69. アラスカ (水口博也著 二〇〇七年七月)
著者は一九五三年大阪生まれ、一九七八年に京大動物学科を卒業後、一九八二年から、二五年に渡って、アラスカの海でクジラやシャチの写真と観察の記録を発表してきた。私(ブログの作成者)がここで紹介するのは、ザトウクジラやシャチの観察するための現場に、機材と食料と人を運び、撮影をサポートする、船長やパイロットについての、記述を紹介いたします。
『 一九八七年七月二四日一四時三〇分に、プリンス・ウィリアム湾に北大西洋を回遊するザトウクジラやシャチの撮影旅行の待ち合わせ場所として、「アンカレジ空港のカウンター前」というメッセージが、星野さんから届いていた。当時フェアバンクスから来る彼との待ち合わせである。
出向いてみると、さまざまなキャンプ用品が段ボールに入れられて、無造作に積まれている。移動が多くできる限り荷物をコンパクトにまとめるくせがついているぼくの荷物とは、あまりに対照的な荷物に驚いて、「これ、飛行機に積んで持ってきたの」とぼくがたずねると、「いつもこうだよ」と星野さんはあっさりと答えた。
それにしても、アンカレジでしなければならないことは、あまりにも多い。まずは税関へ、貨物便で送ってあったボートとエンジンを受け取りに行かねばならない。それに、これからのキャンプに必要な三週間分の食料と、その間ボートで走りまわるためのガソリンの買い出しである。当初ぼくたちは、この二日間で準備を完全におこなうことを考えていた。
ぼくたちは、ホテルの薄暗い照明の下で、星野さんがすでに手に入れておいてくれた海図を前に、その細部まで読みとるように目を走らせていく。ようやくチェネガという島に南東の角にある、ひとつの入り江を選んだ。入り江には小川が流れ込み、上流に小さな湖がある。
チェネガ島の南東の角は、散在する島じまがつくりだす何本もの水路が合流する場所にあたり、潮の流れがぶつかりあって魚群を集め、クジラやイルカなど多くの海の動物も姿を見せる可能性が高い。
あとは、この場所までどのように荷物を運ぶか、である。ぼくたちは当初、プリンス・ウィリアム湾の入り口にあるウィテアーか、あるいはアンカレジの南に位置するスワードまで車で運んで、あとは小さな漁船でもチャーターしてキャンプ地に運んでもらうことを考えていた。
しかし、夏は漁船にとって大切なサケ漁の時期であり、漁師たちにとってはそれどころではない。大金を生み出すサケ漁を休ませようものなら、相当のチャーター料を払わなければなるまい。結局、水上飛行機をチャーターして、アンカレジから直接キャンプ地まで入ることに決めた。
しかし、何しろ荷物の量が多い。ぼくたちが空撮のためによくチャーターしたり、ここで釣り客を運ぶのに使われたりするセスナ機程度では、まったく用をなさない。翌朝、アンカレジ国際空港のすぐ近くにある、フード湖という湖を訪ねた。ここには水上飛行機のチャーター会社が並び、それらの会社が所有する水上飛行機が、湖面に航跡を残して離発着を繰り返している。
とりわけ夏のこの時期、多くの釣り客やハンティングの客たちが、目的の場所まで運んでもらい、好きな日数だけ滞在して、また決めた日に迎えに来てもらうというやり方で利用している。ぼくたちもこの方法をとることになるのだが、どのタイプの飛行機なら積めるか。
チャーター会社をまわって見つけることができたのはビーバー機で、積載重量一三〇〇ポンド(およそ六〇〇キロ)。かなりの積載量だが、ボート、エンジンという大荷物に三週間分の食料、毎日ボートで走りまわるためのガソリン、それに三人の体重を加えるなら、これで足りない。(三人とは、星野道夫、伊藤千尋(友人のビデオカメラマン)、著者)
