チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「C・Wニコルの生きる力」

2017-03-24 10:28:38 | 独学

 130.  C・Wニコルの生きる力  (C・W ニコル著 2011年12月)

 今回は、黒姫にあるアファンの森と共に生きる、作家のC・Wニコルの「ソリストの思考術」(副題)という本ですが、私が紹介しますのは、「明治生まれの日本人に学ぶ」という部分です。私たちは、日本人ですが、武士道、禅、日本人について、1940年ウェールズ生まれの赤鬼ことW・Cニコルを通して、はじめて理解することができる、ことなのではないかと思いましたので。

 

 『 私が初めて出会った日本人は、柔道家の小泉軍治先生。十四歳のころ、私は北極に行くためにあらゆる努力をしており、その一つに柔道があった。

 柔道クラブに通って、元コマンドの茶帯の大男に週に数回、柔道を習っていたのである。何のきっかけだったかは忘れたが、柔道クラブの生徒たちが皆でお金を出し合って黒帯の柔道家を招待することになった。

 「柔道をする日本人」 「とんでもなく強い黒帯」 というイメージが、皆を夢中にさせたのだろう。黒帯の柔道家に本格的な指導が受けられるということで、われわれの期待は大きく膨らんでいた。

 われわれは本当に熱心だったのである。それぐらい本物の柔道家に教えを受けたかった。当時、小泉先生は、ロンドンで柔道を教えており、われわれからの招待に快く応じて、田舎までやって来てくれた。

 われわれは駅まで迎えに行き、どのような屈強な男が来るのか、ワクワクしながら待っていたが、やって来たのは背筋の伸びた初老の小柄な紳士であった。もしかすると六十歳を超えていたのかもしれない。

 頭には白髪が交じっている。シルクのアスコット・タイをきちんとピンで留めており、髪はやや長めでこざっぱりとしたオールバック。ツイードのジャケットに綾織りのズボンで、足には茶色の靴を履いている。

 口ひげをたくわえており、プライドと優しさをたたえたまなざしをしている。英語は達者で、とても丁寧で紳士的な話しぶりだ。私は、これまで映画で見てきた、がに股でいかつい、野蛮な感じの日本人を頭に描いていたので、その紳士ぶりに驚いた。

 小泉先生は、道場に着いてから並び方や礼儀を教え、準備体操をするように指示した。それから、受け身を指導する。われわれはじりじりしながら待っていた。先生の本当の強いところを見たかったのだ。

 午後になって、待ちに待った組手が始まった。小泉先生は、折り目正しく、われわれの先生である元コマンドに言った。「お相手していただけますか?」

 小泉先生が組み手をしたかと思うと、私がこれまで世界で一番強いと思っていた元コマンドを軽々と投げ飛ばしていた。先生が出足払いをかけたら、大男の足が先生の肩より上に飛んでいった。

 小泉先生の技に畏れを抱いた。力で投げる柔道ではなく、すさまじく切れのよい投げ技である。投げられた元コマンドも、投げられた理由も分からず、不思議そうに周囲を見る始末だった。まるでマジック。

 小泉先生は、投げ飛ばしても相手がきれいに着地するように、手をしなやかに動かす。その物腰は、これまで見たことのない美しいものだった。そうすると相手は手を打ってうまく受け身の姿勢を取ることができ、すぐに立ち上がれる。

 そのようにしてわれらが講師は、十分ぐらいの間に何度も投げ飛ばされた。それでもひるまず、元コマンドの彼はファイトをむき出しにして力を尽くしたが、小柄な日本人に投げ飛ばされたのである。

 小泉先生は、さまざまな投げ技を見せたあと、技のかけ方や体の動かし方を説明した。一段落したところで、小泉先生は講師にこう言った。 「ためしに私を投げてください」

 元コマンドは、持っているすべての技を駆使して小泉先生を投げる。先生は投げられて床に倒されるごとに、手で床を叩いて完璧な受け身をする。笑いながら起き上がり、講師を称えた。

 私も小泉先生に投げられたが、やさしく袖をつかまえて頭を打たないようにしてくれた。小泉先生の身の動き、立ち居振る舞い、言葉遣いなど、その体から発散する本格的なものに私は心を奪われてしまっていた。

 そして、すぐに決心する。 「日本に行って黒帯を取る」 次の瞬間、疑問が湧いた。 「どうして、このような立派な人がいる国が戦争を起こしたのだろう。小泉先生が生まれた日本とは、いったいどのような国なのか?」

