チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「コレクション的バリエーション投資法」

2017-11-28 10:03:03 | 独学

 151. コレクション的バリエーション投資法  (五十嵐玲二談 2017年11月)


 少額の資金で、いかに低リスクで、株式投資を行なうための考え方です。一般的株式投資の手順は、上場企業の3600社の中から、3年後に最も上昇割合の大きな企業を予測し、選択するゲームと捉えることも可能です。

 株式市場は、資本主義社会で発展してきました。なぜ、株価があがるのか。それは、当該企業が基盤となる技術や、ノウハウや、ビジネスモデルによって、利益をあげることによって、国に税金を納め株主に配当金を支払い、さらに、企業価値を高めることによります。

 従って、過去三年間と今後三年間に少しづつ利益が増加することが、大切です。そのような企業を財務指標によって、スクリーニング(screening :選別)を行ないます。それらの指数とは、PER,PBR、配当率、ROA,自己資本比率などです。

 PAR :price-earnings ratio (earn :利益) 株価収益率 、PBR :price book-value ratio (book-value :純資産) 株価資産倍率、ROA :return on asset (asset :資産) 総資産利益率。


 スクリーニングによって、20~30社程度抽出し、次に、指数で直接絞り込めないもので、絞り込みます。過去三年間の利益、今年度末の予想利益、投資命題、基盤技術、五年後にその企業がどうなっているか、などです。

 投資命題とは、アンソニー・ボルトンによって提唱されたもので、その銘柄を保有したいと望む理由を数行で表現したものです。基盤技術とは、当該企業が収益を上げるための本質的な技術です。

 その技術が理解できなければ、徹底的に調べて、研究して勉強しなくてはなりません。理解できない企業には、投資すべきではありません。この絞り込みによって、2,3社に絞り込みます。

 次に自分の資金と相談して、少しづつ丁寧に投資します。ウォーレン・バフェットによると「個人投資家は、バッターボックスに立ったまま、絶好球をいつまでも、待っていればよく、バッターアウトを宣告されることはない」と言っています。見送る時は、予備リストに登録し、経過を監視します。


 1. 株式投資に関する書籍に於いて、まったく触れられてない一番重要なことは、資金を投入後、ゆっくりと待つことです。株式投資は、時間の関数であることは、間違いありません。

 その単位は、三ヵ月ごとの四半期と決算の年単位です。企業の業績はこの単位で、発表されるため、三ヵ月~一年の期間を必要とします。従って、ゆっくりと待つことが、一番重要で、待つことが楽しいことがさらに重要です。


 2. ある企業の株式を取得することは、わずかですがその企業の一部分を所有するため、一つのコレクションと捉えることができます。さらに、その企業活動そのものが、わくわくする感じがあることが、ベストです。

 わくわくしながら、静かに待って、その企業の株を持っていることが誇れることが最高です。


 3. 投資をするからには、配当も欲しい、株価も上がってほしい、将来性のある株であって欲しい、株価は大きく下落しない株であってほしい、……となります。一つの株でこれを実現することは、難しいかもしれません。

 なぜなら未来は誰にも見通せないからです。しかし、たとえば18社の株を自分が想定するそれぞれのポジションに配置し、そのポジションを守り切れば、全体として理想に近づく確率が上がると考えます。

 

 4. テーマによってバリエーションをつくる。未来に対して、どのテーマが主流になるかは、誰にもわかりませんが、私は以下のようなテーマを考えています。

 エネルギー資源、銅・ニッケル資源、リチウムイオン電池、真空蒸着法、塗料関連、溶接関連、自動組み立て、自動調節弁、固体潤滑剤、切削技術関連、精密プレス関連、養鶏関連……などです。

 テーマとその企業の基盤技術がしっかりしていて、経営陣と従業員が未来を見つめている企業は、明るい未来が開けるように感じます。


 5. 持ち株企業の技術やビジネスモデルが、自分のコレクションになり、18社のバリエーションが、自分だけの持ち株モデルです。私の会社の18名のメンバーであると考えることもできます。

 自分はまったく起業していなくても、18社の企業群のバランスは、私のオリジナルなものであり、私の個性であり、私の未来を拓くものであると信じてます。


 6. 投資に於けるリスクをできる限り、少なくすることは重要なことです。投資の格言に「同じかごに卵を入れるな」がありますが、未来を見通すことが不可能ですので、投資の分野の多様性(バリエーション)を確保することによって、リスクを少なくすることが可能です。


