チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「笑う子規」

2018-03-28 08:58:04 | 独学

 161. 笑う子規  (正岡子規箸 天野祐吉編 南伸坊絵 2011年9月)

 ”はじめに”より

 『 俳句はおかしみの文芸です。だいたい、俳句の「俳」は、「おどけ」とか「たわむれ」という意味ですね。あちらの言葉でいう「ユーモア」に近いものだと思います。

 柿くえば 鐘が鳴るなり 法隆寺 

 子規さんのこの句を成り立たせているのも、おかしみの感情です。「柿をたべる」ことと「鐘が鳴る」ことの間には、なんの必然的な関係もないし、気分の上の関連ない。

 つまり、二つのことの間には、はっきりした裂け目が、ズレがあります。

 もともとおかしみというのは、裂け目やズレの間からシューッと噴き出てくるものだとぼくは思っているのですが、この場合にも、そんなズレからくるおかしみが、ぼくらの気持ちをなごませてくれていると思うのです。

 これは ”うふふの宗匠”坪内稔典さんに教えてもらったことですが、漱石さんの句に「鐘つけば 銀杏散るなり 建長寺」というのがあって、これは子規さんの法隆寺より数ヵ月前につくられた句だそうですが、この二つに関する限りは子規さんのほうがいいですね、とおっしゃていました。

 ズレとか、意外性から生まれる面白さの違いですね。

 ところで、漱石さんの俳句にもユーモラスなものがいっぱいあってぼくは大好きなのですが、それにくらべると子規さんにはまじめな句が多いと思っている人がけっこういるんじゃないでしょうか。

 重い病と戦いながら三四歳という若さで亡くなった彼のイメージが、そう思わせているのかもしれません。でも、それは誤解です。

 凄まじい痛みにさいなまれながらも、彼の想像力が生んだ世界には、生き生きとした生気があった。そこから生まれる明るさがあった、とぼくは思っています。

 そう、ぼくの中にいる子規さんは、「明るい子規さん」「笑う子規さん」なんですね。

 そんな子規さんの二万四千ほどある俳句の中でも、とくにおかしみの強い句、笑える句を選んで、南伸坊さんと一緒に自由に遊ばせてもらったのが、この本です。

 俳句にとくにつよいわけでもない二人が、楽しみながらつくった本ですから、まじめな子規研究にはいっさい役に立たないことはお約束しておきます。

 というわけで、それぞれの句につけた短文も、いわゆる句解ではまったくありません。それぞれの句から思い浮かんだあれこれを、勝手に書き付けたものです。

 子規さんが怒るんじゃないかという心配もありますが、あのノボさんのことです、わははと笑って、一緒に遊んでくれるだろうと思っています。 』


 では、新年の句から見ていきます。

 『 ◎ 初夢の 思いしことを 見ざりける

 人間というのは都合の好い生きもので、日頃の所業を棚に上げ、初夢はめでたいやつをぜひひとつ、なんて都合のいいことを神頼みする。が、そうは問屋がおろさない、反対にひどい夢を見たりするもんだ。するとこんどは「夢は逆夢」なんて勝手に解釈する始末で。

 ◎ めでたさも 一茶位(くらい)や 雑煮餅

 一茶はうまいね。「めでたさも 中くらいなり おらが春」なんて。ことしの正月は、そのもじりでお茶を濁すか。


 ◎ 蒲団(ふとん)から 首出せば年の 明けて居る

 ひょいと蒲団から顔を出したら年が明けていたなんて、落語の八っつあんみたいに粋だろ? ほんとは蒲団から出られない病人なんだけど、ここは正月らしく、粋に気取らせてくれよ。

 ◎ 雑煮くうて よき初夢を 忘れけり

 いい初夢を見たのに、雑煮と一緒に夢も胃袋に流しこんでしまった。ま、釣り落とした魚は大きいっていうが、たいした夢じゃなかったんだろうよ、きっと。


 ◎ 弘法は 何と書きしぞ 筆始(ふではじめ)