 日本への興味がとめどなく湧き、北極と同じように日本の知識を吸収し始めた。図書館には日本関連の本は少なかったが、新渡戸稲造の『武士道』と小泉八雲の本があった。

 とにかく日本に関係あるものなら何でも調べて頭に入れたのだ。黒沢明監督の映画『七人の侍』を見たのも、そのころだったと思う。後年、調べてみたところ、小泉先生は柔道の創始者、加納治五郎師範の直弟子の一人だった。

 講道館は一九一七年、日英同盟を結んでいたころに小泉先生をロンドンに派遣している。私が小泉先生に習ったのは十四歳のときで一九五四年だから、小泉先生はおそらく四十年近く英国で柔道を教えていたことになる。

 英語が流暢であったのも当たり前であり、その紳士ぶりは、日本人の武士道と英国の騎士道が融合したものではないか、と推察する。 』


 『 四谷の古い道場で空手の練習に励んだ二年半の間に、私は空手の目的がただ強くなるだけではないこと、空手というものが優しさへの道なのだということを学んだ。武道家たちは本当の優しさを手に入れるために日夜、修行に励んでいる。

 思い返せば、四谷の空手道場には、創始者の船越義珍(ぎちん)先生の言葉が書いてあった。 「空手道の究極の目的は勝敗にあらずして。修行者の人格の完成なり」

 松濤(しょうとう)館はこのように人格形成に重点を置いた流派である。それは悟りの境地を目指すことと同じ意味だ。実際、普段から悟りの境地についての教えがあった。私が空手の型の実習をしているとき、先生からこのように言われた。

 「ニコル君、君の敵はどこにいるのかね。君は型をやりながら、自分のことしか考えていない。自分の動作の方向を見たまえ! 一生懸命に稽古をすれば、動かぬ水のように静かな心境に達することができる。空手は ”動く禅” なのだ。そして君が目指さなければならないのは、禅の境地なのだ」

 その後、敵を見ることに努力し続けたところ、私にはそれが分かりかけた。ひたすらに完成を求めて努力することによって、心は解放され、素晴らしい静けさに到達し、体もその静かな心持ちの中で動くようになる。

 型を練習することは、禅の静寂の境地を知る最良の道である。そのような体験をもとに、私は日本での空手修行をベースにした本『MOVING  ZEN』を執筆した。

 これは世界中で発刊されてベストセラーになった。その中には私が稽古着を着て、型を稽古している写真が掲載されている。機会があれば、若かりしころの凛々しい姿をぜひ見てもらいたいものだ。

 真面目に修行を積んだおかげで、私は五段まで昇段することができ、現在はありがたいことに名誉七段をいただいている。私は旅行に出かけるときには稽古着を必ず持って行った。

 その土地、その土地で道場を探して、空手を通じてコミュニケーションをとることができるからである。おかげで世界中に友達ができた。

 例えば、ザイール(現コンゴ)に行ったときには、ゴマという町でニイラコンゴという火山を撮影するために小高い丘に登った。そこは少し町から離れたところだったが、三十人くらいの若者が空手の型を練習していた。

 稽古着はなく普段着だ。その型は間違いなく松濤館の平安二段という型。私は撮影が済むと、若者たちのところへ行って平安初段などの型を見せた。彼らはすぐにこう言った。

 「教えてください」 「どこで習ったのですか?」 「先生は誰ですか?」 なかなか稽古熱心な生徒たちだ。まるで私がウェールズにいたころ、柔道家の小泉先生を招聘したような熱気があった。

 ガイドは心配してこう言った。「危ないよ。治安が悪いから行かないでください」 「この三十人の若者に空手を教えるのが危ないのかい?そんなことはないだろう。ここで一時間ぐらい教えていくよ」 と言って、私は一時間ほど基本と意味を教えたりした。

 それから、皆と一緒に町まで歩いて帰ってバーに入って酒を酌み交わした。それは楽しい旅のひとときだった。世界中、どこへ行っても空手道場があって、そのように飛び入りで教えることで友人を創ることができる。なかなか楽しい空手の効用である。 』


 『 私が最初に日本にきたときには、明治生まれの日本人にとてもお世話になった。明治生まれの方は、気骨と教養を併せ持つ一種のサムライだった。英国風に言えば紳士である。

 その中でも私がいまでも忘れられない人は、仲省吾(なかしょうご)氏だ。私が埼玉県の秋津に住んでいたころで、まだ私は二十四歳だった。私が、散歩の途中にオナガという鳥をカメラで撮影していたときである。

 そこに着物姿のおじいさんがやって来て、しばらく私のほうを見ていたので、私は何となく英語で「すいません、英語を話せますか」と話しかけてみた。 ”Excuse  me, Do  you speak  English?” ”Yes, Sir.  What  are  you  photographing?”