しかし、三週間分のガソリンを一度に機内に積みたくない、というパイロットの言葉に従って。最初に積めるだけつんでいき、残りのガソリンは、行程の途中で補給してもらうことになった。こうして、翌日に出発する予約を入れることができた。ぼくたちがこの会社の飛行機を使うことを決めたのは、ビーバー機を所有していたこともあったけど、六〇歳ほどのオーナーと、横で働くパイロットたちのきびきびした動きに促されてのことだった。
事務的な仕事ではなく、小さな船や飛行機を運行するという、つねに予想外のことが起こりえる仕事のなかで、キャップテンやパイロットの能力や転機のみが頼りになる。そして、人間の能力や転機の才は、ふだんの動きのなかに現れるものである。あとは、食料やキャンプ用品の買い出しだが、夜遅くまで開いているスーパーマーケットで買い出しを終えたのは、すでに夜11時近くだった。
そのとき見上げた、金属の光沢にも似た明るさをまだ残した空の色あいをいまでも覚えている。「明日には出発できないかもしれないね」と最初に口に出したのはぼくだったけれど、誰もが同じことを考えていただろう。というのは三週間分のガソリンを、大きなドラム缶ではなく、運びやすいように、五ガロン(およそ一八リットル)いりのポリタンクに入れて持っていくのだが、少ない日で一缶、多い日で二缶、平均一日一・五缶を使うとすれば、二十日間で三〇缶用意しなければならない。
しかし、この日いくつかの店をまわって手に入れることができたポリタンクは必要数の半分に満たず、翌日から別の店を探さなければならなかった。ガソリンが一缶五ドルなのに対して、タンク一缶が11ドルもするのも計算外であった。
翌朝、すでに準備ができている荷物を持って水上飛行機のチャーター会社へ行くと、若いパイロットたちが、すぐにぼくたちの荷物の重さを計りはじめた。「準備はできたか」とせかすようにたずねるオーナーに、出発が遅れる可能性を伝えると、すでに到着していた次の客たちを、先に飛行機に案内していった。その日は日曜日にあたっていて、釣り客も多いのだろう。
ぼくたちは、急ぎ町に出てポリタンクを買い足すことにしたものの、必要な数が一軒、二軒の店ではそろわない。ガソリンを満たして運び入れては、また別の店にむけて車を走らせていく。そんなぼくたちを見ながら、オーナーは次の客をスタンバイさせはじめている。こうして、結局正午をまわった頃、オーナーは「もう今日は無理そうだから、明日にしよう」と切りだした。
延期は、誰にとっても残念はことにはちがいなかったけど、ぼくはこのばたばたした準備で何か大きな忘れものをするのではないかと気がかりになりはじめていたので、むしろ安堵を覚えたのも事実だ。結局その日一日をかけて、残りの作業をかたづけて、翌日一番に飛び立つことになった。
落ち着いて昼食をとったあと、残りのガソリンを買いそろえる。こうして一息ついたときだ。星野さんが「ちょっと寄りたい場所がある」と立ち寄ったのは、郊外にある彼の友人宅だった。気軽な挨拶をすませ、むかった倉庫のなかで、斧やシャベルなどキャンプに便利なものを集めはじめた。そして最後に大きな布製のバックを引っぱりだした。おさめられているのは、折りたたみ式のカヤックだという。
もしもフライトを延長しなければ、こうした道具類も持っていけなかった。それだけでも、一日延期したかいがあった。同時に、この新規の荷物の重量を、パイロットはどう計算するのかという思いがよぎったけれど、あえてそれ以上考えないことにした。すべての準備を終えたときには、夕方の七時をまわっていた。まだまばゆいほどの太陽が、アンカレジの町を照らしていた。
翌朝は前日にもまして、雲ひとつない快晴である。早朝からチャーター会社に出かけて、決めてあったビーバー機に荷物を積みこんでいく。前日に、ひとつひとつの荷物の重量を計ってからも荷物は増えているが、パイロットは気にもかけていない。一キロ単位で荷物の重さを計算していたぼくたちは、少し肩すかしされたような気がしたけれど、追加の重量が問題にならなかったのは何よりの幸いだった。
