チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「トランプを聴きながら」

2017-02-28 10:29:54 | 独学

 128. トランプを聴きながら  (塩野七生著 文芸春秋2017年3月号)

 『 二千年昔に生きたローマ人を書いていた頃よりも、さらに五百年も前に生きたギリシャ人を書いている今のほうが現代の政治の動向への関心が強いのはなぜか、と考える毎日だが、それへの答えならば簡単だ。

 ギリシャの政治危機を見たローマ人は、それを避けるために新しい国家理念を創り出したからで、あの時期に早くもローマ人は、衆愚政治とは民主政の国にしか生まれない政治現象であることに気づいたにちがいない。

 とは言っても今の私が相手にしなければならないのは、危機の真只中にいたギリシャ人のほうなのだ。

 それも、彼らの歴史を物語る全三巻中の第二巻を「民主政の成熟と崩壊」と銘打った以上、民主政体の創始者で最良の実現者でもあったアテネが中心になるのも当たり前。

 というわけで、そのアテネで民主政が機能できたのはなぜで、機能しなくなったのはなぜかを書いていったのが第二巻だが、それを書いている途中で壁に突き当たってしまったのだった。

 われわれ日本人は、「デモクラシー」という言葉を簡単に口にする。「民主主義」と叫びさえすれば何ごとも解決できる、という感じだ。同様の感じで、「衆愚政」という言葉も、誰も疑いを持たずに口にしてきた。

 ところが、民主政という日本語訳の原語は、古代ギリシア語の「デモクラティア」(demokratia)であるのは誰でも知っているが、衆愚政の原語も同じく古代のギリシア産の「デマゴジア」(demagogia)なのである。

 その「デマゴジア」の日本語訳の「衆愚政」を、日本の辞書は、「多くの愚か者によって行われた政治」としか説明していない。となると、私のような何にでもツッコミをいれたがる人間の頭の中では赤信号が点滅しはじめる、ということになる。

 ペリクレス(古代ギリシャ紀元前460年ころの政治家。民主政治を徹底させ、土木・建築・学芸にも功績を挙げた)が卓越した政治家であったことは事実だが、彼が死んだとたんにアテネの有権者たちがバカに一変したというわけでもないでしょう、と。

 しかし、ペリクレスの死を境に民主政アテネが衆愚政に突入していったのも事実なのだ。こうなると、その「なぜ」を解明しないことには書き続けられない。

 その「壁」を、少しにしろ超えることができたのは、イタリアの辞書のおかげだった。———「デマゴジア」とは、「デモクラツィア」の劣化した現象。

 と言ってもこの両者は金貨の表と裏の関係でもあるので、デモクラシーも、引っくり返しただけでデマゴジーに転化する可能性を常に内包しているということ。イタリアの辞書は、「デマゴーグ」に関しても次のように説明している。

 ———実現不可能な政策であろうとそのようなことは気にせず、強い口調でくり返し主張しつづけることで強いリーダーという印象を与えるのに成功し、民衆の不安と怒りを煽ったあげく一大政治勢力の獲得にまで至った人のこと。つまり、扇動家。

 二千五百年昔の衆愚政について書かねばならない私にとって、イタリアの元コメディアンで五ツ星運動の主導者グリッロと、選挙運動中のトランプは、生きた標本になってくれたのであった。

 去年の一年間というもの、この二人の言動を観察しつづけたのである。その結果、二千五百年の歳月が横たわっていようと、いくつかの共通点があることがわかった。

 一、 教養がないだけでなく、品格にも欠けること。ただし扇動者となると、これは弱みにはならずに強味になるという人間社会の不思議さ。

 二、 自分たちだけが大切で、他の国々は関係ないとする考え方。これは、短期的には成功するとしても、長期的にはどうだろうか。

 「アメリカン・ファースト」で終始したトランプの大統領就任演説を聴きながら、古代ギリシャは「デゴマジア」の混迷の後に新しい国家秩序の再建に成功するが、アメリカにその力があるのだろうかと考えてしまった。

 もしも成功しないとすると、トランプの就任演説はアメリカにとって、終わりの始まりを示すことになるのだろうか、と。 』


 『 その一日前かにダヴォスで習近平が行った自由貿易礼讃のスピーチには、わが眼と耳を疑った。それだけは中国人に言ってもらいらくないと思うと笑うしかなかったのだが、何だか地球が引っくり返ったようではないか。

 ちなみに、「デマゴーク」と「ポピュリスト」は、日本では同じ意味で使う人が多いが同じではない。ポピュリストは大衆に迎合するが、「デマゴーグ」となると迎合なんかしない。

 普通の人間ならば多少なりとも誰もが持っている将来への不安に火を点け、それによって起こった怒りを煽り、怒れる大衆と化した人々を操ることが巧みな男たちのことだからである。

 これによって起こる津波を避けたければ、腹をくくるしかない。トランプの言行に注意ははらいながらも、彼と関係しなくてもできる政策を次々と実現していくことである。


 TTPは不発の終るとしても、あれのおかげでヤル気になり始めていた日本の農業改革。そして私の考えでは漁業改革も林業改革も。日本の政治家が好きな言葉ならば、「粛粛」とやりつづけるのである。