 おじいさんは、すぐに 「はい。どんな写真を撮っているのですか」 と返事をしてくれた。それは完璧なビクトリア時代の英語であった。目を閉じれば、そこに英国紳士が立っていると間違えそうな話しぶりである。

 でも、目の前にいるのは小柄な着物姿の日本人だった。路傍での出会いをきっかけにしてわれわれは友人となり、私は仲氏が住む老人ホームの中の一棟をしばしば訪ねるようになった。

 仲氏は英国に長く暮らしたことがあり、英国を第二の故郷とするほどに愛していた。その教養は幅広く話題はつきることがない。見識の深さには舌を巻くほかなかった。

 私は仲氏と一時期、ともに時間を過ごして、このような感想を抱いた。 「なるほど、このような人が日本という国をささえてきたのだな」 仲氏との出会いによって、日本という国への信頼をさらに深めた。

 それは日本に来るきっかけになった柔道家の小泉先生と共通する魅力である。 「サムライ」 「武士道」 という言葉に代表される深い精神性と幅広い教養を身に付けた人が発する魅力だ。

 そのような人びとは、礼儀作法を心得ており、薫り高い立ち居振る舞いをする。仲氏は自身のプライベートについて話さなかったし、私は自分が話すことに夢中だったので、仲氏からのプライベートなことを聞き出そうとしなかった。

 だから、私は仲氏のプライベートをほとんど知らないまま、たくさんの話をしたことになる。何回も仲氏の部屋に伺い、ミルクティーをいただき、楽しい時間を過ごした。それは私にとっては魅惑のひとときだった。

 だが、しばらくすると仲氏の健康状態が悪化したため、仲氏はうわごとを言うようになる。悲しいことに私を見て「デイビット」と呼び、こう言うのだ。 「デイビットよ、バーナードはどうしてここに来てくれないのかい?」

 バーナードとは、英国の有名な陶芸家であるバーナード・リーチのこと。世界的な巨匠であり、英国随一の親日家といってもよい人物である。二十四歳の私も、高名なバーナード・リーチのことは知っていた。

 仲氏が住む一棟の家の近くには、リーチ氏が作った日時計があった。私はそのとき知らなかったが、それはリーチ氏から仲氏に贈られたものである。

 私にはリーチ氏に連絡する術もなく残念に思っていたところ、偶然にも新聞で「バーナード・リーチ氏来日」の記事を発見。手当たり次第に氏の連絡先を探しまくった。一時間後、私はリーチ氏と電話で話した。

 「こちらに仲省吾氏という人がいて、あなたに会いたがっています。仲氏はいま、病気で体調がよくありません。できれば会いに来てくれませんか」 「参りましょう。明日伺います。秋津駅からの道案内をお願いできますか」 「もちろんです。お待ちしております」

 短い来日期間中、リーチ氏は多忙なはずだが、友人の名前を聞いてすぐにほかの予定をキャンセルすることを決意したのだった。翌日、私は秋津駅でリーチ氏を出迎えた。そのとき氏は七十八歳。

 老人ホームまでリーチ氏を案内しながら話をする中で、仲氏がロンドンで画廊を開いていたことが分かった。氏を部屋に案内すると、仲氏は元気を取り戻し、リーチ氏と会えた喜びを体中で表した。

 私が廊下のベンチに座っていると、部屋の中から二人に嬉しそうな会話が聞こえてきた。後日、私が仲氏を訪ねると、もう私を「デイビット」と間違うことはなかった。

 東京オリンピックや秋の鳥のことなどを話し続けたが、そのときが仲氏と会う最後になるとは思わなかった。しばらくして私は、仕事でカナダに向かうことになり、仲氏と二度と会うことがなかった。 』


 『 カナダのトム・ライムヘン教授(以下、トム)が研究した「サーモン・フォレスト」のことを知っているだろうか。クマと森の関係を調べた彼の研究成果には驚くべきものがある。ここで紹介しておこう。

 トムが気になったのは、クマがサケを捕えて森の中へ運んでいく様子だ。産卵期になると、生きたサケが波のように群れながら川をさかのぼってくるが、クマはそれらのサケをその場で食べずに、森に運んで食べているようなのだ。

 不思議に思ってトムは、クマが運ぶサケの数を調査する。その結果、一年で一頭のクマが森の中に運ぶサケは七百匹。全長二,三キロの小さな川に四十頭くらいのクマが集まることもあるので、単純計算すると、その流域の森にばらまかれるサケは二万八千匹。

 それらの一部はクマが食べるが、残った骨などは一年でネズミやシカなどに食べられ、残りは森の中でウジなどの昆虫によって一週間ほどで分解される。分解されたものは草木の栄養となり、森が成長するわけだ。

