134. 魚屋の基本(角上魚類はなぜ「魚離れ」の時代に成功することができたのか?) (石坂智恵美著 2016年11月)
本書は、”新潟県・寺泊を拠点に関東信越に22の直営店を展開する鮮魚専門店・角上魚類。消費者の魚離れやスーパーマーケットの台頭をものともせず、「魚のプロ」である経営者はいかにして繫栄店をつくりあげたのか?” と帯に書かれています。では、いっしょに話を聞きましょう。
『 魚種を増やして対面方式で売上が増えるならば、どの鮮魚店でも同じことをすれば角上魚類並に繁栄することになる。ところが、そうはならない大きな強みが、角上魚類には二つある。
第一に、地元新潟で仕入れた魚の直送便があること。通常、鮮魚は各地の漁港で水揚げされたものが東京・築地市場に集結し、そこで買い取られる。水揚げされた地域によっては、築地で売り出されるまで二日がかりのこともある。
その点、角上魚類では毎日築地市場で仕入れを行うと同時に、新潟市中央卸売市場で朝競り落とした魚をそのままトラックで運び、各店に昼までには配送することになっている。
日本海側のギスやハタハタといった珍しい魚が、最高の鮮度をキープしたまま店頭に並ぶのだ。築地からの魚と合わせて約100種類の鮮魚が揃う様子に、買物客の角上魚類への期待感はおのずと高まる。
第二に、価格の安さである。角上魚類では鮮度が高く種類豊富な魚を、一般的スーパーより、二~三割安く販売している。
角上魚類では、新潟と築地の両市場にそれぞれ八~九人のベテランバイヤーがスタンバイし、バイヤー同士が電話でどちらの市場で、どの魚種をどれだけ買うかを決定する。
さらに角上魚類の価格競争力を支えているのが、驚異的な廃棄率の低さである。スーパーの平均が7.8パーセントであるが、角上魚類の廃棄率は、なんと0.05パーセント!
角上魚類の店舗面積は平均100坪ほどだが、そこに20人ほどの正社員が配置され、パート・アルバイト社員を加えると、平日は約30人、土日は役70人で店舗を運営する。
店舗には、「鮮魚対面」 「鮮魚パック」 「寿司」 「刺身」 「マグロ」 「鮭」 「魚卵」 「冷凍」 「塩干」 「珍味」 「惣菜」の11部門あり、各部門は3~5人が担当する。
通常のスーパーと比べて圧倒的に人手をかけ、各部門の役割を明確にし、商品を売り切ることに全力を注いでいるからである。
さらに、店長が頻繁に売り場をチェックし、新鮮さを失わないうちに自慢の寿司ネタや刺身盛り、また惣菜などへと商品形態を変え、売り切る策を講じる。タイミングを外したが最後、売れ残りロスとなってしまうため、その判断が重要となる。
廃棄率について柳下は、常々各店舗の店長たちに「売れ残りや廃棄は、会社に対する背信行為だ」と言っている。店長たちはさぞプレッシャーに感じているだろうと思いきや、存外、その緊張感を楽しんでいるようにも見える。
ある店長は、自信に満ちた笑顔で言う。「今日の魚をどう売るか。戦略を立てて、自分の裁量で売り切る楽しさがあるんです」 』
『 柳下浩三は昭和15年、新潟県の中越地方に位置する、日本海に面した小さな漁村、寺泊町(現長岡市)に生まれた。
網元兼卸商の柳下商店は、寺泊港で水揚げした魚や新潟市の市場から買ってきた魚を長岡や三条の市場へ出すほか、近隣町村の料理屋や魚屋へ行商をして生計を立てる。
寺泊の家に戻った浩三は、新潟市場へ行っては地魚のほか、九州のアジや北海道のサンマなどいろいろな魚を二トン車一台分買い付けて、それを寺泊の魚屋に卸していた。
また寺泊や出雲崎で水揚げされた魚は三輪トラックに積み、分水や加茂、三条、長岡など、近在の魚屋や料理屋へ売りに行くのが日課だった。
寺泊町の周囲には、弥彦や岩室といった温泉場、花街がある。江戸時代から続く情緒ある遊興の場に、二〇歳を過ぎて間もない浩三は、一発ではまってしまったのである。
たとえば寺泊から三十キロほど離れている巻町(新潟市西浦区)の料亭・三笠屋では、浩三が座敷に上がると店の主がいつも、宴会終わりに寺泊の自宅まで送ってくれた。
その晩は「飲み代がない」といってツケ、二週間後に前回の飲み代を払いに行ってはまた飲んで、ツケてくる。ところがその後、父から、「この年末を越せないと倒産するかもしれない」と、打ち明けられた。