 7. 個々の株価が下がらない工夫をする。その一つが配当率の良い企業を選択すると、それが下落のストッパーになります。

 純資産が多く(PBRが低い)、負債の少ない企業は、下落のストパーになりなす。その企業が利益をあげて、業績が伸びていれば、いずれ株価は上がります。

 株価が下がらない株を選択すると、株価は上昇するしか道はなくなります。


 8. 決算時期のバリエーションを持つ。基本的には3月決算ですが、5月、6月、11月、12月の決算株を持つと、中間決算や決算時期が分散され、3月決算で悪い結果であった場合、5月以降の決算で好業績が予想される株に乗り換える。また、配当金も分散される。


 9. グループ別に管理を行なう。私の場合は、Aグループ6社、Bグループ6社、Cグループ6社に分、さらに、2社づつペアにして、管理しています。グループ別に、さらに全体として上昇基調であることが好ましいことです。

 これら18社の動きを観察することによって、未来がどのように動くかを察知します。半年に1回程度、「投資命題」にそぐわない、基盤技術に陰りが見えた、利益水準が望ましくない、経営陣との相性が良くないなどの理由があるとき、予備リストまたは、持ち株の好成績のものと入れ替えます。


 10. だれもが、その企業の株を持ちたいと考える企業の株価は上昇しますので、そのような株を少し早めにコレクションすることによって、株式のコレクションは充実し、誇りを持てるようになります。

 現在も、将来も、利益をあげ続ける企業であり、その企業が社会に貢献することによって、株式投資はすばらしいコレクションになります。


 私の失敗例その1。

 10年ほど前に、海運株に投資したのですが、世界の船の需給指数であるバルチック海運指数を知らなかったため、大きく下落して、大きく損をしました。


 私の失敗例その2。

 二十五年ほど前に、ヨーロッパデズニーランド(フランス)を開くというので、その株を買いました。日本ではデズニーランドが大成功で、当然何倍にもなると思いましたが、ヨーロッパでは、まったくの失敗で、五年後に、一〇分の1以下で、手放しました。

 そのとき日本のデズニーランドの株を買っていたら、何倍かになっていたはずです。(よく解らないものに、大切なお金を投資してはいけない。)


 私の失敗例その3。

 十数年前に未来のエネルギーとして、新聞や雑誌で、メタンハイドレートが、日本の近くの深海に豊富にあり、有望であるともてはやされてました。そこで私は、関連の企業の株を買いました。

 三年ほど持って、数分の一で手放しました。現在でも実用化のメドさえ立っていません。インターフェロンの会社の株とか、よく騙されたものだと、感心します。実用化した後で、遅くはないのです。(第150回)



ブックハンター「すばる望遠鏡の宇宙」

2017-11-01 15:32:19 | 独学

150. すばる望遠鏡の宇宙  (海部宣男著 宮下暁彦写真 2007年7月)

 本書は岩波新書のポケット版の大きさの小さな本で、見開きごとに写真がある本です。しかしながら内容は濃く、太陽系から、銀河系さらには、128億光年先の宇宙までをカバーしてます。

 すばる望遠鏡の開発から、日本とハワイとアメリカの学者や技術者の共同作業、マウナケアの山頂とハワイの文化から、紀宮様まで出てきます。主題はもちろんすばる望遠鏡で写した宇宙の写真がメインです。

 目次は、はじめに、第一章 未知への航海(宇宙へ船出したすばる望遠鏡)、第二章 宇宙に咲く花(すばるが観た宇宙の美しさ、不思議さ)、第三章 極限に挑む(技術の限界に迫ったすばる望遠鏡)

 第四章 マウナケアは星の天国である(ハワイ島の自然と人々と宇宙)、第五章 ビッグ・バンに迫る(この世界はどのように始まったか)、第六章 ひろがる太陽系(身近な宇宙にも新発見が満ちている)、第七章 太陽系外の惑星と生命(科学の夢はどこまで)、 以上です。


 『 望遠鏡とは、なにか。遠方からの光をできるだけ多量に、できるだけ無駄なく、できるだけ小さな点に集めるものである。えっ、望遠鏡って、遠くの景色を大きくして見るものじゃないの。