大物はボートとエンジンだが、それ以上にやっかいなのは、三〇缶分のガソリンである。ぼくたちは結局、次回補給分として、ちょうど半分を残していくことにした。エンジンがかかり、プロペラが風をきりはじめる。後部座席に座ったぼくは、一息つきながら、前部座席のパイロットと星野さんのシルエットになった頭ごしに、湖面の風景をながめていた。
桟橋から離れた水上飛行機は、ゆっくりと湖面の中ほどまで来ると、一気にエンジンの回転数を高めて滑走を開始する。かすかに体が浮きあがったかと思うと、それまで聞こえていた水上飛行機のフロートが水を切る音が消えた。ビーバー機は、満載の荷物をものともせず、速度と高度をあげていく。飛びたった湖とアンカレジの町並みが、後方に流れるのを見おろしながら、ぼくはこのときすでに、長い準備が報われたようなきがしていた。
ぼくたちの飛行機は、プレアデス諸島の上を右に大きく旋回しながら、チェネガ島にむけて高度を落としはじめた。予定のキャンプ地は、島の南東の角にのびだした岬がつくりだす入り江である。この岬に立てば、プレアデス諸島も望むことができ、おそらくはそのまわりの海にクジラの潮吹きがあがるのを見ることもあるだろう。
ぼくはパイロットに、キャンプ地の上空を二,三周旋回してくれるように頼んだ。キャンプを設営する場所を決めるうえでも、あたりを広く見ておきたかったからだ。見下ろす入り江の奥には草原が広がり、草原はなだらかな斜面になって、島の中央部にそびえる山につづいていく。
草原の一角には、海図のうえで確認していた湖があり、細い流れをつくって入り江に注ぎ込んでいる。この流れに近い草原は、絶好のキャンプ地だろう。パイロットは、ぼくたちのOKの合図とともに、入り江にむけて高度を落としはじめた。みるみる海面が近づき、やがて着水したフロートが後方にしぶきをあげはじめると、飛行機は一気に速度を落として入り江の奥で停止した。
入り江には、ところどころに大きな雲のようにかたまった魚群の影が見える。産卵をひかえたカラフトマスで、早いものはすでに湖から注ぎ込む流れの中を遡りはじめている。水面に魚が群れる風景は 、不思議に見る者の心を満たすものだ。これからのキャンプが充実したものになるように思えた。
飛行機から荷物を浜におろすと、パイロットは10日後に残りのガソリンを運んでくることをぼくたちに伝えて、ふたたびコックピットに座った。エンジンの音とともに、プロペラが風を切る音が静かな入り江に響きはじめる。向きを変え、鏡のような海面に船跡をひいて滑走をはじめた飛行機は、軽くなった機体をまたたく間に上空に持ちあげると、空の彼方に消えていった。これでしばらくは、ぼくたちは外界から隔絶されてすごすことになる。
すべての荷物が浜のひとところに積みあげられると、思いのほか多い。ぼくたちは浜とキャンプを設営しようとする背後の草原との間を、何往復もして荷物を運ばなければならない。その作業をようやく終え、それぞれがテントを張ったときには、すでに午後も遅い時間になっていた。
「ボートの試運転をしておこう」ゴム製のボートをポンプでふくらませて、船外機をとりつける。海に浮かべたボートのエンジンを始動する。ところどころでカラフトマスが跳ねる海面を、全長四・二メートルのボートは飛ぶように走りはじめた。 』
一九八七年七月の三週間のキャンプは、無事に終了した。一九八九年三月にこのプリンス・ウィリアム湾で二十万キロリットルの原油を積んだタンカーが座礁し、四万キロリットルの原油が流失した。一九九六年八月カムチャッカ半島で星野さんがヒグマに襲われ死亡。二〇〇二年まで、プリンス・ウィリアム湾から離れた。
