという名前すら聞いたことのない作家の『石蹴り遊び』という小説だった。受け取りはしたものの、どうせ読めないだろうと内心で思っていた。
家に帰って、これも何かの縁だろうと思って読みはじめたのだが、「ラ・マーガに会えるだろうか?」という最初の一行を読んで衝撃を受けた。
今思えば奇妙な話しだが、当時迷いに迷っていたぼくにとって、何かに出会えるだろうかという一文が啓示のようにひらめいたのだ。あの時、ようやく探し求めていたものに出会えたような気がした。
宗教が失われた現代世界の中で、中心、絶対を求めること自体が無謀な試みとしか言いようがないが、それを探求しようとして苦悩する主人公オラシオ・オリベイラ、感覚、感性を何よりも大切にする恋人のラ・マーガ、この二人の出会いと別離は、当時のぼくにとってはある意味で、文学作品と論文との関係を象徴しているように思えた。
また、この小説に詰め込まれているボルヘスとは位相を異にする作者の該博な知識にも魅了され、夢中になって読み進んだ。
その後、ラウル君に会った時に、今あの小説を読んでいるんだけど、すばらしい作品だね、と言うと、うれしそうな顔をして、そうだろう、ラテンアメリカにはまだまだすごい作家がいる、ぜひいろいろな作家のものを読んでみるといい、という答えが返ってきた。
『石蹴り遊び』を読んで感激したぼくは、すぐにコルタサルのほかの作品も取り寄せて目を通したが、彼の短編集はポーやカフカを彷彿させる幻想性をたたえつつ独自の世界を切り開いており、改めてこの作家はすごいと感心いた。そして、その時点で論文のテーマをコルタサル研究に切り替えることにした。 』
『 翻訳したいという気持ちはあるのに、その力、能力がないという厳しい現実に直面し、どうあがいても抜け出せそうになかった。ちょうどそんな時に共訳の話しをいただいた。
それこそ必死になってやったのだが、結果は惨憺たるもので、暗にこの訳では手の施しようがないと言われて、訳稿を返された。
そう言われても、どこをどう直せばいいか見当もつかず、毎日原稿をにらんでは手を入れてみるのだが、いじればいじるほど訳がおかしくなった。
心身の疲労が溜まり精魂尽き果てたが、それでもどこをどう直せばいいのか分からず、とうとう白旗を揚げて、カミさんに相談してみた。
スペイン語のスの字も知らないカミさんが、「私は文学作品などあまり読んだことはないし、翻訳物は読みにくいという先入観があるので、あまり近づかなかったけど、それでもいいの?」と言った。
こちらは藁にもすがる思いだったので、かまわない、とにかく訳を読んでおかしいと感じる箇所があったら、どんどん言ってくれと頼んだ。
ただ、ぼくの方にも意地があったので、共訳で分担したところを全部見てもらうというのはいささか悔しかった。そこで、その中の詩とエッセイの一部を見てもらうことにした。
訳した原稿を渡し、いったいどんな返事がくるかと息を潜めて待っていると、最初は遠慮がちに、「よく分からないけど、なんだかおかしな、意味の通らない文章ね。お手本になるものはないん?」と尋ねてきた。
翻訳家の大瀧啓裕氏とは昔から親交があって、当時から訳書を送っていただいていたので、カミさんに彼の訳した本をみせると、
「あら、こちらはとても読みやすいわね」という反応が返ってきた。
ぼくの翻訳とどこがどう違うんだと尋ねると、
「こちらは日本語として素直でとっても読みやすいでしょう。あなたのは苦労して訳しているみたいだけど、日本語として読むととっても疲れるのよ。訳文がギクシャクしているし、リズムがまったくないような気がするの」
あれこれ言われているうちに、こちらもいらだってきて、
「じゃあ、いったいどこをどう直せばいいんだ?」と切り口上で言った。
「それはあなたの仕事でしょう。私にできるわけがないじゃない。できるんなら自分がするわよ」と、お互いかなり険悪な雰囲気になってきた。
「いや、ごめん。じゃあ、どこを直していけばいい?」となだめにかかった。
「たとえば、このあたり、やたら《私》、《彼》、《彼女》って出てくるでしょ。日本の小説だと」こんなに出てこないと思うの。
主語や人代名詞がこんなに目ざわりなはずがないわ。それと形容詞も気になるの。原文に忠実に訳しているんでしょうけど、リズムというか、流れがとても悪くてイメージが湧いてこないのよ」