 農業・漁業・林業ともの改革が実現すれば、少なくとも日本人に、新鮮な水と食を保証することはできるのだから。

 トランプにもプーチンにも習近平にも関係なくやれること、つまり日本人さえその気になればやれることを、やってやろうとおもいませんか。何もスイスのダヴォスまで行って、自由貿易の旗手ぶることまでしなくても。 』


 私も現在のギリシャの政治、アメリカのトランプ旋風は、「おや」と感じますが、日本の民主主義は、問題がないのだろうかと考えるとき、一票の格差が2倍とか3倍とか。

 半人前という言葉がありますが、都市の中流から下流の勤労者は、選挙に於いて半人前の扱いを受けます。

 2~3倍の権利を行使している地方の有権者は、様々な政治的支援を受け、当選回数の多い議員が政治の中枢にあって、赤字国債という打ち出の小槌の恩恵に浴することができます。

 一方都市部の勤労者は、政治的には半人前で、政治的優遇は、受けられません。私たちは、ギリシャやアメリカやイギリスを笑えるのでしょうか。 (第127回)


ブックハンター「ゼロベース思考」

2017-02-20 13:50:52 | 独学

 127. ゼロ(0)ベース思考  (スティーヴン・レィット&スティーヴン・ダブナー著 2015年2月)

   (Think Like a Freak     ©2014 by Steven D.Levitt & Stephen J.Dubner) 

  『 1981年のこと、バリー・マーシャルというオーストラリアの若い研修医が、おもしろそうな研究プロジェクトを探していた。彼が消化器内科の研修を始めたばかりの王立パース病院では、そのころ年長の病理学者が謎に出くわしていた。

 マーシャルはのちにこう語っている。「20人の患者の胃から細菌が見つかったんだ。強酸性で細菌が生息できるはずがない場所にね」。

 この年長の医師ロビン・ウォレンは、「こうした患者の体内で何が起こっているのかを調べる」手伝いをしてくれる、若手研究者を探していた。

 このくねくねした細菌は、鶏などと接触する人たちに感染症を引き起こす「カンピロバクター」という種類の細菌に似ていた。

 でもヒトの体から採取したこの細菌は、本当にカンピロバクターなのか? どんな病気を引き起こすのか? なぜ胃の悪い患者にこうも集中しているんだろう?

 バリー・マーシャルは、じつはカンビロバクターにくわしかった。彼の父は鶏肉加工工場で冷媒技師をしていたことがあったのだ。母は看護師だった。

 「わが家では、医療の何が真実かということについて、よく議論を戦わせたものだ」と、マーシャルは高名な医療ジャーナリストのノーマン・スワンによるインタビューで語っている。

 「母は民間医療法が正しいと 『知って』 いたが、わたしはいつもこんなことを言っていた。 『そんなの古くさいよ、何の裏づけもないじゃないか』。すると母は 『そうね、でも何百年も昔から行われているのよ。バリー』って」

 マーシャルは自分が引き継いだ謎に夢中になった。ウォレン医師の患者から採取した検体を使って、くねくねした細菌を研究室で培養しようとした。

 何ヵ月も失敗が続いたあと、幸運な偶然のおかげで—— イースターの連休で、試料がいつもより三日長く培養器に放置されていた——とうとう培養に成功した。

 それはカンピロバクターじゃなかった。それまで発見されていなかった細菌で、のちに「ヘリコバクター・ピロリ」と名づけられた。「その後も多くの人たちからとり出した菌を培養した」とマーシャルは言う。

 「おかげでこの細菌を殺す抗生物質を特定できた。もとは、なぜこの細菌が胃の中で生息できるのかをつきとめようとして、試験管のなかでいじったり、いろいろと有用な実験をしたりしていたんだ。

 潰瘍の原因を調べようとしていたわけじゃない。ただこの菌が何なのかを調べたかった。それからちょっとした論文にまとめて発表できればいい、くらいの気持ちだった」 』

 

 『 マーシャルとウォレンは、胃の不調を診てもらおうとやって来た患者がこの細菌をもっていないかをその後も調べ続けた。ふたりはすぐに驚くべきことに気づいた。

 13人の潰瘍患者のうち、なんと13人ともがこのくねくねした細菌をもっていたのだ! ひょっとするとヘリコバクター・ピロリは、ただ患者の胃の中に存在するだけじゃなく、じつは潰瘍を引き起こしているんじゃないのか?

 マーシャルは研究室に戻り、ラットやブタにヘリコバクター・ピロリを注入して、潰瘍ができるかどうか調べてみた。潰瘍はできなかった。「これは人体で実験しなきゃだめだと思った」

 実験台になるのは自分だと、マーシャルは決めていた。また彼は、妻やロビン・ウォレンにも言わずに置こうと決めた。まず自分の胃から採った生検を調べて、すでにヘリコバクター・ピロリがいないことをたしかめた。

 きれいなものだった。そして患者から培養したピロリ菌をぐいと呑み干した。マーシャルは頭のなかで2つの可能性を考えていた。

 1. 自分は潰瘍を発症する。「そしたらバンザイ、証明されたことになる」

 2. 潰瘍を発症しない。「何も起こらなかったら、2年間の研究はおじゃんになる」

 人類史上、自分から潰瘍になろうとしたのは、バリー・マーシャルただ一人だろう。もし発症するとしても何年も先のことだろうと、彼は踏んでいた。

 ところがヘリコバクター・ピロリを呑み込んでから5日後に、マーシャルは突然激しい嘔吐に襲われた。「バンザーイ!」10日後、自分の胃からもう一度生検をとると、「細菌だらけだった」。