『 一九九〇年ごろから、ぼくは南東アラスカ(アメリカ大陸の太平洋岸を見ると、アラスカ州の一部が、カナダの海岸線のなかに深く入り込んだ場所がある、ここが南東アラスカと呼ばれている)を自由に旅ができる船を探しはじめた。それは一度きりのものではなく、今後何年にもわたって、ぼくの取材を支えてくれる足になりうるものでなければならない。アメリカやカナダには、自然観察や、サケやオヒョウを対象とした釣り、ハンティングなどを目的にしたチャーターボートは限りがある。
個人所有のものもあれば、旅行会社、観光会社が所有するものもある。あとは、船の大きさや費用など、自分の目的や裁量にあったものをどう探すかである。ぼくはジュノーの町を拠点とするチャーターボートのオーナーたちに連絡をとりはじめた。当時まだ電子メールはなく、ファックスがようやく使えるようになった頃である。
ぼくは見つけた限りのチャーターボートに、手紙やファックスを送り、こちらの目的を伝えるとともに、船の詳細を教えてくれるように頼んだ。船の大きさや費用が、一定の範囲に入っていなければならないのは当然だが、それ以上にぼくの関心は、キャプテンの人柄にある。
船のキャプテンやスキッパーの能力や人柄が、海での撮影の成果を大きく左右することは、これまで限りなく経験してきた。そのために、あるときには多少苦い思いをし、あるときには思いもかけない幸運に恵まれもした。
人間の能力や人柄は、日常の一挙一動に、そして手紙やファックスの文面を通して見たときであれ、初対面の印象はおよそ信じていい。こうして大きさや費用が妥当と思われる二六隻のなかから選んだのが、ナインライブズ号(Nine Lives)という船だった。じっさいに連絡をくれたのは、オーナーで船長のマイク。
一九九二年六月二五日、ジュノーの空港におり立ったぼくはマイクと合流、ナインライブズ号でのはじめての取材旅行に出かけることになった。マイクはぼくより三つ年上にあたる。話もそこそこに乗船すると、マイクはすぐにもやいを解く。ナインライブズ号はエンジン音を高めながら、ジュノーの対岸にあるダグラス島との間にのびる一衣帯水のダグラス水路にすべりだした。
マイクはハイスクールを出てから軍に勤務、一九歳でベトナム戦争へ。そして一九八七年に、それまで何度か旅行で来たことのあったジュノーに移り住んだという。彼自身、狩りや釣りが好きで、そのためのチャーターボートとして、一九八八年にこの船を手に入れた。「ねこに九生あり」(A cat has nine lives)ということわざがある。日本ではどちらかといえば執念深さを強調するのに対して、欧米では不死身さを強調する。
マイクが船を手に入れたときに、家族や親戚から名前をつのったところ、マイクの姪がこのことわざにちなんで提案したという。相棒の、料理役を兼ねたクルーはピート。マイクより十歳年上で、マイクとはベトナム戦争時に知り合ってからのつきあいである。ピートのほうは、コーストガード(沿岸警備隊)で勤めあげ、退職後ハワイで悠悠自適の暮らしを営みながら、夏だけマイクの船を手伝うようになった。
ちなみにピートの奥さんは大学の先生で、夏には講演などもあってハワイにいることが少ないため、自分が夏にアラスカに来るのはちょうどいいのだという。船は長さ四五フィート(およそ一五メートル)。四,五名の客を乗せて、港に帰ることなく一週間から十日程度の航海なら十分できる大きさだ。
船内の整然と整理されたさまが、マイクとピートの性格を物語っている。この旅で、ぼくはザトウクジラのバブルネット・フィーディングをはじめとしたさまざまな行動を目にし、多くのシャチと出会った。それは、これから何年もつづく南東アラスカでの取材が、ほんとうに実り多いものになることを予感させるものであった。