 書き初めか。弘法はなんて書いたんだろうな。「初日の出?」ばかな。「初日の出?」なんだ、そりゃ? 「弘法も筆の誤り?」正月早々、馬鹿言ってんじゃないよ。

 ◎ 銭湯に 善き衣(きぬ)着たり 松の内

 松の内は、銭湯へ行くにもしゃれた着物を着たりして。歩き方まで、ちょっと松の内しているね。


 ◎ 正月の 人あつまりし 落語かな

 やっぱり正月は笑いだな。漱石や真之も落語が好きで、連れ立ってよく寄席へ行ったもんだ。わしらのユーモアの師匠だよ、落語は。

 ◎ 初芝居 見て来て晴着 いまだ脱がず

 役者にとって初芝居なら、こっちにとっても初芝居。「よっ! 成田屋!」なんて、家に帰っても晴着のままで見得をきったりして。 』


 次に、春の句から

 『 ◎ 春風や 象引いて行く 町の中

 象がのっしのっしと町をのし歩く。そんな風景には、春風がよく似合う。徳川時代から日本人の人気者だった。

 ◎ ひとに貸して 我に傘なし 春の雨

 いいんだよ。女の人に傘貸して、自分は春雨に濡れて行く。春の雨は濡れて濡れて行くのが粋なんだ。粋って、つらいのさ。


 ◎ 蝶々や 順礼の子の おくれがち

 菜の花畑の向こうを大きな菅笠が一つ、ゆっくり進む。と思ったら、もう一つ、小さな菅笠が遅れがちについて行く。小さな菅笠は、きっと蝶と遊びながら歩いているんだろう。

 ◎ 人を見ん 桜は酒の 肴(さかな)なり

 花見は花を見に行くんじゃない、人を見に行くんだ。「花盛り くどかば落ちん 人ばかり」ほら、また一句できたぞな。


 ◎ 門しめに 出て聞いて居る 蛙かな

 夕暮れに蛙の声に耳を傾けている門番の男。ケロケロケ ケケロケロケロ ケケケロケ 松山城の堀の蛙は五七五で鳴くという噂があるが、ほんとかね。

 ◎ 大仏の うつらうつらと 春日哉

 大仏の目がトロンとしている。と思っていたら、大仏がうつらうつらと……、ほら、眠った。(誰が?)


 次は、夏の句から

 『 ◎ 夕立や 並んでさわぐ 馬の尻

 馬は繊細な神経の生き物で、夕立にも心さわぐ。何頭も並んで繋がれた馬が夕立に遭うと、まるで尻ふりダンスをしているようだ。それにしても、なぜバケツは馬穴なんだろう。

 ◎ 夕立や 蛙の面に 三粒程

 一粒じゃ寂しい。五粒じゃ五月蠅い。三粒がよろしいようで。


 ◎ 五女ありて 後の男や 初幟(のぼり)

 五人女の子が続くと、たいていの者はあきらめる。が、わしの尊敬する人物はあきらめずに精を出した。その執念が実って、めでたく男の子が授かったんだ。陸羯南という大先達さ。

 ◎ 雷を さそう昼寝の 鼾(いびき)哉

 これもわしの知り合いだが、この男と旅をしたときには、夜中に宿の者が勘違いして、部屋の雨戸を閉めにきたよ。


 ◎ 行水や 美人住みける 裏長屋

 落語の「妾馬」じゃないが、昔から美人は裏長屋に住んでるもんだ。ま、そうでない場合もあるけどな。

 ◎ えらい人に なったそうなと 夕涼

 「秋山さんとこの兄弟は、えらいご出世じゃそうな」「それにくらべて、正岡のノボさんは相変わらずサエんなあ」


 ◎ 念仏や 蚊にさされたる 足の裏

 つらいのだ、これは。足がしびれているから、うかつに動けない。立ったりしてみろ。ばったり倒れて、即往生だ。

 ◎ 蠅(はえ)憎し 打つ気になれば よりつかず

 不思議なもので、蠅叩きを手に持ったとたんに、あんなにうるさかった蠅が近づかなくなる。気配でわかるのだ、きっと。』


 ここからは、秋の句です。

 『 ◎ 話しながら 枝豆をくう あせり哉

 あれはね、食べ出したらとまらない、あとひき豆だね。話が佳境に入れば入るほど、食べる速度が上がっていく。相手も速いからねえ、あせるねえ。なんだろうね、あのあせりは。

