64. 千曲川ワインバレー 新しい農業の視点 (玉村豊男著 2013年3月)
著者の玉村は、百数十冊の本を書き、私があえて紹介する必要性は感じませんが、玉村豊男と水上勉の青空哲学(信州水玉問答)を紹介しようと考えましたが、水上勉を知らない読者にさらに会話のぼんやりした面白さを伝えることの困難さのために断念しました。
そのまえがきに以下のような記述があり、今回紹介する内容の前段として紹介します。
『 千曲川をはさんで北側に小県郡東部町、南側に北佐久郡北御牧村。私の住む町から水上先生のおられる村までは、クルマで行けば三十分くらいだろうか。
軽井沢に住んでいた頃、水上邸は我が家のすぐ裏に、いや我が家のほうが水上邸のすぐ裏にあったというべきだが、要するに大きな声を出せば届くくらいの、背中合わせに位置していた。
その「隣人」どうしが、ほとんど時を同じくして、また川をはさんで「お隣り」となったのである。不思議なご縁というほかはない。先生は、軽井沢の住人としては私のはるかに先輩である。
それに、いうまでもなく高名な文学者であり、近くに家を建てて移り住んだものの、直接お目にかかる機会はすぐにはおとずれなかった。たしか、最初の訪問は、塩沢通りで喫茶店「離山房」を営む、カメラマンの槙野尚一氏に連れられていったのだと思う。
槙野さんは私が東京から軽井沢に引っ越すきっかけをつくってくれた仕事上のこれまた大先輩なのだが、水上先生とは古いおつきあいの方なのである。
先生の話はあれこれ聞いていたし、「離山房」でコーヒーを飲んでおられる姿を目撃したことは何度かあった。この喫茶店の名付け親は先生で、看板の字も先生の手になるものだ。
先生は、槙野さんが朝日新聞を定年でやめるとき、軽井沢に住んで喫茶店をやれと熱心に勧めたそうだ。そして実際に自転車に乗ってあちこちを探し、塩尻湖から急な坂道を上がって一段落するあたりが商売をやるのにいい、と、土地まで決めたらしい。そのあたりまで上がってくると、ちょうど喉が渇いて飲み物が欲しくなるのだそうである。
しばしばお目にかかるようになったのは、むしろいまのところに移ってからのことである。東京、京都、若狭、と各地に拠点を持っておられるが、この何年かは信州で過ごす日々がいちばん多いようだ。
親しくおつきあいさせていただくにつれ、私は、しだいに先生の中に私と似たところを発見するようになった。もとより、同じ高みで引き較べるなど失礼千万には違いないが、敢えて言えば、である。
〇 普請が好きで、絶えず家をいじくりまわして工事中であること。
〇 アイデアがすぐに湧き、思い立ったことはすぐにやらねば気が済まないところ。
〇 商売っけがあり、あれこれ金儲けができそうな企画を考えること。ただし実際には金儲けをするのはヘタなところ。
まだほかにもあるが、軽井沢といい千曲河畔といい、同じような場所を選んで住むことじたいが似た者の証拠かもしれないし、少なくとも現在は、山の上に、女性の多いスタッフに囲まれて暮らしている。
違うところは、私には艶福が欠けていることだろう。これだけは資質が違うのでいたしかたないが、今回の対談でいみじくも先生に、「水上邸はハーレムだが、玉村のところはコルホーズだ」と指摘された通り、東部町ヴィラデストには色気がない。
先生のもとには、多くの人が集まってくる。その誰もが、先生に心酔するファンである。羨ましいが、実際に近く謦咳に接していると、なるほど、私も、人を惹きつける魅力というのはこういうものか、男の色気とはこういうものかと、思わずその端正な顔立ちや、はにかんだような笑みや、控えめだが重みある言葉のひとつひとつにうなずいてしまうのである。
艶福とは、人の感情の深いところに触れる人間的魅力が生み出すシンパシーの輪、と言い換えるのが正しいだろう。(水上工房は、竹から竹紙(和紙)を漉き、竹紙に絵と文を書いて、格調高いものに仕上げている。)(水上勉 作家 1919~2004) 』
東京から軽井沢へ、さらに標高850mの東御(とうみ)市へ、では、本題の「千曲川ワインバレー」へ、行ってみましょう。
『 ヴァラデストは、眼下に上田盆地と千曲川の流れを、はるか彼方に北アルプスの稜線を望む丘の上にあります。
