161. 笑う子規 (正岡子規箸 天野祐吉編 南伸坊絵 2011年9月)
”はじめに”より
『 俳句はおかしみの文芸です。だいたい、俳句の「俳」は、「おどけ」とか「たわむれ」という意味ですね。あちらの言葉でいう「ユーモア」に近いものだと思います。
柿くえば 鐘が鳴るなり 法隆寺
子規さんのこの句を成り立たせているのも、おかしみの感情です。「柿をたべる」ことと「鐘が鳴る」ことの間には、なんの必然的な関係もないし、気分の上の関連ない。
つまり、二つのことの間には、はっきりした裂け目が、ズレがあります。
もともとおかしみというのは、裂け目やズレの間からシューッと噴き出てくるものだとぼくは思っているのですが、この場合にも、そんなズレからくるおかしみが、ぼくらの気持ちをなごませてくれていると思うのです。
これは ”うふふの宗匠”坪内稔典さんに教えてもらったことですが、漱石さんの句に「鐘つけば 銀杏散るなり 建長寺」というのがあって、これは子規さんの法隆寺より数ヵ月前につくられた句だそうですが、この二つに関する限りは子規さんのほうがいいですね、とおっしゃていました。
ズレとか、意外性から生まれる面白さの違いですね。
ところで、漱石さんの俳句にもユーモラスなものがいっぱいあってぼくは大好きなのですが、それにくらべると子規さんにはまじめな句が多いと思っている人がけっこういるんじゃないでしょうか。
重い病と戦いながら三四歳という若さで亡くなった彼のイメージが、そう思わせているのかもしれません。でも、それは誤解です。
凄まじい痛みにさいなまれながらも、彼の想像力が生んだ世界には、生き生きとした生気があった。そこから生まれる明るさがあった、とぼくは思っています。
そう、ぼくの中にいる子規さんは、「明るい子規さん」「笑う子規さん」なんですね。
そんな子規さんの二万四千ほどある俳句の中でも、とくにおかしみの強い句、笑える句を選んで、南伸坊さんと一緒に自由に遊ばせてもらったのが、この本です。
俳句にとくにつよいわけでもない二人が、楽しみながらつくった本ですから、まじめな子規研究にはいっさい役に立たないことはお約束しておきます。
というわけで、それぞれの句につけた短文も、いわゆる句解ではまったくありません。それぞれの句から思い浮かんだあれこれを、勝手に書き付けたものです。
子規さんが怒るんじゃないかという心配もありますが、あのノボさんのことです、わははと笑って、一緒に遊んでくれるだろうと思っています。 』
では、新年の句から見ていきます。
『 ◎ 初夢の 思いしことを 見ざりける
人間というのは都合の好い生きもので、日頃の所業を棚に上げ、初夢はめでたいやつをぜひひとつ、なんて都合のいいことを神頼みする。が、そうは問屋がおろさない、反対にひどい夢を見たりするもんだ。するとこんどは「夢は逆夢」なんて勝手に解釈する始末で。
◎ めでたさも 一茶位(くらい)や 雑煮餅
一茶はうまいね。「めでたさも 中くらいなり おらが春」なんて。ことしの正月は、そのもじりでお茶を濁すか。
◎ 蒲団(ふとん)から 首出せば年の 明けて居る
ひょいと蒲団から顔を出したら年が明けていたなんて、落語の八っつあんみたいに粋だろ? ほんとは蒲団から出られない病人なんだけど、ここは正月らしく、粋に気取らせてくれよ。
◎ 雑煮くうて よき初夢を 忘れけり