 サケの死骸の栄養で森が成長していることから、学者たちはそのような森のことを「サーモン・フォレスト」と名付けた。それを聞いて私は、イヌイットなどの猟師たちとの経験から想像してみた。

 クマも猟師や釣り人と同じように、サケを獲る縄張りを持っている。そこにほかのクマが来るとケンカになるが、クマはサケを手に持ち、口にくわえているのでケンカもできない。

 ケンカをする暇がないほど食べるのに忙しいので、落ち着いて食べるためにサケを持って森の中に運ぶ。そのとき、クマは栄養がある頭の後ろとイクラを真っ先に食べる。

 それからまた縄張りの川に戻ってサケを捕まえる。このようなことを繰り返し、大量のサケを森の中へ運ぶのだ。今度は森の上から、クマとサケの動きを想像してみよう。

 一本の川には小さな支流がたくさんあり、その支流にはもっと小さな支流がある。そこをサケが遡上していき、クマがサケを捕って森の中で食べる。それは、サケという栄養が海から扇状に水源地である山の中に広がっていくことでもある。

 サケという海からの栄養が、山に戻っているのだ。トムは、サケの栄養が森にどのような影響を与えたかも調べている。いろいろな調べ方をしたが、一番面白いのは、大木にボーリングして年輪を取ったこと。

 カナダにはサケに関するさまざまな統計データが保存せれている。例えば、サケが川を遡上した数、サケを捕った数、サケ漁が禁止された年などさまざまだ。

 そこで、トムが調べたのは、海水には含まれているが陸にはほとんどない安定同位体の窒素15。それが木の年輪に含まれているかどうかを調べたら、たくさんあることが分かった。

 統計データと照らし合わせると整合性があり、サケの栄養がクマによって森に運ばれ、大木の栄養になっていることが明確になった。

 サケがのぼらない地域とサーモン・フォレストを比較すると、同じ木であっても成長に二倍半の差があることが分かった。つまり、サケの死骸の栄養によって森が大きく育ったのだ。

 私たちは曼荼羅のような大きな命のサイクルの中にいる。山の栄養は、雨や雪に浸食されたりして引力によって海に流れていく。そして海からの栄養を、サケ、アユ、ウナギ、海鳥などの生物たちは今度は逆に森に運んでいる。

 そのことに私は感動した。トムは、イヌイットやアイヌという先住民族が持っていた知恵を、科学で解明したことになる。森や川で暮らしていた人はとっくに知っていたことに、近代科学がやっと追いついたのである。 』 (第129回)


ブックハンター「美しい人をつくる「所作」の基本」

2017-03-08 09:19:26 | 独学

 129. 美しい人をつくる「所作」の基本   (枡野俊明著 2012年6月)

 著者は、禅僧であり、日本庭園デザイナーであり、日本と米国の大学で教えてもいます。

 私がこの本を紹介しますのは、禅について知識を深めるためではなく、禅の考え方を私たちの日常の生活の中に応用するためです。

 禅は、インド仏教を源流とし、中国で発生し日本に伝来し、日本文化の様々な分野に影響を与えました。

 武士道、俳句、茶道、日本庭園、日本画、日本刀、……などです。良寛の書や和歌や人生が私たちに感動を与えるのは、良寛が禅僧であることとは、無関係ではないと思います。

 では、美しい人をつくる「所作」の基本を読んでいきましょう。

 

 『 「立ち居振る舞い」というと、立ったり座たりするときの動作、体の動かし方のことだと思っている人が多いかもしれません。

 たしかに、「あの人の立ち居振る舞いは美しい」という言葉を聞いて連想するのは、軽やかな体の使い方や優雅な身のこなしだと思います。しかし、立ち居振る舞いとは、単に体の動きというだけだはなく、もっと別のものもあらわしているのです。

 ふだんのカジュアルな洋服を着ているときと、とっておきのドレスを着てハイヒールを履き(男性なら一張羅のスーツにネクタイを締め)、パーティなどあらたまった場に出席するとき……そんな対照的なシチュエーションをちょっと思い浮かべてみてください。

 さぁ、二つの場面での立ち居振る舞い、違ったものにならないでしょうか。カジュアルな装いのときは、立ち居振る舞いのどことなくラフなものになりますし、フォーマルに身を固めたときは、気持ちも引き締まり、丁寧な立ち居振る舞いになるはずです。

 このように、着ているものによって立ち居振る舞いが変わるのは、そのときどきで心の有り様、心の状態が変化するからです。つまり、立ち居振る舞いは心を映し出すもの、といっていいのです。