 そのとおり。だが像が大きく拡大するにはまず、光をたくさん集めなければならない。だから、大きな口径が欲しい。一方、像の細部までシャープに見るには、できるだけ広い範囲からの光を、できるだけ小さな点(焦点)に集めなければならない。

 光を集めるレンズや鏡が小さかったり、大きくても精度が悪くて小さな点に集められないと、いくら拡大して見てもボンヤリした像にしかならない。

 だから望遠鏡は、口径が大きいほどよい。「大きいことは、いいこと」である。そして口径が大きいほど、原理的に焦点は小さくなる。そこへ十分に光を集中させるには、レンズや鏡、それを支える構造に、より高い精度が要求される。

 「大きいだけ」ではだめで、大きいほどますます、精度が高くなくてはいけない。これが「大きくて高い精度」を求める、天文学者の戦いなのである。

 ふつうどんなものも、大きくなれば精度は下がる。工作精度が落ちるし、温度や自重による変形も増える。

 一九四七年に完成したパロマ山天文台の五メートル望遠鏡以来、それを超える光学望遠鏡が半世紀間も実現しなかったのは、一つには、「大型になるほど高精度」の技術的な困難が、ガッチリ立ちはだかっていたからなのだ。

 一九八〇年代に、光学望遠鏡の「大型になるほど高精度」の困難を乗り越えるメドがついた。

 たくさんのアクチュエータ(駆動装置)で大口径の反射鏡面を超高精度で制御し、温度変形や重力変形を打ち消して常に最高の形に保つ、能動光学という技術の登場だ。

 この新技術が、新世代の八メートル級望遠鏡の実現に道を開くことになった。能動光学技術に先鞭をつけたのは、ヨーロッパの天文学者たちだった。

 ヨーロッパ南天天文台(ESO)の実験望遠鏡NTTがそれで、口径三・五メートルという大きな鏡の鏡面を、非常に高い精度で制御してみせた。

 やや遅れて国立天文台の光天文学グループと三菱電機は、協力して能動光学機構の開発を進めた。お金がないので口径はわずか六〇センチの実験望遠鏡だったが、すばる望遠鏡実現の技術的な基礎を築いた。

 この技術を使って、これまでにない大きさの、最高の制度の望遠鏡を作ろう。ヨーロッパでもアメリカでも日本でも並行して、新しい大型光学望遠鏡の構想が進められた。

 だれ言うともなく、口径八メートルが一つの目標となった。パロマ山天文台の五メートル望遠鏡の一倍半(七・五メートル)より大きい。一枚もののガラスの鏡の輸送を考えると、これ以上は難しそうだ。

 こうして一九九〇年代、八メートルクラスの新世代望遠鏡の建設が、世界で一斉に始まったのである

 フランス、ドイツなどヨーロッパ10ヵ国で構成するヨーロッパ南天天文台のVLT望遠鏡群が、まず建設を開始した

 一年遅れで日本のすばる、そして構想の統一に手間取ったためさらに半年遅れて、アメリカがイギリスなどと協力したジェミナイ望遠鏡がスタートした。

 小さな鏡を組み合わせて10メートル相当の口径を合成する技術を用いたケック望遠鏡が、いち早くマウナケアに建設され(一九九三年)、活躍を始めた。

 ケック望遠鏡の合わせ鏡は安価で口径も大きくできるが、鏡の精度では一枚鏡が有利である。実際いま、すばる望遠鏡は合わせ鏡方式の望遠鏡に比べ、かなり優れた結像性能を示している。

 私は、もともとは電波天文学が専門だ。長野県の野辺山で、大型電波望遠鏡の建設に数年、観測に10年を過ごした。だが望遠鏡の原理は、電波でも光でも同じである。

 すばるの建設が始まるというのでリーダーの小平柱一さんから誘いを受け、三鷹の光赤外線天文学グループに移った。実はこのとき、「すばる」の名はまだなかった。

 望遠鏡はJNLT(Japan National Large Telescope の頭文字)と呼ばれていたが、これでは舌をかむ。そこで、親しみやすい名前をつけようと公募したら、三五〇〇通も応募があった。

 楠田枝里子さんなどに選定委員をお願いして議論の結果、「すばる望遠鏡」の名が選ばれたのである。清少納言を引き合いに出すまでもなく、「すばる」は日本人が古くからなじんだ、美しい星団だ。