 ◎ 一日は 何をしたやら 秋の暮

 秋の日はつるべ落とし。それにしてもきょう一日、いったい何をしていたんだろう。いいねえ、こんな一日も。


 ◎ 山門を ぎいと鎖(とざ)すや 秋の暮

 音だよ。静けさを表すのは風景じゃない、音だ。蛙が池に飛び込む音。山門を閉める音。「ぎい」が主役だね。それ以外は何も聞こえない静けさ。

 ◎ 何笑う 声ぞ夜長の 台所

 夜の台所から聞えてくる笑い声。女たちのくったくのない笑いが、小さなしあわせの空気を運んでくる。


 ◎ 渋柿は 馬鹿の薬に なるまいか

 渋柿の渋さは尋常ではない。馬鹿につける薬はないというが、渋柿はどうだろう。弟子の露月をからかった句だが、まず、自分からためしてみるか。

 ◎ 行く秋に しがみついたる 木の葉哉

 葉にも生への執着があるのか。枝から地面への旅をいやがる風情が、痛ましくもあり、おかしくもあり。』


 最後は冬の句です。

 『 ◎ 貧乏は 妾(めかけ)も置かず 湯婆(たんぽ)かな

 かみさんはどうした。あまりの貧乏にあきれて出ていった。いまに湯婆も出て行っちまうぞ。

 ◎ いもあらば いも焼こうもの 古火桶

 芋でもあれば焼くのに芋も無い。火鉢の灰に思わず火箸で「芋」と書いてしまったぞ。


 ◎ お長屋の 老人会や 鯨汁

 十二月十三日の煤払のあとには、鯨汁を食べるのが江戸時代からの習わしだ。夏の鰻、冬の鯨、年寄りに活力を。

 ◎ 冬の部に 河豚(ふぐ)の句多き 句集哉

 そんなにみんな、河豚を食べてるのかね。それともなかなか口に入らぬから句に入れてるのかな。


 ◎ 面白や かさなりあうて 雪の傘

 雪の中を傘がかさなりあって。番傘にも蛇の目にも、ほら、雪が模様をつくっている。

 ◎ 占いの ついにあたらで 歳暮れぬ

 占いなどはしょせん当たらぬ。そうは思っていても、これほど外れるとやはりばかばかしい。さて、来年の運勢は。


 ◎ いそがしく 時計の動く 師走哉

 時計まで、師走はいそがしそうだ。商人がいそがしいのはわかるけど、わしらまで何かに追い立てられているようで。別にしめきり原稿もないのにな。

 ◎ 人間を 笑うが如し 年の暮

 わはははははは、馬鹿だね、人間ってやつは。あははははははは。そうですね、あなたもわたしも、わははははははは。あははははははは。』


 子規は、漱石、秋山兄弟と友達であった。(司馬遼太郎「坂の上の雲」より)

 編者の天野祐吉(1933~2013年)は、中学、高校を松山で過ごす。コラムリストで、広告批評を創刊、子規記念館の館長を務めた。

 正岡子規は、江戸の俳句を現代によみがえらせた。俳句は、松尾芭蕉が開祖であるが、蕪村は、絵描きとしては評価されても、俳句は評価されていなかった。小林一茶にいたっては、まったく評価されなかった。

 一茶を世に出したのは、子規の功績です。明治時代は、西洋文明を吸収することに夢中で、俳句は江戸の古くさい文化で、あまり評価されていなかった。

 浮世絵さえも日本では忘れ去られようとされた時代で、富国強兵のためには、西洋の科学技術を学ぶ必要があり、俳句などに目を向ける人はいなかったのではと、考えられます。(第160回)


ブックハンター「レット・イッ・ビー再発見」

2018-03-24 22:04:40 | 独学

 160. レット・イッ・ビー再発見  (五十嵐玲二談 2018年3月)

 私は、現在71歳で、若い時に挫折したケーナを今回習うにあたって、良く吹けないケーナで、吹きやすい曲はないものかと、レット・イッ・ビーが意外とケーナに相性が好いという新しい発見をしました。

 そこで今回、Let It Be について、私が再発見をしたことを書きます。私は、どれもほんの少ししかできませんが、チェロとギターとケーナと歌(声)の四つをちょっとづつ楽しんでいます。(チェロとの相性は、イエスタデイがよいと感じてます)

 ビートルズの音楽は、2018年の現代に於いては、クラッシックの音楽です。もっとも現代においては、クラッシック、ジャズ、ポピュラー、歌謡曲、フォークソング、民族音楽などのジャンルは、無くなりつつあります。