 すでに胃炎を起こしていて、明らかに潰瘍になりかけたいた。そこでピロリ菌を駆除するために抗生物質を飲んだ。

 こうしてマーシャルとウォレンの研究によって、ヘリコバクター・ピロリが潰瘍を引き起こす真の原因だということ、またその後の研究によって、胃ガンの原因でもあることが証明された。これは驚異のブレークスルーだった。 』


 『 もちろん、まだたくさんの検証が必要だったし、医学界からは猛反発を喰らった。マーシャルは冷笑され、糾弾され、無視された。 ——どこかの気がふれたオーストラリア人が、自分で発見したとかいう菌を呑み込んで潰瘍の原因をつきとめたと言っているが、本気かい?

 80億ドル規模の業界が存在理由を否定されて、心穏やかでいられるはずがない。まさに潰瘍になりそうな悪夢だ! 

 それまでは潰瘍になれば、生涯にわたる医者通いとザンタックの服用、場合によっては手術、と相場が決まっていたのに、いまや安い抗生物質を飲めば治るというんだから。

 潰瘍発症のしくみが完全に受け入れられるには何年もかかった。一般通念ってやつはなかなかしぶといのだ。いまも潰瘍はストレスや辛いものが原因だと信じている人がたくさんいる。

 だが、さいわい医師たちはいまではちゃんと理解している。誰もが潰瘍の症状の治療に終始しているあいだに、バリー・マーシャルとロビン・ウォレンが根本原因を暴いたことを、医学界はとうとう認めたのだ。2005年に二人はノーベル賞を受賞した。 』


 『 ブライアン・マラニーが30歳ごろ、当時の大手クライアントの一つに、ニューヨーク・パークアベニューの美容外科があった。この外科は裕福なマダムの御用達で、ここはやせたいとかここは豊満にというわがままな要望に応えていた。

 マラニーは、地下鉄に乗ってクライアント先に向かうことが多かった。下校時刻にぶつかると、何百人もの子どもたちと同じ車両に乗り合わせることもあった。

 そのなかに顔に障害のある子どもたちが多いことに、マラニーは目をとめた。あざやほくろやしみがあったり、なかには奇形を持った子もいる。彼らこそ、どうして形成手術を受けていないんだろう?

 大柄で赤ら顔で話し好きのマラニーの頭に、ふと型破りなアイデアが浮かんだ。ニューヨークの公立学校に通う生徒に無料で矯正手術を提供する慈善団体を立ち上げよう。

 彼はこの団体に「オペレーション・スマイル」という名をつけた。だがプロジェクトが順調なスタートを切った矢先に、同名の慈善団体がすでに存在することを知った。

 そっちのオペレーション・スマイルはバージニア州に本拠を置く大手団体で、ボランティアの医療チームを世界の貧困国に派遣して、子供たちに形成手術を行っていた。

 いたく感銘を受けたマラニーは、自分のオペレーション・スマイルを畳んで合流し、役員に就任して、派遣団の一員として中国やパレスチナのガザ地区やベトナムに足を運んだ。

 何でもない簡単な手術に人生を大きく好転させる力があることを、マラニーはすぐに知った。アメリカでは口唇口蓋裂の女の子が生まれても、幼いうちに治してしまうから、ほんの小さな傷が残るだけですむ。

 でも同じ女の子がインドの貧しい家庭に生まれたら、口唇裂は放置され、そのうちに唇と歯肉と歯がひどく寄せ集まってしまう。そのせいで女の子は村八分にされ、良い教育を受けたりよい仕事に就いたり、よい結婚ができる望みはほぼ断たれてしまう。

 簡単に直せるちょっとした奇形は、放置されることで、マラニーの言葉を借りれば「不幸のさざ波」を起こすのだ。これは純粋に人道上の問題に見えて、じつは経済に悪影響をおよぼす問題でもあった。

 実際、マラニーは腰の重い政府にオペレーション・スマイルを売りこむ時には、口唇裂の子どもたちを「不良資産」になぞらえて、簡単な手術を受けるだけで経済の本流に戻してあげられるのだと説明することもある。 』


 『 しかし口唇裂手術への需要は、オペレーション・スマイルの供給能力を大きく上回ることが多かった。医師や手術設備をアメリカからいちいち空輸しているかぎり、現地での滞在時間もキャパもかぎられる。

 「1回の派遣につき、300~400人の子どもたちが手術を求めて殺到した」とマラニーは言う。「だがどう頑張っても100人から150人しか助けられなかった」

 ベトナムの小さな村では、少年が毎日やってきて、オペレーション・スマイルのボランティアとサッカーをしていた。そのうち「サッカーボーイ」の名でスタッフに親しまれるようになった。

 任務が完了し、一行が店じまいをして去るときになって、バスのあとを走って追いかけてきたサッカーボーイが、まだ口唇裂の治療を受けてないことにマラニーは気づいた。

 「愕然としたよ——どうして助けてあげられなかったのか」。人道主義者としては心が痛んだが、ビジネスマンとしては猛烈に腹が立った。「8割方の客を追い返す店がいったいどこにある?」

 マラニーはオペレーション・スマイルの新しいビジネスモデルを考えた。何百万ドルも寄付を集めて医師と手術設備を各地に空輸し、かぎられた期間だけ治療を提供する代わりに、同じ資金を使って現地の医者に設備を提供し、年間を通じて口唇裂手術ができるようにしたらどうだろう?