 「すばる」は「すまる」、集まるという意味のやまとことばでもある。ぴったりのネーミングだったと思う。もう一つ、それまで七・五メートルだった口径を、欧米に負けない八・二メートルに変えるべく頑張った。

 わかりやすいパンフレットも作った。ともかく、四〇〇億円近い大計画だ。広く社会に知らせ、理解してもらいながら進めなければならない。科学は社会とのつながりの中で進めるものだというのは、野辺山の時代からの私の強い思いだった。 』(以上、”はじめに”より)


 『 ”とび”という仕事。高い足場で建設作業に携わる職人さんは、世界のどの国にもいるはずだ。彼らはそれぞれ違う文化をもちながら、きっと同じ精神を共有しているんだろうな。そうに違いない。

 四二〇〇メートルのマウナケア山頂の、さらに地上四〇メートルの中空に突き出す鉄骨の上を平然と歩き、溶接したり大きなボルトを力強く締めているワーカーたちを見ていると、そんな気がしてくる。

 彼らの姿は、太平洋を覆う雲海の上、天と地の間に浮かんでいる。さながら、雲の国の大工さんだ。真っ黒に陽に焼けた、人懐っこいワーカーたち。

 ハイと握手すると、私の手では握りきれないほどその手は大きく、鉄のように固い。進み具合はどう(ハウ イズ ジ  エヴリシング)? 順調さ(ヤー、ゴーイング ウェル)。

 ここは、並の世界ではない。空気は、平地の六〇パーセント。山頂で軽い高山病にならない人は珍しい。酸素不足でめまいや頭痛、ひどくなると吐き気に襲われる。

 観測で何十夜か過ごした経験を持つ私でも、山頂で数時間経つと頭痛がはじまるので、動作はゆっくり、息切れしないよう気をつける。

 その山頂で重い鉄材を動かし、巨大なクレーンをあやつり、しんどい錆落としや危険な場所での溶接をこなすワーカーたちのパワーには、いつも脱帽のほかはない。

 彼らの多くは、ここマウナケアでの建設作業に長い経験をもつ、生え抜きの連中である。最高の宇宙観測の場として拡張を続けてきたマウナケアでは、一九七〇年代から望遠鏡の建設や修理の槌音が絶えることがなかった。

 経験がモノをいう高い給料と、世界一の大望遠鏡を造るのだという誇りが、彼らをマウナケアに惹きつける。彼らを指揮する三菱電機や大成建設の技術者も、もちろん現場に立ち会うわれわれ天文台スタッフも、負けてはいられないのだ。

 マウナケア山頂での建設は、一九九二年、基礎工事とドームの建設からスタートした。高さ四四メートルの巨大なドーム構造が全容を現わしたのは一九九五年の秋、建設開始から三年あまりである。

 すばる望遠鏡のドームは、円筒形だ。私たちは「お茶筒ドーム」と称した。上半分は、美しい楕円の切り口だ。円筒形でドームではないが、わかりやすくドームと呼ぶ。「お茶筒」になったのには、もちろんわけがある。

 観測性能をギリギリまで追求した結果だ。光学望遠鏡では、大気が絶えずゆらいでいることによる星像の乱れが影響して、大きな望遠鏡を造っても口径に見合ったシャープなイメージが得られない。

 見た目にはきらきら美しい星のまたたきは、天文学者には大敵である。大気の揺らぎの悪影響をなんとか軽減できないだろうか。

 いろいろな研究でわかってきたのは、望遠鏡やドームが暖まって発生する熱が、外の大気と同じくらいかそれ以上、悪さをしているということだった。望遠鏡自体が、星像を悪化させていたのだった。

 そこで安藤裕康教授が中心となり、航空宇宙技術研究所の実験設備をお借りして、いろいろな形のドーム模型を水流実験で試した。おなじみの半円型のドームは、地面近くの熱を含む悪い気流を巻き上げてしまうことがわかった。

 これに対してお茶筒型は気流の巻き上げも少なく、はなはだよろしい。いっぽうお茶筒型は、コストが高くなる。だが星像の良さこそ、望遠鏡の生命だ。私たちは議論の末、世界初のお茶筒型ドームの採用を決意した。