カミさんに指摘された箇所を直して見せると、「うーん、どこか違うのよね。うまく言えないけど、もっと主語が省けない?それとこの形容詞だけど、日本語でこんな言い方はしないでしょう」と言った具合に突き返される。
その繰り返しを何度やったことか、かくして、疲れて時計に目をやるとたいてい午前1,2時を指していた。やっと詩とエッセイの訳がひとつずつできあがった。
それ以外のものは自分で訳し、分担していた分を仕上げ共訳者の方に送ったところ、厳しい評言をいただいた上に、大きく手直しされたが、どうにか本になって出版された。
ああ、やっと本になったと、ほっと胸を撫でおろしたのだが、ある日、新聞を見ていたカミさんが大声をあげた。あの本が新聞の書評に取り上げられていて、仰天した。
ほら、ここ、とカミさんが指差したところを見ると、なんと大喧嘩の末、カミさんに言われて大幅に修正した箇所がわざわざ引用されて、その訳文が褒められていたのだ。
あれはこたえた。
自分が原文と格闘しながら泥沼の中であがき、苦しんだ末に作り出した訳文は、日本語としては箸にも棒にもかからない悪文だったということを思い知らされたわけである。
スペイン語を知らないカミさんの言葉に従った箇所が褒められるというのは、いったいどういうことなんだ、やはりぼくには翻訳はできないんだ、とひどく落ち込んだ。
しかし、スペイン語から日本語に移し換える過程に問題があるのであって、翻訳ができないわけではない、と自分にいい聞かせた。日本語を磨くことだと思い至った。 』
『 若い頃、恩師高橋正武先生と研究室でお茶を飲んでいる時に、面白い話しを聞かせていただいた。
「辞書作りで難しいのは、一つの単語にどういう日本語に移し換えるかということなんだけど、適切な例文を探すのもひと苦労でね。向こうの辞書にも例文は出ているんだけど、これというぴったりのものがないんだ。
いい例文はないかと思って小説や戯曲をずいぶん読んだけど、いざ探してみるとなかなか見つからなくてね。
時々これはいいと思える例文が見つかると、うれしくて抜き出すんだけど、そこだけを切り取ってみると、前後の脈絡がないものだからしっくりこないし、切り取った箇所だけなら、どんな風にでも解釈できるんだ。
結局、文章というのは、文脈の中で意味が決まってくるんだね。だから、辞書におあつらえ向きの、そこだけを切り取っても使えるような例文を見つけるというのはとてもむずかしいんだよ」
この言葉からも分かるように、個々の単語や文章はそれだけ抜き出すと、意味が取れなかったり、なんとでも解釈できる。そうした単語や文章に明確な輪郭を与え、くっきり浮かび上がらせる、つまり命を吹き込むのは文脈であり、時にそれはパラグラフの単位ではなく、ページ、あるいは章にかかわることもある。 』
『 スペイン語、英語、フランス語のように、一人称、二人称、三人称の代名詞がつねにはっきり分かる文章を読んで気がつくのは、主語が記号としての機能しかはたしてないことである。
その意味で主語の比重がきわめて軽く、しばしば主語が省略されるスペイン語でもそれは変わらない。つまり「話し手及び話しの相手を意味する専用の」記号でしかないのである。
それゆえ、主語が入っていても、単なる記号として読み飛ばせるが、日本語の場合は一人称と二人称に顕著に窺えるように、自分と相手を直接名指さないような表現を選び取る傾向がある。
したがって、主語を入れるのは意味に混乱が生じるとか、何らかの形で強調したいとかいった場合なので、ヨーロッパ諸言語とは比較にならないほど重い意味を担っている。
以上のことからも分かるように、日本語の本来の性質として一人称と二人称の代名詞はなるべく省略するか、間接的、迂言的な言い回しを用いる傾向がある。 』
『 鈴木孝夫は、ヨーロッパの文化が、自分、つまり《私》、《ぼく》と相手、つまり《あなた》、《君》との対立を基礎とするのに対して、日本の文化、日本人の心情が自己を消し去って対象に没入させ、自他の区別をなくそうとする傾向が強いとして、日本語の構造の中に、これを裏付ける要素があると言えると述べている。
したがって、日本人は相手の意向を酌んだり、その場の空気を読んで自分の考え、意見をまとめるのを得意とする。
日本人だけの場であればそれでいいが、自分の意見をはっきり打ち出す必要のある国際舞台に出ると、そうした姿勢がさまざまな問題を生むもとになると指摘している。