 チェロの曲をギターで演奏したり、サックスで演奏したり、オーケストラの楽曲を歌(声)ったりとさまざまで、ピアノ、ヴァイオリン、サックス、尺八などの楽器によるジャンルも無くなりつつあります。

 ビートルズは、1962年にレコードレビューして、1970年に解散しています。20世紀を代表する音楽グループの活動期間が、十年に満たなかったことに、あらためて驚きました。

 そして、この Let It Be が、ビートルズの300曲以上の楽曲の中で、最も親しまれている曲のひとつで、最後の曲だと聞いてさらに驚かされました。

 1969年、ビートルズが解散の危機に陥った時、ポール・マッカートニーは、暗闇の中にいた。ある日、ポールの亡き母であるメアリーが、夢に現れ、彼にこうささやいた。

 「あるがままに、あるがままに、受け入れるのです」その言葉により伝説の曲(Let It Be)が生まれた。では、歌詞を読んでいきましょう。(以下の訳は、YouTube より)


   Let It Be    1970 The Beatles    word and music by John Lennon and Paul McCartny


  When I find myself in time of Trouble     Mother Mary comes me

 (僕が悩んでいると 亡き母メアリーが現れ)

 Speaking words of wisdom    Let it be

 (知恵ある言葉をかけてくれた 「あるがままに受け入れなさい」)

 And in my hour of darkness    She is standing right in front of me

 (そして僕が暗闇の中にいる時、 彼女はぼくの前に立ち)

 Speaking words of wisdom     Let it be

 (知恵ある言葉をかけてくれた  「あるがままに生きなさい」)

 Let it be   Let it be     Let it be   Let it be

 (あるがままに、あるがままに  あるがままに、あるがままに)

 Whisper words of wisdom    Let it be

 (知恵ある言葉をささやいた  「あるがままに」)


 And when the broken hearted   People living in the world agree

 (心がボロボロに傷ついたとき  みんな声をそろえて言うんだ)

 There will be an answer    Let it be

 (答えはきっと見つかるから  「あるがままに」)

 For though they may be parted     There is still a chance that they will see

 (たとえ離れ離れになっても  また会えるチャンスがあるかもしれない)

 There will be answer    Let it be

 Let it be  Let it be     Let it be  Let it be

 Yaeh, There will be an answer    Let it be


 Let it be  Let it be     Let it be  Let it be

  Whisper words of wisdom    Let it be    (以上2番まで、3番、4番と続きます)


 メンバー四人のうち、ジョン・レノンは、1980年12月40歳でなくなり、ジョージ・ハリスンは2001年11月58歳でなくなり、ビートルズが復活することは、ありませんが音楽は永遠にうたわれるでしょう。 (第159回)


ブックハンター「不死身の特攻兵について」

2018-03-18 15:57:09 | 独学

 159. 不死身の特攻兵について  (鴻上尚史著 文芸春秋2018年三月号)

 これを紹介しますのは、全ての組織に於いて、上司や上官の命令には、基本的には従うべきですが、自己の信念に沿わない時に、たとえ処罰を受けたとしても、従えない究極の場面は、一生に一度か二度あるかもしれません。その時の参考になればと考え、紹介いたします。

 

 『 九回特攻に出撃して、九回生きて帰って来た佐々木友次さんについての本「不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか」(講談社現代新書)を去年上梓しました。ありがたいことに好評で、版を重ねています。

 もともと、佐々木さんのことを知ったのは二〇〇九年、ある本の短い描写からでした。

 陸軍第一回の特攻隊「万朶(ばんだ)隊」の一員だった二一歳の佐々木さんは、出撃のたびに、「特攻」せず、爆弾を落として生還しました。そのたびに、上官は「次は必ず死んでこい!」と叫びました。

 二度、大本営は軍神として発表しました。新聞で大々的に報道され、天皇にも上奏されていたので、生きていては困るのです。

 それでも、佐々木さんは生きて帰りました。一度は大型船に爆弾を命中させ、もう一度は楊陸艇に至近爆発の被害を与えました。

 それでも、上官は体当たりを求めました。爆弾を命中させたら、その後体当たりをしろとさえ言いました。けれど、二一歳の佐々木さんは上官の命令に従わず、九回出撃し、九回生還したのです。