 計算流体力学研究所に依頼してドーム内気流を立体的に計算してもらい、窓や風除けをどう配置して適切な内部気流を確保するかも、理解できた。

 さらに三菱電機の協力で、巨大なドーム内部の温度研究も進められた。こうして、高性能ドームの設計ができあがったのである。いま、すばる望遠鏡のイメージのシャープさは、海外の観測者からも折り紙がつけられている。

 ドームの建設は、さまざまな困難はあったが順調に進んだ。巨大なお茶筒型ドームが、着々と姿を現してきた。そして、悪夢がやってきた。 』


 『 一九九六年一月一八日、ホノルル空港で買ったハワイの新聞の一面トップ。真黒な煙をあげるすばるドームの写真にショックを受けながらヒロに着いた。

 その前日、三鷹の国立天文台本部で会議に出ていた私に、緊急連絡が入った。建設中のドームで火災。追っかけ第二報が来た。火はすぐ消えたが、死者が出た! すぐ手配して、その夜JAL便に乗った。

 第三報では、亡くなったのは現地のワーカー三人らしいという。空港に迎えにきてくれた、当時ハワイすばるオフィス代表の成相恭二教授に状況を聞く。

 三菱電機からも、プロジェクトマネージャの三神泉さんが飛んできた。わかってきたのは、次のようなことである。

 ハワイ時間一月一六日午後三時。建設中のすばるのドーム内では、八〇人ものワーカーが、複雑な内装に断熱材を吹き付ける仕事などに従事していた。特に天井部分に多くのワーカーがいた。ドームの床では、溶接作業をしていた。

 溶接の火が、建設材から剥がした保護紙に燃え移った。安全規則によって消火器を構えていた一人が急いで消そうとしたが、火は壁の断熱材に燃え移り、瞬時に二五メートルの垂直の壁を這え登って、天井近くの断熱材に拡がった。

 黒煙がドーム上部にたちこめ、ワーカーたちは煙にまかれて逃げまどった。火は数分で自然鎮火したが、天井近くにいた三人が逃げ遅れ、煙を吸って亡くなるという悲劇に到ったのである。

 ドームからの黒煙は遠くからも目撃され、すぐに消防署に連絡が入ったらしい。隣のケック望遠鏡からは勇敢なスタッフたちが酸素マスクを持って駆けつけ、煙が立ちこめるドームに飛びこんでワーカーたちを連れ出した。

 倒れそうなワーカーに自分の酸素マスクを与えて抱え出し、自分が毒性の煙を吸ってしまった人もいた。ドームの屋根の上に逃げ出した人々は、ヘリコプターに救助された。

 私と成相さんはワイメアの町にあるケック天文台本部を訪れて、深い感謝とお見舞いの思いを伝えた。真に英雄的なこうした救助活動がなければ、犠牲者はさらに多くを数えたにちがいない。

 亡くなった方々とその家族には、申し訳なく残念な思いでいっぱいだ。工事は中断した。アメリカでもあるし、こうした場合は厳しい訴訟になる。

 安全委員会の監査も入る。工事の現場責任は主契約者である三菱電機からドーム建設を請け負っていたカナダの会社、コーストスチール社にあったため、交渉は三菱電機などにお任せするしかなかった。

 ヒロの日系社会の方々が、この時も陰に陽に私たちを支えてくださったことは、忘れがたい。事後処理は長引いた。痛んだ内部の修復法の検討を含め、夏が近づいても再開のメドは立たなかった。

 だが三菱電機はこの重大な事態に、誠実に対応した。いくつか続いた訴訟は、結局和解になった。 』


 『 さまざまな調整がついて工事が再開されたのは半年後、七月である。まずは、修復からだ。焼けこげた天井や煤けたドーム内壁の断熱材をはがして、ふき替える作業。熱を受けた鉄骨やケーブル、電気機器の取り換え。

 もちろん、火災の原因は徹底的に調べ、安全対策を検討した。もともとドーム内壁の断熱材は、難燃性のテスト済みだった。試験には私も立ち会ったが、火をつけても燃え上がらなっかったのである。

 ところが火災の時には、まだ新しい断熱材から出た揮発性のガスが燃え、垂直の壁を火は上に走ったのだ。修復工事では、断熱材の上にさらに防火性の被膜を吹き付けることになった。