マラニーの試算では、一手術あたりのコストは最低でも75%は下がるはずだった。しかし、オペレーション・スマイルの運営側はこの計画にあまり乗り気じゃなかった。

 そこでマラニーは辞任して、「スマイル・トレイン」という新しい団体を立ち上げた。広告代理店を数十億の金額で売り払って、彼は一人でも多くのサッカーボーイとサッカーガールを探しあてて、笑顔をとり戻すことに打ち込んでいる。

 それに、「世界で最も機能不全の3000億ドル業界」と彼が呼ぶ。非営利業界そのものの「顔」を変えたいと意気込んでいる。

 世界の慈善家たちは、超大富豪ウォーレン・バフェットの息子のピーター・バフェットの言う「良心ロンダリング」に耽っていると、マラニーは考えるようになった。

 つまり罪悪感を打ち消すために慈善事業を運営しているだけで、人々の苦しみを和らげる方法を本気で考えてはいないのだと。かってヤッピーの典型だったマラニーは、いまやデータ至上主義の社会改良家に生まれ変わったのだ。

 スマイル・トレインは驚異的な成功を収めた。全世界で100人足らずのスタッフによって、15年のうちに約90ヵ国で100万件以上の手術を提供した。

 マラニーが制作に関わったドキュメンタリー映画「スマイル・ピンキ」は、アカデミー賞〔短編ドキュメンタリー賞〕を受賞した。 (第126回)


ブックハンター「鉄客商売」

2017-02-06 09:39:50 | 独学

 126. 鉄客商売  (唐池恒二著 2016年6月)

 著者の唐池恒二は、現在JR九州の会長であるが、JR九州の「ゆふいんの森」、「はやとの風」、「指宿のたまて箱」、「A列車で行こう」、「ななつぼし」……などのコンセプトを手掛けてきた。

 それぞれの物語とタイトルとデザインを創り上げてきた。デザインは、これらのコンセプトをもとにデザイナーの水戸岡鋭治氏である。その物語性をもとに沿線の町は、それらを核として活性化しています。

 題名の「鉄客商売」は、大ファンである池波正太郎の「剣客商売」(剣の達人という意味です)から、鉄道の仕事に通じたものがビジネスについて語るという内容です。


 『 まだ国鉄時代、石井さんが広島鉄道管理局長だったころ、大嶋部長は同管理局の船舶部長を務めていた。当時の広島局は、広島県の呉と愛媛県の松山を結ぶ仁堀(にほり)航路の廃止を経営の重要課題に置き、局長以下の幹部が地元との話し合いに忙殺される日々を送っていた。

 当時の国鉄では、赤字の大きい船の航路や鉄道の線区を廃止することが最大の経営改善施策と位置づけられていた。ただ、いずれの廃止案も地元との協議がまとまらず、難航を極めた。

 大嶋部長の前任者も廃止に向けて汗を流したが、思うように進められなかった。そこに大島部長が宇高連絡船の船長から異動となり、やっかいな仕事の責任者に就いた。

 どこをどうしたものか、あっという間に航路廃止の合意を地元から得てしまった。大嶋部長の辣腕に、まわりはただただ驚嘆するやら感心するやら。「いやいや、正面からぶつかっていっただけですわ」岡山出身だから、語尾に「……ですわ」と付ける。

 このことを石井さんは、忘れるはずがなかった。「……ですわ」のことではない。JR九州に船の専門家はいない。大嶋部長は、国鉄でもトップクラスのプロの船乗りで、船のことや海のことには誰よりも詳しい。

 さらに、仁堀航路廃止のときの物怖じしない行動力と地元との交渉力には、余人をもって代えがたいものがあった。JR九州がこれからやろうとしている航路開設の仕事を任せることができるのは、大嶋部長をおいて他にはいない。

 石井さん自ら四国に再三足を運び、四国の旅客船協会のトップにも請願し、大嶋部長本人にも何度も頭を下げた。下げられてもずっと断ったが、石井さんの、こうと決めたら一歩も引かない熱意と根気に負けて、とうとう九州行を承諾したという。 』


 『 四月一日、大嶋部長と初めて対面がかなった。きれいな白髪に日焼けした顔、背が高くて品がよく、優しそうな紳士が目の前に立っている。つやのある顔からは、五八歳とは思えない。

 事前に聞いていた「世界を股にかけた海の男」 「交渉の達人」 「言いだしたらきかない頑固おやじ」 といったイメージとはだいぶ違って見えた。柔らかい語り口に、正直、拍子抜けしたほどだった。

 「あんたが、唐池さんですか。大嶋ですわ、よろしく頼みますわ」 「はい、よろしくお願いします。唐池ですわ」 早くも感化された。その日からさっそく活動開始。大嶋部長から、矢継ぎ早に指示が飛んできた。

 「船員を集めましょう」 「船体の発注もすぐにやりましょ」 「航路免許の申請はどうなってますかな」 「港の岩壁の確保も急ぎますな」 「船員の訓練方法も考えんといけませんわ」