 立ち居振る舞いについて、本書では主に「所作」(しょさ)という言葉を使っていきます。まず最初に、その「所作」と「心」が深くかかわっていることを知ってください。

 所作の美しい人を見て、「素敵だなぁ」 「かっこいいなぁ」と感じるのは、そのとき同時に、その人の心の美しさに触れているからです。やさしい所作は心のやさしさのあらわれですし、穏やかな所作には心の穏やかさがあらわれているのです。

 また、とりたてて目立つわけでも、特別に美形というわけでもないのに、「素敵だなぁ」と心惹かれる人がいますね。なぜ目を奪われるのか、考えてみてください。おそらく、そういう人は、「所作」が美しいのではないでしょうか。

 じつは、所作が美しい人ほど、その所作は「さりげない」ものです。わざとらしくなく、美しい所作をするから 「なぜだかわからないけれど、心惹かれる」のです。

 私はこれまで、何人もの高僧に会ってきましたが、徳の高い方ほど、美しさがあります。「所作なんて、形じゃないか!」という考えを持っているとしたら、いますぐそれを捨ててください。

 所作を整えることは心を整えること、所作を磨くことは心を磨くことです。そして、ぜひとも知っていただきたいのは、「心」に比べると、「所作」は整えたり、磨いたりすることが、比較的やさしいということ。ここはもっとも重要なところです。 』


 『 仏教では、すべての事柄には、”原因”があり、そこに ”縁”という条件が整って、はじめて ”結果”が生まれる、と考えます。たとえば、ここにキュウリの種があったとします。その種を納屋にしまったままだったら、いつまで待っていても芽が出ることはありません。

 土地を耕し、肥料を畑全体に行き渡らせて種を植えつける。その後も毎日水をやり、雑草を取り除いて、成長するように手をかけていく。そうした条件があってはじめてキュウリが育ち、実りを収穫できる、という結果が得られるのです。

 キュウリの種は ”原因”です。そして、発芽や成長のために欠かせない条件のかかわり合いが ”縁”です。その”原因”と”縁”がしっかり整ってこそ、”因縁”が結ばれ、素晴らしい ”結果”が出る。

 あらゆる事柄はそうしてこの世の中に存在している、とするのが仏教の考え方といっていいでしょう。人間も同じ。人生は縁によって成り立っています。

 縁しだいで幸せな人生に向かって歩むこともできるし、逆に不幸を背負い込むことにもなる。どういう縁を結ぶかで人生は変わっていきます。「これは私の運命だからしかたがない」 「背負った宿命は変えようがない」 

 そう考える人がいるかもしれませんが、そんなことはないのです。人生はいつでも、よい縁を結ぶことで幸せな方向に変えられる。私たちの人生は、決して人間の力の及ばないものに支配されているわけではないのです。

 ですから仏教では、縁を結ぶこと、すなわち「縁起」を何より大事にします。それによって人生は左右される、と考えるからです。では、よい縁を結ぶにはどうすればいいのでしょうか。ここはきわめて大切なところです。

 仏教は「三業」を整えよ、と教えます。三業とは 「身業」 「口業」 「意業」 の三つ。つまり、身(体)と口(言葉)、意(心)を整えて生活することで、よい縁を結ぶ条件がそろう、というわけですね。

 一番目の「身を整える」とは、所作を正しくする、ということ。姿勢や一つひとつの動作を正すということばかりでなく、正しい法(教え)にしたがって、できるだけ他人のために自分の体を惜しみなく使う。それが身業を整える、ということです。

 人間はともすると自分中心の行動をとりがちですが、そうではなくて、まず相手の立場に立ってものを考え、行動するようにつとめることが大切です。

 次の 「口を整える」 とは、愛情のある親切な言葉を使うことです。同じことを伝えるのでも、相手の年齢や立場、また、人柄や力量によって、伝え方は異なって当然。いえ、その人にふさわしい伝え方をすべきです。

 「この人にはどんな言葉で伝えたらいいのだろうか?」 それをつねに考えていくのが口業を整えることになります。最後の 「意を整える」とは、偏見や先入観を排し、ひとつのことに囚われることなく、どんなときも柔軟な心を保つことです。

 禅ではこれを「柔軟心」と呼びますが、喩えるなら、空に浮かぶ雲のように形も流れ方もまったく自由自在な心、といってもいいかもしれません。

 このように、身、口、意の三業を整えることが、よい”縁”を呼び寄せ、結んでいくことに直結するのです。先のキュウリの例でいえば、畑の耕作や肥料を撒くこと、水ややりや日頃の丹精が、人間にとっては三業を整えることにあたります。