こうした日本人的な考えが、土井健郎の言う「甘え」の構造に繋がっていくのだろうが、一方で自他の区別を明瞭に打ち出そうとする欧米的な姿勢、つまり明快に他人と考えが違うのだと自己主張をしなければならない文化においては、精神面で大きな問題を抱え込むことになる、と河合隼雄はその著書「ユング心理と仏教」の中で指摘している。
彼は、西欧の近代は自然科学を大いに発達させたが、その背景には自己と他人を区別する姿勢が明瞭に見て取れるとして、西欧の近代を評価しつつも、一方でそこに孕まれている危険性について、次のように述べている。
「近代になって急激に発展した自然科学は、テクノロジーと結びついて、人間が多くのものを操作し、自分の望むところを実現することを実現することを可能にしました。
このため、人間は何でも自分の欲することは手にはいるし、自分の意のままに他を動かすことができる、と思いこみ過ぎたのではないでしょうか。
「科学の知」によってすべてのことが理解され、すべてのことが可能になると思ったのでしょうか。しかし、科学の知の根本にある対象と自己との分離ということを何にでも適用しようとしすぎて、「関係性の喪失」という病を背負わざるをえなくなったと思われます。」
河合隼雄は、日本人の精神風土を作り上げた土壌として、本人が意識する、しないにかかわらず仏教的な要素があると指摘している。つまり、西欧と日本では、精神風土、文化の違いがその根底に厳然としてあると言えるだろう。 』(第39回)
37. 良寛 行に生き行に死す (立松和平 2010年発行)
『 文政十(一八二七)年、良寛は七〇歳である。福島村(現・長岡市福島町)の閻魔堂に草庵を結んでいた二九歳の貞心尼が、尊敬する良寛に和歌を見てほしいと、かねて懇意にしていた木村家に申し入れていた。
貞心は長岡藩士の二女で、俗名マスといい、寛政十(一七九八)年生まれである。十七歳で小出(現・魚沼市)の医師・関長温に嫁し、夫との死別を機縁とし、出家した。
良寛はあちらこちら泊まり歩いて留守がちであった。その不在の時に貞心は自作の手まりに和歌を添えて良寛の庵室に残していった。
これぞこの 仏の道に 遊びつつ つきや尽きせぬ 御法なるらむ
(これがまあ、仏道に遊びながら、ついてもつきない仏の教えを体現する手まりなのでしょうね。いずれ、お目にかかり、まりつきによる仏法の極意を教えてくださいませ)
良寛の生き方がまことに仏の道にかない、まりをつくことは「尽きぬ」無量の功徳があると詠んでいる。良寛の生き方の理解者である。和歌に感心した良寛はすぐに返歌を人に託して贈った。
つきてみよ 一二三四五六七八九の十 十とをさめてまたはじまるを
(私について、まりをついてみなさい。一二三四五六七八九(ひふみよいむなやここ)十(とお)と、十で終り、また一から始まるくり返しに仏の教えがこめられている)
「つきてみよ」とは、来訪を歓迎するということである。この返歌に喜んだ貞心尼は、さっそく島崎に良寛を訪ねた。
良寛の前に坐った貞心尼は、才媛もさることながら、清楚でにおいたつような美貌の人であった。四十歳の年齢の差など越えたほのかな恋愛感情が二人の間に湧き上がるのは、ごく自然のことだ。
道をひたすら歩いてきた良寛への、仏の布施であるようにも思える。夫の死という人生の苦難をなめてきた貞心尼にも、同じことがいえる。
良寛を愛する多くの人は、晩年に梅花が咲いたような精神的な恋愛に、憧れにも似た感情を持つのである。貞心尼、「蓮の露」にとられた師と弟子の歌は、ほとんど相聞歌だ。文政十(一八二七)年七月、初対面の夜の歌である。
君にかく あい見ることの 嬉しさも まだ覚めやらぬ 夢かとぞ思う 貞
(師の君にはじめてこうやってお目にかかり、嬉しくていまだに覚めない夢のような気持です。夢ならばやがて覚めるでしょうか)
夢の世に かつまどるみて 夢をまた 語るも夢も それがまにまに 師
(夢のようなはかないこの世の中で、もううとうとと眠って夢を見、またその夢を語ったり夢を見たりするのも、その成り行きにまかせましょう)
二人は話と歌の交換に夢中になり、夜になってしなった。良寛は貞心尼に木村家に泊まるようにいったが、また話し込み、結局、朝になってしまった。
良寛と貞心尼の交際は四年間、良寛の死までゆっくりとつづく。 』
『 島崎に移住して五年目の天保元(一八三〇)年夏頃から、良寛は激しい痢病を患って衰弱していった。木村家の人たちは献身的に世話を焼いた。貞心尼に会いたいという思いをつのらせていた良寛は、こらえ性のない真情を吐露した歌を贈っている。