 やるべきことが山ほどあった。(海なのに) 一年後の就航をめざしているから、ひとつずつ順にとりかかっていくというより、並行してたくさんのことを一気に片づけていかなければ間に合わない。

 一年後に博多~平戸~長崎オランダ村の国内航路を、そのまた一年後に博多~釜山間の国際航路を、それぞれスタートさせるというのが船舶事業部に課せられたミッションだった。

 いくつもの課題にくわえて、二年後の国際航路についても数ヵ月以内にその道筋をつけておかなくてはいけない。このことだけでも大仕事。

 あれやこれやと考えると、パニックになりそうだったが、一方でとてもわくわくしている。そんな自分に驚きもした。やりがいのある仕事を与えてもらった。楽しみながらやっていこう。必ずこの事業を成功させよう。意気に感じるとはこのことか。

 大嶋部長の仕事の進め方は、自ら先頭に立ってみんなを引っ張っていく率先垂範型だ。けっして嫌なことから逃げない。難局に直面したときは、必ず自ら正面からぶつかっていく。

 私が人生で出会った上司のなかで、最も頼もしく感じたリーダーだった。「さあ、唐池さん、漁協にあいさつに行きましょう」 大嶋部長が着任されて二週間ほど経ったころ。

 突然思い立ったのか、事務作業に追われていた私を連れ出し、佐世保市の漁業協同組合に向かった。博多~平戸~長崎オランダ村航路がはじまると、JR九州の高速船が佐世保湾を毎日必ず通過することになる。

 漁協の人たちの職場を荒らすわけではないが、国内航路を新設するときは特別の配慮をするようだ。航路に近接する漁協に仁義を切るのが習わしになっているのだ。

 「海は、誰のものでもない。みんなのものですわ。船を走らせるのに漁協の許可もいりません。でも、一応あいさつだけしておきましょう」 そんなことになっているのか。海の世界もけっこうせせこましいな。

 それならそれで、なにも最初からわざわざ部長が出て行くこともない。まずは、私か運航課長が露払いのつもりで行けばいいのではないか。しかし、大嶋部長は、自ら真っ先にドアをノックするというのだ。

 このあたりが、「逃げない」大嶋部長の真骨頂だ。漁協の事務所に着くと、組合長の隣の応接室に通された。組合長を待つこと10分。ようやく、目つきの鋭い、こわもての男が不機嫌そうに部屋に入ってきた。

 佐世保漁協のドン、片岡一雄組合長の登場だ。 「なんばしに来たんや」 椅子に座るや否やストレートパンチ。大嶋部長がひととおりのあいさつのあと、訪問の趣旨をかいつまんで話した。

 続いて、私のほうから一年後につくる航路の概要やジェットフォイルの特徴などを多少詳しく説明した。 「そがんことはせからしか。好かん」 最初から、玄界灘の荒波がぶつかってきた。

 航路近くの漁業にはまったく影響を与えない、と口を酸っぱくして言っても頑として聞き入れない。結局、一時間ほどのやりとりでその日は幕となった。

 当方はつとめて低姿勢で理解を求め、先方はきわめて高飛車に不快をもらす。まったく何も進展しないまま、険悪な空気だけ残ったような応接室。私たちは事務所を出た。どっと疲れも出た。

 最後に組合長が投げてきた言葉が、耳に残った。 「今度は、長崎県内の漁協の組合長全員ば集めるけん、そこで説明したらよか」 事務所を出た二人は、互いに一言も言葉を発せずに佐世保駅まで五分ほど歩いた。

 精神的にかなり疲労していた。少なくとも私は。大嶋部長は、駅の売店で缶ビールを二つ買ってきてくれた。博多に戻る特急に乗り込み、缶ビールの一つを私に手渡しながら元気な声を出した。

 「今日は、よかったですな。唐池さんの説明のおかげで、うまくいきましたわ」 何がよかったのか。反発したくなったが、「ましたわ」のしみじみとした情感に包み込まれる。すごいな。

 何の進展もなかった、と悔やんでいた私の気持ちをもみほぐすように、精いっぱい明るく語りかける。何事も前向きに考える。大嶋部長という方は、なんという人だ。

 かなわないな。急にこちらも元気になってきた。つぎに会う約束だけはできた。考えようによっては、大きな進展かもしれない。これを喜ばずしてどうする。「部長、ありがとうございましたわ」

 また、感化された。この日の缶ビールの味は、格別だった。大嶋部長に言わせると、「漁協というのは、あんなふうですわ」らしい。 』


 『 一か月後、今度は長崎市内にある県の漁業会館の大会議室に出向くことになった。もちろんこちらは、大嶋部長と二人だけ。県内のすべての漁協の組合長と相対する。

 四、五〇人、いや、もっといたような気がする。彼らと向かい合う恰好で席に着くと、全員のにらみつけるような視線が痛かった。異様な緊張感が会場に溢れる。ただ、不思議と落ち着いている自分を頼もしく思った。

 隣の大嶋部長を横目でみると、いつもと変わらず、博多港の定食屋でアジフライ定食が出てくるのを待っているときと同じように、どことなく楽しそうだ。

 こちらから、航路とジェットフォイルの概要を説明し、安全な運航につとめる決意を披露した。 「そがん高速で走りよる船は、危険たい」 「海はおいどんの職場っちゃ」 「とことん反対するぞ」 「JRは鉄道だけやればよか」 「わいら出ていけ!」