手紙やファックスを通して感じとったマイクの人柄は、けっして間違っていなかった。アメリカ人特有の快活さと同時に、几帳面さと、旺盛な好奇心がぼくを魅了した。「気が合った」という言い方のほうが、正しいかもしれない。以来、ぼくは毎年夏の一時期には、欠かさずマイクと南東アラスカを旅してきた。そして、すでに十五年がすぎた。ナインライブズ号ですごした時間は、相当なものになるだろう。
ちなみにマイクの好奇心は、さまざまなものにむかっている。ハーレー・ダビッドソンを持ち、アラスカの各地へ、さらにアメリカ本土までツーリングに出かけることもあれば、スカイダイビングも教えており、そのためのセスナ機も所有している。けっして大金持ちというわけではないが、彼にような暮らしもまた、アメリカンドリームのひとつの形なのだろう。
ナインライブズ号での旅を終え、その日が晴れていれば、それまでの一週間、あるいは二週間をかけてまわった海を、マイクの操縦するセスナで眺めるために、二,三時間のフライトを楽しむことも少なくない。スカイダイビング用のセスナは、上空でも大きくドアを開くことができるために、視界が開けて撮影にもありがたいつくりになっている。
そして、彼のもうひとつの趣味は写真。ハンティングや釣りを楽しんだときの若い頃からの写真は、何冊ものアルバムになって、ナインライブズ号のなかに置かれていた。ちなみに、最初出会ったときの彼が使っていたカメラは、ベトナム戦争時、右手に銃を、左手にそのカメラを持って、ベトナムの川を渡ったという年季の入ったものだった。
ぼくとの旅がはじまって以来、彼の写真への興味が確実に高まったことはたしかだ。そして、途中何台かカメラを変えながら、いま彼が使うのは日本の写真ファンが愛用するデジタル一眼レフカメラと、相当に高性能なレンズになった。操船しながらもマニュアルを読み、ぼくがクジラを撮影するときには、いつの間にか操縦席からレンズをむけ、停泊するとまわりの風景を撮影する。いまでは、彼が撮影するものは記念写真から、作品と呼べるものに変わりはじめている。
夕方になって凪いだ海は、とろりとした油を流したかに見える。空が色づくのにつれて、海は黄金に染まりはじめている。ぼくのもっとも好きな場所での、もっとも好きな時間である。ナインライブズ号のまわりでは、ザトウクジラが噴気をあげる音がそこここから響いている。ふいに浮上したクジラが、沈みゆく太陽とぼくたちの船との間で、黄金に染まる海面をゆっくりと泳ぎはじめた。
マイクはエンジン音をおとしたまま、微速で船を動かしはじめた。ナインライブズ号のわずかな動きによってクジラの姿は、太陽から船にむかって海面にのびる光の帯のなかにのみこまれていく。そのとき潜りはじめたクジラは、海面に大きく背中を盛りあげ、最後に尾びれを高く突きだした。
尾びれから流れおちる海水が、輝くベールをつくりだし、しぶきは黄金の粒子になって弾け散る。シャッターを切り終えてふりかえると、片手の舵輪、片手にカメラを構えたマイクが、「いい写真がとれただろう」といわんばかりに、親指を突きだして見せた。 』
『 毎年夏の一時期に欠かさず南東アラスカの沿岸水路を旅するようになって十年近くがすぎ、ぼくはふたたびプリンス・ウィリアム湾をひとつのフィールドにできれば、と思うようになっていた。星野道夫さんと訪ねてから十三年、悪夢のようなエクソン・バルディーズ号の原油流出事故から、十一年がすぎていた。
ぼくは、二〇〇一年の夏が終わった頃から、翌年の取材にむけて、船を探しはじめた。船自体を見つけるのは、けっしてむずかしいくない。問題は、ほんとうに取材や撮影にむいた船であるかどうかである。プリンス・ウィリアム湾に面した観光の盛んな大きな町はほとんどない。それだけに、チャーターボートも少ないが、何度かやりとりを通して決めたのは、アレクサンドラ号という、こじんまりとした漁船を改造した船である。いまでも漁をすることもあれば、数人のナチュラリストを乗せて、観察や研究のために使われることもあるという。