 一二月、薄く雪化粧した山道を、巨大な鋼鉄のチェンバーを積んだ大型トレーラーが慎重に登ってきた。ドーム下部に納める、八メートル主鏡の真空蒸着装置である。

 いよいよ、ドーム内部で望遠鏡や設備の組み立てが始まるのだ。ドーム火災から、ほぼ一年だった。 』


 『 見ものというに相応しい。はるか高い天井近く、一二〇トンクレーンすれすれに、望遠鏡の筒先がそびえる。大きくはり出したナスミス焦点台は、両側の壁ギリギリまで迫っている。

 大阪・桜島の広大な工場の空間いっぱいに立ち上がっているのは、すばる望遠鏡だ。マウナケアでのドーム建設と並行して進んでいた望遠鏡の機械部分の製作は、一九九五年度からいよいよ、仮組みの段階に入った。

 部品をハワイ現地に運ぶ前に、国内で全体を組み立ててみて、入念に調整する。これが仮組みである。すばる望遠鏡のように巨大で精密な装置、しかも海外の高山での建設だから、とりわけ重要だ。

 光を集めるガラスの主鏡だけはアメリカで製作中なので、かわりに鉄の「ダミー鏡」が、直径九メートル、長さ一五メートルもある鏡筒の底に納まっている。

 すばるを組み立てられる大きな工場は当時ここしかなかったのだが、この日立造船桜島工場は、今はもうない。すばるの仕事を最後に九州に移転した跡地には、テーマ・パークになっている。

 日立造船は、すばるのような面白い計画に工場を使うなら自分たちも製作に参加したいと、八メートル主鏡の取り外しや洗浄などに使う各種の大型機械の製作を担当した。

 三菱電機と呼吸があったよい雰囲気で、すばる望遠鏡の仮組みは試験運転まで進んできたのである。望遠鏡の下に入ってみる。直径八・三メートル、二〇トンのガラスの鏡を支えて制御する「ミラーセル」に圧倒される。

 中に納められた二六一本のアクチュエーター(正確な凹面を制御する駆動装置)が主鏡を支え、常に最高の鏡の形状を保つのだ。すばる望遠鏡で光を集めるのは、鏡筒の底に取りつけられた凹面鏡だ。

 大型の望遠鏡は、筒先にレンズをはめる屈折望遠鏡ではなく、筒底の凹面鏡で光を集める反射望遠鏡である。いうまでもなく、この凹面鏡=主鏡が、すばる望遠鏡の心臓部だ。

 観測する光の波長の二十分の一以下という精度で鏡面の形状を制御するという、微妙極まるアクチュエータは、伊藤昇さんを中心とする三菱電機の技術陣が心血を注いだ開発で、見事にできあがった。

 ミラーセルはそのアクチュエータ二六一本を支え、主鏡を最高精度で働かせる。その製作を担当したのは、川鉄鉄構工業水島工場の技術陣だった。

 これから、鏡の表面を微妙に制御する能動光学機構のテストを進めるのだ。私たちはこれを見て、ハワイに運ぶ前に、すばる望遠鏡の勇姿をお披露目したいと考えた。

 ハワイでは望遠鏡はドームに組み込まれ、その全体を見ることはもはやできなくなる。だからいま、国立天文台や関連会社のスタッフ、家族、全国天文ファンの方々や一般市民にも、この巨大で精密な構造物を見てもらってはどうか。

 さっそく実行した一般公開は大変な人気で、新聞やテレビで大きく報道され、結局、三度も回を重ねた。日立造船や三菱電機の方々には、このために大変なご協力をいただいた。

 一九九六年夏、充分な調整を終えたすばるの望遠鏡構造は解体され、何隻かの船で、順次マウナケアに向かった。火災の修復が一段落したドーム内で、本組み立てが始まる。 』


 『 すばるは、可視光用・赤外線用としては、日本がはじめて作った大望遠鏡である。それまで日本最大の光学望遠鏡は、国立天文台岡山天体物理観測所の一・八八メートル。一九六〇年にイギリスのグラブ・パーソンズ社が作ったものだ。

 光学望遠鏡の経験では、長い伝統をもつヨーロッパやパロマ山の五メートル望遠鏡など大型化で先頭を走ってきたアメリカに、日本ははるかに及ばない。

 それでも私たちは、欧米の経験に学びつつ新しい開発を進め、独自の優れた性能を実現したいと考えた。すばる望遠鏡でおこなった独自開発は、数多い。

 先に述べたお茶筒型ドーム、主焦点の広視野を利用したシュープライム・カム(主焦点に搭載する超広視野のデジタルカメラ、全長三メートル,総重量三トン)や、世界に先駆けての太陽系外惑星の直接観測をめざすチャオ(近赤外線観測と補償光学装置を組み合わせたもの)などである。