 いつも三業を整えるという意識を持って生活する。その積み重ねが、私たちの人生を実り多い、さらに人々から祝福されるものに変えてくれる、といっていいでしょう。

 所作は、よりよき人生を築いていくための、そして、美しく生きるための三本柱のひとつです。そのことを肝に銘じてください。 』


 『 所作の美しさの ”原点” はどこにあると思いますか? 美しく見えるためのテクニックを磨くことでしょうか。それとも、一挙手一投足を「美しく、美しく……」と意識しておこなうことでしょうか。

 そうではありません。テクニックは所詮技術ですから、付け焼刃はすぐに剝げますし、意識がまさった動きはどこかぎこちなくなってしまうもの。じつは、美しさは ”簡素” のなかにあるのです。

 禅と深いかかわりを持っているのが枯山水の庭です。私はそのデザインをしていますが、その際、念頭に置いているのは「いかに余計なものをそぎ落としていくか」ということです。

 石と白砂だけで構成される枯山水は、素材そのものがすでに簡素といっていいわけですが、当初にイメージしたとおりに石を配し、白砂を敷けば、それだけで表現したい世界が広がるということはありません。

 そこからそぎ落とし、さらにそぎ落としていく。その作業に全身全霊を注ぎ込まなければ枯山水は完成しません。これ以上もうそぎ落すものはない。その段階までいってはじめて、庭に命が吹き込まれます。

 枯山水が見るものの心を打つのは、そぎ落とすことによって空間が研ぎ澄まされ、一見、閑(しず)かに見える佇(たたず)まいのなかに、無限の広がりと奥行き、そして緊張感が生まれるからです。まさに「簡素の美」といっていいと思います。

 簡素さは美しさの原点であり、そして終着点でもある。簡素になればなるほど美しい。私はそんな実感を持っています。所作にも、枯山水と同じことがいえるのではないでしょうか。

 美しく見せようという作為のある所作は、どれほど巧みにその企みを隠したとしても、必ず、どこかにそれが透けて見えてしまいます。ところが、作為から離れ、動きの無駄を省いていくと、一つひとつの動きが丁寧に、丁寧になっていくのです。 

 丁寧な動きには心がこもります。丁寧に一つひとつをおこなうと、体と心が一体になった美しい所作ができるようになる、といっていいですね。

 実際、禅の老僧のなかには、ただ立っているその立ち姿から、凛とした美しさが伝わってくる方がいます。お茶を飲む、食事をする……といった日常的ななにげない振る舞いが、流れるように美しいです。枯山水に共通する「簡素の美」がそこにあります。 』


 『 禅には「調身(ちょうしん)、調息(ちょうそく)、調心(ちょうしん)」という言葉があります。禅の修行の根本である座禅の三要素とされるもので、順に、姿勢を整える、呼吸を整える、心を整える、ということです。

 この三つがそろうと心やすらかな境地にいたることができるのですが、それほど「姿勢」と「呼吸」と「心」は深くかかわり合っています。つまり、姿勢(=所作によって成り立つ)が整ってくる、呼吸が整うと心が整ってくる。

 これらはそんな関係にあります。文字どおり、三位一体としておたがいに結びついているのです。逆にいえば、所作が整わなければ呼吸も整わないし、呼吸が整わなければ心も整うことはない、ということになります。

 この座禅の三要素は、そのまま美しい人になる必要条件だ、と私は思っています。あなたの身のまわりにいる美しい人を思い浮かべてください。

 そして、所作を、呼吸を、心を、ズームアップしてみましょう。何か気づくことはありませんか? 「そういえば、いつも背筋がピシッとのびているし、お辞儀ひとつとってもすごく感じがいい。物腰がやわらかいってああいうことなんだ」

 そういう人は、おそらく、デスクに片肘をついて顎をのせていたり、椅子から脚を投げ出したりしていることもないはずです。所作が整っているのです。

 「クアライアントを前にしたプレゼンテーションでも、アガっている様子なんかぜんぜんなくて、落ち着いて主張すべきことを堂々と主張していたなぁ」 なぜその人は、困難な状況でそんな姿を維持できているのか? 

 それは、どんな状況にあっても、呼吸がきちんと整っているからです。あるいは、「会話のなかで声を荒げることもないし、トラブルに際してもつねに冷静に対処している」人もいますね。その人の心がいたずらに揺れ動くことなく、穏やかに整ってる証拠です。

 美しい人をちょっと気にして、注意深く観察すると、所作、呼吸、心が、まさしく三位一体だということが、明確になるのではないかと思います。所作は美しいけれど、呼吸が乱れているし、イライラしていて怒りっぽい、ということはないのです。

 座禅が、調身、調息、調心が相まって完成するように、美しさも、所作と呼吸と心が一体となって整うことでつくられます。それがわかると、やるべきことがおのずから見えてきませんか? 』