父が言うように、冷静になって帳簿をみると、柳下商店の経営は決して楽ではないことがわかり、青くなった、ここで浩三の芸者遊びは、終焉を迎えた。
そんな折、商売の方向性を大きく左右する出来事が二つ、起こる。浩三はこれにより、経営者としての第一歩を踏み出すのである。 』
『 道路の整備はまだまだ不十分だが、自動車がやっと増え始めてきた昭和四十年。今のように保冷車などはないので、せっかくとれた魚も鮮魚として流通できるのはたった二日間だった。
特に六月から八月にかけての暑い時期は、魚の鮮度が保てず苦心をする。そこで浩三は夏場になると、獲れた魚を焼いて「浜焼き」としても販売した。
当時は縦一メートル、横幅約二メートルの木箱の中に砂を入れ、中央に火を熾し、イカやサバ、アナゴ、カレイなどの串刺しの魚を四〇~五〇本、火の周りに刺して焼く。
箱の周りにはパートで頼んだおばさんたちが四,五人立ち、片側が焼けるまで一五分ほどじっと待つ。焼けたところを見計らって、汗をぽとぽと流しながら、一本ずつ表裏をひっクリ返し、また焼き上がるまでじーっと……。
浩三は毎年見るその光景を、「なんという無駄なのか!」 と、じれったく思っていた。焼いている者は焼けるまでが仕事とばかりに箱に張り付きっぱなしだし、炭火の熱も上に逃げていくので、無駄が重なる。
浩三はいかに合理的に浜焼きを作れるかと、思案に暮れた。昭和四四年になって浩三は、火のトンネルをつくって焼いてみたらどうかと、はたと思いつく。
幅三〇センチ、奥行き二メートルのトンネルを作り、その両端にはグリラー(魚を焼くところ)をつける。トンネルは二本作って平行に設置し、トンネルをくぐったらUタ-ンして周回するように、ベルトコンベアーを楕円型に配する。
ベルトコンベアに魚の串を一本ずつ挿せる筒を立てて魚を回転させれば、往復で計四メートルの火の中を自動で通り、魚はすっかりきれいに焼けるのではないか……。
そのアイデアを簡単な手書きの図面にして、新潟市内の鉄工所に見てもらう。一ヵ月後、精密な設計図と共に、「製作費は百五十万円かかる」と返事が来た。
浩三は後先を考えずに製作を依頼したのである。昭和四四年の一五〇万円といえば、現在の貨幣に換算すると1千万円ほどになる。
柳下商店も左前で苦しいところだが、やはり地元では信頼されている古い家柄である。なんとか現金をかき集め、浜焼機の製造を依頼した。
機械のでき上がりは想像以上のものだった。店に運ばれてきた畳二枚分の、ステンレスで作られたトンネル状の箱はぴかぴか光って、いかにも立派である。
うまくいくのかと内心ハラハラしていた浩三の前で、見事にこんがりと魚を焼きあげてくれた。浩三による浜焼機の開発で人件費は三分の一に、燃費は五分の一に節約できたが、何といっても大きかったのは、同じ時間でそれまでの三倍の量を焼けることだった。
当然、浜焼きの売上も三倍になり、経費は今までの三分の一以下となった。この成功により、柳下商店の経営はずいぶん楽になる。その後、この機械はあっという間に同業者に真似をされ、広まっていった。 』
『 次に浩三が手がけたのは、いまではすっかりおなじみのあの発砲スチロールの魚箱である。実は発砲スチロール箱をふた付きの魚箱に転化した最初の人物が、柳下浩三なのである。
浩三の頭を悩ませていた問題は、浜焼きの他にもう一つ、あった。イカは東シナ海で生れ、成長しながら日本海を北上してくる。新潟沖には六、七月にやってきて、そのイカを目指して全国からイカ釣り船が集結した。
寺泊港にも約四〇艘の船が水揚げして、その莫大な量のイカを東京の築地市場へ送っていた。当時の魚箱といえば100%が木製で、内側をビニール二枚で覆い、大きな氷と海水を入れてイカを詰めて送った。
原始的な方法だったが、その頃はみなそれが当たり前で、他の容器で代用しようなどとは誰も考えもしなかった。しかし、寒い時期に木箱で送るにはまだよいが、夏場の暑い時期の出荷にはどうにも難儀した。
水揚げされたイカをたっぷりの氷で覆っても、翌朝築地に到着した時点で氷はほとんど溶け、肝心のイカの鮮度が落ちて値段も当然安くなってしまう。
船から水揚げされたときには黒々と、瑞々しいイカが白くなり、刺身ではとても食べられない状態になってしまうのだ。「なんとかして、この活きのよさを保ってまま築地へ送ることはできないか」浩三は日々、思いを巡らせた。