 さらに、観測装置自動交換ロボット、汎用性の高いデータ解析ソフトなど。だが何といっても、望遠鏡の命である優れた結像性能(シャープなイメージ)の獲得が、最重要課題だった。

 結像性能にかかわる最新技術・基本的なテーマをあげると、(1)ガラス素材、(2)研磨、(3)能動光学システム、(4)ミラーやドームの温度制御と気流制御、(5)望遠鏡の追尾性能、(6)補償光学システム、と言ったところだ。

 すばる望遠鏡は日本の技術でつくりたかったし実際そうしたが、このうち主鏡の製作に関する(1)と(2)だけは国内に引き受けられる会社はなく、アメリカで製作することになった。

 すばる望遠鏡の主鏡ガラス材は、パロマ山の五メートル鏡以来の伝統をもつアメリカのコーニングガラス会社が、独自のULE=超低熱膨張ガラスで製作した。同社の製品パイレックスは、火にかけても割れないガラスとして台所にも進出した。

 温度が上昇した時の延びがふつうのガラスの三分の一以下だから、割れにくいのだ。その後同社が開発したULEの熱膨張率は、パイレックスの数十分の一である。

 温度変化が大敵の大型反射鏡には、ぴったりなのだ。コーニング社も大はりきりで、最大・最高のガラス材の鋳込みを成功させた。まず、成分を均一にコントロールした直径一・六メートルのULEガラス円盤を、たくさん作る。

 それをすべて正六角形に整形して、平面に磨く。それらを四四枚並べた全体を巨大な特性回転炉に入れ、均一に熱して相互に溶着させて、大きな一枚のガラスにする。

 次に、この大きなガラス円盤の両面を削って平らにしてから、今度は凸面に整形した巨大な耐火煉瓦製の型にそっと載せ、再び回転炉に入れて熱する。

 ふわっと柔らかくなったギリギリで火を止めると、おみごと! ガラスは凸面になじんで、お皿を伏せたようなメニスカス型の鏡材ができあがった。こう書けば簡単なようだが、直径八・三メートルという巨大さだし、ガラスはやっかいな素材だ。

 それを扱うコーニング技術陣のノウハウはさすがに分厚かったが、このガラス製作だけで三年かかったのである。 』


 『 この間、六角形のULEガラス材を一枚一枚測定し、最適な(温度変化はわずかだがゼロではないから、それをさらに最小にする)並べ方を研究するなど、三菱電機の技術陣の努力とリードにも、めざましいものがあった。

 ニューヨーク州の北部、カントンにあるコーニングのガラス工場から、ナイヤガラ瀑布わきの運河を通り、エリー湖からハイウエーを占拠して、ワンパンの研磨工場まで、写真担当の宮下暁彦が付き添って巨大ガラスの大キャラバンが行われたのは、一九九四年八月である。

 船の故障、悪天候と続くトラブルと戦いながらの、三週間の旅のあと、すばるの巨大な鏡材は、無事にコントラベス社の地下倉庫に納まった。いよいよ研磨である。

 ワンパンは、アメリカ・ペンシルバニア州のピッツバーグからほど近い、静かな山村である。一九九八年夏、石灰岩採掘跡に作られた地下研磨工場では、すばる望遠鏡の主鏡製作が最終段階を迎えた。

 四メートル鏡を磨いた実績をもつコントラベス社だが、八メートルの鏡を磨くのは、もちろん初めてだ。この比較的小さな光学会社は、すばるの鏡を磨いた四年の間も、リストラや会社自体の売却などで揺れ続けた。

 しかし技術者魂は、アメリカでも脈々と受け継がれている。コントラベスの首脳は私たちに、「会社がどうなろうと、すばるの研磨は最重要の仕事です」と、断言し続けた。

 折り紙つきの光学エンジニアとして知られる技師長スコット・スミスさんは、多くのヘッドハントを断り、すばるの主鏡のために最後まで奮闘してくれた。

 日夜緊張した作業を続けるのは、スコット・スミス以下コントラベスの研磨のベテランたち。三菱電機から来ている、伊藤さん、斎藤秀朗さんら選り抜きの技術者。

 国立天文台からは、望遠鏡のベテラン田中済教授と、気鋭の若手光学者である大坪政司研究員を送り込んだ。この三者が議論を戦わせながら、八メートル主鏡の最終研磨と最終検査の段階に取り組んだ。