 会場内に怒号が飛び交う。罵詈雑言の嵐。それでも、つとめて冷静な口調で説明を繰り返す。国鉄時代の労働組合との団体交渉を思い出した。一時間ほどで閉会となった。もちろん合意には至ってない。完全な物別れ……。

 会館を出て長崎駅に着くまで、佐世保のときと同じように二人は言葉を交わさない。またしても進展なし。でも、今回は気が滅入らない。案の定、大嶋部長は長崎駅の売店で缶ビールを二つ買う。

 特急列車に乗り込んですぐに、「いや、よかったですな。唐池さんのおかげですわ」 またこれだ。別に私がどうこうしたわけでもなく、ひとえに腹のすわった大嶋部長の存在感のおかげなんだ。心底思った。

 大嶋部長は、祝杯をあげるように促してくる。 「乾杯!」 なんてうまいビールなのだ。その後、二人で何度か佐世保の漁協に足を運び、片岡組合長と膝を突き合わせて話し合った。

 そのうちに、といっても就航ぎりぎりまで時間を要したが、組合長も私たちの事業の理解を示してくれるようになった。筋を通して話していけばわかってくれる。

 映画で観たような酸いも甘いもかみわける渡世人に見えてくる。なんだか、組合長はここまでのシナリオを、最初に会ったときから描いていたような気がしてきた。片岡さんとは、その後もずっと親しくさせていただいている。ご縁というものは不思議なものだ。 』


 『 「えっ、ビートルが飛べない?」 思わず受話器に向かって叫んでしまった。その日、突然の報せを聞くまでは対馬での用事も順調に進み、いい気分のまま一日を終えるはずだった。

 今から四半世紀前になるが、忘れもしない一九九一年七月一五日のこと。梅雨明けを予感させるような青空が広がった暑い日だった。「ビートルが釜山港を出てすぐにエンジントラブルで、飛べなくなりました」 

 ビートルとは、JR九州が運航している高速船(ジェットフォイル)のこと。この年の三月、博多港と韓国・釜山港の間に就航した。ジェットフォイルは、船には違いないが、米国のボーイング社によって開発されたもので基本構造が飛行機(ジェット機)と変わらない。

 水中に広げた翼の揚力と、ガスタービンエンジンで海水を前方から吸い込み後方に噴射する推進力で船体を海面から二メートル浮上させて翼走する、すなわち、飛ぶのである。

 エンジンの出力が十分でないときは、船体を半ば海中に沈ませてゆらゆらと進む、いわゆる艇走となる。このときの性能は、普通の船と変わらない、いやそれ以下かもしれない。

 飛べなくなるというのは、船体を海面から浮上させて高速で翼走することができなくなることを意味する。約二百十キロ離れている博多港と釜山港の間を二時間五十分という短い時間で結べる船舶は、今のところ、このジェットフォイルしかない。

 多少の波でもほとんど揺れがなく、乗り心地も抜群で船酔いしない。しかしそれは、四十五ノット(時速約八十三キロ)で翼走できたときであり、艇走になるとたらいのようにぷかぷかと揺れながら低速で進むことになる。

 博多港のJR九州船舶事業部の事務所から、当日たまたま対馬を訪れていた同部営業課副課長の西依正博さんと私(当時同部営業課長)の二人に最初の連絡が入ったのは、夕方四時ころだった。

 ビートルが飛べない。翼走できない。ジェットファイルの高速で快適という高性能が、まったく発揮できないのだ。やむをえず艇走で博多港に向かうという。せいぜい一五ノットか二〇ノット、時速三〇キロ程度のしか速度が出ない。

 釜山港を出たばかりのところでのトラブル。博多港までは遠い。玄界灘の荒波にもまれるように揺れながらの長時間の船旅は、どれほど苦痛だろうか。

 続報が入った。低速でしか進まないため、博多港にたどり着くまで燃料がもたない。よって、釜山から博多までのちょうど中間にあたる対馬の厳原港(いずはら)に寄るとのこと。

 たまたま対馬にいあわせた西依さんと私の二人で、厳原港に着岸するビートルの約一二〇名のお客様が上陸され対馬で一泊できるよう手配をするように、とのこと。

 予定が大幅に狂った。ビートルのお客さまの予定もさることながら、私たち二人の予定もまったくの白紙となった。対馬での仕事が予定よりもはるかに順調に進み、かなりの成果を挙げることができた。

 さあ、夕方には厳原町の役場の人たちと地元の焼酎「対馬やまねこ」で祝杯をあげようという段取りになっていた。もう、それどころではない。

 たまたま二人が対馬にいたからいいものの、誰も対馬に来ていなかったらどうするつもりだ。文句の一つも言いたかったが、二人はビートルの営業と運航の責任者だから仕方ない。

 というより、一二〇人のお客さまの苦難を思うと二人で最善を尽くすしかないと奮い立った。 』


 『 ところで、私たち二人はなぜ対馬にいたのか。対馬で一日、何をしていたのか。ビートルが就航して四ヵ月、やっと船体も船員も玄界灘になじんできた。

 運航開始直後の小さな初期トラブルも克服して操船技術も次第に向上、まずまず順調に国際航路として走りはじめた。ただ、お客さまのご利用においては、当初の予想に反してかなり低い乗船率で推移していた。