ある日、業務用の大型冷蔵庫の修理に立ち会うことになり、その作業を見ていて、ふと気になった。修理をする職人が、発砲スチロールを持っている。
「このスチロールは、何のために使ってるの?」 訊ねると職人は、「冷蔵庫の断熱材ですよ」と言う。断熱材は文字通り、熱を通さないもの……。 「発砲スチロールだ、これはいける!」 浩三は直感した。
さっそく専門の製造業者を呼んで、サイズはこんなもの、ふた付きで強度はこういうふうにと相談する。業者は笑顔で快くひきうけてくれたが、「金型代の九十万円は、お客さんが負担してくださいね」
浜焼機の一件から三年を経た昭和四七年——浩三には浜焼機で成功した気持ちもあり、また九十万円なら手持ちの金で何とか出せると踏んだ。のるかそるかの博打であったが、やらない後悔はしたくなかった。
まもなくふたに、柳下商店の屋号「角上」のマークが付いた箱が仕上がり、さぁ、一勝負!と浩三は息巻いた。獲れたてのイカを詰めて築地へ送る。その結果をいまかいまかと首を長くして待つ。
ところが、である。浩三の意に反して、届いた声は「手鉤が使えないから困る」という、落胆させるものだった。市場では荷揚げ屋が木箱に手鉤をひっかけて荷物を下ろすので、発砲スチロール箱では手鉤が使えず荷を下ろすのに手間がかかるというのだった。
しかし大枚をはたいて箱を量産したのだ。ダメと言われてもそう簡単にあきらめられなかった。浩三は築地からの苦情を無視した、その後も四,五回にわたり、新しい箱でイカを送り続けた。
すると……、ある日を境に、柳下商店のイカはそれまでの四倍、五倍もの値段で売れはじめたのである。築地から「もっと送れ」の熱烈コールが入る。
それもそのはず、角上の屋号の入ったふたを開けると、発泡スチロール箱の中にはまだ生きて、半透明で美しいイカが虹色に輝いている。
それまでどんなに活きのいいイカでも、すでに白く変色していたので、新鮮なイカが市場に並ぶなど、想像すらされていなかったのだ。浩三は飛び上がって喜んだ。「まさに、俺の狙い通りだ!」
ただ、浜焼機の一件同様、人の成功を黙って指をくわえて見ている同業者はいない。翌年には同じ箱を競って作り、木箱の箱は見る見るうちに、真新しい発砲スチロール箱へと変わっていくことになった。
しかし、わずか一年でも同業者より早く箱を開発したことで「角上」ブランドのイカはすっかり有名になっていた。二年目、三年目以降も他社より五割ほどの高値で売れ、柳下商店は財政的にもゆとりができた。
この一件は浩三に、商売をする上での大きな自信を植え付けた。現在、日本の水産物取扱量全国一である築地市場の広大な場内に、気が遠くなる数の魚箱が積まれ、並んでいる。
この風景の源が、浩三のアイデアなのだ。これはまさに、鮮魚の流通革命と言える発明である。 』
『 昭和四十年代後半になると、これまでのように多種類の魚が売れなくなり、魚屋が軒並み廃業するという、混沌の時代が到来した。浩三は毎日、寺泊の魚屋に魚を卸しながら、時代の変わり目をひしひしと感じていた。
昭和三十年代の寺泊の魚屋といえば、柳下商店から魚を仕入れて在郷へ売り歩く棒手振りも入れれば三十人はいただろう。その小売がにっちもさっちもいかなくなり、一人、また一人、一軒、また一軒と商売をやめていった。
小売店がつぶれれば、卸業も不振にあえぐ。柳下商店も例外ではなかった。「このままいったら、うちもいつかダメになる。どうすればいいのか」
昭和四八年に、県都である新潟市の万代シティにダイエー新潟店が営業を開始。地元でも以前からスーパーマーケットを開業していた清水フードセンター、原信、ウオロクも多店舗展開を始めて競争が激化していた。
浩三はまず敵を知ることが肝心と、それらのスーパーの偵察を始めた。魚売場を見て回って驚いたのは、魚がとても高い値段で売られていることだった。どれも原価の二倍、三倍もする。
「これなら直接、俺が仕入れをして売れば、この半額、いや三分の一以下の値段で売れる。お客さんも鮮度のいいもので安ければ、買いに来てくれるのではないか」浩三はすぐに、小売店経営を思いついた。