四二歳の厄年を迎える春に原因不明の吐血をして病院にかつぎ込まれ、輸血で肝炎をもらって療養生活を余儀なくされた私は、人生の後半は土を耕して暮らそうと夫婦で語り合い、眺めのよい土地を探して、そのころ住んでいた軽井沢から一時間くらいで行ける範囲を毎週のようにふたりでドライブしていました。
小諸市、青木村、春日温泉などに候補の土地は見つかったものの縁がなく、その日は大室山にある信州大学の農場付近から森の中の林道を下ってきたのでした。林道を抜けると、目の前に素晴らしい景色が広がっていました。
南西に向かって開けたなだらかな里山の斜面と、その左右に広がる雑木林。前方の視界を遮るものはなにもありません。私たちはそれを見て、いっぺんで気に入りました。ここだ、ここにしよう。そうね、ここしかないわね。ヴィラデストという名前は、その瞬間に思いついたのです。
ヴィラデスト VILLA DEST のエスト ESTは、ここだ、ここにある、という意味のラテン語です。田舎と都会を繋ぐ拠点の意味をもつヴィラ VILLAという言葉が結びつきました。 』
『 フランスに留学していた学生の頃、雑誌のページを操っていたら、見事なブドウ畑の写真が目に飛び込んできました。ブルゴーニュあたりの風景でしょうか。写真の下には、こんなキャプションが添えられていました。「のどの渇く風景」
パリに暮らしてまだ一年も経ってない頃だと思いますが、このときに受けた衝撃はいまだに忘れられません。そうか、フランス人はブドウ畑を見るとのどが渇くのか……。もちろん、のどが渇くというのは、ワインが飲みたくなる、という意味です。
食事のときにはワインを飲むのがあたりまえ、学生食堂でも何十円か出せば安ワインの小瓶が買えるフランス人の暮らしかたにようやく馴染めはじめた私でしたが、まだブドウ畑を見ただけでのどを鳴らす感覚までは理解できていなかったのです。
森の中の林道を下ってきたときに見た風景は、斜面の広がり具合といい、日の当たりかたといい、もしフランス人だったらかならずブドウの樹を植えるに違いない、と思わせる風景でした。
ここに、おいしいワインがある。その風景を見てこの言葉を思いついた瞬間、私は、ここにブドウの樹を植えなければならない、と直感したのです。それが、いつか「のどの渇く風景」になるために。
もっとも、いまだから大きな顔をしてそんなことがいえるものの、そのときには、この地域で本当にブドウが育つという確信があったわけではありません。
もちろん、この地域が日本一おいしい巨峰の名産地であり、小諸から上田に至る千曲川沿いの河岸段丘は日本でも一、二を争う少雨地帯であることは知っていましたので、当然ワイン用のブドウにも適しているだろう、と想像することはできましたが、この土地は、ただそこから見える風景が気に入って買うことにしただけで、ブドウをつくるために選んだわけではないのです。
東御市の巨峰の栽培適地は標高六百メートル前後といわれており、長野県ではシャルドネやメルローが七百メートルの標高で良いものができているという実績はありましたが、誰に聞いても、八百五十メートルでは難しいだろうというのが共通した見解でした。
この標高では寒すぎて積算温度が足りず、霜害や凍害に遭う可能性が高い、という見立てです。それに、私たちが手に入れた畑は、きわめて強い粘土質でした。
フランスのブドウ畑はどこも石ころだらけの石灰岩質で、いかにも水はけがよさそうです。保水力の強い酸性の土壌はコメづくりには適していても、ヨーロッパのブドウの品種には合わないだろう……と、ワインについてよく知っている人ほど最初から否定的でした。
が、私のほうは、そもそもブドウを植えるというアイデア自体が単なる思いつきだったのですから、できなければできないでしかたがない、と腹を括っていました。不可能をあらわす言葉には「できなかった」という過去形はあっても「できない(だろう)」という未来形はないのですから。 』
『 この土地に引っ越してきた最初の頃は、夏になっても蚊に刺されることはありませんでした。それが、数年経った頃からでしょうか、夏の夕方に外へ出ると蚊に刺されるようになりました。それまでは、ときどきフラフラと力なく飛んでいる蚊の姿を目撃したことはありましたが、人を刺すほどの力はなかったのです。