いい初夢を見たのに、雑煮と一緒に夢も胃袋に流しこんでしまった。ま、釣り落とした魚は大きいっていうが、たいした夢じゃなかったんだろうよ、きっと。
◎ 弘法は 何と書きしぞ 筆始(ふではじめ)
書き初めか。弘法はなんて書いたんだろうな。「初日の出?」ばかな。「初日の出?」なんだ、そりゃ? 「弘法も筆の誤り?」正月早々、馬鹿言ってんじゃないよ。
◎ 銭湯に 善き衣(きぬ)着たり 松の内
松の内は、銭湯へ行くにもしゃれた着物を着たりして。歩き方まで、ちょっと松の内しているね。
◎ 正月の 人あつまりし 落語かな
やっぱり正月は笑いだな。漱石や真之も落語が好きで、連れ立ってよく寄席へ行ったもんだ。わしらのユーモアの師匠だよ、落語は。
◎ 初芝居 見て来て晴着 いまだ脱がず
役者にとって初芝居なら、こっちにとっても初芝居。「よっ! 成田屋!」なんて、家に帰っても晴着のままで見得をきったりして。 』
次に、春の句から
『 ◎ 春風や 象引いて行く 町の中
象がのっしのっしと町をのし歩く。そんな風景には、春風がよく似合う。徳川時代から日本人の人気者だった。
◎ ひとに貸して 我に傘なし 春の雨
いいんだよ。女の人に傘貸して、自分は春雨に濡れて行く。春の雨は濡れて濡れて行くのが粋なんだ。粋って、つらいのさ。
◎ 蝶々や 順礼の子の おくれがち
菜の花畑の向こうを大きな菅笠が一つ、ゆっくり進む。と思ったら、もう一つ、小さな菅笠が遅れがちについて行く。小さな菅笠は、きっと蝶と遊びながら歩いているんだろう。
◎ 人を見ん 桜は酒の 肴(さかな)なり
花見は花を見に行くんじゃない、人を見に行くんだ。「花盛り くどかば落ちん 人ばかり」ほら、また一句できたぞな。
◎ 門しめに 出て聞いて居る 蛙かな
夕暮れに蛙の声に耳を傾けている門番の男。ケロケロケ ケケロケロケロ ケケケロケ 松山城の堀の蛙は五七五で鳴くという噂があるが、ほんとかね。
◎ 大仏の うつらうつらと 春日哉
大仏の目がトロンとしている。と思っていたら、大仏がうつらうつらと……、ほら、眠った。(誰が?)
次は、夏の句から
『 ◎ 夕立や 並んでさわぐ 馬の尻
馬は繊細な神経の生き物で、夕立にも心さわぐ。何頭も並んで繋がれた馬が夕立に遭うと、まるで尻ふりダンスをしているようだ。それにしても、なぜバケツは馬穴なんだろう。
◎ 夕立や 蛙の面に 三粒程
一粒じゃ寂しい。五粒じゃ五月蠅い。三粒がよろしいようで。
◎ 五女ありて 後の男や 初幟(のぼり)
五人女の子が続くと、たいていの者はあきらめる。が、わしの尊敬する人物はあきらめずに精を出した。その執念が実って、めでたく男の子が授かったんだ。陸羯南という大先達さ。
◎ 雷を さそう昼寝の 鼾(いびき)哉
これもわしの知り合いだが、この男と旅をしたときには、夜中に宿の者が勘違いして、部屋の雨戸を閉めにきたよ。
◎ 行水や 美人住みける 裏長屋
落語の「妾馬」じゃないが、昔から美人は裏長屋に住んでるもんだ。ま、そうでない場合もあるけどな。
◎ えらい人に なったそうなと 夕涼
「秋山さんとこの兄弟は、えらいご出世じゃそうな」「それにくらべて、正岡のノボさんは相変わらずサエんなあ」
◎ 念仏や 蚊にさされたる 足の裏
つらいのだ、これは。足がしびれているから、うかつに動けない。立ったりしてみろ。ばったり倒れて、即往生だ。
◎ 蠅(はえ)憎し 打つ気になれば よりつかず