あずさ弓 春になりなば 草の庵を とく出て来ませ 逢ひたきものを
(暖かい春になったならば、庵を出て早く私の所へ来てください。あなたの顔が見たい)
「逢ひたきものを」といい切るところに、良寛の飾らない人格と、人間的な叫びがある。木村家の人が急に病気が重くなったと知らせてきたので、貞心尼はあわててとんでいった。
すると良寛は床の上に坐り、にこにこして貞心尼を迎えた。日がたつにしたがって良寛の病状はどんどん悪くなっていく。避けられない別離を悲しんで貞心尼が詠むと、良寛が返した。
生き死にの 境離れて 住む身にも さらぬ別れの あるぞ悲しき 貞
(お師匠さまと私とは、生死の境界を超えて仏につかえる身ですのに、避けられない別離があるのは悲しいことでございます)
うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ
(紅葉が裏を見せ表を見せてひらひら散るように、私も喜びと悲しみ、長所と短所など、さまざまな裏と表の人生を世間にさらけ出しながら、死んでいくことだ)
天保二(一八三一)年正月六日、良寛は由之や貞心尼や木村家の人々が見守る中、坐したまま静かに入寂したという。この世の形見に親しい人へと何枚も書き残したこの歌が辞世である。
形見とて 何残すらむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢ葉
もちろんこれは道元の釈歌「春は花夏ほととぎす秋は月 冬雪さえてすずしかりけり」からきている。まさに道元とともに生きた生涯であった。良寛にはもう一つ辞世と呼ばれる歌がある。
良寛に 辞世あるかと 人問はば 南無阿弥陀仏と 言ふと答へよ
この歌の意味は深遠である。峻烈なる禅修行から仏門にはいった良寛が、人や世間や自然と交わっていくうち、その身を仏の家に投げ入れる。「月の兎」のようである。晩年の道元にも同じようなことを感じる。
甚深なる仏の境地には、自力門も他力門もない。途中の道はともかく、真理としての仏は一つなのである。そのことを良寛の辞世の句は示したいる。
良寛の葬儀の当日は大雪だったが、二百九十五人もの会葬者があった。戒名は「大愚良寛首座」である。墓地は木村家と隣接した浄土真宗隆泉寺と定められ、現在もそこに建っている。 』
『 禅宗二祖慧可は幼い日より志気があり、詩書を数多く読んで、奥深い道理に詳しくなった。しかし家の経済活動をせず、好んで山水に遊んだ。
また禅宗初祖達磨に学んだ後は、都に住んで自由自在に活動し、酒場に出入りしたり、人の召し使いになったりした。
つまり、俗世の中でよく働いた。慧可は奥深い僧堂や山村に籠もるのでなく、町に出て人々のために勤労雑役を行った。
良寛は二祖慧可に深く共鳴し、「僧可」と省略して呼んだ。慧可は身を粉にして働いたが、それも人のためであり、自分はいつも清貧であった。
子供と手毬をついて遊んでいた印象の強い良寛であるが、故郷の越後に帰って間もなく、はじめて庵を結んだ郷本(長岡市寺泊)にいた頃は、よく労働をしていたとされる。良寛は若い時から安隠として時を過ごしていたのではないのである。
家は荒村に在りて裁かに壁立し (わずかにへきりつし)
展転として傭賃して且く時を過ごす (ようちんしてしばらく)
憶ひ得たり疇昔行脚の日 (おもひえたり、ちゅうせきあんぎゃのひ)
衝天の志気敢へて自ら持せしを (しょうてんのしき、あへて)
(家は荒れた村にあり、壁が立っているばかりで家財道具もなく/あっちこっち点々として日雇い仕事で時を過ごしている/思い出すのはその昔に行脚修行をしていた日に/天を衝くほどの激しい求道心を自ら持ちつづけていたことである)
良寛は労働こそ修行と考え、ことに若い頃にはよく働いていたということである。良寛は玉島円通寺から越後に戻り、郷本の空庵にはいった頃、雇われて製塩の仕事に従事していたとされる。
ただし良寛は労働を特化するのではない。托鉢も、子供と遊ぶことも、傭賃も、人のやることはすべて修行の一端だと考えていた。
この思想を積極的に展開したのが道元である。良寛の言動は、ふと立ち止まって凝視すると、その向こうに道元の姿が見えてくる。道元の「典座教訓」(てんぞきょうくん)の言葉である。