ところが蚊たちは年を追うごとに元気になり、今では蚊よけのスプレーなしでは夏の夜の花火もできません。それどころか、ここ数年、ゴキブリまで見かけるようになりました。とうとうゴキブリか……。高原にはカマドウマはいてもゴキブリはいないのが常識だったのに、と思って最初は感動しましたが、そんなことはいってられません。
里山のなだらかな斜面が描く等高線を、寒い土地では生きられなかった動物たちが、気温の上昇とともに少しずつ上がってきます。もちろん、植物も同じです。平均気温の差を数字であれわせばたいした数字ではないかもしれませんが、地球の温暖化はわずかでも着実に植生を変えていくでしょう。
東御市を中心として小諸から上田に至る千曲川流域は日本でも有数の少雨地帯だといいましたが、それでもここ数年、かなり雨量が増えています。雨はブドウにとっては大敵なので、あまりうれしいことではありません。雨が降って葉や果粒のあいだに湿気が溜まると病気が出やすくなり、気温が上がって常に高温にさらされると、これまで出なかった種類の病気が発生するようにもなるのです。
その意味で、決して温暖化を歓迎しているわけではないのですが、平均的に気温が上昇することで、果樹の栽培適地が微妙に移動していることは事実です。
幸運にも、八百五十メートルという、最初はハンデと思われた標高が、いまでは有利な条件と考えられるようになり、なかには「先見の明があった」といって私をほめてくれる人さえいます。
そういわれると私はただ苦笑するしかないのですが、ヴィラデストの「成功」は幸運に恵まれた単なる偶然の結果であるにせよ、粘土質の土地ではブドウは育たないとか、開花期に梅雨が来て収穫期に長雨のある日本では欧州系のワインぶどうを育てるのは無理だとか、日本の技術ではフランスのようなワインはつくれないとか、ブドウやワインに関する、知らず知らずのうちに植えつけられた先入観やいわれのない思い込みから私たちが自由になることができれば、千曲川流域の、または長野県の、そして日本の、もっと多くの地域でもっとおいしいワインができるのではないか、という確信を私が抱くようになったことはたしかです。 』
『 私が大学でフランス文学を専攻した頃、フランス語の発音が正しくできる先生はそれほどいませんでした。あの時代、教授クラスの先生方の多くは、若い頃フランスに留学する機会がなかったからです。
フランス語の先生になる前にフランスでフランス語を勉強する経験ができるようになったのは、戦後生まれくらいからの世代ではないでしょうか。ワインも同じで、明治から大正の頃にワインづくりをはじめた人たちはもちろん、昭和生まれでも若いころからワインに親しんでいた人は数少なく、誰もが本物のワインの味をよく知らないままワインをつくる仕事をはじめたのです。
どこの新興国でもそうですが、ワインを知る世代が育つまでには時間がかかります。日本の場合、仕事としてワインに関わる以前からひとりの飲み手としてワインに親しめるようになった世代は、いまの四十代くらいからでしょうか。ようやく生まれたその世代のつくり手が、いま日本のワインを変えようとしているのです。
デラウェアもナイアガラも、その後、品種改良した巨峰も、どれも甘くて本当においしいものですが、甘くておいしい生食用のブドウは、ワインにするとおいしいワインにならないのです。ワインにしておいしいのは、粒が小さく、甘みも強いが同じくらい酸味もある複雑な味のするブドウなのです。
これまで世界中で試してきた膨大な経験の積み重ねから、どのブドウをワインにしたらどんな味になるか、だいたいのところがわかっているので、ワインをつくるための品種はある程度限られてくるのです。
生食用のブドウとワイン用ブドウは、栽培方法も異なります。生食用のブドウ園といえばブドウ棚で、背をかがめて棚の下に入り込み、頭上にぶら下がるブドウを採るのがブドウ狩りです。外国のブドウ畑の写真を見ると、ブドウの樹がずらっと横並びに植えられているのがわかります。
日本の「棚づくり」は中国から伝わった方法であるとされますが、樹の四方八方に枝を伸ばせるようにして、その枝と果実を棚で支える仕組みで、一本の樹にできるだけたくさんの房をつけるために考え出されたものです。
ところが、ワインの場合は、一本の樹につける房の数は、できるだけ少ない方がよいのです。根が大地から吸った栄養を、少ない数の房に集中させるのが、おいしいワインを生み出す秘訣なのです。ワインは果実のもつすべての力を凝縮して表現するので、たくさん房をつけた樹のブドウからつくるワインは味が薄くなってしまうのです。 』