全長四七フィートのアレクサンドラ号は、調査やツアーをおこなうだけだなく、じっさいに漁にも使われるため、後部のデッキが作業用に広く開放され、キャビンは前方にかたまっている。キャビン内にけっして余分なスペースがあるわけではないが、すべてのものが整理・保管されて、キャップテンの人柄を物語っている。
こうした船の手入れや整理のさまは、取材や撮影の成果とは一見関係ないようで、じつは大きく関わっている。そこにこそ、キャップテンの人柄や律義さが端的に現れるものだ。じっさい、これまでに一度利用して、そのときの船の手入れや整理のさまに首を傾げざるをえなかった船が――したがって、それ以降は利用してない――その後、火災や座礁で沈んだことを聞かされた例は、二つや三つでなない。
出迎えてくれたキャップテンは、ブラッド。日本から電子メールを通して、やりとりした人物である。もとは漁師だが、プリンス・ウィリアム湾周辺の生物学者による調査旅行にも長く船を提供してきたため、研究者とのつながりも、生き物についての造詣も深い。プリンス・ウィリアム湾は、例のエクソン・バルディーズ号の石油流出事故以来、現在にいたるまで、ラッコやアザラシ、カワウソや海鳥などの被害と回復の状況を調べる調査がつづけられてきた。
一九八九年に原油が流出したときには、ブラッド自身、油の除去作業にも関わったという。ぼくは、ブラッドのアメリカ人特有の快活さとともに、物静かな思慮深さにも惹かれた。あとで聞いたことだが、母親がオランダ出身で、奥さんはノルウェー人である。船内の趣がヨーロッパ調が感じられたのも、そのせいだろう。
もう一人のクルーはナンシー。出会った当時は、まだユタ州のハイスクールで数学の先生をしており、夏の間だけ自分の楽しみを兼ねて、ブラッドの仕事を手伝いに来ていた。じつは日本の先生との交換会のために、熊本でしばらくすごしたこともある(翌年には、先生を退職し、常勤スタッフとして働いていた)。
船の名前のアレキサンドラは、ブラッドの妹さんの名前で、兄妹はもう一隻チャーターボートを所有し、二隻で自然観察や釣りなどの夏のアラスカを楽しませるツアーや、プリンス・ウィリアム湾周辺の生物調査に使われている。もう一隻は、妹さんのアレキサンドラがキャップテンとなって、すでにプリンス・ウィリアム湾をクルーズ中だという。
僚船がいることは、ぼくにはじつにありがたい。広いプリンス・ウィリアム湾を、二隻で探すほうが効率がいいことはいうまでもない。ぼくたちが乗船すると、すぐにアレクサンドラ号はエンジンの音を響かせて、桟橋を離れた。まわりには氷河をいだいた山やま。ぼくは船の一番高いデッキにのぼって、まわりの風景を眺めながら、一五年ぶりのプリンス・ウィリアム湾を訪ねることができたという感慨に、ひとりひたっていた。
プリンス・ウィリアム湾に出て、まずぼくがしたかったのは、十五年前にキャンプをしたチェネガ島を訪ねることだった。かっては水上飛行機でたどりついた島へ、いまは船でむかう。島の東南端に小さく突きだす岬をまわりこめば、かってキャンプをした浜に出る。そこには、いま特別なことがまってるわけではない。
しかし、ぼくはアレクサンドラ号が岬をまわりはじめたころから、不思議な胸の高まりを感じていた。ぼくは、しばらく海を眺めていた。入り江には、以前と同様にカラフトマスが群れ、かってのキャンプ地のそばを流れてこの入り江に注ぎ込む流れに、遡りはじめている。
十五年前にここですごした日々を思いうかべていたときだった。沖にシャチが浮上するのが見えた。それは、まるでデジャブ(初めての体験なのにすでに経験したように感じること)のように、かってここでシャチとの濃密な時間を持つことができた一日のはじまりと重なりあって見えた。 』
長くなりなしたが、著者のサケと川と森の想いを綴ったところを紹介して、お仕舞いとします。