 さすがに楽天家の私でも、営業課長という立場から、もっと多くのお客さまにご利用いただけるよう徹底的に営業活動をしていかなければいけないと、焦りやいらだちにも似たものを抱いていた折だった。

 そんなとき、対馬の厳原町からありがたい話が舞い込んできた。 「対馬の高校の修学旅行の団体で、ビートルに乗って釜山に行きたいのだが……」 渡りに船とは、まさにこのことか。さっそく打ち合わせのため、対馬に出向いた。

 本航路は、博多港と釜山港を間をノンストップで往復している。厳原町からの要請は、博多港から途中、厳原港に寄って修学旅行生を乗せて釜山港へ、帰りは三日後に彼らを釜山港から厳原港まで運び、そのあと博多港へという、通常の定期航路とは違った内容だ。

 イレギュラーな運航となるが、二〇〇人という大きな団体の乗船となるから、私としては喉から手が出るような……。ぜひともまとめたい商談だった。

 実現させるには解決すべきいくつかの問題があったが、なかでも「C・I・Q」の関係が最大の難関に思えた。そのほかの問題は当社内で解決することができそうだったし、実際解決できた。

 「C・I・Q」というのは、国境を越えて出入りするときに必要な手続きのことだ。Cは関税(Customs)、I は入出国管理(Immigration)、Qは検疫(Quarantine)のそれぞれの頭文字からとっている。

 航空機でも船舶でも、国際航路の運航に不可欠の手続きであり、「C・I・Q」が一つでも機能しないと運航できない。国際空港(港)には必ず「C・I・Q」の施設が備わっており、必要な人員も配置されている。

 ビートルを厳原に寄港させるには、「C・I・Q」の適正な配置が必要になる。厳原港にも「C・I・Q」の各機関の出張所があることはあるが、主に貨物を積載した貿易船の輸出入の手続きを行っており、人の、それもかなりの人数の団体の入出国業務に対応できるかどうか。

 そこで、二度目の対馬訪問となった。それがこの七月一五日だった。厳原にある「C・I・Q」の各事務所を訪れ、この秋の対馬の高校の修学旅行生たちの入出国手続きを臨時の手配で行ってもらうようお願いするためだった。

 西依さんと二人で、厄介な交渉になることを覚悟しながら「C・I・Q」の三つの事務所に伺い、それぞれの所長に厳原寄港の意義について誠意と情熱をもって説明していった。

 同行したのが西依さんだったのもよかった。西依さんは、当時脂が乗り切った四三歳(私は三八歳)。国鉄時代は、長崎駅の助役や労使間の対立が激しい職場を歴任し、数々の修羅場を踏んできた苦労人だ。

 「この秋に、ぜひ厳原から釜山に修学旅行を送り込みたい」 三人の所長はいずれも、最初はずっと黙って説明を聞いている。当惑しているふうだった。

 「十代でお隣の国を訪れその国の人たちと交流しその国の文化を学ぶ、このことの意義は大きい」 各所長は、次第に身を乗り出して話に耳をかたむけだした。「そのためには「C・I・Q」の力が必要です。なんとしても……」

 所長たちは三人とも、私たち二人が熱く語るのに気持ちが解きほぐされたのか、三十分もやりとりをしていると最後は微笑んでくれた。「わかりました。やってみましょう」 各所長が、いずれも快諾してくれたのだ。

 よかった、いい一日になった。対馬に来たかいがあった。厳原寄港について最初に提案された厳原町の役場の人にもそのことを報告すると、満面の笑みで喜んでくれた。

 じゃあ、今晩祝杯をあげようということになって役場の応接室でひとときくつろいでいたところに、「飛べなくなった」第一報が飛び込んできたのだった。 』


 『 祝杯どころではない。役場の応接室が、急遽、ビートルのエンジントラブルによる厳原臨時寄港対策室となった。西依さんと二人で今からやるべきことを整理する。すぐにも、たくさんのことにとりかからなければならない。

 追い打ちをかけるような連絡が入る。ぷかぷかと波に揺られながら進むしかないビートルが、厳原港にたどりつくのが夜の八時ころだという。与えられた時間は、せいぜい三時間ほど。

 まずは、お客さまのこと。疲労困憊で上陸されるお客さまの様子が浮かぶ。なんといっても、お客さまに休んでいただく宿泊先の確保だ。あいにく、厳原に一二〇人という大人数がまとまって宿泊できる施設はない。

 七、八ヵ所のホテルや旅館に分宿してもらうことになる。すぐに一軒一軒まわって、お願いするしかない。それぞれの宿まで、どうやってお客さまをお運びするか、タクシーやマイクロバスの手配も急を要する。

 翌朝に博多港までお客さまをお送りする手配も大事だ。九州郵船のフェリーが、朝九時に厳原港から博多港に向かう。その乗船券も確保しなければ。

 博多港からお客さまはそれぞれの自宅か勤め先に向かわれるから、お客さまがばらばらになる前に厳原でビートルの運賃を払い戻しができるようにお金の準備も明朝までに済ましておく必要がある。