『 ワイナリーを立ち上げるには、数千万から億単位のお金がかかります。日本の酒税法では、果実製造免許を取得するには年間六千リットル(ボトル八千本)以上の生産が義務づけられています。(ワイン特区ならその三分の一の生産量で免許が下ります。現在長野県でワイン特区を取っているのは東御市と高山村だけです。)
ヴィラデストのブドウ畑は、最初は二反歩からスタートしました。これは私が個人で管理し、できたブドウは近くのあるマンズワインに醸造委託してプライベートワインにするつもりでしたから、小さな面積でもよかったのです。
その後、酒造会社のワイナリー計画が持ち上がったとき倍に増やし、さらに自分でワイナリーを立ち上げることを決意したときさらに倍に増やし……というふうに、少しずつ面積を拡大してきました。もちろん、最初は土地を買いましたが、その後はそんな資金もないので賃借しました。
現在はかれこれ合計で約五ヘクタールにまで増えましたが、畑はけっこうあちこちに散らばっていて、家とワイナリーの周辺にも、まだ貸してもらえない土地がかなり残っています。東御市では、農家があちこちに小さな田畑を分散してもっているケースが多いのです。
どの畑も二反歩か三反歩の面積では、機械を使う農業ではいかにも能率がよくありません。借りた二つの農地が隣接した土地でしたが、元は田んぼだったのでこの二つは段差になっていました。
ブドウ畑は平らなよりも多少斜面になっているほうが水はけがよく、トラクターなどの機械を走らせるには段差がないほうがよいので、私たちは地主さんにハンコをもらいに行くとき、二枚の畑をならして一枚にしてよいかどうか尋ねました。
すると、ご主人は気軽に、いいですよ、といってくれたのですが、横に座っていたお婆さんが、「あの石垣は死んだお爺さんが苦労してつくったものだから、壊さないでほしい」というのです。
そういえば、二枚の畑の段差は立派な石垣でつくられていました。田んぼをつくるために、もともと斜面だった土地をわざわざ平らにしたのです。田んぼは水を張るために周囲を泥やブロックで固め、段差が崩れないように堅固な石垣は、お婆さんにとってはかけがえのない思い出であり。形見のようなものなのでしょう。どんな小さな田畑にも先人の汗と思い出が滲み込んでいるもので、誰もそれを無視したり否定したりすることはできません。 』
『 地中海よりも原産地に近い、グルジアのカヘチアという地方に行ったことがあります。そこはブドウとともに生きる村で、家々の軒先は日除けのブドウ棚になっており、剪定した枝を暖炉で燃やして暖をとっていました。
台所の土間には大きな素焼きの甕が埋め込んであり、中にはワインが入っています。収穫したブドウを、おそらく棒かなにかで突いて潰したのでしょう。蓋を開けると、つんと鼻をつく酸っぱい匂いがしました。
エジプトでも、ギリシャでも、ワインは古代からつくられていましたが、はじめはどこでもそんなつくりかたをしていたものと思われます。秋に仕込んで飲みはじめれば、年を越す頃にはかなり酸化が進んでいて、緑が芽生える季節にはもう飲めなくなっていたのではないでしょうか。
カヘチアの農家の台所には、酢漬けや塩漬けにした野菜や果物が棚にびっしりと並んでいましたが、私は、小さなスイカが丸ごと漬かっているピクルスの瓶を見て気がつきました。そうか、ワインはブドウの漬物なのだ……。
秋に採れたブドウを春まで食べる。乾しブドウにする方法もありますが、ブドウは潰しておけば勝手に発酵しますから、ワインにするほうが簡単で確実です。野菜の乏しい冬場でもワインがあれば体調が保てるので、ブドウを甕に放り込んで保存したのです。
カヘチアでの、ブドウによるワインづくりは、生きるために欠かせない栄養を確保するのが目的でした。ワインは趣味の飲みものではなく、お祭りにしか飲まない特別な飲みものでもありませんでした。毎日の食事のときにかならず用意する、食べ物の一種といってもいいかもしれません。だから昔は子供でさえ飲んだのです。 』
『 それまでは、収穫と醸造の体験は一年に1回しかできないのが常識でした。実際の作業は何回かに分かれるとはいえ、仕込みは年に一度です。だから、私は醸造を三十年やっています、といっても、言い換えれば、たかだか三十回しかやったことがない、というのと同じなのです。