不思議なもので、蠅叩きを手に持ったとたんに、あんなにうるさかった蠅が近づかなくなる。気配でわかるのだ、きっと。』
ここからは、秋の句です。
『 ◎ 話しながら 枝豆をくう あせり哉
あれはね、食べ出したらとまらない、あとひき豆だね。話が佳境に入れば入るほど、食べる速度が上がっていく。相手も速いからねえ、あせるねえ。なんだろうね、あのあせりは。
◎ 一日は 何をしたやら 秋の暮
秋の日はつるべ落とし。それにしてもきょう一日、いったい何をしていたんだろう。いいねえ、こんな一日も。
◎ 山門を ぎいと鎖(とざ)すや 秋の暮
音だよ。静けさを表すのは風景じゃない、音だ。蛙が池に飛び込む音。山門を閉める音。「ぎい」が主役だね。それ以外は何も聞こえない静けさ。
◎ 何笑う 声ぞ夜長の 台所
夜の台所から聞えてくる笑い声。女たちのくったくのない笑いが、小さなしあわせの空気を運んでくる。
◎ 渋柿は 馬鹿の薬に なるまいか
渋柿の渋さは尋常ではない。馬鹿につける薬はないというが、渋柿はどうだろう。弟子の露月をからかった句だが、まず、自分からためしてみるか。
◎ 行く秋に しがみついたる 木の葉哉
葉にも生への執着があるのか。枝から地面への旅をいやがる風情が、痛ましくもあり、おかしくもあり。』
最後は冬の句です。
『 ◎ 貧乏は 妾(めかけ)も置かず 湯婆(たんぽ)かな
かみさんはどうした。あまりの貧乏にあきれて出ていった。いまに湯婆も出て行っちまうぞ。
◎ いもあらば いも焼こうもの 古火桶
芋でもあれば焼くのに芋も無い。火鉢の灰に思わず火箸で「芋」と書いてしまったぞ。
◎ お長屋の 老人会や 鯨汁
十二月十三日の煤払のあとには、鯨汁を食べるのが江戸時代からの習わしだ。夏の鰻、冬の鯨、年寄りに活力を。
◎ 冬の部に 河豚(ふぐ)の句多き 句集哉
そんなにみんな、河豚を食べてるのかね。それともなかなか口に入らぬから句に入れてるのかな。
◎ 面白や かさなりあうて 雪の傘
雪の中を傘がかさなりあって。番傘にも蛇の目にも、ほら、雪が模様をつくっている。
◎ 占いの ついにあたらで 歳暮れぬ
占いなどはしょせん当たらぬ。そうは思っていても、これほど外れるとやはりばかばかしい。さて、来年の運勢は。
◎ いそがしく 時計の動く 師走哉
時計まで、師走はいそがしそうだ。商人がいそがしいのはわかるけど、わしらまで何かに追い立てられているようで。別にしめきり原稿もないのにな。
◎ 人間を 笑うが如し 年の暮
わはははははは、馬鹿だね、人間ってやつは。あははははははは。そうですね、あなたもわたしも、わははははははは。あははははははは。』
子規は、漱石、秋山兄弟と友達であった。(司馬遼太郎「坂の上の雲」より)
編者の天野祐吉(1933~2013年)は、中学、高校を松山で過ごす。コラムリストで、広告批評を創刊、子規記念館の館長を務めた。
正岡子規は、江戸の俳句を現代によみがえらせた。俳句は、松尾芭蕉が開祖であるが、蕪村は、絵描きとしては評価されても、俳句は評価されていなかった。小林一茶にいたっては、まったく評価されなかった。
一茶を世に出したのは、子規の功績です。明治時代は、西洋文明を吸収することに夢中で、俳句は江戸の古くさい文化で、あまり評価されていなかった。
浮世絵さえも日本では忘れ去られようとされた時代で、富国強兵のためには、西洋の科学技術を学ぶ必要があり、俳句などに目を向ける人はいなかったのではと、考えられます。(第160回)