そして、「C・I・Q」 のスムーズな手続きができるかどうかが一番の難題だ。疲れ切ったお客さまが厳原港のターミナルに着かれたあと、できるだけスピーディな入国手続きを済まして早く宿で休んでもらわなければいけないが、「C・I・Q」が夜の遅い時間に港で手続きをしてくれるか。

 そのことが大きな心配事だった。こうしたことを、わずか二人だけで、しかもたった三時間という短い時間でやり遂げるのは、きっと無理だろう。

 ありがたいことに、ビートルの災難を聴きつけた町役場の方が何人も私たちといっしょにすぐに行動してくれて、大勢で手分けして宿や車の手配をあっという間に済ましてくれた。

 一番難しそうな「C・I・Q」のほうは、私たち二人でお願いにまわるしかない。幸いなことに、勤務終了前で各所長が事務所におられた。 「入国手続きのお願いに来ました」 ”にじり寄る”の妙技が決まるか。

 「さっき、聞いたばかりじゃないですか。この秋でしょう」 「いいえ、実は急遽、今夜その予行演習をやっていただきたいのですが」 「……」 各所長とも唖然として、一瞬言葉が出てこなかった。私たちは、ビートルの急なトラブルの発生からもうすぐ厳原港に入ってくることまでを簡潔に説明した。

 ”にじり寄り”なんか通用しない。ただひたすら、二人して深く頭を下げるしかない。「非常事態なんです」 理解してくれた。ビートルが厳原港に着岸してすぐ「C・I・Q」の手続きをしてくれることになった。きわめて迅速かつ円滑に。 』


 『 お詫びと説明を終え、皆さまを車のほうに順次案内した。お客さまも、あきらめたように静かに車に乗り込んでいかれた。私たち二人は、お客さまを車に案内したあと、ターミナルのあと片づけを済ましてお客さまが分かれて宿泊されるホテル、旅館を一軒一軒まわった。

 ほとんどのお客さまは多少精気を取り戻されたようで、元気に食事をとられていた。私たちは、グループごとにあらためてお詫びを申し上げながら、男性で元気そうな方にはビールをお酌してまわった。

 二人ともお詫びをするのはそれほど得意ではないが、お酌しながらこちも少し元気になったような気がしてきた。

 「ビートルの課長さん、気にしなさるな。厳原港に着いてからのあなたたちの対応は立派だ。釜山に観光に行ったが、もう一泊対馬で観光が、できたと思えば楽しいよ」 

 元気なビジネスマンがかけてくれた言葉が、私たち二人の疲れを吹き飛ばした。あとで、宿の外に出て二人で強く手を握り合った。よかったなあ。

 翌朝、昨日の大騒ぎが嘘のような青空のもと、さわやかな空気が厳原港を包んだ。宿からつぎつぎにお客さまが港にやってきて、昨日とは打って変わって力強い足取りでフェリーに乗り込まれる。

 幸い、どのお客さまも怒った表情ではない。なかには、「お世話になりました」と私たちに言葉をかけてくれる方もいらっしゃった。予定どおりに、お客さま全員が無事お昼過ぎに博多港に到着された。 』


 このあと、赤字のJR九州の外食事業部を黒字化し、特急「ゆふいんの森」、特急「あそぼーい!」、特急「A列車で行こう」、特急「はやとの風」、特急「指宿のたまて箱」へと続き、「ななつ星」へと続きますが、最後に、唐池恒二 ”「鉄客商売」 二二の学び” を紹介して終わります。

 (一) 何事も前向きに考える

 (二) 意気に感じて取り組む仕事は、けっこううまくいく。

 (三) 難局に直面したとき、逃げずに真正面からぶつかっていくと道は必ず開ける

 (四) 進むべき方向とスケジュールを明確にすると、人は迷わず行動する。

 (五) 二メートル以内で語り合うと、互いに心が通じるようになる。

 (六) 「気」に満ち溢れた店は、繁盛する。

 (七) 夢は、組織や人を元気にする。

 (八) 経営方針は、トップが自らの言葉で語る。

 (九) 月次決算書は、現場の責任者が手づくりで作成することに意味がある。

 (一〇) ネーミングは、徹底的に勉強し、とことん考え抜いてはじめてできるもの。

 (一一) 現場に行くと、いろいろなことを教わる。

 (一二) サービスとコストの両方の最適化が、経営のめざすべきものだ。

 (一三) サービス教育の先生役は、鬼に徹するべし。

 (一四) 店長が最優先すべきことは、司令塔として職務を全うすることだ。

 (一五) 何ごとも、すべてを貫く哲学=コンセプトが大切だ。

 (一六) 手間をかけ誠実に徹した仕事や商品は、お客さまを感動させる。

 (一七) 学んだことは、すぐに実践する。

 (一八) 人を元気にすると、自分も元気になる。

 (一九) デザインと物語は、いい仕事には欠かせない。

 (二〇) 行動訓練は、「気」を集めるための最良の道だ。

 (二一) 日々の誠実で熱心な練習は、本番で大きな成果をあげる。

 (二二) 「気」のエネルギーは、感動というエネルギーに変化する。


 私が本書を読んで、唐池会長の最もすぐれた点は、必ず素晴らしい相棒とタグを組んで、難関を攻略し大きな成果をあげていることだと思います。簡単そうでなかなかできないことです。 (第125回)