ただし寺泊の人口は六千人しかないので、寺泊だけを相手にしては成り立たない。近在の与板や和島、分水といった、車で一〇~二〇分で来られる地域から集客をしようと考えた。
決めた。となったら気は急ぐ。その頃、信濃川の大河津分水建設をきっかけに河口の土砂が堆積し、寺泊の砂礫海岸が広がったことで新しい道路が敷かれたことも浩三の気を引いた。
「この道路に面した一角で、小売店を開こう」浩三は三三歳、所帯を持ち子供も生まれていた。一歩も引けない状況での決断だった。 』
『 柳下の家で、新道路に面した一画を所有していたこと、それは浩三にとって幸いであり、そのことが小売店を始める後押しにもなった。
「お前がしっかりやるなら何をしてもいい。だが、うちは借金も重ねてきて、俺には金の工面はしてやれない。全部自分で手配できるというなら、思い切ってやってみろ」
父親にそういわれ、浩三は腹をくくった——といえば聞こえはいいが、実は浩三は、銀行から金を借りるのは初めての経験。浜焼機にしても発砲スチロールの魚箱にしても、手元の現金をかき集め、あとは父の算段にまかせていたのだ。
まず浩三は建築屋を訪れ、土地の広さや建物の大きさと間取り、設備の内容をざっと話して、「設計図を書いて、見積もりを出してくれ」と頼んだ。建築屋はまもなく、設計図と見積もりを持ってきた。
「この規模の店だと、五千万円かかる」そういわれて浩三は、「じゃあ、まず手付に1千万をあんたに払う。工事の中間に三千万、でき上がった時に1千万払うようにするから。明日さっそく、銀行に行ってくる」と気安く請け合った。
翌日、銀行の窓口に出向いた浩三は勇んで、銀行の支店長と直談判をした。「今度できる新しい道に、小売店を開こうと思う。店舗を建てるのに五千万円かかるから、貸してくれ」
支店長は眉をひそめて浩三を眺めると、聞き慣れない書類の名前を訊ねた。「柳下さん、あんた、事業計画書はあるのか」 「事業計画書——(ってなんだ?)——いや、持ってない」 「馬鹿をいうな!」
銀行は金を貸すところ、こっちは金を借りてやるんだから、などと軽い気持ちで行った浩三は、一喝された。「あんたの家はこれから借金をするには担保がない。保証人は誰かいるのか」
「いや、いない」支店長は呆れた様子で、借り入れに必要な書類や条件をメモに書き記し、浩三に手渡した。「うちに帰って事業計画書を書いて、担保や保証人を揃えてから、また来てください」
コトバは優しかったが、乾いた響きが浩三に浴びせられた。銀行からさっさと追い返された浩三だったが、ひるむことはなかった。計画書は、計画という「予定」を書けばいいのだから、自分で適当に書ける。それならば大丈夫。
問題は保証人だ。気楽に考えていたが、浩三に金がないのは誰もが知っている。なり手がいないかもしれないが、当たって砕けろとばかり、あくまで前向きだった。
浩三はそれから、地元で商売をして勢いのあった親戚や友人などを複数回って頼んだが、すべて断られた。そんなものかと気落ちしたが、ここであきらめてはいられない。
保証人探しをはじめて一ヵ月が経とうという頃に、今度は高校時代に下宿をさせてくれた新潟の叔父に頼みに行くことにした。事前に「保証人の話で」と匂わせたのも、よかったのかもしれない。
向かい合って座った座敷で、無口な叔父はだまって浩三の計画を聞いてくれた。叔父は北洋漁業の網元をしていて、漁獲高もかなりあり、実際、景気もよかったようだ。
浩三が高校生のときは、叔父は一緒に住んでいても顔を合わせることもなく、話すこともなかった。ただ、高校時代に浩三が、野球に夢中になっていたことは知っていて、密かに応援してくれていたと、のちに父から聞いたことがある。
叔父は床の間を背に、静かに煙草をくゆらせながら、なぜ小売店を出したいのかを懸命に話す浩三を見つめていた。「しょうがない」突然、叔父が発した。「保証人になってやる」
ありがとうございますと、浩三は勢いよく頭を下げた。叔父にとってみれば実家である柳下商店の一大事ということで、力を貸してくれたのだろう。
北洋漁業の成功も浩三が思ってた以上で、たとえ浩三が失敗し、保証人として返済しなければならなくなったとしても、叔父には痛くもかゆくもない額だったのかもしれない。 』
以下、”何もない浜辺に鮮魚専門店を出店”と続きますが、私が紹介するのは、ここまでです。(第133回)