 『 禅には、「威儀即仏法(いぎそくぶつほう)、作法是宗旨(さほうこれしゆし)」という言葉があります。

 威儀、すなわち、所作を正しく整えることが、そのまま仏の法(教え)にかなうことであり、作法に則(のつと)って生活することが、教えそのものなのだ、という禅語の意味です。

 これは、”外面と内面” ”形と心” の関係をよくあらわしています。「形と心ではどっちが大切?」と問いかけたら、みなさんの多くは、「そりゃあやっぱり心の方が大事なんじゃない」と答えるでしょう。

 誰にでも姿形が美しくありたいという思いがありますが、それよりももっと価値があるのは心の美しさだという感覚があるからですね。

 実際、”見た目はいいけど、心はちょっと”と評価されるより、”見た目はともかく、心は素晴らしい” と評価されるほうが、はるかに自分が認められてる、という気持ちになりませんか?

 しかし、禅語はそうではないと教えてます。威儀と作法は「形」、仏法と宗旨は「心」です。それが同じだということは、形を整えれば自然に心も整う、所作を美しくすれば、心も美しくなる、ということです。

 禅はもちろん心の修業ですが、あらゆる場面で所作を大切にするのは、この教えが貫かれているからです。所作をおろそかにしたのでは心の修業などできるはずもない、というのが禅の考え方なのです。

 もうひとつ、禅では行住坐臥(ぎょうじゅうざが)のすべてを修行としています。行は歩くこと、住はとどまること、坐は座ること、臥は寝ること。仏教ではこれを四威儀といいますが、日常の立ち居振る舞い、何をしているときでもその所作の一切合切が修行だと考えるのです。

 だからこそ、一つひとつの所作を気持ちを込めて丁寧にやることが求めれれます。もちろん、禅僧の修行生活と皆さんの日常生活は違います。しかし、所作が大切なものだという視点で、それぞれの生活を見直してみることは、おおいに意味のあることだ、と思います。

 ——毎日の食事の仕方に注意を向けたことがありますか? テーブルマナーは心得ていて、レストランでの食事はそつなくできても、日常的な食事は、惰性的に何も考えずにしている、という人がほとんどではないでしょうか。

 ——朝起きてから仕事に向かうまでの時間をどんなふうに過ごしていますか? コーヒーやお茶を一杯飲むか飲まないかで家をとびだしている、という人も少なくないでしょう。

 ——夜寝る前も、テレビやDVDを観ながらいつのまにかうとうとしている、といったことはありませんか? いずれも ”所作の大切さ” が忘れられています。

 言葉を換えれば、せっかくの心を美しくする機会をみすみす放棄している、という言い方ができるかもしれません。もったいないと思いませんか?

 所作の大切さを思い、禅が教える正しい所作を知ってください。そして、ひとつずつ、ゆっくりとでいいですから実践しましょう。あなたは美しく変わっていきます。 』


 『 さあ、いよいよ実践です。手はじめに、あなたがふだんどんな姿勢でいるか、チェックしてみましょう。服装や髪型のチェックではなく、「姿勢」という視点で自分の全身を映して見ることは、案外、少ないはず。

 「えっ、こんなだったの!」 ——考えていた以上に ”問題あり” ではありませんか? 姿勢は見た目の印象を大きく左右します。同じ年齢でも、姿勢がいいか悪いかで、大きく差がつくものなのです。

 小さな子どもは大人を見て、「おねいさん」と呼んだり、「おばさん」と呼んだりしますが、どちらの呼び方を選ぶかの判定基準は、顔でも、表情でも、声でもなく、姿勢だといわれています。

 
背筋をピシッと伸ばして歩きましょう。これは今すぐにでもできますね。颯爽と歩いている人は誰の目にもさわやかに美しく見えるものですが、背筋が伸びていなければそんな歩き方はできません。

 姿勢にもっとも注意を払っているのはモデルや芸能人といった人たちかもしれません。例外なく背筋が伸びた綺麗な姿勢をしています。美しく見せるためには姿勢がいかに重要かを、よく心得ているからでしょう。

 背筋を伸ばし、姿勢をよくすることは、見た目の美しさにつながるだけではありません。健康、さらに美容の面でもいい影響を与えるのです。

 曲がっていた背筋を伸ばすと、胸がグッと広がるようになります。胸が圧迫されていると、浅い胸呼吸しかできませんが、広がることで深い腹式呼吸ができるようになるのです。

 なぜ腹式呼吸がいいのかというと、深い呼吸ができるようになれば、空気をたっぷり吸い込むことができ、体の血行がよくなるのです。

 血液にのって酸素と栄養素が体の隅々にまで運ばれ、細胞が活性化されて健康にもなりますし、体自体が若返ります。血行のよい肌は色も美しく、つややはりも増すのはいうまでもありませんね。 』