しかも同じ土地でも毎年の気候によって出来が異なるブドウをそのときの判断により最善の方法で処理するわけですから、一回一回の経験はきわめて貴重なものとなります。その、北半球では秋にしかできなかった作業が、半年後の春に南半球へ行けばもう一度経験できるのです。
そのため、多くの北半球の技術者が南半球のワイナリーへ行って指導をしながらみずからも学び、南半球の技術者は北半球のワイナリーへ行くことによって倍のスピードで技術を習得することができたのです。インターネットの急速な普及もワインの改革を助けました。
技術者はあらゆる理論や実践の詳細を直ちに閲覧できるようになり、情報の共有は一気に進みました。こうして、ニューワールドと呼ばれる新しいワイン産地が台頭して最新の技術が紹介されると、南半球の国々でもチリやアルゼンチンなど古くからワインをつくってきた産地が刺激されて技術革新の波が伝わり、さらにはこれを受けて本家を自認するフランスやイタリアをはじめとする旧大陸の先進国が、再び覇権を取り戻そうと革新に乗り出しました。
フランス神話の呪縛から解放されて一挙に自信を深めた新世界の潮流は、こうして世界のワインの改革へと繫がっていったのです。
ボルドーやブルゴーニュの超高級ワインは、その時代のいちばん金持ちの国に買われるのは昔からの常識で、かっては大英帝国が、あるいは一時は好景気のアメリカがその役割を果たし、日本もバブルの頃に一瞬その一員になったことがありますが、近年はロシアと中国の争いから、中国が完全に抜け出したようです。
中国では、富裕層だけでなく、いわゆる中間層というそれに続くニューリッチ層が、ライフスタイルの現代化とともにワインを飲みはじめているのです。消費量はアメリカ、イタリア、フランス、ドイツに次いで五位で、年率30パーセントで伸びています。 』
『 私が桑の樹とブドウの樹の類似に気づいたのは、東京から軽井沢に引っ越してきてすぐ後のことでした。もう三十年ほど前のことになりますが、そのころは群馬の山道には、桑畑があちこちに残っていて、黒くて太い桑の木の短い幹が、握り拳を突き出すように地面から生えていました。
フランスの古い畑では、伸びた梢を剪定で切り落とすと、残された幹は膝の高さくらいしかないことがしばしばです。年を経て太くなった黒い幹は、大地から拳のように突き出ています。桑の樹とブドウの樹は、なんとよく似ていることでしょうか。
そう考えてみれば、桑の葉からカイコの体内で紡がれた糸が人の手によって精妙な絹の織物に生まれ変わるシルク生産と、ブドウの樹が大地から汲み上げた水が果実を実らせ、その果実が人の手によって素晴らしい酒に生まれ変わるワインづくりは、人と自然の関わりから生まれる、双子のように似た宝物ではないでしょうか。
そのときは、私は軽井沢から引っ越すことも、もちろん新しい土地でブドウを育てることも、ましてやそのブドウからワインをつくることなど、これっぽちも頭の中にありませんでした。
しかし、一年以上も探し続けてようやく見つけた眺めのよい土地が、かって養蚕の盛んなこの地域で桑山として利用されていた事実を知ったことは、私の、ここにブドウを植えよう、という閃きに、ひそかな確信を与えてくれました。 』
本書は、千曲川流域の東御市から、フランスのボルドーへ、グルジアのカヘチアへ、さらには南半球のワイナリーへと実際に自分の足で現地に行って、そして、その視点が、ブドウ畑から農地法、ワインに適したブドウの品種、ブドウ栽培ための気象条件、ブドウの栽培方法、日本の酒税法、世界のワイン市場へと、その視点が多様に変化し、ワインとは何かへと話は発展した。
第50回で、”世界を変えた6つの飲み物”を紹介しましたが、ワインは、ギリシャ、ローマ文明に於いて重要な役割を担いましたが、現在でも、近代文明が、ギリシャ、ローマ文明を発展させた流れの中にあるように、ワインは現代に於いてもその地位は変わりません。そのワインについて、思いをはせながらワインを飲んではいかがでしょうか。
私個人としては、「ワインはブドウの漬物である」との考えに、なるほどなあと感動し、本書を紹介した価値があったと感じました。(第63回)