 こんな日本人がいたことに僕は衝撃を受けました。今までの「特攻」の常識を覆すような存在でした。けれど。二〇〇九年、佐々木さんの存在は遠い歴史の彼方だと思っていました。

 ですが、佐々木さんは生きていました。僕は二〇一五年、それから六年後さまざまな偶然を経て、札幌の病院でお会いします。

 佐々木さんは目が不自由になっていましたが、意識ははっきりしていて、第一回の出撃の日にちまで正確に記憶してました。僕は五回お会いして、四回、計五時間近くインタビューをお願いすることができました。

 佐々木さんは小柄な人でした。身長は一六〇センチ足らず。この人が、九回も上官の命令を無視して生還したのかと思うと、その秘密をどうしても知りたくなりました。

 初期の特攻隊は、ベテランのパイロットが選ばれました。国民の戦意昂揚や時局打開のために、どうしても特攻を成功させる必要があったからです。

 けれど、ベテランパイロットであればあるほど「爆弾を命中させるのではなく、体当たりしろ」という命令は技術の否定であり、パイロットのプライドを傷つけるものでした。

 彼らは、毎日、激しい急降下爆撃の訓練を積んでいました。だからこそ、爆弾を命中させたいと思っていたのに、上層部はただ一回だけの体当たりを命令したのです。

 佐々木さんも、万朶隊の隊長である岩本益臣大尉も反発しました。けれど、多くのベテランパイロットは、命令に従うしかありませんでした。

 それが軍隊です。けれど、佐々木さんは生きていたのです。どうしてそんなことができたのか、なぜ途中で上官の命令に自暴自棄にならなかったのか。

 なぜ二一歳という若さで死刑にも相当する軍規違反を続けられたのか。僕は何度もベッドの佐々木さんに聞きました。「特攻隊」を調べていけば、そこには「日本」が浮かび上がります。

 初期はまだしも、後期、沖縄戦になると特攻の成功率は著しく低下します。けれど、誰もやめようとは言いだしませんでした。却って、精神主義的に美化が進みました。

 実態とかけはなれた美化に、当事者である特攻隊員は苦悩します。本書が五万部を突破した頃から、あきらかに読まないまま批判する言葉がネットに出てきました。

 ツイッターでは直接、暴言を投げかけられました。読めば、僕は特攻隊をムダ死になどとは一行も書いていないことが分かります。それは日本人が忘れてはならない厳粛な死なのです。

 けれど、「特攻隊を冒涜するな」とか「アジア解放戦争の意味が分かってない」と言われます。そんな文章を見ながら、やっかいな時代に僕達は生きていると思います。

 読んだ上で批判するなら分かります。けれど、予断とイメージだけで対立していくのは、不毛なことだと悲しくなるのです。それは、特攻隊の時代の精神主義とまったく同じです。

 実証的なデータで効果を分析するのではなく、ただ観念で断定していくことなのです。ネットでさまざまな中傷を受けながら、それでも僕は佐々木友次さんの存在を日本人に伝えなければいけないとあらためて思います。

 そのためには、「読まないままの批判」にも負けず、発進を続けようと思っているのです。 』


 私が、「不死身の特攻兵」を読んで、感心したのは、佐々木友次さんの父親(藤吉)さんの話です。

 『 藤吉は、日露戦争の時、旅順の203高地を攻撃する白襷(たすき)隊の一員だった。夜間、白い襷を肩からかけて、高地の斜面を登り、敵陣地を強襲しようという部隊だった。

 だが、白い襷は、夜の闇の中でかえって目標になった。ロシア軍の機関銃は白い襷を目標に銃弾を浴びせた。決死隊の白襷隊は全滅に近い悲劇に会った。父の藤吉は、この激戦の中で生き残った。

 その時に一つの信念が生まれたそれは「人間は、容易なことで死ぬものでない」ということだった。日露戦争が終わって、藤吉は無事に故郷の当別村に帰って来た。 』

 司馬遼太郎の「坂の上の雲」のなかで、203高地の話を読みましたが、父と息子が揃って、大変な窮地の中を生きて帰って来たことは、運の強さは無論ですが、その精神力は私たちも学ぶ何かがあるように感じました。(第158回)