 『 姿勢を正しく整えるために、意識してほしい体の部分があります。「頭」 と 「尾てい骨」 の位置です。頭のてっぺんから尾てい骨まで一直線になるようなイメージを持ってください。

 頭と尾てい骨が正しくその位置におさまると、背筋が伸びて自然と顎が引け、背骨がS字カーブを描くようになります。これが正しい姿勢。首が頭をきちんと支え、上半身の重みが両脚にバランスよくかかっていて、もっとも体に負担のかからない形です。

 見た目も清々しく、りりしい感じがしますね。また、胸も開きますから、呼吸もしやすくなります。姿勢が整うと、呼吸も整うのです。呼吸の大切さは前項でもいったとおりです。

 一方、姿勢が崩れると、重い頭を首が支えきれなくなり、前に倒れて頭が落ちた状態になります。肩は後ろに下がって前かがみになる。これでは胸が圧迫され、内臓にも負担がかかってしまいます。

 呼吸がしづらくなり、内臓機能にも支障をきたしかねません。現代は、デスクワークで長時間パソコンを使う仕事が増えたためか、姿勢が崩れている人が多く見うけられます。

 それが肩や首のこりにつながったり、ストレスやイライラの原因になったりしています。だからこそ、正しい姿勢を知り、いつでも整えられるようにしておくことが大切なのです。

 前項でも触れましたが、姿勢は健康の源泉です。私の寺で開いている座禅会に、もう二十年くらい通っている女性がいます。座禅を始めた当初はひどい猫背に悩んでました。

 そのため、病気がちでもあったようです。彼女は、猫背を矯正するための器具を使うほどだったのですが、座禅をするようになってから猫背がどんどん改善し、姿勢が見違えるほど変わりました。

 もちろん、矯正器具も使う必要がなくなり、病気もしなくなったといいます。今はもう、七十歳を超える年齢になっていますが、「まわりの人から、”姿勢がよくなったね” といわれるのがうれしくて……」とおしゃっています。

 猫背が直って若々しく見られるという意味あいもあるのでしょう。姿勢が整うと、気持ちにも覇気が生れ、何にでも積極的、前向きに取り組めるようになります。

 首や肩など体にかかる負担も軽くなって、イライラやストレスからも解放されます。それは顔の表情にも表れてきます。「あぁ、肩がこちゃって、また、今夜も湿布しなくちゃ……」

 ということでは、表情がくもりがちになります。それがなくなれば、笑顔も自然と出るようになり、表情も明るくなるのではありませんか?

 もちろん、周囲も「あぁ、この人やるきあるな」と受けとめますから、ビジネスの面でもプラス効果は大きい。何より人生を溌剌として生きるには、美しい姿勢が欠かせない要素です。 』


 『 朝起きたら、キッチンの流しに汚れた食器や調理器具が山済み、テーブルには寝る間際まで読んでいた雑誌が何冊もページが開かれたまま重なり、CDのケースがあちらこちらに散らかり放題……。

 「あ~ぁ、これじゃあ朝食もとれやしない!」。思い当たるフシがある人が少なくないのではありませんか? 汚れたもの、使ったものを片づけるのは、けっこう面倒な作業です。ですから、ついつい後まわしになる。

 たしかに、食べてしまったあとの片づけや、楽しく見たり聞いたりしたあとの雑誌やCDの片づけは、やらなきゃいけない ”楽しみの後始末” ですから、テンションが下がるのも当然かもしれません。

 しかし、後始末を別の観点から捉えてみてください。たとえば、翌日の朝食、前日の汚れ物の後始末ができていたら、すぐに支度に取りかかることができ、とても気分がいい。

 なぜか? 朝食をつくるための準備がきちんと整っているからです。一方、前日にタマネギを刻んだ包丁がそのままだったら、それでパンを切る気にもならないし、炒めものをしたフライパンに焦げつきが残っていたら、そこでベーコンエッグをつくるのもためらわれます。

 おや? とあなたならもう気づいたでしょう。「片づけ」が楽しみの後始末ではなく、次の行動のための準備であることに……。

 汚れたものを洗うのも、使ったものを片づけるのも、すんでしまったことの後始末なんかではなく、次の行動に気持ちよく、スムーズに取り組むための ”準備を整える” ことなのです。

 食事の支度がおいしくいただくための「準備」なら、食器や調理器具を綺麗に洗うことは、翌日、スッキリした気分で食事をつくるための「準備」です。

 どちらが楽しくて、どちらがつまらない、面倒、ということはない。ただ、準備の中身が少し違うというだけです。さ、いい朝を迎えましょう! 』 (第128回)