『 アラスカからカナダ太平洋岸にいたる北米北西岸の自然――生態系――や文化を考えるとき、サケ・マスの存在を抜きにしては語れない。初夏から秋まで、キングサーモン、ベニザケ、シロザケ、カラフトマス、ギンザケが、それぞれ好みの流れを選び、少しずつ時期をずらしながら、産卵のために川を遡りはじめる。
グルスリーやアメリカグマにとって、産卵のために川を遡るサケやマスは簡単に捕えることができる、夏の欠かせない食糧源であることはいうまでもないが、この土地に古くから住む人びとも、この豊富な資源を糧に暮らしを成り立たせるとともに、豊かな精神文化を築いていた。
海生哺乳類にしても、トドやアザラシは、とりわけ夏にはサケ・マスを主な食糧源とする。そして沿岸のシャチでは、豊かなサケやマスを糧にして、アザラシやイルカなどの大型の哺乳類を襲わない「レジデント」と呼ばれる個体群さえ登場した。動物にとっても狩猟民にとっても、猟の獲物は、出会える保証のないなかで彷徨した末に、手に入れられるものといっていい。
それに対して、季節が来れば、間違いなく川に遡ってくるサケやマスの群れは、暦にあわせて収穫できる農産物に近いといっていい。農耕によってはじめて生みだされた余剰の蓄積が、人間に文明をもたらした。一方、北米北西岸の先住民たちが、夏にたっぷりと獲れるサケやマスを、干物や燻製にして長期にわたって保存することで、豊かな精神文化を築きあげたのは、世界の中でも特筆すべきことである。
もちろんサケ・マスだけでなく、まわりにある針葉樹の深い森も、人々の暮らしや文化をささえた。森のなかで、枝もたわわに実るベリー類は、漁獲物とともに欠かせない食糧源になったし、何より、トウヒやツガの巨木は、人びとにすまいや海を渡るカヌー、それに彼らの精神世界の表出であるトーテンポールや、同様に自分たちの出自を示す動物たちを象ったマスクの材料を提供した。
しかし、森もまた、川を遡上する豊かなサケやマスの恵みを享受するものである。流れる川は栄養分を下流へ、海へと押し流すだけだ。それを遡った末に産卵し、そこで自らの生を終えたサケやマスの体は、森の樹々に、また水中のさまざまな動植物にかけがえのない栄養を提供してきた。
本来草食であるシカでさえ、俗に「ホッチャレ」と呼ばれる、産卵後の死んだサケの体を食べることが知られている。また、クマは川でサケを獲って森のなかへ持ちこむ。クマが食べ残したサケの体が分解してつくられる栄養分は、川から離れた森にも恵みをいきわたらせることになる。
「豊かな森が豊かな海をつくる」という認識は、すでに十分に広まってはいるが、アラスカの海と森は、サケやマスの生活史を通して密接に結びついている。じっさい川を遡るサケやマスの体は「海洋由来栄養分」と呼ばれ、上流の森やそこにすむ動物の体の一部は、サケやマスが海洋でとった栄養分からつくりあげらている。
たとえば、樹木が地中に深く張った根から吸いあげた栄養分で茂らせた葉を地面に落とすことで、地上の動物たちに栄養分を還元する。あるいは海中深く沈んだ栄養分を、湧昇流が海面近くまで持ちあげ、ふたたび栄養循環のなかへ組みいれる――こうした、大規模、小規模にかかわらず地球上に見られる「栄養ポンプ」とも呼ばれる循環こそ、この惑星に成立した豊かな生命圏をもっとも象徴する現象だといっていい。
自然のなかで営まれる出来事について、科学はひとつひとつ興味深い事実を明らかにしてきたが、あまりに複雑な循環のさまを、すべてぼくたちが理解できるのは、けっして近い将来ではない。ぼくたちのほんとうの知性は、知らないことを認めることからはじまる。じつは、開発と呼ばれる一見多様な産業活動は、おしなべてこの循環を断ち切るものである。それは、荒波や強風、さらには暑さや寒さを、コンクリートと鉄の頑丈な壁でおさえこんでしまう発想といってもいい。 』(第68回)