典座云う、「文字を学ぶ者は、文字の故を知らんと為すなり。弁道を務むる者は、弁道の故を肯わんことを要むるなり」と。山僧、他に問う、「如何なるか是れ文字」と。座云う、「一二三四五」と。又問う、「如何なるか是れ弁道」と。座云う、「偏界曾て蔵さず」(へんがいかつてかくさず)と。
ここに道元禅の出発点となった思想があり、良寛がそれに深い影響を受けて、その後の生き方が決定されたことがわかる。「一二三四五」や「いろはにほへと」は、良寛が書としてよく書いたものである。訳を試みてみよう。
典坐はいった。「文字を学ぶものは、文字とは何かという真実を知ろうとするものである。仏道修行とは何かという真実を知ろうとするものである」と。私は彼に問うた。「文字の真実とはいったいなんですか」と。
典坐はいった。「一二三四五」と。また私は問うた。「仏道修行の真実とはいったいなんですか」と。典坐はいった。「すべての世界は何も隠されてない」と。
「一二三四五」は文字の最小単位である。文字は組み合わせによって無限の意味を持ち、詩歌に使われれば、人間の情感さえも漂わせてくる。
しかも、その組み合わせの数は限定できるものではない。これが世の中の成り立ちというものである。
一つ一つは意味を持っていないからこそ「空」であり、空ならばこそ、そこから無限の世界が描き出されるということだ。「空」の中にはすべてがあるのだ。
「偏界曾て蔵さず」は、真理はどこでもあふれていて、しかも露わだということだ。仏の説く真理は、坐禅をする僧堂の中だけにあるのではない。
海でも山でも、掃除をする部屋の中にも、草むしりをする庭にも、この手の上にも、あまねく真理は流れている。真理でないものは、あえて身のまわりを探すと、人間のすることぐらいしかないにではないか。
花鳥風月などの自然の巡りも、朝日の流れも、一片も欠けることのない円かな(まどかな)真実である。だが人はそのことに気づかない。気づかないことが哀れではないか。
また人のすること、行・住・坐・臥(が)、歩いたり立ったり坐ったり横になったりすることすべての行の中に、真実がある。
労働をすることにも真実があるのだ。だからこそ、たちまち消え去っていくこの一瞬一瞬が、かけがえもなく大切なのである。
そうであるからこそ、慧可は街をうろつきまわり、肉を食べ、酒場にはいり、労働をして、人の召し使いにもなったのである。そのどの場所にも真実があったからだ。真理はどこにあってどこにはないということはない。
良寛は天地一枚の真理のまっただ中に生きていたのである。真理に包まれているのにそれに気づかない人もいる。
もちろん良寛は仏の説く真実とともにこの世に生きていることを喜んでいたのである。もちろん慧可も道元も同じである。
私たちは真理に囲まれ、そのただ中で生きているのだが、そのことを認識していない。真理はどのようにして偏在しているかを知れば、良寛その人を少しは理解できるような気が私はするのである。良寛は真理とともに遊んで生涯を送ったのだ。 』
著者の立松和平は、1947年宇都宮生まれ、早稲田大学在学中に「自転車」で早稲田文学新人賞を受賞、インド放浪などをへて、宇都宮市役所に勤務。
1979年(32歳)から文筆活動に専念。1980年「遠雷」で野間文芸新人賞、1993年「卵洗い」で坪田譲治文学賞、2002年「道元の月」で大谷竹次郎賞、2007年「道元禅師」で泉鏡花文学賞など多数。2010年2月、逝去。
本書は、2010年6月発行なので、著者の生前に企画され、執筆が進められた。本書の最後の「蛙声、絶えざるを聴く」章が絶筆である。
以下このブログの筆者の感想を記す。
立松和平は、道元から良寛へと禅僧の歴史をたどりながら、良寛が目指したであろう、道元とその著作をたどった。
その後、良寛、貞心尼の足跡と著作をたどり、その膨大な著作を本書を最後に絶筆した。著者の良寛への尊敬と愛が、それを読む私たちにも、伝わってくる。
私(このブログの筆者)に、仏教とは、何かと問われれば、(私に聞く人はいないが(ここでの仏教とは、日本仏教を指す))。
仏教とは、鑑真和上(688~763年)、広隆寺弥勒菩薩像(7世紀)、良寛と答える。私にも良く解らないが、彼らは、自分の命をも捨てる覚悟で、真理(学問)を追求し、修行した。
何故人と仏像が混ざるのか、彼らは仏の域に達しているから、と答える。これらの仏は、私たちには、慈悲深い表情で答えるが、命をかけて真理(農業、建築、文字、薬学、芸術、宗教、森羅万象の真理)を探求し、修行し、その足跡を残した。(第38回)