 ガラスの鋳込みから七年、すばる望遠鏡の主鏡製作の大詰めである。目標は一つ。最高の鏡を実現しよう。

 研磨が完成に近づいた一九九八年七月にコントラベスを訪問した際、私は研磨完成時のお祝いにと、フランスから持っていったシャンパンをスコット・スミスに贈呈した

 酒があまり飲めない彼はサンキューとそれを受け取りながら、間近に迫った納入期限について、私の意見を求めた。

 「時間は大切だが、もっと大切なものがある。それは望遠鏡の性能だ」と私が答えると、彼は「わかった。納期が遅れても、それはやがて忘れられる。しかし主鏡の性能が悪かったら、天文学者は私を永久に許してくれないな」と言って、私の手を固く握った。あの彼との握手を、私は決して忘れない。

 最後まで粘って研磨を続けたコントラベスのチームによって、すばるの主鏡は鏡面精度一二ナノメートル(能動光学補正後)という、すばらしい鏡に仕上がった。

 ナノメートルとは、ミリメートルの一〇〇万分の一の単位だから、主鏡をさしわたし八〇キロメートルのハワイ島の大きさとした時、一二ナノメートルは新聞紙一枚の厚さである。

 もちろんミラーセルと能動光学機構を含めた、最終測定結果だ。この結果をマウナケアの各天文台の所長で作るマウナケア国際観測所委員会で報告した時、私はまことに鼻が高かった。

 スコット・スミスは、すばるの鏡を仕上げたあと、静かにコントラベス社を去っていった。一九九八年九月一八日。すばるの主鏡とミラーセルは、厳重に梱包され、祝福とともにワンパンを出発した。

 ミシシッピ河からカリブ海、パナマ運河、太平洋と三隻の船を乗り継いで、二ヵ月の旅である。

 カリブ海のハリケーンなどをかいくぐったすばるの主鏡は、ハワイ島カワイハエの港で特注の大型トレーラーに積み替えられ、11月五日の深夜二時、山頂への旅に出た、そして、昼すぎに無事山頂に到着したのである。

 ワンパンから二ヵ月の旅を終えて山頂到着した八・三メートル主鏡ガラスを待っていたのは、ハワイ観測所スタッフによる丁寧な洗浄、そしてドーム下部に据えられた大型真空チェンバーでのアルミニウム蒸着作業だった。

 九九・九九九九パーセントの高純度のアルミニウムを真空チェンバー内で電気加熱して蒸発させ、全鏡面に均等な原子の膜として吹きつける。これでピカピカの鏡になり、可視光で九二パーセント近い反射率が得られる。

 アルミニウムのかわりに銀を使えばもっと反射率が高いが、大型鏡の銀蒸着の技術的課題や、錆による劣化の問題は、まだ研究中だ。アルミニウムの真空蒸着では、天文台に長い経験がある。

 野口猛助教授の指揮のもと、観測所総出の作業だ。第一回の蒸着で、なんとか成功した。若干瑕疵(かし)はあるが、観測には全く問題ない。今後一~二年ごとの蒸着で、さらにきれいな鏡面になってゆくはずだ。

 組み立ての最後を飾るのは、蒸着で本当の「鏡」となった主鏡の吊り上げ、鏡筒への装着である。これも観測所と三菱電機チームの総出で、一日がかりの大作業だ。

 鏡の到着から、一ヵ月。私も山頂で、この作業を立ち会った。主鏡を納めた鮮やかな青のミラーセルが、ゆっくりと吊り上げられ、すばる望遠鏡の鏡筒に無事、しっかりと固定された。

 これで、望遠鏡としての組み立てはほぼ完成した。あとは調整とファースト・ライト、そして試験観測と望遠鏡としての命が吹き込まれてゆく。 』(以上第三章「極限に挑む」より)


 
本書は、小さな子供(写真だけでも)でも、私のような素人でも、天文学者でも、今回のように部分的に文章だけでも、読む価値のある本です。しかしながらすべてを理解することは、無理でも、何回も読む価値のある本だと感じました。(第149回)